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2003年12月31日

福岡の天丼とシステムの歪み

昨日、夕方から金子と二人、長い時間、話し込む。

コンテンツについて話をしたのだが何かについて話すときお互いそのコンテンツについて知っているので説明しなくても話が通じる。この話が通じるというのが驚くほど快感なのである。対話とはこうも面白いかというくらいに話が通じる。

これは外国人の主催するパーティにいった時も感じることだ。
お互い母国語ではない英語で対話するのだが興味を持っている分野が近い場合はつたない言葉でも言わんとすることが通じる。日本人のパーティはお互い日本語を話すわけだから言葉が通じない、ということはないのに相手がその分野の知識を持っていない場合は全く話が通じないということが多々ある。日本人のパーティだと相手の話を聞こうとする意識が薄い場合が多いか。

文化論を論じようとするわけではないが日本人のパーティは本当にどうでもいい対話が多すぎて疲れる。面白さとバラエティは異なる。TVを家に置かないという愼之介のスタイルはいいなあと思う。バラエティの使い方はあれを消費するのではなく、プランニングのヒント、日常のコンテンツ化のヒントとしてとらえることだ。そういう視点でみるとバラエティ番組はプランニングネタの宝庫である。
いまでも覚えているのだが数年前に実家でスマップの主演するバラエティを観た。番組中、剣道のコーナーがあった。NHKの全日本剣道大会だと偉く地味でつまらない剣道の試合が見事にコンテンツ化されていて驚いた。有段者である木村拓哉が試合をするのだが解説が実に面白い。またルールが独自になっており、剣道のルールは変わらないのだがそれを包括するかたちでゲームのモードが付加されている。誰と誰が闘うのか、という部分の面白さ。木村に勝てるのか?という期待感。このあたりは既存の格闘技の価値が試合そのものよりもマッチメイキングに重きを置いていることと同じだ。

話を戻そう。
というわけで僕は昨日、金子とコンテンツについてかなり話し込んだ。金子のコンテンツ観のベースにある「楽しみ」「面白さ」はおそらくコンテンツの王道の一つであろう。面白さとは何なのか。まだまだ話はつきなかった。

その数時間前。
何人かの仲間とカフェにいた。
その店は日本ではとても成功しているカフェとのことだった。
綺麗なつくりだし、店も明るい。場所も7Fなのにお客さんは絶えない。
用意された椅子とテーブル。
窓際で話す人達。
僕はその店で笑っている人達をみて日本はつぶれる、と思った。
大げさだけれど本当にそう思った。

その場にいるのが苦痛な空間と場所というのがある。
僕にとって昨日訪れたその店はそういう場所だった。
運ばれてきた料理を口にして感じた。
ゆるい味である。
メリハリがない。
不味くて食べられないというわけではないが決して美味しくはない。
しかし誰も文句は言わない。
集まる人も店もこういうサービスで納得しているのだろう。

自分がその場にいてその店や場に対して思ったことを言えなかったり、自分を合わせてしまっているという事実を認識するとき強い腹立ちと憤りを覚える。打開できない自分に憤りを感じるのだ。

サービスと値段のバランスがそういう感想を抱かせる理由ではある。
世の中でモノの値段が決まっていなくて、感じるように支払っていいとしたら、世界はどう変わっていくのだろう。昨日のカレー丼に値段をつけるならその価値は98円くらいが妥当だろう。100円以下ならギリギリ納得できる。あの味なら手間もかかっていないだろうからおそらく原価もそのくらいだ。ということは客はその10倍の価値をあの場所に見いだしているということだ。

※店自体はどこにでもあるカフェだと思うがその会合が醸し出すフェイクな感じが僕は苦手だった。

いままでいくつかの都市をまわったがこうした思いをするのは東京の店が多い。
東京では全てが値段に比例している。サービスも味も。何もかも。しかし、半端ではダメなのだ。カレー一杯1万円。そのくらいがこの街の値段なのだと思う。

「美味しい」ということは人を幸せにするし心を豊かにする。
が、「美味しさ」の7割は料理自体ではなく味わう時の自分の状態に依存する。
どんな美味しいものでも二日酔いの朝は不味く感じるし、横柄な人々の隣では何も美味しく感じられない。

「美味しさ」とは別に「美味しい力」という考え方があってもいいはずだ。
絶品ではないが美味しいものもある。
築地やロメスパなどの「活気」と「料理」のコラボレーションはその最たる例だと思う。
人は料理も食べるが同時に活気も食べている。

※書いていて思い出したがフクオカで500円で食べた天丼定食は銀座天國の天丼より遙かに美味しかった。銀座天國は銀座でもいってはいけない店ランキングのかなりの上位にはいる。ごはんも天ぷらも最低の中でも最低の味である。システムの歪みは理屈で説明するよりもフクオカの天丼と天國の天丼を比較すれば5秒で理解できる。更につけくわえると九州じゃんがらラーメンは美味しいと思っていたが水の違いなのかフクオカ食い倒れから戻ってきて以来、味の底にある重さとケミカルっぽさが気持ち悪くて食べられなくなった。
料理の質と値段のバランスは現実の都市力ではなく都市に対する人々の見かけの価値が反映される。この差異が都市間で広がれば広がるほど歪みは大きいということだと思う。
ファミレスやチェーン店はこうした見かけの都市価値をフラット化するので歪みが拡大化している現状を考えるとフラット化の価値が更に躍進しつつも局所的な二極化は促進されるのだろう。

またしても関係ないが昨日やまけんとフレッシュネスバーガーにいった。
一年ぶりくらいにいったのだが競合他チェーンにくらべ格段に美味しいと思った。
今朝、散歩の帰りに月島のマクドナルドで茶でも飲もうかと思っていった。
客は4人しかない。しかし、2分たってもまだ順番がこないので立ち去った。
客の多くはセットメニューを頼むので構成する商品がそれぞれを準備されるのに時間がかかる。
そのためマクドナルドはファーストフードといいながら注文から受け取りまでが極めてスローだ。

同じ時間の経過でもフレッシュネスやモスのように注文・会計と商品の受け渡しを分離した方がユーザのストレスは少ない。待ち時間は長くとも心理的な待ちの時間は少ない。そうか時間も商品なんだな。

投稿者 TKM : 11:13 | コメント (5) | トラックバック

2003年12月29日

自分がやりたいこと~音楽の都市

「今夜はブギーバック」という曲が流れている。
いつもタドが歌う曲である。
本物を初めて聴いた。
こんな優しい曲だったのか。
気持ちが穏やかでゆったりとしていく。
街が音楽に溢れていたら気持ちいいのに。
イヤホンだけ差し込むと音楽が場所や空間に満ちている。
映画のように街を楽しむ。
そういう音楽の聴き方をしたい。
街と音楽の関係。
音楽の街。
そういう街があってもいいと思う。
毎日でなくてもいい。
音は空間にだけあってイヤホンをつければログインできる。
音のチャンネルで街にログインする。
見えないもう一つ街が生まれる。
パラレルな今。
パラレルな世界。

世界はパラレルに存在する。
「シングルリアリティで物事をとらえようとするから見えてこない」石井先生の口癖である。

音楽。
音。
人。
波。

そして穏やかな午後。

投稿者 TKM : 13:57 | コメント (2) | トラックバック

書くこと自由と音楽と洗濯

12月29日。
カーテンに水面に映った太陽が揺れている。
洗濯をして朝食をつくる。
冷蔵庫にあったタマネギとシーチキンで一品。
炒めて醤油で味付ける。
味は悪くない。

時間について考える。
マイケル・クライトンの「タイムライン」を昨日から読み始めた。クライトンの小説の面白さは現実と非現実のバランスの妙にある。最先端の科学トピックスと少しだけ未来。ありそうだ、とイメージができる程度に飛躍した未来をかいま見せてくれる。ストーリーの味付けが加えられ独自のサイエンスエンターテイメントの世界が広がっていく。
クライトンの小説は映像的である。

言葉の美しさ。
例えば「ソラリス」のような読後感はないがグイグイ引き込まれる。ストーリーの力恐るべし。ストーリーに引き込まれるのはわかりやすいキャラの設定にあるのだろう。その人物の顔も声も知らないが読んでいるうちにだいたいこんな人なんだろうな、というイメージが浮かんでくる。

小沢健二のEclecticというアルバムを聴きながらこのエントリーを書いている。
音楽を聴いているうちに意識にさざ波がはしり静に音に同調していく。
音楽を聴きながら書くことは自分にとって最大の楽しみの一つだ。

