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2004年02月29日

「現代美術入門」本江邦夫 入門書恐るべし! 芸術とそれ以外をわけるものとは?


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図書館の新刊本のコーナーでふと目についた一冊である。
手に取ったのは1ヶ月前。
少しづつ読み進めていたが昨夜一気に読み終えた。

もともとは「●▲■の美しさって何?」という題名で子供向けに書かれた現代美術の入門書である。
本屋では児童書のコーナーにおかれていたそうだが「優れた児童書ほど大人がよむのですよ」という編集者の言葉に動かされ一般書として再発行されることになったのだ、とあとがきに書かれていた。

中高生向けとサブタイトルがうってあるように素人の僕でも現代美術の大きな流れについて「なるほど」とうなづきながら読み進めることができた。本書の80%は現代美術に対する解説なのだが問題は「補章」として書かれた最後の20ページである。

この20ページ。200ページの本なのでちょうど全体の20%にあたるこの部分にこの本の核がある。それは

「芸術と芸術以外の違いとは何か、何が芸術なのか」

という著者の問いである。
現代美術の大まかな知識を知りたいと思って手に取り読み始めた本だがラスト20ページでおこなわれた「問題提起」に僕は強烈にインスパイヤされた。

「モノの面白さ」とはいったい何なのだろう?
著者が事例としてとりあげたのはアンディ・ウォーホルの「ブリロ・ボックス(Brillo Box)」である。
1964年に発表されたこの作品はブリロ・ボックスというアメリカのスーパーにいけば山積みになっている洗剤の箱の模造品(コピー)である。実物のブリロ・ボックスはボール紙で出来ているがアンディの作品は板でつくられている。

この作品が引き起こした騒動は想像を絶し、当時の美術界はまっぷたつにわかれたのだそうだ。
写真をみただけだとなんでこんな箱で美術界が揺れたのかいまいちピンとこなかったのだが問題提起の内容を知って愕然とした。
この作品によってなされた問題提起とは簡単にいうと「アンディの手によるブリロの模造品が芸術だとするならば実用品(本物のブリロ)と作品の違いはどこあるのか?」ということで「芸術とは何か」という問いかけに対する真っ向からの挑戦であったのだ。

アンディのブリロ・ボックスは板でつくられているのだから厳密には全くのコピーではない。
しかし、視覚的には二つの間に違いはない。
では何が「芸術」と「モノ」の違いを作り出しているのだろう。

ここで著者はコレクターであったアーサー・ダントの講演を例にとり、芸術であるか否かを決めるのはアーティストの仕事の量や質の違いではなく、作品を取り囲むコンテクスト(文脈・状況)、つまり美術界(具体的には画商、評論家、キュレーター、コレクター)に認められるか否かという問題なのだ、これはとても危険な考えではあるけれども一面の真実をついているのではないか、といっている。その上で、もしかししたら我々の認知能力は我々が理解している以上の可能性を持ち、見えている以上の違いを認知しているのではないか。あるいはコピーとは本当にコピーに過ぎないのか?それ以上の価値を持つのではないか。()
という問題提起で本書を終えている。

「美術」についての入門書は解説という枠を超え人の可能性に対する希望、そして芸術とは何かを問いつづける静かな覚悟を感じさせる。
哲学的な問いによって生み出される緊張感と危なっかしさは極上のエンターテイメントであり、感情と理性がギリギリのバランスでもたらすテキスト空間のゆらぎと秩序の狭間を泳ぐ楽しさは極上の読書体験と言える。

久しぶりに知的な興奮を味わった1時間だった。

++++++

80:20の法則(20%の商品が80%の利益をつくりだす、というビジネス書によくでてくるたとえ話)ではないが本書もその法則にもれず全体の20%にすぎないラストの20ページによって本全体が最高のエンターテイメントに変質している。しかし、その20%もそこに行き着くまでの無駄に思える80%がなければコンテクストとして存在しない。

投稿者 TKM : 04:29 | コメント (0) | トラックバック

「デューク更家」が情熱大陸に登場!!! 衝撃のウォーキングドクターの真実が明らかに?!(予告編)

明日の「情熱大陸」に登場するのは僕が注目しつづけているナイスガイ「デューク更家」である。

NHKの番組ではじめて彼をみた。
画面に登場した人物は黒のTシャツとぴっちりとした黒のパンツ、黒の帽子という出で立ちであった。
しかし、怖そうな外見とは正反対の腰のやわらかさ、そして獣神サンダーライガーこと山田恵一にそっくりの声のゆったりとしたトーク、そして独自の理論にのっとった「ウォーキング美学」。
ガツンと一撃をくらった。

「ウォーキング」という分野が存在するのは知っていたがモデル出身の女性がうわっつらをなぞるようなゆるい講座をイメージしていただけにデュークの「本気」さは異様だった。ウォーキングエクササイズというよりもまるでヨガやアスリートのトレーニングのように見えた。

いいテンションで話し歩き続ける彼の姿にしばし我を失う。
口をついて出たコトバは、

「誰だこれ?」

しばらくして画面に彼の名前が現れた。

衝撃。
唖然。
混乱。

それらの感情が同時にわきあがった。

「デューク」

その瞬間にやられたと思った。
そう自分は無類のゴルゴファンである。
「デューク」という単語には無反応ではいられない。
それはもう絶対に譲れない「ネーミング」である。

が、彼は自らを「デューク」と呼ぶ。
そのネーミングを実際に使っている人間をはじめて知った。
それが僕とディークのファーストエンカウターだった。

NHKのその番組はどこかの文化センターの講座のようでまったくムードがない。が、デュークの存在感とネーミングにカウンターパンチをくらった僕はしゃくなことにそのまま最後まで見続けてしまった。アホである。あの手の番組を最後までみるなんて…ありえないのだがそれが現実になってしまった。それもこれも「デューク」の魔性がなせる技なのだろうか。

いったいどんな人物なのか。
かねてから興味津々であった。
そしてとうとう明日、彼の秘密の一部が明らかになる!

(番組後に詳細なレポートを書く予定)

※僕は「モナコに別荘を」とよくいっていたのだがデュークの家はモナコにある。勝手だが妙な縁を感じる。

投稿者 TKM : 00:33 | コメント (2) | トラックバック

2004年02月28日

「ほしのこえ」と「ナンバーファイブ」~ポストジャパニーメション・パーソナルアニメーションの行方

恵比寿の写真美術館

昨日から恵比寿にある東京都写真美術館で文化庁メディア芸術祭の受賞作品が展示されている。
初日は「ポストジャパニメーションの担い手たち」と題した対談があった。
ゲームなどのムービーシーンを主に手がけるアニマの笹原さんと「ナンバーファイブ」(松本大洋原作)のアニメーションを手がけた神風動画の水崎さんらのトークセッション。

会場や進行はお世辞にも「良い」とはいえない。
進行役の滑舌が悪く質問がボソボソといった感じで勢いがない。
人を集めてやっているイベントなのだから自分たちだけで話しては仕方ない。
その場にいる人たちを巻き込んで「場」をつくっていく、という努力が必要だ。
その点、笹原さんはなかなかがんばって「場」づくりに努めていた。
会社を率いているだけにそのあたりの空気の読みは的確である。
しかし、イベントは社内会議ではないので照れ隠しにバカを装った物言いをするのはいただけなかった。
自分を卑下した物言いは逆説的に自己の正当化を強調しているようにしか見えない。
素直に気取らずに話してくれたらもっと気持ちよかったのに、と思った。

さて、CGIに関しては二者の作風は全くことなる。
笹原さんは自身もメジャー路線を志向しているといっているように作品はコマーシャル(商業)ベースの「CGっぽいムービー」である。ハリウッドの作品群に用いられるVFXとしてのCGとは方向性が違う。良い意味でゲーム用のムービーである。一目で「CGだ」とわかるがつまらないわけではない。しっかりとしたモデリングといわゆるCGムービー的な演出、派手さなどセルアニメーションの面白さとは異なるダイナミズムがある。CGの職人がつくるムービーの一つのカタチである。

一方、水崎さんの作品は独特のレンダラーを用いたアニメ基調でぱっと見た目には水崎さんの作品群に新鮮みを感じた。
独自のレンダリングによって3Dの世界を手描きのセルアニメーションのようにしていく手法は最近はいろいろな場所でみられるようになったが水崎さんの作品はその出来が飛び抜けて良い。「どうだモデリングしたぞ」という感じが全くない。
3Dのオブジェクトからあの絵が生み出されているとは容易には信じがたい。
あれならば2~3ヶ月・2~3人という非現実的な期間と人員でで20分強のアニメ作品(セルアニメ)を作成する力業も頷ける。

笹原さんがやっているようなCGの場合はそれがPC上か実際の空間かの違いがあるだけで巨大なセットをつくり、多くのキャストを配置、演出する部分は同じだから時間も人もかかる。

一方でアニメ的な作品を目指す水崎さんの場合は場面のアニメ的な演出が命といってもいい。
だから必ずしも大人数が必要とされるわけではない。
より個人的なセンスが問われる。

