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2004年06月30日

[エッセイ] ブログvsブログという事件について

ネット上の事件というほどの出来事ではないのだがとある企業経営者のブログサイトをある通信社の記者が痛烈に批判した。

その批判は批判の対象となっている企業経営者が運営するブログサービスで行われた。
大人げないやりかただと思った。
批判するならするでいいが自分のサーバでやるのが礼儀である。
相手のサービスを利用しておいて相手を批判するというのは道理としておかしくないだろうか。

とはいえこうした舞台設定自体は事件の発端となった批判と直接は関係ない。
僕も当事者である企業経営者のサイトはよく見ていた。
記者が指摘しているようにたいした内容ではないのだが友達のサイトをみているような感覚でとりとめもないテキストを読むのはそれはそれで面白さがある。

以前、Daily Yomiuriに糸井重里さんのインタビューがのっていた。

自分がイトイコムをはじめたのは「考える」ではもうおそいと思ったからで、思った時にそれを書いて発信するということがやってみたかった。でも、それを既存のメディアで実現するのは難しかった。そこにインターネットが現れたおかげで他のメディアでは売り物にならなかった未完成のテキストを発信することができるようなった。

だからイトイコムのテキストはレストランでいえば「まかないメシ」のようなものだ。書きたくても制約があって書けなかった人に「うちで書けば」といって声をかけるとみんなそれぞれの「まかないメシ」を食べさせてくれる。そんな感覚なのだそうである。

確かにイトイコムのテキストは既存のメディアでは発信することができなかった種類のテキストだと思う。完成度が高いわけでもないし、とりたててセンセーショナルな内容でもない。それでもなんとなく面白いテキストもある。例えば僕は天海祐希のファンだったので彼女がイトイコムで連載していた「おいら」という日記を楽しみに読んでいた。内容は彼女が何をたべただとか、夜ぐっすり眠っただとか他愛のない日々の出来事の羅列である。だから彼女が何者かを知らない人が読んでも全く面白くも何ともないだろう。

ところがファンであった自分にとってはそのテキストが結構、面白いのである。そうか、あの人、こんな何だ、などとひとり感心したりもする。「ボディーローションを塗って布団に入るとふわりとした香りに包まれて幸せな気持ちになる」などと書いてあると「なるほど」と自分もボディーローションを買ってみたりもした。(結局は一度くらいしか使わずにあげてしまったのだけれど)

話を記者ブログvs経営者ブログに戻そう。

記者の批判はそれが私的なテキストとして発信されたものであるならば問題はなかったと思う。個人が何をどう感じるか、それを発信するかどうかは個人の自由である。問題は通信社の名前を使って批判がなされたこと、にあるように思う。(このことで批判の意味あいが変容してしまったように感じるのだ)

経営者のブログに関してはそれがある程度のPR効果を狙ったものであったとしても、更に内容が希薄であるとしても、それもまた自由であろう。読みたい人は読むし読まない人は読まない。

読むといっても主義主張を受け止めるという大げさなものではなく、友人の日常をみている感覚である。彼の生活をうらやましいとも思わないし、あこがれもしない。友人が本人と知り合いだったり、TVで見て知っていたりする人の生の声がそこにあるのがなんとなく面白いのだ。

だから当事者同士がお互いのブログを取り上げてもこれが騒ぎに発展するとは思っていなかったし、こういうのもありかなくらいに思っていた。

また双方が正面からの反論を展開し論争に発展していたならば、案外いい流れで議論が収束したのかもしれない。ところがブログでの情報発信はマスメディアでの情報発信とは別なテクニックがある。
さすがにブログサービスを運営しているだけあって社長日記はそのテクニックに長けていた。批判を受け流し判断を匿名性の渦にゆだねるという手法は実際にその渦中で波にもまれるという経験をしたものにしか使いこなせない技なのだろう。(本人はこの手法をバッシングマーケティングと呼んでいるとの記述をみた)