何故書くのか?
書くのが好きなのだ。言葉を綴るという感覚ではない。楽器を弾くのに近い。
考えないからトピックスが固定されない。
何らかの答えを出したいとも思わない。
だからエッセイでもないし論考でもない。
ふらふらとした言葉である。
なんらかの感情があってそれを伝えたいがために表現しているのではない。
テーマがふらふらするから「何を言いたいの?」と言われるかもしれない。
しかし、そんなものはないのだ。
何かが言いたいから「書く」、必要はない。
このライティングスペースはそのくらい自由だ。
不自由は自分がつくる。
それは現実世界でも同じである。

不自由は外にあるのではない。
内側にある。

人と話すと自分がよくわかる。
人と話さなければ自分はわからない。
書くことは自分との対話である。

音楽や空のようになれたらいいのにと思う。

投稿者 TKM : 13:49 | コメント (2) | トラックバック

2003年12月28日

レースの朝

午前4時35分。
自転車レースの夢で目覚める。
時間があれば店のフォカッチャあんかけチャーハンを食べておいた方が補給になるのでいいんだといってタケは一気にスパートをかけていた。登校途中の人々の間を縫って自転車が駆けていく。

哲学的な風景の中にいた。
地下に下りると4人の警官が時間を巻き戻していた。4人ともいまを巻き戻すことの意味はわかっている。それでもやらなければならないんだ、と言った。巻き戻された未来は不確定な未来ではなく同じいまに還ってくる。それでもやるのか?
無意識下のチャンネルを使って彼らに尋ねた。答えは馬によってもたらされた。ビルに通じる地下道。その馬はあらわれた。駆け抜ける準備をしていた。何を?
彼は時間を駆けるのである。

午前4時35分。
夢で目覚める。
友人の出てくる夢である。
彼は時計を気にしていた。

午前4時35分。
部屋の灯りをつけて時計をみる。
外はまだ暗い。
朝日コムのページを開くとXGA表示の画面の右下に役所広司が親指をたてて「みんなの光プロジェクト」を宣伝している。

投稿者 TKM : 04:48 | コメント (0) | トラックバック

2003年12月27日

突然の贈り物

昼過ぎ。
「ミレニアムマンボ」を観ていたら突然不安感に襲われた。
その後、しばらく考え事をして過ごした。

ベランダにでて手すりによりかかった。
風は冷たく肌寒い。
しばらくそうしていた。

人の数だけ世界があってそれぞれはそれぞれの世界を観ている。
いろんな人がいていろんな人の考え方、世界の見方があって、でもそれらも常に一定というわけではなく変化していく。
それって何なんだろうと考える。

「しゃべり場」という番組で出演者の男の子に原千晶が言った言葉。

「○○君はさ、確かにさ、いろんなところで傷つきやすかったり傷ついたり頼りないって思われるかもしれない。でもね、自分では傷ついたかもしれないけど絶対に人を傷つけることはしてないわけだよね。それってとてもスゴイことだと思うんだ。」

声を出して同じ言葉を言ってみた。
それから夕方に向かって空の色が変わっていくのをみていた。
世界一周旅行をした友人は「夏」を追いかけて世界を回った、といっていた。
夏とかアジアの町の喧騒はいまこの瞬間にも存在している。
夏の国と冬の国。

月にいったら身体が軽くて気持ちいいだろうな、と思った。

投稿者 TKM : 16:47 | コメント (0) | トラックバック

マンションのURL

昨夜は雪が降っていた。
今日は綺麗に晴れである。
お昼頃に目覚める。
カーテンをあけると暖かい日差しが差し込む。

12月最後の土曜である。
かちどき橋のたもとに建った高層マンションにURLと電話番号が書いてある。
ブラウザにURLを打ち込む。

http://www.plazatower-k.jp/index_f.html

グルグルと矢印を動かすと築地市場の夜景がみえた。

投稿者 TKM : 13:46 | コメント (1) | トラックバック

朝に想うこと

前田さんに年末のPRIDEのチケットを4枚ほどいただき蕎麦とお酒をご馳走になる。
その後、兄貴分のバシ師匠と渋谷で飲む。

朝方、築地に帰ってきた。
部屋に帰ってきて昨夜を振り返る。

唐突に気持ちが一点に向かっていく。科学的な反応だと気づいた。
おそらく人々の間にある対立や争いの萌芽とはこういうものなのだろうな、と思った。
言葉とはそれほどに大切なのだ。安易な物言いは発話した本人の思惑とは異なり、影響を瞬間的にではなく螺旋状に時間の渦の中で反復増幅しながらその形を拡張していく。
自戒の念を強めた。

++++++

昨日でかけるまえに横尾先生の日記を読んだ。

投稿者 TKM : 09:51 | コメント (0) | トラックバック

2003年12月26日

丘の上でロケッティア

空を飛ぶ夢をみた。
少年と話した。
丘の近くの建物の前のイギリスで彼と話した。

ロケッティアに出てくるのような道具の進化版を身につけていた。
二つのスロットがあって、右のグリップの先端についたボタンをひねりながらレバーを倒すと身体が宙に浮いた。

5歳くらいの褐色の肌の少年が彼のみたイメージについて蕩々と説明するのを聞いていた。
それは曼陀羅の形に似ていた。
叡智が右から上り、西と東の間に人の世界がある、と彼は言うのだった。
丘の上の建物は白い外壁で二つの円柱形のドームの間は二階建ての四角形の建物になっていた。
二階へは側面にあるスロープ状の階段から上っていく。
二階に飛ぼうとしたとき少年が僕に話しかけたのだった。

投稿者 TKM : 11:52 | コメント (0) | トラックバック

2003年12月25日

対話について・書くの体力と筋肉痛

ブログ、というよりもHPで何かを書いているといきなり全く予想外のコメントが飛び込んでくることがある。大半は丁寧で誠意あるコメントだったりメッセージだったりするのだが稀に感じの悪い言葉使いのものがある。以前はそうしたコメントに対応したり、記事でこちらのコメントを書いたりしていたのだが最近はやめている。対話が成立しないメッセージのやりとりは不毛なだけである。

対話が成立しない理由は簡単である相手は自分を知っているがこちらは相手を知らない。
相手はリスクを負わないがこちらはリスクを負う。

議論はかまわないのだ。
意見の相違なら対話も成立する。
しかしそれは相手を尊重した上でなされる発話でなければならない。

誠意のない発話には反応しない。
それが僕の出した答えである。

++++++

原稿がようやく一段落した。
全部任せたかったのだが2分考えて、3回読み直し、自分で修正することにした。

コンテンツのチューニングは得意中の得意だが久しぶりのライターワークだったせいか予想よりも時間がかかった。まだ、いけるわ。というかスキルが上がっていると感じた。陸上をやっていた頃にタイムが11秒台に近づくにつれて走っていて自分が加速していくのがわかる、という感覚があった。あの感覚に似ている。以前は書くための基礎体力があまりなかったので仕事としての文の書き方がよくわからなかった。なので書いた後は筋肉痛のような後味があった。が、いつのまにか体力がついたのかそれほどの疲労感も脳の筋肉痛的な疲れもない。

しかし代償はあった。
「ミレニアム・マンボ」を観ようと思っていたのだが昼間にみられなかった。
出かける前にアンケートのExcelファイルのチェックだけでもやっておこう。

投稿者 TKM : 17:03 | コメント (0) | トラックバック

2003年12月24日

「良い飲み」それは~悦びの意味論

予想外に朝早く目覚める。
ベランダから外を眺めると運河を挟んでトリトンスクウェアの向こうから太陽が登ってくるのが見えた。
昨夜もたくさん歩いたので今朝は歩かなくてもいいかな、と思ったのだが「朝の空気浴」の魅力は抑えがたく。ダウンジャケットを着込んで朝の川原へと向かった。
川に向かう途中にあるダイエーでネギと豆腐、挽肉を買い込む。
今朝は麻婆丼にしようと閃いたのだ。
買い物袋にネギを入れて川沿いのテラスを歩く。
犬を連れたオバサンとすれ違う。
小さなパピヨンはオバサンと歩調を合わせて歩いていく。
その姿が犬と人には見えなくて振り返って少し眺めた。
あの犬は何も考えていないのだろうか。
疑念も不満もなくその瞬間を生きている。
人が人を癒すのは難しい。
動物の底意のない振る舞いに人は癒される、のかもしれない。
人が人と触れ合うことでより豊かになる、そんな時がくるだろうか。

夜の東京を歩きながら自分の中に満ちていく感覚や感情は今朝には消えている。
お酒は人を弛める、弛めるがそれは諸刃の剣でもある。
心が開いていくのは心地いい。
良い酒を飲むとき相手との間に微妙な心のシンクロを感じる。
互いの心の開き具合がチューニングされていく。
それが「飲む」理由である。

