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TKM Journal

Archive for the ‘映画’ Category

言の葉の庭

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なんだろう。
夏と雨と消え去る時間と真っ直ぐな気持ちと心が開くことの映画であった。

心がひらく。

その瞬間が45分という時間の中にたたみこまれ、ふくらみと凝縮が混在した点をつくりだしていた。
そこにあるのは時間であり、感覚であり、消えるのだけれど消えないなにかである。

我々は概念としての「それ」のためにあるのではないか、そう思った。

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6月 28th, 2013 at 11:50 am

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映画「白夜行」 〜散見される異なる体系との接触

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原作の小説を読んだのは10年くらい前だろうか。
キリハラというキャラに強い印象を持ったのを覚えている。

「編集王」という漫画がある。
その中盤に学生時代をフィクサーとして過ごす男のエピソードがある。
劇中、東大卒の特異な編集者は男に再会する。
しかし、男は国の中枢に入り込むことなく、落ちぶれていた。

白夜行を読んだ時、自分の脳内には「編集王」のこのエピソードがよぎった。

昨日の映画版はそれとは異なる印象を残した。

オープニングから70年代のATGを思わせる生々しい色合いのシーンから映画は始まる。
(個人的には75年の「祭りの準備」、76年の「青春の殺人者」、80年の「ツィゴイネルワイゼン」が好きだ)

パトカーのシルエットと雨と公衆電話は昭和を体現しているのだろうか。
時空に関する記憶が巻き戻されるような錯覚を覚えた。

以下は視聴直後に書いたメモである。

——————————-
(メモより)
素晴らしい出来であった。

小説もだいぶ前に読んでいたがその印象よりも強く心に迫ってきた。
堀北真希の演技もそうだが映像の重さが良かった。

昭和には土着の闇がある。

「黒く濁る村」でもあったようなドロドロとした「欲」の気配、蠢き、生命のあるいは情報の「ヌメリ」のような象徴が脳内で呼び覚まされる。
時間と映像の後ろに実体よりもリアルな「蠢き」「象徴」「存在」が一瞬だけ現れる。

全ての存在の背後に立ち現れる脳内結合。

図像としての ”○” 。

これは何なのか?

言葉の後ろに現れるもう一つの体系。
これが我々の奥、玄の玄のその奥にある本質なのだと自分は思う。

我々の行く先、それは100年後なのか1000年後なのかわからないがそこにはこの ”○” がある。

自分が求めて止まないのはこの情報なのである。
——————————-

自分は映画を観ながらそこに描かれるストーリーとは異なるものを観ていたように思う。
上記のメモでは”○”と記したがストーリーとは別に存在する我々の言語とは異なる体系にある「情報」とその気配。

自分はこれに魅せられている。
それは様々な場所に散見される。
しかし何なのかは、いまだわからず定位もできずにいる。

ただ、それに触れる時、意識はその一点に集約され他は消えていく。
根源的な何かが「ゆれる」。

全盛期の角川映画、近年の韓国映画の一部、そして世界中の様々な作品。
それらに共通して立ち現れる物質に触れるのに近い情報感覚。

自分が作品を観る、情報に接するのはこれが何かを知りたいがためなのだと思う。

Written by TKM

1月 30th, 2011 at 10:37 am

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映画「黒く濁る村」 凄まじい緊張感と濃厚な時間は今年No.1のインパクト

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■映画「黒く濁る村」。

先日オンラインで予告編を観た際に惹きつけられるものがあり劇場に足を運んだ。

直感は正しかった。

まさかこの土曜にこのような作品と出会うとは思いもしなかった。

舞台は韓国のとある村。
ある宗教家の死から物語は始まる。
父親の死を機に息子は生前に父が暮らした村を訪れる。
しかし村にはある秘密が隠されていた。

序盤から俳優陣の強烈な演技に惹きつけられる。
映像というよりも俳優力によってつくりだされる「暴力」。
意識は一瞬のうちに劇世界と同化し、数分のうちに劇場にいることを忘れていた。

脚本の出来は秀逸で様々な伏線が説明的ではなく違和感なく埋め込まれている。
映像のテンポ、俳優の強烈な演技、尋常ではない緊張感。
これらのバランスが絶妙なのである。

