iTunesで音楽を選べない気持ち

上記はiTunes Music Storeのトップ画面(日本)である。
クーリエジャポンの音楽特集の号を買ったら巻末にiTunesの曲が一曲ダウンロードできるカードがついていた。
せっかくなのでこのカードを使ってさて一曲ダウンロードしようとiTunesにアクセスしたがここで問題発生である。
どうやっても「一曲」が選べないのである。
画面の何をキーに音楽を選べばいいのか。
ジャンルも選べるし、ランキングもきっかけになる、バナー群もたくさんある。
と頭ではわかっている。
それでも一曲を選ぶことが重い。
しかたがないのでバナーを適当に選んで試聴するがちょっと違う。
この曲ではない。
そう思っても次の曲にスイッチしようとするがスムーズに嗜好がリンクしていかない。
「もっと○○」とか「もっと○○より」みたいな指標で嗜好空間を漂うようなナビゲーションがあって欲しいものだ。
(今晩のアップルの発表ではこうした問題に対する回答があるのかもしれない)
2007年頃にやっていたアミューズの新規事業で僕らのチーム(津田君、僕、長さん、石川さん)はそんな音楽GPSをつくろうとしていた。
「自由に一曲だけ買ってイイよ」と言われて、あの頃につくろうとしていたサービスはやっぱり必要なんだな、と思った。
もう一度、あのコンセプトで数億人の人智を使った回答を考えてみようかな、と思う今朝であった。
※上記のプロジェクトはこんなカタチでまだ継続中である。最近は様子をみにいっていなけれどどこを目指しているのかな?(求む!株主通信)
http://drillspin.com/
脳に効く奇跡の焼き鳥・福岡の異色焼き鳥の店「かわ屋」のとり皮が絶品すぎる!

これ、何かおわかりだろうか?
ぼんぼち系の串に見えるが実はこれ「皮」なのである。
自家製のタレにつけては焼きを6日間繰り返し店頭に並ぶ。
我々の目当てももちろん上記の「皮」である。

着いたらすぐにビールと「皮10本」を注文。
しばらく待つと熱々の皮串がカウンターにならぶ。
ひとくち囓れば圧縮された旨味の宇宙が口内に広がる。
そして、じんわりと広がる脳内麻薬とともに至福の時間がはじまるのである。
福岡にきたら是非試して欲しい逸品である。
「リュード・折り畳み式キーボードRBK-2000BTⅡ」がなかなか良い

上記はリュード社の折りたたみ式キーボードRBK-2000BTⅡ。
iPhoneやiPadにも対応しているので異動先での入力に重宝している。
Macbook Airがリプレースされたらいま使っているMacbookと入れ替えようと思っているのだがそれまではiPadと上記のキーボードで対応していきたい。
しかし、このキーボードにも欠点がある。
それはコントロールキーの位置である。
Emacs(Unixでは標準のエディタ)のキーバインドに慣れてしまっているため、コントロールキーが「a」の隣にないと著しく作業効率が落ちてしまう。なのでドライバもしくはメモソフトの側でキースワップに対応してくれたら文句なしである。
ちなみに自分の場合はこのキーボードを使った場合、普通に画面をタッチしての入力に比べ3倍くらいのスピードで入力できる感じだ。
というわけでiPadやiPhoneでの入力に不満を抱えているユーザーにはかなりお勧めできるガジェットではないだろうか。
コンテンツ力の周辺
「スゴい」といった感覚や感情の揺れは「感動」とか「スゴい」という言葉で表すことが難しい種類の情報である。
感情や感覚の大きなうねりは直接的な言葉によって表すことはできない。
本当に「スゴイ」ことは「スゴイ」という言葉とは無縁の次元で進行している。
刮目すべきは言葉にできることではなく言葉の向こう側にある感覚であり事象だ。
