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2004年02月24日

DOGVILLEとテキストの後ろのテキストが水木しげるの「ねぼけ人生」につながっていく

昼にデフラグを実行したら2時間後からずっと残りファイル数が「1807」になって1時間に一つくらいしか減らなくなった。5時間以上、PCを使えない状態が続き、操作しようとするとファインダーが異常な低速になり(CDで起動しているせいもあるが)一度動作にゆうに10分はかかるようになった。

みていると同じ動作を繰り返しているようでデフラグは20時間かかっても終わりそうにないのであきらめて停止ボタンを押してみるがこれも動作が完結するのに永遠にかかりそうな雰囲気だった。強制終了を試みるとディスクが飛びかねないし、しょうがないので腹をくくって(腹をくくるというのは大切で大体のことは腹をくくればどうにかなる)マシンをそのままにして古いwindowsマシンをひっぱりだし、ネットにつなぎ銀座の上映時間を確かめる。

目当ては「DOGVILLE(ドックヴィル)」。
体育館のような空間に白線で区切られた小さな町が舞台である。
家にはドアもない。
セットというよりも小学校や幼稚園でやる「○○ごっこ」のようである。

見始めてすぐに眠くなってきたがそれは上映前にガツガツと食べたパンと牛乳のせいだろう。
物語はニコール・キッドマンが炭坑のどん詰まりにある「ドッグヴィル」という町に逃げ込んでくるところからはじまる。何もない集落の人々の生活が部外者の介入によって少しづつズレはじめる。
逃亡者である彼女はしばらくの間、この世の果てともいえる閉塞した小集落で穏やかな日々を過ごす。
しかし、秩序は徐々に崩れていく。

町の人々は権威を恐れ。
弱きを憎む。
この性が顕在化しない間、彼らは普通の人々である。
しかしある出来事を境に彼女を取り巻く環境は変化する。

弱者に対する権威の行使は「いじめ」の構造と類似している。
自分が社会的に弱者であることを自覚し、現在の自分に対して不満を感じているものは自分よりも弱いものに対して冷酷である。それは陰湿なカタチで具体化していく。権力とはそれを行使するものにとっては甘美であり、一度、破壊への衝動が具体化すると流れは歯止めのきかない激流に姿を変え、人を変貌させる。
何らかの理由があって人が変わるのではない。
それは人のもつ本質的な衝動である。

善や悪という指標は流動的であり社会的な約束が事象に意味を与えているに過ぎない。
人の世界の善は他の生物にとっての悪であることもあるし、その逆もある。

物語は舞台には時間の経緯をしめす明暗と。
そしていくつかの音。
それしかない。
壁も背景もない。

しかし、そこは町であり。
社会であり。
人の世界である。

彼女は徐々にどす暗い欲望に飲み込まれ。
いたぶられ。
無防備に壊れていく。

人々の暗闇が町を覆う。
この過程をみていると吐き気がした。
したり顔で「ふーん、これはこういう映画ね」という態度はとれなかった。
世界に吐き気がした。
この映画は作り物だけれど似たようなシーンを嫌になるほどみてきた。
どこの公立学校にもあった。

「リリー・シュシュのすべて」を思い出した。
「ドッグヴィル」とは全然違う映画だが胸の奥が重くなる感覚やあの映画で感じた「痛さ」と同じだった。

映画の最後近く、彼女が父親と対話する。
人を「許す」という彼女の意志。
それこそが傲慢なのだと父親はいいきる。
しかし「許す」ことがなかったら世界は...と、揺れる。
そして彼女は決断する。

派手なセットも効果もCGIもない。
しかし、映画である。
映画とはこうなのだ。

映画の舞台は白線で区切られた空間と簡素な小道具だけ。
映像的には何一つ派手さはない。
なのに1時間後には違和感なく世界に没入し。
ダイナミックな世界が立ち現れる。
多くの映画評や作品に関する記事はこの一点に主眼をおいて語られる。
しかし、それらは舞台の目新しさでしかない。

僕が注目したのは何故そこに世界が立ち現れるのか。
その一点である。
人は映像をみているようで映像の後ろ側をみている。
アートも音楽もそれ自体をみながらききながら、感じながら、その後ろ側をみている。
ちょうどテキストを読みながらテキストの後ろ側にもう一つのテキストをみているように。

世界は人の外側にあるが同じように内側にも存在する。
人が言葉を持ち、言葉を使う限り、このルールは変わらない。

あらゆる情報は時間というボックス圏で物語につながっている。
この一瞬もその少し前の一瞬も次の一瞬も分断され、そして連続している。

帰り道。
劇場をでると同じく劇場からでてきたばかりであろう19歳くらいの女の子が連れの男の子に

「はいはい、よかったですね。面白い?何が?何がいいわけ?なんのの。はいはい。そうですね良かったですね」

と悪態をついていた。
というか憤っていた。
彼女がなぜ憤慨していたのかなんとなくわかる気もした。
全然関係ないのだが書いていたら江藤先生が机を叩いて激怒した時のことを思い出した。

++++++

人は自分の世界にあわないものに接するとそれを否定したくなるようにできている。
それも人の本能だ。

帰りに水木しげるの「ねぼけ人生」を読んだ。
1年前に最初の20ページくらいを読んだら少年時代の田舎での話とおばあさんが話す妖怪の話や学校での逸話などが書かれていた。その時は全く惹かれなかったので放っておいた。昨夜、手塚治虫の「クレーター2」を探していてたまたま手に取った。気になってカバンに入れておき、帰り道にファミレスで続きを読み始めた。

文字だけの本を読んで「笑った」のはここ数年ではじめてだった。

哲学書もいい。
人生論の本もいい。

しかし水木しげるの「ねぼけ人生」の前でそれらは消し飛んだ。
教育論も心理学も倫理学もあらゆる学もいらないなと思った。

視覚に対する欲望が爆発したのが20世紀。
21世紀はどんな欲望が首をもたげるのか。
その答えとはいわないがヒントの一部をかいま見た気がした。

投稿者 TKM : 2004年02月24日 05:41

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トラックバック時刻: 2004年04月22日 20:16

コメント

はじめまして「ねぼけ人生」最高ですよね~
10年くらい前うちにころがっていた「ガロ」に
「ねぼけ人生は人類必読の書」と書いてあり
読んではまりました。中学生のころでした。

また「屁のような人生」という水木格言も気に入ってます。

投稿者 tokkyu : 2004年04月22日 20:41

「ねぼけ人生」読まれましたか!
何がいいって、明るんですよね全てが。
遊びというか最近キーワードとして注目している「俄」という視点。

まさにこれを体現しているように思うし、人って本来、「俄」でいれば面白いし、ものごとってなんてことないってわかるんですが。これがなぜか覆われていく。これをどうしたら常に「俄」マインドでいろんな「面白い」を引き込めるのか、が自分のテーマです。

投稿者 かがや : 2004年04月23日 13:28

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