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2004年10月15日

もう饒舌はいらない -『物語時間』と『伝わる気持ち』と『プレゼン映画』-

DSCF0010.jpg

秋晴れというのだろう。
空には雲ひとつなくひざしは温かい。

昨夜「海皇紀 」を読破した。
海洋大河ロマンマンガという分類。
あるいは冒険ロマンという位置付けになるだろう。

見開きでみると左右のページに映画シネスコサイズのように横長の四角形が4つ均等に配置されている。このような規則的なコマ割は単調で面白みに欠けるのではないかと懸念したが杞憂であった。
コマ割の持つ効果と作品の持つ物語性とは別なものなのだろう。20分ほど読み進めると物語の時間の流れに自分が取り込まれていく。

媒体を問わずこの種の物語性をつかう作品に共通する感覚である。
ある程度の時間を物語に没頭すると自分の頭の中に「物語時間」が構築される。この「物語時間」ができあがるとあとは没入するだけでいい。現実世界と物語世界の垣根が低くなっていく。自分が物語を読んでいるという感覚が薄れ、物語という「流れ」の時間に自分がとけ込んでいく。

映画をみていてもこの感覚に引き込まれることがある。
印象的だったのは実家に帰省する電車の中、iBookで「ユリイカ」を観ていた時のことだ。

モノクロの映像。
ゆっくりとした時間の流れ。
電車の中では何もすることがない。
だから最初の30分をただ観ていた。
傍観していた。
積極的に観てはいなかった。

と、そのあたりからだろう。
画面中の時間の流れ、「物語時間」にとりこまれていた。

車掌がまわってきて「切符をみせてください」と肩を叩かれるまで自分が電車に乗っていて、実家に向かっているのだ、ということを忘れていた。

ハっとして顔をあげる。
あれ、オレはいまどこにいるんだっけ?
ああそうか電車に乗っていたんだ。
そうだ切符を出さなければ。

会釈して切符をみせる。
画面に戻る。
数分後。
物語の時間の流れに引き込まれていく。

時間の感覚がズレていく。
そこで過ごしたのは3時間なのか。
それとも…。

電車という封じられた空間で画面を見つめている自分は高速で移動している。
頭の中では違う時間が流れている。

電車の速度。
頭の中の時間。
隣の人の時間。

時計をみればどの時間も同じ時を刻んでいる。
同じ3時間。
しかしそれらの「物語時間」はパラレルに進んでいる。

意識というフィルタがかかると時間は別な時を刻む。

文学でも映画でもモヤモヤとした物質と非物質の中間にある感覚を想起させる作品がある。作品を読んだり観たりするときに作品の構成要素としての自分がいる。

自分の中に物語時間ができていく過程とそれがおわるときのモヤモヤした余韻。
あの感覚は何なのだろう。
読み終わり、見終わると懐かしいような切ないようなモヤモヤした時間の輪郭が残される。数十分から数時間の没入の後にその感覚は想起される。
TVの番組では時間感覚の引き込みは起こらない。
モヤモヤ感の想起には没入が必須なのだ。
ハリウッド系の映画でもこの感覚は想起されることがない。

TVやハリウッド系の映画は「プレゼンテーション」に似ている。
意味に幅が少ないので自分からの介入は必要とされない場合が多い。
日本の映画でもハリウッド系の映画でもラストにグっと盛り上がってきた後、必ず主人公の演説が組み込まれる。俳優の口をつうじておこなわれる演説は感情や意味を「説明・解説」するのだがそれがおこなわれることによって表したい感情そのものからは遠ざかっていく。逆説的だがある種の感覚や感情はそれを固定しようとすると本質を失う。

++++++

プレゼンの場合、抽象的な表現が用いられることは少ない。

「わかるように説明してください」

と注文が入る。

ぼやけたままでトーンやモードによって企画としてしまうようなやり方があってもいいのかもしれない。TV番組もプレゼンによって伝えることではなく気配やモヤモヤ感の伝播が主体となった作品があってもいいのかもしれない。

同じように人の関係も。
例えばだけれど好きな人がいたらその人に「好きだ」という気持ちをどのように伝えるだろう。「好き」という言葉は使わないのではないだろうか。では、僕たちは「好き」や「嫌い」をどうやって伝えているのだろう。

キッペイがいうように「気持ち」が基にあってそこから行動や言葉がでてくる。
「好き」という感覚がつくりだす言葉や行動は「好き」とはダイレクトにつながっていない。気持ちというのはそういうやり方では表現できないし伝わらない。

基になる感情があってそこから生まれる行動や言葉がある。
「気持ちのいい人」というのはその人のベースにある「気持ち」があらゆる行動に反映され伝わってくるからさわやかであったり温かであったりするのだろう。

気持ちや心持ちはその人がつくりだすあらゆる音にも反映される。
イラついている人はその人が出す全ての音によってそのイラつきを伝えている。

優しい話し方もあれば怒った口調もある。
声の質や発せられる言葉の意味とは関係がない。
ちがうのはその裏側にある「気持ち」や「感情」だろう。

自分がどういう感情やどういう気持ちでいるときに幸せや充実、悦びを感じるのか。
子供の笑顔が気持ちよいのは笑顔を通じて彼らが「感情」を伝えているからだろう。
気持ちは伝播していくのだ。

投稿者 TKM : 2004年10月15日 17:09

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