カメラと移動とカタチのないコンテンツ

さっきあるTweetをみていたら「カメラを買うと外出が楽しくなる」といったことが書かれていた。
最近「移動」について考えることがあったのでこの視点で少し考察してみたい。
移動あるいは旅的な移動は基本的に非可逆なコンテンツである。
だから流れていってしまった場所も時間も巻き戻すことはできない。
写真はこの刹那ななにかをほんの少しだけ固定する。
撮ることでわずかではあるが刹那な時間に生じた脳内の結合パターンを再起させる要素や気配を記録する。
このプロセスはパッケージ化されていないのでわかりづらいのだけれどうまくカタチにしてあげれば人の本質的な部分に届く強力なコンテンツだと僕は思う。
そしていまオンラインサービスはこの種のカタチのないプロセスを必至に取り込もうとしているように思う。
人が求めているのは「移動」ではなく「移動」によってつくりだされる「刹那」を感じ取るプロセスであり、ここをドライブさせるサービスは今後成長していくのであろう。
余裕の日本
先日、Twitterで「日本は信号の国だなー、っていつも思う。街中だけじゃなくて組織やらどこでも一緒。なので安全確認したうえで信号無視すると非常に快適」と書いたらいろいろな反響があった。
上記は読んでもらえばわかると思うが「比喩」である。
「路上の信号を無視しよう」という呼びかけではない。
日本で物事を進めようとすると様々な場面でブレーキがかかる。
これが自分には路上に存在する無数の「信号」とダブって見えたのである。
こうした「信号」は日常の様々な場面で出現する。
自分にとって些細な事象やルールが他者にとっては重要な「信号」であったりする場合がある。
※この場合の「信号」とは「信号機」の事である。
そうした「信号」に出くわすたびに「それは真に重要な問題なのだろうか」と疑問を抱く。
無駄な信号なら存在そのものを疑問視すべきである。
様々な思想を持つ人々がある程度のルールの枠の中でうまくやっていくためには「信号」を守ることはある程度重要であろう。
けれどそれに縛られることでダイナミズムが削がれたり、最重要課題の解決へのリソース配分が損なわれることは個人だけでなく世界にとって大きな損失であり、個々人の「ダイナミズム」を高めることがこの世界を最適化する唯一の方法だと自分は考えている。
(この場合のダイナミズムとはアグレッシブさを意味するわけではない。自分があるべき自分であることを自覚しながら集中している状態を指す)
例えば「ノっている」とか「機嫌が悪い」とか「いまいち」とか「やる気がない」とかいろいろな状態があると思うが自分がいまどんな状態にあるのか、を把握することができれば対応策を実行することはそれほど難しくはない。
けれど、実際にはそううまくはいかず他者への依存や環境の同調圧力などによって「自分」をねじ曲げてしまう。
それはいまの自分を守るには有効な施策だが「ダイナミズム」は失われていく。
こうしたジレンマの中で自分がすり減っていくとそのエネルギーは増幅、結晶化され些細な亀裂から破壊や暴力や殺意へと転換される。
これが社会レベルで閾値を超えると混乱が生じる。(一方でダイナミズムは高まるが)
破壊とダイナミズムは表裏一体の関係にあり、何かが生まれる時、何かが消えていく。
20年近く前のことだが古代の生物が環境の変化に適応できず、自己の優位性(例えば牙や身体)を拡張することで競争優位を保とうとし、それが故に死滅していったという話を現代のメディア企業に例えてマイケル・クライトンが講演で話していた。
時の推移によってとるべき施策は変化する。
破壊によるルールのリセットは時に小気味よくもあるがそれは本当に有効なのだろうか?