二種類のCGの方向性をみせてもらったがどちらがどちらに勝っているということはない。
目指している方向性が異なる。

一昨年公開された新海誠監督の「ほしのこえ」はたった一人でもこれだけ「面白い」作品がつくれるのだということを世に知らしめたエポックメイキングな事件であった。

以後、パーソナルアニメーションの可能性が開かれ「ウルダ」などいくつかの個人のアニメ作家による商業用アニメーション作品が発表されていくわけだが重要なのは「ほしのこえ」の成功はあの作品が必要最小限のスタッフでつくられた、ということである。

数万枚というセールスは全く無名の個人がリリースしたタイトルとしてはとてつもない成功である。しかし、同作が数十人のスタッフでつくられていたとしたら作品の中身が全く一緒であったとしても収支がマイナスになり結果的には失敗の烙印を押されていたかもしれない。

今年公開予定の「APPLESHEED」もそうだがフル3DCGでつくられた世界とキャラをトゥーンレンダリングで2D的な映像に変換していくという手法によって一部のセルアニメのあり方は変わっていくのだろう。宮崎アニメのような大がかりな体制ではなくても面白い脚本と演出力があれば十分楽しめるセルアニメーションが作成できる環境がようやく整ってきた。

組織によるシステマティックで機能的な制作体制でなければつくりだせない種類のCGムービー。
個人が作品全体に深く関わることのできる「アニメ」的なCG。
双方が担う面白さの方向性は大きく異なる。

僕個人としては今後「ほしのこえ」のようなパーソナルアニメーションという新しいマーケットが拡大していき、個人のアニメーション作家が活躍できるマーケットが定着し作品の幅が広がり、ユーザが成長していくことでようやくアニメーションは揺籃期を終え、メジャーエンターテイメントとして認知されていくのだと思う。

トークセッションでアニメの監督たちがウェブの可能性にも言及していた。彼らは一様に可能性を感じながらも課金やインフラを理由に「自分にはできないが」「現在は難しい」ということを強調していたが
「ほしのこえ」や新海監督の次回作(パイロット版が更新されていた)がネットでダウンロード販売されるとしたら、500~800円くらいなら払ってもいいと思う。ストリーミングという形式だとクオリティが回線状態に依存しまうので「買いたい」とは思わないが「一つのマシンでだけ再生可能」というID管理でもいいからQTやMPEGなどローカルに保持できるファイルの形状で1~2Gくらいでもいいからファイルをダウンロードできたら迷わず買う。

モノにしかお金を払わない、というのは間違いでアダルトサイトが課金もでるで十分に成功しているのをみてもわかるようにその情報に価値があると思えば人はデータにもお金を払う。情報の価値と値段のクリティカルマスが存在し、ネットコンテンツの世界にはまだその基準ができていないのである。

話が少し脱線した。

メジャー感のあるCGムービー。
そして個人の作家性で勝負する「アニメ」的なCGムービー。
この二つの方向性が今後どのような作品をつくりだしていくのか。
一ファンとしてはますます楽しみである。

投稿者 TKM : 06:16 | コメント (1) | トラックバック

2004年02月27日

「鬼武者3」 驚愕のデモムービー

ゲームから遠ざかってもう6年くらいになるのだが先日、6年ぶりにやってみたいと思うゲームに出会った。

鬼武者3」である。

有楽町のビックカメラ1Fプラズマディスプレイコーナーの一番目立つ場所にあるディスプレイに見慣れない映像が映し出されていた。CGらしいのだがみたことがない映画である。

カット割りやカメラワークなどいい出来なのでしばらくみているとどこかで見た顔が。

「ン?これってもしかして」

そう金城武の顔である。

「それじゃあこれはゲームなのか?!」

なんと50インチのプラズマディスプレイに映し出されていた映像は映画ではなくゲームのムービーであった。あまりにも出来がいいのでゲームのムービーシーンだとは気がつかなかったのだ。

その場に立ちつくし、一回りするまでムービーに見入ってしまった。(同ムービーはサイトでもみられます)

CGで描かれた金城武演じる明智左馬介はべらぼうによく出来ていて違和感なく物語の世界に入っていける。CGの出来もそうなのだが特筆すべきはムービーシーンにおけるキャラのアクションである。

モーションキャプチャーを使っているにしてもこれほどまでにスムーズかつ、みていて全く違和感を感じない動きというのははじめてである。DVD「アニマトリックス」に収録されているCG短編はどうしてもアクションにぎこちなさを感じる。しかし、鬼武者3のデモムービーはCGっぽさがなく、どちらかというとアニメと実写の融合をみているようなきがしてくる。
カメラワークが絶妙なのだ。

このクオリティならば映画であってもいいと思う。
「ファイナルファンタジー」とは別世界である。
明らかにCGは進化している。
そして進化の方向は一つではない。
リアリティの追求ではなく、このデモムービーにみられるようなマンガ的、アニメ的な方向性とリアルなCGの融合も面白い。
「CGはやっぱり違和感があってダメだよな」と思っていたのだがこのムービーは「全然いけている」のである。

僕がみた映像はリアルタイムにレンダリングされたものではなく、素材、カメラ、カットなどあらかじめつくられ編集されたCG映像だが数年後にはこのクオリティの映像がリアルタイムに動くようになるだろう。
なんとも驚愕の進化スピードである。
プレステがでてからたった10年足らずでここまできた。
ファイナルファンタジームービーの制作でコケたスクウェアが傾くのも頷ける。
制作にかかるハードの値段が等比級数的に下がっているのだ。

ゲームなんて全て同じようなものだ、と感じていたが映像のクオリティが桁違いにあがってくるとゲームと映画の枠が曖昧になっていく。先日のキャシャーンの映像をみたときも思ったがこれらのCGの方向性はハリウッド映画のCGとは根本的に異なるように見える。

リアルではないのにグッと惹かれてしまう。
アニメの場合、キャラや世界は絵として描かれている。
しかし、それがつくりものだとか「なんだ、絵じゃん、バカじゃないの」とはならず、僕たちは物語世界に違和感なく入っていく。

これと同じような方向性でキャシャーンや鬼武者のCGは独自の路線に進んでいっているように感じる。海外のアニメと日本のアニメーションが全然違う雰囲気なのと似ている。

ハリウッド映画のようなリアリティの追求、ディズニー的なCGの使い方とは異なる方向性のCG。鬼武者3のダイジェストCGにはそんな未来を感じた。

そうそうゲームの未来像へも一つ問題提起をして起きたい。

「アクションシーンてホントにいるの?」

FFシリーズがプレステででたあたりからずっと思っているのだがアクションシーン、戦闘シーン、はゲームに必要なのだろうか?

RPGにおける不毛な戦闘は物語を楽しむ上でマイナス要素だと僕は思っている。
あれが嫌で僕はゲームをやらなくなった。
ゲームは映画を意識し、映画的につくられるようになったけれど映画を楽しむようにゲームを楽しむことはまだ難しい。

僕たちはストーリーを楽しみたいのであってコントローラーをカチャカチャならさなければならない「ゲーム」には正直なところ少し疲れている。
通常のRPGではスタートから終了まで平均50時間かかる。
しかし、この時間幅は決定事項ではないはずだ。
ゲームのフォーマットも変わっていいと思う。
3時間のプレイ時間でも10倍の喜びを与えてくれる、そういうゲームのカタチがあってもいいと僕は思うのだが。

投稿者 TKM : 03:53 | コメント (0) | トラックバック

「月の砂漠」監督:青山真治 見えないカタチとファンタジー。そしてソシュールの影。

月島のレンタルビデオ屋で「月の砂漠」のDVDをみつけた。しばらく迷って手に取った。2時間10分を部屋で画面に向かって過ごす自信がなかったからである。

ユリイカ」を観たのはiBookの画面だった。夏の祭り(600騎の軍装した馬と武者による軍事訓練)の手伝いで実家に戻る電車の中で画面を見ていた。
電車という閉ざされた空間。
周りが動くことで自分は限りなく静止に近づく。
だから他者に囲まれていても逆に一人の世界に没入しやすい。

青山真治の作品は眺めているだけだと世界に入っていくことが難しい。
こちらからの積極的な入り込みが必要である。
ユリイカを借りた時もどうやってみたものかと迷った。
漫然と眺めるだけでは作品の世界に入っていくことが難しい映画の場合、どのような環境で映画を観るかで良さが変わってくる。一時停止などの制御が可能なメディアであるという認識があるので集中力がゆるんでしまう。

しかし、そんな思いは杞憂であった。
映画が始まった直後から強烈に惹きつけられた。
映像にとらえられてしまった。
三上博が演じるITベンチャーの社長と家族(とよた真帆)、そして、身体を売る青年(柏原収史)。
主要な登場人物は少ない。
舞台も現代の東京と地方。
未来でもないし、過去でもない。
派手な映像もない。
しかし、その映像に強く惹きつけられた。

ストーリーもMovieMagicなどの脚本ソフトでつくられるような「物語」のカタチはしていない。山場もなければスリルもない。なのに2時間10分があっという間だった。

家族の崩壊と再生が非現実な舞台で語られる。
青年は川辺に住み、高級住宅の人々に身体を売る。
淡々とした声。
抑揚もなく、サラリとした感情で彼は話す。
セリフにはこれっぽちのリアリティもない。
あんな言葉を話す人間はこの世界にはいない。
だから映画なのだ。
あのセリフが劇中で語られるというその一点がファンタジーだと僕は思う。
映画とはこうあるべきだ。
それはどこでもいい。
見えないカタチでもいいのだ。
この逸脱こそが映画の魅力だ。
現実をなぞるのではない。
現実でありながら現実ではない。
それが映画の魅力なのだ。

