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2004年10月12日

メディアから消えていった人々 ~つらつらと思うこと~

昨夜、やましん&タドと話しをしているとメディアでワーっと取り上げられる人ってネットの前と後で随分かわったよな、という話になった。
僕やタドはいわゆるデジタル系の仕事とされる仕事に従事してきたのだが大学を卒業したころは丁度ネットが段々と認知されはじめた頃でメディアに露出していたのは高城剛とか飯野賢治あたりだったと思う。そのちょっと前だとCD-ROMのタイトルで「ガジェット」(庄野晴彦)なんかだろうか。

それがヤフーやアマゾンが日本でも話題になりはじめ、トクトクとかまぐまぐとかそれまでなかった新しいサービスがはじまったころから、メディアで「デジタル」を語っていた人々が画面や紙面から消えていったように思う。パッケージ系の人々の終焉である。

この変化は構造の変化を反映していたのだろう。
その頃からゲーム産業も下降線をたどりはじめた。
僕自身、ゲームをやらなくなった。

それにあわせて常時接続環境が一般化し、その1~2年後にはブロードバンドが日常化した。この変化スピードは凄まじかった。使っているぶんには気づかないのだけれど浸透の仕方があまりにもスムーズだった。これほど違和感なく常時接続+ブロードバンドが一般化するとは思ってもいなかった。

その頃はブロードバンドになるとコンテンツのほとんどが「動画」に切り替わると思われていた。ところが予想に反して台頭してきたのはブログに代表されるようなテキストコンテンツであった。これについては日米で見識の違いがあり、結果は米国の識者が述べていた通りになったわけだ。

動画がキラーコンテンツとして機能しないのは映像をパッケージで捉えることしかできないからで既存の映像製作の考え方がパッケージの概念から抜けきっていないからである。(何故アダルトコンテンツは動画コンテンツとして機能しているのか。コンテンツを考える上でこれは考察すべき問題であろう。)

2年前まではずっと自前のフォームプログラムをつかって毎日テキストを書いては発信していた。
日記とはよばず「ジャーナル」といっていた。自分がやりたかったのは考察であって日々の記録ではなかった。出来事に対して何を感じたか何を考えたかを記録するというやり方ではなく、その場をつかって思考するというのが自分の方法だった。

時には愚痴じゃあないけれど批判めいたことを書いたり、バカヤロウと怒鳴ったりもした。それは決して褒められたものではない。当時はそうした思考や想いをテキストにして発信することが面白かった。

気持ちとしては個人で朝日コムのようなフォーマットのサイトを運営できたらいいのにと思っていた。けれど独力ではなかなか難しい。プログラムをつくるという考えもあったがそこまでプログラムに習熟していなかった。また仕事も多彩で多忙であった。

海の向こうでブログが誕生したのはそのころだったと思う。日本でもいくつかの似たようなプログラムはあったけれどあそこまで洗練されたものはなかった。正直、はじめてMovableTypeを使った時はこれほどのソフトが無償で提供されていることに驚愕した。日本でもCMSが導入され始めていたが驚くほど高額だったし導入のためのハードルも高かった。

サイボウズなんかがいろいろイントラネット用のソフトを開発していたがオープンじゃなかったし、ブログとは思想が全く違うものだった。ファイルメーカーもウェブ対応になって個人でもCMS的にウェブサイトを運営できかもしれないなと思ったがそれでももともとが企業向けの利用を前提としていたのでMT等とは全くことなる使用感であった。ようはコンテンツ指向ではなかったのだ。

ここ1年のブログの盛り上がりの波を初期から体感しているわけだけれどはじめてMTをサーバにインストールして使ったときのインパクトを超えるものはない。MTは自動日記フォーム作成プログラムみたいなものなんだけれど印象は全然違った。おそらく構造の差異に対する感覚が違ったのであろう。

当初はトラックバックという仕組みは思想的にとても面白いように思えてあうひとあうひと説明してまわった。(トラックバックは当初思ったほどに機能していないけれど)

いまのブログ業界の隆盛を考えると石井先生に頼まれて東京海上の研究所にやまけんと二人で出向いたのがわずか1年前とは驚きだ。あの時にはまさかこうなるとは思っていなかった。

そのやまけんのブログもいつのまにか有力コンテンツのひとつとしてポジションを築きあげつつある。あと1年もすれば料理番組や雑誌よりも浸透力・説得力のある媒体としてメディアパワーを発揮するであろう。僕が企業のオーナーだったらいまのうちにやまけんサイトをスポンサードするだろう。媒体価値の上昇はやまけんが健在である限り続くだろうから。