徐々に明らかになる謎。
それでも緊張感の高まりは消えない。
謎と謎がインパクトのある映像でつながっていく。
この時間感覚がたまらない。
濃厚そのものである。
オールドボーイ」の緊張感とは異なる怖さ、全盛期の角川映画「犬神家の一族」や「人間の証明」などと同種の「重く湿った熱」。

だが僕が驚いたのはラストのちょっと前のシーンである。
心の中を風が流れていくようなそんなシーンがある。
あの濃厚な時間の連続の果てに、こんなシーンをつくりだせるものなのか。
脚本の作り込みに本当に感心した。

そしてラスト。
あれをもってくるとは。
いやはや恐るべし。
今年No.1の一本である。
(あの「目」はすごかった。言葉なき言葉を映像でやられると強烈な印象が残る)

チェイサー」も素晴らしかったが「黒く濁る村」も強烈であった。
韓国映画のパワーと完成度には驚愕させられる。
観るべし。

追記:人の本性として「こうあって欲しい」という「像」がありそれが歪むような情報(作品やシーン)は理性と衝動の反撥を誘う。この感覚をつくりだすことができるような作品こそ価値ある作品だと自分は考えている。

Written by TKM

12月 5th, 2010 at 2:26 am

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iTunes Movieレンタルで最初に借りたのは「イブの時間」

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iTunes Movie
とうとう日本のiTunes Music Storeでも映画の配信が開始された。
最初は1000本程度と本数こそ少ないが国内でも数百万人以上が利用するiTunesというプラットフォームで映像配信が本格的にはじまったことは大きな出来事である。

PS3ストアやZuneストア(Xboxのオンラインストア)、アクトビラでも映画のレンタルサービスは既にあったわけだからAppleTVやiTunesが映画のオンラインレンタルをはじめたところで騒ぐ必要などないのではないか、といった論調のエントリーも幾つかみかけた。

しかし、使い慣れたiTunesの環境下で映像配信ビジネスが開始された影響は小さくない。
購入までのプロセスがコンパクトかつスムーズであるため視聴に至るまでのハードルが低く、気軽に購入ボタン(レンタル)が押せてしまう。

惜しむらくはストリーミングではなくダウンロード型なので購入のタイミングから視聴までにタイムラグがある点である。

記念すべき初回は「イブの時間」いうアニメ作品をレンタルすることにした。
ロボットと人間の関係をテーマとしたアニメ、という認識くらいしかなかったが、話題になった作品だったので以前から観てみようと思っていた一本だ。

(以下、アシモフのロボットシリーズを読んでいることを前提としてのメモ)

アシモフの「ロボットシリーズ」を読んで以降、ダニール(ロボットシリーズの主要登場キャラ・ロボット)と主人公のイライジャ・ベイリのコミュニケーション及び関係性にはこの世界(現代の我々)の問題をとくヒントがあるのではと思っている。

本作が描く関係性はロボットシリーズのそれと比較すると優しさと切なさが強く演出されているが問題意識の本質は同じように見えた。

ロボットという存在とのコミュニケーションでは人側に絶対的な優位性がある。
設定上、ロボット三原則によりロボットは悪意を持てない。
だからロボットとのコミュニケーションにおいては底意なく振る舞うことができる、かもしれない。
(対人だとそれが難しい。人の世界のルールの多くはコミュニケーションの問題に起因していると僕は考えている)
それが人と人のコミュニケーションと人とロボット(アンドロイド)とのコミュニケーションの最大の差異だと僕は考える。

「月は無慈悲な夜の女王」を読んだ時も同種のインスピレーションを感じた。
絶対的な信頼をベースとしたコミュニケーションがありうるとすれば上記の二作が描く関係性に基づくものなのではないかと。

この問題については引き続き考察を続けたい。
この時代においては以前にも増して重要なテーマだと思う。

時間も時間なので今宵はこのあたりで眠ろう。

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11月 15th, 2010 at 2:34 am

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祭りの準備 〜女優の競演にクラクラした〜

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今夜はこれまたずっと視聴せずに放ってあった「祭りの準備」を観た。