もっと違う方法があるのではないだろうか。
例えば異端なる試みをもって思考の枠そのものを「歪める」。
言い換えるならば「欺く」こともまた有効なのではないかと。
生活をよりよくするために策定されたルールが人を不幸せにしはじめたら、ルールそのものも見直されるべきだ。
しかし、それが容易ではないケースの方が多い。(ルールに準じるべきと考える側にとってルールの改変は不利に働くから)
もしルールが時流とあっていないのであれば、ルールに固執し、正面からアタックして摩擦、疲弊するよりも「欺き」によって双方を「歪め」、理解不能状態に陥れた上でラップする「詭弁」の方が1000倍有益だと自分は考える。
時代によって思想がころころ変わる人間という種のやっていることなのだから、万事、適当を許容するくらいでちょうどいい。
毎日、敵意と殺意じゃ政治もよくならないし、組織も社会も疲弊して疲れてしまう。
ルールは死守するためにつくられたわけではなく、その時々で社会を円滑に運営するためにつくられた決め事だ。
というわけで時々、植木等の映画でも観て「ま、いっか」という気持ちになることをオススメする。
周りのプランナーはあんまりマインドマップを使わないように見える
マインドマップはプランニングのツールとして注目されている。
僕も最初にマインドマップという手法を見つけたときはなんて「面白いメソッドだ」と色めき立った。
Mac/Winのアプリもリリースされ、それらのアプリを使ってマップを描くのが面白いので一時期はメモがわりに多用していた。
ところがある時期を境にパタリと利用するのをやめてしまった。
理由は幾つかあると思うのだが一番大きいのはオンラインのツールやサービスに比べ(マインドマップでもウェブサービスとして提供されているものはあるけれど)「ダイナミズム」や「リアルタイム性」の取り込みがうまくできていないように感じたのがその最たる理由である。
うまく言えないのだがTwitterを使ったブレストは雑ではあるけれどマインドマップよりは遙かに「楽しい」と自分は感じた。
Twitterでのブレストはマインドマップとは全然違う体系だし、全然整理されていないので思考のメソッドとしてはマインドマップみたいなものの方がしっかりしている。また、深いところまでいけるかもしれない。しかし、前述した「ダイナミズム」「リアルタイム性」(ここは外部とのチャンネルといった方がいいかも)では驚くほどの違いがある。
なので現状のマインドマップ的なものにダイナミズムをドライブさせる機能や外部とのチャンネルが加わったらいいのにと思う。
その際に何を切り捨て、個人の思考と外部の情報ストリームをどうバランスしていくのはかなり難しい作業になりそうではあるけれど。
本来はそうあるべきだ。
で、Twitterが発展していくとマインドマップみたいなツールと融合した亜流アプリ・サービスがでてきて、それが教育なんかにも影響を与え、企業での企画作業もだいぶ違った様相をていするようになるんではないかと思っている。
「Steins;Gate/シュタインズ・ゲート」 画面での読書がつくりだす物語以上の物語体験
※先ほどようやく「Steins;Gate/シュタインズ・ゲート」を終えた。そのままにするには惜しかったのでメモとして書き始めた。
東大のGDC報告会で昨年のベストゲームタイトル「アンチャーテッド2」のデモ映像を探していると4Gamersで読者投票1位になっていた見知らぬタイトルのゲームが目にとまった。
それが「Steins;Gate/シュタインズ・ゲート」である。
解説を読み進めていくとどうやらサウンドノベルらしい。
XBOX360の読者投票1位がサウンドノベルとは意外な気がした。
普通ならスルーしてしまうのだが何かがひっかかった。
その足で「Steins;Gate/シュタインズ・ゲート」を探しにいったのだがなかなか見つからず、二件目でようやく見つけることができた。
初めてみるとXBOX360にしては地味な印象である。
こんなゲームが読者投票1位なのか?
そう思いながらも2時間ほど進めていく(といってもサウンドノベルなので読み進めるといった方が正確だろう)と意外にもハードなSFの世界が展開され、いつのまにか引き込まれていった。
気づけば目が痛くなるまで画面を読み進めていた。
これはゲーム体験と呼ぶべきなのか?
それとも読書体験と呼ぶべきなのか?
