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“necomimi”の一般販売がスタート!

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スクリーンショット 2012-05-03 23.41.13.png

昨年の5月に発表した”necomimi”だが1年を経て消費者向けの製品として発売することができた。
たった4人でスタートしたプロジェクトがたくさんの人の笑顔をつくれるまでになったことは嬉しい限りである。
思うことは多々ある。
しかし、振り返りはもう少し先にとっておきたい。
ここからが第二シーズンのスタートである。

ニコニコ超会議での先行販売に続き、ニコニコショッピングでのオンライン販売が本日からはじまった。
これで誰でも”necomimi”が購入できるようになった。

この1年、”necomimi”について国内外の様々なメディアにインタビューしていただいた。
繰り返しになるが我々がつくりたかったのは「新しいコミュニケーション体験」である。
“necomimi”が具体的にどう役立つのかを説明するのは難しいのだけれど少なくとも、笑顔をつくること、そして、コミュニケーションのきっかけをつくることはできているように思う。

着けた人とそのまわりの人が笑顔になる、そんな体験と場を”necomimi”を通じてこれからも提供できればと考えている。
取り急ぎ、関係者の皆さん、ありがとうございました!!

necomimi@ニコニコショッピング
http://nicoshop.nicovideo.jp/item/G020000000162/

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5月 3rd, 2012 at 11:42 pm

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東京ゲームショー参戦の雑感と国内外メディアの温度差

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IMG_2632

neurowear “necomimi”@東京ゲームショー、怒涛の四日間が終わった。
ショーの前日に肩を骨折し、怪我を押しての参戦だったが得るものは大きかった。

最大の収穫は数百人のユーザーに”necomimi”を試遊してもらったことである。
実は”necomimi”の商品化にあたってある重大な課題をずっと議論していたのだが解決がみえた。

これは非常に大きな前進であった。

同時に「踊る大捜査線」にでてくる有名なセリフ「事件は会議室で起きてるんじゃない」が脳裏をよぎった。
組織体が大きくなれば合議制が必須とされるためある程度の解がみえていても選択できないというジレンマが生じる。
企業が大きくなるにつれリスク回避への同調圧力は大きいのだなあ、とあらためて思った。

我々は少人数のチームなのでかろうじてノリでここまでこれた。
これはかなりの幸運であったように思う。

もうひとつ今回のゲームショー参戦で感じたのは内外の放送メディアの温度差である。
総評になるが国内の放送メディアは「消費的」であるように思った。
そこでは消費用の「ネタ」収集が主目的であり、背景にある変化の兆しや思索による情報価値の創出と伝達は意図的に放棄されているように感じた。
現状のメディア産業の構造において放送メディアがこうした志向にあるのは合理的である。
しかし、あるべき情報のカタチはすでに別の方向に向かっているように思う。
情報メディアの拡散はそのあらわれであろう。

一方、海外メディアによる取材は映像は雑に見えるかもしれないが内容は国内のそれとは全く異なる。
彼らの「視点で伝える」ことが主目的となっており、少なからず彼らなりの「情報の生成」をおこなっているように見えた。
更にレポーターのほとんどが自身の興味によってここに来ていると明言していた。
今後のことを是非教えてくれ、という人がほとんどで「知りたい」という気持ちがこちらにも伝わってくる。

この違いは想像以上に大きい。
ようは誰を向いて情報を発信しているかが全く違うのである。

忘れないようにポイントを下記の二点にまとめておきたい。

・組織における合議制のジレンマをソーシャルハッキングによってイノベーションに向けること。
・対峙するメディアの特性を見極め時点での目的に応じて情報発信をコントロールしていくこと。

これらは自分にとって自戒すべき点だがコトの本質は「非制御による制御」である。
認識として上記の視点を持ちながらも「ノリ」でやっていくほかない。

最後に。
ファミ通Appsさんには本当に素敵な記事を書いてもらって嬉しい限りである。
発信者の視点が見える記事にこそ価値があると自分は考えており、情報は素の情報と情報価値(ここには利便性も含まれる)を付加された情報にわけられていくのだろう。

