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2004年04月11日
[エッセイ] 人生の時の時 ~ルールの外~
ゆりかもめ新橋駅の真下を自転車で通り過ぎる時にふと思った。
人生の最後の瞬間というものがあって。
人の一生はどんな最後を過ごしたいかということをつくっているようなもの。
と考えると。
そこに向かって今があるわけで。
人生の何が成功で何が失敗であるかというような議論はもう必要なく。
最後の一瞬がアートというか人というか。
日々のあれとかこれということも大事なのだが。
どこに向かってのあれやこれなのか。
実は案外、いや、全くそれが不明なままでいる、ということがほとんどなんだと思う。
意志決定ということについてずっと考え続け、実践してきて、いくつか鉄則・法則が見えつつあるのだが見えていても人としての自分は揺らいでいるから必ずしもパーフェクトな意志決定ができている、というわけではない。
それでも自分が何に迷い、何を選んでいるか、それがプラスなのかマイナスなのかあるいはそれ以外だったのか、などなどが一瞬遅れでではあってもわかるようになった。
そこで思うのは人の意識は独立して存在しているのだが環境という要因によってかなりのバイアスを受ける。マネジメントによってどうにかすることはできる。とはいえ、セルフマネジメントは驚くほどに難しい。自分で自分をマネジメントする、という当たり前といえばあたりまえのことが異常に難しいのである。
マネジメントという職業が成り立つ理由がなんとなくわかった。
マネジメントは職や技といったスキルなのである。
才能ではない。
向き不向きはあってもトレーニングで身につけることができる。
僕自身の感覚・経験的なことをメモしておくと。
僕は「夜」という時間に自分をマネジメントするのが得意だ。
人が起きている昼という時間帯は他者の介入が多すぎる。
特に東京都心では。
どこにいっても他者の影響を受ける。
店にいっても、電車にのっても、街を歩いても、他者の方がマジョリティをしめる。
ところが夜の時間帯。
12時を過ぎ。
街はその顔を変える。
シンデレラの話はよくできているなあと感心する。
12時の魔法についてあんなに上手に物語ることはできない。
街。
信号。
そうこの国は信号の国だと以前書いた。
何をするにもすぐにブレーキがかかる。
街を歩いていると数分おきに信号が歩みを止めてしまう。
何でも同じである。
何かしようとするとブレーキがかかる。
ルール、規則はみごとなくらいにモチベーションを下げる。
昼間に出歩くと人と車と信号で移動コストは最大化する。
時間と気持ちが失せていく。
ところがこれには抜け道がある。
裏道といったせこいルートではない。
ルールの外をいけばいいのだ。
夜に街を歩く。
信号は赤だろうと青だろうと関係ない。
人がいないのだから自由に往来を行ける。
人通りの少ない銀座の街を自在に駆け抜ける。
爽快である。
何も銀座だけじゃない。
渋谷でも新宿でも同じである。
夜の街は平和だ。
争いが起こるのは夜の手前か昼下がりと相場が決まっている。
夜の夜に争いは起きない。
人が眠っているので街の気が静まっている。
「やったもんがち」という言葉は好きじゃないがはずれているわけでもない。
ルールの外を歩いていると「それはルール違反だ」と言われることもあるがそれは誰かが決めたルールだ。
ルールは破る為にある、とは言わない。
しかし、ルールは絶対的なものではない。
そのルールによって生産性や創造性、豊かさが阻害されるならルールは改定されてしかるべしである。
一つ。
「何故、山手線は24時間回転していないのか?」
ここ10年来の疑問である。
金曜の夜の街は終電を逃した人々の倦怠でゆらめく。
一時間に一本でいいから電車を走らせたら、街は一晩中活気づく。
何故できない?