不思議な感覚であった。
古くは弟切草などサウンドノベルには幾つかの代表的なタイトルがある。
そのどれとも似ているようでノリが違う。
「428」などに比べると操作の複雑性は要求されない。
かといって「ひぐらしのなくころに」のような完全な一方通行とも異なり、自然な操作の中に分岐がしこまれている。
そして、毎日、少しづつ読み進め、ようやく昨夜、トゥルーエンディングまで到達した。
印象的だったのは最終章を終えた場面だ。
なるほど。
こんな感じで終わりなのか。
思ったよりも緩いエンディングに肩すかしをくった気分であった。
ところが。。。
最後の最後。。。
不覚にも「やられ」てしまった。
ゲームの性質上詳しく記述することはできないのだが完全に気がゆるんでしまっていた。
そして、見事に「やられ」てしまった。
「バットマン・ダークナイト」の時と同じである。
油断があったとはいえ侮っていた。
「Steins;Gate/シュタインズ・ゲート」恐るべしである。
ゼルダをクリアしたら裏世界があった、のと似たような感覚がよみがえった。
情報のモードがある時点を境に映画的なもの「ここからはじまりここで終わる」ことがわかっているのにどうすることもできない、に変わる。
時間の儚さを引き延ばしながら凝縮しているような感覚。
良質の物語にはつきもののいつもの感覚。
こうした複数の感覚が時間軸をバイパスして同時に蘇り、読書や映画のようなシーケンシャルな体験とも異なる独自の体験をつくりだしていた。
時計をみれば時間は真夜中。
そのまま眠ることもできたのだが自分が感じた感覚を記録しておきたいという気持ちの方を優先して久しぶりにエントリーを書きいた。
同時に、こうして考察する時間の面白さを思い出した。
オンライン・オフラインを問わず電子書籍についての意見が日々かわされ「電子書籍とは?」が議論されているが「Steins;Gate/シュタインズ・ゲート」のような「読書体験」は電子書籍論からはすっぽり抜け落ちているように見える。(※これは何故か?という議論は別なエントリーで考察していきたい)
しかし「Steins;Gate/シュタインズ・ゲート」こそあろうべき「画面での文字体験」の一つの到達点だと自分は考える。
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クリア後の寂しさが…
…………っ
楽しめました
ゲームシステムとしては微妙
間違いなく面白いよ!!
映画『"ANVIL"アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』 そして最後、東京に涙した
前から観たいと思っていた映画「ANVIL アンヴィル!夢を諦めきれない男たち」をようやく観ることができた。
忘れる前に書き留めておきたいのだが最後の最後で不覚にも涙してしまった。
ANVIL(アンヴィル)は1980年代に活躍したバンドだ。
1982年のアルバム「メタル・オン・メタル」はメタリカなどにも大きな影響を与えた、とのことである。
アンヴィルはその後、ブレイクすることなく消えていったかに見えた。
しかし、彼らはバンド活動を続け30年経ったいまでも音楽活動を続けている。
映画は現在の彼らに焦点をあて、13枚目のアルバム制作の過程を描く。
内容については実際に観てもらった方がよいと思うので詳しい記述は控えたい。
僕が涙したのはこの映画の最後の最後のワンシーンである。
その直前、彼らは二十数年ぶりに東京の地を訪れた。
そこには世代を超えた観衆の姿があった。
そして「やさしさ」を形にしたような空気があるようにみえた。
そのシーンも印象的だったのだが僕がグラっときたのは最後の最後に彼らが渋谷の街を歩く場面だ。
見慣れているはずの渋谷の街は夕暮れと夜の狭間で別な世界に見えた。
