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2004年06月09日
[読むテレビ] NHKトップランナー 石田衣良~エンターテイメントの鬼になる
■石田衣良の面白さとその先
石田衣良の小説を初めて読んだのは随分前である。
デビュー作でもある「池袋ウエストゲートパーク」を読んだのだがまだTV化もされていなかった。著者についても何も知らなかったし作者プロフィールの写真も現在の石田とは違う人物のように見える。
池袋という自分にとっては馴染みの薄い街を題材にした小説ということで興味を持ち手に取った。表紙が洒落ていたのも理由の一つではある。
昔から文学作品は嫌いなのであまり読まない。それ以上にゆるくてぬるい作品は嫌悪するけれど。だからあまり小説は読まない。読むにしても途中で放り出すことが多い。
「池袋ウエストゲートパーク」はどちらとも言えない小説であった。
読みやすい。しかし響いてはこない。けれどつまらなくもない。
「ハ?!それって面白いの面白くないの?」
ときかれれば
「面白い、かもしれない」
としか答えられない。池袋の街を舞台にした話なのだが予想以上にサラリとしているのだ。その理由は青春小説というカタチにあったのだと思う。主人公は基本的に悪意を持たない。まっすぐな人間として描かれている。いくつかの事件を通して彼が成長していく過程を物語は追っているのだがこの成長という言葉がくせ者で段々といい男、いい人間、完成へと近づいていくRPGの王道な構造なのである。
僕は人間としては善人だが思想はまっさらではない。
だからまっすぐに進んでいく物語を読むと「つまらなくはないが響いてはこない」というような言い方になってしまう。
「池袋ウエストゲートパーク」の場合はマスに対して受け入れられるコンテンツの宿命なのだろうどうしても「不確実性」が弱いと感じてしまうのだ。
ラーメンに例えると洒落た店舗の純正統派「醤油ラーメン」。
しかし僕が好みのラーメンは「深川こうかいぼう」のような味だ。
毎日食べられる爽やかさなのに深みとパンチがある。
それでいてしつこくない。
ま、ラーメンを持ち出すと話がそれるのでこの辺にして話を石田衣良に戻そう。
「池袋ウエストゲートパーク」」を読んで以降は石田作品を読むことはなかったのだが今年になってから「波のうえの魔術師」を読んだ。この作品は金融をテーマにした小説なのだがそれでも少年小説な雰囲気は共通している。簡単にいってしまうとある少年の挫折と冒険と成長の物語である。(こう書くとキャンベルの話になってしまいそうだが)
「で、面白いの?」
こちらは面白い。明らかに筆力が上がっているのを感じた。ストーリーの規模は思ったほど大きくない。仕手戦にしては動く額が小さすぎるしスピードも遅い。またオプション取引が登場しないあたりはストーリーを単純化する為には仕方がなかったのかもしれない。とはいえほぼ同じようなテーマと展開で書かれた「マネーロンダリング」(株とシステムという違いはあるが)と比べると小説としての面白さは数段に上である。
現象説明のバランス、構成は絶妙で読み進めるうちに自然に架空の主人公が自分の中でできあがりストーリーに引き込まれていくのを感じた。
経済評論家もこういう手法で己の評論を表現したらいいのだ。
とはいえどうしても青春小説な感じがしてしまい読んでいるうちは面白いのだが読み終えると時間をつぶしたという感覚が強まってしまう。これはおそらく抽象度の問題で、自分が積極的に脳を使わないと読み進むことができないというタイプの小説にはなっていないためで、ここが今後の石田衣良作品の分岐点となるのではないかと思う。
読み手からの介入がより必要とされる作品になれば読者は難解と感じるがその分、読むことによって読者も成長する、そのため物語を読み進めただけでは得られない域の悦びを感じることができる、可能性がある。
※「マネーロンダリング」は経済システム小説としては面白いので経済系のどうでもいい単行本や新書を読むなら絶対にこちらをオススメする。
■エンターテイメントへの信頼が力の源
肝心の番組だが石田衣良のトークは予想外に「良かった」。
言葉には全く力が入っておらず「ですよね」が口癖だ。
ところが端々にいいワードが出てくるのである。
いくつか書き出してみると、
「小説というのはその世界の出来事ですから、それは振り切った方がいいんです」
「読んだ資料は一度忘れて鮮明に覚えている部分だけを使います」
「音楽みたいなものなんですよ。バリバリに構成をきっちりやってという部分とアドリブの部分とのバランスが大切で。」
作品のスピード感はどこから来ているのかという質問に対してのこの答えがふるっていた。
「作品の中の自分と、本当の自分を入ったり来たりして、というのを何回も繰り返す。書いていて悲しいシーンになると自分も泣きながら書いていたりするんですけれど、あ、おれいい歳して何ないてんだろう、と客観的な自分もこっちにいてとかね。」
イチロー選手も同じことを言っていたが「集中状態の自分とそこにいる自分を客観視しているもう一人の自分」という表現がここでもでてきた。自分ともう一人の自分を感じるキュービタルアイの存在。これはアスリートに限らず何らかのカタチでクリエイティブに関わる人々には顕著にみられる感覚なのだろうか。非常に興味深い。
話をきいていて思ったのだがこの人は「小説・物語ラブ」な人だと感じた。本人も次のように語っている。
「いろんなジャンルの小説を書いてみたい。といのは小説が持っている面白さの核があればどんなジャンルでも書けると思う。」
なるほど。確かにそうなのだ。面白さにはいくつかの核、パターンが存在する。そのパターンを内包していればテーマや分野に関係なく面白さはつくりだせる。「ヒカルの碁」がいい例だと思う。子供達は囲碁が面白くて読んでいるわけではない。しかし囲碁でも面白さは作り出せる。「ヒカルの碁」の場合は囲碁がつくりだす「対戦」という構造をベースにストーリーが成立しているのだがその根幹にあるのは競技を媒体とした人間の物語である。同じ構造はあらゆるスポーツ、試合もので成立している。これは一つのパターンで物語が描いているのは関係性の変化に起因する人の心の変化であり、舞台やテーマはそのための手段・媒体なのだ。そしてこう続ける、
「自分はエンターテイメントを信じています。難しくて立派なものよりも面白おかしいもの程、人に影響するんです。面白くていつも近くにいてくれるものの方が強いので。だからエンターテイメントの鬼になる、みたいな方がカッコいいと思っています。」
これなのだ。エンターテイメントへの信頼。それが一連の作品に通底する石田衣良っぽさの源流であり僕が「爽やかすぎる」と感じる何かの正体なのだろう。僕が信じるエンターテイメントのカタチと彼が信じるエンターテイメントのカタチは同一ではない。
だからこそ僕はいまの石田衣良の作品のその先が見たいのだ。
テキストから流れてくる言葉の旋律をただなぞるだけではなく読み手の介入によって変化する可能性を持つテキスト。それが僕が信じるエンターテイメントのカタチである。だからこそどの作品にもそれを期待してしまう。
それは自分にとって「オヤ!?」という感覚であり「フー」というため息であり、「やったよ、やりつくしたよ」という満足感を感じるにはどうしても必要な過程なのだ。
■小説家の力をみた、最後にもらったいい言葉
石田衣良の作品はエンターテイメントとして面白さの核を持つ小説である。人の感情をドライブさせる構造を内包していないかぎり作品が多くの人に受け入れられることはない。
収録が終わった楽屋で彼がコメントするシーンがある。番組では最後の言葉なのだがこれがなかなか響いてくる上手な言葉だったので紹介しておきたい。
「カメラっていいですよね。(石田の趣味はカメラ。カメラを構えて話ている)こんな小さなガラス玉を通して世界を全部写すことができるんですよね。不思議ですよね。でも、人間の心もこういうガラス玉みたいなものだと思いますよ。小さいけれど、世界を全部写すことができるんですよ。そしてなるべく曇りがない方がいい。うん、こというね~。」
いやはや、さらりといい言葉を使うものだなと感心しきりであった。
小説家、恐るべし。
言葉の使い手こそ現代の魔術師に違いない。
■参考図書