コミュニケーションの土壌となるモードが共有される時、感動を共有する経験とは異なる緩やかな一体感がある。うまくその一体感に身を委ねることができればそれは「良い飲み」だと思う。良いお酒とお酒の味とは関係がない。勿論、美味しいお酒だとお酒自体の「美味しさ・悦び・豊かさ」の力を使うことで互いの心が開くから「良い飲み」へと繋がりやすい。
しかし、必ずしも「良い飲み」とお酒自体の質はリンクしていない。どんなお酒でも「良い飲み」に導くことは可能だ。例えそれが安ワインでもワンカップでも。
問題は飲む側、つまり、自分と相手との心の開き具合にある。

お酒自体の美味しさが「良い飲み」をつくりやすいようにどんな場所で飲むかということも重要である。良いBarにいくと気持ちが良くなる。それは雰囲気のせいかもしれないし、温度や照明のせいかもしれない。あるいはカウンターという構造に意味があるのかもしれない。向かい合って座るのと横に並んで座るのではコミュニケーションのモードが変わる。僕が最強だと信じてやまない究極のBarは時代劇にでてくる店が小舟になっているあれである。城下町の運河にそって船頭がゆっくりと船を動かしながら進んでいくあれである。あれこそ最強のBarだ。

人にとって最大の悦びはコミュニケーションによってもたらされる。
美味しいもの、いい店、美味しいお酒、美しい風景、気持ちよさ、ダイナミズム、感動、それらはコミュニケーションの為のメディアである。それらコンテクストによって人と人の心が近づき自分と他者がシンクロする。同じ気持ちを同時に持ち、それを共有できること、それが悦びの本質だ。

それを考えると笑いというのはスゴイな。
みんながある種の感情を共有する。
笑いの場で争いが起こらないのは当然だ。

投稿者 TKM : 10:51 | コメント (5) | トラックバック

2003年12月23日

渋谷でGo

タド、かわまたくん、やましん、と渋谷で忘年会。
渋谷を堪能。
実によい。
このエントリーは忘年会場のPCより。

投稿者 TKM : 23:50 | コメント (2) | トラックバック

2003年12月22日

お酒の同時線

週末は忘年会続きで倒れるかと思ったが意外とタフなようで何事もなく連戦をこなした。
1年ぶりにあう直子さんはフィンランドの快適生活ですっかり心身ともにリセットされグットシェイプになっていた。直子さんのお母さんもいたので少しお話をする。相変わらずノリがいい。
前日、渋谷でバシ師匠と朝まで飲って二日酔い気味だったのが祖師ヶ谷大蔵の駅を下りる頃にはいい感じに醒めてきて実に気持ちがいい。お酒は飲んで酔っぱらっていく時も気持ちが良いのだが、二日酔いから醒めてくる時の「おお元気になってきたし、なんか楽しいぞ」感がまた楽しい。飲みプロ14年目にしてようやく到達しつつあるお酒の同時線分析であった。(同時線というのは株のテクニカル分析の基礎ででてくるあれである)

今日はこれからMr.食い倒れと一緒に石井先生らと会食。

朝6時。
川沿いを歩きながら思索をした。聖路加の前の階段のところで座っていたら後ろに気配。
振り返るとオジサンが気功体操をやっていた。

1月はどんな仕事をやろうかと3秒くらい考える。
一昨日、カルビ館のおばさんにお酒をご馳走になる。おばさんの娘夫妻も一緒にいろいろと話す。店長曰く、オカダは飲食業に向いてる、とのこと。オカダは食・酒にとても詳しく相手をみてモノをすすめるのが上手いからアドバイザー的なかみかただとうまくいくかもしれない。
その後、矢坂さんとオカダと参宮橋のナイスなバーを発掘。
とても雰囲気の良い店で朝まで飲んでしまった。
ちなみにオカダの家まで徒歩1分くらいの場所である。

オカダはずっと大阪なので年内に有楽町のジャポネを攻めようという話になる。
といったあたりでそろそろいかなければ。

そうそう、ブログでは書きたいように書けないかもというこの記事はとてもよかった。この人の書いていた記事の中で一番面白いと思った。

何を書くかは自由だけれど自分のサイトなんだから自分の好きなようにやらなかったらダメである。
というわけで僕は僕の書きたいように書いているだけ。
誰に向かってかいてるわけでもないし、ジャーナリズムがどうとかは全く興味ない。
そういうのは後からついてくるものだよね。

投稿者 TKM : 10:53 | コメント (0) | トラックバック

2003年12月19日

父はメル友

父にメールを書いた。
骨折してからずっと鎖骨をバンドで固定していた。
24時間バンドで肩を固定されるという経験は決して楽しくはなかったのだが、昨日ようやくバンドから解放されたので知らせたかった。
母にも連絡しようと家に電話したら留守だった。
というわけで僕と父はメル友なのである。しかも父は携帯メールも使いこなすのでメールバックがはやい。
以前は二人でよく父のいきつけの福島の店にいったのだがここ数年、福島市で一緒になることがないのでいっていない。久しぶりに思いっきり二人で「夜霧の第二国道」を熱唱したいものだ。

投稿者 TKM : 15:01 | コメント (2) | トラックバック

大事なコメント

野知さんのブログをみていて思ったのだが「問題」とか「対立」というモードに入ると急にコメントが盛り上がる。不思議だ。他の時は何にもコメントしない人々が一斉に言葉を発し始める。

みんな日々が楽しくないのかな、と思ってしまう。一見、自分はこう思う、ということを主張しているように見えるのだが本当は必死に何かを守ろうとしてるように感じる。

読んでみるとそれはそれで面白いのだが、楽しくはない。
なんというか頭が言葉をしゃべってる感じなのだ。

こういう議論の場になってしまうと僕のページみたいに思いついたことを適当に書いたり、そう、適当に書くのが大変になってしまって、ちょっとつらいよな、と思う。

タケとかやまけんとか志乃ちゃんとか愼之介みたいに普通に何気ないことにコメントくれる人達の存在は僕にとってすごく大きい。

投稿者 TKM : 14:43 | コメント (1) | トラックバック

コロナの午後

12月とは思えない陽気である。
陽気ついでに仕事も部屋の掃除も何もかも終了。
全部OFFになった。
朝6時に目覚め、朝食をつくり、午前中を有意義に過ごして午後。
なんともゆたかな時間。
どたばたすることもなくのんびりしているわけでもなく心地よい。
これも全て拘束具が無くなったおかげであろう。

あまりにもいい陽気である。
暖房を入れていないのだがこの部屋は南向きなので日中は20℃を越える。
この陽気。
何かが足りない。
何だろう?
そうだ!
と閃いてコンビニにコロナを買いに走った。
ライムを加えてビンから直に飲むと口の中にコロナ特有の香りが広がる。

いい午後だ。

曲:Album:Sunflower Time/Caram,Anna(この曲を送ってくれた人は元気だろうか。感受性が強くナイーブで優しい古い友人を想った。)

投稿者 TKM : 13:38 | コメント (9) | トラックバック

2003年12月18日

サヨナラ鎖骨バンド

二週間ぶりに右肩のレントゲンを撮った。
先回よりもはっきりと影が映っている。
骨折部に骨ができてきているのが確認できた。
二ヶ月に渡って肩を拘束していたクラビクルブレース(鎖骨バンド)も今日からはずすことになった。
言葉どおり肩の荷が下りたわけだ。
とはいえまだ肩より上に腕をあげるのは危険なので無理はできないが。
本当に長い二ヶ月であった。
身体が軽くなった。

投稿者 TKM : 17:48 | コメント (0) | トラックバック

理解と悦び

SOLARISを観た。
ストーリーは知っているし、昨日、観ていて眠ってしまったので続きからだったけれどそれでも涙が止まらなかった。映画的にどうとかそういうことはどうでもいい。テーマとしてだめなのだこのテーマは。
ずっと思っている。
人にとっての最大の悦びは理解されること分かり合うこと。それは幻想ではない。
オレはあると思っている。
心を開くのは難しい。
本当に難しい。
それでもあると思っている。

投稿者 TKM : 02:32 | コメント (0) | トラックバック

2003年12月17日

アニメと躍動感

このアニメGIFここ数ヶ月でみたなかでは最高の出来のアニメーションである。
プリミティブなメディアほど作者のセンスがダイレクトにあらわれる。
上記のアニメーションで注目すべきは展開される映像のリズムとスピード感である。
漫画とアニメの中間的な視覚効果についつい引き込まれる。(同様の視覚効果はオリジナルアニメ「真ゲッターロボ・地球最後の日」の最終話にもみられる。ストナーサンシャインのシーンで通常の滑らかな動きのセルアニメがいきなり静止画を切り張りしたような粗いコマ数に変わり。絵自体もカラーではなく極太のワリバシで描かれた荒々しい劇画的なものに変わる。前シーンからの流れでみていくとこの変化のギャップがとてつもない躍動感と生命力を感じさせている)
脚本的には驚きはないが次々とくりだされるドア開けの試みの流れがいい。
みていると「お、あれか」という感じでどこかでみたシーンが展開される。
対象そのものが面白くなくとも対象を圧縮し編集することで表現として完成するモノマネの面白さと似ている。

