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2004年04月30日

[俄] キンピカ先生と忍者の名刺

志乃ちゃんの家からの帰りの電車。
タケ、やまけんと話をしているうちに仕事の話になった。

「竹中先生のボディーガードとかいいなあ。いきのいい若い衆ついてるらしいよ。とか言われるとか。なんつーか、ロードオブザリングとかみてるとさあの人らヒーローなのかもしれないけれど仕事してないよね。あれって何なのかなと気になってるんだよね。だからさ、例えばなんか名刺とかだした時に忍者とか書いてあったらよくない。とりあえず、なんだそれって。そういうのがいいんだよね。」

名刺と忍者というカップリングがあまりにもズレていたので3人で爆笑してしまった。しかし、100年ちょっと前までは忍者もいたわけで。職業としても成り立っていたんだよな、そういうのって何なのだろうな、と、興味深く思いつつも3人で「ハッスル、ハッスル」をやりながら通り過ぎていく大江戸線の駅のホームをみていた。

大門を過ぎた。
降りる駅が近づいてくる。
この時間も今日は終わりなのか。
通り過ぎていくホームと駅名を眺めていた。

++++++

志乃亭はおどろくほどに優雅な空間だった。
久しぶりにゆったりとしたホームパーティを楽しんだ。料理もワインも良かった。パンにつけて食べたクリーム・ソースとビーフシチュー、生牡蠣。格別だった。
しかし、何がよかったかってMARUに案内され最初に家に一歩踏み入れた時の心地よさは格別だった。なんだか気持ちよくなってしまった。

夕方。
空が少しづつブルーに染まっていく。
この時間が好きだ。
この時間の空が好きで電気工事のバイトをやっているときも工事中の家の二階にあがって空を観ていた。そしたら怒られた。

ベランダにでるといい感じに風が舞っている。
唐突にビールが飲みたくなり冷蔵庫にあったビールをもらって飲んだ。
空をみながら飲むお酒はビールが一番美味しい。
寒空でも熱帯夜でもそれはかわらない。

ベランダの角で風に当たっているとタケが顔を出した。
部屋にもどってMARUと神経衰弱をやったのだがあっさりまけたスコアは15対5くらいだった。酔いのせいでイメージ記憶がボロボロだった。

やまけんがつくってきた生パスタができあがっていた。
志乃ちゃんが用意した生牡蠣にカニがついてきたのでカニのパスタになった。
料理人のやまけんは自宅からイタリアっぽいフライパンを持参してきていた。
こと料理に関してはやることがカッコいい。
カニをさばいている時のやまけんは山岡志郎であった。

やまけんが到着する前に「そういえばやまけんてキンピカ先生のコスプレ似合いそうだな」という話なった。キンピカ先生、確かにやまけんと感じは似ている。

夜は更け、MARUは眠ってしまった。
場所をソファーに移して、実演タケザワのホスト講座がはじまる。
面白い。
タケはそっちの才能があるに違いない。
いけている。

そんな話を延々と続けているうちにいい時間になった。
居心地の良い志乃亭を後にして、外に出た。
風が少し冷たくて気持ちいい。
4人で青山から外苑前までを歩いた。

外苑前で店長と別れ3人で青山一丁目まで歩く。
しばらく歩いてCORNESのショールームの前あたりでおもむろにやまけんが叫んだ。

「おおおおお、coco壱番だ!」

ひきづられるように道路をわたった。
強制的にカレーでの締めと相成った。
イブクロライター恐るべし。
オレもトライはしたがハーフサイズでついていくのがやっとであった。

大江戸線月島駅のホームでタケと二人「ハッスル!ハッスル!」と小川のハッスルパフォーマンスでやまけんを見送った。やまけんも笑いながらハッスルポーズをかえしてきた。電車の中でパフォをやるとホームを過ぎたあとにいきなり醒めるので若干の恥ずかしさが残る。
僕たちの姿が見えなくなった後、やまけんは急にまじめな顔になった、と思う。

帰りの電車で決めたこと。
3人で「忍者」の名刺をつくることになった。

帰り道にタケと決めたこと。
やまけんの得意技は「すいとんの術」ということになった。

投稿者 TKM : 01:56 | コメント (4) | トラックバック

2004年04月28日

[雑記] ドンキー・ひとりになりたくて朝を歩いた

銀座にドンキホーテができた。

店舗は広々としているがテイストはドンキーである。
違和感はない。
ハナマサとの共闘のせいか充実した食料品の品揃えである。
二階では店のチンピラ風の男達が金物(といってもブリキ系ではなく時計などの貴金属)を物色している。深夜にはホステス風の女性も多い。

通路が広めにとってあるのとフロア毎の店舗面積が広い。
二階建てだが品揃えは渋谷や新宿店よりも充実している。
上り下りの必要がないのと通路がゴミゴミしていないので都内のドンキーの中では快適度はNo.1に良い。

数日前の夜に発見した。
同日、タケに教えてもらった「矢場とん」も試す。
とんかつは東京の方が味があって美味しい。しかしみそとの相性でいえばあの厚さとわりに味のすくない肉がスナック的でいいのかもしれない。きけばお客さんの多くは名古屋ゆかりの人だそうだ。そういう市場の開け方があるのかと感心した。柿安は地域によって味をかえるといっていたが矢場とんの場合はどうなのだろう。(補足:店の対応に「やる気」を感じた)

++++++

昨夜は新宿から銀座まで歩いて帰った。
終電を逃したわけではない。
風にふかれて話したかった。
だから歩きながら話した。

銀座につくころには足が張っていた。
久しぶりに新宿から銀座まで歩いた。
銀座から月島までの30分が長かった。
かちどき橋にさしかかる頃に向こうの空が薄いブルーに染まっていくのが見えた。
空をものすごいスピードで雲が流れていく。

ありがとう。
空をみながら歩いた。

投稿者 TKM : 15:42 | コメント (0) | トラックバック

[俄] ラブスコール 64' ~そんな気分の朝~

朝一番でいきなり電話がなる。

「声がききたいと思って」

と愛の告白と間違えるような最高のセリフで切り出されたのでかなりドキドキする。心臓はバクバクである。オレはこういうノリに弱い。久しぶりに外国人と話した気分だ。外国の人ってなぜか感情表現がおおらかで話すと気持ちよくなる。日本人でこの感じになる人は数人しかいない。

「ハロー、メーン元気」

とイブクロライター兼コンサルタントのYけんである。
二人で朝っぱらからマシンガンバカトークを繰り広げる。
いきなりテンションが最高潮になる。

Yけんの実力爆発。
Yけんの場合、仕事の力量というよりも人間量の絶対値が全然違う。
もちろん、それについていくあるいはリードするオレの絶対値もかなり柔軟性と無限のポテンシャルをもっているのだが。にしても朝からのいきなりラブスコール。オレは買いだ。これをやれる男は少ない。はっきりいってオレはYけんに惚れるね。(いや、案外、愼之介もやってくれそうだが。なにせこの間、偉いさわやかボイスでMARUにコマネチを伝授してたからなあ)

さて二人であーでもないこーでもないとトークバトルをやって、明日の打ち合わせをして、携帯を止められたという友人の合コン話を勝手に捏造し、などなどとやっているとヤヴァイくらいに脳が乗ってきた。

やはり俄マインドの力は絶大である。
更にいってしまうとコミュニケーションの力は大きい。
話す、やりとりするという言葉や感情の交換によって得ているものは想像以上に大きい。人の気持ちは自家中毒のように内面でうねうねさせるとどうしても感情に毒がでる。しかし、人とのコミュニケーションによって生じる感情はプラスである。

なるほどコミュニケーションは強力な感情清浄機のようなものだ。
人はコミュニケーションによってしか幸せや悦びを得ることはない。
これは断言してしまいたい。

トークに意味があるかどうかなど実はどうでもいいことなのだ。
問題はそのコミュニケーションによって気持ちがドライブしているかどうか。
気持ちが清浄化されているかどうか。
そういう部分で計られなければならない。

感情の経済性といったらいいのだろうか。
人はより清浄で心地よく流れのある感情をつくりだせる人とコミュニケーションすべきだし、する性向でなければならない。

生きる上でそれはもう鉄則のようなものである。
自分が気持ちよくなれる人。
自分が自信を持てる人。
それはおそらく相手に理由があるわけでもなく、自分に理由があるわけでもない。
相手と自分とのポジショニングによってつくりだされる関係性にポイントがある。