池袋ウエストゲートパーク
石田 衣良

波のうえの魔術師
石田 衣良

4TEEN
石田 衣良

1ポンドの悲しみ
石田 衣良
投稿者 TKM : 2004年06月09日 22:16
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コメント
ね、加賀谷くんはお話書かないの?
読んでみたいなあ。
投稿者 志乃 : 2004年06月09日 23:57
鬼辰こと原田です。ご無沙汰してます(下北以来ですね)。
隆慶一郎だって、たまたま扱っている時代が江戸なだけであって、時代背景が今現時点だとしても、面白い小説が書けるんだろうな、っていつも思います。
面白さの核がぶれていなければ、テーマや分野に関係なく面白さは作れるというくだり、思わず頷いてしまいました。
マラソン楽しみですね!
投稿者 鬼辰 : 2004年06月10日 12:47
>ね、加賀谷くんはお話書かないの?
物語はかいたことがないなあ。
短編なら書けるだろうか。
だとしたら主人公はワニだな。
書いてみます。
>隆慶一郎だって、たまたま扱っている時代が
>江戸なだけであって、時代背景が今現時点だ
>としても、面白い小説が書けるんだろうな、っ
ていつも思います。
隆慶一郎、昨日「死ぬこととみつけたり」を読了。連作なのでちょっとずつ読んでいたのだが最後の果たし合いでは娘さんに「死人」のハートが伝授されていて、覚悟とはかくも大切なりけりや、メディアや人や情報に惑わず「死人マインド」で世界を斬りたい、と思う今朝でした。
あ、そうそう「死ぬこととみつけたり」のラストの方で「振袖火事」ってのがあるじゃない。昨日、皇居にいったときに高台があって案内板を読むと「振袖火事」と書いてある。滅多に案内を読まないのだけれどその時はなぜか一読。同日夜、「死ぬこととみつけたり」を読んだら「振袖火事」の場面があり「あれ、これってさっきオレがいた場所じゃないか」と。これもシンクロニシティだよなと感慨深かったです。
投稿者 かがや : 2004年06月11日 17:12