投稿者 TKM : 18:21 | コメント (1) | トラックバック

ヘレンの笑顔

今日は久しぶりに「月吉」でしめさばとブロッコリーという健康的な夕食を食べた。
店がこぢんまりとリニューアルされていてうれしかった。
5時台なので客もほとんどいないみんなのんびり和やかムードである。
いつもあう外国人の店員のおばさんが訛りのある日本語で「いらっしゃいませえ、どうもー久しぶりね」といってお盆を席まで運んでくれた。「お!テーブルが新しくなってる」と言ったら。「そうなんですよ」と笑顔で答えてくれた。店で撮影された富士通のキムタクのポスターはまだ健在だった。
僕は彼女をアルゼンチン人と勝手に思いこんでいる。
なんとなくそんなイメージである。いつも笑顔でいい人だ。

食べ終えて外に出るとちょうど外国人のオバサンに笑顔で挨拶された。ヘレン(仮)(アルゼンチン系のオバサン勝手に銘々している、今度きいてみよう)がシフトを終えて帰るところだったようだ。ふわりとした穏やかな空気でなんとも幸せな夕べであった。

投稿者 TKM : 17:46 | コメント (0) | トラックバック

ジャポネにみるいい店の三段論法

そうだ昨日、やまけんに教えてもらった「ジャポネ」に行ったのだ。
銀座インズのどこかだとは覚えていたのだがあの店が入りそうなのは...。
インズ1、2とは思えないので3に違いない。
銀座インズは高速の下に併設されているショッピングモールである。
数寄屋橋よりから1,2,3と並ぶ。一番東京寄りが3である。銀座の空気は数寄屋橋からの距離によって変移する。東京よりに近づけば近づくほど上野テイストが増す。反対側に向かうと今度は新橋テイスト、どちらに向かっても外れれば外れるほど生活感が増す。印象としては泥臭く古くさくなる。
迷宮と見まごうインズ3。入口を入るといきなり新橋のニュー新橋ビルを思わせる魔界である。誰がここで買い物をするのだろう。まさかこの奥だろうか。正面にはトイレは向こうですの案内の看板が天井からつるされている。その看板の向こうにはないだろうがまさかな、もしかしてこの奥に。
はたしてジャポネはその奥、インズ3の最果ての場所、一番、東京よりにあった。

やまけんに聞いていたとおり午後2時なのに活気がある。
なんと満席である。女性も多い。
「一番奥、あいてますよ!」
とフライパンを持った店員が愛想良く指さす。
「何にしますか?」
水と一緒に注文を聞かれる。普段は迷うところだが何故か即答で
「ジャポネ、普通盛りで」
頼んでから柱に貼られたメニューに目をやる。
たくさんある。
フィーリングでジャポネにしてしまったが「インディアン」という名称が気になる。
解説を読むとスパカレーらしい。そんなものがあるのか。カウンターの一番奥(カウンターしかないが)に座っていたので並びの人達の食べているブツを確認する。焦った。細身の女性がアメフトのボールよりも巨大なのではないかと思われるほどに三次元的に盛られたスパと格闘していた。
周りの人の注文を聞いているとこれを横綱と呼ぶらしい。
目の前がストーブ(コンロ)なので料理の仕方を眺めてみる。一人前に仕様するスパの量が尋常ではない。大人の手でつかめる限界点のスパを二回位フライパンに放り込んでいる。
こ、この量は。
ルパン三世「カリオストロの城」で結婚式の前日に街の食堂でルパンと次元の眼前に出てきたあのスパの量ではないか。
量、そしてそれを食していくサラリーマン・OLのパワーに圧倒されつつ料理人の二人が握るフライパンの重量は相当であろうな、などと全く関係ないことを考えていた。

しばらくしてジャポネが運ばれてきた。
ノーマルサイズ、つまり、普通盛りで正解である。
体感ではジャンボ(普通→ジャンボ→横綱の序列)の半分にも満たない。
しかしこれ以上この脂ののったスパを食すのは自分にとっては拷問だ。やまけんならジャンボのその上を狙うだろうが自分は食べるのが「仕事化」するのが嫌なのでこれが適量である。

味は悪くない。
濃すぎる感じだが労働の後はこのくらいの味の方がパンチがあっていい。
麺ものびているわけではない。しかし、太麺。しかも量は半端ではない。
途中、チーズ投入、タバスコ投入で味の微妙な変化を楽しむ。
店員さんは愛想がいい。
隣のお客さんにタバスコをとってもらえませんかとお願いすると笑顔で「どうぞ」と渡してくれた。

ここで僕は思った。
いい店の3段論法である。

いい店はおいしい店である。
いい人はおいしい店にくる。
おいしい店にはいい人が集まる。

なのでいい店にはいい人が集まる。逆も真なり、猪木の名セリフである。(このセリフはすごかった。ある選手へ会場ではものすごいブーイング。それを聞いて猪木一言。「つまりねー、その逆も真なりといいますか。ブーイングは人気の現れなんですね。それだけ知名度がある、お客さんを湧かせられるということなんですね。」)

ネガティブな店はまずい店である。
ネガティブな人はまずい店にくる。
まずい店にはネガティブな人が集まる。

味がいい店=いい店ではない、場合もあるが味だけがいい店というのはほとんどない。
味がいい店はたいがい雰囲気もいい。

投稿者 TKM : 10:55 | コメント (2) | トラックバック

証券取引所と破れた制服の裾

東京証券取引所(東証)にいってきた。
ちなみに誰でもいつでも見学が可能だ。

それもそのはずいまは取引がコンピュータ化されているのでマーケットホールには誰もいない。ガランとしている。閑散としている。警備もほとんどいない。見学者用に回廊や広場があり、誰にも使われることのないトラックボール付きのインフォメーション端末がある。博物館や資料館などどこにいってもこの手のマルチメディア端末がある。使っている人は皆無だ。

活気は全くない。
あの警備体制では誰でも手軽に簡単に危険物を持ち込めてしまう。
本当にこれが国の経済の中心・要の一つなのだろうか。

見学に来ている高校生達はワイワイと騒いでいる。
丈のあっていないブレザーをダブダブに着るのが流行なのか。シャツは外にでている。ネクタイはしているが紐を結んでいる感じだ。高校生が制服を崩して着るのは本能的なものだと思う。みんなどこかしら抑圧されている。

回廊で彼らとすれ違う。
どこかの地方の工業高校の生徒だろうか。きっとバスできたんだろうな。
そう思った。
広報の女性が解説を始めたのでソファーで話を聞いた。
とりたてて新しいことを説明しているわけではなく、どれも知っていることなのだが声がききとりやすく説明も簡潔かつ抑揚がありとても上手だ。これにエンターテイメントの要素(ここでいうエンターテイメントは娯楽ではない「もてなし」であり参加し解放され悦びを感じることである)を加えることができれば東証の職員でなくともどこでも重宝されるだろうな、と思った。

「場所を移して中二階のホールで解説をします、皆さんの学校名をマルチスクリーンに表示しますので記念撮影などしてもよいですよ。」

とアナウンスがあったので高校生達がくるまえに一回りしようと下に降りた。
回廊で生徒達は他の見学者の進路を塞いでいたが気にとめる様子はなかった。

とりたててみるものもないのでさっとエスカレータで上の階へもどった。生徒達はホールに並んでいた。50~100人くらいいるだろうか。さっき「皆さんはもう株式売買ゲームをやっているからご存じだと思いますが」といっていた。最近は地方の学校でも進んでいるものだな。と思った。

どこの高校なのだろう、と画面をみてみると「慶應義塾大学湘南藤沢中・高等部」と表示があった。
予想外の文字に少し戸惑う。
地方、しかも、かなり田舎の高校生だと思っていた生徒達(簡単にいうとどうしようもないくらいに田舎っぽく見えたのだ)は母校に併設された中・高等部の生徒であった。
全国の中高の制服の多くがブレザーになったせいだろうか。
地方も都市部もブランド校も生徒の見た目はそれほど変わらないんだな、と思った。

※田舎の高校生が服をわざとだらしなくきたり、いわゆる不良っぽさを追求したりするのは田舎という閉鎖的に空間に対する僅かな反抗。レジスタンスである。抑圧もなにも自己を表現し、理解される場は驚くほど少ない。日本の田舎とは二極化していてコミュニティが崩壊していない場においては人はパーソナリティで判断されるがコミュニティがほぼ崩壊している田舎においては秩序を保つ為の規制が最重要課題とされそれに反するモノは存在を否定される。よってコミュニケーションのチャンネルが閉じられる為、その苛立ちが服装や髪型として顕在化する。が、それらはある種のコードであり、コードを同一にするもの同士のコミュニケーション、コミュニティは逆説的に活性化していく。

