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2004年02月02日

キャシャーンの舞台裏、それは言葉の世界

長い一日であった。

スキップシティにキャシャーンの紀里谷監督の話をききにいく。
映画の製作で一緒だったという工科大の三上から「紀里谷さん、熱い人だよ」と言われていたが実際に話をきいてみるとイメージより遥かに熱い人であった。熱血とは違う。いい意味で思い込みが激しい。しかしメディア業界特有の胡散臭いオーラとは別物である。熱さの方向性は、先日、話をきいたサイバードの堀社長に近い。直球なのだが絡め手、腰の強さ、粘りを感じた。

プロデューサの宮島さんは「監督の熱意」という言葉を幾度かつかった。しかし、僕は熱意という言葉は少し違うと思った。

「信じている」なあ、というのが僕の印象である。
そう、「信じる」ということが意味する強さをもろに肌で感じた。
紀里谷監督は自分を信じきっているように見えた。
それが監督の熱さの源であり、モノをつくる原資になっているのではないだろうか。

紀里谷さんに限らずクリエイティブに携わる人々の話をきいているとどの分野でも第一線の人は共通して言葉の「匠」であることに気づかされる。彼らの使う言葉は素晴らしく的を得ている。状態を説明するのが驚くほどうまい。説明しようとしている事象や感覚、関係性が言葉からイメージとして想起される。表現とはつきつめて考えていくと何らかのコミュニケーションであり、表現を生業とする人々は必然的にコミュニケーション能力が高くなる。

何をするのであれ人がよりよく生きようとするならそこには必ず「コミュニケーション」という問題がついてまわる。より良く生きること、それはコミュニケーション能力の向上によってしかなし得ない。更につきつめていけば最終的なアウトプットがなんであれその発端は人の無意識であり、無意識を磨くには「言葉」を使わざるえない。言語化できないものが無意識に影響を与えている、という言い方もできるが、僕は言語化できないというその状態こそが言語によって導きだされるある種の形だと思う。だから、言葉を磨くことで世界に対してより深く関わることができ、より豊かな世界を感じとることができるようになるのではないだろうか。

だからこそクリエイティブ(ビジネスであれ、社会的な活動、身体をつかったこと、その他なんでもよりよくなっていこうとする意識)に関わる人々の言葉は輝いている。僕はそう思う。

投稿者 TKM : 2004年02月02日 01:22

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