そんな折り、朝まで生テレビでのこんな出来事をネットでみつけた。司会である田原が口にした「聖徳太子って知ってますか?」という質問でカーっとキレてしまったのであろう相手は唐突に「デラゥォェア!!!」と放送中に絶叫してしまったのである。後はもうどうにも取り繕うことができないほどに乱れてしまっていた。こうなってしまうと見ている僕たちは議論の内容云々よりも取り乱した映像の方、感情的な爆発のインパクトの方によりつよく引き込まれてしまい議論の発端が何だったのかを忘れてしまう。

今回の問題もこれと似ているように感じた。
記者のブログが社長日記を論理的にではなく感情的に糾弾してしまったところに問題の火種があったように思う。

正論や真実がどうあれ熱くなってしまった方が不利になる場合もある。

批判された側が体をかわし、判定を場外にゆだねたことで議論の連鎖は途切れ、結果的に当事者外による論点の定まらない「ぶちまけ批判」を呼び込むこととなった。

現時点で記者のブログには相当数の「批判に対する批判」や「批判に対するコメント」が寄せられており、そのほとんどは論争を試みる投稿ではなく匿名による記事への悪態である。

こうなると収拾が着かず、全く別のテーマで投稿された記事に対しても悪態が続いてしまっている。

僕は両者の記事を読んでいたわけだがどちらも面白いと思ったが感情的な爆発というようなものはなかったし今もない。人よりも目立つ存在であれば否が応でも反論や中傷は避けられない。

ただ、バッシングマーケティング以後に発生した匿名コメントの嵐は恐いと思った。
こうした「ぶちまけ批判」の対象となってしまうことは発信者にとって恐怖である。自分がもしこれだけの批判にさらされたらと考えると情報の発信に際して恐れが生じたのは事実だ。

間接的にではあるが情報発信の自由が抑制されている、と感じた。

そして次の一文を思い出した。
デビッド・ハルバースタムの著書「ベスト&ブライテスト」の冒頭、エスタブリッシュメントについて記された箇所がある。下記はロバート・ロベットについて書かれた一文である。

実際に力を持っている人間、権力に接近しうる人間は、なるべく目立たないようにするものだということを知っているのだ。一度も新聞記者会見を開かず、いかなる選挙にも出馬したことはないが、二〇世紀の感覚をしっかりと掴んでいる男なのだ。典型的な陰の実力者とは彼のことを言うのである。

著者のデビッド・ハルバースタムは従軍記者時代、ベトナムでの戦況を悲観的にレポートしている、これは愛国心に欠ける行為であると新聞・雑誌、アメリカ政府首脳部、合衆国大統領からさえも非難された経験を持つ。

※「ベスト&ブライテスト」のソフトカバー版の冒頭にはまえがきにかえて「娘への手紙」という一編が収録されている。10ページほどの長くはないテキストだがメディアに関わるものならば必ず読むべき一文である。ベトナム戦争についての記事を書き続け、合衆国からさえも疎まれ、記者であることの重みを感じていたがそれでも彼は己の信じることを良心にしたがって書き続けた。誹謗中傷もあった。その中で一つだけ忘れられない中傷があったという。累々と横たわるベトコン兵士の死体の写真をみせられたハルバースタム記者が女々しくも嗚咽した、ベトコンの為に涙を流したのだというでっちあげの批判であった。彼自身は50回も戦場へでており死体も危険も十分に体験していた。
彼は中傷のでもととなった兵士につめより、反論をあびせた。

しかし、と彼は振り返る。本来は事実であるべきではなかったのか、と。ベトコンであろうと米兵であろうとその死骸を目のあたりにして、涙を流すのが自然だったのではないかと。

ジュリア、お前の名付け親のラングスのいった通りだ。あの頃、もし本当に誰かがベトコン兵士の死体の写真を見せてくれたとしたら、その場で嗚咽できる人間でありたかった、といまにして私は思っている

