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2003年11月29日
我、戦いの場をみつけたり
韓国のオンライン新聞事情についてのレポートを読む。ハングルが読めないので実際のサイトや記事のクオリティ、雰囲気が確認できないからなんとも言えない。
韓国では全国紙が14紙もあってしのぎを削っているとはこのレポートを読むまで知らなかった。また東亜日報の記者というのはエリートなのだということも知らなかった。以前、妹に紹介された東亜日報の方を思い出した。有楽町で焼き肉をご馳走になり、さらに話が盛り上がりパブで終電まで話し込んだ。いい人だった。その二ヶ月後くらいに彼は帰国してしまったのでその後はあっていないがこんないい人もいるんだな、と思った。
そうかソウルに知り合いがいたじゃないか!
あの人にきいたら韓国に関連することで僕が興味を持っているようなことは何でも知っているに違いない。そうか。すっかり忘れていた。
++++++
我、戦いの場をみつけたり。
汐留のビル群のすぐ隣にある古めのビルの7Fに戦場はあった。
2Fには「ぽすれん」のシステムを採用したレンタルDVD店。月会費を払うと無期限・無制限にDVDが借り放題になる。枚数を借りれば借りるほど一枚あたりのレンタル料金は安くなっていく。
エレベータに乗り込みいざ7Fへ。
扉の向こうにある空間や如何に?
およそ1年ぶりにいく漫画喫茶である。しかも全て個室である。初めての経験だ。新橋には終電を逃したサラリーマン向けにいくつかの漫画喫茶があるが新橋の雰囲気はコワイのでいったことがない。汐留のこのビルもコワイのだが勇気をふりしぼり一歩を踏み出す。
店は少し古びている。田舎の漫画喫茶だってもうちょっと洒落ているのではないだろうか。しかしきたからには後には引けない。店員と話をすると10時過ぎからだと朝までいても1180円だという。激安である!
店は壁ギリギリまで扉付きのパーティションで区切られた個室が中央に30席くらいならんでいる。壁面には本棚が備え付けられ多くはないが少なくもない冊数の漫画が並んでいる。
取りあえず1時間使ってみることにして前から読んでみたかった「20世紀少年」を手に取り我が城へと向かった。扉を開けると一畳もないスペースに足つぼマッサージの店にあるようなゴージャスな椅子とオットマン。机の上にはライトと液晶のモニタ+PC。インターネットとTVも使い放題になっている。
狭苦さに圧倒されたが気を取り直して本に向かう。
ふむふむ、これってどんな話なんだろう。期待しつつ読み始める。
ふむふむ、と読み進む。予想外に物語のテンポが遅い。誰が主人公なのかもわからない。
ノドが渇いていることに気づく。確か、部屋の角に自販機があったはずだ。
狭い狭い廊下を抜けて自販機の前へ。
表示をみると、
「全部無料デス」
そうだ!漫画喫茶では飲み物は全て無料なのだ。
ロイヤルミルクティーを抱えて部屋へと戻る。
続きに没頭する。
慣れてくるとこの狭さが逆に集中力を高めていく。
しかも、古びて時代遅れな作りなのに渋谷のバグースなどよりも遙かに居心地がいい。この感じ、何かに似ている。そうだトイレに似ているのだ。こんなに狭くても完全に個人の空間だとなんとくつろげることか。人間の認識は柔軟だ。
ところで漫画喫茶とは基本的には不動産業である。
レンタルビデオ店がサービス業ではなく超高金利の金融業であるのと似ている。
駐車場のTimesとも似ている。
漫画やPCやネット環境、TV・DVDはエサに過ぎない。空間を時間貸しして収益をあげるのが漫画喫茶のビジネスである。50席あったとして平均稼働率が40%、一時間あたり400円くらいだから一日の売り上げが192000円。24時間365日営業なのでx365で70080000円。場所さえよければ家賃分より稼げる。そこから先は利益だ。
それはさておき四方を壁に囲まれたこの閉所は実に快適で気づけば「20世紀少年」を読了していた。完結していると思っていたのだがまだ物語はスピリッツ本誌でも継続中の模様だ。
これは僕の意見だが漫画の醍醐味は一気読みにある。数年にわたる作者や編集者の労力の結晶を1、2時間という短時間でノンストップに味わう悦びは人の思考のパワーを食べているみたいだ。読んでも読んでも続きがあるという安心感のせいか世界への没入感が深まる。TVシリーズのDVDを一気にみていると似たような感覚になるがスピード感は漫画の方が遙かに上だ。書籍、活字の場合だとこうはいかない。速読をマスターしないかぎり、一冊読むのにも時間がかかる。また1ページあたりの情報のスピード感と濃度が活字と漫画では全く異なる。
漫画は読むのに時間がかからない分、つくるのに時間がかかる。
僕は漫画を読むとき、この歪みを食べているような気持ちになる。
14冊を読み終え時計にPCの画面に目をやると午前1時であった。
そろそろ帰ろう。
あとは明日からの攻めを考えよう。
あの店の漫画を全部読み切るのにどのくらい時間がかかるだろう。
帰り道。
鼻歌まじりで橋をわたった。
なんだか楽しくなってきた。
単純だ。
追伸:昨日からiTuneのラジオでambientのコーナーを流しているのだが実にいい。やかましくないのに躍動的かつ電子音が自然で心地よい。
投稿者 TKM : 05:31 | コメント (0) | トラックバック
2003年11月28日
モチベーション2
(前文からの続き)
そうだ!
思い出した。
モチベーションについて考えていたのだ。
そうそう。
僕にはモチベーションがない。
何をやりたいという強い情熱もない。
前はあったのかといったら前もなかったかもしれない。
かといって無気力なわけではない。
全方位に対して興味がある。これがイケナイというのが最近のメディアの潮流で何につけても「専門性」とか「一点集中」を訴える。アホじゃないの?というのが僕の本心だ。専門性も一点集中もプロの人達は後から振り返ったら勝手にそうなってただけでそれを目指したわけじゃない。意図的に一点集中すると大抵は失敗する。それは自然な流れじゃないからだ。
習慣というものは大切でなんとなくでもやっているうちに脳にその回路が定着していくから自分なりのやり方やタイミングというものができあがっていく。でもそれらは絶対的なものではないからやろうと思えばいくらでも変えられる。何十年もやってきて、そのやり方しかできないと思っていても案外と簡単に変えられる、と僕は思っている。人間の脳はわりと柔軟だ。
例えば恋愛について考えると簡単かもしれない。
好きな人ができる、この人以上に好きな人はいない、と思うようになる。
けれど、その人に出会う前はまた別な人が好きだったはずだ。
自分が当事者だとわからないけれど客観的にみてみると人って柔軟だよなと思う。
嫌なことも嬉しいことも昨日みた夢も時間とともに忘れていく。
嫌なこと、胃が痛くなるようなストレスや恐怖、不安。
これも不思議なことに時間とともに消えていく。
僕が一番苦手なのは人間関係のトラブルによる不快感である。
苛立ちとも違う。人と争ったり、トラブったりすると胃が痛くなる。夜もあまり眠れないし、どこにいっても安心感がなくなる。人は不安の生物なのだろうか。恐怖のベースにあるのは強い不安だ。
だから不安がなくなると人は解放されて幸せを感じる。
けれど解放も最初の一瞬が幸せなのであって解放の幸せが継続するわけではない。解放の幸せは解放前があることによって意味が生じる。快と不快は地と図の関係である。
しかし、快によって快が意味づけられることもあってもいいのかもしれないな、と今は思う。
別な種類の快によって快が螺旋状に上っていくイメージである。(このイメージは面白いな)
地下鉄で小学生に道をきかれた。教えてあげて途中の駅まで一緒に話をしながらいった。降りるとき彼は手を振ってくれた。駅の改札で駅員さんに会釈された、一言二言話をした。笑顔でわかれた。マンションの入り口で管理人の夫婦に挨拶をされた。「コンバンワ」笑顔で近況を話す。二人は「これから夫婦で映画を見に行くんです」といって駅へと歩いていった。
コンビニで買い物をしたらおつりが100円多かった。「あれ、100円多いんじゃない?大丈夫?」と聞くと「あ!間違ってました。スミマセン、ありがとうございます!」と青年が笑顔で何度も頭を下げた。話をきいたら最近、近くに越してきたらしい。
