« [雑記] 信号理論 | メイン | [俄] ジャイアント・ベイビー in ロシア »

2004年06月02日

[雑記] エッジとエリック・ホッファーと藤原惺窩

僕たちが使っている物や事、テクノロジー、技術もあと10年もすれば使い物にならなくなっているのだろうな。

どの時代であれ先端をかすめていられたらいいと思っているけれど日常が介入してくると途端に意識が分断される。ここでも信号理論が猛威をふるう。

先端てどんななんだろうと少し考えてみた。

ネットの世界の10年後はどうなっているのだろう。
ブラウザはまだあるだろうか。
携帯電話はどうなっているだろう。
ボタンはまだついているだろうか。

ある人からもらったメールに思いがけず「エリック・ホッファー」の名前を見つけた。
久しぶりに「魂の錬金術」をパラパラとめくってみた。
開いたページの最後にあった一節を引用したい。

いかなる発明がなされようとも、すぐれた著述、描画、作曲、発明などの創造的営為からその苦労を取り除くことはできないだろう。精神の経済とは、根本的に不足の経済である。豊かな社会においては、日常生活は勤労倫理なしでも済まされよう。しかし、卓越したものを得ようとするなら、人々の内面に冷酷無情な監督をつけなければならない。実際、創造的努力の規律がなければ、豊かな社会は安定を失う。社会は創造性なくして、存続しえない。

生活に必要とされるものがフリーになる世界はいずれ訪れるかもしれない。
しかし、創造には必ずコストが伴う。
それは金銭という意味でのコストではなく労力という意味でのコストであり、何かをつくり出すためには己の能力を引き出さなければならない。
辛いわけではないが「楽」とも違う。
「楽しさ」を求めよ、という思考とも異なる。
自分との対話、あるいは個と弧の向こう側といったらいいだろうか。
創造の場では他の誰かではなく自分との対峙が強いられる。

アスリート、アーティスト、仕事人、ビジネスマン、親、どのようなコンテクストにおいても何かをつくるという場では必ず自己との対峙が強いられる。対峙を避けることは容易い。しかし対峙しなければ得られないものがある。創造とはそういう種類の悦びだと思う。

踏み出すときはいつも怖い。
いまだに知らない人に声をかけるときは臆する。
人に心を開くとき自分は無防備である。
拒絶は死に値する。
それでも勇気を振り絞り人と話す。
自分は社交的な人間だと思われているかもしれないが常に臆している。

人と交わることは底のない虚空への飛翔である。

藤原惺窩を論じた江藤先生の本にあった一文である。
その一文と江藤先生のゼミにきていたアメリカ人の学生が亡くなった時に先生が書いたエッセイのことをいまでも時々思い出す。

自分にとっても人と交わることは虚空への飛翔である。
だから人といい加減につきあうことができない。
話すなら理解できないまでもその手前までは話したいし、知り合いたい。

どこまで踏み込んでいいものなのかいつも迷う。
外国人の友人と話すときみたいにはいかないのは何故なのだろう。

これは自分の勝手な考えだが。
学びたい人は自由に学ぶだけでいい、という世界ができればいいと思う。

江戸時代には儒学者という職業がなりたっていた。
それも一つの先端だったのだろうし、この世界が生者の世界である限り常に先端なのだと思う。

◆藤原惺窩
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P321C100.HTM

投稿者 TKM : 2004年06月02日 07:27

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kagaya.com/mt3/mt-tb.cgi/3379

コメント

コメントしてください




保存しますか?