完全な逸脱は単なるパロディである。
ぶっとんだ映画といえば聞こえがいいがそれらは想像力の欠如によってもたらされる悪戯でしかない。映画がもっとも映画らしいのは表面的な逸脱ではなくもっと根幹の部分である。
それらは表面的には見えない。
見終わった後に感じる余韻に現れる。

晩年のソシュールはアナグラム研究に没頭していた。
その気持ちがわかる。
言葉は言葉の陰に隠れている。
見えないところにもう一つのコトバがある。

「月の砂漠」にはそんなコトバがあった。
青山真治の作品では文句なしに一番面白い作品だった。
ユリイカやそれまでの作品と異なり「月の砂漠」は「面白い」映画である。
難解ではない。
切り取られたこの世の映像は常に新鮮で見る人を惹きつける。
それは単に映像が美しいとか構図がいいとか編集だとかそういうレベルではない。
「音」という要素と映像が絡み合い「時間」の力でポイントとポイントが印象づけられ全体でカタチをつくる。絶妙である。

日本映画を楽しめて良かった。
本当にそう思う2時間10分であった。

++++++

ICCのFuture Cinemaで藤幡先生に「質問はありますか」と聞かれた時は何もひらめかなかったが夕方にウェンディーズでキングの「小説作法」の冒頭の数ページを読んだ時に思った。

「映画を観るとき、藤幡先生の作品もそうでしたが字幕がありました。僕たちは外国語の映画を観るときに必ず字幕を「読み」ます。映画を観ているのだけれど同時に「読んでいる」という気もする。マンガも絵をみていると同時にテキストも読んでいる。この文字と映像の関係について、映画の未来という観点からどうかんがえますか。」

過去に戻れるならそうききたいと思った。
いつもそうだ。
昨夜の安藤洋子にも何故、

「安藤さんは踊ってる時に何を考えてるんですか。何も考えないですか。ダンスって何なんですか」

ときけばよかった、といまさらながらに思う。書きながら考えるのが好きなのでパーティではいつも頭が回らない。エンターテイメントの意味をはき違え続けてきたツケがまわっている。いろんなことがリセットされるべき時期なのだろう。
感覚はそう伝えるのだった。

投稿者 TKM : 02:39 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月26日

信号機とテキスト[1]

以前書いたかもしれないが日本は「信号の国」である。
都市に限定していえばこの言説は正しいはずだ。
月島から銀座まで自転車で向かう度にその思いを強くする。
少しスピードが乗ってくると信号が赤になり加速はゼロにリセットされ、道は閉ざされる。
路上駐車とフラフラ歩く歩行者の間を縫って進む。
道路に出て再び加速する。
そしてまた信号で加速がゼロにリセットされる。
これを5~6回くらい繰り返すと有楽町に到着する。
信号の周辺には必ずフラフラした人々の姿がある。
信号が青になると彼らは歩きだす。
しかしまっすぐではない。
微妙に揺れながら歩く。
都市の歩行者(pedestrian/ペデストリアン)。


信号があるのは道路だけではない。
あらゆる場所、あらゆるシーンに信号が満ちている。
何かをやろうとすると必ず信号が登場する。
本来生きているだけで奇跡のこの世界。
と僕は思っているのだが。
更にその先、先、先、先へと。
複雑化された虚像の先端に向かって迷走は続く。

これは日本だけのことなのかと思っていたが「ねぼけ人生」(水木しげる)を読んでいると世界中が信号化に向かっているようにも思える。

リバーシティーの公園で子供たちは今日も走り回るけれどひどく窮屈な世界だと思う。
メディアは常に赤信号である。
青信号のメディアは存在しない。
あらゆる商業メディアは世界をストップさせ、加速をゼロクリアしていく。

昨夜の帰り道。
ふと思った。
作家にとってテキストや本は舞台のようなものだがそこには音楽やアートパフォーマンス、スポーツを楽しむ時のステージと観客によってつくられるライブ感覚はない。
プロモーションの為に行われる出版記念パーティはあっても執筆者とユーザがリアルタイムに同じ作品を楽しむという機会がない。既存のテキスト空間では不可能といってもいい。

メッセンジャーでのテキストのやりとりと既に書かれたテキストを読むのとは面白さが違う。
テキストを読むという行為は同じでもモードが全く違う。

将来のテキストの一つのカタチとしてメッセンジャーにみられるような執筆者と読者が同じ時間軸に存在するようなテキストの方法論がありうるのではないかと僕は考える。

テキストはすでに書かれていてもいい。全く同じテキストでもスタイルによって読みのモードが根本から変質していくのだ。

メッセンジャー小説なるものは存在しうる。
100年前はいま僕たちが使っているような言葉で書かれた小説すら存在していなかった。

プロのメッセンジャーが存在してもいい。
メッセンジャー上のテキストはここ数年で一番集中し面白いと感じるテキストのカタチの一つである。
書くことと読むことが同時に存在している。
こうした「読み」のカタチ、そして「書き」のカタチはこれまで体験したことがなかった。
チャットとは根本的にモードが異なる。
コードとしてのテキスト情報が同じでもトーンとモードが違ってくるとそこから受け取る意味が変化する。
キンキン声で語られるのと甘い声で語られるのでは同じ言葉でも印象が変わるのと同じだ。
テキストにおいてもその表現スタイルによって意味は影響を受ける。

マンガは何故、流行ったのだろうか。
テキストよりも面白いから、という理由だろうか。

マンガを読むときの感覚とテキストを読む時の感覚は同じだろうか。
そもそもマンガは読んでいるのだろうか。
見ているのだろうか。

テキストは読まれる。
しかし「見られる」テキストも存在しうるのではないだろうか。

PCの画面上のテキストを読む時間の方が紙の上のテキストを読む時間よりも長くなっている。
画面に表示されたテキストは電源を切れば消えてしまう。
TVを見続けるのはそこにある画像が動いているからである。
動画であっても同じ動画が3秒間隔でループしているTVだったらそれを見続けることはできるだろうか。
人にとって最大の苦痛は暇であり、退屈である。

メッセンジャーのテキストを見る時、自分が集中しているのがわかる。
自覚はない。
しかし、スッとテキスト空間に入っていける。
違和感はない。
紙の上のテキストの場合、これは感覚がそうさせるのだと思うが自分との分離を感じる。
テキストは固定され、不可侵である。
余白に書き込むことはできてもテキスト自体は不動である。

画面上のテキストはどうだろう。
画面の文字は固定されているが「いじる」ことはできる。
フォントも思うがままである。
コードは同じでもテキストのカタチはかなり揺らいでいる。
だから集中できる。
それがうつろい儚いものだと本能的に感覚が伝えているのである。

この儚さが機能する種類の情報もあれば、そうでないタイプのテキストも存在する。

マンガと小説の違い。
マンガを読むとき僕たちは読みながら見ている。
別々の作業を同時に行っている。

アニメと実写の違い。
マンガと小説の違い。
テキストとメッセンジャーのテキストの違い。

これらは似ている。

小説はストーリーを語る。
マンガはイメージも語る。

アニメは絵が動く。
実写では人が動く。

どれも同じようなストーリーを伝えているかもしれない。
しかし決定的にモードが違うのだ。
それらが融合していく可能性もある。

しかし、ここで僕はテキストの「読み」と「書き」について深く考えていきたい。

投稿者 TKM : 09:46 | コメント (0) | トラックバック

フォーサイスx安藤洋子~重力と戦う力

祖師ヶ谷大蔵でプレゼン用のムービー資料をつくっていたら、向かいのマンションに野茂がいた。
ムービーの書き出しを終えてから世田谷パブリックシアターに向かうのにバス亭にいってバスを待つ。三軒茶屋までの時間を運転手にきくと「今日は特に混んでますから一時間はかかりますね」と言われたのでてくてくと駅に向かって世田谷線に乗り換える。頭がガンガンと痛い。異様なまでに頭痛である。

「安藤洋子新作ソロ」「N.N.N.N.」「QUINTETT」の初日である。
ついて早々に頭痛で気分が悪くなる。カゼだろうか。席に着くと隣の席には老齢の夫婦。70歳くらいかな。こうしたステージにはよくくるのだそうだ。

4つくらい向こうの席には浅田彰。
以前、T所が火星人と呼んでいたがその趣はいまだ健在である。
iwtkに至っては「akirax」呼ばわりだ。
変なところでポップなネーミングで呼ばれている。
本人は気づいているのだろうか。

開演。
しかし、頭痛は酷くなる一方である。
ちりぢりになりそうな意識でステージに目を向ける。
巨大なアフロのカツラをかぶった安藤洋子がズリズリと舞台をうごめく。
動いては停止を繰り返す。
同じ光景が続く。
しばらくして、一瞬、意識が遠のく。
2~3分しただろうか。

気がつくとカツラを脱ぎ捨てた安藤洋子がステージをはっていた。
足先に緊張がみえた。
手足の筋肉が悲鳴を上げているようだった。
身体が踊っていた。
それは踊るというよりも「動く」感じで平面を人が「動いて」いた。
舞うのではなく動いていた。
重力を感じた。
SFの世界のようだった。

