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2004年10月18日

翻訳コンニャク

ドラえもんに「翻訳コンニャク」という道具がでてくる。
食べるとどんな言葉でも話したり理解できるようになるという夢の道具である。

子供ながらになんて素晴らしい道具だろうと羨望のまなざしで画面をみつめていた。いつかこういう機械ができるのだろうなと漠然と思っていた。同じように欲しくて仕方がなかったのが「暗記パン」。

見た目には普通の食パンなのだがパンを本に押しつけるとそこにページが写し取られる。パンを食べるとコピーされたテキストが全て暗記できるという道具である。

「すげーこれがあったら暗記しなくてすむ、でも何枚くらい食べなきゃいけないんだ?」
友達とそんな話をしていた。あれから20年がたつけれどいまだ暗記パン、翻訳コンニャク両方とも発明されていない。

翻訳コンニャクに話を戻そう。
僕の友人の何人かはバイリンガルで日本語と英語を流暢に話す。バイリンガルにもタイプがいくつかある。幼少の頃から海外で生活し勉強することなく自然と外国語を身につけた人もいれば、高校生くらいから外国にいって結構勉強して習得した人もいる。

大学時代、学内には二カ国語を流暢に扱う学生がわりとたくさんいた。そのせいかグループワーク(受講している生徒を5~6人のグループにし、そのグループ毎に課題をこなしレポートや発表させるというもの)なのでは会話の端々に英語が混じることがあった。

普段の生活をみていても図書館などで普通に「What's up?」と話しかけている人もいた。これは極めて奇妙な光景であった。

日常の学生生活でも英語を多用するタイプの人々は共通してアメリカ的な雰囲気を漂わせていた。行動、服装などにその傾向が顕著であった。
彼らの多くは中学・高校時代に米国への留学していたそうである。

一方で「実は小学生の頃までは海外にいたんだ」とか「5年前に日本に帰ってきたんだよ」という人たちにも何人かあった。彼らは英語の方がネイティブな人々ともいえる。ところがこのタイプの人たちは概して「アメリカっぽさ」がほとんどない。

会話していても外国語で話さなければならない時以外は丁寧な日本語を使う。
雰囲気も「自己主張」というノリではなくあたりも優しい。
個人的な印象だが英語ネイティブな人ほど必要な場所以外では英語は使わないようにみえる。

この違いをアイデンティティの自覚によって説明していいのかどうか。
適当なことを言ってしまうと外国語ネイティブな人々はそこに自分の個性を感じていない。だから必要とされないかぎり英語力を誇示する必要がない。

ここで昨日の蕎麦打ちの高橋氏の言葉がよみがえる。
名人と呼ばれる人がいうのだ。

「たかが蕎麦じゃないか」

と。同じく昨夜の番組の話。大リーグでシーズン最多安打記録を塗り替えたイチローがこれからの希望をきかれて答える。

「うーん、ここで止められたらいいんだけれどそうもいかないからね。ハハハ。(中略、真剣なまなざしにかわって)野球が上手くなりたいですね。もっともっと上手くなりたい。それだけなんですよ。」
世界で一番野球が上手な選手の一人であるイチローの言葉である。
ロバート・ホワイティングの近著「イチロー革命」を読んだ後だったのでなおさらこの言葉が重みをもって迫ってきた。

本当のプロは謙虚だし誇示もしない。
相対的な評価に対して無関心ということではないのだろうけれどより感覚的な価値基準へと向かっていく。それらは分野によって技能・能力の面では異なる。しかし、エネルギー、あるいはレベルという部分で共通している。

外国語のケースも同じように思う。
外国語を流暢に話してもそれがそのまま『言葉力』を示すことにはならない。
高橋氏の言い方をまねれば

「しょせん言葉じゃないか。そんなに偉いものなのか?」

となるだろうか。
本質はその後ろにある。言葉の本質は言葉の後ろに隠れている。

以前、江藤先生と外国語について話したことがある。

「なるほどこのキャンパスにも流暢に話す人もたくさんいる。でもね、その人の言葉というものは『書く』時に一番あらわれるんじゃないかな。私も頼まれて外国の雑誌、新聞に書く時がある。その時に感じるんですよ。外国語で書くというのは難しいことだと。」

江藤先生も外国の大学で授業をしていたこともある。
英語の読解力はあたり前だが「プロ」である。
それでも書くのは難しいのだという。

野球でも外国語でもピアノでも料理でも問題はその先である。
観てわかるものやことのその先はやっている本人にしかわからない「域」がある。

家庭料理とプロの料理の違いはそれほど大きくない。ひとつひとつは微妙な違いでしかない。見た目には全く同じようにつくることもできるだろう。しかしその微妙な違いが積み重ねられていくことで味は変わっていき「違う」という実感がつくりだされる。

翻訳コンニャクが万能でもこの本質部分を翻訳することはできない。
本質とはおそらく翻訳不可能な実感なのだ

++++++

しかし、その手前であったとしてもそこまでつれていってくれるなら、と考えると無限ともいえる可能性の広がりを感じる。
世界中の人々と話ができたら、本が読めたら、世界は一変するだろう。
自分にとっては世界中の本が読めるということになったら、これはほとんど夢である。

それとこれはどうでもいいのだけれど何故「コンニャク」だったのだろう。
「翻訳」と「コンニャク」のとりあえわせはミスマッチというかズレているのだけれど子供の頃からそれで刷り込まれているので違和感を感じることはない。また、いまだに「翻訳」ときくと「コンニャク」を連想してしまう。そういえばやまけんは「コンニャク」が苦手であった。

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翻訳コンニャクに言及しているサイトを検索したら下記のサイトをみつけました

「機械翻訳は実現できるか?」翻訳家 夏目大のTexpert

翻訳についての実体験に基づくコラムがあります。リンクしたコラムの他に「せいうち訳者のシュールな日乗」という日記があり、こちらを読んでおもわず「そうだよ」とつぶやいてしまいました。忘れないように引用しておきます。

お気づきの方もいるだろう。要するによほどの「おたく」か「生きるか死ぬか」の状況に置かれた人でなければ、外国語など身につかないのである。もし「自分はそのどちらでもない」と思ったら、外国語は趣味と割り切り、時間をほかのことに振り向けた方が賢明である。それでも、日本人としての価値はまったく下がらないし、ヘタな「英語おたく」より、はるかに価値の高い人間になれるはずだ。 (上記コラムより引用)

投稿者 TKM : 2004年10月18日 17:33

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コメント

藤子先生は結構ダジャレが好きなお方で
「翻訳? なら 語感が似てる 
 コンニャク と かけあわせてみるか!」的な発想を
されたのか、と…。

ラッパー的韻の踏み方を1970年代にすでに
おこなっていた 超先駆者かと…。

投稿者 GC_Factory : 2004年10月18日 23:23

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