そうしたポジションを自然にとれる相手。
それを「ウマがあう」とか「気が合う」というのだろう。

自分も常にそうあるわけではないがいつも今朝のような気持ちでいられたら間違いなく幸せだし、何をやってもうまくいくのだろう。外部で何が生じようと重要なのはそれを受け入れる自分という装置である。

物事は起こるし、常にいろいろなことがある。
それはもう一生、永遠に変わらない。
ポイントは自分という装置である。
事象がどうあれそれを「俄化」することはできる。

それは自分のマインドの問題である。
常に物事を「俄」にもっていく力。
それを「俄力」と呼びたい。
人にはこれを鍛える力がある。

「面白い」をつくりだす力。
「ロマン力」とか「切な力」とか様々な力があるだろうけれどそれらも全部ひっくるめて世界をコンテンツ化する総力を「俄力」とする。

自分はなんの人でなくてもいいが「優しさ」と「俄力」その二つだけあればいい。
それが自分の理想だ。

※エントリーをアップしたら本当にスコールが降ってきた。これこそ俄。最高である。おそらく数時間したら異様に晴れ渡るであろう。こういうのを俄雨というだっけか。

++++++

・ラブ(豊かさ)ベースで思考する
・おおらかに振る舞う
・俄マインド
・パンルーマインド
・この世界は俄みたいなものだ、映画ライクに「生きるをつくる」のがベスト

投稿者 TKM : 10:26 | コメント (1) | トラックバック

2004年04月27日

[雑記] 玄の玄

午前7時頃に電子音で目覚める。
発信源を探すが見つからない。
二日連続でこの電子音で目覚めた。
その為、睡眠時間は極端に短い。

午前7時頃に電子音で目覚める。
発信源を探すが見つからない。
二日連続でこの電子音で目覚めた。
その為、睡眠時間は極端に短い。

見つからない発信源はどこかにあるのだろう。
ガスが漏れているのか。
あるいは何かが故障しているのか。

いずれにせよ問題の本質ではない。
今日は午後7時からPRIDEの放送である。
日曜の試合で人生が変わった格闘家もいる。
日々とはそういうものだ。
何が起こるかはわからない。
しかし結果があるならそこには原因もある。

「原因と結果の法則」という本が売れまくっている。
いつのまにか3巻まででている。

ベースにあるのは「物事には原因があり結果がある」というシンプルな考え方である。
良いことも悪いこともそれら全てに原因がある、か、なるほどうまいことをいう。

玄の玄だったかな、確かそんな言い方があった。
無は虚無の無にあらず、という話なのだが、以前、先生にきいた。

話をしたい人はみんな逝ってしまう。
先生も友達も。

投稿者 TKM : 11:26 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] 風の音と船の上

風がゴーゴー鳴っている。
窓がガタガタと揺れる。

夕方、連絡をもらい来月末に船に乗ることになった。
晴海埠頭から船に乗るのは初めてである。
しかも巨大な船団に乗り込むことになる。

その日、汐留で仕事を終えた頃に電話があった。
どうしてもあんみつが食べたいというのでその店であんみつを食べた。
ある本を紹介された。
かわりに僕もある本を紹介した。
その本がきっかけで僕たちのストーリーは更に続いていくのだがそれはまた別の機会に

偶然なのだが偶然ではない。
そんなことが時々おこる。

以前、倒れた時に助けてもらった。
その時のことを思い出した。
身体も頭もぐるぐるしていた。
しばらくそこで横になっていた。

外ではまだ風の音が聞こえる。

投稿者 TKM : 03:09 | コメント (0) | トラックバック

2004年04月26日

[人間力] モチベーションコントロール その1

土曜のオールナイト2本攻めが効いたのか昨夜は思い切り時間感覚がずれてしまったようで午前2時に目覚める。
血糖値が下がっているのかイライラを感じる。
深呼吸するが収まらない。
仕方なく夜明け前の河原でハーゲンダッツを食べる。
甘さが口の中に広がる。

見上げるとぼんやりと星がみえる。
数えられるくらいの星しかない。
雲があるのかあるいは大気が曇っているのか。

汐留で建設中のビルのてっぺんで非常灯がチカチカ光っている。
無数の赤い点がきらめくビルの林の中にはどれくらいの人が住んでいるのだろう。

河原を後にして月島のジョナサンで勉強する。
最近、家の近くにジョナサンができたのである。

勉強といっても本を使った思索がメインだ。
ノートを持ち込んで読みながら閃きをノートに書き留めていく。
ノートの分量は3時間で10ページくらいが目安だ。といっても見開きで数えると5回ページをめくるだけなのでそれほど大量ではない。しかし、いま書いているようにエディタで書き留めていけば結構な量になるだろう。10日やると本が一冊分にはなる。

骨折してから動けないので仕方なくそんなやり方を覚えた。
家でやれれば一番いいのだが部屋にいると気が滞留してしまいやる気が起きないのだ。
だから家で作業できるのはせいぜい3時間が限界である。
その後は「場」をかえて「場」の力を利用するしかない。

部屋が5部屋くらいあればそれぞれに役割を持たせて90分ローテーションで仕事の内容をいく、などのやり方が考えられる。数年前にオラクル社では会議室を赤で統一するなどモチベーションをコントロール為に環境からのアプローチが計られているとの記事を読んだ。あの部屋はいまだに赤いままなのだろうか。

僕がいま興味を持っているのは個人のモチベーションコントロールである。
独りで仕事をはじめてからすでに8年が経過し、今年で9年目。
プロジェクトが終われば組織で動くことは滅多にない。

そうした状態でのモチベーションコントロールは非常に難しい。
例えば時間的な拘束は全くのゼロなので毎日が夏休みと思ってもらえればいい。
そこで夏休みを思い出してもらいたいのだが宿題はいつやっただろう?
最初に全部をガーっと片づけるタイプの人もいれば最期に泣きながらやるタイプの人もいるだろう。。しかし、毎日、ガーっとやり続けるという人はほとんどいない。独りで仕事をする、ということはこのほとんどいない毎日ガーッとやりつづけるタイプの宿題実践法が必要とされる。

ところが人のモチベーション(やる気)には波がある。
常に最高潮でいることは不可能である。
ヤンキースの松井、メッツのイチローなどトップ中のトップのアスリートにしても成績や調子には波がある。ベストのコンディションをキープすることに最大限のコストと労力を使っている彼らにしてそうなのだ。

日常が介在する自分たちに波があるのは当然ともいえる。
どんな人でも最高の集中力を24時間キープできればどの分野でも天才になれる、と僕は考える。これは絵空事ではない。どんな分野でもそれに集中することさえできればそれが小さい分野であればあるほど短期間でその分野のエキスパートになることができる。

実際にどれだけの集中量を対象に傾けることができるか。
それがポイントなのだ。
できないのではなくやっていない。
これが事実である。

投稿者 TKM : 15:36 | コメント (0) | トラックバック

2004年04月25日

[雑記] 人の核(コア)と音のない街

「KILL BILL vol.2」と「キャシャーン」を連続で見終えると外は明るくなっていた。朝である。誰もいない朝を帰る。


銀座の街から音が消えていた。
タクシーもいない。

空気の肌寒さが心地よい。
そのまま自転車で晴海通りを海の方へと帰る。
かちどき橋にさしかかるとリバーシティーとトリトンスクウェアの間の空に太陽が見えた。空が広がっていた。東京の狭い空がどこまでも広がっているように見えた。見上げると薄いブルーが天球を覆っている。

いいな、と思った。
幸せなんて簡単で些細なものだ。
空を見上げている時間は短かかったけれど幸せは心に浸透していった。

先週の土曜日は川崎にいた。
やましんと話していた。
心が穏やかになって人に優しくしたいと思った。

今朝も同じだった。
物音が消えた東京の街で空をみていると人に優しくしたいと思った。
町ゆく人々も生きてるんだな、と思った。
自分が観ている光景はここにあるけれど100年後には違う光景がこの場所に現れるのだろう。いま自分がみているモノはうつろい消えていく。時間が存在するかぎりこのルールは変わらない。