二人の男性のダンサーがロープを引きずる。
彼ら歩みはその場の物理法則とは異なる「重さ」を感じさせた。
傾いた足と上半身。
動いているのだが重心は微動だにしない。

幕が下りた。

休憩「N.N.N.N.」休憩「QUINTETT」とステージは続く。
素人目には最後の「QUINTETT」がわかりやすかったが自分の好みをいえば「N.N.N.N.」が好きだと感じた。
理由はないな。
始まって1分くらいの時の腕の動きをみていたら、止めと払いという二つの背反する動きを同時に感じさせられて、いいなあ、と思った。

そうだ忘れていた。
もっと良かった人がいた。
「QUINTETT」で最初にでていた黒人のダンサーの筋肉、そしてしなやかな手の動きは素直に美しいと思った。正直、少し見とれた。

安藤洋子の筋肉は限界点で動き続けていた。
決して軽やかではない。
ぎこちないとか硬いわけでもない。
意志に反して身体が硬直する時に似ている。
彼女の身体の中心に向かって重力が働いていた。

舞台の後でレセプションがあった。
何となく不思議な気分だった。
つい数週間までまったくその存在すら知らなかった安藤洋子。
TVでみたのも偶然ならばチケットを買ったのも偶然(彼女がでているということすら知らなかった)。
その彼女とパーティで乾杯している自分の今は何なのだろうか。
頭痛の頭で考えるが何もわからなかった。

浅田彰、坂本さん、フォーサイス、安藤洋子の4人が互いにデジカメで記念写真を撮っている。必ず、一人あまるので撮ってあげればいいのだが気力の限界だった。倒れる直前であった。

しばらく歓談していたら体調が少しよくなったのでiwtkの同僚のデザイナーさんたちと食事にいった。ほぼ完治したかに思ったが帰りの電車は気力だった。

普通だったら即行で帰ってるよな、と自分を省みるが相変わらずバカは治らない。ロレツがまわらなくなった村島さんは千鳥足で奥さんに抱えられて帰っていった。

青山一丁目で乗り換えなのだが間違えて3秒くらい渋谷で降りてしまった。すぐに車内に戻ってズキズキする頭で月島に帰った。帰ってきてメモとして書き始めていまにいたるが頭痛はなお強まる一方である。

いろんな有名人にあった昨夜であった。
同時にあることにも気づいた。
狭い世界である。
友人はその世界の友人としか話ができない、という広がりの薄い世界が広がっているように見えた。メディアがつくりだす枠は見えないだけに異様に強固で、あの場があの瞬間から漂流教室になったらあの場にいた人たちの持つコンテクストや関係性、過去、価値、意味、いろんなものはガラガラ崩れていったのだろうか。

無人島で話すように人と話せたらいいなと思う。
人にはそれぞれの到達度というのがある。それでもいろんなものをとっぱらって助走なしに「人」to「人」で対話できる世界がいいな、と僕は思った。

投稿者 TKM : 02:16 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月25日

[K-1]山本“KID”徳郁の「気」がはじけた瞬間

山本“KID”徳郁の身体に驚愕を覚えた。中量級の大会なので170cm前後の選手が多い昨夜のK-1Max。その中でも163cmと出場選手のなかで特に小柄な山本だが身体はNo.1にインパクトがあった。

「バキじゃんこれ」

思わずそう叫んでしまった。山本の身体を覆う筋肉の鎧は決してゴツゴツしていない。全盛期の佐藤ルミナを彷彿とさせるが更に強化され、しなやかさを付け加えたようなこれまでみた格闘家の中でも類を見ない強さと美しさを感じさせた。

試合スタイルも変則的であった。
自らの「強さ」に対する絶対的な自信がそうさせるのか優勝候補の村浜に対してもノーガードで思い切り踏み込み渾身の一撃を放っていく。山本もイルマッツ(トルコの侍の異名を持つテコンドー出身の戦士)もナチュラルな「気」が飛び抜けて強い。

昨夜の小比類巻には「運」を感じた。
トーナメントにおいて最も大切なのはおそらく「運」であろう。
しかし「気」では山本、イルマッツがダントツに他者を上まっているように見えた。

昨夜の興行に関してだがK-1に限らずトーナメントの脆さを感じた。
一日に3試合を勝ち抜かなければ優勝できないワンデイトーナメント形式の場合はアクシデントによるケガでカードが流れてしまうことがよくある。昨夜のケースだと「山本vsイルマッツ」がそうだ。二人とも一回戦のインパクトがあまりにも強かったので、勝ち上がった二人の名前をボードに観たときは

「ホントかよ。この二人の試合をみれるの?」

と、どうしようもなくワクワク感が高まった。
会場の緊張感、高まるボルテージ。
これも格闘技の一つの魅力である。

それだけに山本が右手第2中指骨を骨折したため棄権との報は残念であった。
正直なところ自分の中に張りつめていた糸がプツンと切れていくのがわかった。もちろん、小比類巻が弱いということではないのだがあの時点で自分が観たいと思うもの全てを昨夜の山本vsイルマッツは持っていた。「さあこれからだ」と期待していただけに「あろうべき未来」が目の前でパッと姿を消してしまう喪失感は予想よりも遙かに大きかった。

山本“KID”徳郁。
昨夜観たかったもの全てが山本“KID”徳郁の試合にはあった。

格闘技は一人では成立しない。
相手があってはじめて試合がなりたつ。
両者が互いの潜在能力をどれだけ引き出せるか。
いい試合とはその一点にかかっている。
人の持つ能力の極限値を超える瞬間の美しさは他の競技には存在しない。
格闘技の持つ魅力。
自分が格闘技を見続ける理由は極限状態のその先にかいま見る人の力の覚醒にある。

「神の遺伝子」を持つと自ら語る山本は生まれもってこの極限状態のその先を引き出す空気をまとっている。彼自身だけでなく相手の潜在能力をも覚醒させるナチュラルな「気」の強さ。そして華やかさ。
今後も山本の戦いからは目が離せない。

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2004年02月24日

才能とキャシャーンと21世紀の欲望

「どの分野でも常に才能が求められています」

と言ったのは「キャシャーン」を監督した紀里谷さんだった。久しぶりに公式サイトを訪れてみるとトレイラームービーが更新され予告編が公開されている。QuickTime版をクリックすると横長の画面に実写ともアニメともゲームともつかない映像が流れ出した。
明らかにCGであると認識できる「絵」的な映像と人が演ずることで成立する映像という異なるパースペクティブが共存し、二者は相互依存の関係ではなく明らかに断絶されている、と感じるシーンもある。

トレイラーを観ただけなので全体がどう落ち着くのかを予見することはできないが一部、人と明らかに「絵」であることが認識できるCGが絶妙のバランスで合成されているシーンを幾つかみてとることができる。このシーンの持つ躍動性と非現実性はいわゆる日本のアニメ的な感覚であるように感じられた。

つまりこれは「日本の映画」なのだ、と。
監督自身がいっていたようにこの映画は映画的であるものアニメ的であるものマンガ的なものが融合しているように見える。少年ジャンプやマガジンといった少年誌ではなく、ヤングジャンプやスピリッツといった年齢層が一世代上のマンガにみられるアクション要素の持つエンターテイメント性。

正義や人というテーマを前面に押し出しながらもその実、視覚的な躍動性によって観るものを惹きつけていく。
音のつくりだすリズムによって身体が無意識に反応してしまうような生理的なエンターテイメント性を感じた。そこではおそらくストーリーは大きな意味を持たない。(「もののけ姫」もテーマを前提に語られることが多い。しかし、あの映画の面白さの本質の一部はストーリーではなくドロドロ、ヌルヌルといった得体の知れなさ、そして「血」に付随する肉感的な感覚とそれらを想起させる映像。そこからつくりだされるリズムやトーンに対する本能的な感覚にある。そしておそらく大多数の人間に機能するコンテンツとは人の根幹部分を揺さぶる効果なしにはあり得ない)

イノセンス」とは違った意味で体験したい映像である。

体感という言葉でふといま思ったのだが下記は昨日のICCのイベント藤幡先生がいっていた言葉である。

「20世紀は視覚に対する欲望が爆発した世紀だったと思う。でも21世紀は違う欲望が爆発する。それがなんあのか知りたいから僕は新しい道具で世界を写し取ろうとしているんだと思うんです」

その言葉をきくためだけに僕はそこにいったのだ、と思った。
僕は10年来、「異化」に注目し続けている。
自分の生きてきた痕跡。
そして興味の足跡を辿ると自分が常に「異化」を求めていたことにようやく気づいた。
21世紀の欲望のカタチは映像や音、言葉、文字、グラフィック、といったメディアの特性によってもたらされるものではない。
メディアから切り離された場所で体感される劇的なパースペクティブの転換。
言い換えるならば脳と感覚の開拓。
それがこの世紀の欲望のカタチであると僕は考える。

++++++

「どの分野でも常に才能が求められています」という監督の言葉だが僕も常に面白いブログ、面白いサイト、面白いイベント、面白い展示、面白い本、面白い映画、面白い人、面白い味、面白い音、面白い場所、この生のあらゆる瞬間で「面白さ」を探している。
常にである。

「どの分野でも常に才能が求められている」

それは「面白さ」を求めずにはいられない人の性の現れである。
そして人はその志向に忠実であるべきだ。

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DOGVILLEとテキストの後ろのテキストが水木しげるの「ねぼけ人生」につながっていく