2/3あたりまでみてビールが飲みたくなり、サンダルをひっかけて外に出た。
風が強く体が冷えそうであった。
戻ってきて続きを観ながらプレミアムモルツの黒を飲んだ。

映画「祭りの準備」の舞台は高知である。
僕は一度もいったことがない土地だ。
しかし高知を舞台にしたドラマや映画は幾度か観たことがある。

アニメ作品の「海がきこえる」も高知が舞台だった。
先日、タドコロ君にもらったお土産も高知の鰹であった。

映画を観ていてそのレトロ感に懐かしさを感じつつも、女優の存在感に圧倒された。
個人的な意見だが「祭りの準備」は女優の競演が素晴らしい。

それぞれの女優が雰囲気を持っている。
自分のシーンになるとその場面に出ている女優が主人公に変わる。
そんな空気を彼女たちはつくりだしていた。

もう一つ、既視感を感じたことがあった。

主人公の母親役の馬渕晴子である。
彼女は「母なる証明」の主人公役のキム・ヘジャに似ていた。

二者に共通するものは何なのだろう。
キーボードを打ちながら考えた。

息子と共生関係を維持しようとする母親という構造といったらいいだろうか。
心理学ならうまい言葉で説明するのだろうけれど、劇中の役柄が似ているのかもしれない。

序盤。
映画はストーリーが錯綜する。

脚本家を目指す主人公の脳内イメージが映像化され劇中の現実側のタイムラインに前触れもなく挿入される。
この演出も面白かった。

しかし、各場面で見せる女優陣の表情、特に目がつくりだす空気は更に印象的であった。
昨日から貯まりっぱなしの映画を一日1本づつ観ていこうと思って見始めたのだが、二日目にして濃厚過ぎて倒れそうである。

ちなみに明日の予定は「ジュリアン [DVD]
(ハーモニー・コリン)である。

祭りの準備 [DVD]
■祭りの準備

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1月 26th, 2010 at 2:21 am

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「愛のむきだし」 〜映画という体験について考えた〜

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長いこと放っておいた「愛のむきだし」をようやく観た。

飽きさせることのない237分は脳に強烈な印象を与えた。
視聴し終えて久しぶりにブログを書いている。

下記は視聴直後に書いたTweetである。

「「愛のむきだし」ようやく視聴。いやー、面白い。映画なんだけれど劇的というかストーリーテリングの体系がシフトチェンジしまくる感じが脳的で素晴らしかった。このギアが変わる感覚ってスゴイ好きだ。いやー、いい時間だった。これ、名作だ。」

アマゾンの感想をみると映画の内容について触れられているものが多かった。
自分の場合は上記のTweetでも触れたように「脳的」な感覚にまいってしまい、何かしらアウトプットせずにはいられずこうしてキーボードを叩いている。

映画なのだけれど脳的には映画ではない感じといったらいいのだろうか。

強引に自分の感覚を言葉にするならば

「視覚と聴覚を画面上の時間にゆだね、237分を脳的に別な世界で過ごした感覚」

とでもなろうか。

237分という時間、現実世界とは異なる時間軸と秩序体系に感覚をさらすことで脳内秩序と劇中世界が滲んでいき、映像と音声を通じてそこに描かれている情景とは別な意味を脳内で形成していくプロセスに自分はストーリーテリングとは別の心地よさを感じた。

この種の感覚を体感するには視聴する際に別な秩序体系への一時的な拘束、脳が劇中世界の秩序に慣れていくための視聴時間が必要とされる。

これに耐えることができれば、劇中世界と現実の自分との関係が滲んでいく。
(視聴時間の全てが必ずしも面白いわけではない。例えば「ストーカー」なんかもこの感覚に近くて、あの現実とはちょっと違う時間の感覚に長時間、身をおいていると徐々に感覚がディストーションされてきて映像が別な意味をもって迫ってくる。「愛のむきだし」に関していえば映像とテンポとテーマのバランスが絶妙で脳が慣れていく際の負荷が低くエンターテイメント性が高い。それでも通常の娯楽作品と比較すればかなり負荷は高いけれど)

そして、こうあって欲しいという自分の意志と、そこからズレていく劇中世界の秩序がせめぎ合い緊張が生まれ、それが脳に響いてくる。
観ている映像と感じる意味・概念がズレていく感覚である。

自分はこういった感覚を与えてくれる作品が好きだ。
しかし、それはめったに体感できない。
体力が必要というのもあるのだけれど、どうにか劇中世界との関係を構築できたときは「戦った」といった満足感が得られる。

「愛のむきだし」は久しぶりに「脳が戦った」そんな印象を受けた237分(作品)であった。

愛のむきだし [DVD]