夕飯を食べようと近くの蕎麦屋にいった。天ぷら蕎麦を注文して待っているとネギを切りながら店主が話しかけてきた。この店主、普段はお客とはほとんどしゃべらない。「最近、寒くなりましたね。蕎麦よりもクイっといきたいところですよね。ハハハ。」
(中断)
コミュニケーションによって幸せが出来ていく時は地と図がプラスとマイナスの差異ではなく速度とかモードによってつくられる。
(休憩、次は「モチベーション3」だ)
投稿者 TKM : 12:29 | コメント (2) | トラックバック
書くときは何も考えていない
モチベーションという言葉をはじめてきいた時「なんだ餅みたいでマヌケな言葉だな」と思ったような。
まあそれはおいておくとしてモチベーションである。
はっきりいって自分にはモチベーションが無い。
全くない空っぽもカラカラ。
何もない。
何の為に勉強してるのかもわかってないし、何のために本を読んでるのか、何で情報を探しているのか、何にも理由がない。目的指向で動いていないのである。これは一般に効率が悪いやり方、といわれるであろう。
おカネの為でもなく、名誉の為でもなく、精神的な満足の為でもなく、なんだか分からないままにいろんなものを探したり触れたり、びっくりしたり喜んだり、笑ったり、悶々としたり、冴えないなあとぼんやりしたり、脱力感に包まれたり、そういうことを順繰りと繰り返してる。
あるとしたら「面白い」とか「楽しい」とかそういうことなんだろうか。
何で文章を書いているかというとこれまた理由がない。
誰かに向かって書いてるわけではないし、書いている時は何も考えないから書いている、というのが理由だろうか。
考えないで書くというと不思議だが僕は書くときに考えない。書きながら考えるというのともちょっと違うかもしれない。絵を描くことに近い。画面やノートを記号で埋めていく感覚なのである。僕はこの一文を書くこの瞬間に認識しているのは10文字くらい前のテキストあたりまででそれ以前のテキストはあまり意識していない。考えていない、と感じるのはこの為だと思う。
立ち止まる、ということもない。
書いていて文字が止まることはあまりない。次にどう書こうか、と考えることもない。なんだかしらないけ記号が左から右に流れていく。この感覚が好きだから書いているのだと思う。目が痛くならないならずっと書いていると思う。何時間でもこうやって書き続ける。それは全然苦痛じゃない。メッセンジャーを使っているといつのまにか2時間も3時間も過ぎていることが良くある。
僕がエディタに向かって書くのとメッセンジャでテキストをやりとりしている時とでは書いているスピードに大差がない。
シームレス感覚というのかな書いているという認識が薄い。チャットという通り、書いているのにどちらかというと話ているのに近い。僕は書いているのだがこれは対話だ。
10~20文字くらい前のテキストと僕は対話している。
自分で書いてテキストだけれど次の文字が現れる時、それらは既に他者のようなものだ。
(洗濯が終わったので中断)
(再開)
考えていないけれどこうやって別なことで中断されると思考はもう消えている。もう一度さっきと同じ状態にするにはやっぱり同じように書き続けていくしかない。
投稿者 TKM : 10:58 | コメント (0) | トラックバック
Jリーグの生い立ちとモラトリアムの発動について
朝ご飯を食べつつはて何時かな、とTVをつけると強面のオジサンが話をしている。
聞いていると「改革はトップダウンでしかできません。ボトムアップで改革はあるけれどそれは改革ではなく徐々に変わっていくということで...」と話が続く。
しばらくみているとJリーグ立ち上げの秘話だとわかった。
Yahoo!で調べると「ビジネス塾/川淵三郎・Jリーグをつくった男」の再放送であった。
スポーツマネジメントへかける熱い想いが伝わってきた。
惜しい。
タケザワにみせてやりたかった。
昨夜、急に右手の小指が痛い。
キーボードのスプリングが弱くなったのだろうか、リターンキーの感触に違和感を感じる。
朝のニュースをみるのはいつ以来だろう。
NHKの朝のニュースは農家の朝である。
アナウンサーの声をきいていると田舎とか農家の風景が思い浮かぶのである。
空が白んでいく。
築地にはターレットが行き交う。
井上(築地にある行列のできるラーメン屋。朝4時30分~午後1時30分まで営業)の前では築地の男達が麺をすすっていた。隣のターレットの荷台で朝帰りのサラリーマン二人が並んでラーメンと格闘している。
ところでこの国の財政は完全に破綻している。
TVのCMでは江角マキコが「年金がもらえないって誰がいった?」とPRするが実質的に年金問題はそんな言葉でごまかせるものではない。現在、国民から年金の積み立て額としてもらっている額が153兆円。一方で国が払うと約束している年金の総額は797兆円。(確定給付の場合)
国のバランスシートをみてみると負債額は年金を除いて711兆円。国の総資産額がおよそ701兆円くらいだから、この時点で年金分は完全に赤字である。
確定給付的な考えでいった場合、日本国は約800兆円(子供まで含めて国民一人あたり700万円)の赤字となる。確定拠出に移行していくとしても800兆円分は過去に国が保証してしまったお金だからこの部分をチャラにすることはできない。(それをやったら詐欺国家になる)
となれば国債の発行となるのだろうけれど、国債の財源は....税金である。
結局しわ寄せはこちらにかえってくる、というわけだ。
「ヤクザ・リセッション...光文社ペーパーバックス」のリアリティが増していく。
冗談ではなくモラトリアム(徳政令)の発動は避けられないと思う。
(現実的に考えるならば年金の約束は破棄されるしかない。年金基金の利率は絵に描いた餅であろう。それでも短期的には約束通り支給するのだろうからほとんど火事場泥棒である。ところでこの20年で日本は8000兆円のGDPを産んできた。この富みはどこに消えたのだろう?→答えは「道路、年金、社会資本」などつまりヤクザリセッションで指摘されているタカリの温床である)
まだ実感がないので日々は変わらないように見える。
しかし、心理的なリセッション(特にモラルとパッションの面で)が進行していくと、ある日突然、相転移が起こる。
カエルは熱湯に入れられるとパっと飛び出すが水から徐々に熱していくと逃げ出せずに茹でられ死んでしまうのだそうだ。
不思議である。
太陽は同じようにのぼり、朝は同じように訪れるのに人や社会は変わっていく。
バランス。
世界とはバランスのことなのだ、と思う。
++++++
追伸:いっちゃあなんだがWinnyの問題は茶番だ。パフォーマンスに過ぎない。秋葉原にいけば一つのソフトに100本くらいのファミコンのソフトがつめこまれたROMが普通に売っている。御徒町のパチモン屋には中国製のNintendo64のコントローラー型ゲーム機が売られている。このマシンはよくできていて64のコントローラーの形状にファミコンの基盤と150本くらいのゲームソフトをを詰め込んであり、コントローラーをTVのビデオ入力端子につなぐといきなりゲームパラダイスが現実のものとなる。
なんでこれを取り締まらない?(「コピー=極刑」にしたら明日から日本ではコピーは消滅する。同時に社会が窮屈になって体制も崩壊するだろうけれど。なんだっけ日本史でもあったな確か。田沼意次と松平定信だ。)
更にアジアにいけば珍しくもないがどこにいっても100円~500円くらいで上映中の映画を撮影したDVDが堂々と売られている。全てパチモノ。コピーである。
WinnyやWinMXの不正コピー配信問題の摘発など些事も些事。あのレベルの流通量で産業が崩壊することはない。仮に産業をおびやかすのだとしたら更にその上でどうやったら発展できるかを考えればいいだけだ。逆の発想でいったオープンソースの成功から何も学んでいない。何もかも形だけ。ポーズだけ。だから気分やモラルがリセッションへと向かっていく。日本国において全てのソフトはオープンソースかつシェアウェア、もしくは、コピーフリーにする、というモラトリアムの発令があったらどうなるんだろう。ソフトウェア産業は滅亡するだろうか?