だとしたら。
と、そこで考えた。
だとしたら、何がいまで何がここで何が何なのだろう、と考えた。
昨夜の午前1時30分のことである。

人は人であり人の人的なものとは何なのか。
それを考えた。
様々な事柄に思考は影響を受ける。
機嫌がよくなったり、悪くなったり。
人に嫌悪を感じたり、焦燥に駆られたり、僻み、妬み、渇望することもある。
愛を求めるのではなく愛されることに執着する。
コミュニケーションのズレから引き起こされる様々な違和。
それらは人の感情の本質とリンクしている。

人は何故。
それを考えること。
それ以外の目的や夢は代替できる。
けれどこれだけは消すことのできない本能的な欲求だ。

キャシャーンでセフィロートが使われていた。
それが登場するとは思ってもいなかった。
セフィロートをみた時に生じた心の震え。
それは作品とは関係のない感情である。
しかし自分の最も奥底にある感覚でもある。

現象が記号化される。
或いは記号が物質化する。
言葉とはモノなのか。
これは何なのか。

昨日はじめて3G携帯を使った。
それ自体は機械であり一般化しているのだが使ってみると幾つかのイメージがフラッシュした。未来が観えた気がした。それは機械の未来という意味でもないし、先端という意味での未来でもない。人の世界の一つの方向性が感覚として広がったのである。

朝の帰り道で幸せが降ってくるイメージが見えた。
サービスや商品はビジネスという言葉で固定されるが人の世界の根本部分には人がある。
人は幸せになるためにここにいる、と自分は考える。
人は人に還る。
思考としての宗教ではなく人へと還る。
人は思考ではなく人に反応するのだ。

では人とは何か。
その人が人としてあることの根本は何なのか。
何がその人なのか。
身体なのか。
声なのか。
色なのか。
言葉なのか。
それら全体なのか。

どの時点での人が人なのか。
昨日なのか今日なのか明日なのか今なのか。
では一昨日は昨年は別な人なのか。
連続しているなら時間はどこに消えていくのか。
昨日はどうしてここにないのか。
明日もどうしてここにないのか。

人とは関係性の生物である。
ポジションと関係性がコンテクストによって意味をつくりだす。
人には核がある。

一緒に休日を過ごしたいと思えるような政治家はいるだろうか?
いないとしたら何故なのか。

最後に人に向かうなら最初から人に向かってもいいはずだ。

やり方もわからなかったし、立ち位置もわからなかった。
が、自分をつくっているものの核(コア)がどこにあるのか。
そこなのだ。
そこがポイントなのだ。

目が持つ意味を想う。
目の持つ記号性とキュービタル性。
目があれほど多くの意味を持つのにはわけがある。

目はみているが同時にみられもする。

勇気は決断と同意だ。

投稿者 TKM : 07:31 | コメント (0) | トラックバック

2004年04月23日

[俄] オブジェクト久保と和服で西田敏行風のYけんがかぶる

久しぶりに久保君のブログを観た。
73歳の棟梁と飲みに行った話が書かれていた。

久保君と棟梁という取り合わせがまたなんともレアでいかしている。
「まあ、久保ちゃん飲め飲め」と言われて「ハイ」と飲んでいる久保君の絵が思い浮かぶわけだがオブジェクト久保の通り名でしられる久保君と大工の棟梁というカップリングはそれ自体が「俄」であり希有なコンテンツである。

ついでにやまけんのブログも読んでみる。
今日はグァバについて書かれていた。
ところがである。
最終の段落でやまけんの文章が急展開のとんぼ返りを見せる。
「このフルーツにいはほろ苦い思い出がある」とイブクロライターがそれまでとは違った一面を覗かせる。一文を目にした刹那、僕の脳裏に唐突に西田敏行の顔がよぎった。

釣りバカ日誌の西田敏行は「はいどうもー!」的なキャラなのだがその西田が別な映画では妙に神妙な顔をする。俳優なのだから役によってキャラが変わるのはあたりまえなのだが…。このイメージと「ほろ苦い」と書くやまけんの顔が重なったのである。

「うりゃー、おっちゃん、横綱一つね」

銀座ジャポネ(ジャポネは異様な盛りをみせるスパゲティ屋である。はっきいうがパスタではない。)で勢いよく頼み、ガーっと食べて更に徒歩2分くらいの場所にある柳田さんちのカレー「辛来飯」で有名なニューキャッスルで蒲田(この店のオーダーは駅名になっている。品川からはじまって大井→大森→蒲田)を平らげる驚異のイブクロライターとしてのYけん。

シーンが変わり。場所は和室。
和服で文机に向かい、ひげをなでつけながら薄明かりの下で目を閉じつつほのかによみがえる追憶にふと筆をおくYけん。これが一連の流れとして僕の脳裏をよぎった。

最高である。
これを楽しまずに何を楽しめというのか。

まったくの「俄」である。
現実がどうかは知らないがいきなり予備動作もなく強烈に「ヤラレタ」感におそわれた。笑うべき内容は一つもないのに妄想が笑いを引き起こし、怒濤のやまけんワールドへと自分を引きづりこむのであった。

おそるべし食い倒れ。
隆慶一郎の傑作時代小説「吉原御免状」の主人公。
永遠のヒーロー松永誠一郎もこの「俄」感覚にはかなうまい。

時代は「俄」を求めている。
痛切にそう感じるお昼であった。

投稿者 TKM : 12:40 | コメント (1) | トラックバック

2004年04月22日

[俄] ボンバーテイストのリンゴジュースをつくる

帰宅してからリンゴジュースをつくった。
スーパーで売っていたリンゴを剥いて小さめに切ってからジューサーに放り込む。

ガーガーガーガー。
ガリガリガリ。
ゴーゴーゴー。

リンゴのゴツゴツした形が徐々になめらかな液体状になっていく。
いい感じである。
しばらくそうやっていたらいい加減いけそうになったのでころあいを見計らってグラスに注ぐ。

トロトロトロ。
注ぐリンゴ液がなんともいえず「モノ」の存在感を訴えてくる。

OK。やってやるよ。
まっとけ。
気分昂揚、まずはひとくちやってみる。

グビリ。

ン?
もうひとくち。

グビリ。
ン、ンンン?

さらに。
ゴクリ。

ハ?!
この食感は。
この喉ごしは。

まさに「大根おろし」。
ほぼまったくまるっきりの大根おろしテイストのリンゴジュースがそこにあった。
今宵の天空の星がどのようなチャートをしめしているのかしらないがこんなことはあってはいけない。

これじゃまるで食の錬金術である。
何故に「大根おろし」なのか。
リンゴじゃなかったのかお前?

全くもって不明である。
どこでどうまちがえてこの味になったのか。
ジューサーにかけるまでは確かにリンゴテイストのリンゴであった。

ジューサーに魔法でもあるのか?
不明すぎる。

不明だが理性はそれがリンゴであることを肯定しようと数分前にそこにあったリンゴの形状をデータベースから引き出そうと躍起になる。しかし、過去の映像とこの味の関連性の糸はぷっつりとぼっきりと断絶である。

もはやソフトウェアでは修復不能。
リンゴは数分のジューサーの旅路の果てにリンゴ風味の大根おろしへと物質転換を起こした。

しばし、眺めるも。
決断の時は迫る。
リンゴ味の大根おろしか大根おろし味のリンゴか。
迷い迷われ惑い惑わし。
2秒の沈黙を経てグラスを手に取り。
飲み干すも。
その味はやはり「大根おろし」。

そして冷蔵庫にはリンゴがもう一つ。

投稿者 TKM : 00:29 | コメント (4) | トラックバック

2004年04月21日

[エッセイ] 世界のカリスマ教師とマクドナルドと34と43

ニューズウィークのカバーストーリーが「世界のカリスマ教師」だったので思わず衝動買いをしてしまう。

内容は読んでみないとわからないが友人のプロジェクトにプラスになるかもしれない。
と、書いていて思うのだが友人から「こういうことをやっています。こういうことがやりたいんです」というメッセージをきいたことによって、僕は無意識のうちに彼のプロジェクトにプラスになるかもしれない情報へとアンテナを張り巡らせて世界をみつめている。
情報にはそれ自体に価値があるわけではなく自分との関係性によって価値が生まれる。僕がニューズウィークを読んでも直接的にはそれを活かすことはできない。しかし、それが友人に伝われば、あるいはその情報を必要としている誰かに伝われば情報は巡り巡って誰かの生活に影響を与えるかもしれない。

