2004年10月13日
「面白さ」と「美しさ」 ~茂木さんの話をきいて思うこと~

久しぶりに慶應大学@三田。
東館にいったのははじめてである。
素晴らしいセミナールームだったが残念ながらイベントの構成はお世辞にも褒められたものではない。ゲストの先生方の話がかみ合っていないのと時間配分がうまくいっておらずスタッフが機材を使いこなせていない。
いくど試しても投影されないプロジェクターに段々と場が醒めていってしまう。
とはいえそれはイベントの問題点であって議論の問題点ではない。
慶應というか大学全般で「イベント運営」という授業をおこなうべきである。
アカデミックなスキルではないけれどイベントの運営ノウハウはビジネス、アカデミックな場に関わらず様々な場面で役に立つだろう。僕のは自己流だけれどそれだって結構なノウハウが蓄積されている。
++++++
CSLの茂木さんの話は早口でパパパと進んでいく。
だが面白かった。
茂木さんの話は文脈主義への反旗とでもいったらいいだろうか。
美への直感的な反応ではなく説明によって納得することで価値をつくりだそうとするメディアアート、モダンアートのあり方はおかしい。それらが作り出しているものは「美」ではない。
というところで時間。
その後に発表したフランス人のアーティストの作品などはもろに「美」ではない作品となるだろう。そこから議論が進んでいけば面白いのだが茂木さんの言葉を借りるならばイベントが「スカ」なものだから各自が発表してお開きとあいなった。
さて茂木さんの話とアーティストの話をきいていた僕が思ったのは「美」と「面白さ」はことなるのではないかということ。アーティストの二人は「面白いとおもうんです」という言葉を繰り返していた。一方で
「説明されて面白いと感じるものははたして美なのだろうか?」
というのがが茂木さんの問題提起だ。
「コンテクストがない状態で感じる美しさ。それこそが美ではないのか?」
と。そうそう、それなんですよ、それが気になっているんですよと思わずうなずく。が、ちょっと待て。茂木さんがいう「美」これはわかる。そしてメディアアート、藤幡先生がやってるような表現の「面白さ」もわかる。
ところがここからが問題である。
それらは同じく「アート」という言葉でくくられている。
けれどもそこには大きな問題があってもともとそれらは全然別なモノなのではないのだろうか。
両方を「アート」といってしまうから議論がおかしくなっていく。
「アート」であるとかないではなくそれぞれの基本にあるモノのDNA自体が別なものだとしてしまった方が変な対立がなくなっていいんじゃないだろうか。
どっちがアートでどっちがアートでなくても僕はかまわない。美しいものや面白いモノがそこにあるということが一番重要なのだ。茂木さんの指摘するように文脈主義的な作品が台頭してきてしまうと「美」の根元部分やそれを感じる力は弱まっていくのかもしれない。けれどそれは危惧であって必ずしもそうなるとは限らない。(文脈主義について少し補足しておくと作品であれ表現であれ人であれそれを評価、判断するときに「○○の○○」というとらえかたをしてしまうものを文脈的であるモノとしておく。いってしまえばオピニオンや著名人などもメディアという文脈でかたられるからそうやってなりたっているわけだが。まったくとっぱらってしまったら、例えば、アフリカなんかにいって日本で一番有名な誰かをほっぽいだしたら文脈から断絶されるから全く別な価値としてそこに在ることになる)
科学だってもとはといえば軍事目的で殺人の為にこの数十年でどんどん進歩したわけだがその恩恵をうけて僕たちはこうしてキーボードでテキストを書いて、発信したり、ネットでそれをみたりしている。
というのが僕の言いたかったことの一点。
もう一つは「コンテクスト以前の美」と「コンテクスト後の美」について自分の専門のテキストの場から感じたことがもうひとつ。
「ダヴィンチ・コード」という小説がある。随分売れたので多くの人が知っていると思うし、僕も読んだ。文句なしに面白かった。実に面白い小説だと思った。けれど
「綺麗だった?美しいの?」
ときかれたら「違う」と答える。「ダヴィンチ・コード」は面白い小説、物語ではあるがそれが表しているものはコンテクスト以前の「美」とは異なる。
一方、数日前に読んだ「日はまた昇る」は
「面白い?」
ときかれたら
「うーん…面白いというか。ちょっと違うな。いいんだけれどそれは面白いっていうのかな違う感覚だと思うなあ」
と答える。「日はまた昇る」や「海辺のカフカ」の読後感は「コンテクスト以前の生々しい感じ」といったらいいだろうか。夕日とか空とか海をみているような自分の身体のスケールとは違うところで流れている時間がふいにたちあらわれる、そんな感じなのである。
両者は同じ小説なのだけれど面白さの質が根本的に異なる。
だからそれを同じ枠組みで論じても駄目なのだろう。
そのやり方では議論は深まらない。
どちらが良くてどちらが悪いという二項対立的な判断や基準をつくろうとしてしまいがちだが違うんじゃないだろうか。別モノだという前提にたってコンテンツとして、アートや美といった観点から一度解放して考えないと美とか表現とかコンテンツというものは何もわかってこないように思う。
「何が人に感動を与えるのか」
「人は何故感動するのか」
という問題について考えることが本当に少なくなってきている。
それにしても認知を研究している先生方の研究発表が僕の心に迫ってこないのは何故なのだ?
