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2003年12月29日

書くこと自由と音楽と洗濯

12月29日。
カーテンに水面に映った太陽が揺れている。
洗濯をして朝食をつくる。
冷蔵庫にあったタマネギとシーチキンで一品。
炒めて醤油で味付ける。
味は悪くない。

時間について考える。
マイケル・クライトンの「タイムライン」を昨日から読み始めた。クライトンの小説の面白さは現実と非現実のバランスの妙にある。最先端の科学トピックスと少しだけ未来。ありそうだ、とイメージができる程度に飛躍した未来をかいま見せてくれる。ストーリーの味付けが加えられ独自のサイエンスエンターテイメントの世界が広がっていく。
クライトンの小説は映像的である。

言葉の美しさ。
例えば「ソラリス」のような読後感はないがグイグイ引き込まれる。ストーリーの力恐るべし。ストーリーに引き込まれるのはわかりやすいキャラの設定にあるのだろう。その人物の顔も声も知らないが読んでいるうちにだいたいこんな人なんだろうな、というイメージが浮かんでくる。

小沢健二のEclecticというアルバムを聴きながらこのエントリーを書いている。
音楽を聴いているうちに意識にさざ波がはしり静に音に同調していく。
音楽を聴きながら書くことは自分にとって最大の楽しみの一つだ。

何故書くのか?
書くのが好きなのだ。言葉を綴るという感覚ではない。楽器を弾くのに近い。
考えないからトピックスが固定されない。
何らかの答えを出したいとも思わない。
だからエッセイでもないし論考でもない。
ふらふらとした言葉である。
なんらかの感情があってそれを伝えたいがために表現しているのではない。
テーマがふらふらするから「何を言いたいの?」と言われるかもしれない。
しかし、そんなものはないのだ。
何かが言いたいから「書く」、必要はない。
このライティングスペースはそのくらい自由だ。
不自由は自分がつくる。
それは現実世界でも同じである。

不自由は外にあるのではない。
内側にある。

人と話すと自分がよくわかる。
人と話さなければ自分はわからない。
書くことは自分との対話である。

音楽や空のようになれたらいいのにと思う。

投稿者 TKM : 2003年12月29日 13:49

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コメント

「不自由は内側にある」とその上のエントリーにある石井先生の言葉がなぜか頭の中に染み透っていきます。

blogで日記をつけ始めてから、たしかに自分と対話し始めていることを感じています。

投稿者 志乃 : 2003年12月29日 19:18

例えば全く同じ言葉でもそれを誰が言っているかで印象は大分違ってくる。言われると腹立たしい言葉の「誰が言っているのか」が腹立たしさの原因であって言葉自体ではない、という場合もある。

僕が話をしたり話をきいたりしていて嫌な感覚を覚えるのは相手が自分の世界が一番だと思っていて他者の世界を頭からバカにしたり否定したりしたものいいをする時かな。

言葉尻が柔らかであるかどうかとは違う部分に話す人の内面というのが現れて、子供は案外とそういうところに敏感だから相手にあわせたり、萎縮したりしてしまうのではなかろうか。

好かれる人は相手の世界を否定しない、けれど自分の世界ももっている、という距離感がある気がするなあ。

あとは理解できなくても理解しようとする姿勢とか。
でも、全ての相手に対してそういう気持ちになれるわけではなく、相手が閉じているとこちらも固くなるのでそうした時にどうしたらいいのか、課題だな。あ、いま思ったけれど一対一で話しているかどうかというのも大切かも。

投稿者 かがやとものり : 2003年12月30日 09:18

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