映画「白夜行」 〜散見される異なる体系との接触

原作の小説を読んだのは10年くらい前だろうか。
キリハラというキャラに強い印象を持ったのを覚えている。

「編集王」という漫画がある。
その中盤に学生時代をフィクサーとして過ごす男のエピソードがある。
劇中、東大卒の特異な編集者は男に再会する。
しかし、男は国の中枢に入り込むことなく、落ちぶれていた。

白夜行を読んだ時、自分の脳内には「編集王」のこのエピソードがよぎった。

昨日の映画版はそれとは異なる印象を残した。

オープニングから70年代のATGを思わせる生々しい色合いのシーンから映画は始まる。
(個人的には75年の「祭りの準備」、76年の「青春の殺人者」、80年の「ツィゴイネルワイゼン」が好きだ)

パトカーのシルエットと雨と公衆電話は昭和を体現しているのだろうか。
時空に関する記憶が巻き戻されるような錯覚を覚えた。

以下は視聴直後に書いたメモである。

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(メモより)
素晴らしい出来であった。

小説もだいぶ前に読んでいたがその印象よりも強く心に迫ってきた。
堀北真希の演技もそうだが映像の重さが良かった。

昭和には土着の闇がある。

「黒く濁る村」でもあったようなドロドロとした「欲」の気配、蠢き、生命のあるいは情報の「ヌメリ」のような象徴が脳内で呼び覚まされる。
時間と映像の後ろに実体よりもリアルな「蠢き」「象徴」「存在」が一瞬だけ現れる。

全ての存在の背後に立ち現れる脳内結合。

図像としての ”○” 。

これは何なのか?

言葉の後ろに現れるもう一つの体系。
これが我々の奥、玄の玄のその奥にある本質なのだと自分は思う。

我々の行く先、それは100年後なのか1000年後なのかわからないがそこにはこの ”○” がある。

自分が求めて止まないのはこの情報なのである。
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自分は映画を観ながらそこに描かれるストーリーとは異なるものを観ていたように思う。
上記のメモでは”○”と記したがストーリーとは別に存在する我々の言語とは異なる体系にある「情報」とその気配。

自分はこれに魅せられている。
それは様々な場所に散見される。
しかし何なのかは、いまだわからず定位もできずにいる。

ただ、それに触れる時、意識はその一点に集約され他は消えていく。
根源的な何かが「ゆれる」。

全盛期の角川映画、近年の韓国映画の一部、そして世界中の様々な作品。
それらに共通して立ち現れる物質に触れるのに近い情報感覚。

自分が作品を観る、情報に接するのはこれが何かを知りたいがためなのだと思う。