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2004年02月24日

才能とキャシャーンと21世紀の欲望

「どの分野でも常に才能が求められています」

と言ったのは「キャシャーン」を監督した紀里谷さんだった。久しぶりに公式サイトを訪れてみるとトレイラームービーが更新され予告編が公開されている。QuickTime版をクリックすると横長の画面に実写ともアニメともゲームともつかない映像が流れ出した。
明らかにCGであると認識できる「絵」的な映像と人が演ずることで成立する映像という異なるパースペクティブが共存し、二者は相互依存の関係ではなく明らかに断絶されている、と感じるシーンもある。

トレイラーを観ただけなので全体がどう落ち着くのかを予見することはできないが一部、人と明らかに「絵」であることが認識できるCGが絶妙のバランスで合成されているシーンを幾つかみてとることができる。このシーンの持つ躍動性と非現実性はいわゆる日本のアニメ的な感覚であるように感じられた。

つまりこれは「日本の映画」なのだ、と。
監督自身がいっていたようにこの映画は映画的であるものアニメ的であるものマンガ的なものが融合しているように見える。少年ジャンプやマガジンといった少年誌ではなく、ヤングジャンプやスピリッツといった年齢層が一世代上のマンガにみられるアクション要素の持つエンターテイメント性。

正義や人というテーマを前面に押し出しながらもその実、視覚的な躍動性によって観るものを惹きつけていく。
音のつくりだすリズムによって身体が無意識に反応してしまうような生理的なエンターテイメント性を感じた。そこではおそらくストーリーは大きな意味を持たない。(「もののけ姫」もテーマを前提に語られることが多い。しかし、あの映画の面白さの本質の一部はストーリーではなくドロドロ、ヌルヌルといった得体の知れなさ、そして「血」に付随する肉感的な感覚とそれらを想起させる映像。そこからつくりだされるリズムやトーンに対する本能的な感覚にある。そしておそらく大多数の人間に機能するコンテンツとは人の根幹部分を揺さぶる効果なしにはあり得ない)

イノセンス」とは違った意味で体験したい映像である。

体感という言葉でふといま思ったのだが下記は昨日のICCのイベント藤幡先生がいっていた言葉である。

「20世紀は視覚に対する欲望が爆発した世紀だったと思う。でも21世紀は違う欲望が爆発する。それがなんあのか知りたいから僕は新しい道具で世界を写し取ろうとしているんだと思うんです」

その言葉をきくためだけに僕はそこにいったのだ、と思った。
僕は10年来、「異化」に注目し続けている。
自分の生きてきた痕跡。
そして興味の足跡を辿ると自分が常に「異化」を求めていたことにようやく気づいた。
21世紀の欲望のカタチは映像や音、言葉、文字、グラフィック、といったメディアの特性によってもたらされるものではない。
メディアから切り離された場所で体感される劇的なパースペクティブの転換。
言い換えるならば脳と感覚の開拓。
それがこの世紀の欲望のカタチであると僕は考える。

++++++

「どの分野でも常に才能が求められています」という監督の言葉だが僕も常に面白いブログ、面白いサイト、面白いイベント、面白い展示、面白い本、面白い映画、面白い人、面白い味、面白い音、面白い場所、この生のあらゆる瞬間で「面白さ」を探している。
常にである。

「どの分野でも常に才能が求められている」

それは「面白さ」を求めずにはいられない人の性の現れである。
そして人はその志向に忠実であるべきだ。

投稿者 TKM : 2004年02月24日 13:42

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