そんなで競争力を失うようなソフトなら最初から消えるべき、ではないだろうか。
改革はトップダウンでなければならない、というのは今朝の言葉。
以前、日曜美術館をみていて知ったのだがパリという街はナポレオン3世がトップダウンでいまの形にしたのだそうだ。そういえば江戸もトップダウンでつくられた街だった。
いま日本にはトップがいない。
「ヤクザリセッション」の言葉を借りるなら、トップには小利口な強盗団がいるだけだ。
投稿者 TKM : 06:40 | コメント (1) | トラックバック
2003年11月27日
効率的な人の効率的な死について
「携帯で買い物」か。
僕はしたことがない。
ネットで買うことは稀にある。ほとんどはネットのサービスの契約だったりソフトである。
それでも1年に一回あるかないかだ。
理由は単純である。
「待つ」のが嫌いなのだ。
買ったらその場に欲しい。
時間にゆとりがあるので買い物の時間がもったいないという感覚にはならない。
街や店をみて歩くのが好きなのだ。
商品をみているというよりも関係性や人をみているのだが。
買い物、特に書籍に関しては書店で買うことにしている。
アマゾンなどのオンライン書店のサービスは殆ど使わない。
本屋で本を見て回るのが好きだからなのだが、こうした書籍の探し方は非効率だという意見もある。
目的の書籍や分野を決めておいてそのコーナーだけをみてパっと買い、読むことに時間をかける。
そういうやり方の人もいるだろう。
僕の場合は本屋を眺めるのはただそれが楽しいからなので効率・非効率ということは考えたことがない。
それを言い出したら、ご飯も
必ず一人で食べる。
黙って食べる。
噛まないでいいものを食べる。
(あるいはなるべく食べない)
方が効率がいい。
以前、あるミーティングの席で竹中さんがいっていた。
「あのね、効率的な人は効率的に死ぬよ」
++++++
ここ数年で次々と銀座に大規模販売店が出来た。ビックカメラやソフマップ、ブックファースト、無印、などである。それ以降、秋葉原にはほとんどいかなくなった。
投稿者 TKM : 15:43 | コメント (3) | トラックバック
2003年11月26日
ダーキーダック
ダーキーダックか。
スゴイ時代になったものだ、と感心する。
FLASHでこんなものまでつくれるのか。
移植具合も悪くない。
ネットスケープとモザイクが唯一のブラウザだった頃を思うと驚愕である。
それにしても当時のファミコンのゲームの音、センス、バランスは素晴らしい。
トランプや麻雀がいまだに遊ばれ続けているのと同レベルに初期のファミコンゲームには「遊ぶ」タイプのTVゲームの型の全てが盛り込まれている。
投稿者 TKM : 07:53 | コメント (0) | トラックバック
OS X本領発揮、そして、食い倒れと京城にみる焼き肉の本質
午前3時に目が覚める。
メールニュースをチェックするとOS Xのマルチユーザを使うとユーザ切り替えの際に3Dでグルグルと画面がまわるとのレポートがあった。この機能自体は知っていたが自分のマシンで試したことがなかったのでやってみた。
するとである。
別なユーザ環境ではOS10.3に入れ替えてからずっと不具合が生じていたブラウザ周りの障害やATOKでの日本語・英語切り替え時の誤認などが見事に解決されていた。ということは10.3以降で発生していた障害の原因はユーザディレクトリ以下にあるLibraryの問題だ。
標準でついているMailも大幅に機能強化されたと書いてあったのでMailも使ってみた。このApple社製ソフトは2年前以上前にOS Xに変えた時に使ってその速度の遅さに辟易した。それ以来使っていない。
起動していろいろ設定してみるとなんと快適である。サクサクと動く。そうか、これが10.3の実力か。感心しながらエディタやブラウザ周りなどいろいろと設定しているともう5時になっていた。
あらかた設定が完了しRSSリーダの再設定も終わり友人のブログをチェックしているとMr.食い倒れのページで京城が紹介されていた。この店、前から一度いってみたかったが遠いのと並ぶのが嫌でまだ訪れたことがない。食い倒れのレポートをみると素晴らしい肉である。これはうちの父に連れて行ってもらうのがベストと判断。
牛タンの感じは月島の「凛」とスゴク似ている。
唐突に断言させてもらうが焼き肉というのは炭焼きかどうかなんてのは美味さと全く関係ない。
いや、あるかもしれないがそれがメインとなることはない。
全体に占める炭の役割は5%にも満たないであろう。
重要なのは設備でもタレでもなく純粋に「肉」そのものの旨さである。
いい肉。
それに尽きる。
それにしてもMr.食い倒れ、最後にクッパをやるとは恐るべき胃袋。
彼にとって食ジャーナリストは天職に違いない。
投稿者 TKM : 05:56 | コメント (2) | トラックバック
2003年11月25日
何故、タツヤ→タッチになったのだろうか
雨の月曜、と思ったが今日は火曜日だ。
肩の怪我は大分回復してきたがまだギブスは外せない。
今日はレントゲンで骨の具合を確認してこよう。
なんだかとてもいい気分である。
夢のせいだろうか。
心地よい夢だった。
合宿にいっていた。
大浴場にいくと高校時代の友人の天才・青木がいた。
相変わらず芸人魂が徹底しており。
地元の小学生と馴染んでいた。
ところでその合宿だが否応なしに縦社会の存在を感じずにはいられない体育会系のものではなく「タッチ」や「エースを狙え」を彷彿とさせる一世代前の軽井沢な雰囲気が漂う合宿だった。今思ったのだが「タツヤ」だから「タッチ」というのも安易なネーミングだ。しかし、あれが「タツヤ」だったらあの漫画もアニメも全く泣かず飛ばずだったのだろう。ネーミングは大切だ。
合宿ではとても大切な人にあった。
それは覚えている。
遠く過去から続く二重螺旋の向こうにある絆を感じる人だった。
誰なのかはわからない。
短い時間だった。
しかし「通じ合う」を体験した。
目覚めてベランダにでると雨だった。
静かに雨は降っている。
ガスファンヒータのスイッチをいれるとスタータ音が鳴り、しばらくして温風が吹き出し室内を満たしていった。窓のガラスに水滴がついているのが見えた。
訂正:雨は異様に強くなってきた。
投稿者 TKM : 15:09 | コメント (2) | トラックバック
高田延彦
銀座のブックファーストで「泣き虫」(金子達仁・高田延彦)を読む。
高田の追想の形で何気なく書かれているが内容は衝撃的である。
ミスター高橋のあの本よりも遙かにリアリティがある。
猪木の付き人をしていた高田がIWGP決勝戦の後、渋谷のいきつけのバーで悶々と飲んでいたという独白。
例のアックスボンバーの夜のことである。
猪木はホーガンの放ったアックスボンバーで失神KO。
表向きはということになっている。
高橋もあれはいわゆる「アングル」であろう、と書いていたが実際に付き人をやっていた高田の口から語られるとリアリティが違う。
更に、猪木引退興行まで新日のドーム興行での最高動員記録をもっていた「武藤vs高田」の新日vsUインターの対抗戦は試合前に高田が足四の字で負けることが決まっていたと、高田はいう。Uインターを率いる高田の読みとしては初戦で負け、再戦で勝利、以後、五分五分にもっていって最終的にはUインターを盛り上げるというシナリオだったがこの条件についてのネゴシエーションは新日の方が一枚も二枚も上手だった。
実際には初戦の結果だけが人々の記憶に残り、以後、どんなに好勝負を繰り広げても初回の黒星によって「高田は武藤に負けた」という印象は薄れない。初戦敗北という結果はその後の高田、Uインターにとって決定的な一撃となった。
新日側のしたたかさである。
また、これも初めて知ったが高田の引退試合は実は「Dynamite!」が予定されていた。
相手は柔道王・吉田秀彦。
ところが不運にも二人の対戦は夢のカードとなってしまう。
理由は二つあった。
試合数週間前に吉田が肩を負傷。吉田サイドは打撃なしのルールを提示。打撃を封じられれば高田が圧倒的に不利。時期をズラして再戦という案もあった。しかし、その夏、高田はムカイとともに最後の希望をかけて不妊治療を目的とした渡米が決定していた。
そして吉田はホイスと対戦。
袖車による勝利で夏の夜を飾ることになる。
ヒクソン戦に関しても二戦目は高田vsヒクソンではなく前田vsヒクソン案が進んでいた。
一方、高田はヒクソンとの再戦を前にタイソンとの異種格闘技戦がほぼ決まっていた。
仮に高田が勝利していれば。
野獣タイソンと組み合う高田の姿が東京ドームにはあっただろう。
投稿者 TKM : 02:45 | コメント (0) | トラックバック
2003年11月23日
ネットの便利
今日の「おお、ネット、素晴らしい」と思った瞬間。
勝どきの郵便局のATMは土曜は何時までだっけ?
以前は12:30だったけど?
と思って
「勝どき ATM 郵便局 営業時間」
で検索すると一発だった。
結果は17:00まで。
駅にいくついでに寄ることができる。
こういうのって些細なことだがとても大きい。
投稿者 TKM : 16:12 | コメント (0) | トラックバック
ブラームスとコンテンツと二日酔いの意味論
電子出版とコンテンツについてちょっと考えてみた。
吉野屋の店舗でフレンチのフルコースを食べたら味は同じでも印象は大分違うだろう。
人がおいしいと感じる時味そのものが締める割合は30%くらいだとどこかで読んだ。
70%はコンテクスト、環境、状況によって決まるらしい。
登山にいって山頂で飲む水と部屋で飲む水では味が違う。
釣りにいって船から水平線にのぼる朝日をみながら食べるコンビニのお握りと昨日映画館で食べたコンビニのお握りの味は違う。
酒を飲んだ後に食べるラーメンの味としらふで食べるラーメンの味は違う。
二日酔いの昼に「トンカツを食え」と言われたら絶対に断る。
先日、鎌倉に行くとき横須賀線にのった。
僕は肩を骨折しているからまあいいだろうとシルバーシートに座っていた。
隣の老夫婦が座った。
上品そうな夫婦だったが旦那さんがスーパーの袋のような包みを持っていた。
二人が座って10秒くらいして猛烈に吐き気がしてきた。
餃子の匂いがあたりに充満していた。
老人の持つ袋の中身は餃子であった。
ウマイはずの餃子だが二日酔いの身には毒薬である。
また料理店で嗅ぐ餃子の匂いは悪くないが電車に充満すると毒ガスと変わらない。
僕はコンテンツの本質も上記の例と同じだと考える。
「コンテンツの良し悪しの70%はコンテクストに依存する」
ブロンソンの映画は最低につまらない。
しかし、あのセリフと妙な動きに注目するとバカ面白な映画に変わる。
実は猪木の試合にはしょっぱいものが多い。
しかし、時折みせる妙なパフォーマンスでしょっぱい試合が最高のエンターテイメントに変わる。
猪木はコンテクストを逆転させるのが天才的にうまい。
本にしてもそうだ。
シャーロックホームズの現行をコナン・ドイルが出版社に持ち込んだら、全部断られた。
それが米国で出版されてイギリスに逆輸入されると爆発的に売れた。
最近ではあまり名前をきかなくなったが「りんぐ」「らせん」「バトルロワイヤル」も編集者の机の中でずっと眠っていた原稿である。編集者にとってはつまらない原稿だったのだろうか?
