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2004年08月17日

当世コンテンツ事情 2.コンテンツと味覚の類似性

何がどういうわけではないのだが世に溢れるコンテンツ群に対する違和感が日に日に強まっている。

「時代を開く」とか「新しい枠組みをつくる」という言葉はどことなく空虚だ。その言葉を確かめるべく「どれどれどんなことが時代を開くのだ」とみてみると「着メロ」であったり「ゲーム」であったりする。

狐につままれたような感覚に陥る。

「それが受け入れられていて儲かっているのだからそれでいいじゃないか。」

という意見もある。けれどコンテンツ全般の質感はもの凄い勢いですり減っている。数年後にはそんなものがあったことすら記憶から消え失せているだろう。それも流れなのだろうけれど。

コンテンツとは消費されるものである、という認識の方が一般的だ。しかし消費を目的につくられたコンテンツは人を掘り起こすことがない。記憶に粘らない。

自分はコンテンツを体験し、それが何なのかを脱構築するということをずっと繰り返してきた。その経験からわかったことは優れたコンテンツはユーザ、視聴者、読者の「参加」を強いる。記憶に粘らないコンテンツに価値はない。それらは消費され消えていくのみでユーザの感覚を掘り起こすことがない。

商業的に成功しているか否かはコンテンツの成功をはかるひとつの指標である。

良いコンテンツだけれど商業的にはそれほど成功しなかった、という言葉を時々耳にする。これをもってコンテンツの出来不出来を論じることは間違いである。商業的に成功しなかったのは単にマネジメントのミスである。マーケットサイズの読み違えが商業的不成功の理由の大半である。

メガヒットは宿命的に「薄」を伴う。これはコンテンツの宿命でもある。濃さはニッチに向かわざるえない。日本で一番美味い寿司屋よりもファミレスの方が商業的には成功しているだろう。美味い店と売れている店は一致しない。美味さを感じるには豊富な味の経験が必須である。コンテンツもこれと似ている。

子供の頃から様々な味のコンテンツを味わうことなしに本当のコンテンツの味を感じることはできない。味覚とコンテンツの価値を判断する感覚は近い。やまけんにきいたのだが脂と甘さに対する味覚に関しては経験がいらないそうである。だから子供は脂か甘さが好きなのだといっていた。例えば鮎の肝を食べて「ウマイ」を感じるにはそれ以前に様々な味を経験することで味覚を育てていく必要があるのだそうだ。

この点はコンテンツも似ている。経験がなくともアクションの生み出す爽快感、場のすべりが生み出す笑いのようなものはある程度は理解できる。けれども「ミレニアムマンボ」のような平坦な場面描写や時間の流れの総体として観ている間ではなく見終わった時に完成するタイプの映画などの場合はそれが指し示す言語化の不可能な「感覚」「質感(クオリア)」の経験がないとその良さを感じることはできない。

経験の必要とされない刺激としての映像情報作品がヒット作の大半を占める。しかし劇場というフィルターがかかっている映画の場合、マーケットサイズを読み違えなければサステイナブルな形で良質のコンテンツが生き残る可能性は高い。
近年の日本映画の盛り返しなどをみているとそう思う。

ネットやケータイの場合は末期状態といってもいい。ある程度のリーチをもっているサイトは例外なく「スカ」である。初期においてはネットとはニッチを狙ったコンテンツが存在できる可能性がある最後のメディアである、というような言い方がなされたがそれは幻想である。

ネットという場では相手に思考を強いるコンテンツは商業的に成功しない。大きなリーチを得ることもない。これはメディアの特性である。

ネットという媒体に対峙するとき人は集中力を維持できない。同時に多数のことが並行で行われる為、意識がバラつくのだ。だからネットのコンテンツはTV以上に「薄」に向かわざるえない。少なくとも現状では。

僕もそうだしクリエイター達もそういっているがIPリーチャブルな環境(オンライン)だと自分の内部を掘り下げていく作業はやりづらい。創作においてはどうしても外部と自分を切断する必要がある。話ながら書くことはできない。編集しながら書くこともできない。

しかしオンライン状態では完全な没入は難しい。つながっていることによって外にひっぱられる。それが全て悪いことだとは思わない。しかしある場面、例えば完全に自分が独りで思考あるいはイメージしなければならない場面においてはマイナスである。

おそらくバランスなのだとは思うがまだネットは人の創造性をドライブさせる有効な方法として機能していない。便利さと創造性のドライブは別ものである。コミュニケーションはきっかけをつくることはできるが創造自体は自分がやらなければならない。

と自分はいまいっているけれど全てはバランスの問題である。
どう使うことによって加速するのか。
使い方の問題なのだ。
それがまだわかっていない。だからコンテンツ、特にネットで商業的に成功するコンテンツをつくるならば「薄」の方向に向かわざる得ない。短期的にはこの傾向は顕著である。
が、僕が観ているのはその先なのだ。
その先にあるものは何なのか。
それが知りたいのだ。
それは人をどうするのか。
自分の感情体験をより豊かにするにはどうしたらいいのか。
自分が探すものはそこなのだ。

ケータイのコンテンツもいい。
ネットのコンテンツにも面白いものはたくさんある。
が、それで泣くことはあるのだろうか。
心に響く体験をすることはあるのだろうか。

おそらく現在それを提供でいているのはメールくらいだと思う。
メールとはあなた個人にむけてつくられたコンテンツだ。
それは他者にとってはノイズかもしれない。
でもそれを読んだあなたの心は揺れたかもしれない。
そうした体験は誰しもあるだろう。
メールだろうと心に響くことはある。

ここに本質的な問題があると思うのだ。
日々、様々な情報がネットからTVから押し寄せてくる。しかし自分に宛てられたメールや友人や恋人との時間、人と会い、場に出向き体験する、など自分との関係性や体験以上に価値を持つ情報があっただろうか?
現在のコンテンツには大きな何かがスッポリと抜けている。

ネットに限らず「今」のコンテンツの多くはは自家中毒に似た症状を引き起こす、ように僕は感じている。どこかで読んだのだが無人島に一本だけ映画をもっていっていい。でも生涯その映画しかみられない。だとしたら何をもっていきますか?という質問にその人はこう答えていた。

「映画は一本だけでもかまわない。ただし一つだけ条件がある。映画を観るときだけは他の観客と一緒にみせてくれ。」

最初、その意味がわからなかった。独りでみようとまわりに観客がいようと映画の価値は変わらないじゃないか、そう思っていたのだがいまは少しわかる。

僕はコンテンツを考える上でその部分をもう一度掘り起こしてみたいと考えている。

投稿者 TKM : 2004年08月17日 18:14

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コメント

今、「マチともの語り」の次の一歩を考えていて、いい線いっているのだが、何かが足りないのか、何を目指すのか、そのパースペクティブへヒントをもらったのかも知れない。
非常感謝!

投稿者 MAO : 2004年08月20日 09:32

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