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2004年08月10日

「悪い男」キム・ギドク

悪い男

仕事が一段落した後、有楽町シネカノンに向かう。
どうにか時間に間に合う。
しかし驚くべきことに「誰も知らない」が満席とのこと。
この映画で有楽町シネカノンが満席になるとはにわかには信じがたいものがあった。
これもメディアの力なのだろうか。
どのような客層が劇場に足を運んでいるのかが気になった。

部屋に戻り、仕上げを終えてから「悪い男」を鑑賞。
なんとなく気になったので念のためと思ってみはじめる。
のっけから俳優の存在感に圧倒される。
ムンとした雰囲気が画面から漂う。

あのタイプの映画、といってはいけないのだろうけれどどうしてもATGの雰囲気を思い出す。「痛い」映画である。

いくつかの映画のシーンがよぎる。
マジックミラーになっている鏡をたたき割るシーンは「恋人たちのアパルトマン」を思い出した。あとなんだったかな、いくつか思ったのだが。そうだ、あれだ、渡哲也の「仁義の墓場」だ。ストーリーは異なるが冒頭と前半の暴力性と絶望はあの映画の救いのなさと似ていた。全般的に様々な映画が混じっているような印象を受けた。どこかでみたシーンだな、と幾度か思った。

が、そんなことはどうでもいいのだ。
むしろ主演の二人の強烈な存在感でまとめあげていく乱暴さに逆にひきつけらえた。その1時間前にみた「幸福の鐘」(SABU)は悪いとは思ったが途中から倍速でみた。映画から「生命の躍動」が感じられなかったからだ。一方、「悪い男」はDVDとはいえエンディングまで画面をみつめさせる映画力をもっていた。

綺麗な映画がいい映画ではない。
面白い映画もいい映画ではない。
いい映画とは「生命の躍動」でなければならない。

映像がパワフルである必要はない。

そこにあればいいのである。
流れていく時間と映像の中でしか存在しえない躍動の痕跡が。
欠片でもいい、気配でもいい。
思考にたどりつくまえのまだ言葉になる前の世界の一部が純粋な形で含まれていればいい。それが自分がコンテンツに求める唯一の条件である。

++++++

映画をみていてメモしておきたくなったことについて書いておく。
自分は「けがれ」が苦手だ。つくりものの映像とはいえ人がけがされるのをみることは耐え難い苦痛である。

映画の中で主人公の女性は逃げ場なくけがされていく。救いのない人々の狭間で落ちていく。現実には「ありえんだろそれ」と思うが先日放送された「世界が100人の村だったら2」では先祖代々生まれながらにして「奴隷」の少女の姿があった。あんなものがなぜ現存しなければならないのか、とやるせなさと納得のいかなさに感情的になり、「なんなんだそれは」と強いいらだちを感じた。

同種の感情はスパーフリー事件やコンクリート殺人事件など細部を知れば知るほど強まる。弱者に対する絶望的な暴力や破壊が許せないのだ。そこには何の根拠もない。

テストステロンの暴走ですまされる問題でもない。
夜がまた来る」、「悪い男」など全部に共通している、自分はあの手の卑劣・愚劣は許せない。勿論、それらが人間の精神の深部とリンクしているとも思う。人間をテーマにしながらも「もののけ姫」が売れたのはどろどろした得体の知れ無さと暴力による、とする意見もあながち嘘ではないと思う。

が、それはわかっているけれど、「所詮そんなの綺麗事だ」と自己の立場をひきの位置に定位し守りによって安泰を享受するのは違うと思う。

全ての物事を正誤に二分化できるわけではない。
しかしそれは時間という軸をくわえた次元全体のマクロでの話であって、自分という個人、人間の中での正誤ははっきりしていてかまわない。自分はそういう立場をとる。

綺麗事であろうとなかろうと人の持つ醜なる部分に対して自分は嫌悪を感じる。自分もそうなっている場合も多々ある。それでも絶えず「肩の鳥」は忘れたくない。

※肩の鳥は"モリー先生との火曜日(原題:Tuesday's with Morrie)にでてくる仏教の話で自分の肩に鳥がいると思ってその鳥に「自分はこれでいいのか」「やれているのか」と話かける、そこに鳥がいるなら大事なことを後回しにすることはない、という話。

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■悪い男公式サイト
http://www.kimki-duk.jp/badguy/mainFrame.html

投稿者 TKM : 2004年08月10日 03:52

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コメント

生まれながらに奴隷の少女の番組、私とMARUも見てました。

驚いたのは私だけでなくMARUもだった。
彼女は「MARUが何を手伝ってあげられるかな」と一生懸命考えていた。

投稿者 志乃 : 2004年08月10日 10:20

そういえば、あの子の表情ってあまり曇っていなかったよね。街の豪邸の手伝いにいったときはつらそうだったけれど。

先日、タケとも話したんだけれど「良質なコミュニケーション」によって人は幸せを感じるのだと思う。

生き方や今がピタっと自分のリズム、波長と合致すると、理解し、され、かつ引き出され成長、ドライブする感覚というのが生じるのではないかな。

そういうのって幸せの理想のひとつのかたちだと思う。

投稿者 かがや : 2004年08月10日 20:47

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