« 自分がやりたいこと~音楽の都市 | メイン | 「チキン&ポーク」は名言である »
2003年12月31日
福岡の天丼とシステムの歪み
昨日、夕方から金子と二人、長い時間、話し込む。
コンテンツについて話をしたのだが何かについて話すときお互いそのコンテンツについて知っているので説明しなくても話が通じる。この話が通じるというのが驚くほど快感なのである。対話とはこうも面白いかというくらいに話が通じる。
これは外国人の主催するパーティにいった時も感じることだ。
お互い母国語ではない英語で対話するのだが興味を持っている分野が近い場合はつたない言葉でも言わんとすることが通じる。日本人のパーティはお互い日本語を話すわけだから言葉が通じない、ということはないのに相手がその分野の知識を持っていない場合は全く話が通じないということが多々ある。日本人のパーティだと相手の話を聞こうとする意識が薄い場合が多いか。
文化論を論じようとするわけではないが日本人のパーティは本当にどうでもいい対話が多すぎて疲れる。面白さとバラエティは異なる。TVを家に置かないという愼之介のスタイルはいいなあと思う。バラエティの使い方はあれを消費するのではなく、プランニングのヒント、日常のコンテンツ化のヒントとしてとらえることだ。そういう視点でみるとバラエティ番組はプランニングネタの宝庫である。
いまでも覚えているのだが数年前に実家でスマップの主演するバラエティを観た。番組中、剣道のコーナーがあった。NHKの全日本剣道大会だと偉く地味でつまらない剣道の試合が見事にコンテンツ化されていて驚いた。有段者である木村拓哉が試合をするのだが解説が実に面白い。またルールが独自になっており、剣道のルールは変わらないのだがそれを包括するかたちでゲームのモードが付加されている。誰と誰が闘うのか、という部分の面白さ。木村に勝てるのか?という期待感。このあたりは既存の格闘技の価値が試合そのものよりもマッチメイキングに重きを置いていることと同じだ。
話を戻そう。
というわけで僕は昨日、金子とコンテンツについてかなり話し込んだ。金子のコンテンツ観のベースにある「楽しみ」「面白さ」はおそらくコンテンツの王道の一つであろう。面白さとは何なのか。まだまだ話はつきなかった。
その数時間前。
何人かの仲間とカフェにいた。
その店は日本ではとても成功しているカフェとのことだった。
綺麗なつくりだし、店も明るい。場所も7Fなのにお客さんは絶えない。
用意された椅子とテーブル。
窓際で話す人達。
僕はその店で笑っている人達をみて日本はつぶれる、と思った。
大げさだけれど本当にそう思った。
その場にいるのが苦痛な空間と場所というのがある。
僕にとって昨日訪れたその店はそういう場所だった。
運ばれてきた料理を口にして感じた。
ゆるい味である。
メリハリがない。
不味くて食べられないというわけではないが決して美味しくはない。
しかし誰も文句は言わない。
集まる人も店もこういうサービスで納得しているのだろう。
自分がその場にいてその店や場に対して思ったことを言えなかったり、自分を合わせてしまっているという事実を認識するとき強い腹立ちと憤りを覚える。打開できない自分に憤りを感じるのだ。
サービスと値段のバランスがそういう感想を抱かせる理由ではある。
世の中でモノの値段が決まっていなくて、感じるように支払っていいとしたら、世界はどう変わっていくのだろう。昨日のカレー丼に値段をつけるならその価値は98円くらいが妥当だろう。100円以下ならギリギリ納得できる。あの味なら手間もかかっていないだろうからおそらく原価もそのくらいだ。ということは客はその10倍の価値をあの場所に見いだしているということだ。
※店自体はどこにでもあるカフェだと思うがその会合が醸し出すフェイクな感じが僕は苦手だった。
いままでいくつかの都市をまわったがこうした思いをするのは東京の店が多い。
東京では全てが値段に比例している。サービスも味も。何もかも。しかし、半端ではダメなのだ。カレー一杯1万円。そのくらいがこの街の値段なのだと思う。
「美味しい」ということは人を幸せにするし心を豊かにする。
が、「美味しさ」の7割は料理自体ではなく味わう時の自分の状態に依存する。
どんな美味しいものでも二日酔いの朝は不味く感じるし、横柄な人々の隣では何も美味しく感じられない。
