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2004年03月01日

[映画] ヒッチコック「鳥」 映像の文法とコンテンツ化

昨日久しぶりにヒッチコックの「」を観た。
高校生の頃に観て以来だから15年くらい経つ。
鳥の映像と人が演じるシーンがどのように合成されていたのか覚えていなかった。
改めて合成シーンに注意してみてみると思ったよりも出来がいい。
いかにも「合成しました」という映像ではない。
背景との明るさが異なるので合成であることはすぐにわかるのだが酷いというほどではない。
DVDについていた特典映像のドキュメンタリーによれば「鳥」はブルースクリーンではなくナトリウムプロセスという特殊な手法によって撮影されていたとのことである。

映画の主人公でもある鳥の映像は埋め立て地で数ヶ月にわたって撮影されたものが合成され使われていた。ドキュメンタリーによればヒッチコックは映画制作においてプリプロダクションを創作活動のメインに据えていたらしい。プリプロダクションとは俳優やセットを配し、ロケを行って撮影する前に行うシナリオ作成やストーリーボード(絵コンテ)の作成である。この作業が映画制作の9割をしめるとさえ言っている。

「鳥」のストーリーはシンプルでパニック物の典型的なパターンに沿っている。
不釣り合いな男女(お堅い弁護士と奔放な若い金持ちの女)の物語→鳥の異常→事件→鳥の襲来→パニック→脱出。舞台とキャスト、敵の種類が違うだけでこの構造はどのパニック映画でもだいたい同じである。

この映画における鳥vs人間のシーンは最近の映画のCGIと比較すればどうしようもないくらいにチープだ。俳優が鳥と格闘する場面では一目で作り物とわかる鳥を相手に必死に演技をしているのがわかる。
恐怖におののくシーンではその場に存在しない鳥を相手に演技しているため俳優の動きはぎこちないし、セットで撮影されたシーンはすぐにそれとわかる。それがまた安っぽく見えてしまう。しかし映画としては実に面白い。全く飽きることなく最後まで惹きつけられる。映画の出来というのは映像の質とは違う部分にあるのだなあ、と思った。

では「鳥」では何が映画の面白さをつくりだしているのだろう?
その秘密はやはりプリプロダクションでの徹底した作り込みであろう。鳥に関するあらゆる事件をリサーチし原作とは異なる舞台設定でつくられた映画版の脚本(この作品には原作本があるのだがそちらでは設定は全然ちがう)の出来がいいのは当然として丁寧に作り込まれたストーリーボードの映像を見ると映像化する手前ですでに映画の原型ができあがっているのがわかる。特典映像をみるとわかるのだが絵コンテをつないで音をつけただけで映画としてはほぼ完成しているのである。

また、以前は全く気にせずにみていたが10年を経てあらためて作品をみてみると一つ一つのカットのタイミングが絶妙であることに気づく。
長すぎるシーンや短すぎるシーンはない。
それぞれの映像はベストのタイミングで挿入されている。
ところどころで使われる鳥の映像も効果的である。
例えば最初は数羽だったカラスが徐々に増えていくシーンでは主人公の女性がたばこを吸うカットと背後のジャングルジムを撮すカットが切り替わるごとに背景のカラスが倍々に増えていく。主人公が振り返るとカラスで黒山と化したジャングルジムの姿があらわになり表情が恐怖に転じる。こうした主観と客観の切り替えタイミングによって一瞬で映画の世界にひきこまれる。

残酷なシーンやリアルな戦闘シーンがないにも関わらずシーンとシーンの効果的な切り替えタイミングによって緊迫感が高まっていく。そして極限まで高まったところでプツンと糸が切れるように場面を構成する全ての要素が同時並行的にグチャグチャに動き始める。このダイナミズムは凄まじい。

こういうのを文法というのだろう。
この文法をうまく利用すればふつうの映像でも変質させることは可能だと感じた。学習発表会や運動会の記録もこうした映像の文法にのっとって撮影編集されるならば意味が全くちがってくるはずだ。単にパッケージ化するのではなくエンターテイメントの手法を用いて日常をコンテンツ化していく。
そうしたサービスが今後は求められるようになると思う。

デジカメが登場するまえは撮影したフィルムはカメラ屋にいって現像してもらわなければならなかったので写真を撮ってフィルムをお店にもっていきしばらくして現像されたプリントを見るというプロセスに「面白さ」を感じていた。

ところがデジカメだと現像する手間がない。
撮った先からプレビューで確認できる。
そのため「撮る」という行為の希少性が薄れアウトプットである映像の出来や面白さに焦点が移ってきた。

「誰が何をどう撮ると面白いのか」

それが問われ始めたのだ。
しかし、デジカメの「使い方」はマニュアルで説明できてもコンテンツ化のマニュアルはほとんど存在しない。経験や感性というあやふやな言葉でごまかされ全く手つかずの状態で放置されている。だから、ネット上にあふれている動画・静止画のほとんどはコンテンツ化の文法がなくつまらない。コンテンツ化されていないので「面白く」ないのだ。

僕が注目するのはここだ。
コンテンツ化の手法に感性は関係ない。その意識と手法があればある程度まで「面白さ」をつくりだすことは可能だ。そこから先が感性の領域である。学校ではこういう教え方をほとんどしないのでコンテンツ化の手法はほとんど学ぶことがない。けれどコンテンツにも文法はあるのだ。それは科学といってもいい。あらゆる「面白さ」にはカタチがある。

ジョーゼフ・キャンベルの「千の顔を持つ英雄」を参考にスターウォーズがつくられた逸話は有名だがどんなものでもいいのだ。TV番組でも笑いでも何でもいい。「面白さ」には必ずカタチがある。(無形であることがカタチである場合もあるけれど)

笑ってはいけない状況だとくだらないことどうでもいいことでも何故か「面白く」感じて笑ってしまう、という経験はないだろうか。笑いを引き起こす内容は毎回違うかもしれないが笑いが生まれやすいコンテクストは確かにある。笑いにもカタチはあるのだ。

ヒッチコックの「鳥」はパニックや恐怖をコンテンツ化する文法の一つである。
多くのパニック映画はほとんど同じプロットで「敵(鳥)」を別な生物に変えただけといってもいい。細部や結末は異なるかもしれないが「面白さ」の素の部分は共通している。

カメラやビデオなど道具の操作方法はどんどん簡単になっていく。
となれば次に問われるのは道具を使って何をするかである。
何をどう撮れば「面白いのか」。
その道具で自分は何をするのか。

デジタルによって生活の場においても「物事をコンテンツ化してしまった方が人の生活はもっと楽しくなる」という考え方が受け入れられる方向に向かいつつあるのだ。




おすすめ平均
鳥と人間が無関係なのが良い!
良い物は何度褒めてもやっぱり良い
実存的、いや神話的荘厳さを持ったスリラー映画の極北

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投稿者 TKM : 2004年03月01日 10:00

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