そして、リップス(ボーカル)の目は子供のようであった。
感情を疑いもしないそのまなざしに心を動かされた。
あんな目で街を眺めることができたなら、その瞬間、その人は間違いなく幸せだろう。
できることなら日々、あのようなまなざしで生きたい。
素直にそう思った。
東京の街とそこを歩く外国人ミュージシャンの姿にしばし心を奪われ、久しぶりにブログのエントリーを書く日曜の夕暮れであった。
情報とノイズ
ブログの更新ができずにいたのは時間がないというのもあるが主に日々の多様な案件を処理するのに活力がスポイルされてしまっているのが原因である。一つの方向に脳のパワーを集中できればいいのだが5つも6つも方向性の異なる思考を要求されるため、発信に向けるパワーが確保できずにいた。
習慣とは恐ろしいもので毎日Keynoteで30ページくらいの素材をつくっているとそれが平常に思えてくるのだがこれが全く別な種類の作業(というよりも活動)を平行して複数走らせていると久々に企画書に手をつけようとしても3時間くらい頭が切り替わらなかったりする。
同じようにブログも毎日、書き続けていればいいのだが一定の時間が空いてしまうと書き方そのものを忘れてしまう。
自分の場合、ブログを書く時は何かしら「心」が動いた時に限られていた。
書き始めるきっかけは憤りであったり、楽しさであったり、喜びであったり、悲しみであったり、感動であったりいろいろあるのだけれどとにかく考察をはじめる最初の一撃は「心の振れ」だったように思う。
話は飛ぶが、ここ1年くらい15年ぶりにフルで働いている。
フルで働くといってもほとんどは会議以外の拘束もなく自由に動いているのだけれど、それでも自分のリソースの8割くらいはいまのプロジェクトに投入している。自分の場合、仕事と私生活の区別がないので、この場合の8割とは仕事の時間の8割ではなく生活の8割である。
といっても社会人になってからの15年そうしてきたので全く問題はないのだが、これまでとは明らかに違うことがひとつある。
日々、チームの面々と顔を合わせるとこれが「結構楽しい」のである。これまでも2年程度のプロジェクトはいくつかあったが今回はより密に参加しているせいか毎日が「部活」「学校」みたいなノリである。
おそらく良好な職場に就職した人々はこのような心境で社会人としての日々を過ごしていたのであろう。
15年を経て、学校に帰ってきたみたいでこれはこれでかなり面白い。
さて表題の話に戻ろう。
「情報とノイズ」
何がノイズで何が情報なのか。
これは結構難しい問題である。
あるコンテクストではノイズでしかない情報も別なコンテクストでは有益な情報に変わる。
同じ情報に接していてもそれを「情報」として活かせる人もいれば、ノイズとして素通りさせてしまう人もいる。
「情報」は同じでもそれを受け取る側のコンテクストによって価値は大きく変わってしまう。
数千人が集う塔を眺めていると情報の粒が価値とノイズに分離されながらエンタングルな関係を描く不思議を目の当たりにすることが多い。
ある人にとって有益な情報が別な誰かの前を雑音として通り過ぎていく。
やはり、久々に書くと話がまとまらない。
伝えたい何かがあって書いているのではなく、考えるために書くとたいていこうなる。
いろいろなところで「わかりやすさ」の重要性を指摘される。
しかし、その価値観は絶対ではない。
わかりやすい結果を求めているからわかりやすさが重宝されるに過ぎない。
あいまいなものやわかりづらいものは多くの場合、言語化しづらい。
「リンゴの味」
をリンゴを食べたことがない人に説明することほど難儀なものはない。
人にものを伝えるとは相手の側に存在している感覚を特定の情報(あるいはその組み合わせ)によって引き起こしてやることだと思う。
けれど、相手にそもそもの感覚が記憶としてレコードされていないとしたらどうだろう?