「美味しさ」とは別に「美味しい力」という考え方があってもいいはずだ。
絶品ではないが美味しいものもある。
築地やロメスパなどの「活気」と「料理」のコラボレーションはその最たる例だと思う。
人は料理も食べるが同時に活気も食べている。
※書いていて思い出したがフクオカで500円で食べた天丼定食は銀座天國の天丼より遙かに美味しかった。銀座天國は銀座でもいってはいけない店ランキングのかなりの上位にはいる。ごはんも天ぷらも最低の中でも最低の味である。システムの歪みは理屈で説明するよりもフクオカの天丼と天國の天丼を比較すれば5秒で理解できる。更につけくわえると九州じゃんがらラーメンは美味しいと思っていたが水の違いなのかフクオカ食い倒れから戻ってきて以来、味の底にある重さとケミカルっぽさが気持ち悪くて食べられなくなった。
料理の質と値段のバランスは現実の都市力ではなく都市に対する人々の見かけの価値が反映される。この差異が都市間で広がれば広がるほど歪みは大きいということだと思う。
ファミレスやチェーン店はこうした見かけの都市価値をフラット化するので歪みが拡大化している現状を考えるとフラット化の価値が更に躍進しつつも局所的な二極化は促進されるのだろう。
またしても関係ないが昨日やまけんとフレッシュネスバーガーにいった。
一年ぶりくらいにいったのだが競合他チェーンにくらべ格段に美味しいと思った。
今朝、散歩の帰りに月島のマクドナルドで茶でも飲もうかと思っていった。
客は4人しかない。しかし、2分たってもまだ順番がこないので立ち去った。
客の多くはセットメニューを頼むので構成する商品がそれぞれを準備されるのに時間がかかる。
そのためマクドナルドはファーストフードといいながら注文から受け取りまでが極めてスローだ。
同じ時間の経過でもフレッシュネスやモスのように注文・会計と商品の受け渡しを分離した方がユーザのストレスは少ない。待ち時間は長くとも心理的な待ちの時間は少ない。そうか時間も商品なんだな。
投稿者 TKM : 2003年12月31日 11:13
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kagaya.com/mt3/mt-tb.cgi/3179
コメント
「美味しい」と感じるとき、自分の体調はもちろん関係ある。でもね、体調悪くても「美味しい」と感じられる料理はあるよ。
「ご馳走」っていうのは、豪華という意味じゃなくて、作り手側が食べてくれる人のことを考えて駆けずり回って食材を探し、食べてくれる人に合わせた料理をすることだと思うんだ。だとすれば「ご馳走」はどんな体調のときにいただいてもその作り手の心が伝わって美味しいものです。
私にとってのご馳走はMARUが作ってくれる納豆ご飯かな。
投稿者 志乃 : 2004年01月02日 10:23
加賀谷くん、今年もよろしく!
福岡の天丼に反応して、ここへコメント。
最近、事務所の近くのラーメン屋が一軒なくなって、その後に出来た「味噌」料理のお店がすばらしい。十数名しか入らない小さなお店だけれど、夜の定食があって、刺身、味噌味の肉料理、小さな鍋、サラダがセットになっていて1200円。これにビール一杯までついてくるのだよ。
これはコンテンツとして感動を呼ぶ。
数名で食べるときは定食に単品を数品つけて、お酒が入っても一人2千円を少し越えるくらいで大満足。
今度福岡に来たらここを案内しよう。
投稿者 MAO : 2004年01月02日 13:06
kagayaへ
今年もよろしゅうです。
7Fのカフェ…ちとビビッテます(笑)
また、ずばっとお話聞かせておくれやす。
投稿者 竹 : 2004年01月05日 08:06
みなさん、あけましておめでとう。
さきほど東京にもどりました。
MARUちゃんの納豆ご飯にはたくさん想いがつまっているのだろうね。
野知さん、ナイス食べ所情報ありがとうございます。福岡にいく楽しみがまた増えました。ホント福岡最高です。
そして7Fのカフェはそんなに悪い店ではないと思います。個じゃれた感じのノーマルな店だと思う。しかしオレはいかないだろうなあ。オレが何を感じたかなどなどはまたいずれ匠or魚仁などで。
投稿者 かがやとものり : 2004年01月06日 00:48
うす、ぜひぜひに!今日(6日)でもいいでぇ(笑)
投稿者 竹 : 2004年01月06日 09:10