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2004年09月19日

良い飲みの条件とテキストの後ろのテキスト

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僕は友人達と語らい過ごす時間が好きだ。
何を話すわけでもないのだが一緒にいると穏やかな気持ちになる。
いや話はしているのだが『語りあう』のとは少し違うように思う。
具体的に何かの問題を取り上げ議論するというような話し方はしない。

何となく伝わってくるし、あうんというのだろうかフィーリングでわかるのだ。
『場』の力というか言葉のトーンや発せられた言葉の意味とは異なるところから伝わってくる。

この感覚を誰とでも持てるわけではない。
僕は『心が開く』あるいは『心が解ける』という言葉を使うのだが自分の心の塗り壁や結び目がほどけ、どわどわと外界が流れ込んでくる一瞬がある。

ああ、別にいいんだ。地でいってオーケーなんだということが言葉ではなく感覚でワーっときたりフワリときたり、じわりと伝わってくるのだ。

『よい飲み』とはそういう状態を指すのだと思っている。
単にお酒を飲んで話しました、楽しかったです。
というのが楽しい時期もある。
けれどそれだと安定して『よい飲み』を実践することは難しい。
安定して『よい飲み』をつくりだすには飲みが自分ひとりではなくメンツとの相互依存によってなりたっていることを知らなければならない。

感情をぶちまけて喧嘩して笑いあってという飲み方はエキサイティングで醍醐味あふれる飲みのようにも見える。しかし大半は酔ってとりとめのないことをくどくどと言っているだけに過ぎない。

「よい飲み」の基本は開きながら相手を想うことだ。
素直になるというと自分の思ったことをダイレクトに伝えればいいだけだと思いがちだがそれは一方的な感情の発信でしかない。

恋愛だって「お前が好きだ好きだ好きだ」と押し寄せてこられたら誰だって退くだろう。感情をぶつけることが「想い」だと考えがちだがそれは相手への想いではなく自分の想いに過ぎない。

自分の想いだけを押し通そうとする人が多いから様々なシーンでディスコミュニケーションが生じるのだ。

人は自分が傷つきたくないから「閉じる」。
世界の中心を自分に固定し、強固な城壁を築き自然と対峙する。
思想といってしまえばそれまでだがツライ生き方だと思う。

地球に暮らしていると太陽が地球の周りを回っているようにみえる。
けれど実際には地球が太陽の周りをまわっている。
人と人の関係もそういうものだと思うのだ。

自分という中心があって、他の人は自分を中心にぐるぐると動いているように見えるけれどそんなことはない。彼らの物語の中では自分が周りを回っている。そういうことを同時に感じること自分と相手の視点を同時に体感するようなそういう感覚。

それを僕は「解ける」と呼んでいてそれは言葉の意味の外にあるフィーリングだ。
コミュニケーションの本質とはこちらにあるのではないだろうか。

何時間もかけて語り合い、心を分かちあったような感覚になることもある。
けれどそこで「満足」や「通じた」や「伝わった」「わかりあえた」といってるものの正体は言葉の意味を交換することで得られた理解ではなく言葉の外にあるフィーリングやトーンが場に浮かび上がることなのではないかと思う。

それは共感や共鳴とも違う感覚である。
通じる、伝わる、わかりあう、とも異なる「言葉の外」がそこにはある。

物語を読んでいるとテキストの後ろにもう一つのテキストが浮かび上がってくる時がある。この感覚ととてもよく似ているのだがそれをなんと説明すればいいのだろうか。
似ているものを探してこんな感じ、ということしかできない。

++++++

どんな面白い本でも映画でも1度目に読んだり観たりする時と二度目の時では面白さが違う。何度読んでも、何度観ても面白いコンテンツというものはありえるのだろうか、と学生時代に思索していた。

空の表情は絶えず変化する。
雲は流れていく。

沖縄の海でみた雲は壮大で水平線の向こうにある巨大な山脈をみているようだった。
自然と向かいあっているんだ、と思った。
あの時僕が感じていた自然とは何者なのだろう。
雲だろうか。
海だろうか。
自分を囲む環境全体なのだろうか。

あそこで僕がみていたものは自分なのではないかと思う。
水平線の彼方にみえる広大さの本質はそこにある雲や空ではない。
それは外的であり同時に内的なものだ。
言葉としての「円運動」ではなく運動そのもの。
あそこに雲や空や海があってそれを観ている自分がここにいて。
感覚がワーっと押し寄せクラリとするのだがそれは不快なものではない。

あの感覚は言葉の意味的用法では表現できない。
意味の裏を使って対象とは別なもので表現する他に方法はない。

村上春樹の小説などはこの手法を用いているように思う。
気配や情報感覚をテキストとして定位するにはそれ以外に方法はないのではないだろうか。さらに適当なことを言わせてもらうと晩年のソシュールがアナグラムの研究に没頭したのもテキストの後ろのテキストの存在と関連していると思う。

投稿者 TKM : 2004年09月19日 09:43

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