■今年も開催“I Love iPhone” サプライズ発表連発のなかでひときわ輝いたのは“ネコミミ”!?
http://www.famitsu.com/news/201109/16050466.html

■neurowear
http://www.facebook.com/neurowear
http://www.neurowear.com/

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9月 19th, 2011 at 12:15 pm

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言語と人間の思考とキンキン声のつくりだす強要とストレスについて

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言語によって規定される人間という存在、あるいは思考。
それにはどんな意味があるのだろう。
ビョークのHyperballadを聴きながら、ストックホルムにいる仁藤くんの写真を見ながら考えた。

丁寧な言葉によるコミュニケーションは感覚をまろやかにする。
逆に刺々しい言葉によるコミュニケーションは人を刺々しくしてしまうように思う。

街で見かけるキンキン声の母親は子供にとってトラウマ以外の何者でもあるまい。
親という存在に依存せざる得ない彼らは恐怖でしかない感情爆発の存在に対しても従順であらねばならない。
拒否は生存の困難さに直結する。

同様のストレスが日本語のコミュニケーションには本質的に存在すると自分は考える。
敬語は有効に機能すれば、純粋に敬いから発せられるならば、双方にとって言語は共振をつくるかもしれない。

しかし、それが意味をはっきりさせないまま社会的な強制に基づいて利用される場合、ネガティブにしか機能していない。
それはキンキン声の親に対して強要された従順さで接さざるえない子供たちと同様の心理的ストレスをつくり出してしまう。

首都の電車にはこうしたストレスが積み重なり、出口や理解やはけ口がないままに渦巻いているように見える。
人は本質的に優しくないわけではなく、誰にどう優しくすればいいのかがわからないでいる。

情報テクノロジーはこれをどう変えていくのだろうか。
ソーシャルメディアは一部を解決し、一部を加速させる。

ライブ会場には同種の興味を持った人々が集まる。
それでも集団の中に自発的なコミュニケーションは発生しない。
宗教の場合はイニシエーションによってコミュニケーションのハードルを下げる機能があるのだろう。
一時的であれ言語による「理解」と「共感」を実感させることに成功しているように見える。

音楽がパッケージビジネスからライブへと回帰しているのはコミュニケーションの側面からみると興味深い。
あの先には何があるのかを自分は考える。

場に集い時間と体験を集団で共有する。
そこには共振めいた感覚も時に存在する。

それでも人々はまだ隔てられた存在である。
ひとりひとりが何を思い、何を考えているかを共有するには至っていない。

どんなサービスがあれば「伝わるべきところに伝わるべき情報が伝わる」という状態がつくれるのだろうか。
「ステータス」の共有が日常的に自動的におこなわれる場合、それは最初にどこで有効化するのだろう。

海外にいくとこの種の議論が自然にはじまるのは言語により思考が変わるからだろうか。
正直なところ誰がどうしたという議論に自分はほとんどというか全く興味がない。
世界と人はどこに向かっているのか、この世界の成り立ちについてずっと話をしていたいといつも思う。

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9月 13th, 2011 at 8:32 am

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中秋の名月に思うことと地方と情報と「幼年期の終り」

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月の輝く夜@かちどき橋

帰り道。
月がやけに眩しかった。
調べてみると中秋の名月であった。

宇宙の日もかぶっているそうである。
昨日は岐阜のソフトピアで様々なディスカッションをさせてもらった。
今後、地方はどのようにスマートフォンやデジタルメディアと付き合っていけばいいのかを考えた。

地方には生産ラインはある。
しかし、プロデュース能力が不足している。
解決策はあるのだろうか、としばらく考えた。

ビデオマーケットの高橋さんやGClueの佐々木さんとも話をした。
地方でどうしてベンチャーが困難なのかについて議論した。
海外では地方にも有力なベンチャーがあるのになぜ日本にはないのかを考えた。

そこで二人と意見が一致したのは

・地方にいるベンチャーで「受託」をビジネスにすると都市部との距離がネガティブに働く。
・一方で非受託事業の場合、生活コストと風土の快適さが有利に働き「ユーザー」のためのプロダクトやサービスに集中することができる。
・よって、地方でベンチャーを行う場合「ユーザーのためのサービス・プロダクト」を開発する事業を行うこと、が有効である。