1年前に僕、やまけん、しんのすけの3人がMTをインストールしてサイトをブログ化した。そこでまず3人がつながった。ほどなくはじまったフリーのブログサービスを利用して友人達もブログサービスを利用した日記をつけはじめた。たったこれだけの共通項なのだけれど現実世界でもこの仲間のつき合いが密接になっていった。この関係性のできかたはこれまでの日記サービスとブログサービスの大きな違いである。

ブログの持つフォーマットとアーカイブ力。
それらの相乗効果によって作り出される関係性。
それがブログをブレイクさせた要因だと僕はみている。

メディアに露出する人の変移についてメモしようとしたら、ブログの話になってしまった。

いまデジタル業界でメディアに最も露出しているのはライブドアの堀江社長だろう。その堀江社長もやまけんとブログを介してつながっており、二人は友人でもある。こうした関係の広がりは不思議だ。

やまけんに誘われて藤幡先生の個展にいったときに先生と話していたらあちこちに共通の知り合いがいてなんなんだろなという話なった。先生いわく「先端にいくと狭いんだよ」ということだが。それもおかしな話だなと思った。

そういうのを取り上げてメディアは「二極化」と単純化し感情にうったえようとする。

確かに「業界」で動き始めるとみんなどこかでつながっていたりして「狭い世界だな」と思うときもある。この場合の業界というのはTVやメディアということではなくいろいろな業界のことでどの業界であっても奥へ奥へと踏み込んでいくと2~3人を介したあたりでいきなりメディアで見知った人と関係してくる。

なんでなんだろうと考えるのだが答えはない。

やまけんの言葉をかりれば「面白いことをやっていると段々とつながっていくんだ」ということになるのだろう。まあそれもある、とも思う。この10年でほんとにいろんな人と交友した。よくTVでみかける人もいたし、途方もない大金持ちの人もいた。死んでしまった人もいるし、どこでなにをやっているのかもう知らない人もいる。

いまメディアにガンガンにでまくっている人々も数年後には別な人におきかわってしまうのだろう。ハリー・ポッターは1000万部以上売れたけれど3年後に「賢者の石」(第一巻)を読む人はどれくらいいるのだろう。あれもガーっと売れたけれどあとは何も残っていない。

最近、文学作品をいくつか読んだ。最も印象的だったのは「海辺のカフカ」。評論家は描写がどうのこうのとか構造がどうこうとかもっともらしいことをいう。僕はそんなものはクソくらえだと思ってきたし、いまもそう思っている。

あの小説の本質は「情報感覚」と「気配」だ。(僕にとっては)
時代がどうこうとか暗喩がどうこうというのはどうでもいいことでその奥を感じることが重要だろうと僕は思う。言葉が指し示す内容、あるいは物語性を論じても本質にはたどりつけない。これは脳細胞のつながりをどこまで綿密に調べていったところで意識へはたどりつけないのと似ている。

評論家という人種は自分もふくめてそうなのだけれどようは他者の作品をつかって自己表現をしたいだけなのである。ある作家が何かを書いた。そこで自分はこう感じた、その感じた何かが自分なのだ。

と言ってしまえばいいのだけれどあまりそうは言いたがらない。
つらつらと書いてるがこういうことならばいくらでも書けそうだ。

ネットやデジタル、コンテンツと人と社会とか経済とかそういうものについては自分が当事者なので書いていても面白い。

というわけだから僕のは「AはBなのだ」と論じるというやり方ではない。
ほとんどは感想みたいなものだ。
けれどコンテンツとしては感想の方が面白いことが多い。

評論家の文章は説明的で疲れる。ところが作家が別な作家について書く文章や言葉というものはきわめてユニークで面白い。論じるというよりも好き嫌いを好き勝手にいってるだけ、感想をいってるだけなのだけれど論じられたモノよりずっとわかりやすい。きっと本質とはいろんな意味でシンプルなのだろう。

++++++

人と人が知り合い関係性ができていく。

この関係性の後ろには「先端」とか「面白い」とは異なる何かがある。
それは「気配」ではあるけれど「これ」といった形ではない。

メディアに出る人がうつりかわっていくのと流れていくものものや僕たちの思考。
でも、それらに注目しても形はみえてこない。

言葉と意味の関係。
脳組織と意識の関係。

場所と存在、時間と場所。

僕はただ知りたいと思うだけでそれが何を意味するのかは考えない。
「知りたいと思う」それだけだ。

高橋克彦じゃないけれど「薬を一粒のんだら一年間は食べなくてよい」という薬があったらそれでもいいとも思う。たとえばの話だけれど死んでしまった人にはあえないが(イタコは別かもしれないが)、この時代に生きてる人だったら話そうと決めて会おうと思ったら会うことはできるはずだ。