ベストの状態へと世界を活性化させていくような情報と人の関係性というものがこの世界にはある、と僕は信じている。

あなたのパフォーマンスや幸せを最大化させるような選択や情報や関係性がこの世界にはあっていまの自分がそうなっていないとしたらそれは関係性、やり方、タイミング、方向、何かがズレているということに他ならない。量子力学を持ち出すまでもなくあらゆるものごとには可能性として人のパフォーマンスと生きる実感を最大化するポイントがある。

人の世界の出来事のほとんどは現実と乖離した思考によってそこにあるように見えている関係性の幻である。本体は別にある。いや、本体が思考であり現象はそのフェノタイプという見方もあるか。

++++++

フジサンケイビジネスの紙面でマグドナルドのCEOが替わったことを伝える記事を読んだ。その記事を抜粋しよう。

【ニューヨーク=内畠嗣雅】ファストフード世界最大手のマクドナルドは19日、同日死去したのジム・カンタルポ会長兼最高経営責任者(CEO)(60)に代わるCEOとして、チャーリー・ベル社長兼最高執行責任者(34)を任命したと発表した。ベル氏はオーストラリア・シドニーの店舗のアルバイトからのたたき上げで、マクドナルド初の外国人CEOとなる。

 同社のカンタルポ会長兼CEOは同日未明、フランチャイズ店の会合が開かれていたフロリダ州オーランドに滞在中、心臓まひのため死去した。同社はただちに、ベル氏のCEO昇格を決定。後任会長には、取締役会議長のアンドルー・マッケンナ氏(74)が就任すると発表した。

 ベル氏はオーストラリア出身で、15歳のとき、シドニーの店舗でアルバイトを始め、19歳で同国最年少のマクドナルド店長となった。その後、同国での経営に参画し、国内の店舗数を388から683に拡大。29歳で本社の取締役に抜擢(ばってき)された。

 本社では欧州での責任者を務めるなど、おもに海外事業の管理にあたり、カンタルポ氏がCEOに就任した2003年1月に同社社長となった。かねてから将来のCEOと有力視されていた。今後、肥満訴訟などで逆風に立たされているマクドナルドの難局を乗り切るかに注目が集まる。 (フジサンケイビジネスより)

この記事を読んでマグドナルドは爆発するかも、と感じた。34歳の社長に据え替えるというのは尋常ではない。その行為自体がコンテンツであり俄である。

ところがその後で朝日新聞を読むと、

 
米マック、新CEOはアルバイト出身40代
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米マクドナルドの新CEOチャーリー・ベル氏は、アルバイトからのたたき上げ。43歳=AP


 米マクドナルドは19日、同日朝に急死したジム・カンタルポ会長兼最高経営責任者(CEO)の後任CEOに、43歳でオーストラリア人のチャーリー・ベル社長兼最高執行責任者(COO)を昇格させた。ベル氏はシドニー店のアルバイトからのたたき上げ。日本でも12年前、バイト出身の安部修仁氏が吉野家ディー・アンド・シー社長に就任。日米を代表するファストフードチェーンで「バイト出身トップ」が誕生した。

 ベル氏は15歳の時、シドニー店でアルバイトを始めてから駆け足の昇進を続け、19歳でオーストラリア最年少の店長に、20代で欧州の出店事業を担当、29歳で取締役に就いた。その後もアジア・太平洋を含む地域の責任者や欧州法人社長などに相次いで昇格。特に牛海綿状脳症(BSE)発生で落ち込んだ欧州の販売強化で名をあげた。マックCEOとしては初の外国人トップだ。

 一方、吉野家の安部社長も牛丼店でのバイトでの仕事ぶりが認められて社員に採用され、その5年後に九州地区本部長、入社11年で取締役と駆け上がった。

 ベル氏は03年1月、カンタルポCEOの就任と同時に社長兼COOに昇格。そのころから次期トップが確実視されていた。今回の昇格は当時の見通しより数年早まったとみられている。

 ベル氏にとって健康志向の商品開発などイメージと収益の回復に力を入れる現在の路線をどう発展させられるかが課題。米大企業は数々の会社の経営に携わってきたカンタルポ氏のような「経営のプロ」がトップに就くことが多く、バイト出身のたたき上げは異色の存在だ。

 新しい会長には、包装紙会社を経営するアンドリュー・マッケンナ氏(74)が非取締役として就任した。マクドナルドへの包装紙納入などでつき合いが長く、ベル氏のお目付け役としての存在が期待されたようだ。 (朝日新聞より)


とこちらでは43歳と報じられている。
43と34。
数字の位置が一つだけ前後しただけだがそこから受けるインパクトは天地ほどに違う。
情報とはこのようなものだと思うのである。

投稿者 TKM : 16:06 | コメント (2) | トラックバック

2004年04月19日

[俄] 神出鬼没の量子人間「Yけん」の衝撃

全然関係ないサイト「Weblogツールを使っているイラストサイト」というページから二つほどリンクを辿っていってページをスクロールさせていたら見慣れた顔がいきなり唐突にこれでもかというくらい無防備にドンと登場した。

Yけん

である。かなり衝撃。(注:昨日の金子との会合以後、我々の間では「やまけん=Yけん」でいくことにした)
何故にこのリンクからこうなるか。
視界の左斜め上の方でピカピカと光が点滅しているが気にしないことにしよう。
ウェブの世界のまか不思議を体験した気分である。

◆やまけんまでの道のり

Weblogツールを使っているイラストサイト

カタトランタン

たわごとのあわたけ

松浦晋也のL/D

Yけんのパーマリンクは下記
http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2004/04/3.html

みてもらうとわかるがかなりスクロールをしていって、それでもスクロールをしていって、そのまたスクロールの下あたりにいきなり「Yけん」が登場する。二日酔いという単語が目に入ったので最後までスクロールしよう、そう思っていた矢先の衝撃である。出し抜かれた感1000%である。一言言いたい。Yけん=神出鬼没。

そして上記のサイトでのYけんの描写がふるっているので抜粋。

「所属した研究室には、小柄ながら分厚い胸板と太い腕を持ち、やたらと声のでかい威勢のいい男がいた。やまけんだった。」(「松浦晋也のL/D」よりYけんをあらわす素晴らしい一文)

投稿者 TKM : 22:03 | コメント (4) | トラックバック

[雑記] armory showとナイキの靴

armory showの映像をみていた。
あれだけガヤガヤした中を歩き回ると半分は仕事だ。
週末のデパートみたいで見ているだけで足が痛くなった。

はじめてナイキの靴をはいた。
靴底の堅さがナイキを主張していた。
不思議な靴メーカーである。
高いのかやすいのかカッコいいのか悪いのかわからない靴だ。
良くも悪くも自己主張が強い。

サイズは余裕をもって28cm。
しかしまだ窮屈なのは靴の形のせいなのか自分の足のせいなのか。
カスタムメイドの靴が欲しい。

自転車のブレーキが壊れたので修理した。
自分で修理してみる。
基本的に機械の修理は面倒である。
その瞬間は面倒だなあという思いが先にたつ。
しかし「創る」という側面があるからだろうかやっているうちに楽しくなる。
機械の修理に限らずなんでもそうなのかもしれない。
脳がそのモードにスイッチすればやっていることは苦痛ではなく楽しさにかわる。

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[俄] 南米の風

午前5時30分。
朝に目覚める。

夢の中。
かちどき橋のたもとで慶應のキャンプ。
学生が呼んでくれた。
二つのグループがキャンプを張っているが片方はピクニック。
毛布を借りて寝ころんで空を見る。
足下が冷たい。


寒さに身をよじるとそこは現実だった。
布団から足がはみだしていた。
カーテンをあけてそとを眺める。
曇り空。

川向こうの公園のブランコでカップルが話している。
午前6時前。
公園には二人しかいない。
二人はゆらゆらとブランコに揺られながら時折向き合う。
男の子は高校生だろうか。
からだをゆらすとブランコが振り子のように大きく揺れた。

午前6時の街には人の世界がある。
iTuneはランダムで再生されている。
「Inutil Paisagem」というジョビンの曲が流れている。

洗濯機の回る音。

今朝も朝一番にサーキットトレーニングをやった。
眠りの時間は相変わらず短い。
ここ数日長い時間眠れない。

昨夜、道をあるいていたら眩暈がした。
学生時代にラグビーの練習中にボールを持って走っていたら手足が無限に広がるような感覚にとらわれたことがある。その感覚に似ていたのでいよいよ常時ナチュラルハイかと思ったがそうではなかったらしい。