これはかなりやっかいである。
だから、新しい感覚は「わかりづらい」ことが多い。
内側に概念や感覚が存在しないので体験するまでわかりようがないのである。
ウニの味もビールの味もその味が記憶として回路に定着するまでは「ノイズ」でしかない。
ところが一度、記憶に定着し、感覚と記憶がうまくリンクすれば以降は情報をインプットすることで「おいしい」「うまい」を想起できるようになる。これが幾度も繰り返されると回路が強化され、快楽へとつながっていく。
以前、やまけんが「糖、脂については脳に回路をつくらなくても人間は「うまい」と感じることができるようになっているんだよね」といっていた。
感情や感覚にも「甘さ」や「あぶら」に近く、最初から快楽のスイッチと近接したものがある。
これらは回路をつくらなくても感じ取ることができる種類の感覚なのだろう。
こうした感覚はストレートな「欲望」や「感情」で背反した複雑性を持たない。
それがゆえにわかりやすく万人に伝えやすい。
一方で深みと複雑性は損なわれる。
制作費ばかりが高くて深みのない映画のようなものである。
ボタンを押すだけの釣りゲームもこの一種に見えてならない。
(と、ここまで書いたら疲れた。。。続きは明日)
祭りの準備 〜女優の競演にクラクラした〜
今夜はこれまたずっと視聴せずに放ってあった「祭りの準備」を観た。
2/3あたりまでみてビールが飲みたくなり、サンダルをひっかけて外に出た。
風が強く体が冷えそうであった。
戻ってきて続きを観ながらプレミアムモルツの黒を飲んだ。
映画「祭りの準備」の舞台は高知である。
僕は一度もいったことがない土地だ。
しかし高知を舞台にしたドラマや映画は幾度か観たことがある。
アニメ作品の「海がきこえる」も高知が舞台だった。
先日、タドコロ君にもらったお土産も高知の鰹であった。
映画を観ていてそのレトロ感に懐かしさを感じつつも、女優の存在感に圧倒された。
個人的な意見だが「祭りの準備」は女優の競演が素晴らしい。
それぞれの女優が雰囲気を持っている。
自分のシーンになるとその場面に出ている女優が主人公に変わる。
そんな空気を彼女たちはつくりだしていた。
もう一つ、既視感を感じたことがあった。
主人公の母親役の馬渕晴子である。
彼女は「母なる証明」の主人公役のキム・ヘジャに似ていた。
二者に共通するものは何なのだろう。
キーボードを打ちながら考えた。
息子と共生関係を維持しようとする母親という構造といったらいいだろうか。
心理学ならうまい言葉で説明するのだろうけれど、劇中の役柄が似ているのかもしれない。
序盤。
映画はストーリーが錯綜する。
脚本家を目指す主人公の脳内イメージが映像化され劇中の現実側のタイムラインに前触れもなく挿入される。
この演出も面白かった。
しかし、各場面で見せる女優陣の表情、特に目がつくりだす空気は更に印象的であった。
昨日から貯まりっぱなしの映画を一日1本づつ観ていこうと思って見始めたのだが、二日目にして濃厚過ぎて倒れそうである。
ちなみに明日の予定は「ジュリアン [DVD]
(ハーモニー・コリン)である。
「愛のむきだし」 〜映画という体験について考えた〜
長いこと放っておいた「愛のむきだし」をようやく観た。
飽きさせることのない237分は脳に強烈な印象を与えた。
視聴し終えて久しぶりにブログを書いている。
下記は視聴直後に書いたTweetである。
「「愛のむきだし」ようやく視聴。いやー、面白い。映画なんだけれど劇的というかストーリーテリングの体系がシフトチェンジしまくる感じが脳的で素晴らしかった。このギアが変わる感覚ってスゴイ好きだ。いやー、いい時間だった。これ、名作だ。」
アマゾンの感想をみると映画の内容について触れられているものが多かった。
自分の場合は上記のTweetでも触れたように「脳的」な感覚にまいってしまい、何かしらアウトプットせずにはいられずこうしてキーボードを叩いている。
映画なのだけれど脳的には映画ではない感じといったらいいのだろうか。
強引に自分の感覚を言葉にするならば
「視覚と聴覚を画面上の時間にゆだね、237分を脳的に別な世界で過ごした感覚」
とでもなろうか。
237分という時間、現実世界とは異なる時間軸と秩序体系に感覚をさらすことで脳内秩序と劇中世界が滲んでいき、映像と音声を通じてそこに描かれている情景とは別な意味を脳内で形成していくプロセスに自分はストーリーテリングとは別の心地よさを感じた。
