叙情と闘争(辻井喬 52回)「妹、パリに死す」


読売新聞の土曜日版に連載されている「叙情と闘争」を楽しみにしていると以前にも書いた。

僕は出勤という習慣がないので曜日の感覚はすでにない。
そのため「叙情と闘争」の面にたどりつくまで今日が連載日の土曜であることを忘れてしまっている。

だから毎回、この面を開くとプレゼントをもらったみたいで嬉しくなる。

「そうか今日は『叙情と闘争』の日だったのか」

今朝もそんな感じで「叙情と闘争」を読み進めた。

今回は堤氏の妹の話であった。

堤邦子氏は南仏でカジノの経営もやっていたそうである。
当時、カジノでの支払いは現金か小切手に限定されていたが手形で受け取ったという理由で邦子氏は79年に逮捕されてしまう。

それが最初の躓きだったと堤氏は振り返る。

パリに長く暮らした邦子氏は日本からパリにやってきた女性を無条件に応援したそうである。
それは男女差別の壁にぶつかった邦子氏の反抗であったのかもしれない、と堤氏は考察する。

僕の友人もパリに暮らしている。
彼女は自由にパリの暮らしを楽しんでいるようだが日本と違ってパリはとにかく寒いとのことだった。

それにしてもこの連載、毎度ながら非常に満足度の高い読書時間を与えてくれる。
こうした連載が3割をしめる新聞ならば週末だけ講読してもよかな、と思う。

最近、ウェブ上の記事を紙媒体として印刷する新聞をつくる海外のスタートアップ企業の話を読んだ。
確かにそういうのもありかと思わないでもない。

新聞はこれだけ完成度の高いコンテンツも持っているわけだから、やり方次第では可能性はたくさんあると思う。ししかし、いっこうに活かされることがないのは何故だろう?

ウェブのコンテンツには「連載小説」のようなものはある。
ところがオンラインで読む小説はウェブとの相性が悪いのかコンテンツが良くとも全く面白くない。

なのに形式だけ縦書きにしたような小説がどこのサイトにもある。
なぜ過去のメディアの「型」を踏襲しようとするのか理解に苦しむところである。

余談だが、新聞の話になると新聞紙面の持つ独特のレイアウトに価値があるという話をする人がいる。
これは全くナンセンスだ。

現代においては記事の価値はそれを読む読者が決めるべきであり、他者の価値観で重要度を固定してしまう媒体の型は既に読者のニーズにあっていないと僕は考える。

特にオンラインにおいてはその傾向が強い。

Diggが万能とは思わないが誰かが上から価値観を固定するような型はニーズからずれていると僕は思う。