いろいろなことがある、というわけではない。
物事はそこにあるわけではない。
自分がいないならそこには何もない。

iTuneはソフトである。
ソフトは恐ろしいことをする。

今朝は「Oratio super oblata/Utrecht Gregorian」の次に「Push Upstairs/Underworld」という驚愕のつなぎをみせてくれた。これには恐れ入った。世界が一変した。この世界は俄だ。環境はそれを伝えたがっている。

ブログも面白いし、ネットワークも面白い。
つまらないのは人の世界のルールだ。
そもそも何のためのネットワークだったのか。

感覚のドライブ。

それが自分の生涯のテーマである。
感覚がドライブしない生活は生きながら死んでいるようなものである。

一昨日の夜。
やましんと川崎のペルー料理屋にいった。
その晩に何があったわけじゃないのだけれどここ半年で一番の幸福を感じた。

それはおそらくコミュニケーションから生じていた。
ペルー料理屋にいくと驚くほどの盛況で僕たちが入った後はずっと人が並んでいた。皆ペルーの人である。店の中はさながら南米。9割はペルーの人である。その空気が凝り固まった意識をほぐしていくのだろうか。

混んでいるのでなかなかお店の手が空かない。
女性が注文を取りに来たので、
「すみません、メニューをいただけますか」というと。
「ごめんなさい~!持ってきてなかった」と最高の笑顔を見せてくれた。
開けた笑顔だった。

店は混んでいるがひとりとして嫌な顔をする人はいない。
客も店の人もタイ風にいうならマイペンライである。
この開けた感じは驚くほど気持ちいい。

二人で飲み、食べ、満足した。
それなのに料金は格安であった。
そっか、こういうの満足、あるいは気持ちいいっていうんだな、と二人で話した。

飲食店経営がどうこう、成功店云々、という話はどうでもいいなと思った。
およそ9割の店はコンビニと大差ない。
そうではないのだ。
おいしい、満足、もっと払いたくなる、これの方がいいに決まっている。

それから川崎の街を案内してもらった。
道を歩いているとアジア系の人が「こんばんは!」と声をかけてきた。
やましんも「あ、こんばんは」と応える。
きけば知り合いのタイ人だそうだ。

「へー、川崎でよくあうの?」
「いや、はじめてあったわ。川崎に住んでるっていってたんやけど。はじめてあったわ。」

気持ちが開けるとこういうことがよく起きる。
しばらく街を歩いてからミスタードーナツでお茶を飲んだ。
終電まで話し込み有楽町に帰った。

なんてことのない時間なのだが豊かさにあふれていた。
その翌日。
午前から横浜で金子と打ち合わせ。
メキシコ料理屋でストーリーについて話し込む。
料理のチョイスはパーフェクト。
完璧であった。
二人で「満足度高いよな」と繰り返す。
南米、アジア、人が開けると世界はまわりだす。

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2004年04月17日

[俄] 新井さんとイタリアでパルテノン

朝っぱらからやまけんの出張食い倒れ日記を読む。

昨夜はタイ料理であったようだ。
やまけんはパッタイが好きなようでこのお店のパッタイを絶賛している。
オレの好物はカオマンカイと牛肉を煮込んだものをご飯にかけた料理。名前は忘れたが日本ではおめにかかったことがない。カオカームーだったかな。


久しぶりにタイ料理の写真をみた。
上方にボリューム感のあるパッタイはなかなかの雰囲気である。

コメントをみると無類のタイ料理好きやましんからのコメントもある。

「やまけん・やましん」とならべてみるとこの二人、1文字しか違わない。
しかし二人の内容は天地ほども違う。
やましんは知的所有権のプロフェッショナルでやまけんの方は食い倒れのプロフェッショナル。いや、日本No.1の大食漢系農産物物流コンサルタントである。この二人のジョイントも面白いかもしれない。ということでタイツアー決行ということがオレの内面ではほぼかたまりつつある。

はっきりいってかなりのアホ道中が見込まれる。
やまけん、オレ、タケ、やましん、昨夜の夢で登場していたのでこれにタドを加えてもいい。全員同じ大学というあたりがかなり怪しい。この歳になって学生旅行みたいだがここでのセリフは最近はまっている堀之内九一郎のナイスな「稼いでいったらいいじゃないの」である。

このセリフは最近多用させてもらっている。
あるTV番組で堀之内が「あたし出す。あたしお金だす。借金?!一億? いーじゃないの。稼いで返したらいーじゃないの(スマイル)」というシーンがあってかなり新日本プロレス時代の健介ばりにヌケたセリフで気に入ったのである。

これを応用して様々なシーンで使わせてもらっている。
例えば昨夜だとこうである。

バシ「やりたいこと。本書きたいんだよね。でも、そのテーマだとなかなか…」

オレ「本、書きたいの?(ニヤリ。肩をたたく)バシ師匠、稼いで書いたらいーじゃないの」

バシ「(しばし唖然)そ、そうだよね」

という感じである。

はっきりいって

「行きたいヤツは全員連れてってやるよ。あ、なんだっていいよ。やってやるよ」by 佐々木健介

という気分だ。
そうだ今朝方の夢はこんなだった。

++++++

新井さんがラオスで僕に携帯を手渡す。
携帯にはUSBメモリースティックを差し込むことができる。
再生するとメッセージであった。
それもかなり高度にMTV化されたビデオクリップである。
完成度が高い。
しかし内容は馬鹿である。
忘れたが高校時代の友人の山田が登場して100mダッシュしているというような内容である。

ラオスの宿で新井さんにその映像を返そうとするのだがいくらやっても新井さんの携帯に転送できない。乾電池が外れているのだ。


オレ「新井さん、電池外れてますよ。勘弁してくださいよ。」

新井「あれ。そうだ!これは!」

意味不明である。
そうやって二人でパルテノン神殿を歩いていると携帯に着信があることに気づく。ライトメール。着信。メール。留守電。と画面は着信を示す表示で盛りだくさんである。

上から順番にいく。
ライトメール。
呼び出しの知らせ。
着信。
山田から。

山田?!
謎である。
親友からの連絡とは。

急いで折り返すといきなり

相手「オーラ!ノン アッラビアルティ ペル クエステ ショッケンツェ」

オレ「なんだこれ。イタリア語じゃん。アプロポジート ヤマダヤマダ」

相手「アー、タカユキ。アッテンダ イン リーネア プレーゴ」

しばし間が空く。

相手「ハイ、タカユキですけれど」

おー、懐かしきヤマダである。

オレ「おー、山田。いまイタリアからかけてんだよ。セイ リーベラ スタセーラ!!!」

山田「あー、カガヤ。何やってんの久しぶり!! いまね。イタリアねカーニバルなんだよ。」

オレ「そうかー。いまからいくから。あ、青木にかわる」

とそこで電話を隣にいる青木に渡す。
夢の中は実に便利だ。
一瞬で青木が登場してくれる。

青木が話しているのを隣でみていると田中一光さんに中国にとりにいくから一緒にいってくれと言われた。
わかりましたとついていく。
土手を歩いて中国にいく。

ついてしばらく二人でライオンをみていた。

一光「じゃあそろそろ出来たでしょ」

相手「?ALFJL+KSFJOIAWU?」

我々は二人とも中国語はわからない。
しかたがないのでしばらく待つ。

オレ「さっきできるっていったよね」

相手「できます」

オレ「できてないよね」

相手「できます」

なるほど。これが一度「できる」といったらあとはそのメンツをキープしようとする中国拳法の奥義か、と一人納得。田中氏をうながし、これが中国メンツキープですよ、と伝えるとなるほどと二人でなっとく。

土手を歩いて帰ることにする。
帰る途中で再度、立腹する。

「しかし何故、そうなのだろう。ライオンの意ができるといったはずなのに」

時代はうつり時は流れ、街も流れ、風も流れる。
とまあそういうことなのだと思いますよとかなんとかいって河原を歩く。
緑色の草が風になびいていた。

しばらく歩いていたらお腹がすいた。

++++++

なんて夢であった。
昨日、速読法の本を数冊かりてきた。
来月にはパワーアップして分速1万字。
一冊6分までいけるだろうと勝手に決めつける。
決めつければ案外できるものだ。

ついでに速書の方も鍛えることにする。
が、しかし、こちらはがんばっても一時間に2000字がいいところだ。
これではいけない。
全くもって使えない。
一時間に2万字を生産する方法があるはずだ。
生産力10倍。