ブラームスもそうだ。
(とまた結論できないのでwikiへ)
投稿者 TKM : 14:38 | コメント (0) | トラックバック
トム・クルーズと野馬きち達
Witness to War
Return to Afghanistan
上記のコンテンツがここで紹介されていた。こうしたコンテンツはFlashレポートというカテゴリーに位置する。
インターフェイスやインタラクティブな仕掛けなど外見はCD-ROMのマルチメディアタイトルと似ているが印象は異なる。デバイスとしてCDやDVDが介在していないことが全く違う印象を与えるのである。
断言してしまうがあと1~2年くらいでこういうコンテンツが手軽に手帳くらいのデバイスか携帯でほぼフリーでほぼ無限に観られるようになるだろう。それが自然な流れだ。本を買うようにデジタルデバイス用のソフト、コンテンツを買う?
馬鹿な。
断言するがそれだけのインセンティブはネット上のテキストにはない。
勿論、マーケットサイズが1000とか10000というスケールならあり得るが100万や1000万というスケールではあり得ない。
電子出版に関しては現行ではマーケットサイズを読み違えている。
メーカー主導のあの形では普及しない。
ことネットワークとコンテンツに関してはメーカーオリエンティドでうまくいくことはない。
すべてのウェブページが有料だったら誰もサイトなどみない。
ここはかなり重要である。
ネットだってブログだって無料だから僕はみている。
有料だったらみない。
声を大にして言いたい。
有料だったらみないし、無料で面白いものがどんどんでてくる。
それが道理だ。
不思議だがネット上のテキストにおいては無料と有料の差はそれほど大きくない。
そしてその差が大きくなかったら誰も迷うことなく無料のサービスを利用する。
それが道理だ。
無料でいいもの。
それがベストであろう。
コンテンツはそこに向かっていると思う。
安くてより良いもの。かつ、それで人々が潤う。
そこに向かうのが世の道理だ。
作者の報酬云々は後からついてくる。
「ほしのこえ」の新海さんの場合は映像なので単純に比較はできないが、新海さんのコンテンツがネットで公開されてダウンロードに1000円~2000円かかるとしてもダウンロードすると思う。また、エヴァが最盛期の頃、次のビデオはいつでるんだ、と心待ちにしていた時などはネットで公開されていたらやはり1000円~2000円は払ったと思う。映像にはそれだけ人をひっぱる力がある、ということだろうか。
PC上でよむ手塚治虫の漫画(ミクロイドS)をネットで買った時は全く迷わなかった。
しかし、テキストをダウンロードして読みたいとは思わない。
おそらく「ダウンロード」という部分がひっかかっているのではないだろうか。
映像や画像はダウンロードしてもいい。
しかし、文字は面倒なのだ。
ちょっとした違いだけれど、ココはデカイポイントだと思う。
僕の主観だけれど。
話はかわるが「ラストサムライ」を観た。
合戦のシーンに関して言えば僕の田舎で毎年行われている軍事演習の方が遙かに迫力がある。
なにせ平将門の時代から続いている伝統というやつは伊達じゃない。
600騎の騎馬武者が繰り広げる戦国絵巻はまさにタイムスリップ。
国宝をまとい、本物の刀を腰にさして武士が復活する2日間は異世界の出来事だ。
興味がある人はメールかこのページから問い合わせして欲しい。
詳細情報をお伝えする。
トム・クルーズはユマ・サーマンに比べると遙かに日本語が上手だった。
しかしインパクトはない。
許容範囲だ。
同じ日本語の使い手としてみた場合どうしても「KILL BILL」ユマ・サーマンのアレのインパクトには勝てない。
セリフ群のバカっぽさと掛け合いには正直ヤラレタ。
が、あの舌っ足らずさがまたリアルであったりもする。
あれぞ映画だ。
それとこれは何故なのかわからないのだが、この映画、不思議と安っぽいのだ。
おそらく和服や甲冑を見慣れているせいだろう。
トム・クルーズの和服姿が浮きまくっている。
人間をCGで表すと途端に見るに耐えないのと同じだ。
甲冑や武士スタイルはTVや現実(僕の場合は毎年観ている)で見慣れているのでトムクルーズがどう着こなしても微妙なところで違和感を感じてしまう。
真田広之や渡辺謙に比べると似合わないのだ。
最後の合戦シーンが好きじゃないのでこういう感想になってしまうんだろうな。
それでもヒロインの存在感は圧倒的だった。
正直なところトム・クルーズよりも印象が強い。
いまはいないが、過去にはいたかもしれない憂いある日本の女性がそこにはいた。
その表情も素晴らしかったが、それ以上に印象的だったのは彼女が自分の子供に話しかける時のセリフと声である。たしか
「足はあらいましたか?」
みたいなセリフだったのだが、このセリフが素晴らしかった。あれなのだ。あの感じこそ侍なんだが。わからないだろうな、この感覚は。このセリフのファンになった。
と、いろいろいっているが福島県相馬地方の人々は必見だ。
馬と甲冑には日本で一番うるさい人々だからこれでもかと随所に出てくる馬と甲冑シーンはかなり気に入ることだろう。
投稿者 TKM : 05:24 | コメント (0) | トラックバック
移転完了
米国のホスティングサービスを使っていたのだがその会社がinterlandという会社に吸収合併されて以降、サービスの質の低下が著しいので利用しているサーバを切り替えた。1日ほどkagaya.comのドメインが使えなかったが24時間で無事移転完了。
とても快適かつ高速である。
しかもコストは10分の1になった。
国内のサービスも素晴らしいものがでてきた。
感心してしまった。
詳しく知りたい方はメールかこのページでご連絡ください。
手続きなどの経緯をお知らせします。
投稿者 TKM : 03:43 | コメント (0) | トラックバック
2003年11月20日
金持ち頭脳
こういうコンテンツも面白い。
どうしようもないほどどうでもいいコンテンツではあるけれど、質問に答えて自分用の結果(見せかけ上であっても)がかえってくる、というこのプロセスが面白い。
僕の結果はこうだった。
「測定不能」というのは当たっているような気もするがなんでこうなる?!
投稿者 TKM : 04:07 | コメント (9) | トラックバック
googleとブログとWikiとさくら蕎麦
とWikiに書いておいたらWiki経由でたくさんのアクセスがあったんですよ、と増田さんに言われた。
はっきりいってこれは自分の勘違いなのだが登場した増田さんは自分の中にあったイメージと全くかけ離れて若い方だった。
解説をすると「増田」という名前とサイトの小さな写真から僕の中ではイメージがもう一人のマス→桝山寛と微妙にリンクしてしまっていたのだ。なので増田さんも40歳くらいの人だと勝手に思いこんでいた。
実際にお会いしたら同世代の方であった。
それはさておき。
増田さんの話で面白かったのは米googleの社内のナレッジマネジメントの方法についての話だった。
google社内では社員全員がブログをもち、それをRSSアグリゲータで収集・フィルタ・編集して全員が共有しているのだそうだ。誰が何をやっているのか、ということがそのチャンネル・メディアでわかる、というわけだ。最初はWikiなども利用してみたのだが現在の方法に落ち着いたとのことだからその形式はある環境では有効なのあろう。おそらくこれにはブログの形式がかなり大きく影響していると思う。つまり、どんな人も一度ブログをはじめると半自動的に毎日何かを書き続ける、書き続けやすいので、情報が常に動いている状態になる。昨日のエントリーでも書いたがネットのテキスト・コンテンツが持つ最大の魅力はこのダイナミズムなのだ。
江渡君から芸大の授業でのWikiの活用事例について詳しくヒヤリングしていたのでWikiを使ったナレッジマネジメントの実態についてはをある程度のイメージはあった。しかし、ブログをつかったナレッジマネジメントの実際については初耳だったのでとても新鮮な話題だった。
Wikiは時間、構成人数の面で局所的に密度の濃いグループが発生し消え、発生しする、という形を容認できる集団でのナレッジマネジメントに向いている。いや、言い方が違うか。Wikiは「必要があったら使う」という環境に向いている。
そしてここがポイントだと思うのだが米google社でブログによるナレッジマネジメントとWikiによるナレッジマネジメントはユーザ管理のあるウェブサイトとユーザ管理のないウェブサイトの違いではないだろうか。
この話何かに似てるなあ、と思っていたがいま思い出した。
「Macを使って書かれた論文と別なシステム(Dos/Unix)を使って書かれた論文では文章の感じが違う」
僕が学生時代に教授らがよくそんなことをいっていた。
僕の世代のSFCの人達なら、ああそういう話よくあったっけ、と思いあたるだろう。
++++++
僕はブログを持っている友人6人のサイトをRSSアグリゲータを使ってみている。
IMほどのリアルタイム性はないがデイリーもしくは何時間毎といった単位でその人が感じていること鼓動や空気が伝わってくる。一度この面白さを知ってしまうとやめられなくなる。僕にとって「友人のブログ」というコンテクストはかなり大きくテキストの価値に影響を与えている。
WikiにはWikiの良さがある。
それはRSSリーダとブログという組み合わせによって僕が感じている魅力とは全然別なものだ。
Wikiに触っていると、考えたり、つくったりしたくなる。
発信ともまた違う。
かといって独り言でもない。
ブログだろうとWikiだろうとそんなものは関係ない、面白ければいいじゃないか、という意見もあるかもしれない。けれど、その意見はここでは全く的はずれだ。僕がここで言っているのは内容の面白さについてではない。メディアとしてツールとしてそれを使うことの面白さについて言っているのだ。
僕はMacに初めて触ったとき、素直に「面白い」と感じた。
その時の「面白さ」と同じ種類の「面白さ」について僕は話している。
(これも完結しないのでWikiにもっていこう)
++++++
ところで野知さんに飯野ビルの地下にある蕎麦屋を紹介された。そこの「桜蕎麦」。これがなんとも僕の好みの一品だった。実は僕は冷やしたぬき蕎麦が好きで、サクサクした天かすとガッともってある蕎麦とツユが一緒になってるとなんともいえずそそられるのである。猫舌なのも冷やしが好きな理由の一つではあるのだけれど。
飯野ビルの地下の桜蕎麦はチープといえばチープだが小諸蕎麦のチープさではなく、時間が止まった味が懐かしくもあり、優しくもあり、はじめてなのに馴染みの味がするのであった。
投稿者 TKM : 03:13 | コメント (1) | トラックバック
2003年11月19日
Wikiとブログとシュレディンガーの猫
気づくとiMacの画面が20インチになっていた。AppleらしいといえばAppleらしいが何でいつもディスプレイをデカクするのだ?