という点である。
これはとても腑に落ちる結論であった。

前からわかっていたはずだが言葉として人と共有できたことは大きな価値であった。

敬愛する清田くんと

話は飛ぶが上記の写真は今年の誕生日に自分が敬愛してやまない永遠の少年「きよたくん」と撮ったツーショットである。
何かしら心が惑う時、清田くんとの対話を思い出す。

様々な場面で人は迷い惑う。
惑わすもの迷わすものに共通して感じるのは「俗」という感覚である。
必ずしも悪ではないがかといって100%受け入れられるものでもない。
だから惑い迷うのであろう。

自分がそこで何故、清田くんとの対話を思い出すかといえば理由は簡単である。

本音で話せるからである。

これは簡単なように見えて難しい。
本音で人と話すとは藤原惺窩のいう「虚空への飛翔」と同意である。

あらゆる人が本音でコミュニケートできる世界はくるのだろうか。
あるいはつくることができるのだろうか。
それともつくるべきではないのか。

この2000年間の情報テクノロジーの進歩がオメガポイントへと向かっている、とするならばそこ(未来)でのコミュニケーションは今日の我々が行っているそれとは大きく異なることになるだろう。

それは「幼年期の終り」でアーサー・C・クラークが描いた情景に近いのだろうか。
それがどのような光景であれ、自分はそれをみてみたい。
それが日々をいき情報と接し続けている最大の理由である。

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9月 13th, 2011 at 12:08 am

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パリで一番美味しかった絶品のお店の紹介

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パリ最後の夜は中華街で

写真はパリの中華街の近くだが中華街からはかなり離れた場所にある中華のお店「Shandong」で頼んだ一品目の料理である。
これがとんでもなく美味しかった。パリで食べたどの料理よりもとにかくこの一品である。

日本の中華も上海の中華も美味しいと思うがこのお店のこの一品にはおよばない。
違いは絶妙なパリアレンジで、これまで食べたどの中華とも微妙に方向性が異なる。
それが故に脳が反応してしまったのである。

食べ慣れた料理なハズなのに脳にとってはとんでもなく新鮮な味。それがこの一皿である。
このお店、他の料理も実に美味しかったので紹介しよう。

こちらの水餃子も地元の中国人の一族が食べていた一品。
これまた味が細やかで美味しい。

こちらはオレが頼んだ回鍋肉。黒豆のソースがいい感じでビールが進む。
注文するときに「ホイコーロー」といったら「あら、あんた日本人でしょ。日本人はみんな”ホイコーロー”って発音するけど読み方ちょっと違うのよ」と店の女の子が笑っていた。

お店の外観はこんな感じ。
素晴らしいお店だったので次回も訪問したい。

山東小館「Shandong」
http://www.deliceshandong.com/

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8月 22nd, 2011 at 11:23 pm

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ゲームと情報感覚と脳な無限ループについての考察

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昨夜、沖縄の友人のきっぺいくんから借りた「ドラゴンクエスト 天空の守り人」をプレイした。
といっても10分間だけだけれど。
発売直後にプレゼントしてもらった3DSでプレイしたのだが最初は人々に話をきいてまわるお使いゲームのスタイルが久しぶりすぎてイライラしてしまった。
しかし、我慢して10分ほどやってみると面白くなってきてしまった。

ゲームをやっているというよりも文章を読んでいるような脳の働きである。
視覚と指の動きに応じて「テキスト」が紡がれていく。
このプロセスは当初イライラの原因だったのだけれどミラーニューロンなノリとでもいったらいいだろうか、画面内での「移動感覚」は小説や映画のそれとはことなり擬似的に移動しているような感覚をつくりだす。これらが相まって徐々に物語に引き込まれていくのであった。

これは危ないな、と思ったのでプレイを中断し、いがらしみきおの「アイ」(第1集)を読みはじめた。
そこにはドラゴンクエストの面白さとは全く異なるコンテンツ体験があった。