世界をぐるっとまわる鉄道なり道路もつくることはできるはずだ。
世界をぐるりと東西と南北にめぐるリニアモーターシステムだって不可能ではないだろう。
それができないのは人の世界のシステムに理由がある。
昔から思うのだが何故それができないのか。

機械がないころでも万里の長城やピラミッドをつくる根気はあったのだからできないことはないと思うのだ。そのあたりが不思議なのだ。こうしたらいいだろうなということがあって、いや、たぶんある。
世界の人々に共通した基本やベースのようなものはあると思うのだ。
食べるとか眠るとか身体とか。

なんでそっちに向かわないのだろうかと不思議に思う。
「幼年期の終わり」のようになってしまうけれど構造的な何かなのだろうか。
どこに向かってるのか、あるいは向かうのか。

政治を治す。
経済を治す。
国を治す。
人を治す。
社会を治す。

それはいい。
けれどその先はどこにいくのだろう。
拡張拡張拡張というSFな世界観もある。
それにしたってどこかには向かってるのだろうし。

かといって内側に開いているという宇宙論を論じられてもエッシャーのだまし絵やメビウスの輪というオチはいただけない。

裕福になって、食べ物の心配がなくて、「買う」に関しては全部OKだとして、それで夕日をみて星をみて地表をみて、人と会って、それで死んでいく、みたいなイメージには「夢がない」と思うのだ。そんなのが人の世界の最後だったらなんてつまらない世界であろうか。

気になるのだ。
何かが抜けてるような気がしてならない。

構造から「時間」がぬけている。
時間の正体ってわかってるのだろうか。
「いま」っていったいいつなのだろう。
いろんな人が説明はしてくれるだろう。
わかりやすいのもそうでないのもある。
でも言葉からではなく感覚的にこれをわからないといけないはずだ。

この世界の根本部分には「時間」が関わっている。
けれどこれがすっぽりと抜けおちている。
あるいは「時間」を勘違いしている。

とらえかたそのものに何かが抜けている気がしてならない。
それが構造全体へも影響していて、言葉やいろいろなもののありかたが「→」な概念によって成立しているのだけれどここに疑問を感じるのだ。

たとえば音楽はどこを聴いてるのだろう?
ココからココ?
それは音の断続だけれどなぜ「→」な構造になっているのだろう。

音楽と音の違いはそれほど大きくない。
これとテキストの後ろにうかびあがるテキストのイメージは似ていて。
それ自体ではないものによってそれを表すという、点と線が同時に存在している状態。
が、それが何なのかはわからない。
ただ、そういうものが「気配」として感じられる。

これが世界とか国とか社会とか関係性とかの背景にある気がするのだ。

ある小説が面白いとする。
文学ということではなく小説として面白い、エンターテイメントとして面白いといったときその面白さの本質とはなんなのだろう。

物語性?

では物語性とは何か。Aがこうなってこうなった。それが出来事、意味だとして、それが面白いのは何故か。面白さの核、本質はそこに書いている何かではなく、その後にある形にあらざる形、感覚や気配ではないのか。物語は出来事を「→」に固定する。それが面白いのは、点ではなく線あるいは「→」ではなく、固定できない別なもの。

人は音楽と音を聞き分ける。しかし音楽と音はどこが違うのだろう。

人を場所や経済や衣食住からときはなたっていったら人は何をするのだろう。
いわれるように無気力に向かい文明は消えるだろうか?

音楽のない世界より音楽のある世界がいいな、と思う。
しかし、音楽しかない世界も疲れる。

自在に暮らしていた人々がいたけれどそれが消えたのだとしたらそこには理由がある。

打ち込みの音と演奏の音は似ているが異なる。

時間も一定では進まず、変則的で遍在している、ようにも思う。
物語の後ろの気配や音楽と音の違い、「ゆれ」のようなもの。
それが形をつくるのではないのか。

(休憩・つづく)

投稿者 TKM : 2004年10月12日 06:02

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コメント

いろいろと考えさせられました…
新しいメディアのあり方についていろいろと考えてみたい。
ひとついえるのは反応があるのは面白いってことかな、と最近思います。
掲示板でもソーシャルネットワーキングでも、自分で発信したものに対して、どういうコメントがあるか。もしくは同じもの(例えば映画とか)を見た時の他の人の反応はどうなのか。そういうことが面白いことなのかなぁなんてぼんやり考えています。
先日も小学校のとき転校していってしまった友人から連絡がありました。ネットってすごい。
そして、いろいろつながった縁を大切にしていければいいですね。

投稿者 sanami : 2004年10月14日 18:37

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