昼にデフラグを実行したら2時間後からずっと残りファイル数が「1807」になって1時間に一つくらいしか減らなくなった。5時間以上、PCを使えない状態が続き、操作しようとするとファインダーが異常な低速になり(CDで起動しているせいもあるが)一度動作にゆうに10分はかかるようになった。

みていると同じ動作を繰り返しているようでデフラグは20時間かかっても終わりそうにないのであきらめて停止ボタンを押してみるがこれも動作が完結するのに永遠にかかりそうな雰囲気だった。強制終了を試みるとディスクが飛びかねないし、しょうがないので腹をくくって(腹をくくるというのは大切で大体のことは腹をくくればどうにかなる)マシンをそのままにして古いwindowsマシンをひっぱりだし、ネットにつなぎ銀座の上映時間を確かめる。

目当ては「DOGVILLE(ドックヴィル)」。
体育館のような空間に白線で区切られた小さな町が舞台である。
家にはドアもない。
セットというよりも小学校や幼稚園でやる「○○ごっこ」のようである。

見始めてすぐに眠くなってきたがそれは上映前にガツガツと食べたパンと牛乳のせいだろう。
物語はニコール・キッドマンが炭坑のどん詰まりにある「ドッグヴィル」という町に逃げ込んでくるところからはじまる。何もない集落の人々の生活が部外者の介入によって少しづつズレはじめる。
逃亡者である彼女はしばらくの間、この世の果てともいえる閉塞した小集落で穏やかな日々を過ごす。
しかし、秩序は徐々に崩れていく。

町の人々は権威を恐れ。
弱きを憎む。
この性が顕在化しない間、彼らは普通の人々である。
しかしある出来事を境に彼女を取り巻く環境は変化する。

弱者に対する権威の行使は「いじめ」の構造と類似している。
自分が社会的に弱者であることを自覚し、現在の自分に対して不満を感じているものは自分よりも弱いものに対して冷酷である。それは陰湿なカタチで具体化していく。権力とはそれを行使するものにとっては甘美であり、一度、破壊への衝動が具体化すると流れは歯止めのきかない激流に姿を変え、人を変貌させる。
何らかの理由があって人が変わるのではない。
それは人のもつ本質的な衝動である。

善や悪という指標は流動的であり社会的な約束が事象に意味を与えているに過ぎない。
人の世界の善は他の生物にとっての悪であることもあるし、その逆もある。

物語は舞台には時間の経緯をしめす明暗と。
そしていくつかの音。
それしかない。
壁も背景もない。

しかし、そこは町であり。
社会であり。
人の世界である。

彼女は徐々にどす暗い欲望に飲み込まれ。
いたぶられ。
無防備に壊れていく。

人々の暗闇が町を覆う。
この過程をみていると吐き気がした。
したり顔で「ふーん、これはこういう映画ね」という態度はとれなかった。
世界に吐き気がした。
この映画は作り物だけれど似たようなシーンを嫌になるほどみてきた。
どこの公立学校にもあった。

「リリー・シュシュのすべて」を思い出した。
「ドッグヴィル」とは全然違う映画だが胸の奥が重くなる感覚やあの映画で感じた「痛さ」と同じだった。

映画の最後近く、彼女が父親と対話する。
人を「許す」という彼女の意志。
それこそが傲慢なのだと父親はいいきる。
しかし「許す」ことがなかったら世界は...と、揺れる。
そして彼女は決断する。

派手なセットも効果もCGIもない。
しかし、映画である。
映画とはこうなのだ。

映画の舞台は白線で区切られた空間と簡素な小道具だけ。
映像的には何一つ派手さはない。
なのに1時間後には違和感なく世界に没入し。
ダイナミックな世界が立ち現れる。
多くの映画評や作品に関する記事はこの一点に主眼をおいて語られる。
しかし、それらは舞台の目新しさでしかない。

僕が注目したのは何故そこに世界が立ち現れるのか。
その一点である。
人は映像をみているようで映像の後ろ側をみている。
アートも音楽もそれ自体をみながらききながら、感じながら、その後ろ側をみている。
ちょうどテキストを読みながらテキストの後ろ側にもう一つのテキストをみているように。

世界は人の外側にあるが同じように内側にも存在する。
人が言葉を持ち、言葉を使う限り、このルールは変わらない。

あらゆる情報は時間というボックス圏で物語につながっている。
この一瞬もその少し前の一瞬も次の一瞬も分断され、そして連続している。

帰り道。
劇場をでると同じく劇場からでてきたばかりであろう19歳くらいの女の子が連れの男の子に

「はいはい、よかったですね。面白い?何が?何がいいわけ?なんのの。はいはい。そうですね良かったですね」

と悪態をついていた。
というか憤っていた。
彼女がなぜ憤慨していたのかなんとなくわかる気もした。
全然関係ないのだが書いていたら江藤先生が机を叩いて激怒した時のことを思い出した。

++++++

人は自分の世界にあわないものに接するとそれを否定したくなるようにできている。
それも人の本能だ。

帰りに水木しげるの「ねぼけ人生」を読んだ。
1年前に最初の20ページくらいを読んだら少年時代の田舎での話とおばあさんが話す妖怪の話や学校での逸話などが書かれていた。その時は全く惹かれなかったので放っておいた。昨夜、手塚治虫の「クレーター2」を探していてたまたま手に取った。気になってカバンに入れておき、帰り道にファミレスで続きを読み始めた。

文字だけの本を読んで「笑った」のはここ数年ではじめてだった。

哲学書もいい。
人生論の本もいい。

しかし水木しげるの「ねぼけ人生」の前でそれらは消し飛んだ。
教育論も心理学も倫理学もあらゆる学もいらないなと思った。

視覚に対する欲望が爆発したのが20世紀。
21世紀はどんな欲望が首をもたげるのか。
その答えとはいわないがヒントの一部をかいま見た気がした。

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2004年02月22日

「いい飲み」とハーブティーの朝、こんな朝の日曜にやまけんと河原で茶を飲んだっけ

恵比寿で仕事を終え、たっぷりとごちそうになり、楽しい時間を過ごし、更に新宿で矢坂さんと合流しグビリと語らい月島に帰る。しかしである。今朝は全く気分が良い。気候がいいせいもあるのだろうか。

一昨日はたいした量を飲んだわけでもないのに銀座からの帰り道にグラついた。昨年、かちどき橋にぶつかって肩の骨を折ってから注意していたのだが。そして、翌、金曜日はかなり使い物にならなかった。

昨夜は恵比寿、代官山、新宿と久しぶりに「いい飲み」をやった。
「いい飲み」は基本的にいい人との時間によってつくられる。
「飲み」においては「何を」よりも誰とが重要である。
そういう意味でも内容も「いい飲み」であった。
「いい飲み」。
それは幸せのひとつのカタチである。

それにしてもずいぶんとごちそうになってしまった。
明け方の新宿と銀座では人々がそれぞれ「家」に向かって帰っていく。
僕も家に向かって帰るのだが、まてよ、と少し考えた。
人は家に帰るわけだが何故人はそうまでして「家」にかえることに情熱を燃やすのだろうか。
「家」とはなんなのだろう。

家とは巣みたいなもので自分を守る場所なのだろうか。
どんな人も無意識のうちに住み慣れた場所に帰ろうという本能がある。
ホテルでも2~3日もいると愛着がわいてくる。

安心して寝れる場所。
寝る場所。
無防備になってもいい場所。

ということは人は無防備になりたい、ということだろうか。
そうだとしたら何故、家以外では無防備になれないのだろう。

怒りとか憤りは何かを守ろうとする意識のあらわれである。
カーっとなるとき、何かが破られるから頭にくる。
何故その何かを守ろうとするのだろう。
それは自分にとって何なのだろう。
それこそが自分の核なる何かにつながっている、という気もする。

ハーブティーを飲んで今日は寝よう。

投稿者 TKM : 06:44 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月19日

わからないけどわかること

昨年から時々、横尾先生の日記を読んでいる。

読んでいるのは面白いからだと思うが何故面白いのかわからない。
よしもとばななの日記も以前は時々みていたのだが最近は全く読まなくなった。何故だか全く面白くない。しかし何故面白くないのかはわからない。

いろんなことがわからない。
わからないけれどそれが面白いか面白くないかはわかる。
どうしてなのかはわからない。

投稿者 TKM : 05:28 | コメント (2) | トラックバック

「蛇にピアス」のつくりだす時間感覚と夜中のファミレスのリーマンズ

「蛇にピアス」を読む。
小説である。
ギミックのない小説。
読後感が映画みたいだ。
映像的であるのだがそれだけではない。
時間的なのだ。
言葉がつくりだす世界の時間を漂っていた。

表現とは削ることである、という言葉をいつだったかどこかの本で読んだ。

・「蛇にピアス」はエンターテイメント作品である。

とメモしておきたい。

ついでにマネーの虎の堀之内九一郎の本もパラパラと読む。
口述なんだろうなと思いながらパラパラとめくる。
成功したとされる実業家が書くビジネス書はどの本も同じことを言っている。
コンテクストが違うだけだ。