17inch Powerbookの時も思わず首をかしげたが。今回は20インチだ。どうせなら20インチの廉価版シネマディスプレイを出して欲しいものだが。
ところで昨夜からWikiをいろいろと試している。Wikiを使っていると思考の方向がMTなどのブログツールとは全然異なるモードに入る。
例えるならばWindows3.1と漢字Talk7とでもいうか。
初期の頃のWinとMacの違いに似ているかもしれない。
どちらが優れているかという問題ではなくて二つは別なものだと思う。
僕の印象だがWikiはローカルに欲しいツールでOSに統合されるべき機能、という気がする。
一方、ブログはパブリッシングツールなんだなきっと。
エディタがどんどん進化していくとWiki的な要素が加わっていき。
この機能がブログのようなパブリッシングツールとシームレスにつながると「個人=コンテンツ」あるいは「マシン=コンテンツ」という状態になり、コンピュータはそれを使って何かをするための機械というよりも能動的に個人や環境を情報に変換するインターフェイスのような機能にシフトしていくと思う。
Wikiとブログの違いについて考えることは、何かこう、人と情報の関係性、人が情報をどう活かしていけるか、いくのか、ということにつながってくると思う。
うーん、うまく言えないのだけれど、本当はウェブページなんてなくていいんだと思う。
ブラウザの限界点がみえるというかブラウザインターフェイスの限界があって、それは画面の表示を3Dにするとか関係性をビジュアライズするとかいったやり方での解決ではなく、もっとシンプルで物事が勝手につながっていく感じなんだと思う。
極端な話、リッチ広告も綺麗なコンテンツも誰も見なくなる。
なんかそれが本筋じゃないかな、と思うのだ。
うまく言えないんだけれど、例えば「恋とTVを見ることとどっちが幸せ」みたいな、そういうことになってくる気がするんだな。
もうちょっと砕いていうと。
個人には個人のツボがあって、例えば、車を買うとき僕の田舎だと親戚に車のディーラーがいるとそのディーラーが扱っている車を買うことが多い。田舎だとまだ血縁が強いからだ。TVや雑誌でどんなにすり込みがあっても血縁が優先される、という状況があった。少なくとも10年くらい前までは。
ブログとかWikiの先にあるのはこういうことが情報的に起こってくる未来じゃないかと思うのだ。勿論、形は変わってくるだろうけれど。
その人がどんなコンテクストにあるかによって最も影響力を与えるやり方というのは変わってくる。
最良の方法は状況に応じて存在し、その時々でベストの方法がある。
状況によってはベンツよりも軽トラの方が価値を持つことがある、というわけだ。
整理するとWiki・ブログ的なことはネットの世界で起こっていることだ。
けれど、これがいろんな分野で起こり始めたらどうなるだろう?
僕はWikiやブログがやっていることは「関連性を折りたたむ」ことだと思う。
紙の本とネット上のテキストの最大の違いも「関連性を折りたためるかどうか」だと思う。
ここで大切なのは「ネット上の」という部分である。
電子ブック端末は流行る流行らないは別としてどんどん紙に近づいていくだろう。市場がどうなるとか、コンテンツがダメだ、とかそういう事とは関係なく端末は良くなっていく。
しかし、そんなことはどうでもいいのだ。それは起こっていることの本質ではない。
問題の本質は「関連性の折りたたみ」にある。
これは非パッケージを指す。
先日、石井先生に紹介された「木簡・竹簡の語る古代中国」に詳しいが、木簡のように完成形がない半パッケージ状態。シュレディンガーの猫状態なパッケージ。
この非決定的な状態が「今」としてそこにあること。
それがネット上のコンテンツ、テキストが持つ決定的な力だと僕は思う。
これはもう、シミュレーションと実体験の違いというか、もう別ものなのだ。
林檎についてどんなに素晴らしく表現された表現でも、それが林檎の味を体験させてくれることはない。
この違いがネット上のコンテンツとパッケージ化されたコンテンツの間にはある。
勿論、パッケージの力も同じくらい強力である。
だから、やはりこれは別もの、と僕は思うのだ。
本質的に今と未来の境界が曖昧で揺らいでいる。
ネット上のコンテンツとパッケージの間にはこのモードの差がある。
しかし、未だにPCとネットワークとブラウザというインターフェイスではこのモードの差を生かしきれていない。
電信扱いの振り込みみたいにビュンと関係性のダイナミズムが飛び込んでくる、みたいな、そういう魅力があって。ブロードバンドになって常時接続になって、特に自分が変わったのは端末の前にいる時間がどんどん長くなってきてるということで、TVなんかよりは遙かにネットに触れていた方が「面白く」それは潜在的に関係性のダイナミズムの鼓動みたいなものを感じているから、伝わってきているから、だと思う。
それは偶然性という言葉でしばしば表現されるけれど、偶然は本当に偶然なのだろうか。
ここなのだ。
ネットを一つの非パッケージ型パッケージとしてとらえた時にネットが持ち込む「面白さ」の本質は。
(このテキストはブログに載せるけれどブログには向かない。今日の今には結びが書けないからだ。なので
メモ:感覚的なことなんだけどWikiはブログよりいち工程すくない感じでそれが使っているといろんなところに影響を与えているんだと思う。ブログはブログでコメント機能がエントリー単位でついてることが別世界をつくりだしてると思うし小難しい理由ではなく、案外とこうしたえらくシンプルなところに本質があるように感じる。
投稿者 TKM : 05:08 | コメント (4) | トラックバック
2003年11月18日
wiki
どうもブログツールにもどかしさを覚えたのでwikiをインストールしてみた。
やってみてびっくり。
5分でインストールが完了。
これなら誰でもHTML無しでCMS的な管理のきいた高度なウェブサイトが構築可能である。
なんてこった。
異様に簡単で焦った。
これは...スゴイ。
投稿者 TKM : 04:10 | コメント (1) | トラックバック
2003年11月17日
積極性と行動とプライオリティとネットワーク
先日、矢坂さんといろいろと話をしていて意志決定の話になった。
意志決定といっても難しいことについてではない。
僕はよくパーティやイベントに顔を出すが実はかなり迷った末に行動していることが多い。
そこにいくとどんないいことがあるのか?
いってみたい気もするけど、どこか面倒な感じがもする。でも、なんでだろう?
