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2004年02月14日
モスバーガーで聞いたおばさん声と回路理論
昨夜から酷い体調不良だった。
全身の関節が痛み、熱っぽかった。
風邪薬を飲んで眠った。
夢の中でたくさんの人に出会った。
朝目が覚めると目眩がした。
昨日の昼に思い立ってブログをもう一つつくった。
その日に起こった「いいこと」をメモしていくサイトである。
毎日いいこともたくさん起こっていると思う。
気づかないだけで書けば感覚がだんだんと調子を取り戻していくような気がしたのでやってみることにした。
テンプレートも既存のものとは変えてみた。
Macでみるとヒラギノフォントで表示されるので通常のHPとは大分感じが違う。
さてそんなわけで一日を振り返ってみて気づいたことがある。
自分の場合、体調がいいといろんなことにハッピーを感じるようだ。
・ご飯がおいしい。
・身体のキレがいい。
・頭の冴えがいい。
これらがベースにあると自分の外の世界を豊かに感じることができるように思う。逆にいえばこれらがうまく機能していないとどんなハッピーがそこにあっても気づかずに通り過ぎることになる。
さっきモスバーガーにいった。
席で待っていると30代の女性二人が二つ隣のテーブルで話していた。
僕からみて斜め左前に座っている女性はおばさんの声で話す。
おばさんの声というのは僕が勝手にいってるだけなのだが
・キンキンしている
・ダミっている
・品がない
という声である。
この声で話されると同じ言葉でも全く別なものに聞こえてくる。
「それは違うわよ」
その一言が全く別物として認識され騒音以上の不愉快さを感じてしまう。
この感覚は僕の個人的なものなのだろうか。
音は重要だ、と僕は常々思っている。
おばさん声の不快さと似たような不快さを感じるのは「クッチャリング」の不快さである。
「クッチャリング」とは僕の造語で物を食べる時に「クチャクチャ」と音を立てながら食べる人がいると気になってしかたがないがそれをなんと呼んでいいのかわからなかったので「クッチャリング」と銘々した。
そして僕はこの「クッチャリング」の音がとても気になる。
「クッチャリング」に対する僕の不快感は個人的なものなのだろうか。
・映画館で上映中に話をしている人。
・電車の中で携帯電話で話している人。
の場合、話をしている人の言葉が気になるのではなく音が気になっている。
選挙演説がうるさくて仕方ないのはあれが言葉ではなく「音」として認識されているからだ。
人を不愉快にする「音」は存在する。
ならば同じように人を愉快にする「音」も存在するはずだ。
話の楽しい人がいる。
その人の話はいつも面白いが
その人の言葉が楽しいだろうか?
実はその人がつくる音が楽しいのではないだろうか。
言葉が音と完璧にリンクすると言葉が意味以上の動きをしはじめる。
先日、あるエコノミストの講演を聞きに行った。
滑り出しは「なんて話のつまらない講演だろう」と思っていたのだが15分くらい聞いていると段々と話のリズムをつかめるようになってきて気づくとたくさんメモをとっていた。30分後には「うーん、こんな風に経済を解説するのか」と感心していた。
ある一定時間、その人の話世界に浸っていたことで自分の中にその人の言語ルールが構築されていった感じである。例えばアクションゲームなんかで最初は操作がうまくいかず頭の中で「えーと右ボタンは剣で...」と考えてやっているのだが一時間もやっていると指が操作を覚えてしまって何も考えなくとも条件反射で勝手に動くようになる。
本や映画でも似たような経験がある。
この間みた「キングダム」も一巻を観ている時は「くー、なんて遅い展開。なんなのこれ」と思っていたのが2巻を半分くらいまでみたあたりからは引き込まれ「エ、もう4巻?まだずっとみていたいな」という気持ちになった。
500ページくらいあるミステリー小説も最初の10ページくらい読んでも全く面白くないが半分くらいまで読み進むと物語世界が頭の中でできあがってきて、どのシーンでも登場人物がパッと浮かび上がりその人がどんな人なのかということをいちいち考えなくてもサクサクと読み進めることができるようになる。
勉強でも一緒だ。
数学も最初にやるときはルールをたたき込むのに四苦八苦するが一度ルールができあがるとあとはサクサクと問題を解いていくことができる。
面倒で仕方がない確定申告の書類作成も最初の2時間を乗り切ると後はスムーズに進んでいき終わる頃には「おー、オレはこれを本業にしてもいいな」というくらい頭が確定申告モードに切り替わる。
物事は全てこうなのではないかと思うのだ。
回路をつくる時、心理的な重さゆえに「ウェー」という気分になるが一度、回路ができはじめると後はサクサク進んでいく。ビジネスでも一度成功した人は後はどんな事業をやっても大体成功する、と聞いた。これも一度、ビジネス成功回路ができると次の回もその回路がバーっと動いてサクサクと次に何をやればいいのかがわかるようになるのだと思う。
こうした動きはゲームのボタン操作と同じで言語化されないから「運がよかった」とか「本能的に」という言葉で暗黙知として扱われる。けれど本当は回路理論のなせる技だと僕は思うのである。
おそらく料理にも音楽にも絵画にも身体運動にも同じ理論が働いている。
才能とは回路の開き具合と進度と深度の別名で開きさえすれば(開きやすい開きにくいという差はあるだろうけれど)後はどの方向にいっても同じように「才能が発揮」されるのだと僕は思う。
投稿者 TKM : 2004年02月14日 02:09
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