« wiki | メイン | googleとブログとWikiとさくら蕎麦 »

2003年11月19日

Wikiとブログとシュレディンガーの猫

気づくとiMacの画面が20インチになっていた。AppleらしいといえばAppleらしいが何でいつもディスプレイをデカクするのだ?

17inch Powerbookの時も思わず首をかしげたが。今回は20インチだ。どうせなら20インチの廉価版シネマディスプレイを出して欲しいものだが。

ところで昨夜からWikiをいろいろと試している。Wikiを使っていると思考の方向がMTなどのブログツールとは全然異なるモードに入る。

例えるならばWindows3.1と漢字Talk7とでもいうか。
初期の頃のWinとMacの違いに似ているかもしれない。
どちらが優れているかという問題ではなくて二つは別なものだと思う。

僕の印象だがWikiはローカルに欲しいツールでOSに統合されるべき機能、という気がする。
一方、ブログはパブリッシングツールなんだなきっと。

エディタがどんどん進化していくとWiki的な要素が加わっていき。
この機能がブログのようなパブリッシングツールとシームレスにつながると「個人=コンテンツ」あるいは「マシン=コンテンツ」という状態になり、コンピュータはそれを使って何かをするための機械というよりも能動的に個人や環境を情報に変換するインターフェイスのような機能にシフトしていくと思う。

Wikiとブログの違いについて考えることは、何かこう、人と情報の関係性、人が情報をどう活かしていけるか、いくのか、ということにつながってくると思う。

うーん、うまく言えないのだけれど、本当はウェブページなんてなくていいんだと思う。
ブラウザの限界点がみえるというかブラウザインターフェイスの限界があって、それは画面の表示を3Dにするとか関係性をビジュアライズするとかいったやり方での解決ではなく、もっとシンプルで物事が勝手につながっていく感じなんだと思う。

極端な話、リッチ広告も綺麗なコンテンツも誰も見なくなる。
なんかそれが本筋じゃないかな、と思うのだ。
うまく言えないんだけれど、例えば「恋とTVを見ることとどっちが幸せ」みたいな、そういうことになってくる気がするんだな。

もうちょっと砕いていうと。
個人には個人のツボがあって、例えば、車を買うとき僕の田舎だと親戚に車のディーラーがいるとそのディーラーが扱っている車を買うことが多い。田舎だとまだ血縁が強いからだ。TVや雑誌でどんなにすり込みがあっても血縁が優先される、という状況があった。少なくとも10年くらい前までは。

ブログとかWikiの先にあるのはこういうことが情報的に起こってくる未来じゃないかと思うのだ。勿論、形は変わってくるだろうけれど。
その人がどんなコンテクストにあるかによって最も影響力を与えるやり方というのは変わってくる。
最良の方法は状況に応じて存在し、その時々でベストの方法がある。

状況によってはベンツよりも軽トラの方が価値を持つことがある、というわけだ。
整理するとWiki・ブログ的なことはネットの世界で起こっていることだ。
けれど、これがいろんな分野で起こり始めたらどうなるだろう?

僕はWikiやブログがやっていることは「関連性を折りたたむ」ことだと思う。
紙の本とネット上のテキストの最大の違いも「関連性を折りたためるかどうか」だと思う。
ここで大切なのは「ネット上の」という部分である。

電子ブック端末は流行る流行らないは別としてどんどん紙に近づいていくだろう。市場がどうなるとか、コンテンツがダメだ、とかそういう事とは関係なく端末は良くなっていく。

しかし、そんなことはどうでもいいのだ。それは起こっていることの本質ではない。
問題の本質は「関連性の折りたたみ」にある。
これは非パッケージを指す。
先日、石井先生に紹介された「木簡・竹簡の語る古代中国」に詳しいが、木簡のように完成形がない半パッケージ状態。シュレディンガーの猫状態なパッケージ

この非決定的な状態が「今」としてそこにあること。
それがネット上のコンテンツ、テキストが持つ決定的な力だと僕は思う。

これはもう、シミュレーションと実体験の違いというか、もう別ものなのだ。
林檎についてどんなに素晴らしく表現された表現でも、それが林檎の味を体験させてくれることはない。

この違いがネット上のコンテンツとパッケージ化されたコンテンツの間にはある。
勿論、パッケージの力も同じくらい強力である。
だから、やはりこれは別もの、と僕は思うのだ。

本質的に今と未来の境界が曖昧で揺らいでいる。
ネット上のコンテンツとパッケージの間にはこのモードの差がある。
しかし、未だにPCとネットワークとブラウザというインターフェイスではこのモードの差を生かしきれていない。

電信扱いの振り込みみたいにビュンと関係性のダイナミズムが飛び込んでくる、みたいな、そういう魅力があって。ブロードバンドになって常時接続になって、特に自分が変わったのは端末の前にいる時間がどんどん長くなってきてるということで、TVなんかよりは遙かにネットに触れていた方が「面白く」それは潜在的に関係性のダイナミズムの鼓動みたいなものを感じているから、伝わってきているから、だと思う。

それは偶然性という言葉でしばしば表現されるけれど、偶然は本当に偶然なのだろうか。
ここなのだ。
ネットを一つの非パッケージ型パッケージとしてとらえた時にネットが持ち込む「面白さ」の本質は。

(このテキストはブログに載せるけれどブログには向かない。今日の今には結びが書けないからだ。なのでWikiにも載せておこう。とここであったらものすごく便利だな、と思ったのはURLと連動したFEP(漢字変換。ヤフーとかあさひこむと入れるとURLをかえしてくれる、みたいな)ってあったらよくないだろうか?)

メモ:感覚的なことなんだけどWikiはブログよりいち工程すくない感じでそれが使っているといろんなところに影響を与えているんだと思う。ブログはブログでコメント機能がエントリー単位でついてることが別世界をつくりだしてると思うし小難しい理由ではなく、案外とこうしたえらくシンプルなところに本質があるように感じる。

投稿者 TKM : 2003年11月19日 05:08

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kagaya.com/mt/mt-tb.cgi/3743

コメント

芸大ではずっとPukiWikiを使っていて、最近試しにMTを導入してみたんだけど、
本当に全然雰囲気が違っていて、MTには馴染めないんだよね。
うーんどうしようと思って悩んでいるところ。
早くqwikWebを完成させればいい? ごもっとも…。

投稿者 eto : 2003年11月19日 10:48

blogとWikiの違いは、「Windows3.1と漢字Talk7」の違いみたいなもの、
という例えば非常にしっくりくるなぁ。全然違うといえば全然違うし、
そんなに違わないといえばそうかもと。どちらにしろ言えるのは、
そのどちらもが発展途上にあるのが明らかで、最終的にはより大きな完成を
目指していると。そんな感じかな。

投稿者 eto : 2003年11月19日 10:50

iMac20inch、六本人に似てない?

投稿者 ippo : 2003年11月19日 19:26

六本人てどんなの?

投稿者 かがやとものり : 2003年11月26日 05:58

コメントしてください




保存しますか?