投稿者 TKM : 04:20 | コメント (2) | トラックバック

2003年12月16日

クオリアとラーメンの秘密

昨夜の日テレスーパーテレビの新宿ラーメン特集における神座の扱いは考え得るベストの番組露出だったのではないかと思った。小林事務所の回の露出もPR的視点では最高だがブランドの浸透と店舗のPRとしては昨夜の神座の比ではない。あの効果は絶大だ。視覚によっては味を確認できない食の世界においてああ表現されたら一度は味わってみたいと思う。神座の社長曰く「DNAに訴える味です」とはスゴイ表現だ。

神座の新宿店は都内のラーメン屋ではダントツに巨大かつゆったり、きれいな作りである。
最近は新宿で飲む機会も減ったからだろうかこんなものが天下一品の隣に建設されていたとは知らなかった。

見た目、味、ともに突出しているわけではない、とナレーション。確かに見た目もそう見える。しかし、独自の味であることは確かだ。この独自性はあなどれない。僕も食べたことがないので味についてはこれ以上のコメントはできないが売っているものがいわゆるラーメンとは異なるであろうことは予想できる。神座が売っているのはラーメンとラーメンを食べること、その二つの融合である。

今週号のSPA!のエッヂな人々のコーナーでSONYの茂木さん出ている。そのインタビューに興味深い一文があった「クオリアを消費するようになると思うんですよ」。そうこのイメージはわかる。人はソレ自体を欲するのではない。ソレとソレを含む環境、あるいはソレ+コレという多層的なコンテクストによってもう一つのクオリアを稼働させる。
神座のラーメンを観ていて僕はこの「クオリアを消費する」というイメージがズバリ重なった。あのラーメンはあの店で食べないとおいしくないタイプのラーメンである、というのが僕の仮説である。

似たような例は音楽にもあてはまる。旅行にいく車中、運転中の車の中、カラオケボックス、それぞれで一番良い曲は異なる。状況、時と場合によっても異なる。これらの組み合わせのバランスポイントが存在する。それらは経済合理性に反する場合が多い。我々の消費は経済合理性で全てを説明することはできない。
(今朝も築地まで明け方に歩いた。築地の場内の店は場内にあるからおいしい、いや、もっとはっきりいってしまおう。築地の場内の店は必ずしも格別においしいわけではない、あれは楽しいのだ。)

取りあえず、新宿にいったら神座を一度トライしてみよう。

追伸:茂木さんのインタビューにあったedge.org
というサイトを観てみた。これは必見である。日本でもブログブームとの底力の違いを感じる。

投稿者 TKM : 08:43 | コメント (5) | トラックバック

新庄Watch:専属広報

新庄に専属の広報がつくことになった。
サンスポのサイトによれば広報に荒井さんを匹敵した理由は人柄と頭の良さとのこと。今季限りで引退の荒井さんは今後どんな広報っぷりをみせるのか楽しみだ。できれば新庄との掛け合いも期待したいがそれだと相方であって広報とは違うか。

そんなわけで新庄Watchスタートである。

投稿者 TKM : 04:46 | コメント (0) | トラックバック

武藤とジョブズの類似点

若い頃のジョブズとApple、デビュー時の武藤といまの武藤の関係に似ている。

++++++

午前4時。
ベランダに出て星を眺めた。
空気は冷たいがこの時間の東京の空は綺麗だ。

投稿者 TKM : 04:03 | コメント (0) | トラックバック

企画の教科書

やまけんの「ベトコンラーメン」にヤラレル。

以下、僕が送ったコメント

++++++

おもしろい!
思わず声を出してわらってしまった。
やれらたよ、これ。ベトコン。何故ベストコンディションがベトコンになるのか、このセンスは素晴らしい。ここ最近みた現代アートのどの作品よりも素晴らしい。村上隆なんかよりもオレだったらこのネーミングプロセスに価値を感じる。これぞ異化の教科書だね。
久々にやられた。このタイプの肩すかしのやられかたは漂流教室の愛蔵版の一巻でページが切り替わったときに校長先生が顔を押さえ「や、やられた」というシーン以来のやられっぷりだ。(ちなみに上記のシーンのインパクトは素晴らしい。漫画というメディアの持つ力を最大限に使ったシーンの一つだと断言しよう)

++++++

というわけでこのベトコンラーメンのネーミングこそ企画の教科書の一つである。
これぞセンスだ。
田舎には時々このタイプのセンス。
あえて言わせて貰えばνタイプのセンスが存在する。

うちの母も相当にνタイプな名詞を使っていた。
勉強中の妹をみにいって戻ってくると「スイミングだった」という。
はて泳ぎの練習か?
と思ったら「爆睡」状態だったらしく、「睡眠」を更に発展させて「睡眠ing」→「スイミング」になったらしい。

投稿者 TKM : 01:21 | コメント (3) | トラックバック

2003年12月15日

明け方のゾンビ

朝、いつものにように部屋をでて川沿いを歩く。
冷たい空気が顔にあたる。
空を見上げる。
薄いブルーが少しづつ太陽の色に染まっていく。
この空は地球の空だなあと思う。
大気に包まれていく。

朝の空気を浴びるのは
温泉に入るのと似ているかもしれない。
ゆっくりと空気を吸い込むと心と身体が緩んでいく。

7時を過ぎると散歩の老人がぽつりぽつりと現れる。

よろりよろりと歩いている。
元気さと年齢は関係がない。
60代くらいでもヨロヨロの人もいれば、相当に年配なのにシャキシャキと歩いていく人もいる。
ふらふらと歩く人を遠くから観るとゾンビのようだ。

橋の上でサラリーマン達とすれ違う。
90%はしかめっ面である。
人生がつまらないのであろうか口はへの字で眉間にしわが寄っている。
笑顔の人は1000%ゼロである。
この人達が笑顔になったらいいのだが。
TVでは無理だろうな。

投稿者 TKM : 09:17 | コメント (3) | トラックバック

川辺のくじら

昨日から身体が痛い。
骨折とは関係なく、腰、お腹、全身が重い。
外にでてみるが思うように動けない。
力が入らない。
気力が抜けている感じである。
風邪だろうか。
全身が疲れを訴える。
疲れたので焼き芋を食べた。
道ばたで売っている焼き芋は異様に高いので敬遠していた。
スーパーで売っていたので食べてみると同じ味だった。
値段は1/3であった。

++++++

10時過ぎに眠るも
腰の痛さで12時に目が覚める。

夢を見た。
タクシーに乗る夢だった。
駅につくとタクシーの運転手は

「良かったらこれどうですか。これから仲間と宴会なんですがその前に買ってきたものがあるんですよ。なに、仲間には一本残してやればいいんでどうぞどうぞ」

そういって彼はパックに入ったら焼き鳥3本とだんご1本を差し出した。
礼をいって折りようとする。1703円。
それが運賃であった。
折り際に少し話しをする。
駅が変わってしまって不思議な感じがする、というと

「お客さん、時間ありますか。ちょっとむこうがわまで乗せていきますよ」

彼はそういってメーターを落として走り出した。
(つづく)

投稿者 TKM : 00:17 | コメント (0) | トラックバック

2003年12月13日

意志決定と宇宙のシステム

金曜日。
ばたばたとした一日であった。
野知さんに誘われてブログのイベントにいってみる。久しぶりに田町である。
大学の図書館にいったのはもう3年も前だから実に三年ぶりだ。

金曜日。
そういえば「金曜日のライオン」という曲があった。

ブログイベントの話にもどそう。
芝浦ふ頭から会場まで歩いていく。野知さんと待ち合わせていく予定であったが車で会場にいきますと連絡があったのでひとり夜道を歩く。ゆりかもめの駅を降りると閑散としている。時代に取り残されたような町。活気とは無縁である。この時点でやる気が一気に50%くらいに低下する。新庄もいっていたがにぎやかじゃないと気分が死んでいく。ギャーギャーと騒がしいのが好きなわけじゃない。静けさは好きだ。しかし僕が好きなのは豊かな静けさである。

寂れたビルに灯りがついているがまさかこれではないだろう。
会場のビルを通り過ぎてしまった。
しかしそのビルより先には灯りがない。
華やかな場所をイメージしていたのでガクリときた。
これか。

1秒で意志決定し、田町の駅へと歩きはじめる。イベントに我慢は禁物である。ノリが合わないイベントの苦痛に耐える必要はない。芝浦ふ頭までの散歩だと思えば悪くない。野知さんには後から連絡をいれよう。そう思って5分くらい歩いた。大通りの信号を渡ろうとすると男性が二人向こうから歩いてくる。目をこらすと野知さんであった。