+ + +

今回のブログvsブログの論争を新旧メディアの対立、という人もいる。
しかし、TVの場合でもセンセーショナルな内容の番組の後は抗議の電話や投稿が山のようにおしよせる。それは雑誌、新聞でも同じだ。

僕が疑問に思うのは投稿したり抗議の電話はいったい「誰」なのかということである。ネットの場合でも構造は変わっていないように思う。掲示板やブログへのコメントの大多数は「匿名」である。

この構造が感情の発露の基になっており、気持ちの悪さ、後味の悪さを生じさせている。

匿名性によって自己がガードされるから感情的な言葉が引き出される。
むしろ名前を隠した時に出る言葉の方がより本音に近いのかもしれない。
だとしたらとそこで僕は考える。
記名で本音を言えないのは何故なのだろう。
匿名でなければ本音がいえないのならその構造にも問題があるのではないだろうか。
では、どこに向かえばいいのか?
まだ考えはまとまらない。

投稿者 TKM : 2004年06月30日 02:56

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コメント

いやぁ、興味ある内容だねぇ。

ものづくりをする立場としては、ユーザーの
コメントを受けるとき、これと同じような
ことがおこる。

匿名での批判。きいてたらキリがない。

ま、記名で批判されても、こちらから
そちらの人格とかわからないし、
わかってもどうなるってわけでもないし。

でも、明らかに匿名での批判の方が
乱暴であるように思える。

なんか、不愉快になるような 状況は
少しでもなくなってほしいよなぁ…!

投稿者 GC_Factory : 2004年06月30日 10:42

この状況は、アメリカでマイケル・ムーアの「華氏911」に対する議論と同じような様相ですね。
たまに読んでる町山日記
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/
に似たような状況が述べられてますね。
(まぁ、町山さんは完全にムーア寄りの立場で書いているんですが)

結局、匿名での批判って、人の本心が出るという面もあるけど、逆に無責任な批判であったり単なる揚げ足取りになる場合もかなり多いので、難しいところやね。

投稿者 やましん。 : 2004年06月30日 12:49

始めまして。癒し系父親を目指すつだと申します。私のblogにコメントありました。ありがとうございます。お話はヤマケンからちょくちょく聞いております。お酒好きなんですね。発見致しました。

さてさて、どの記事にコメントをと考えながら色々と読ませていただいたのですが、あっちに飛び、こっちに飛び、うーんこのblogのトラバに飛びとなって、なかなか時間がかかりました(^^ 面白い記事ですね。そしてかがやさんは本当にたくさんの情報を色々なところから吸収されているんですね。この堀江社長と共同通信のblogも両方読ませていただきましたが、2つを読んだだけでは、このかがやさんの記事は書けませんね。うーん。
でも、匿名による言葉の暴力って、最近どんどん大きくなっている様に思えます。楽です物ね、自分は痛まないから。ネットワークの充実で、第3者が見れるようになってから尚更ですよね。そして色々な所に遺恨を残していますよね。それらによる不幸な事件は今後更に増えるのでしょうね。

投稿者 つだ : 2004年06月30日 13:47

>でも、明らかに匿名での批判の方が
>乱暴であるように思える。

>なんか、不愉快になるような 状況は
>少しでもなくなってほしいよなぁ…!

批判というよりも鬱憤晴らしな感じがするんだよね。匿名で行われる投稿というのは。だからこそその人の本質があらわれるのかも。心ない投稿とかみるとこの人もう疲れちゃってんだろうな、幸せじゃないんだろうなあ、と思う。

つださん、コメントありがとう。

>匿名による言葉の暴力って、最近どんどん大きくなっている様に思えます。楽です物ね、自分は痛まないから。

ここなんですよね僕も気になるのは。ぶちまけてすっきりさせて終わり、という方法というか心根は自分はなりたくないと思います。僕は悋気マネジメントと呼んでるのですがクリエイティブに走らずに悋気に走ってしまう土壌というのがあって、そこから手をつけていかないとだめなのだろうと思います。

投稿者 かがや : 2004年07月01日 07:54

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