それを解決するための認知科学でなくてなんの為にあるのだろう。
そんなことを考えながらノートを片づけていたら。
坂根先生が降りてきて「いやー、茂木さんの話は面白かったな!私?私は年金暮らしの老人ですよー。ハハハー」と場を盛り上げていた。今朝方の疲れがどっとでたのか先生にもご挨拶する元気がなく、茂木さんに質問するパワーもなく、ぐったりとしてしまった。
そこでやはり確信したが人は体調や身体の調子が悪いと思考もそれにひきづられがちである。健全な身体でなければならない、とは思わない。けれど力はなくても気力のある身体でいなければ駄目なのだと実感した。
にしても素晴らしいセミナールームだった。
ああした施設をオーナーとして持ちたい。
そしたら毎週、毎日、知の好奇心を刺激するセミナーをバンバン開きたい。
冗談ではなく、清田氏の話などアーティストやサイエンティストとのコラボレーションをおこなったら相当に刺激的だと思う。観念的なものごとや思考を現実世界の出来事や体験で説明されるとそこからの類似や相似がボロボロとこぼれてきて脳内で思考がパパパパパーとつながっていくようなそうした知の連鎖みたいなものが起こる。
これは種類は異なるけれど第一級のエンターテイメントだと僕は思うのだ。
※そうそう写真を見て思い出したのだが先生方は全員例外なくラップトップPCを持参していた。おどろいたことにMac率が50%くらいだった。会場のあちこちにもMacが確認できた。会場にあったPCのメーカーは驚くほど少ない。Apple、デル、IBM、パナソニックであった。壇上の先生方全員がラップトップを開いて座っている姿はかなりウィアードであった。
最近、みたプレゼンで「おお上手だな」と思ったのは八谷さんが手書きのノートをプロジェクターで映してホワイトボードのようにリアルタイムで書き込んでいたケースだ。あれなどしんのすけがタブレットPCでやろうとしていることに近いように思う。
直感的な部分で感じている非可逆さが「面白さ」の本質とどこかでかぶっている。
音楽や文学にもそれはあって、「今」を機転に前後が消えていく。
でも残ってるものがある。それは何なのだろう。
かなり直感的なものでそれを言葉であらわそうとしたらそれについて書かないことでしかあらわせないという逆説的なアプローチをとる必要がある。
反言語的な用法によってしか言語の本質はあらわせないだろう。
茂木さんがある水墨画をみて感動して2時間ほどみつめていたといっていた。それをきいてハっとした。
CGを二時間はみつめない。何故か?
その何の理由とテキストの向こうにうかびあがる場、もうひとつのテキスト空間は同質のものであると直感した。そこにある共通性は「臨界点」あるいは「相転移」な状態、秩序とそれ以前の「ゆらぎ」なのではないだろうか。
投稿者 TKM : 2004年10月13日 03:01
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kagaya.com/mt3/mt-tb.cgi/3535
コメント
ダ・ヴィンチコードは確かに面白いけれど美しいとはいえないね。心を打つかといえば、それも違うと私は思う。
美しいと思う人、物、事に共通することとして「潔さ」はその中の一つかな。媚びない人、物、事は常に美しい。
投稿者 志乃 : 2004年10月13日 13:14
格闘技とか競技がすきなんだけれど、あの場には「媚びない」とか「潔さ」というのがあると思う。美の難しいところはそこに観る人の主観が介入するところだろうか。観る人がいてはじめて成立するからことが問題なんだと思う。
人によって感じ方って違うわけだけれど、そこに観る人が優越をつけたがるみたいなおかしさがある。ある人がこう感じたら、それはその人の感じ方なんだから否定はしなくてもいい、でもそれが自分と違っていたら否定する、みたいなそういうのって変わっていったらいいのにと思う。
いいきることはできないんだけれど、批判的や否定は自分が優位にたちたいという意思のあらわれであるようなきがして、そういう人の言葉を目にしたり、聴いたりすると反抗あるいは嫌悪してしまう。それもまたいけないのではあるのだけれど。
なんかね小学校の隣の部屋にくらしててランのいきかえりに子供達をみてると、なんでこういうふうに大人も素直になれないものなのだろうかと日々思うよ。
投稿者 かがや : 2004年10月14日 03:29
「美しさ」と「面白さ」どちらもアート。→オモシロイ。
その問題提起…茂木さん。納得。→ウツクシイ。
登場人物…親近感。→オモシロイ。
加賀谷のテイスト。→う~ん、どっちだろう(^^;)
投稿者 paya : 2004年10月14日 04:01
どもー。
オレは「ヘン」か「よくわからない」だろうか。
考察するのが好きなだけなんだよね。
次回は空の下話しをしまっしょい。
投稿者 かがや : 2004年10月14日 04:17
子供といなさい。
子供といると少なくともその時は素直になれるから。
投稿者 志乃 : 2004年10月14日 18:06