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2004年09月23日

夜の散歩と宮古島の空

友人の送別会で渋谷へ。
会をはやめに抜けて渋谷を散策する。
昨夜の渋谷の街は少し静かでゆきかう人々には怒気がなく穏やかにみえた。
電車で帰るつもりだったのだが合流したいとの連絡があったのである店で待つがなんだかバラバラに。結局、渋谷の街にとりのこされる。
どうということはない。歩いて帰ればいいだけだ。

久しぶりに渋谷から月島まで歩いて帰る。
二時間弱あれば着く。
夜の散歩である。

帰り道は思索の時間である。
お酒もさほど飲んでいないので素面である。

考えることといっても大したことではない。
何故、自分は歩いているのだろうとか。
人との関係についてとか、仕事についてとか。

つらつらと考えているうちに皇居までたどり着く。
皇居がみえるといつも安心する。

皇居から月島までは40分~50分ほど。
道がわかっていると気分も明るい。
楽しいわけではないけれど暗くなる必要もないし感傷的になる必要もない。
たんたんと歩く。

「底」の状態でこそ人の本質が現れる。
最近はどうということはない。
底にいるときこそ心のゆとりと温かさを持たなければならない。

親切にされたり大切にされたから優しくしたり温かく接するというのは出来てあたり前のことである。そんなあたりまえのことができたところで面白くもなんともない。自分が底にいるとき、荒れて当然という時に温かさや優しさ、ゆとりを持つのは難しい。が、難しいことをやるからやりがいがあるし何かが得られるのだろう。

そんなことを考えながら歩いた。
そして部屋に帰ってきてシャワーを浴びて慄然とした。
考えに至ったのはいいが自分は2時間あまりの思索の時間、全くそんなことばかり考えるだけで何一つ夢や遊びについて考えていなかった。

世の人々が心で動かなくなってしまったのは信号のせいだが自分もそれに従う必要はまったくない。

仕事もひっくるめて基本的に生きてること自体が大きな俄である。
信号の為じゃない。
これもあれも俄なのである。

日比谷にさしかかるあたりでふと子供について考えた。
信号理論にやられた大人といる子供はかわいそうだ。
彼らは相手の気に入るように生きねばならない。
子供は親の為に生きてるわけではあるまい。

そうだ、二日前のお昼過ぎに月島小学校の角で幼稚園児をつれた奥さんたち3人くらいが自転車を降りて談笑していてその中の一人がこれまであったことがないくらいにカッコよく温かいお母さんであった。ああいう人を素敵な人というのだろう。
自信があふれているというか横顔にオーラが輝いていた。

子供への信号のおしつけはなく、この人だったら無人島でもこの笑顔でやれるんだろうなと思った。女性をみてそのくらい感心したのは久しぶりであった。
町中にも素晴らしい人がいるものだ。

++++++

昨日、沖縄の友人からメールが届いた。
メールには宮古島の写真が貼付されていた。
携帯で撮影された写真だったが白い砂浜と淡いく透明なブルーがきれいでしばしみとれた。図書館の新刊書コーナーで「ガジュマルの樹の下で」という本をみつけた。読んでいたら沖縄の人たちの言葉を思い出して懐かしく思った。

メールによれば彼女達は明日から宮古島にいくそうだ。
天気がいいとよいね。
写真楽しみにしてます。

投稿者 TKM : 2004年09月23日 04:42

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