こういう偶然が面白い。

「野知さん!」

と声をかけ一緒に会場まで戻る。まだ開場前だったのでラウンジで野知さんの友人の草野さんとしばらく話す。草野さんはオンラインチケット販売の会社をやられていたそうで特に格闘技関係のチケットに深く携わっていたそうだ。自然とPRIDEなど各種格闘技の興行の話で盛り上がる。昨日TVでみた新庄の話をすると、「僕も偶然、昨日、新庄の本を読んだんですよ!」とここでまた盛り上がる。

しかしいつまでたっても開場されない。野知さんが確認しにいくと開場しているとのこと。アナウンスしろよ、といいつつ三人でエレベータホールに向かう。人が並んでいた。
廊下にならぶ自販機と10年以上前のゲーム機などまるで場末のボーリング場のようである。
いつまでたってもエレベータは降りてこない。
10分近くまってようやくエレベータのドアが開く。

3人ともイベント関係の仕事を多くやっているので段取りの悪いイベントには我慢がならない。その場にいることに耐えられなくなっていく。有料のイベントでこの段取りの悪さ。ぼったくり以外の何者でもない。

段取りの悪いイベントに耐えるのは自分にとって最大の苦痛の一つである。
会場の雰囲気だけみて帰ります、と伝え、会場を一回りして僕は帰った。
エレベータを下りていくと30人くらいが並んでいた。人々とは逆の方向に歩き、ひとり外に出た。
解放された気分だった。

見上げると空には綺麗な月が輝いていた。
雲ひとつない。
清々しい気分で駅までの道を歩いた。
何もしていないけれど気持ちの良い夜の散歩だった。
これもひとつの旅だな、と思った。

その後、赤坂で会合の後、渋谷でライターの二人と話し込む。
明け方、築地に戻り、一年か半年ぶりに豊ちゃんで朝食。
聖路加の前を散歩して家に帰った。
着替えてから水を飲んでいると電話がきた。

「あれ、お父さんじゃないの。ごめん!間違えた!あ、同窓会のコメント、骨折しましたって書いておいたから」

といって母は電話を切った。コップの水を飲み干してから眠った。

++++++

買い物、行動、約束、予定、どの意志決定も自分で制御できる。
しかし、迷うことは多い。
「迷い無きとき人、人にあらず」とは「エースをねらえ」で宗方コーチのおじいさんの言葉である。
僕の理想でもある。

考えない、迷わない。
横尾さんは宇宙のシステムといっていた。

投稿者 TKM : 15:59 | コメント (0) | トラックバック

2003年12月12日

新庄バット、それは最高のコンテンツ論

今朝も6時に目覚める。
ベッドに入ったのが4時頃だから眠っている時間は少ない。
このところ朝の散歩が日課になっている。
午前6時の川沿いを散歩しながら思索する。
この時間が一日で一番充実している。

歩きながら考える。
気分は哲学の道である。
最近、人と話すのが下手になった、と感じることが多い。
相手からその人の持つ面白さをどれだけ引き出せたか、るか、ということが僕にとって対話・会話の成否の基準になっている。充実した会話は楽しさと比例しており相手、そして自分が新しい何かを得た実感があるような対話が僕が好きだ。

話の合う人、合わない人、というのはある。
合わないというよりもつまらない人と面白い人かな。
自分にとって一番の苦痛は話のつまらない人の話を面白そうにきかなければならないこと。
あるいはつまらない話をきかなければならない状況にあってそこから抜け出せない時。

相手から面白さを引き出そうという姿勢があればその対話は実りあるものになるのだがそもそも空っぽのところからは何も引き出せない、ということもある。そんなことないかな、と前は思っていたのだがやはり話のつまらない人は存在する。いや、違うな。僕にとっては話のつまらない人なだけで他の人が話をしている時はそう感じていないかもしれない。

昨夜放送されていた新庄のドキュメントをさっきまでみていたのだが最後の5分くらいが切れていた。
札幌ドームに入って、新庄がまとめの一言をいう、まさにその瞬間に番組がブチっと切れていきなりプロレス中継の録画に変わった。しばし呆然としてしまった。

気を取り直して新庄について。
はじめて長時間新庄の話を聞いた。
そしてはじめて奥さんの姿をみた。
奥さんに手を振る新庄の表情はこれ以上ないくらいにカッコよかった。
あの表情ができる人はそうそういない。
(自伝で読んでどんな人なんだろうと思っていたが奥さんも素敵な人だと思った。ああいう人をみると豊かな気持ちになる。スタンドから新庄に手を振る奥さんの目が全てを語っていた。)

番組全体で一番印象的だったのはメジャーリーグで初ホームランを打った後のバットの軌跡である。
3秒くらい打球を目で追う。
そしてこれでもかというくらいに美しいフォームでバットを放り投げる。
1塁くらいまで飛んでいったのではないかと思うほどの高度である。
地面と並行にバットが飛んでいくその絵は芸術を越えている。
エンターテインメントやアートを超越している。
それは宇宙のシステム。
ホームランを打つ選手はたくさんいるだろう。
しかし、あれほど美しくバットを放り投げることができる選手は世界中で新庄ただ独りであろう。

翌日の練習風景を観ていたらチームメイトが新庄の近くにやってきて「ハックション、ハックション、ハックシンジョー」とおどけていた。そして昨日のバット投げはやはり素晴らしかったのだろう、何度も新庄の
バット投げをまねていた。

その間、僕はずっと爆笑だった。
素晴らしい。
野球はそれほど好きではないが新庄のバットは好きだ。

それからこれも驚いたのだが新庄の身体。
自主トレをやっているシーンでユニフォームではなくTシャツでバットを振る新庄の姿があった。
その身体たるや総合格闘技の選手よりもグッドシェイプである。
腕の筋肉には思わず見とれた。

新庄、これからも応援だ。
北海道に試合を観に行ってもいい。
生まれてはじめて野球を観に行きたいと思った。

++++++

新庄を観ていると勇気とパワーが出てくる。
この感覚を湧き起こさせられるかどうか。
これこそコンテンツの本質なのだ。

投稿者 TKM : 10:16 | コメント (2) | トラックバック

2003年12月09日

旅行と言葉とインテンシブ

毎日は旅行のようなものである。
特別な場所にでかけなくても旅行マインドで生きると違った世界がみえてくる。
旅行時の自分と日常生活での自分との最大の違いは何だろう?
見知らぬ土地、日常以外の時空では情報に対する感性が鋭敏になる。
なので行動がアクティブ、ポジティブになる。
貪欲に楽しみ吸収しようとする。

++++++

英会話エンジョイ!スピーキング 」この番組、偶然みたけれどいままでみた英語教育番組で一番面白い。実際に外国で外国人向けに行われている授業をそのまま録画した感じなのだ。まるでSFCのインテンシブの授業の中継である。

語学の学習に関しては直感したがリッチメディアの方が圧倒的に面白く、学習者の負荷が下がる。積極的に利用すべきだ。既存のCD等を用いた教材は全く駄目とはいわないがパッケージ化されてしまうことで言葉が死んでいる。これはパッケージモノの教材が抱える最大の欠点である。

もう少し詳しくいうと流れていく情報に接している時とそうでない時とでは集中力が全くちがう。パッケージものの教材に接するときの集中力は感覚的に50%くらい低下する。(映画館で映画をみるときとDVDで映画を観るときの一番の違いは再生環境ではなく制御できるかどうかだと思う)

それにしてもこの授業(番組)面白いわ。
編集もされている。
カメラが次々と切り替わる。
と、ここでインターネット放送のコンテンツが何故つまらないかわかった。(コンテンツに対して背景知識、経験の共有、をしていない視聴者の一人として観た場合)
簡単にいうと普段みている映像コンテンツと比較してパッパと視点を切り替えられない、変わらない、のが原因の一つだ。

普通の人はカメラを一つしかもっていないので回しっぱなしの映像をきったりはったりする。同じ時間、同じ対象を複数の視点からとらえる、という情報の多層化が行われていない。予算が少ない番組の場合もそう。
作り込んであるコンテンツもあるがそれらはパッケージ化されているから観るときはこちらのモードがパッケージモードに切変わる。なので画質やら音やらのディテールに注意が向く。なのでいっきに集中力が落ちる。

Appleのキーノートスピーチのライブはとてもよくできたコンテンツだ。あれはネット放送で一番面白いコンテンツの一つだと思う。

しかし、ほとんどのネット上の動画コンテンツは本当につまらない。なんでだ?
つまらない理由があるはずだ。コンテンツの質が低いという一言で片づけるのは安易であろう。何故つまらないのか。予算が少ないことが原因なのか。地上波で流れている番組と同コストをかけてつくったら解決されるのだろうか。