美術手帳をパラパラとめくると草間弥生の特集であった。
表紙だったかな縮尺がガリバーサイズの作品の隣たたずむ彼女の姿があった。

築地にもどって「終戦のローレライ」の続きを読む。
ひたすら長いのだが流れにのると引き込まれる。
場外市場の角にできたジョナサンが最近は夜のオフィスである。
今宵は大学生の集団が会合をしていた。
総勢15人くらいだろうか。
彼らのガヤガヤは全く気にならない。

1時間くらいしてサラリーマン二人が迎えの席に座った。
38歳くらいのと30歳くらいだろう。
No.38がずっと話している。
時々、机を叩いて力説しているようだ。
センスは悪そうじゃないのだが話の中身はほとんど職場や仕事のこと。
自らの仕事の話をずっと熱く語っている。
愚痴ともとれるし改善案とも思える。
ただひとつだけ言えるのは「楽しそう」ではないということだ。

日産とトヨタの広告をひきあいにだし彼は声を大きく張り上げる。
聖路加に関係しているのだろうか。
話をきいていると「手術室の回転率をあげるんだよ。こっちで手術が終わった、そしてこっちで待ってる。私はくわしくはわからないがおそらく手術とはこうなってる。つまりシステムだ」という感じで彼は99:1くらいの割合で若手に向かって話す。
「渡辺さんが社長であるということはね。つまり...」
「だから。使いやすい人間になる。使いやすい人を探す。それじゃないんだ。自分が使いやすいと思ったからこっちのプロジェクトにください?違うんだよ。自分で探してくる。」
文字にしてみるとスマートに聞こえるが彼は向かい合う同僚ではなく自分に向かって話しているようにみえた。気色ばんで話す人間はほぼ例外なく他者ではなく自分に向かって話している。

彼は家でもあんな話をずっとしているのだろうか。
その人がどんな人であるかはその人がつくりだすあらゆる音に反映される。

投稿者 TKM : 05:21 | コメント (1) | トラックバック

2004年02月18日

面白いPCをみつけた

手のひらサイズのPCはVAIOあたりで体験していたはずだがあれよりももう一歩進むとこういう感じになるのか。たった数百グラム、数センチの差だけれどこの違いがイメージに与える影響は大きい。「使ってみたい」と思わせる魅力がある。

ちょっとまえに流行ったOQOと路線は同じだがflipstartpcの方が遙かに美しい。ドックを使って接続するoqoのデモは一昔前の印象を与える。表現のうまさなのだろうけれどケーブル一本でデスクトップPCに姿を変えるflipstartpcにぐっと惹かれる。こちらを見てしまうとoqoのマシンが野暮ったくてしょうがない。flipstartpcは「PC」だがoqoは「機械」である。

flipstartpcがかいま見せてくれた「新しいPCの使い方」は素直に「面白い」と感じた。
同時にかなり物欲が動いたのは僕だけだろうか。

投稿者 TKM : 08:28 | コメント (0) | トラックバック

水上を走る車

普通の車がいきなり川を走っている

あ、ありえん....。
なんだこの車は。

乗り物として面白すぎる。
存在自体がコンテンツ化している。

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2004年02月17日

恐怖、ミシュランにインチキ発覚

なるほど「ミシュランの三分の一はダメダメの嘘っぱち」だったということか。
とはいえどの分野でもこの程度のいい加減さはつきもの、という認識があるのでそうなのかと納得してしまう。

アーティストや「創る」という場に身を置く人々は質問すると個人の感想を確信をもって発言する。しかし、僕はどんな時でも「オレはこれが好きでこれが嫌い」と言えるというわけではない。なので彼らのように状況に関わらず自分の好き嫌いをはっきり言える人と話すと「うーん、かなわねえな」と感心することが多い。

それはさておき「ミシュランの三つ星レストランの3分の1以上がそれに値しない」という告発によって格付けの持つ意味と現実の味が非対応になっているのが明らかになった、と解釈するとミシュランによって成立していたレストランの味の政治力構造はグラっと揺れて格付けとしてのパワーを失い新しい評価基準が現れるのだろうか。

このケースは味の粉飾決済みたいなもんだろうけどどの業界でも業界紙のやってることは大差ないような。
映画評や映画の点数なんてまさにそんな気がする。
アカデミー賞とった映画や文学賞とった作品は駄作ではないけどつまらいのが多い。
自分の専門分野だと「あー、似たような状況ってよくあるわ」が現実なのかな。

ミシュランもお役目ご苦労というところか。
エンターテイメントとして楽しむ分にはいいけど、自分の目や舌や頭を信頼しないといかんな、と思った。

なので自分が「好き」なものは外野はどうあれ「好き」でいていいのだ。

投稿者 TKM : 10:43 | コメント (2) | トラックバック

オフィス環境と「やる気」「パフォーマンス」の最大化

自分の部屋で仕事をずっとしているのだけれど最近どうも気が乗らないことが多い。
部屋にいると快適は快適だが夜12時を過ぎないとモチベーションがあがらない。
というわけで「シービスケット」を観たその足で2件ほど店をはしごして本を読みつつノートをとったりしてみた。
結果は「良」。
騒がしい人や二人以上でダベっている声の大きな人がいない限りはかなり集中できる。

よく起業本などに「余計なコストはかけないこと。だから自分のアパートで仕事をするべき」みたいなことがかかれているけれど業種によっては場所の持つ力がダイレクトに本業に反映される。売買や商業なら自分の部屋が事務所でもOK。能率も効率も変わらない。しかし、デザインや企画など考えること自体が商売になっている場合は集中出来る場所の確保が仕事の能率・効率・クオリティとダイレクトにリンクしており、自分のパフォーマンスを最大化する環境づくりは十分に投資価値のある案件だと思う。というか最も大切なのではないだろうか。

と、そこで面白いのは静かで快適な場所が必ずしもモチベーションとパフォーマンスを最大化させるわけではない、ということだ。この視点はオフィス環境のプランニングにもあてはまり、理想的なオフィスとは数値化できる指標ではなく何故かしらないけれど「やる気」がでてしまう、みたいな「やる気エネルギーレベル」ではかられなければならない。

この視点は会社という組織ではすっぽりと抜け落ちていて、その理由は数値化できないというところにあるのだがここを数値化していこうというのが「キュービタル」的な経営の考え方である。

今度あったら石井先生に話してみよう。

++++++

太宰治の「人間失格」を買った。
冒頭に「メシ」の話が出ていた。

そうそうこのStyleSheetの設定を変えたのでMacでみるとこのページはこれまでとは別なフォントで表示されるようになった。さっきみていたブログの「blogとMacのオイシイカンケイ」というエントリーにもあったんだけれど確かにMacOSXになって以降、CSSを使ったウェブページのフォントの読みやすさは一度使ったらもう病みつきである。

同じテキストでも別モノに感じられ形式が意味よりも価値を持ってしまう。
Mac大好き人間というわけではないがこと画面のキレイさに関してはいまだMacとWinの間には雲泥の差がある、と言わざる得ない。

Appleデザインでいろんなプロダクトをつくってくれたいいのになあ、と思う。
感じとしては無印良品みたいなものか。

Appleデザインの携帯電話とかがあったら即買いだ。

投稿者 TKM : 05:46 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月16日

さよならジュピター

以前、江藤先生が言っていた。

「不思議なもので。どんなに出来の悪い学生でもその教授が手を抜いているかどうかだけは一瞬で見抜くものなのです。だから我々、教員は授業というものに対しては一切手を抜けない。」

仕事の出来不出来とは別な部分でその仕事に対してその人がどれだけ全力で立ち向かったかは一目でわかる。僕は常々、使えない善人よりは使える悪人の方がいい、と思ってきたがそれは間違いで「使える、更に、いい人である」の方がベストである。

個人的なメモとして書いておくと仕事に関してこれまでの自分のやり方には間違いがあった。
仕事に対して全力で向かっていないことを確認したらその人との仕事は終わりにする。
That's all.
「さよならジュピター」である。

それじゃああんまりにも人との関係を軽視しているのではないだろうか、と思うこともあったが必要な力同士ならは放っておいても再び相まみえる。それが世の道理。宇宙の摂理である。

++++++

「さよならジュピター」は小学生の頃にTVでみた記憶がある。
冒頭でいきなりサメと対決のシーンがあったと思うのだが定かではない。
またジュピターのデザインが酒の瓶をつなげたような形状だったような気も...。

投稿者 TKM : 08:14 | コメント (1) | トラックバック

2004年02月15日

ロードオブザリング完結編~実写の無境界線

世田谷での仕事を終えて帰りの電車を待っていると小田急線に事故で大幅にダイヤが乱れているとのアナウンスがあった。
早めに出てきたので終電までは余裕があったから待合室で本を読み始める。
今日はなんとなく「終戦のローレライ」を手に取った。
前夜、「風の男 白砂次郎」を読んでいた。
一方はフィクション、もう一方はノンフィクションという違いはあるが
同じ時期の物語である。
行きの大江戸線でパラパラと読み始めたのだが新宿に着く頃には頭の中には昭和の終戦時期の情景が浮かび自分がどの時代のどの場所にいるのかが揺らいでいた。

帰りの電車で続きを読む。
凄まじい言葉力・文字力で脳内を映像が駆け回る。
情景は一度もみたことがないのに呉大空襲の映像が生々しく再現されていく。
文章でもこれだけのイメージとスピード感をつくりだせるものなのだろうか。
言葉力に舌を巻いた。

帰宅して一段落したところで深夜の有楽町に向かった。
ローレライを読み進めてもよかったのだが今夜ばかりは「ロードオブザリング」の最終章を観ておきたかったのだ。

徹夜あけの朝なのでメモだけ。
・中盤の映像は度肝を抜かれた。物語力は100年前もいまも同じかもしれない。しかし、この10年で映像は驚くべき進化を遂げている。10年後には更なる次元へと踏み込むだろう。
・実写もアニメもCGも境界線が曖昧になってきた。
・あの映像が現実につくられるなら10年後には実写のナウシカができてもおかしくない。
・そして実写のナウシカの方が面白くなるだろう。
・実写よりもアニメの方が面白いと思っていたが、いざ実写(CGではあるが)で物語を見せられるとそのモードがアニメとは根本的に異なる。
・終盤のいいまわしと説教くさい感じは「またいつものこれか」という感じで辟易した。
・アニメの劇映画をみているような感覚をあじわった。
・みていると宮崎アニメを思った。

投稿者 TKM : 08:15 | コメント (2) | トラックバック

2004年02月14日

「メシをくうため」と言うけどメシの値段はいくらよ?

