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2004年06月27日
[雑記] 戦争について考えた
夜。
つらつらとプランニングノートをつけていたらいつのまにか政治についての考察に変わっていった。国とは何かとか日本とか人とか。日々感じる物事についてメモをとる。図式化する。それを続けていく。
ログをとってあるので自分のサイトにどこからアクセスしてきたのかを知ることができる。2ch掲示板からのアクセスがあったのでどこでどんな風に扱われたのかを確認すると格闘家の山本“KID”徳郁について自分が書いた記述があたかもその人の発言であるかのように無断で使われていた。
自分が書いたテキストに対して二つのコメントがあり、両方とも否定であった。ちなみに引用されたテキストは下記である。
思わずそう叫んでしまった。山本の身体を覆う筋肉の鎧は決してゴツゴツしていない。全盛期の佐藤ルミナを彷彿とさせるが更に強化され、しなやかさを付け加えたようなこれまでみた格闘家の中でも類を見ない強さと美しさを感じさせた。
この一文だけを取り出して批判の対象とされることは全く不本意である。自分は文脈の中で上記の言葉を使っておりそれが無断で宴曲されることにいは強い憤りを感じずにはいられない。更に引用者は否定されると同時に出展を明らかにして「逃げ」にまわっていた。反吐がでる。根性がないとか精神論を展開するつもりはないが全てが安易なのだ。発言もそれに対する批判も全てが屈折している。スケールが小さい。
何もかもを褒めればいいというわけではない。しかし批判は自分の立ち位置を明確にした上で行われなければならない。思想の違いは合って当然である。好みにも違いはあっていい。大切なのは自分はこう思う、それはこうだからだ、という意見だ。
それが決定的に欠落している。
これは掲示板の世界だけの話ではない。
自分のアイデンティティが明確でない場において、人は傍若無人に振る舞う傾向にある。
僕がわからないのは「訴える」や「警察沙汰」を持ち出すことで己が権力と一体化しているかのように振る舞う輩の存在である。馬鹿かといいたい。
何度も繰り返しになるが切り捨て御免の世界だったら巷にあふれているようなくだらないいざこざは起きない。そんなことをやっているまに死んでしまう。本気になるべき対象がズレてきている。そんなことどでもいいだろう。もっと別なことに熱くなるべきだろう、と思う場面を目にすることが多い。
しかしその理由をコミュニティの崩壊だとか家庭に見いだすのは安易である。
同じ環境でも全く違う道に進む人も多い。
おそらくメディアの影響、という考え方も間違っている。
同じようにメディアに触れていても影響を受けない人もいる。
話を掲示板に戻す。
僕は自分のテキストが思わぬ使われ方をしているのをみて、さらにそれが理由なく否定されているのを見てかなり絶望的な気持ちになった。こんなことはしょっちゅうあるがそれが何度目であれ気持ちのいいものではない。真っ向からきてくれよ、と思うがそれはあり得ないだろう。
こうやって匿名の影に隠れての発言しかできなくなることに強い危機感を抱いた。
ある種の警察国家的な空気、密告社会、強い閉鎖感を感じた。
これらの心ない発言は自分が何かを発言しようとするときに心理的なブレーキとして働く。意識していなくとも必ずどこかで「媚びる」ような言葉を発信してしまう。そうでなければ自己を防御した形のテキストを「つくる」ことでリスクを回避しようとする。
よくみてみるとわかるがこれだけブログが増加しても自己を明示し、さらに自己の考えを発信しているサイトは驚くほどすくない。そのほとんどはごまかしである。アクセスが多いサイトのほとんどは自己の立場をぼかしちゃらけることでリスクを回避している。
これも自己防衛のための自然発生的な現象なのだとは思う。