この種の感覚を体感するには視聴する際に別な秩序体系への一時的な拘束、脳が劇中世界の秩序に慣れていくための視聴時間が必要とされる。
これに耐えることができれば、劇中世界と現実の自分との関係が滲んでいく。
(視聴時間の全てが必ずしも面白いわけではない。例えば「ストーカー」なんかもこの感覚に近くて、あの現実とはちょっと違う時間の感覚に長時間、身をおいていると徐々に感覚がディストーションされてきて映像が別な意味をもって迫ってくる。「愛のむきだし」に関していえば映像とテンポとテーマのバランスが絶妙で脳が慣れていく際の負荷が低くエンターテイメント性が高い。それでも通常の娯楽作品と比較すればかなり負荷は高いけれど)
そして、こうあって欲しいという自分の意志と、そこからズレていく劇中世界の秩序がせめぎ合い緊張が生まれ、それが脳に響いてくる。
観ている映像と感じる意味・概念がズレていく感覚である。
自分はこういった感覚を与えてくれる作品が好きだ。
しかし、それはめったに体感できない。
体力が必要というのもあるのだけれど、どうにか劇中世界との関係を構築できたときは「戦った」といった満足感が得られる。
「愛のむきだし」は久しぶりに「脳が戦った」そんな印象を受けた237分(作品)であった。
iPhoneデコ電化計画&レポート
iPod Styleの企画でiPhoneのケースをデコ電仕様にする研究会がITmedia社で開かれた。
これまで「デコ電」にはほとんど興味をもっていなかったのだが所属している
のテーマとして岸くんが熱く語っていたのと2010年1月から発行予定のiPhoneマガジン(三栄書房)の創刊を手伝っている関係もあり、おっかなびっくりデコ電研究イベントに参加した。
その模様は下記のiPod Styleの記事でも紹介されている。
男性で参加しているのは主催者を除けばオレだけ。
会場についた瞬間からかなりアウェイな感じではあったのだがiPhoneマガジンの編集部の女性陣がいたのでホっとした。
本当は龍のデコにしたかったのだが先生に相談すると
「うーん、これだと6時間コースですね…」
とあっさり断念。思ったよりも時間がかかるらしい。そこで先生に
「じゃあ、先生、いちばん簡単なのを教えてください」
とお願いすると
「はい!実は、今日はオススメのがあるんですよ!」
そういって紹介されたのが下記の「スカル」。

なんだ、これなら簡単そうじゃないか。スグ、終わるな。
ホっとして作業開始。
ところが…。
作業をはじめてみるとこれがなかなかに難しい。
デコに使うパーツは同じものを使っているように見えるが実は大きさが何種類もあって、大小のパーツをうまく組み合わせて「キラキラ」をつくっていくのである。
で、この組み合わせが難しいのだ。
作業自体は複雑ではない。
台紙を貼って、その上に爪楊枝を使って接着剤を塗り、乾く前に2mm〜4mmくらいのパーツを張っていく。
パーツを台紙の上においていくのに使うのが「マジックスティック」みたいな名前の棒で先端に微細な接着力がある。
台紙を切っていると
「すぐにシーンとなってカニを食べてる感じになりますよ」
とiPod Styleの人に言われたのだが半信半疑であった。
ところが最初はワイワイとみんなで騒いでいたのが台紙にパーツを貼る段になると一変、みんな寡黙である。
そういう自分もかなり寡黙に作業に入る。
男で参加しているのは自分ひとりのためか先生もいろいろと手伝ってくれる。
こちらもかなり本気モードである。
前夜にユビキタスエンターテイメントの清水社長らとガンガンに飲んでしまったので若干テンションがあがっていたのだろう。
デコケースが完成に近づくにつれて妙な達成感に包まれていった。
さて、そんなこんなで完成したのが下記である。
2時間ほどかかって完成させた初デコ電ケース。
やってみるのとできあがったものを見るのとではこんなにも印象が違うのか、と驚いた。
得難い体験をさせてもらった。
実際にやってみるとかなり面白いのだが、この面白さは実際につくってみるまでなかなか伝えることが難しそうだ。
次回は「モバイル表現研究所」でもデコ電制作講座をやろうと思っている。
祝・Ustream(iPhoneでの生中継)復活!