このようにいくべきかいかざるべきかをかなり迷う。
矢坂さんの場合はどうやってるのかを訪ねてみた。
すると自分のやりたいこと興味あることの場合はまず迷うことなくスパっと動ける、とのことだった。
確かに納得である。
自分も格闘技関係のイベントや友人との酒席だと全く迷うことなく顔を出す。
必然性の有無と強烈な魅力や興味を感じるかどうかがポイントなのだろう。
しかし、ことはそう簡単ではない。
世の中のメディアによって「迷ったら行動してみるべき」とか「積極性が人生を切り開く」というすり込みがされているからだ。スパっと行動できないと、やらない自分は「間違っている」という気持ちがしてくる。
けれども。
そう、けれども。買うべきか買わざるべきか、いくべきかいかざるべきか、と迷ったり悩んだりしつつ僕はこう思った。
自分の中身が変わっていくと情報は勝手に向こうからやってくる。
積極性という名目でガツガツと行動することは目的ではない。
ネットワークも手段であって目的ではない。
「経済学は手段であって目的ではないんです。いいですか。いつのまにかこの部分がすり替わってしまうんです。忘れないでくださいね。目的と手段。そこが注意が必要なんです。」
大学1年生の時に受けた経済学の授業で竹中平蔵先生が授業でいった一言である。
例えば竹中先生だが彼は大臣になるために大学教授をやっていたわけではない。エコノミストとして経済の研究をやっていたのだ。ガツガツとネットワーク構築にいそしんでいたわけではない。結果として大臣をやっているだけだ。
石井先生。
石井先生も興味のおもむくままに情報社会を見つめる視点を模索し続けている。結果として様々な役職が後からついてきているのであってそれが目的であったわけではない。石井先生から学ぶべきはその視点とスタンス・距離感。人との接し方である。あのモードを学べれば物事はスムーズに流れていく。
というわけで僕が思っているのはこういうことだ。
積極性は重要だがそれは無理のある積極性であってはいけない。
考えることなく行動するスムーズな積極性でなければならない。
かといって無駄を省けというわけでもない。
勇気を出せ、というようなものいいは詭弁である。
単なるアジテーションに過ぎない。
本当に必要なこと、本当にやりたいことに直面した時、人は何も考えない。
そうしたスムーズな積極性に基づく行動によってのみ人のネットワークは機能する。
簡単にいってしまうと常に物事や自己をよくしていきたい、という気持ちが大切で積極性や関係性・ネットワークというものはそこについてくる。アクティブに動き回ること自体は目的ではないのだ。
更に付け加えると忙しそうにしている自分に酔っているだけというケースって多くないだろうか?
理想的なのは自由奔放に悠々としながら関係性が能動的にダイナミックに躍動している状態だ。
悠々というのが重要である。
関係ないが僕が嫌いな言葉は「忙しくて出来ない」である。
忙しくてできないということはありえなく、全ては行動のプライオリティの問題だ。
++++++
なんとなく1101.comを数ヶ月ぶりにみた。
元気について書かれたこのコラムを発見した。
なんとなく似ているテーマだと思った。
1101.comにもトラックバックとかコメント機能ってあったら楽しいと思う。
投稿者 TKM : 15:21 | コメント (2) | トラックバック
パリの朝食
その街は光りに溢れていた。
前の席で食事をしていた中国人の女の人がここはパリだと教えてくれた。
ガツガツとかっこむように食事をしていたら彼女が
「わたしのも食べてみるか?」
という。喜んでとまた食べ始める。中国語で何かはなそうとするが
「おいしい」
「今晩のみにいきませんか」
しかわからないので会話にならない。しばらくするとギャルソンがきて何やら打ち合わせをしている。タクシーが止まって僕の連れは
「じゃあ、いってくるわ。バスにのって向こうにいけばいいから。あの光ってるのが凱旋門で、向こうが...。」
といってブーンとどこかにいってしまった。水の上に浮かぶその街をしばらく眺めていた。
夜である。
全てが光りにつつまれている。
水に浮かぶ金色の都市。
その20分前。
アルプスにいた。
まだ雪は多くない。
スノーボードで山頂からおりていく。
幾度も幾度も滑降を繰り返す。
その20分前。
父が運転する車で山に向かう。
駐車場がないので裏にまわるとそこは浦になっている。
浦の路地は狭く、教習所のクランクを半分にしたくらいである。
しかたなく、街を巡る電車に飛び乗ろうとすると漁師のオジサンに「いまはアレの時期だよ」と言われる。電車の窓にはガラスがない。座敷のような車両である。窓枠につかまってよじ登ろうとするが力がうまくはいらない。客席をのぞくと原色でできたチープな3D画像、パラッパラッパーのグラフィックスみたいなもの、がホログラフィーのように人々の顔を表現していた。
再びパリに戻ると宮島さんが「足は○○。手は○○。それじゃ頭はCPU。」とパフォーマンスをやっていた。みんな必死に聞き入っていた。
投稿者 TKM : 12:32 | コメント (0) | トラックバック
鎌倉とBBQとwiki
先週は寒い日が続いたので今日も鎌倉の冬空の下でBBQを覚悟していたのだが予想に反して春の陽気。
駅の改札を出てみると爽やかな風。
道ばたでは木琴と弦楽器をあわせたような楽器を演奏する人がいて「川のながれのように」を弾いていた。
中国を思わせる音色だった。
++++++
「wikiとブログの違いについて感想がかかれたこのエントリーを読んでいてなるほどと感心した。
確かにblogは書いた順番に下へ下へと埋もれていってしまうので推敲して書く、という書き方には向かないかもしれない。糸井重里さんがデイリーヨミウリのインタビューでいっていたことを思い出した。彼はサイトをはじめるときに「考える」ではなく「感じる」でいこうと考えたらしい。
そのインタビューがとても面白かったので以前、会ったときにその話をした。
ほぼ日はブログみたいなものだけれどブログとは異なる。
どこが違うのだろう?
投稿者 TKM : 03:37 | コメント (0) | トラックバック
2003年11月16日
雑感報告
MacOS 10.3にアップグレードしたらあまりにも調子が悪いので再度インストールすべく矢坂さんの力をかりるのに新宿へ。
オカダも合流してビカン。
更にオカダの新居を訪問。
参宮橋。
更に矢坂さんにワインをご馳走になる。
朝、月島に帰宅。
そして今日はBBQ。
楽しみである。
投稿者 TKM : 06:23 | コメント (0) | トラックバック
2003年11月15日
信頼とベストの関係性
信頼について考える。
実は信頼するというのはとても難しい。
大抵、人との問題は人に対する信頼が揺らぐことから生じる。
疑心暗鬼である。
どんな些細なことでも信頼が揺らげば過大解釈が可能である。
情報なんてのは特にそうである。
固定できないからその時その時で意味が変わってくる。
人を信頼することが難しいのは信頼は裏切られるかもしれないという恐れがあるからだ。
およそ人に最も深いダメージを与えるのは信頼していたものが裏切られる時であろう。そういう時、人は激昂したり、落胆したり、破壊的な行為に走ったりする。
しかし、よく考えてみれば信頼というものは自分の中にあるものだ。
相手の中にあるわけではない。
言い換えれば自分が決めつけている未来に過ぎない。
その未来がズレたところで落胆したり激昂したりする必要があるだろうか。
現実には予想通りの未来がくることの方が稀だし、天気予報が外れたからといって激昂する人はいない。
それが人が相手になった途端、様子が変わる。
人の心だって常に同じでいるわけではない。
天気みたいに晴れの日もあれば曇りの日もある。
嵐の日もある。
人の心もそういうものだ、と思っていればいいのである。
相手の態度で自分や信頼が揺らぐ必要はない。
晴れの日はピクニックにいくように気持ちよく接すればいいし、寒い日は厚着をし、嵐の日にはカッパでフル装備するとか、家でゆっくりすればいい。人の意識は常に一定であるわけではないのだ。その時々に応じて相手とベストの関係性をつくっていく、本当の信頼とはそういうものである。
そういうつきあい方ができるようになれれば人に起因する問題は無くなる。
過剰な期待によって自分でドラマをつくりあげ、勝手に激昂し、勝手に落胆するのははっきりいってしまえば「暇」な人のやることだと思う。
僕はいまでも覚えている。
小学生のある日、どこかでこんな話を聞いた。
「人生で一番幸せな時間はいつですか?」
僕も一緒に考えた。
その女の人はこういった。
「私の一番幸せな時間は何も考えていない時間。幸せな時間って何も考えていないような気がするな。」
投稿者 TKM : 19:11 | コメント (2) | トラックバック
2003年11月14日
人、その奥
僕が魅力を感じるのはその人の声があるコンテンツである。
当たり障りのない綺麗なコンテンツにはあまり興味がない。
そんなものは雑誌にまかせればいいと思う。
僕が触れたいのはその人の声である。
エンターテイメントであることと面白いか面白くないかは別だ。
面白さはコンテンツと自分との関係性によって決まる。
僕が面白さを感じるもの。
それはその人の「声」だ。
これは僕の考え方なので他の人は違う意見を持つだろうし、僕が面白いと感じないコンテンツを人は喜び、面白いと感じるだろう。
これまでそういう乖離に対してあまり興味を持たなかった。
批判することも、批評することもしなかったし、これからもしない。
そんな時間はないのだ。
昨日、ふと考えたのだ。
惜しむべきものは何もない。
悔やむべきものも何もない。
やっておけばよかったとか、後で後悔するんじゃないだろうか、とか。
そういう思いは全く必要ない。
どの時点からもでも何でもできる。
これが本当なのだ。
楽しいことをしよう、とかワクワクすることをしようとか、面白いことをしよう、という田舎のバス停の待合い小屋にはってあるような標語は虚である。
実践できている時、人はそれを考えない。
そもそも楽しいことは何だろうかなんて考えない。
面白いことはなんだろうかとも考えない。
月は夜になれば現れる。
周期によって満月にもなるし三日月にもなる。
テーマや分野はおよそ関係ない。
いかなる場からでも奥に奥に奥に奥にと進んでいくと最後は人にかえる。
人は人であり人なのだ。
人は人を知れば人になる。
人の奥。
僕が知りたいのは人なのだ。
投稿者 TKM : 06:41 | コメント (1) | トラックバック
魔裟斗とノッキング
週末は魔裟斗の試合だ。
今回は武道館での一戦。
TVで公開練習をみたが素晴らしい仕上がりだ。
捕まって以来メディアに登場していないのがとても残念だが石井館長の手腕には恐れ入る。
K-1というイベントをつくりあげたのは単なるラックではない。
中量級の試合をあそこまで面白くくみ上げていった興行センスは猪木をしのぐ。
猪木の難点は自分が一番目立つところにいきたがるところだが石井館長の場合はポジションニングが上手い。どの位置が自分のベストかを把握する能力が卓越しているのであろう。惜しいかな、猪木にはそれがない。
内なる猪木と外なる猪木のバランスは悪い。
しかし、そのバランスの悪さが猪木の魅力でもある。
「バカになれ」は彼自身が自分に言い聞かせるている言葉にしか聞こえない。
魔裟斗はバカになれるだろうか?