いつも読んでるメルマガに「人はメシをくうために仕事をしていてそれに人生の大部分を費やすのだからそれが好きであろうが嫌いであろうが懸命になれない人は不幸だ」というエッセイがあった。

僕はこの「メシをくう」という言葉に違和感を感じる。

「私はこれでメシをくってます」とか「メシをくうため」という言い方をする人がいるが彼らがメシのためといってやっているのは円を稼ぐことであって僕らはカネゴン(ウルトラQに出てきたお金を食べる怪獣)のようにお金を食べて生きているわけじゃない。食べているのは食物で食物を得るための媒体としてのマネーが存在し、マネーを得るために働く人もいれば働かなくてもいい人がいるというのが実際である。

「メシをくう」っていったい僕らはどのくらいメシを食っているのかその人たちがいうところの「メシ」の値段はいくらくらいなのか計算してみた。

数寄屋橋次郎以外ならだいたい5000円もあればかなり上等な食事ができるだろうから一食あたり5000円と換算して(実際にこの値段の食事をやっていたら3年くらいで人の身体はボロボロになるだろう)

年間:5470000円

100歳くらいまで生きるとして20歳くらいまでは家で食事をするという感じだと実質は80年分くらいだろうからこれを80倍すると

80年分:4億3800万円

これがかなり割高く計算した「メシの値段」である。

ちなみに日本のメシの値段であってこれがタイや中国などのアジアの国々の場合だと
一食あたりMaxでも1000円くらいだから(日本でもこのくらいあれば普通のご飯は食べられるだろう)

年間:1095000円

100歳まで生きるとして

80年分:8760万円

上記の二つともかなり割高な計算なので更に現実的にいくと日本でもデフレがもうちょっと進めばおそらく一食あたり500円くらいにはなるだろう。となると

一食:500円
年間:547500円
80年:4380万円

アジアの場合だと一食あたり実質は200~300円でいけるから

一食:300円
年間:328500円
80年:2628万円

となる。かなりおおざっぱではあるが具体的に数値化してみた「メシをくうために」のメシの値段である。
ところで全ての人が「メシをくうため」には働いているわけではない。
不労所得の人もいるし、ある程度ドーンと稼いだ人は少なくとも「メシ」の為には働かなくなる。

世界が発展していってある程度の目処がたったら人々は「メシ」の為に働かなくてよくなる、というのがベストだと思う。とりあえずはその程度の簡単そうなことを世界中が目指していったらいまよりは世界はハッピーになると思う。
その上で農業をやりたい人、食物をつくりたい人はそれがやりたいからやっているという方が楽しいだろうし、全ての人が俳優や映画監督になりたいわけでもない。人によって「これやってるときが一番楽しい」という何かがあってそれらが相互依存状態になっていれば一人一人はやりたいことをやっているだけなのに全体が豊かになるという好循環が生じる。
が、そこがズレて「メシのため」を語り出すと歪みが生じる。

何もやりたくない人はやりたくなるまでは何もやらないだろうし、やりたい人はやる。
それでもいいはずだ。
その方が全体がハッピーになると僕は思う。
「そんなうまい話があるか?」と言われそうだが物事は考えているよりもずっとシンプルだ。
ごちゃごちゃしているのは人の思惑であって、うまくいった方が楽しくなるならうまくいかせる知恵を出す方が面白いと僕は思う。

投稿者 TKM : 03:51 | コメント (2) | トラックバック

モスバーガーで聞いたおばさん声と回路理論

昨夜から酷い体調不良だった。
全身の関節が痛み、熱っぽかった。
風邪薬を飲んで眠った。
夢の中でたくさんの人に出会った。
朝目が覚めると目眩がした。

昨日の昼に思い立ってブログをもう一つつくった。
その日に起こった「いいこと」をメモしていくサイトである。
毎日いいこともたくさん起こっていると思う。
気づかないだけで書けば感覚がだんだんと調子を取り戻していくような気がしたのでやってみることにした。

テンプレートも既存のものとは変えてみた。
Macでみるとヒラギノフォントで表示されるので通常のHPとは大分感じが違う。

さてそんなわけで一日を振り返ってみて気づいたことがある。
自分の場合、体調がいいといろんなことにハッピーを感じるようだ。

・ご飯がおいしい。
・身体のキレがいい。
・頭の冴えがいい。

これらがベースにあると自分の外の世界を豊かに感じることができるように思う。逆にいえばこれらがうまく機能していないとどんなハッピーがそこにあっても気づかずに通り過ぎることになる。

さっきモスバーガーにいった。
席で待っていると30代の女性二人が二つ隣のテーブルで話していた。
僕からみて斜め左前に座っている女性はおばさんの声で話す。
おばさんの声というのは僕が勝手にいってるだけなのだが

・キンキンしている
・ダミっている
・品がない

という声である。
この声で話されると同じ言葉でも全く別なものに聞こえてくる。

「それは違うわよ」

その一言が全く別物として認識され騒音以上の不愉快さを感じてしまう。
この感覚は僕の個人的なものなのだろうか。

音は重要だ、と僕は常々思っている。
おばさん声の不快さと似たような不快さを感じるのは「クッチャリング」の不快さである。
「クッチャリング」とは僕の造語で物を食べる時に「クチャクチャ」と音を立てながら食べる人がいると気になってしかたがないがそれをなんと呼んでいいのかわからなかったので「クッチャリング」と銘々した。

そして僕はこの「クッチャリング」の音がとても気になる。
「クッチャリング」に対する僕の不快感は個人的なものなのだろうか。

・映画館で上映中に話をしている人。
・電車の中で携帯電話で話している人。

の場合、話をしている人の言葉が気になるのではなく音が気になっている。
選挙演説がうるさくて仕方ないのはあれが言葉ではなく「音」として認識されているからだ。

人を不愉快にする「音」は存在する。
ならば同じように人を愉快にする「音」も存在するはずだ。

話の楽しい人がいる。
その人の話はいつも面白いが
その人の言葉が楽しいだろうか?
実はその人がつくる音が楽しいのではないだろうか。

言葉が音と完璧にリンクすると言葉が意味以上の動きをしはじめる。
先日、あるエコノミストの講演を聞きに行った。
滑り出しは「なんて話のつまらない講演だろう」と思っていたのだが15分くらい聞いていると段々と話のリズムをつかめるようになってきて気づくとたくさんメモをとっていた。30分後には「うーん、こんな風に経済を解説するのか」と感心していた。

ある一定時間、その人の話世界に浸っていたことで自分の中にその人の言語ルールが構築されていった感じである。例えばアクションゲームなんかで最初は操作がうまくいかず頭の中で「えーと右ボタンは剣で...」と考えてやっているのだが一時間もやっていると指が操作を覚えてしまって何も考えなくとも条件反射で勝手に動くようになる。

本や映画でも似たような経験がある。
この間みた「キングダム」も一巻を観ている時は「くー、なんて遅い展開。なんなのこれ」と思っていたのが2巻を半分くらいまでみたあたりからは引き込まれ「エ、もう4巻?まだずっとみていたいな」という気持ちになった。

500ページくらいあるミステリー小説も最初の10ページくらい読んでも全く面白くないが半分くらいまで読み進むと物語世界が頭の中でできあがってきて、どのシーンでも登場人物がパッと浮かび上がりその人がどんな人なのかということをいちいち考えなくてもサクサクと読み進めることができるようになる。

勉強でも一緒だ。
数学も最初にやるときはルールをたたき込むのに四苦八苦するが一度ルールができあがるとあとはサクサクと問題を解いていくことができる。

面倒で仕方がない確定申告の書類作成も最初の2時間を乗り切ると後はスムーズに進んでいき終わる頃には「おー、オレはこれを本業にしてもいいな」というくらい頭が確定申告モードに切り替わる。

物事は全てこうなのではないかと思うのだ。
回路をつくる時、心理的な重さゆえに「ウェー」という気分になるが一度、回路ができはじめると後はサクサク進んでいく。ビジネスでも一度成功した人は後はどんな事業をやっても大体成功する、と聞いた。これも一度、ビジネス成功回路ができると次の回もその回路がバーっと動いてサクサクと次に何をやればいいのかがわかるようになるのだと思う。