紙の上に展開される絵とテキストによって語られるのは「情報感覚」に近い。
物語のカタチをとっているもののその根底にあるのは「情報感覚」あるいは「概念」である。
作品中に「見えないところは見えない時に存在しているのだろうか」という問いが幾度か登場する。
これは幼少の時に自分もよく感じた疑問であった。

小学生の頃「脳が考えていると考えているのは脳と考えているのもまた脳」という無限ループの思考に陥り、どこにも出口がなく困惑したのを覚えている。あの時、自分は答えを得るところまで思考し続けることができなかった。それは何故なのだろうか?

抽象思考を進めるためのモデルを持っていなかった、というのも理由のひとつであろう。
直感的にパラドックスを脳が避けようとしたのだ、という気もする。

では、いまならば「脳が考えていると考えているのもまた脳」という問題について何らかの答えに到達するまで思考をつきつめることができるのだろうか?

人は自分について考えることが不得手である。
「アイ」には自分を外在化し情報としての自己と接するシーンが幾度か登場する。

その感覚の先にあるのは「コミュニケーション欲求」であり「理解されている」ことへの本能的な渇望ではないかと思う。

物語の言葉を借りるならば「自分以外にも自分の感覚を共有している誰かがいる」という感覚。
自分しか知り得ない自分という存在がいま感じていること。
自分の感覚が他者にも「伝わっている」という実感。

それらは根源的な渇望であり、人はその渇望から逃れることはできない。
というのが自分の考えだ。

言い方や表現が変わっても人の行動の根底にはこの種の感覚があるように思う。

ではその渇望はどこから生じるのか?

「言語」からそれが生じるのではないか、というのが22歳の頃の自分の考えであった。

共感は時間と体験の共有によって生じやすい。
非日常での体験の共有であれば共感は更に強まる。

午前0時過ぎの飲みは「共感」をつくりやすいが生産性は皆無だ。

そこでやりとりされるのはどの種の情報なのだろう?
おそらく言語としての意味(情報価値といった方がいいかもしれない)とは全く価値の異なる種類の情報がそこにはある。

日常においてあの種の共有・共感感覚をつくるにはどうしたらいいのだろうか?

思考の閾値を超えると脳内でスイッチが切り替わる感覚がある。
思考の抽象度が高くなると情報感覚が濃さを増すのである。

情報をアウトプットする際に生じる感覚と負荷の高いインプットがつくりだす情感は似ているが異なる。

思考の先には思考以外のものが存在し、それらは言語の意味とは異なる情報を有する。

それを自分は言葉の後ろにあるテキストと呼んでいる。
これは抽象思考の後ろにある「概念」「情報感覚」と似ている。
しかし直接アクセスすることは困難だ。
よってプロセスとして本質とは異なる言語表現や物語を経由する必要がある。

しかし、これにダイレクトにアクセスする方法があるのではないか。
理解という感覚はプロセスをバイパスして直接アクセス可能になる時に生じているのではないか、と自分は考える。
(そうでなければ言語の後ろのテキストの存在を認識することは困難だ)

理屈やプロセスを省略して「わかる」ことが相互にしかしも同時に起きると「通じる」という感覚が生じる。
このあたりに次の情報サービスの気配を感じる。

まだ、具体的なイメージはまだ見えないが人の世界のサービスはコミュニケーションの変体であるように思う。

Written by TKM

8月 19th, 2011 at 1:39 am

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「コクリコ坂から」視聴後の雑感メモ

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(下記のエントリーはiPhoneで書いた)

少女のキャラに惹かれた。
それは目の印象にもよるものだろうか。
トトロに出てくるサツキを思い起こさせた。

劇中、二カ所心が揺れたシーンがあった。ひとつは下宿人がウイスキーを持ってくる夕べ。
もう一つは医者になる下宿人のお別れパーティーの情景。

こんなシーンをどこかでもみたような気がした。

登場する高校生達は皆、健全である。しかし、それがそれほど不自然でもなく。描かれる街には人の営みがあり人々の距離はいまの都市よりもずっと近く、コミュニケーションのハードルは低い。