しかし物理的にはかなり厳しい。1文字を1秒でつくったとしても10分で600字。一時間で3600字が限界点である。原稿用紙換算。そうそうこの原稿用紙換算は馬鹿である。いまどき原稿用紙に書くのはカッコつけかPCスキルのない人だろう。僕らの世代でPC以外で書いている人間はいないだろうに。いまだに出版は原稿用紙換算。時代錯誤である。だいたい英語の世界には原稿用紙なんてねーっつーの。

++++++

電車の中で金原ひとみの「アッシュベイビー」を読んでいた。
帰ってきて続きを読もうとしていろいろやっていたら午前3時で早々に眠った。

今朝は午前8時に目覚める。
今日からアップルシード公開だったことを思い出す。

銀座は11時45分からである。

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2004年04月16日

[未来] いまTOYOTAが面白い ~個人的情報移動機械のはじまり~

正直なところトヨタの車にはそれほど良い印象を持っていなかった。
デザインが名古屋くさくてどうにも好きになれなかったのだ。

しかしPMと二代目のプリウスを見てから印象が変わった。
トヨタが「面白い」のである。

PMやプリウスの先にあるものは車なのだろうか?
トヨタは車の会社だけれどつくりたいものは車ではないのではないか。
という印象を受けた。

実体としてヴィークルの形態をとっているけれどその先にあるものは情報の実体化であるように感じられるのだ。個人的情報移動機械とでもいうべきなのだろうか。PCの先にあるものはこうしたパーソナルユースの乗物に近いのではないかと僕は思う。

最近、外にでることが多い。
そこで問題になるのは自分が欲しい情報環境を持ち運ぶ困難さである。
本、映像、通信環境、プライベートで集中できる空間。
これらの多くは部屋という固定的な場所に制限される為、可搬性を持たせることが難しい。

この問題はPCがどれだけ性能を向上させてもついてまわる。
いまのところPCが運ぶことができるのは画面の世界だけでそれを含む空間を持ち運ぶことはできない。

けれど知的創造において最も大切なのは「場」である。
「場」が情報をつくるといっても過言ではない。
情報には情報にふさわしい場がある。

寺や神社にいくと日常とは異なる凛としたそれっぽい空気がある。
学習や仕事も同じである。
ゲーム会社にはゲームができやすい空気があり、代理店には代理店らしい空気がある。
建築現場には建築現場の空気があり、TV局にはTV局らしい空気がある。
デザインオフィスはやはりデザインオフィスな空気だし、築地の市場は市場の空気だ。

築地の市場をデザインオフィスの空気で満たしても活気はでない。
デザインオフィスと築地のターレットの群れが混在しても双方にとってプラスにはならない。

イタリアにはイタリアの空気があり、タイにはタイの空気がある。
東京には東京の空気があり、沖縄には沖縄の空気がある。

情報とは空間に依存し、ある情報がつくられやすい、生じやすい空間や空気というものが存在する。

こうした情報空間のマネジメントという考え方はあまり取り入れられていない。
インテリアデザインや空間デザイン、建築、都市設計というアプローチには情報空間のマネジメントという考え方がすっぽりと抜け落ちている。

創造性のかなりの部分は情報空間に負っている。

個人の能力を常に最大化するような情報空間を携帯する。
これが創造のプロデュース的には最重要課題である。

移動によって生じる感覚のドライブも含めて。
具体的には例えば旅という時空間を考えてみる。
旅という現象、体験。
そこでは感覚のドライブが生じる。

窓を行き過ぎる風景をみている。
これだけで脳はドライブしていく。
情報が常に移り変わる。
新しいもの初めて触れる物や風景。
これは脳にとって新しい体験である。
この新しさが感覚を呼び覚ましていく。

これはなんだ?

無意識が常にそれを問う。

恋愛も似ている。
異性に対する好奇心が最大化し、それまで知らなかった他者の世界が自分に介入してくる。感覚が最高速で動き、世界の風景が変わる。見た目は同じなのに感じる心が変わるのである。常に「恋」と同じ状態をつくることができるならその人は一生を老いることなく過ごしていく。

感覚は時間の長さも変化させる。
この場合の時間とは感覚的時間である。

つまらないものは長く感じ、面白いものは短く感じる。
時間とは客観的な存在であるけれど、主観的に過ぎていく。

情報空間のマネジメントという考え方においては時間感覚も大きな要素である。

と話はあっちにいきこっちにいきしているのだが人は常に情報とともに生きており、感覚のマネジメントという考え方でアプローチしないとよりよい時間というのは過ごせないのではないかと僕は思うのだ。

しかし、今朝、起きて唐突に何故そんなことを考えるに至ったのか。
それはニューヨーク国際モーターショーのこの写真から始まった。

http://www.wired.com/news/images/0,2334,62996-11759,00.html

投稿者 TKM : 08:58 | コメント (0) | トラックバック

[雑記] いろいろとエゴラッピン

知り合いに話しかけられた。

「5月3日にエゴラッピンのイベントがありますけれど、いきますか?主催者と知り合いなんで」

「場所は?」

「恵比寿ガーデンホールです」

そうか。
あそこか。
久しぶりにいってみるのも悪くない。

銀座の店で別な銀座の店の方と話をする。
裏の世界の話であった。
話の方はダークといえばダークだが彼はきわめてナイスガイである。
カッコいい紳士という言葉がぴったりあてはまる。
知り合いには少ないタイプだ。

艶があってダンディで少し危険な感じだ。
銀座の知り合いにはこのタイプの人が多い。

昨夜の遅くに携帯に着信があった。
相手とはそれほど話したことはない。
一度ごちそうになったくらいだ。

折り返しかけてみたが留守電だった。
何か用事があったならこちらの留守電に入っているだろうからたいした用事ではなかったのだろう。

明日はライターの友人達と会合である。
皆んなとは久しぶりに会う。
著名な雑誌で書いている人たちだ。
と、書いて思ったがどんな雑誌に書いているかということと個人や文章にどれだけバリューがあるかということは全く別だ。

先日捕まった植草教授も何をやろうがそれを上回るバリューがあれば扱いは別なものになっていただろう。評論家は一度落ちたら終わりだが作家なら泊がつく。このあたりは人間の心理の問題なのだがかなり基準が曖昧で不思議だ。戦争での殺人は英雄だが日常なら重犯罪である。行為自体は同じでも意味が異なる。

昼間は友人のデジタル漫画作家の金子とブレストをした。
内容の濃い話ができたと思う。
当初はコンテンツの話をするつもりだったが予定を10倍くらい上回り世界を巻き込む壮大な計画に発展した。ポイントをつめていけば実際にそうなるであろう。金子のセンスもいいなと思った。話していて感覚がドライブするミーティングやブレストは気持ちがいい。エンターテイメントといってもいい。

その後、いろいろ話をした。コンテンツの話だけでなく世界中の国々をめぐってきた金子の視点で今をどう思うかについていろいろきいた。ひとつ言えるのは金子はその芯に熱さをもっているということだ。熱い想いをもっている人間はそれほど多くない。仕事を理由に熱さを押し込める人が多い。しかし金子にはそれがない。だから気持ちがいいのだろう。

その2時間前。
野知さんから突然、連絡があった。
こちらもまたいい感じにノリのいい企画の話だった。
実現がどうこうということは問題ではなく。
流れとしては数年後にはこうなるだろうな、と思った。

10年前。
誰もオンラインゲームをイメージできていなかった。
ソニーにしても「は?!」であった。
いまだ日本ではそれほどメジャーではないかもしれない。
それでもポジションは確立されつつある。

10年後にはネットにつながっていないゲームはなくなる。
バルーンファイトでもボンバーマンでも一緒だ。
ゲームがどうこうとうことではなくどこかでネットとつながる。

この世界の無駄はセコさで代弁される。
「セコっ」と感じるならそれは道理とずれている、大半は。

価値とは未来なのかもしれない。
未来のイメージはそれ自体が宝物である。
それを失えば衰退しかない。

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2004年04月14日

[映像] イラク人質事件の未公開映像を観る

イラク人質事件の映像を観た。

TVで放送されていないと思う。

http://www.spiegel.de/video/0,4916,2549,00.html

実際にあの場所にいる人以外には人質になっている人がどんな気持ちかとか相手がどんな人なのかなどはわからない。ニュースバリューがあればなんでもコンテンツ化してしまうのはメディアの問題なのだろうか。それとも観る側の問題なのだろうか。画面にのった瞬間から現実との乖離が進んでいく。