投稿者 TKM : 06:22 | コメント (0) | トラックバック
SONYの電子出版
SONYの電子ブック端末が公開された。
端末はキーボードを備えており、電子辞書の延長線上といった形状である。
従来のダウンロード販売ではなく時限型閲覧にしてあるのは面白い。
しかし、どうせならフルオープンで中国並にどんなコンテンツでも自由に流通しとくれよ、くらいのはじけっぷりを見せてくれればいいのに。これじゃまだ広がらないよな。
オレが欲しいと思うようなサービスは毎日みているこの膨大な量のネット上のテキストをその日の分でいいからフィルタリングして個々人の興味にあった編集を加えてコンテンツ化し100ページくらいにまとめて、どんな端末からもみられるようにして欲しい。
そういうサービスがいま決定的にかけている。
そもそもブログが流行った理由はネット上に溢れるこの膨大な量の情報のインターフェイスとしてブログが有効だからである。人の知恵が共有できるというのは実はこういうことだと思うのだ。視点の共有化。それがブログの意味であろう。
ブログと日記の違いはそこにある。
個人の視点の共有化。
ここがインパクトの本質だ。
コンテンツの面白さにのみ注意がいってしまっていて全くこの側面は注目されていない。
面白いコンテンツはいくらでもある。
ブログの面白さは視点が情報発信的に表現されることであり、これは日記とは異なる。
差異の理由はフォーマットにある。
記事単位でコメントが残せるというこの恐ろしく単純な機能が持つ影響は強大なのだ。
日記は閉じている。
だから日記でしかない。
情報発信的にはならない。
ブログの周辺にネット上にコミュニティができていく過程をフォローしてみると違いがよくわかる。技術的な部分での情報発信的な構造とそれ以上にフォーマットがもつ「開けた」感覚が機能すると見る方にも、書く方にも影響をあたえはじめる。
個人的な意見だが電子書籍はブログにみられるような視点の多様性を最大限に利用したコンテンツによってのみ拡大されるだろう。だれも電子本でハリー・ポッターを読もうとは思わない。メディアにはメディアに向いたコンテンツが存在する。
映画館でTVのプログラムを流しても誰も見に行かないのと一緒だ。
投稿者 TKM : 06:01 | コメント (1) | トラックバック
スナフキンの絵はがき
「猟奇的な彼女My Sassy Girl」観了。
見終わってアマゾンへのリンクを張ってからメモを書こうとしたらいきなりSafariが落ちた。
何回やってもアソシエイトプログラムにいけない。
再起動してもだめ。
必ずアソシエイトの入口で落ちる。
入れ替えようとすると現在Appleのサイトで公開されているバージョンは1.3では使えない。
そんなことをしているうちにメモの内容を忘れた。
10分前を振り返る。
立ち上がって、えーと。
そうだ。
思い出した。
「めぐり逢い」に似ているのだこの映画。
すれ違いと偶然と必然と運命。
自分も含めてなんで人は反応するのだろう。
そうあって欲しいという希望なのか、それともさらにその奥のシステムへの郷愁なのか。
++++++
ウテナについて書こうとしてその世界観を何と表現するのか忘れた。
恥美的世界観。
は自分の造語だ。
そんな言葉は存在しない。
パッケージに書かれていたのは。
耽美的世界観。
難しい言葉ですぐに忘れてしまう。
「たんび」と読む。
++++++
机の上にはフィンランドから送られてきたスナフキンの絵はがきがある。
目を閉じたスナフキンの表情は穏やかである。
幸福な人の顔。
投稿者 TKM : 05:24 | コメント (1) | トラックバック
かりんとうとデブラ・ウィンガー
前からみたいと思っていた「デブラ・ウィンガーを探して」を観た。
エマニュエル・ベアールも綺麗だったがデブラ・ウィンガーの存在感は圧倒的であった。
相変わらずトークの切れ味が抜群だったのはシャロン・ストーン。
話しているのだがその言葉が文字のように迫ってくる。
アクターズ・スタジオ・インタビューの彼女の回は素晴らしく(出演者はみんな素晴らしいのだが)、何度も繰り返しみたいと思った。
帰り道ネギを買いにスーパーに寄った。
なんだか「かりんとう」が食べたくて買ってしまった。
以前、買った時はコンビニに自転車をとめている間にみごとかりんとうだけ盗まれたのだ。
冷蔵庫に買ったものをしまってかりんとうの袋を開けると黒砂糖の甘い香り。
一つつまでガリっとやると口の中に砂糖の甘みが広がっていく。
カリッ、コリッっと囓ると止まらなくなりそうだった。
投稿者 TKM : 02:18 | コメント (0) | トラックバック
2003年11月12日
バカボンの秘密
バカボン=婆伽梵とは。
深い。
赤塚不二夫。
投稿者 TKM : 17:20 | コメント (0) | トラックバック
朝にキュービタル。石井先生ならこういうであろう「そりゃー、きみー、キュービタルだよ」
午前6時30分。
雨は止んでいる。
水曜日。
今週と来週の水曜日は築地が休みだ。
トラックの音がしない。
南の空に流れる群青色の雲が太陽に照らされ紅に染まる。
午前5時。
焼いた味噌づけの鯖と納豆の朝食。
外の空気は冷たい。
運河に係留してあるタグボート達のエンジンがうなり声をあげ出航していく。
昨日は一日中、コンピュータに向かっていた。
人類の幸せにはあまり貢献できない仕事であろう。
それでも何かに集中することは心地がいい。
人のやっていることで人々の幸せに結びついていることはそう多くない。
目的と手段は常にすりかえられるものだ。
ほとんどの人にとって仕事とは面白いからやるわけではあるまい。
毎回同じような問いかけだがこの世界からマネーが消えてもあなたはその仕事を続けているだろうか?
違うな。
「自分は」という問かけに訂正すべきだろう。
人がどうあろうとそれは人の問題だ。
自分にとって他者との関係とは散逸構造でありハーケンのレーザー理論だ。
友情や親愛、人を愛しいと想う気持ちは関係性のポンピングによって生まれたコヒーレンスに他ならない。
++++++
(以下、キュービタル研究会に書いたメモ)
格闘技観戦とキュービタルアイ・未来体験(加賀谷友典)
先日、やまけんと東京ドームにPRIDE GPの決勝戦をみにいった時のこと。スタンディングの展開の時は双眼鏡で選手をみている。しかし、グランドの展開になるとリングサイドの観客もスタンドの観客も一斉にLEDのスクリーンに目をやる。僕たちもスタンドで双眼鏡片手にリングをみつめながらもう一方では特設の巨大なオーロラビジョン(本当に巨大だった。しかもシースルー)でリングサイドやレフリーがつけているカメラ(レフリーズアイ)の映像に目をやる。
・肉眼でみたリング
・放送用のカメラの映像
・レフリーからみた選手の映像
これらを同時に全く違和感なく統合して僕たちは試合を観戦している。最初、石井先生がNTTで二つのアングルの異なるカメラの映像を前にキュービタルについて説明されたとき、妙な既視感があった。
どこでみたんだっけ?
