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2004年02月26日
信号機とテキスト[1]
以前書いたかもしれないが日本は「信号の国」である。
都市に限定していえばこの言説は正しいはずだ。
月島から銀座まで自転車で向かう度にその思いを強くする。
少しスピードが乗ってくると信号が赤になり加速はゼロにリセットされ、道は閉ざされる。
路上駐車とフラフラ歩く歩行者の間を縫って進む。
道路に出て再び加速する。
そしてまた信号で加速がゼロにリセットされる。
これを5~6回くらい繰り返すと有楽町に到着する。
信号の周辺には必ずフラフラした人々の姿がある。
信号が青になると彼らは歩きだす。
しかしまっすぐではない。
微妙に揺れながら歩く。
都市の歩行者(pedestrian/ペデストリアン)。
信号があるのは道路だけではない。
あらゆる場所、あらゆるシーンに信号が満ちている。
何かをやろうとすると必ず信号が登場する。
本来生きているだけで奇跡のこの世界。
と僕は思っているのだが。
更にその先、先、先、先へと。
複雑化された虚像の先端に向かって迷走は続く。
これは日本だけのことなのかと思っていたが「ねぼけ人生」(水木しげる)を読んでいると世界中が信号化に向かっているようにも思える。
リバーシティーの公園で子供たちは今日も走り回るけれどひどく窮屈な世界だと思う。
メディアは常に赤信号である。
青信号のメディアは存在しない。
あらゆる商業メディアは世界をストップさせ、加速をゼロクリアしていく。
昨夜の帰り道。
ふと思った。
作家にとってテキストや本は舞台のようなものだがそこには音楽やアートパフォーマンス、スポーツを楽しむ時のステージと観客によってつくられるライブ感覚はない。
プロモーションの為に行われる出版記念パーティはあっても執筆者とユーザがリアルタイムに同じ作品を楽しむという機会がない。既存のテキスト空間では不可能といってもいい。
メッセンジャーでのテキストのやりとりと既に書かれたテキストを読むのとは面白さが違う。
テキストを読むという行為は同じでもモードが全く違う。
将来のテキストの一つのカタチとしてメッセンジャーにみられるような執筆者と読者が同じ時間軸に存在するようなテキストの方法論がありうるのではないかと僕は考える。
テキストはすでに書かれていてもいい。全く同じテキストでもスタイルによって読みのモードが根本から変質していくのだ。
メッセンジャー小説なるものは存在しうる。
100年前はいま僕たちが使っているような言葉で書かれた小説すら存在していなかった。
プロのメッセンジャーが存在してもいい。
メッセンジャー上のテキストはここ数年で一番集中し面白いと感じるテキストのカタチの一つである。
書くことと読むことが同時に存在している。
こうした「読み」のカタチ、そして「書き」のカタチはこれまで体験したことがなかった。
チャットとは根本的にモードが異なる。
コードとしてのテキスト情報が同じでもトーンとモードが違ってくるとそこから受け取る意味が変化する。
キンキン声で語られるのと甘い声で語られるのでは同じ言葉でも印象が変わるのと同じだ。
テキストにおいてもその表現スタイルによって意味は影響を受ける。
マンガは何故、流行ったのだろうか。
テキストよりも面白いから、という理由だろうか。
マンガを読むときの感覚とテキストを読む時の感覚は同じだろうか。
そもそもマンガは読んでいるのだろうか。
見ているのだろうか。
テキストは読まれる。
しかし「見られる」テキストも存在しうるのではないだろうか。
PCの画面上のテキストを読む時間の方が紙の上のテキストを読む時間よりも長くなっている。
画面に表示されたテキストは電源を切れば消えてしまう。
TVを見続けるのはそこにある画像が動いているからである。
動画であっても同じ動画が3秒間隔でループしているTVだったらそれを見続けることはできるだろうか。
人にとって最大の苦痛は暇であり、退屈である。
メッセンジャーのテキストを見る時、自分が集中しているのがわかる。
自覚はない。
しかし、スッとテキスト空間に入っていける。
違和感はない。
紙の上のテキストの場合、これは感覚がそうさせるのだと思うが自分との分離を感じる。
テキストは固定され、不可侵である。
余白に書き込むことはできてもテキスト自体は不動である。
画面上のテキストはどうだろう。
画面の文字は固定されているが「いじる」ことはできる。
フォントも思うがままである。
コードは同じでもテキストのカタチはかなり揺らいでいる。
だから集中できる。
それがうつろい儚いものだと本能的に感覚が伝えているのである。
この儚さが機能する種類の情報もあれば、そうでないタイプのテキストも存在する。
マンガと小説の違い。
マンガを読むとき僕たちは読みながら見ている。
別々の作業を同時に行っている。
アニメと実写の違い。
マンガと小説の違い。
テキストとメッセンジャーのテキストの違い。
これらは似ている。
小説はストーリーを語る。
マンガはイメージも語る。
アニメは絵が動く。
実写では人が動く。
どれも同じようなストーリーを伝えているかもしれない。
しかし決定的にモードが違うのだ。
それらが融合していく可能性もある。
しかし、ここで僕はテキストの「読み」と「書き」について深く考えていきたい。
投稿者 TKM : 2004年02月26日 09:46
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