これまでJailBreak(iPhoneの改造)をしなければ利用することができなかったiPhoneによる動画の生中継ができるようになった。
試しにiPhoneから中継してみた映像が下記である。
一年前はモバイル動画にはまっていたので結構、動画レポートを作成していたのだが3GSになって以降は動画中継ができなくなっていた。これでようやく動画レポートが本格化するのではないかと思われる。
ちなみに上記の動画はWifi経由で中継したものである。
■Ustream(iPhoneアプリ版)
http://itunes.apple.com/jp/app/ustream-live-broadcaster/id319362690?mt=8
コンビニの帰り道の楽園

久しぶりにブログを更新してみる。
とりとめもないことなんだけれど忘れないようにメモしておきたい。
コンビニからの帰り道、唐突に思った。
うーん、なんか考えようによっては楽園な気分だな、と。
これといって特筆すべき出来事があったわけではない。
その数十分前、iPhoneでTwitterのタイムラインをみると首相との会食の話やNHKスペシャルの話題が並んでいた。
僕は途中までみて出かけてしまったのだがNHKスペシャルはエチオピアに進出するZTE(中国の携帯機器メーカー)の特集であった。
で、途中までみていたらなんとなくビールでも飲むか、という気分になってコンビニに出かけていった。
それだけのことである。
15年前、深夜にお酒を買うのはなかなか大変なこであった。
当時は勝どきにすんでいた。
運河沿いにあったレイメイスカイレジテル(岡田奈々監禁事件のあったところだ)の2Fのお店が午前1時までお酒を販売している唯一の場所でそこを逃すと門仲のam/pmまでいかなければならなかった。
その頃は友人たちもよく泊まりにきていて、みんなお金も稼ぎはじめていたのでよくタクシーでビールを買いにいった。
外に飲みにいくにしても、銀座のどこにいったらいいのかわからず結局、どこにでもあるような店にいくことも多かった。
最近はだいぶお店も教えて貰ったのでちょっと奮発すれば驚くくらい美味しい夕飯を食べることもできる。
そんなことをボーっと考えながら3分程度の夜道を帰ってきた。
小学校の校庭と超高層のマンションの灯りが見えた。
部屋に帰るとNHKスペシャルの続きが待っていて、この後それを観ながら何かしら考察するんだろう。k
なんかいつのまにかいろんなことが自由になったなあ、と思った。
それが何だってわけじゃないんだけれど、これだけ自由に何でもできるのって、結構ハッピーだな、と思った。
ダイナミズムが薄れている、とか、希望がない、とかいろいろ煽りはある。
それはそれで面白いのでついついのってみたくもなる。
が、あとちょっとだけチューニングすればいいだけで、いまはかなりいいところまできているのではないかと思う。
あとほんの少し、一歩だけ押せば相転移な感じがしてならない。
結局、どこもかしこもダイナミズム万歳な国も人も社会もどっかの段階ではこうなると思うのだ。
いい感じの双六あがりな沈滞といったモードは避けて通れないんじゃないだろうか。
悲観もいいし、ポジティブもいいんだが、それらは単純すぎな気がしていて、別な軸でパチっとやらないといけないんではないかと。
品とか勢いとかとも違う軸。
なんだろう明日も晴れるならば夜明け前はきれいだ、みたいなノリというか。
夏に田舎で空を見上げるとリアルにプラネタリウムを超えてる感じというか。
結構、悪くないゾ、と思える脳。
まとまらないのだが1000年後には現在生きてる人の100%はいなくなっている。
どんな偉い人もスゴい人もこの時間、呼吸しているわけでそれにはかなりの価値がある気がする。
が、まあ、ほとんどの人とはリンクすることもなく、交差することもなくフェードアウトしていく。
でもそれでも価値はあって、そこにいるとかいたとか、それだけでも結構悪くないぞ、と思う。
日々は「俄」みたいなもんでカチカチいって過ぎていく時間で戯れてるわけだがこれが結構、楽しかったりもする。
「とりあえず生き残れ」
と師匠にいわれたのはもう15年前だろうか。
冒頭の写真はブログを更新しようとと思って机の上にビールと安いつまみを並べたものだ。
酔ったわけでもないがなんとなく何かを書き残しておきたかった。

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