こうした動きはゲームのボタン操作と同じで言語化されないから「運がよかった」とか「本能的に」という言葉で暗黙知として扱われる。けれど本当は回路理論のなせる技だと僕は思うのである。
おそらく料理にも音楽にも絵画にも身体運動にも同じ理論が働いている。
才能とは回路の開き具合と進度と深度の別名で開きさえすれば(開きやすい開きにくいという差はあるだろうけれど)後はどの方向にいっても同じように「才能が発揮」されるのだと僕は思う。

投稿者 TKM : 02:09 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月13日

78人のテクノミュージシャンの証言からなる電子音楽のドキュメンタリー

78人のテクノミュージシャンの証言からなる電子音楽のドキュメンタリー」。

なんと若かりし頃のアタウさんが登場していた。
世界は狭いのか広いのか。

投稿者 TKM : 19:58 | コメント (0) | トラックバック

ATOKにみる人の脳の柔軟性

ようやくATOK16を導入。
アップグレードパッケージで辞書付きのバージョンにした。
この辞書が思ったよりも使える。
英語の音声ファイルが入っており検索した単語の発音を教えてくれる。
これは結構助かる。

数週間ことえりを使っていたのでキーバインドがことえりのモードになっているようでカタカナ変換の時についつい「Ctrl-K」を押してしまう。

ことえりを使い始めの頃はついつい「Ctrl-I」を押してしまいがちだったのだがたった数週間の「ことえり」使用で脳が完全に「ことえり」モードに入ってしまったようだ。いまも「モード」という文字を出すのに「Ctrl-K」を押してしまった。ことえりの場合変換を確定させるのに二回リターンキーを叩かなければならない。これも最初の頃はめんどくさくて「なんなんだこのキーの使い勝手の悪さは」と憤っていたのだがATOKに切り替えてみるとついつい一回多くリターンキーを叩いてしまうので直ぐに改行されて鬱陶しく感じる。

人間の脳は柔軟である。

投稿者 TKM : 19:13 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月12日

「はだしのゲン」にみるΣブックとiPodの関係

マイ・ベスト・ジョブ」。
やってみるとなかなか面白い。

僕が西岡さんという人を最初に知ったのは確かテレ東の番組だったと思う。
イーブックイニシアティブが発表した電子本「Σブック」への投資の事例で登場していた。
そうそう10daysbookでは何回か買い物をしたことがある。

おっと、いつの間にか「barefoot GEN」(「GEN of bare feet」エキサイト翻訳ではこうなった)、いや、「はだしのゲン」がebookに登場しているではないか!!

電子本やPCで書籍を読むというのはOKなのだがただひとつ気に入らないことがある。
頼むからMacで読めるようにして欲しい!
それだけがいまの切なる想いである。
100冊の本が1~2kgのPCの中に入ってくれればそれでとりあえずは事が足りる。
小説や漫画以外の場合は読みながらメモもしたいし、以前、ミクロイドS全巻をVAIOで読んだけれど全く問題なく入り込めた。そうだ「sink」だって画面で読んでるけれど全然違和感を感じないし場に関係なく面白い。(いま確認したら最新19話が更新されてそれまでの10話分くらいがなくなっていた)

ΣブックがいいとかSONYの端末がいいとかいろいろ意見はあると思うが電子本の場合は次のポイントがクリアされていれば僕はOKだ。

・たくさん(千冊でも一万冊でもいいけど)の本を携帯できる
・検索できる
・単体でネットワークにつながれる

と書いていて気づいたがこれって「iPod」じゃないか!

本版のiPodがあればいいのだ。
iPodはまだ単体ではネットワークにはつながっていないけれどそのあたりは時間の問題だろう。Appleが本腰になってΣブックのようなものをつくればAppleミュージックストアみたいに書籍のダウンロード販売もガンガンガンと加速するだろう。

今、ないけど必要なもののNo.1は書籍版のiPodなんだろうな。

++++++

ところで冒頭で紹介した「はだしのゲン」だがあれは戦争漫画ではなく青春漫画である。
公式ページは下記。(ゲンといえば戦時中のあたりしか覚えていないが戦後編では看板屋になったり隆太がヤクザになったりと続いていく)

◆はだしのゲン公式ページ
http://www.kamatatokyo.com/gen/index.html

投稿者 TKM : 11:29 | コメント (0) | トラックバック

六本木ヒルズで体験した集いの場

日経の竹内宏さんの記事にあった「有名講師が日々違うテーマで話をしてその後議論する居酒屋」。年末のPRIDEにいく直前、やまけんと門仲のフレッシュネスでお茶を飲みながら「こういうのいいよね」といってた「場」と似ている。勉強会ってのは段々と拡散していきがちだけれど、新しい知に触れる機会が欲しいと思っている人は多いのではないだろうか。

昨年、六本木ヒルズに毎月1~2回集まって2期生で会合をしていたのだが異分野の人々と話をするのは自分にとってこの上ないエンターテイメントであるなあと思った。最近読んだ「成功脳?人生を決める~感情力」によれば人間の脳にとって一番いいのは「知らない人と話すこと」だそうである。

いわれてみればその通りだが実際のデータをもとに語られると説得力がある。
脳は何度も同じことを繰り返すと覚えてしまって新しい結合をつくらなくなってしまう。そういえば馴染みと飲む酒はうまいけれど一番楽しいのは旅先などで初めての店にびくびくしながらひとりで入り、段々と店の人やそこにいる人と打ち解けていくまでのサバイバルな昂揚感ではないだろうか。失敗やハズレもあるが成功した時の楽しさは行きつけの店で味わうひとときとは異なる達成感がある。
こうなってくると「飲み」も一つの「道」である。
あらゆるものがそうなのだろうけど。

話を冒頭の「新しい世界に触れる場」に戻すと僕とやまけんで話していてこういうのいいよね、とかいろんな企画は幾らでもわいてくる。それなりにネットワークはあるので人も呼べるだろう。PRではないので著名人を使う必要はない。それで思うのは「場」である。

決定的に足りないなあと思うのは「場」なのだ。
大学や会社など組織の一番の楽しさは「場」があることだと思う。

そこにいくと誰かがいる。
「場」の魅力。
学校と会社はよく似ている。

投稿者 TKM : 09:36 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月11日

ダンスと偶然と情熱大陸はヤフオクの巻

録画してあった「情熱大陸」を観る。
安藤洋子さん。
ん?
どこかでみた名前だな?

はてと思ってぴあのメールをチェックする。
昨夜ネットで買ったチケットに彼女の名前が。
こういうのは偶然というのだろうか。

おそらく情熱大陸での露出がきいたのだろう。
チケットはほぼ完売であった。
と、ここでミスを犯したことに気づいた。
それは...。
第三のチケット窓口「ヤフオク」の存在をすっかりすっぽり忘れていたである。

実はネット経由でぴあで買うと電子チケットとかいって意味のない手数料をとられるのがあほらしかったので日中に店で買おうと思ってPコード(これがまたわかりづらい)を携帯に転送しておいた。しかし、途中で本屋によったら熱中してしまい閉店まで。あっさりぴあの窓口は終了しており、結局、家に帰ってからネットで買うことに。すると最終日のS席は既に売り切れ。アホである。昼間に買っておけば無問題であったのだが数百円の手数料をけちった為に買い逃した。

買い物に限らず行動はひらめきと直感が勝負である、と思い直した。
そしてさきほどヤフオクをチェックすると最終日のS席のチケットが一枚、売りに出ていた。
コンサートでもツアーでもなんでもそうだが初日と最終日とその間とどこが一番いいというのはあるのだろうか?

格闘技の場合はそういう概念がないので悩むことはないのだが。

++++++

情熱大陸を観終えた。
なんともいい雰囲気のお父さんとお母さんである。
そして安藤洋子。
ザ・ナチュラルである。
自分もああありたい。

投稿者 TKM : 23:54 | コメント (6) | トラックバック

2004年02月10日

garabebandを使ったサービスに驚く

garagebandで作られた曲をシェアできるサービスがもう始まっている。

macband.com

この動きの早さは驚きだ。
そしてサイトもよくできている。
曲のジャンルが豊富なのだ。
ここにある曲のレベルが現在の3段階くらい上でストリーミングで聴けるなら時々はきくかもしれない。
買ってまで聴きたいというレベルのものは無いが映像の後ろで流したり、プレゼン用には十分である。

この間からヤサカさんとiTuneを使った新しいサービスについてずっと話している。
こうしたサービスを目の当たりにすると僕たちの話しているサービスも悪くないと思う。

投稿者 TKM : 01:47 | コメント (0) | トラックバック

2004年02月09日

結婚式の夜

久しぶりに都内に戻ってきた。
昨日まで従兄弟の結婚式に出席するため福島に戻っていた。
土曜の朝に目を覚ますと庭には雪が積もっていた。

従兄弟の家は古い農家なので披露宴会場には親戚がたくさんいる。
そうした親族が顔をあわすのは久しぶりのことのようで話はつきないようだった。
結婚式場の隣に建てられた教会は大きさこそ教会のサイズだがどうしてもヤボったい。
アラハマ師匠の結婚式でいった上智大の教会を思うとなぜ同じ教会でもこうなってしまうのかと疑問に思う。いかなる建造物であれデザインという言葉