僕が危惧するのは本来オープンなハズのネットワークという場にさえこうした管理社会的な機能が自己生成的に備わってきていることである。おそらくこの傾向は誰も止めることができない。一方では権力の嘘を正す正義の衣をまとい、もう一方では自らが権力として振る舞う。権力を否定しながら、権力への依存を望む。この矛盾点に強い危機感を覚える。サイレントマジョリティがネットワークというチャンネルを持つことで発言権を得た、というよりは、実体権力が管理しやすい密告社会が現実化している、ように見える。
ネットワークは素晴らしい、と思う反面。
反オープンな群体、管理社会の暗い影が見え隠れするのも事実だ。
個人が特定されることはネットワーク上で無名と対峙するには不利な条件でしかない。
数の上でもリスクの上でも明示されている側が圧倒的に不利だ。
全く勝負にはならない。
両者が「無名」である場合、あるいは内容が「無害」か「無意味」な場合はコンテクストが変わりカーニバル的な展開をみせる場合もある。
こうしたテーマの寄り方は最近のTV番組と似ていなくもない。
というようなことをずっと考えていた。
こうした傾向は日本に固有のものなのだろうか。
それとも全世界的なものなのだろうか。
などなどやっていたら時間になったので鈴木vs健介戦を見るために帰宅後観戦。
その後、何故かディベート・討論会の番組に目が止まる。
「戦争反対vs仕方ない」という議論であった。
戦争反対を片側にもってくるならば戦争賛成をもう一方に据えなければ議論は成立しないように思ったが予想通り議論はかみ合っていない。片方が感情論に訴えれば片方は理論で応戦する。最終的には議論・論戦には展開せず発言力の大きい発言者(この場合はオピニオン)の言葉に全体が流されていく。議論の最後は「命を大切に」で終わっていた。(それ自体はとても大切なテーマだし。亡くなった橋田さんの講義風景には心を打たれたがどうも意図的にまとめた感が強くて気になった)
議論自体は面白いのだ。たとえかみ合っていなくてもそこにはある種の本音は出ている。編集によって巧みにつくられてはいるがそこに集まる人々は典型的なパターンを代表しているように見えた。戦争反対を叫ぶ人はデモの必要性と感情論を持ち出す。戦争によって引き起こされる「悲惨」はあってはならない、というのが彼らの立場だ。
僕は戦争には全く反対である。しかし論戦はあってしかるべしだと思っている。「争い」そのものが悪いのではない。それによって引き起こされる物理的な破壊や死を作り出すのが問題なのだ。会議でも議論はある。白熱した論戦を展開させる場合もある。それはクリエイティブの場でも同じだ。何もかもが論戦なしに進むわけではない。主義と主張は常にぶつかり合う。問題はそれが別な場にも持ち越されてしまうことだ。
僕はデモを良くも悪くも思っていないが行進することと実際の政治的な効果には関連性がない、と思う。
デモが成立するならその人たちで組織票をつくって国会に代表を送りこんだ方が効果的だと思うし、なんなら超党派で非戦党をたちあげたらいいと思う。
が、そうはならない。
イラク戦争の戦死者数は明らかにされていない。
あるデータでは少なく見積もって一万人のイラク兵が死亡した、と言われている。
戦争の是非と死者数に関係はない、と言われるかもしれないが。
ここで僕はふと思う。
日本では年間約3万人が自殺している。(2002年度のデータでは29,949人となっている)これは阪神淡路大震災での死者数6,433名の約4.6倍である。
ニュースバリューの無い死はその存在そのものが最初から存在しなかったように扱われるが数字だけをみるならば戦争よりも遙かに大きな悲劇がここにもあるとはいえないだろうか。
自分も戦争に対しては反対の立場をとる。争いならば論戦でやればいいし、フィジカルな問題に発展させないことが文明だと思っている。
ではこれは何なのだろう。
戦争で死にゆくよりも多くの人が戦地ではないこの地で死亡している。
※一般人口統計(2002年度のデータ)によれば年間死亡者数は982,379人であった。
投稿者 TKM : 2004年06月27日 04:09
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