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2003年10月16日

電話と言葉

電話について考える。
電話は声を運ぶ。
声は言葉を運ぶ。

だれかとの電話について本気で話すのはカッコ悪い、という先入観がある。
電話くらいどうでもいいだろう、という客観的な自分と受話器と電線とがつくりだすつながりへの希望に翻弄される自分。

コミュニケーションのチャンネルがフルに稼働したら人の生活は一変するだろうなと思う。
嫌な思いも気持ちよさも妬みも悦びも憎しみも悲しみもコミュニケーションから生じる。

根本には人は「独り」であるという問題がある。
独りであるが故にコミュニケートしたいと願う。
コミュニケートしたいという欲求は理解されたい、したい、分かり合いたい、という本能的な欲求だと思う。こうして言語化してしまうとパワーを感じないが人の根本には理解されたい、つまり、独りから逃れたい、という欲求がある。

映画「Akira」で好きなシーンがある。
とても地味なシーンだ。
老人化した施設の子ども達が言う

「理解しあえる仲間にであえたもの」

うろ覚えだがこのセリフをきくと脳の奥が焦臭くなる。懐かしさと似た変な感覚である。

理解しあえるというのは信頼ということでもあるだろう。
しかし、人を信頼するのは難しい。
何故難しいのか。
信頼はする方がリスクを負う可能性が高い。
失敗すれば裏切られ傷つき、心のボールはベコベコに凹んでいく。
この凹みが怒り、憤り、悲しみ、憎しみになり、パワー(マイナスの場合もある)へと変移していく。怒っている人は楽しんでいる人とよりも迫力も馬力もある。が、たいていそのパワーは人を心地よくはしないし、本人も疲弊していく。

踏み込みと拒絶、距離と断絶、それらは恐怖だ。
電車で隣り合った人にいきなり話しかけることができないのは拒絶の恐怖があるからだ。
踏み込んで、それで絶対に拒絶がない人っているのだろうか。

子供にはそういうところがあると思う。
子供は拒絶しない。
チャンネルが開いている。
何故だ?

何で子供だとそれができて歳を重ねると難しくなるのだろう。
何をするにも真っ直ぐにいけなくなるのは何故なんだろう。

どっかに理由もあるし、歪みがある。
真っ直ぐにいけなくなる理由は防衛本能だろう。
だが何を守ろうとしているのだろうか?

こうしたい、こうありたい、という自分があって、でも、それが破られる。
自分が軽視されバカにされると心のボールはボコボコに凹んでいく。
守りたいのは心のボールだ。

心のボールを傷つけボコボコにするのは現象そのものや言語、関係性、コミュニケーションではない。
記憶である。

理解と信頼は心のボールを再生させる。
理解と信頼につつまれている人は魅力的だ。
子供がパワーをもっているのは親からの揺るぎない理解と信頼があるからではなかろうか。
それはGeneレベルでの仕組みにも見える。

理解と信頼にはいくつかのパターンがある。
理解や信頼のレベルをビュンとドライブさせるには特殊な出来事、体験、記憶が必要なんだと思う。
おそらくそれは忘我と関連している。
開き方が深まればそれだけ理解と信頼も深まる。

では自分を開いていくにはどうしたらいいんだろうか。
感じるままを口にできないのは何故なのだろう?

関係性や関連というよりも言語そのものに仕掛けがあるような気がしてならない。
言葉の本性がちらつく。

+++++++

本が読めるのは先行的理解が働いているからだ。
理解と信頼も似ている。
先行的理解があるから理解し、信頼できる。
全部を理解し、信頼できる、というわけではない。
理解も信頼もコヒーレントなものだと思う。

逆にいえばだから理解がありうるということか。
内部にある自己は同時に他者の中にも先行的に存在する。
対象としての認識が生じた瞬間に立ち現れる複数の自分である。
自分は自分という存在であるけれどそれは関係性の中での自分だ。
絶対的な自分は存在しない。

投稿者 TKM : 2003年10月16日 00:38

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コメント

「子供がパワーをもっているのは親からの揺るぎない理解と信頼があるからではなかろうか。」は賛成。この逆があると思うけどね。

子供を理解し信頼している親は子供から理解され信頼されると思うよ。これは「心のボール」を癒すものすごいパワーがあると私は感じます。

投稿者 志乃 : 2003年10月16日 11:15

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