NHKスペシャルとか民放のドラマとか韓国みたいに放送終了後にはそれら全てがネットでみられる、という環境があったらどんな感じなんだろう。

あと、いま思ったけれどこれまで放送された全ての映像コンテンツを検索、視聴できたらスゴイと思う。番組中にでてきた画像と文字と言葉、音楽、場所、それら全てがDB化されて縦横無尽に検索できる。イメージとしてはGoogleで検索するとそこに存在する動画の全てがひっかかってくる。そしたらそれらはテキストしか扱えない紙の論文ではおいつかないから論文という形も決定的ではなくなるだろう。この間、川端康成と三島由紀夫のトーク番組をみたけどあれを紙の上で引用するのは無理だ。画面のダンプを印刷するくらいしか表現のしようがない。でも、面白いのは三島がしゃべるときの微妙なニヤけだったり声だったりしたりするわけでそれって文字ではそのままは表現が無理なものだと思う。何らかの手法が必要になる。感動したことを「感動しました」と書いても感動の何も伝わらないのと同じだ。

で、映像についてだがこれって技術的に難しいわけではないし、予算的にも高速道路をつくるよりは遙かに安いと思う。ハード的には。何でできないのか。やっぱり人の問題なわけだ。権利、権利、権利。先日、NHKにある番組をみたいのだけれどどうすればいいですか?と問い合わせた。

権利の都合でその放送を再度お見せする方法は現在存在しません。とのことだった。テープはあるのに、それを観ることは権利の都合でできない。これは人の世界の歪みだと思う。

石井先生の研究所では毎日10時間くらい研究員達が行動を動画で記録している。膨大な量の映像アーカイブがある。それらがどんな役に立つのかは現時点ではわからない。でも、単純に面白い。ヴィム・ヴェンダースの「東京画」の冒頭のモノローグで彼がいっている。

「目をあけたりつぶったり、オープン、クローズ、こんな風に撮影できたら最高なのに」

現実はその世界に近づいていると思う。
ブログだってそうだ。これは文字だけれど、パチリとやるように様々な人がそれぞれの視点を発信している。どんどん手間が減ってきている。もっと減っていくだろう。複数の視点の集合体として事象を観察すること。何なのだろう。他者の視点を体験することそのものが面白いのは何故だろう。

コミュニケーションの本質とどこかで通じているのだろうか。

投稿者 TKM : 23:32 | コメント (0) | トラックバック

TV番組のコピーでこの人は逮捕されたけど

TV番組をネットで配信して逮捕の記事。

著作権侵害かもしれないがこのサービスは魅力的だ。放送後は全ての番組がネットで自由にいつでもみられるようになる、のが理想であろう。この人は逮捕されてしまったが僕だって使いたいと思うサービスだし需要はあるのだからどうやったらそれが可能になるのかを考えるのが道理だろう。
制作者だって出演者だって一番は多くの人に観てもらうことがハッピーなはず。
コピーという形式はその場合問題ではない。
出演料が視聴数で決定されるわけではない、という今のスタイルもどこかおかしい。
ギャラを最初に決めるんじゃなくて結果から割り出していったら面白いのではないだろうか。
コンテンツの形が根本からかわると思う。

ところでコピーに関してだがガチガチに固めることでは解決は不可能だと思う。
国を超えてコピーされたら対応のしようがないし、ネットを使えば国境は簡単に越えられる。
だから逆のアプローチにこそ解がある。
コピーはやりたい放題に存分にできる、しかしクリエイター、ディストリビュータ、視聴者がハッピーになる。そういうやり方があるはずだ。

投稿者 TKM : 17:58 | コメント (0) | トラックバック

トーク力と言葉力

夜、橋を渡り汐留へ。
振り返ると月が輝いている。
月から音が聞こえてくるような気がした。

深夜、月島に帰る。
振り返ると汐留のビルの上にさっきの月が輝いていた。

++++++

今日の発見。
2時間~3時間くらい雑音なしで集中すると頭は冴えてくる。
何に集中するかはあまり関係なく。
大事なのは集中状態そのものなのだ。

一度スイッチが集中モードに切り替わると頭の回転がよくなる。
頭という言い方はちょっと違うな。
自分のモードが情報に対して攻性になる。
環境に対して感覚が開く感じだ。

毎日、最初の2時間ちょいをつくれれば一日が変わるだろうな、と思った。

++++++

帰宅してTVをつけると「しゃべり場」。
大人代表は糸井重里。
うなってしまうほど言葉がうまい。
もやもやして言語化されていない議論を誰もが体感できる的確な例えに翻訳する能力が秀逸なのである。
素直にスゴイと思った。

「肩書きってどうよ?」という議題の回だった。
もと不良の青年が問題提起する。肩書きで人を判断する社会を変えたい。自分は高校も中退して2回入り直して、いまは定時制の高校にいっている。ボランティアとして海岸の掃除をやったり、雪下ろしをしたりしている。アルバイトの面接にいくと「あああの高校ですか。」といって断られる。でも人は自分という人間の何を知っているのだろう。定時制の高校、札付きが集まる高校の生徒というだけで何故偏見をもたれなけばならないのだろう、と彼はいう。

対して参加者は自分の意見をぶつけていく。聞いていて嫌だなあと思ったのは毎回そうだけれど「対話」になっていない。小学生だって相手の話はもうちょっときくだろ普通。相手の話を聞いた上で自分はこう思う、あなたはどう思う、と少しづつ互いの接点や相違点を探っていく。それがコミュニケーションだ。

参加者は相手の話を聞くということをあまりしていないように感じた。ディベートではないのだから相手から何かを学ぼうという姿勢の方が楽しいと思うし、人はひとりひとりは別々の世界を生きているわけで完全に相手を理解することは現行のコミュニケーション技術では難しい。なので理解できるとかできない、正しい正しくないではなく、理解しようとする姿勢に意味があると思う。

議論はあまりかみ合わないまま進んでいく。
途中で糸井重里がコメントする。

「あのさ例えば人に何かを伝えるのって、理解してもらうのって恋愛と似てると思うんだよね。女性にききたいんだけど例えば男の人がお前のこと好きだー、こんなに好きだ、ってあなたのことを閉じこめて監禁してとうとうとずーっと聞かされたら逃げちゃうよね。そういうことじゃなくて普段その人がどんな人なのかを知りたいわけだよね。」

ウマイなあ、と感心した。これは技だと思う。みんな理解できる、言われればわかる、でも言われるまではイメージが浮かばない。そういうコンテクストを言葉に換える能力はおそらく習得できる。そうだ学校で話術の授業がなかったのは致命的かもしれない。小学生の頃に口八丁で教員に何か口答えすると「へりくつばかりいうな!」と怒鳴られたが怒鳴る方が間違いだ。正しさを決めつけるのではなく対話しようよ。話術の授業。いまからでも遅くない。

トーク力と言葉力は世界を変えるね。
オレはそう思う。
(そうか、つまりコミュニケーションということだな)

投稿者 TKM : 03:46 | コメント (4) | トラックバック

2003年12月08日

ジョン・ウェインとケビン・コスナー

早朝、朝4時頃から「駅馬車」「灰とダイヤモンド」を観る。
二本ともとてもいい映画だった。
駅馬車はエンターテイメントの王道。
古い映画だが面白さは抜群でびっくりした。
構成、展開のはやさともに申し分なし。
序盤過ぎにジョン・ウェインが登場するシーンが一番好きだ。
彼が出てきた瞬間に映画の流れ、方向性の全てが転調する。完全にモードが切り替わる。
あれは素晴らしい。
ジョン・ウェインの映画だと知らないでみていたのでガーンとやられた。
これか!
という感じである。
「灰とダイヤモンド」も全く内容を知らないでみはじめた。
ポーランド映画だし古くてつまらない作品なんだろうな、と思っていたが全く予想を覆してくれた。
面白い。
こちらも展開のはやさが絶妙。
独特のじれったい動きをする主人公が中盤過ぎに変容する。
ここが抜群にカッコいい。
ラストでくの字になって息絶えるシーンは記号のようであった。
フェードアウトして、音楽が流れる。
その瞬間が一番よかった。

月曜の天気は上々。
これから仕事開始である。

++++++

アクターズスタジオインタビューの録画でケビン・コスナーの回を観た。
前日にみたブルース・ウィルスとは全然ちがって力強い。
演説のようなインタビューであった。
ブルース・ウィルスの饒舌でない話し方が印象的だった。
ケビン・コスナーをみたせいだが久しぶりに「アンタッチャブル」を観たいと思った。