ずっと考えていたが、あれは長年見続けていた格闘技の現場の体験と酷似していたのだ。
そこで思ったがスポーツ中継の手法は何故か複数の視点が同居する形で行われる。マラソンでもそうだ。TV中継だと選手を前方からとらえた絵をメインで表示しながら監督からみた視点を棲みに表示したり。
ただ、格闘技の場合はTVでの中継ではなくて現場での観戦の時に他のスポーツとは異なり完全にメディアが違和感なく入り込んでいる。自分の目以外の視点が常に共存しているのである。
吉田にけさがためを決められながら懸命に耐えるシウバの姿をみながらそれを思った。
この事例とは全く関係ないのだがテオ・エンゲロブロスの一連の作品に使われる「異化」的な手法。過去が現在ともつれるあの表現手法にもパラレルリアリティとキュービタルの気配を感じる。量子の世界では時間も歪むのだ。現在と過去が同時に存在することで生じる認識の乱れ。「永遠と一日」にでてくる遺跡での邂逅にも「もつれ」が表現されている。あれも一つの未来体験ではなかろうか。
さらにこれもどこかで関連しているであろうと僕が思うのは「偶然」についてである。何故このタイミングにこんなことが起こるのだろう?という偶然に誰でも出くわしたことがあると思う。やまけんの日記にある
http://www.yamaken.org/mt/kuidaore/archives/000088.html
な現象のようなシンクロは全ては偶然でしかなく、確率的には見知らぬ人とすれ違うことと変わりない。そこに意味を感じるのは我々の認識がバイアスをかけてしまっているだけなのだろうか?
僕は意味のキュービタル、パラレルさが存在すると思うのだ。おそらくそれは関係性、コンテクストによって生じる意味の多様性であり、測定者、この場合は主体である自己のコンテクストによって同一の現象が多数の意味を持ちうるということなのだろう。と、そう考えると、実は現象サイドの意味よりもそれを測定する側のコンテクストをどうパラレルに保持するかということに問題がシフトしていく。
現象側ではなく、我々の側に多層的、もしかしたら、時間的な意味での折りたたまれたコンテクストの維持方法が必要とされているのではないだろうか。
投稿者 TKM : 07:13 | コメント (0) | トラックバック
2003年11月10日
東京ドーム、ノゲイラ、そして吉田、魂のファイト
久しぶりの東京ドーム。
6万人がこの狭い空間に集っている。
僕たちは何をみにこの場にいるのだろう。
毎回、考える。
何を観に?
ローマ時代にも同じようにコロシアムに人々は集っていたのだろう。
吉田とシウバの試合が始まる時、独特の緊張感が会場を満たしていた。
東京ドームの中央に座したリングを6万人が見つめていた。
序盤、吉田の寝技に苦しむがシウバは耐えきった。
後半。
シウバの打撃で吉田の顔は徐々に鮮血に染まっていく。
だが吉田の心は折れない。
果敢に打撃をかえす。
技術ではなくハートだ。
心が打ちにいっていた。
打撃のテクニックでは遙かにまさるシウバが決められない。
もろに顔面に打撃をくらっているのに吉田は前にでる。
シウバに挑む吉田はいい顔をしていた。
セミファイナル。
ミルコは強かった。
グランドの展開になってもノゲイラが決められない。
タックルも切られ、2発、3発とノゲイラの凶器のようなパンチが顔面を襲う。
中盤でノゲイラは鼻からの出血。
全ての技が決まらない。
完全にミルコペースである。
格が違う。
相手にならない。
ミルコのハイがノゲイラをとらえた。
膝からノゲイラが崩れていく。
すかさずミルコが小太刀のようなパンチをたたき込もうとするその刹那レフリーが止めに入った。
ミルコのハイがノゲイラの首筋をとらえた瞬間、1ラウンド終了のゴングが鳴っていた。
ノゲイラはゴングに救われる形になった。
インターバル。
ミルコは汗もたいしてかいていない。
ミルコのパンチとキックを浴びたノゲイラは痛々しい。
判定なら負ける。
持つのか?
ダメなのか?
2ラウンド開始のゴング。
1ラウンドと同様にミルコが鋭い打撃を浴びせる。
ノゲイラは必死にガードしながらタックルを試みる。
しかし決まらない。
タックルは簡単にきられてしまう。
組み合ってもほどかれる。
捨て身でノゲイラが組み付く。
ニアロープだ。
それが幸いした。
ミルコをキャッチしてどうにか倒した。
ノゲイラが生き返った。
芸術的なボディーコントロールで一瞬にしてマウントを奪う。
次の瞬間。
ミルコはマウントポジションで下になっていた。
ここからノゲイラの怒濤の反撃が始まった。
背中でフックされたミルコの腕をほどきマウントから鉄槌とパンチ、肘を当てていく。
しかしミルコも凄まじい身体能力をみせる。
190cmのノゲイラをブリッジでかえす。
荒馬にのったかのようにノゲイラが後方にひっくりかえりそうになる。
しかし、柔術マジシャンは冷静にボディーコントロールを行い再度マウントを保持。
ミルコの腕を狙いつつ非情なマウントパンチを繰り返す。
再度ミルコが体勢をいれかえようと渾身の力でノゲイラをはじきとばす。
マウント状態を脱しミルコの上半身が拘束を解かれる。
が、ノゲイラはミルコの右手首を握って体を外にそらし、ミルコの右腕をロックする。
流れるような動きである。
ミルコの右腕が一直線に伸び、ノゲイラのアームバーが完全に決まった。
一瞬の出来事である。
感動的な勝利。
柔術マジシャンの復活であった。
投稿者 TKM : 01:59 | コメント (1) | トラックバック
2003年11月07日
デビルマンと曙
各紙の「ファイト」系のコーナーは「曙、K-1参戦」の持ちきりだ。
試合内容は期待できないが曙とボブ・サップというカードはDynamiteというよりもImpactはある。初回は吉田。今回は曙。フィクサー石井な空気が漂う。
昨日、Mr.食い倒れに「デビルマン」が実写化されるという話をきいた。するとこれも「出会い」なのか今朝一番になにげなくページをチェックしていると発見した。これが実写版「デビルマン」である。
Mr.食い倒れには新しい職として「フーダー」とか「食いプロ」などをやって欲しい。
投稿者 TKM : 10:26 | コメント (3) | トラックバック
2003年11月06日
CM
こういうCMつくってる人は楽しいだろうな。
世の中、楽しいことは探そうと思えばいくらでもある。
エジソンもいってたが1%が全てだ。
投稿者 TKM : 06:25 | コメント (0) | トラックバック
Revolutions観了
夜半過ぎ雨の銀座にでかける。
「Matrix Revolutions」の2回目の上映だが人は思ったよりも多い。平日の午前1時過ぎにこんなに人がいるとは。みんなどうやって帰るのだろう。
予告編をみていると「GANTS」が映画化されていた。
来春公開らしい。
Revolutionsは15年くらい前の映画を思わせるストーリーの荒さであった。
劇場でみなくても良いだろう。
DVDを待ちでも問題ない。
前作の後半でかいま見えた覚醒とドライブ感は消えていた。
説明的になり抽象度が下がっている為、クサいシーンがこれでもかというほどに出てくる。
駅のホームでのネオの起きあがり方と無機質な電車の雰囲気。真新しい電車にボロを着た運転士。
一瞬、ツインピークスの抜けた間合いを思ったのだが。
残念ながらそちらがわに「ヤラレル」ことはなく、プレゼンテーションの開始であった。
実に惜しい。あそこでいきなり向こう側に持っていってくれたらこの映画、別世界になっていただろうに。
Newsweekの酷評はちょっと酷いかなと思ったが見てみると確かに指摘は的確である。
僕が感心したのはこの作品であれだけのプロモーションをやってのけるその手腕である。
強力なプロモーションによって作品の良し悪しとは別に「観に行く」ことへの期待、実際に劇場で幕が上がるまでの楽しさ、といった行動そのものが目的化している。曲の良さとは関係なしにCMやドラマで使われた曲が売れまくるのと似ている。
映画という商品を熟知しているよなあ、と感心しながらプロモーションを振り返っていた。
マトリックスはプロモーションの教科書である。
投稿者 TKM : 06:13 | コメント (4) | トラックバック
2003年11月05日
銀座午後9時
プランタンの前を抜け、通りすがりにニューキャッスルの店内をのぞくとマスターの笑顔がみえた。
そこからしばらく歩き、天龍の前あたりで有楽町線銀座一丁目駅へと階段を降りていく。
時間は午後9時。
銀座の地下には異空間が広がっている。
数メートル上の地上は人でにぎわう。
しかし目の前に広がる巨大な地下の回廊に降り立つとそこには誰もいない。
前後数百メートルの空間に自分だけがポツリと立っている。
しばらく回廊の中央、蛍光灯の真下を歩いてみる。
脳がグラリと揺れた。
ここはどこなのだろう?
場所の感覚が失われていく。
映画のシーンに自分がとけ込んでいく。
振り返ると視界には白い床と一列にならぶ円柱の沈黙。
5秒ほどあたりを見回し、また歩き出す。
100mくらい歩くと世界がこちら側なのか向こう側なのか。
現実なのか劇の中なのかわからなくなる。
ここは東京の繁華街の地下。
僕が見ている風景は現実の世界だが同時に非現実な世界として認識され脳内空間とつながっていく。
僕は世界をみている。
そこにはモノや距離や時間がある。
しかし、この一瞬。
世界は歪みねじれる。
一足毎に螺旋を描きパラレルなリアリティが同時に迫りくる。
空間と内部が沈黙と静寂で結合されていく。
果てしなく静かな時間で