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1月 25th, 2010 at 4:22 am

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「あの日、欲望の大地で」と扉の話

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あの日、欲望の大地で」を観てきた。

オープニングからいきなり引き込まれ、最後まで脳をフル回転させて観ていた。
時間と人が交錯し、最初のうちはどの時間に何が起こっているのかがわからなかった。

作品の特性上、内容については書けないが映画の最後の最後、全てがその一点に向かって再構成されていく様は見事であった。あの瞬間をつくるためにそれまでの全ての時間があったのだろう。

そして、シャーリーズ・セロンの醸し出す倦怠とやるせなさとエネルギーがバランスした空気に引き込まれた。
久しぶりに観た素晴らしいラストシーンであった。

■あの日、欲望の大地で
http://yokubou-daichi.jp/

そういえば明日はデジタルステージの平野さんらと久しぶりに会う。
楽しみだ。

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9月 27th, 2009 at 11:55 pm

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「スラムドッグ$ミリオネア」のマドゥル・ミッタル(サリーム役)が素晴らしい存在感だった

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ようやく「スラムドッグ$ミリオネア」を視聴。
全体を通してよい出来だと思うがストーリーよりも何よりもサリーム役(主人公の兄役) のマドゥル・ミッタルの存在感にノックアウトされた感じだ。何がってのをうまく言えな いんだけれど、この人には人を惹きつける魅力がある。
それとコメントでも触れているがエンドロールの映像が素晴らしかった。
必見である。

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5月 12th, 2009 at 8:40 pm

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映画「トワイライト」「ザ・バンク」「サーチャー2.0」

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トワイライトの方はものすごい設定である。
万年17歳のバンパイアと普通の少女の恋愛アクション映画である。

あり得ないといってもいい。

雰囲気はTVドラマの映画版といった印象。
設定の違和感と「エッそれはおかしくないか?」という疑問が最後までつきまとうが青春恋愛アクションな設定はわかりやすくそれなりに面白い。HEROSみたいな感じかな。

「ザ・バンク」は酷評されていたので期待しなかったが面白かった。
特にグッゲンハイム美術館での銃撃戦はよく撮影できたものである。

グッゲンハイムに行ったことがある人はあの場面は必見である。
どうやって撮影したのだろう。

しかし連続してみた3本の中では「サーチャーズ 2.0」がダントツに面白い。
観念を外すことに成功している。
これぞ映画である。

エド・パンシューロとデル・ザモラの映画トークの間合いが最高である。

Written by TKM

4月 8th, 2009 at 12:30 am

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ワイルド・バレット(でも原題は"Running Scared")

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ワイルドバレッドをみていたら突然、意味の固まりのような空気に包まれた。

何だこれは?

と考えながらも左脳は必至にストーリーと映像を咀嚼しようと躍起になる。
しかし右脳はいっこうに夢から覚める気配がない。

++++++

能力の優劣は存在する。
優秀な人とそうでない人ではパフォーマンスにおいて大きな差異が生じる。

しかし、ある程度の優秀さのライン(知識の集積と経験DBによって到達可能なレベル)を越えると差異は個体間の違い、ではなく属するパラダイムに依存する。成果云々は意味を成さず、時流との相性が価値の振り出しもとになる。

こういった思考の固まりが「ワイルド・バレット」と並行して脳内にイメージされる。
映像を伴わないのでイメージとは違うのだが言葉であらわすとすればイメージに包まれる感覚である。

ロシア人の少年もアンダーカバーのポール・ウォーカーも疾走していて、それらは観ている自分と遠くでエンタングルしている。時間軸も意味もズレているが確かにそこにエンタングルを感じた。

こういう体験が時々ある。
泣くようなシーンでもないのに突然、感極まった感じになったり、感覚がほどける瞬間が唐突にやってくる。
それらは不可思議な現象などではなく時間を超えたエンタングルなのだと思う。

未来なのか過去なのかは不明だがある瞬間に何らかの情報がキーとして発現し、それが認知を飛び越えて世界の右回りと左回りをつくりだす。

++++++

それにしてもロシア人の少年の笑顔は素敵であった。
あの笑顔に意味を持たせたのは劇中の9割をしめる彼の無表情である。
それが笑顔に意味を持たせ、地と図の関係をつくりだしている

ワイルド・バレット DTS スペシャル・エディション

Written by TKM

4月 2nd, 2009 at 1:54 am

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