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2004年03月15日
[エッセイ]コンテンツと時間の関係について考える
ICCでおこなわれた「マンガを読むときの視点移動」についての調査報告をきいた後でマンガ作家の金子とデジタルマンガについて話し込む。
金子が世界一周の旅にでていたとき、携帯していたPalmで夏目漱石の「こころ」を全部読んだことがある、といっていた。段組、フォントなどは苦にならなかったといっていた。逆にページをめくるのにも片手で読めるから快適であったそうだ。
Palmのインターフェイスで漱石を読むとどのようなことが起こるのか。
金子の言葉を借りると
「本てフォントが小さくてページの右上から左下までビシーっと字が並んでいるとウー、と陰鬱になるけれどPalmだと一ページに表示される量が少ないのでこれなら読めるやという意識になるんだよね」
この指摘はとても興味深い。自分も本を読むときに同じような精神的「重し」を感じることが多々ある。見開きの本でビッシリと字がつまっていると同じ文字数を読むのにかかる時間は同じでも主観的な時間感覚は随分違う。また、ストーリー性が時間感覚に与える影響も興味深い。
面白いことをしていると時間が過ぎていく。
興味のないこと、つまらないこと、つらいこと、をしている時間は長く感じられる。
コンテンツを考える時、面白いと感じるかどうかはほぼ主観にゆだねられるので評価を数値化することは難しい。この時間感覚にしても主観的な時間感覚であるからどうしたら指標として使うことができるのかはまだまだ研究しなければならない。しかし可能性は感じる。インプットだけでなくアウトプットも含めあらゆるコンテンツ体験は自分が体験しなければ面白さを感じることできない。そこで一つだけ共通しているのはコンテンツの体験においては全ての人が「時間」を使うということである。
時間によるコンテンツ評価方法。
その手法がありうると僕は考えるのだ。
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ゲノタイプ(面白さの素)とフェノタイプ(表現形)という視点はデジタルコンテンツを含め様々なコンテンツについて考える手がかりになる。ゲノタイプとしてのコンテンツ性がまず最初にあり、その面白さを引き出す為にフェノタイプが生成あるいは選択されるのが本来あるべきコンテンツの姿である。
良質なコンテンツはメディアの違いとは関係なく、ゲノタイプとフェノタイプの関係性のバランスがとれている。
投稿者 TKM : 2004年03月15日 17:45
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