現実との乖離といえば先日、スカートのぞき現行犯でつかまった野村総研の植草教授の話を一度きいたことがある。講演慣れしており話は面白かったが心はなかった。話が面白いという部分について補足しておくと。話の内容が独自で面白いというよりは経済の話をわかりやすい事例に置き換えて説明するのが上手であった。

これまで数多くの講演を聴いてきた。
誰が一番という順位はないが印象的だったのは。

・横尾忠則さん
・安藤忠雄さん
・利根川進さん

他にもいい話をたくさんきいたはずだがすぐに浮かんだのはこの三人だった。
安藤さんと利根川さんは友人らしく、利根川教授の講演にいったら安藤さんもいた。

対談ということでいえばダントツに話の運びが上手だったのは糸井重里さんだ。
専門の研究者や競技者、ビジネスマン、どのような人が相手でもその内容を誰でもわかる言葉に置き換えるその技はプロの対談者と呼ぶにふさわしい。

ひとり忘れていた。

・立川談志

額に巻いたバンダナ。
グリーンのフィッシングベスト(ポケットがたくさんついていたのでそう思うのだが)にスニーカー。
という出で立ちであらわれ憎まれ口でカーっと話すと去っていった。

おそらくバンダナのせいだろう。
随分昔にビデオでみた野村秋介の姿を思い出した。

ビデオのタイトルは『ドキュメント・風と拳銃・野村秋介の荒野』。
(現在アマゾンでも買うことはできない)

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2004年04月12日

[雑記] インディージョーンズと川辺のBBQ

昨年公開された「あずみ」だが続編が決まったことを今朝知った。
監督は北村龍平から金子修介に変わる。

金子修介の映画はゆるいという印象がある。
ゆるさがどう活かされるのか気になるところだ。

イノセンスはメディアへの露出ラッシュが終わり取り上げられることも少なくなった。
興行成績はどのくらいだったのか。

イトイ新聞がタイアップしていたがと思ってイトイコムをみてみる。
Tシャツの広告がトップにおいてある。
気になる人物の写真があったのでクリックしてみる。
水道橋博士だ。
イカした人選だなあと感心しつつページをめくると

「??」

僕が水道橋博士だと思った人物はスチャダラパーという人で別人であった。

以前タドがいっていたがイトイコムは基本的に糸井重里さんの企画した商品広告を読まされるサイトだ。面白いようなゆるいような微妙なラインだがこれも味なのだろう。

それよりも何よりもスゴイなと感心するのはこのサイトにいまだにたくさんのアクセスがあるということだ。オレは読まないな。読むとまわりくどくて疲れる。でも、糸井さんの話は面白い。このおもしろさは評論と似ている。自己が情報を発信するというよりも情報を料理するのが上手なのだ。

ところで昨日「伊豆の踊子」を読んだ。
伊豆青春ストーカー物語、といった内容だったが美しい日本語だった。
小説家というのはスゴイなあと思った。
あのストーリーで読ませるテキストをつくるというのは凄まじい作業である。

朝、家をでてコンビニに買い物にいく、というだけのストーリーでも十分に世界に通用するテキストとして構築してのけるだろう。恐るべし小説家。小説力とういものがある、と思った。これは物語力とは別の力である。対応でいえば絵力に相当する。芸である。

昨日、河原でBBQパーティが行われた。
主催は姉貴分の直子さん。
総勢16人くらいだろうか。
朝11時から夕方まで予想通りノンストップでの宴となった。

後半。
兄貴分のバシとやまけんも参戦してくれた。
この二人がいいアクセントとなって宴を盛り上げてくれた。

オレはといえばそうそうに眠ってしまった。
疲れがでたのだろう。
昨夜、家に戻ると悪寒がした。
危険な兆候だった。

眠っていると悪夢を観た。
いつまでも取引をしていた。
相手は誰だろう。

午前8時。
目覚める。
PCに向かうとメッセンジャに直子さんのアイコンがあらわれた。
原稿を書くといっていたが終わったのだろうか。

冷蔵庫をあけると先日のマークアンドリーセンの講演会でもらったミネラルウォーターが入っていた。石井のミートボールを白米にのせて食べた。こんな食事は学生時代以来だった。予想通りチープな味だったが空腹感は消えた。

昨夜、帰宅前に自宅の前の道路の遙か上空。
トリトンスクウェアのビルの脇あたりに黄色い月が浮かんでいた。
大気がレンズ化し月はいつもよりもふくらんで見えた。
あわい光をみていると幸せな気分になった。

おとといの夜にTSUTAYAにいったのだがインディージョーンズシリーズのDVDがおいてあった。学生時代に青木&山田の三人で高校生クイズの帰りに仙台の劇場でみたのを思い出した。

投稿者 TKM : 09:19 | コメント (0) | トラックバック

2004年04月11日

[映画] KEN PARK(ケンパーク) ~幼年期の終わり、或いはユートピア幻想より~

午後。
KEN PARk(ケンパーク)」を観る。(ラリー・クラークの映画を観たのは「KIDS」以来だ)

米国の10代の若者のリアルな倦怠と停滞感。
といっても暗くないのは米国だからだろうか。
同じ題材を日本でやると途端に閉塞感で息が詰まるかATG系の自己崩壊へと向かっていくのは何故だろう。

DVDにはラリー・クラークへのインタビューも収録されていた。
若者に「この感覚はわかる」と言われたくてつくった、といっていた。

観てから数時間後。
新橋からの帰り道で思った。(人生の時の時について考えた5分後だ)

ラリー・クラークが言うようにラストで少年(少女)達は解放されて優雅に触れあう。
そのシーンは印象的で映画的な時間と空間の響きがあった。
それは映像と意味のリンクがズレていく感覚であった。
穏やかな音楽、そしてセックスの描写を背景に語り合われる夢。
それは「理解」を伴うコミュニケーション感覚を想起させる。

上手だなあ、と思った。

が、帰り道に思ったのは別なことだった。
ラリー・クラークのインタビューをきいたせいだろう。
「ユートピア幻想」なんだ、と思った。

ラストの解け合うコミュニケーション感覚は若さによってつくられている。
この映画は10代の少年・少女という設定が不可欠な絶対条件なのだ。
20代でも30代でも駄目だ。

そういう意味では現代は「幼年期の終わり」を迎えつつある、のかもしれない。
価値観や関係性がホイップしながら螺旋構造をリンクアップしていく。
案外その方が幸せで豊かなのかもな、と思った。

と書いてみるが。
観てない人には何がなんだかわからない話だろうな。

ラスト近くで主人公(冒頭のモノローグの彼)の目が落ち着き、ゆとりある豊かなまなざしに変わる。あのシーンが好きだ。

投稿者 TKM : 04:03 | コメント (1) | トラックバック

[雑記] 尾崎豊トリビュート

TSUTAYAで尾崎豊トリビュートアルバムを2枚借りる。
この2枚はレーベルゲートCDになっていてだとそのままエンコードできないのだが実はMacだとエンコードできる。

さっそく聴いてみる。
尾崎が現代になっている。
斉藤和義が歌う「闇の告白」がもの悲しくやさぐれていてなんともいえず「かぐや姫」っている感じだ。

と思っていたらなんと岡村靖幸も歌っている。
曲は「太陽の破片」。

「路上のルール」「Freeze Moon」などなど好きな曲をきいているうちにやはり本物だろうということで尾崎豊の曲を検索してiTuneで聴く。

アレンジは古いが声の持つパワーが圧倒的に違うものだな、と思った。

野知師匠は生前、尾崎が亡くなる数時間前まで飲んでいたといっていた。自分とは直接接点はないが自分の友人が尾崎と酒をくみ交わしていた、と思うと距離感がメディアの向こうの人からこちら側に近づく。

同時代に生きる人はそれが誰であれ、同じ時の流れに今を過ごしているわけで、遠いとか近いとかそういうことに意味があるのかな、と思ってしまう。

ソーシャルネットワークというサービスがこの感覚を実装できたならば世界は少しづつ変わっていくのだろうか。

++++++

どんなアーティスト、音楽が好きというのはこれといってない。
優しい歌声が好きだ。
今回聴いた2枚だと

「ドーナツショップ」

が「ああこの感じって好きだな」と思った。
それから尾崎の原曲を聴き直してみた。
尾崎の曲だと「風に歌えば」というアルバムが一番好きで。
このアルバムの尾崎の声は繊細で優しい。
強くはないがひたむきである。