ここでルールの登場だ。
コストが問題だとかそれはムリだ、とかいろいろいいわけはある。
このいいわけというのも問題で思想が根本から間違っている。
問題が存在するなら
「じゃあ、どうやったらできるのか」
というスタンスで対峙しなければ豊かにはならない。
すり減るだけである。
「今月は節約しなきゃ」
という言葉を聞くと「はてな?」と思う。
無駄を省き、効率を高めるのはいい。
ウェルカムである。
しかし、発想としては
「どうやったらもっと稼げるか」
の方が楽しい、とオレは思うのだが。何故、逆に入るかというとこれらはすべて「信号」の呪縛だと思う。
だからルールの外を歩くのが現在における最大のアドヴァンテージだと僕は考える。
会社。
さっき、大通りの信号、晴海通りのところ、で止まったら。
少し、ずり落ろしたジーンズにパーカー、帽子という出で立ちの青年が電話で話していた。
「だからさ、オレはベンチャーキャピタルとかそういった…という話をしてたんだけれど面接官はその分野じゃないからっていって、で、聞かれたのが何をやりたいのって話で」
という言葉が耳に入った。就職活動の面接か。
就職をしたことがないので当然ながら面接というのもやったことがない。
なのであまりわからないのではあるが就職活動をしている人はどこかの企業に入りたい、のだと思う。そこでの目的はサラリーであり、仕事である、更にどうしても入りたい企業があると仮定する。
だったら。
と僕は思う。
であるならば就職なんてのは簡単な話でようするに希望者を選抜する理由は選抜をミスると企業側にリスクが発生する、という部分だと思う。何がリスクかといったら、でかいのは人件費のロスという部分だろう。
ならばだ。
簡単な話だ。
「給料はいらないので働かせていただけませんか」
で解決するのではないだろうか。違うのかな?
そうすれば立場的にはイーブンになる。
サラリーをもらってなければそこに主従関係は発生しない。
ハートベース。
自分のヴァリューベースのつき合いができる、というものだ。
人との関係はほぼすべてそうだと思うけれど。
ヴァリューを感じるからその人とつきあう。
友人だって友人といて心地がいい、楽しい、気持ちがいい、大切にしたい、だからつきあう。恋人もそう。その人といることに何らかのヴァリューがある。だから一緒にいる。ヴァリューがズレれば関係も薄れていく、と僕は思う。
相手が成長していて自分がそのままだったらヴァリューはズレる。
「昔は違った」
みたいな話はゴミ箱に捨てた方がいい。
今は昔じゃない。
今は今だ。
今を最大限に豊かにする、面白くする、という方向に知恵を働かせないとしぼんでいく。
豊かさベースで考えないと関係性というものは希薄になっていく。
いつでもそうできるわけじゃないけれど、セコさベースでいくと人はすり減っていきマイナスに入る。
なので愚痴は負債である。
飲んで反省会というのも負債である。
ベースを仕切直さないといけないのだ。
お酒はマイナスに入ってもプラスに入っても感覚と意識と言葉をドライブさせるから諸刃の剣だ。プラスに入っているように見えても揺れが激しいから危ない。全く、日常を分離した状態で飲むのがお酒の遊び方であろう。
そういう意味ではクブラやキャバクラでの「飲み」というのは正しい飲みの一つの形ではあると思うがパーソナライズされていないのがマイナスポイントであるな。いや、違うか通っている人はパーソナライズされているのか。
散漫になってきたが更に続けよう。
もともとは「人生の時の時」(石原慎太郎のエッセイにこういうタイトルのがあった。福田一也が評価◎だったので読んだら鮫に食われそうになる話が盛りだくさんで面白かった。ジョーズエッセイとして読むべし)について考えていたのだ。
どんな死の時をつくるか、が人の一生だと思う。
何を選んでうまくいったとかいかなかったとか、そういうのは全然関係ない。
どんな最後をつくりたいか。
その最後までにどんな時を刻みたいか。
それだけだと思う。
そんなことはいちいち考えてないよ、という人はそれはそれでよし。
オレの場合は最後から入っていきたいなと思うだけだ。
燃え尽きたいとかぬるくやりたい、とか人それぞれあっていいと思う。
自分の場合はもう子供の頃から決まっているのだが。
で、書いておきたいなと思ったのは。
その為に必要なものは
「なーんもないよ」(by 長州力@試合後のインタビュー)
ということなのだ。
人生の最後の時を迎えるのに必要なスキルはない。
誰でもその能力は持っている。
生きている人は全員、全く等しく持っている。
いまある権威やポジション、指標、それらは人以外にはおよそ関係がない。
月に住んでいて一生、地球に戻ってこないとしたら地球上での出来事にどれだけの価値があるのかは疑問だ。それは極端としてもおよそ物事はそういうものだと思うのだ。思いこんでいるだけ、というのが正しいのではないだろうか。
++++++
追伸:明日は河原でBBQである。
投稿者 TKM : 2004年04月11日 02:24
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