ゲームと情報感覚と脳な無限ループについての考察

昨夜、沖縄の友人のきっぺいくんから借りた「ドラゴンクエスト 天空の守り人」をプレイした。
といっても10分間だけだけれど。
発売直後にプレゼントしてもらった3DSでプレイしたのだが最初は人々に話をきいてまわるお使いゲームのスタイルが久しぶりすぎてイライラしてしまった。
しかし、我慢して10分ほどやってみると面白くなってきてしまった。

ゲームをやっているというよりも文章を読んでいるような脳の働きである。
視覚と指の動きに応じて「テキスト」が紡がれていく。
このプロセスは当初イライラの原因だったのだけれどミラーニューロンなノリとでもいったらいいだろうか、画面内での「移動感覚」は小説や映画のそれとはことなり擬似的に移動しているような感覚をつくりだす。これらが相まって徐々に物語に引き込まれていくのであった。

これは危ないな、と思ったのでプレイを中断し、いがらしみきおの「アイ」(第1集)を読みはじめた。
そこにはドラゴンクエストの面白さとは全く異なるコンテンツ体験があった。

紙の上に展開される絵とテキストによって語られるのは「情報感覚」に近い。
物語のカタチをとっているもののその根底にあるのは「情報感覚」あるいは「概念」である。
作品中に「見えないところは見えない時に存在しているのだろうか」という問いが幾度か登場する。
これは幼少の時に自分もよく感じた疑問であった。

小学生の頃「脳が考えていると考えているのは脳と考えているのもまた脳」という無限ループの思考に陥り、どこにも出口がなく困惑したのを覚えている。あの時、自分は答えを得るところまで思考し続けることができなかった。それは何故なのだろうか?

抽象思考を進めるためのモデルを持っていなかった、というのも理由のひとつであろう。
直感的にパラドックスを脳が避けようとしたのだ、という気もする。

では、いまならば「脳が考えていると考えているのもまた脳」という問題について何らかの答えに到達するまで思考をつきつめることができるのだろうか?

人は自分について考えることが不得手である。
「アイ」には自分を外在化し情報としての自己と接するシーンが幾度か登場する。

その感覚の先にあるのは「コミュニケーション欲求」であり「理解されている」ことへの本能的な渇望ではないかと思う。

物語の言葉を借りるならば「自分以外にも自分の感覚を共有している誰かがいる」という感覚。
自分しか知り得ない自分という存在がいま感じていること。
自分の感覚が他者にも「伝わっている」という実感。

それらは根源的な渇望であり、人はその渇望から逃れることはできない。
というのが自分の考えだ。

言い方や表現が変わっても人の行動の根底にはこの種の感覚があるように思う。

ではその渇望はどこから生じるのか?

「言語」からそれが生じるのではないか、というのが22歳の頃の自分の考えであった。

共感は時間と体験の共有によって生じやすい。
非日常での体験の共有であれば共感は更に強まる。

午前0時過ぎの飲みは「共感」をつくりやすいが生産性は皆無だ。

そこでやりとりされるのはどの種の情報なのだろう?
おそらく言語としての意味(情報価値といった方がいいかもしれない)とは全く価値の異なる種類の情報がそこにはある。

日常においてあの種の共有・共感感覚をつくるにはどうしたらいいのだろうか?

思考の閾値を超えると脳内でスイッチが切り替わる感覚がある。
思考の抽象度が高くなると情報感覚が濃さを増すのである。

情報をアウトプットする際に生じる感覚と負荷の高いインプットがつくりだす情感は似ているが異なる。

思考の先には思考以外のものが存在し、それらは言語の意味とは異なる情報を有する。

それを自分は言葉の後ろにあるテキストと呼んでいる。
これは抽象思考の後ろにある「概念」「情報感覚」と似ている。
しかし直接アクセスすることは困難だ。
よってプロセスとして本質とは異なる言語表現や物語を経由する必要がある。

しかし、これにダイレクトにアクセスする方法があるのではないか。
理解という感覚はプロセスをバイパスして直接アクセス可能になる時に生じているのではないか、と自分は考える。
(そうでなければ言語の後ろのテキストの存在を認識することは困難だ)

理屈やプロセスを省略して「わかる」ことが相互にしかしも同時に起きると「通じる」という感覚が生じる。
このあたりに次の情報サービスの気配を感じる。

まだ、具体的なイメージはまだ見えないが人の世界のサービスはコミュニケーションの変体であるように思う。