ただ、過去への郷愁は個人的には好きではない。

カルチェラタンという古い洋館はサークル党として使われており「場」をともなった学生の共同体はとても魅力的だ。
しかし、ああした空間はもはや存在しえない。
情報環境が異なるからである。

それでも物語と舞台は魅力的である。
かなうならばこの健全な世界に間違って入り込んでしまいたい、そう思わせる情感がそこにはあった。

主人公はどこまでもひたむきで真っ直ぐで健全である。こんな人が昔はいたのかもしれない。いや、いまもいるのかもしれない。しかし彼ら彼女らの姿も声もみることがない。

それらは彼らの声がコミュニケーションの谷の向こう側にあるからなのだろうか。
人はその情報を閉じた方が安全であるケースに慣れすぎたのかもしれない。

小利口はダイナミズムを低減させる。
ダイナミズムの低減は流動性に制限をかす。

流動性とダイナミズムの源には本性ベースのオープンなコミュニケーションが必須である。
理解されないことへの不安と恐れは流動性を低めてしまう。
けれど虚空への飛翔なくして理解の橋はかなわない。

映画をみてしばらしくして、そのような終わらない問いについて考えた。

「虚空への飛翔」とは藤原惺窩の言葉である。
このフレーズは印象的でいまでも覚えている。

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7月 16th, 2011 at 3:34 pm

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四十九日と平成風俗

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この二週間、シンガポール→パリ→サンフランシスコと移動が続いていた。

週末は5月に亡くなった父の四十九日の法要で南相馬を訪れた。

震災以降、常磐線は不通である。
福島駅まで新幹線で向かい、そこからは陸路で浜通へと向かう。
原発の問題がなければこれまでと変わらぬ夏の風景だ。

車中、音楽がなかったので書店で数年ぶりにCDを購入した。
棚にならぶアルバムは全て500円で販売されていた。

「平成風俗」というタイトルに目を引かれ手に取った。

カーナビにCDをセットし、津波によって破壊された海沿いを走った。
予想に反して重厚な前奏の後、心に響いてくるような声と目の前の風景がシンクロし映画のように通り過ぎていった。

田舎の法事には独特の空気の重さがある。
それは土地のつくりだす怨霊のようなもので場への拘束に起因する情報の滞留である。

拘束によってつくりだされた安定は心地よい。
しかし、人工的な安定への従属は淀みをもたらす。

サンフランシスコからの帰りの飛行機で「風の谷のナウシカ」を読み返した。

物語の後半。
世界の刻のから分離された街がナウシカをむかえる。
そこはヒドラによって管理された場所で外界からの干渉を排除し安定が保たれていた。
穏やかであり人類がつくろうとした未来を箱庭化した街である。
しかしそこにはダイナミズムがない。

南相馬の田舎の町で法要を主催しながら未来を想った。
数十年後、ここはどうなっていたら面白いだろうか。

「流動性」

自分のなかに浮かんだのはその言葉であった。
あらゆる側面において必要なのは流動性である。

福島駅に向かうバスが路線バスの延長ではなく未来を体現したようなビークルであったなら、人が思い描く未来像は異なるだろう。
乗客の脳裏に去来するイメージをドライブさせていくこと。
それこそがいま必要な情報なのだ、そう思った。

Written by TKM

7月 12th, 2011 at 7:57 am

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「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」 夏の朝と夕暮れと儚さと終わらない夏休み

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ある日、偶然に「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」というアニメを観た。

最初は何が何だかわからなかった。
引きこもりの少年と少女の話。
数分間はそう思った。
しかし、物語は全く違う方向に進んでいく。
しばらくみていると少年の家にいる少女は幼少の頃に亡くなった幼なじみで彼にだけその姿が見える、という設定だとわかった。

