« [格闘技] ハリトーノフ戦 ~くたばれプロ野球~ | メイン | [雑記] 戦争について考えた »

2004年06月26日

[雑記] ランナーズハイと1000万円の命

昨日に続いて今朝も川沿いを走る。
快調にとばしていく。
おじさんに「おはよう」と声をかけられる。

月~金の朝7時~12時くらいまでは街を歩いている人の顔はほぼ死人、ゾンビである。築地の人々はパワー全開だが他はだいたい1984モードである。

朝の出勤をやったことがないがたまに朝帰りの電車で人々を観察するとその多くはうつむきゾンビ状態でしかめっつらか唇がへの字である。ところがこの人々が会社に入った途端に活き活きとするから不思議だ。

そうか電車がダメなんだなきっと。
などと思いながら今朝の音に耳を澄ます。
静かだ。
土曜と日曜の都心の朝は静かで心地よい。
通勤してくる人々がいないからである。
かの人々がいないとこの土地も過ごしやすい。

通勤の存在しない世界をつくりたいものだ。
と思う人はマイナーな存在だ。
会社に限らず何らかの場所に出向くことは案外楽しい。
短期の助っ人で会社につめるときなど段々と関係性ができあがっていき自分がそこにいることに違和感を感じなくなってくると逆に場への依存が生じ始める。何故にこれだけ多くの人が会社・組織に勤めてサラリーを貰うという生活をしているかといえばそれは決して賃金の為だけではあるまい。場の力が作用していると僕は考える。

試しに明日から3ヶ月くらい場と仕事を完全に放棄してどこのくらい持つかやってみるといい。以外にすぐ限界がくるのではないだろうか。

++++++

川沿いを走っていると段々と身体の感覚がぼやけていくのがわかった。
手足が軽くなり力がはいらない。
疲れているのではない。
身体は動いているが感覚がない。
これが噂に聞くランナーズハイか、とそのまま走り続けてみた。
気分的にはこのまま40kmくらいいけそうだったが感覚がないくせに右の足首の動きがおかしい。痛みはない。身体は全く疲れを感じさせない。というよりももう自分の身体ではない。腕と足が勝手に動いている。

麻酔を打たれた時の感覚と似ている。
橋まで走ったらとりあえず止まってみよう。
かちどき橋のたもとで足を止めた。

と、その刹那、意識から切り離されたように身体がフワフアと浮いている。
アレ、っと思うのだが苦しくはない。
身体を動かそうとするがいまいち伝導が悪い。

あー、このまま倒れたら気持ちいいだろうな。
と思ったがなんだかそれはマズいような気がしたので歩いて橋を渡った。
歩いているのだけれど気持ちは「倒れたい」といっている。
そもそも身体に力がはいらない。
どうやって歩いているのかもよくわからない。
気力で歩くというのはこういうことなのだろう。

気が遠くなる。
わたりきったところで大理石に腰掛けて休憩した。
座ると身体から力が抜けている。
何もしたくない。
でも苦しくはない。
気が遠くなっていくだけだ。

わずかな時間だと思うが落ちた。
時間にして1秒から2秒だろうか気を失った。

ハッとして歩きはじめた。
家までつけばどうにかなるだろう。
残り500mが恐ろしく遠い。

死ぬときの感覚はこんなだろうか。
死なんて案外あっさりとしたものだ。
とかそんなことを考えながら歩いた。

1時間後。
月吉で朝食を食べていたら。
朝のニュースである会社員の殺人について報じていた。
東急エージェンシーの社員が殺された話しだ。
その事件について知らなかったのだが概略はこうだ。

犯人はある印刷会社の社長で殺害された社員と何人かで印刷会社を立ち上げた。
東急エージェンシーの仕事を請け負う為の会社である。
当初はうまくいっていたのであろう。
ところが最近になって仕事が激減した。
被害者は印刷会社社長に自分が貸したお金を返すように迫った。
どのように迫ったのかをニュースは伝えていないがおよそ気持ちのいい迫り方ではなかったのだろう。しばらくして、その社員は姿を消した。殺害されたのである。被害者が犯人に貸した金額は1000万円だったそうだ。
被害者の命の値段は1000万円だった、ということなのか。

1000万円やるから命をください。そういわれて「ハイ」とは言えない。じゃあ、10億あげますからあなたの「眼」を下さいと言われても「ハイ」とは言えない。

100年くらい前までは畑を耕したり魚をとっても人は生活できていた。
何故いまだとできないと思ってしまうのだろう。
結構でかい問題だと思うのだ。

川沿いを走る時、以前は川のすぐ脇のテラスを走っていた。
いまは聖路加側のテラスは走らない。
ホームレス村ができており、景観が変わってしまった。
以前は得られていた爽快感はもうない。

彼らの人格は否定はしない。
しかし何かは間違っていると思う。

図書館に集う人々と職安に集う人々が似ているのは何故だろう。
あれも何かが間違っていると思う。
一度中央区の図書館にいってみて欲しい。
あれは高校生や大学生が勉強できる雰囲気ではない。

何が起こっているのだろう。
何かが起こっているに違いないのだがそれがわからない。
メディアがいうような二極化という単純な問題ではないと思う。

そもそもメディアは広告媒体でしかない。
そこにはメッセージはない。
あるにしてもほんの少しだ。
本音はない。

会社員が書く記事が面白いわけがない。
かといってジャーナリズム云々という不毛な議論をするつもりもない。
全ては流れの中にある。

そして流れはどこかに向かっている。
自分はそれが知りたいのだ。

安易なポジティブシンキングの礼賛は絶対的な現象の前では無力だ。

ポジティブシンキングはそれ自体は全く意味を持たない。
問題の根本は個人の思想だ。
前向きであろうと後ろ向きであろうとエネルギーのない思考には意味はない。
ゼロポイントにおいて思考の方向性は重要ではない。
まずは思考の位置が問題なのだ。

力がゼロならそれがどの方向に向かっても力はゼロだ。
エネルギーがあるから方向が問題になる。

根本はそこだ。
どうやってエネルギーをつくりだすのか。
そこが全てのはじまりなのだ。

投稿者 TKM : 2004年06月26日 07:55

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kagaya.com/mt3/mt-tb.cgi/3410

コメント

コメントしてください




保存しますか?