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2003年09月29日
英雄とコンテンツの関係、そしてグノーシスから未来のTV
プラトーンにでてくるウィレム・デフォー演じるエリアスのような人物像が好きだ。
正義感たっぷり、というわけでもない。が、いいようのない信頼感がある。こういう人と飲みたいな、と思わせるような雰囲気である。
あのキャラは自分の中にあるヒロイズムの一つの原型である。
ロードオブザリングのアラゴルンにも同じものを感じる。
これらを何と呼べばいいのか僕にはわからないのだがある種のパターンのようなものがある。
「いい男の条件」みたいなものだ。
クラッシャー・ジョウのジョウもそうだし、もののけ姫のアシタカにも通じるものを感じる。
ナウシカだったらクシャナにも同じものを感じる。
他にもあの気配はたくさんある。
あの気配。ヒーロー的ということ。
あれは何なのだろう。
あれが何なのかを毎日考察していくことにした。一日に15分。
++++++
この間、鏡リュウジさんに「グノーシス」について2時間も話をきいた。
いろいろな理解や定義ができるのだろうけれど、僕がピンときた部分だけを書いておく。
[グノーシス部分]
・自分が異邦人であるという感覚
・自分は何者なのか?いまというこの自分は本来の自分ではない。
・未来の少年のイメージ
・自分の中の「得体の知れないもの」(言葉にできないもの)
・混沌が持つ力を無視しない(上記の言葉にできないもの→混沌→デジタルが切り捨てたもの→キュービタルとの接点)
・反転させる
・宇宙の外側に出る(秩序の外側に出る)
[心理占星術部分]
・宇宙に意味を感じようとすること、それが占星術という考え方の魅力
・深淵という言葉
[言葉]
・響くこと。「グノーシス的でないものは僕の心には響かない。世界は秩序だけではない。秩序の手前のもの。混沌。そして深淵。」
・アレクサンドリアはいまはリゾート地になっている
・反転という手法
・感受性である。感じること。
・違和感
・羽ばたきたいけれど、閉じこめられている感覚
・わけのわからなさ
・イギリスの音→マイナー感、原初的な悲しみ→ケルト
・自分の中にある全くの他者性によってしか出会えない
・稲垣足穂(次の日に松岡正剛が講義で使うといっていた。僕は読んだことがなかったが調べるとこんなページがあった。何故、この人を知らなかったのだろう?)
上記は講義ノートである。
これらに関して話していくだけで2時間はかかる。
++++++
スタジオでの収録をながめながら考えていた。
これでいいならオレでも番組つくれるし、自分の方が面白い。
バシ師匠と二人でいったのだが作り方次第ではバシ師匠と自分の二人でやった方が面白いだろう。
違いはメディアだけだ。
僕たちが使えるのはネットワークだけだ。
TVモニターに流すこの電波は使えない。
しかしTVモニターがネットワークとつながるのはそう遠くない、と言われている。
いまだにそうなってはいないわけだが。
TVモニタへコンテンツを配信するのにネットワークが使われるようになればコンテンツは様変わりする。
ホームページをつくる手軽さで人々が番組をつくりはじめ、経済活動が入り込めば、新たなマーケットがたちあがる。ブラウザという極めて不便かつPC依存のインターフェイスによってしか視聴できないコンテンツ。それが現在のネット上のコンテンツである。
未来をイメージしてみればわかるが。
無限にチャンネルの存在するTVコンテンツが出現するのは目に見えている。
いまの視聴のイメージでとらえるからコンテンツがつまらないだけで視聴の仕方からイメージしていけばそこでのコンテンツのカタチが明かになる。
短期的にはオンデマンドとフローが融合する。
コンテンツがフローであること。つまり、流れて消えていくことは拘束条件を発生させるので人を引きつける。これは本能的な反応である。
ローカル、マイナーとメジャーの差はそれほど大きくない。
というのは重要性がトーンやモードにシフトするからだ。
クオリティの高い、お金のかかった映像は無く成りはしない。
別なマーケットが立ち上がるのだ。
それが自然の流れだろうと思う。
TVという言い方がもう変わってくるだろうから、ノンパッケージ映像コンテンツにも起こる、といった方がいいだろうか。
ウェブサイトと同じようなことがTVにも起こる。
お金のかかったサイトなど僕はみない。
極端にいってしまうと友人のサイトしか僕はみない。
映像もそうなる。
全部が全部変わるわけではないけれど、埋もれていた映像が人々に伝わり始める。
どんな名画よりも自分の子供が描いてくれた絵の方が価値を持つ時もある。
作品の絶対価値のような指標は確かにあるだろう。
しかし、それは確率的な価値であって、絶対のものではない。
作品の評価が時代によって変わるのもそのあらわれだし、観る人によって感じる価値は異なる。
価値は確率的にしか存在していない。
確率的な価値が一般化していく未来があると僕は思うのだ。
そこでコンテンツがどう振る舞うか。
それが僕の関心事である。
おそらく既存のフレームが反転するシーンがあらわれはじめる。
しかし、それも確率的な価値の反転でしかない。
同時に両方が存在する、という状況が生じる。
AでありBである、という状態である。
そして両方とも正しい。
問題は観察者の側にシフトするだろう。
コンテンツを取り巻く諸要素をもう一度整理することからまずははじめてみたい。
++++++
話がズレた。
ヒロイズムの事例の話からスタートしたのだった。
ストイックさ、というものがどこかでキーになっている気がする。
ヒーローは最後の最後でストイックなように見える。
特に戦いの場が舞台の場合はそうだ。
最新号のアニマルで「ベルセルク」の主人公ガッツの目が変わるシーンがある。
あのシーンでの目の変貌が印象的だ。
人間の心が開く瞬間を見事に描いている。
しかもたった一コマの絵によってである。
絵にはあの変容を一瞬で伝える力がある。
言葉とは異なる効果を持つ。
投稿者 TKM : 2003年09月29日 04:45
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コメント
稲垣足穂マニアのHP、面白く拝見。ぼくのタルホ体験は十代の終わりに読んだ「一千一秒物語」から。物持ちの悪いぼくだがまだその文庫本は書棚にある。
投稿者 MAO : 2003年09月29日 10:24



















































