舞台は適度に田舎で季節は夏。
この設定が想起させる情感はどうしようもなく懐かしく切ないものであった。

その感覚がどこから来るのかずっと考えていた。
「夏」には特別の感覚がついてまわる。

小学生の頃。
夏休みは特別だった。

夏休みの初日。
この時間が永遠に続く、そう思っていた。

しかし、永遠とも思えたひとつきが残り数日になる頃、夏も終わりを迎える。

この感覚は幾つになっても変わらない。
いつまでもついてまわる夏の儚さと対峙した時に生じる感覚は郷愁とも異なる情感を呼び起こす。

「あの花」にはこの情感がちりばめられていた。
人の心が解けていく瞬間と過ぎゆく夏の時間が調和された物語は時の中に別な時をつくりだしていた。

自分の中にある夏の記憶と感情の気配が呼び起こされるのは心地よさとは異なる感覚でずっとそうしていたい、という思いがしばしよぎった。
消えるのはわかってる。
しかし、消えないでいて欲しい。
儚さとの対峙は背反した感覚を行き来する特殊な情感をつくりだす。

ここ数ヶ月、時々、思い出してはこの夏の物語をみていた。
そして昨夜、夏の物語は最終話を迎えた。

もう少し、この物語世界と一緒にいたい、そう思った。
物語の終わりは古い友人と久々に出会い、話し、わかれるときの後ろ髪ひかれる感覚と似ている。

この物語性は日本固有のものではなく世界に通じるものなのであろう。
世界中でファンサブがつくられリアルタイムに物語が共有されていくのはその証拠である。

来週からフランスのジャパンエクスポにいってくる。
企業訪問と”necomimi”のデモが主たる目的だ。

分断された世界は物語によって再接続されていく。
夏の物語について考えながらそれを思った。

そういえば、もうひとつ自分が好きな夏の物語がある。
「ビューティフルドリーマー」という作品だ。

この作品でもテーマは「終わらない夏休み」である。
久しぶりに観てみたいと思った。

そうそう忘れていた。
「あの花」のエンディングテーマはZONEの「君がくれたもの」が使われている。
懐かしい曲だが要所要所での演出効果は絶大である。特に第10話での挿入のタイミングにはハっとさせられた。

Written by TKM

6月 24th, 2011 at 3:22 am

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2011年の春と五月の雑感

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長いことブログを書いていなかった。
最後にエントリーを書いてから様々な出来事があった。

五月にデモした「脳波で動くネコミミ」は世界中から問い合わせが殺到し、いまだメディア対応ができていない状況である。
ドイツのテレビ局、ディスカバリーチャンネル、ロンドンの某イベント、世界は広いなあと実感しているここ最近だ。

■脳波ネコミミ
http://www.neurowear.net

この事象に関連して日本(ひとくくりにするのが適切だとは思わないが)からの問い合わせは象徴的で、海外からのそれとは異なるものが多い。

国内のメディアからの問い合わせもあるが基本は「消費」が目的なモノが多いように思う。

ここからは雑感なので書きたいことを書く。

日本というくくり方が自分は好きではないけれどどうしても「日本は〜」という言い方をしてしまう。
それは自分の中にある未練が原因なのだろうけれど日本的なものの意味がだんだんとネガティブな印象を帯びてしまう。

その根本にあるのは「このよ→個の世」という感覚だと自分は考えている。
「個の世」とは友人の清田君がいっていた概念だ。

いつしか多くの人々は「個の世」を最優先するようになってしまった。
だから人々は「個の世」を生きているのだ、と清田君がいっていた。

今宵も新橋でそうしたシーンに出くわした。

この場では詳細についての説明はひかえたいけれどリアルに顧客と対面するビジネスにおいて、あのような対応は致命的なダメージを与えるであろう。人が素直になれなくなった、あるいは、素直になることがマイナスな社会がいまの側面であるならば、それはどのような反射作用をもたらすのだろうか。

個人的には「人としてのあり方」へと価値がシフトするのではないかと考えている。

そういえば昨日はいいこともあった。
19歳の青年と長い時間ディスカッションした。

非情に楽しい時間であった。
ああしたディスカッションができることを幸福に思う。

人の世界はコミュニケーションでなりたち、人の世界の問題の90%はコミュニケーションによって生じている、と自分は考えている。

Written by TKM

5月 18th, 2011 at 1:08 am

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