言語と人間の思考とキンキン声のつくりだす強要とストレスについて

言語によって規定される人間という存在、あるいは思考。
それにはどんな意味があるのだろう。
ビョークのHyperballadを聴きながら、ストックホルムにいる仁藤くんの写真を見ながら考えた。

丁寧な言葉によるコミュニケーションは感覚をまろやかにする。
逆に刺々しい言葉によるコミュニケーションは人を刺々しくしてしまうように思う。

街で見かけるキンキン声の母親は子供にとってトラウマ以外の何者でもあるまい。
親という存在に依存せざる得ない彼らは恐怖でしかない感情爆発の存在に対しても従順であらねばならない。
拒否は生存の困難さに直結する。

同様のストレスが日本語のコミュニケーションには本質的に存在すると自分は考える。
敬語は有効に機能すれば、純粋に敬いから発せられるならば、双方にとって言語は共振をつくるかもしれない。

しかし、それが意味をはっきりさせないまま社会的な強制に基づいて利用される場合、ネガティブにしか機能していない。
それはキンキン声の親に対して強要された従順さで接さざるえない子供たちと同様の心理的ストレスをつくり出してしまう。

首都の電車にはこうしたストレスが積み重なり、出口や理解やはけ口がないままに渦巻いているように見える。
人は本質的に優しくないわけではなく、誰にどう優しくすればいいのかがわからないでいる。

情報テクノロジーはこれをどう変えていくのだろうか。
ソーシャルメディアは一部を解決し、一部を加速させる。

ライブ会場には同種の興味を持った人々が集まる。
それでも集団の中に自発的なコミュニケーションは発生しない。
宗教の場合はイニシエーションによってコミュニケーションのハードルを下げる機能があるのだろう。
一時的であれ言語による「理解」と「共感」を実感させることに成功しているように見える。

音楽がパッケージビジネスからライブへと回帰しているのはコミュニケーションの側面からみると興味深い。
あの先には何があるのかを自分は考える。

場に集い時間と体験を集団で共有する。
そこには共振めいた感覚も時に存在する。

それでも人々はまだ隔てられた存在である。
ひとりひとりが何を思い、何を考えているかを共有するには至っていない。

どんなサービスがあれば「伝わるべきところに伝わるべき情報が伝わる」という状態がつくれるのだろうか。
「ステータス」の共有が日常的に自動的におこなわれる場合、それは最初にどこで有効化するのだろう。

海外にいくとこの種の議論が自然にはじまるのは言語により思考が変わるからだろうか。
正直なところ誰がどうしたという議論に自分はほとんどというか全く興味がない。
世界と人はどこに向かっているのか、この世界の成り立ちについてずっと話をしていたいといつも思う。