投稿者 TKM : 10:25 | コメント (0) | トラックバック

2003年12月07日

ジャワ田中

これがジャワ原人か
バシタカ師匠がよくモノマネをする例のあの人にそっくりに見える。
ということはつまり、北の国からのあの人はジャワ原○?!
根強い人気というか新日における木戸修的な存在感で我々に訴えてくる由縁はこれか。

そうだ思い出した。
高校の授業中にいまは中学で数学の教員をやっている小林が入試情報紙の一部を破いてまわしてきた。何かと思えばジャージ姿で足を組んで椅子に座りこちらを見据えて「人生に代役はいない」と語りかける邦衛であった。
授業中にこの手の写真をみせられるとほぼ拷問である。
笑い波がおしよせ悶絶しながら必死でこらえた。
笑ってはいけない状況だと大したことじゃなくても笑いたくなる。
牛乳を飲んでいるときにやられても同様の効果がある。
笑い衝動は笑ってはイケナイという拘束状態によって加速される。
笑いすぎて腹筋が痛い時のあの快感をここ数ヶ月味わっていない。
あの腹筋運動はスゴイ。
「痩せたい人は笑いなさい」という本を出してもらいたいものだ。

投稿者 TKM : 17:56 | コメント (0) | トラックバック

夜明け、夕方、この僅かな時間が好きだ

明け方と夕方の空。
見飽きることがない。
淡い紅は夕日の色。
縦に伸びる雲が遠くをゆっくりと動いていく。

昼と夜が切り替わる。
世界が相転移していく。
この時間の空が好きだ。

不確定性を内包しない系は消滅への途にある表面的な秩序である。
魅力とは流動性と安定のバランスである。

++++++

音の組み合わせが持つ不確定性に魅了される。
音楽が心に響いてくる。

++++++

iTuneで曲が変わって流れてきたのは小沢健二の「大人になれば」であった。
外は暗闇に包まれつつある。
空は濃い紫色に変わっていく。
部屋にはデスクライトに照らされた机だけが浮かび上がっている。

投稿者 TKM : 16:49 | コメント (0) | トラックバック

スルメ論~その1

ガツガツとスルメを喰っていたらだんだん胃が膨らんできた。
信じられん。こんな少量なのにお腹いっぱいだ。
旅行の楽しさって目的地にいって楽しむ部分よりも新幹線にのって3時間くらい仲間とビールとスルメで語らう時間だったりしないだろうか。
なんか一番楽しいのは目的地にいくまでの車中だったりするんだよな。

投稿者 TKM : 08:54 | コメント (3) | トラックバック

朝のスルメ

今朝はスルメの朝である。

実はスルメはとてもカロリーが低い。
肩を骨折してから運動ができないので身体が重くなった。
今月中に体重を落として新年を迎えたい。
さて、どうしよう。
と考えて「あ、そうだ!」と思い出したのはこの間みたTVで外国人の女性がいってたこと。

「あたし、日本にきたらおいしくてもうバクバクバクバク食べてたらいつの間にか80キロになってたんだよ!」

うげ、80キロかよ。スゲーな。

「でもね、ガーン。やばい、と思ってそれから2ヶ月スルメだけ食べてたら30キロ痩せた」

なるほど!
それだ。
スルメだ。
というわけで今朝はスルメである。
カロリーは...98カロリー。確かに低カロリーだ。

++++++

今朝も日課の散歩。
本当はランだったのだが肩の骨がくっつくまでは歩きで我慢するしかない。
聖路加の前の欄干には鳥がたくさん止まっている。カモメだろうか。
鳥の歩き方をまねてパタパタひっそりと歩いた。
鳥たちは逃げずにじっと水面をみつめていた。

投稿者 TKM : 08:27 | コメント (0) | トラックバック

バカ電とブロークンウィンドウ理論

こういう風潮は嫌いだ。自分が中学生の頃なんて殴り合いのケンカなんてしょっちゅうだったし、小学生の頃は教員にバンバン殴られた。でも、裁判だとか家で親に言いつけるだとかそういうことはなかった。生徒の親達も心得ていて「もっとバシバシやってやってください」という感じだった。田舎だったので教員も生徒も互いが同じ地域コミュニティに属していたから抑止力も働いていた。教員もむしゃくしゃして殴っている時もあったろうけれどベースには真剣さがあった。それからグーで殴ることはなかった。それだけはどの先生もやらなかった。

電車で腕をひねられたぐらいで裁判になるのだったらあの頃の小・中学校の教員・生徒の3割は前科者になっている。

「つまらない世の中」という言葉を使う人間が一番「つまらない」とメディアは煽るがそんなのウソだ。この記事のような出来事が平気で起こるならそれは間違いなく「つまらない世の中」の一角だ。
大した怪我したわけじゃないなら別にいいじゃないか。バカげている。というか寄りかかられたくらいでガタガタいうな。と、ここまで書いて、混み合った電車をイメージして、でもなあ、と思った。
そう、混み合った電車は人間を壊していくから上記のような事件が起こっても仕方がない気がする。
そうなんだよな。
オレは混み合って不快な電車をバカ電と呼んでいる。
このバカ電を無くせば日本は変革すると思う。
教育やメディアやガチガチの規則だらけのネガティブフィードバック社会の根本にあるのは基本的にはバカ電と類似した不快感である。バカ電がつくりだす不快空気が伝播し、不快な空間と社会をつくりだしていく。ネガティブフィードバックソサエティである。

バカ電をやめる。
それだけで日本は根本から変わる。
ブロークンウィンドウ理論を適用せよ。
バカ電の撤廃=社会の活性化である。

投稿者 TKM : 06:14 | コメント (0) | トラックバック

方法論はカエル

タドに借りていた「重力ピエロ」を読了。(amazonへのリンクは面倒なので省略。interwikiみたいに簡単にならないものだろうかAWSを使うとできるのだろうか)
「春が二階から落ちてきた」
ではじまるその小説は連続ドラマのようでもある。というのはこの作家の小説は全部仙台が舞台で同じキャラがあちこちに登場する。クラッシャージョーとダーティーペアがリンクしたり。手塚治虫のTVアニメにはかならずお茶の水博士とブラックジャックがでてくるみたいな。一つの世界で同時並行的に進んでいく別な物語がたくさんあってそれらがシングルカットされるかのように作品化されていく。このやり方って面白い。いろんなところがリンクしてきていて「あ、この人、あの人か」とわかるとノスタルジックな気分になる。これも一つの面白さの形か。

++++++

流れに絡めとられていくのが嫌だ。
方法論をカエル。

投稿者 TKM : 05:12 | コメント (2) | トラックバック

2003年12月06日

ニードロップそれはフラッシュな夢

夢の中でディベートの練習をしていた。
チームはグーパーでわけた。
外国人や著名人が入り乱れてさあ開始、というまさにその時、視点が変わって道路を横断する二人を観ていた。コロンビア系の男性とブロンドの女性。二人は警察官である。

ディベート会場ではある有名なコンサルタントが机の上にならんだ自著を説明していた。
「ある学校でのことです。原君が点滴をうけていると点滴がボコボコといいだしたのです。血液の再浄化作用がはじまりました。」
と彼はいう。そんなこともあったっけ、と小林旭がスカパラとやったライブのMCが頭の中で流れていた。そうか原にはそういうこともあったな。そうそう清田君に習ったんじゃなかったか。なんだっけ。そんなことをかんがえているうちにちディベートが始まった。
と、その刹那。
ディベートという言葉の意味がこの世界で変容した。
「ヴァーリトゥード=ディベート」な言語世界が一般化し気づくと20歳くらいの細身の女性が1.3mくらいの高さの図書館の本棚に飛び乗り男性に跳び蹴りを食らわせていた。彼女はニヤリとわらうと僕の方に落ちてきた。ウソだろ。
そのまま彼女はマウントの体制で鉄槌を奮う。僕の頭の横にある本棚に手を伸ばして彼女はいった。
「ちょっとはいらなかったか」
首を曲げて彼女の視点を追っていく。本と本の間に15cmくらいの広さに三角形の隙間がある。拳を入れてみると抜けなくなった。ロッククライミングで隙間に手をいれてグーにして上っていくあれのことだろうか。

気を取り直してそうか次はオレの試合か。いざヴァーリトォードやらなきゃならないとなるとはてどういう戦略でいこうか。対戦相手を観察する。このオジサンか、それともこっちの男性か。打撃でいってもいいが果たして効くのか。それよりも吉田バリに引き込んでの袖車。しかし、オレの服には袖がないじゃないか。やはり組んでからチョークスリーパーかアームバーがよろしかろう。
などと考えていた。

二人は二階へと足をはやめる。二人が追っているのは犯人なんか。それとも。僕達は二階の踊り場で階下のカフェを見ていた。ここはディベートの控え室なのだ。
「トイレはどこですか。」
コロンビア人が僕にきく。そっ