他のアルバムにも入ってるけれどこのアルバムの「ダンスホール」は全然別物だ。

投稿者 TKM : 03:17 | コメント (2) | トラックバック

[エッセイ] 人生の時の時 ~ルールの外~

ゆりかもめ新橋駅の真下を自転車で通り過ぎる時にふと思った。

人生の最後の瞬間というものがあって。
人の一生はどんな最後を過ごしたいかということをつくっているようなもの。
と考えると。
そこに向かって今があるわけで。

人生の何が成功で何が失敗であるかというような議論はもう必要なく。
最後の一瞬がアートというか人というか。

日々のあれとかこれということも大事なのだが。
どこに向かってのあれやこれなのか。
実は案外、いや、全くそれが不明なままでいる、ということがほとんどなんだと思う。

意志決定ということについてずっと考え続け、実践してきて、いくつか鉄則・法則が見えつつあるのだが見えていても人としての自分は揺らいでいるから必ずしもパーフェクトな意志決定ができている、というわけではない。

それでも自分が何に迷い、何を選んでいるか、それがプラスなのかマイナスなのかあるいはそれ以外だったのか、などなどが一瞬遅れでではあってもわかるようになった。

そこで思うのは人の意識は独立して存在しているのだが環境という要因によってかなりのバイアスを受ける。マネジメントによってどうにかすることはできる。とはいえ、セルフマネジメントは驚くほどに難しい。自分で自分をマネジメントする、という当たり前といえばあたりまえのことが異常に難しいのである。

マネジメントという職業が成り立つ理由がなんとなくわかった。
マネジメントは職や技といったスキルなのである。
才能ではない。
向き不向きはあってもトレーニングで身につけることができる。

僕自身の感覚・経験的なことをメモしておくと。
僕は「夜」という時間に自分をマネジメントするのが得意だ。
人が起きている昼という時間帯は他者の介入が多すぎる。
特に東京都心では。

どこにいっても他者の影響を受ける。
店にいっても、電車にのっても、街を歩いても、他者の方がマジョリティをしめる。
ところが夜の時間帯。
12時を過ぎ。
街はその顔を変える。

シンデレラの話はよくできているなあと感心する。
12時の魔法についてあんなに上手に物語ることはできない。

街。
信号。
そうこの国は信号の国だと以前書いた。
何をするにもすぐにブレーキがかかる。
街を歩いていると数分おきに信号が歩みを止めてしまう。

何でも同じである。
何かしようとするとブレーキがかかる。
ルール、規則はみごとなくらいにモチベーションを下げる。

昼間に出歩くと人と車と信号で移動コストは最大化する。
時間と気持ちが失せていく。

ところがこれには抜け道がある。
裏道といったせこいルートではない。

ルールの外をいけばいいのだ。
夜に街を歩く。
信号は赤だろうと青だろうと関係ない。
人がいないのだから自由に往来を行ける。
人通りの少ない銀座の街を自在に駆け抜ける。
爽快である。
何も銀座だけじゃない。
渋谷でも新宿でも同じである。
夜の街は平和だ。

争いが起こるのは夜の手前か昼下がりと相場が決まっている。
夜の夜に争いは起きない。
人が眠っているので街の気が静まっている。

「やったもんがち」という言葉は好きじゃないがはずれているわけでもない。
ルールの外を歩いていると「それはルール違反だ」と言われることもあるがそれは誰かが決めたルールだ。

ルールは破る為にある、とは言わない。
しかし、ルールは絶対的なものではない。
そのルールによって生産性や創造性、豊かさが阻害されるならルールは改定されてしかるべしである。

一つ。

「何故、山手線は24時間回転していないのか?」

ここ10年来の疑問である。
金曜の夜の街は終電を逃した人々の倦怠でゆらめく。
一時間に一本でいいから電車を走らせたら、街は一晩中活気づく。

何故できない?
ここでルールの登場だ。

コストが問題だとかそれはムリだ、とかいろいろいいわけはある。
このいいわけというのも問題で思想が根本から間違っている。

問題が存在するなら

「じゃあ、どうやったらできるのか」

というスタンスで対峙しなければ豊かにはならない。
すり減るだけである。

「今月は節約しなきゃ」

という言葉を聞くと「はてな?」と思う。
無駄を省き、効率を高めるのはいい。
ウェルカムである。
しかし、発想としては

「どうやったらもっと稼げるか」

の方が楽しい、とオレは思うのだが。何故、逆に入るかというとこれらはすべて「信号」の呪縛だと思う。

だからルールの外を歩くのが現在における最大のアドヴァンテージだと僕は考える。

会社。
さっき、大通りの信号、晴海通りのところ、で止まったら。
少し、ずり落ろしたジーンズにパーカー、帽子という出で立ちの青年が電話で話していた。

「だからさ、オレはベンチャーキャピタルとかそういった…という話をしてたんだけれど面接官はその分野じゃないからっていって、で、聞かれたのが何をやりたいのって話で」

という言葉が耳に入った。就職活動の面接か。
就職をしたことがないので当然ながら面接というのもやったことがない。
なのであまりわからないのではあるが就職活動をしている人はどこかの企業に入りたい、のだと思う。そこでの目的はサラリーであり、仕事である、更にどうしても入りたい企業があると仮定する。

だったら。
と僕は思う。

であるならば就職なんてのは簡単な話でようするに希望者を選抜する理由は選抜をミスると企業側にリスクが発生する、という部分だと思う。何がリスクかといったら、でかいのは人件費のロスという部分だろう。

ならばだ。
簡単な話だ。

「給料はいらないので働かせていただけませんか」

で解決するのではないだろうか。違うのかな?
そうすれば立場的にはイーブンになる。

サラリーをもらってなければそこに主従関係は発生しない。
ハートベース。
自分のヴァリューベースのつき合いができる、というものだ。

人との関係はほぼすべてそうだと思うけれど。
ヴァリューを感じるからその人とつきあう。

友人だって友人といて心地がいい、楽しい、気持ちがいい、大切にしたい、だからつきあう。恋人もそう。その人といることに何らかのヴァリューがある。だから一緒にいる。ヴァリューがズレれば関係も薄れていく、と僕は思う。

相手が成長していて自分がそのままだったらヴァリューはズレる。

「昔は違った」

みたいな話はゴミ箱に捨てた方がいい。
今は昔じゃない。
今は今だ。
今を最大限に豊かにする、面白くする、という方向に知恵を働かせないとしぼんでいく。
豊かさベースで考えないと関係性というものは希薄になっていく。
いつでもそうできるわけじゃないけれど、セコさベースでいくと人はすり減っていきマイナスに入る。

なので愚痴は負債である。
飲んで反省会というのも負債である。
ベースを仕切直さないといけないのだ。

お酒はマイナスに入ってもプラスに入っても感覚と意識と言葉をドライブさせるから諸刃の剣だ。プラスに入っているように見えても揺れが激しいから危ない。全く、日常を分離した状態で飲むのがお酒の遊び方であろう。

そういう意味ではクブラやキャバクラでの「飲み」というのは正しい飲みの一つの形ではあると思うがパーソナライズされていないのがマイナスポイントであるな。いや、違うか通っている人はパーソナライズされているのか。

散漫になってきたが更に続けよう。

もともとは「人生の時の時」(石原慎太郎のエッセイにこういうタイトルのがあった。福田一也が評価◎だったので読んだら鮫に食われそうになる話が盛りだくさんで面白かった。ジョーズエッセイとして読むべし)について考えていたのだ。

どんな死の時をつくるか、が人の一生だと思う。
何を選んでうまくいったとかいかなかったとか、そういうのは全然関係ない。
どんな最後をつくりたいか。
その最後までにどんな時を刻みたいか。
それだけだと思う。

そんなことはいちいち考えてないよ、という人はそれはそれでよし。
オレの場合は最後から入っていきたいなと思うだけだ。

燃え尽きたいとかぬるくやりたい、とか人それぞれあっていいと思う。
自分の場合はもう子供の頃から決まっているのだが。

で、書いておきたいなと思ったのは。
その為に必要なものは

「なーんもないよ」(by 長州力@試合後のインタビュー)

ということなのだ。
人生の最後の時を迎えるのに必要なスキルはない。
誰でもその能力は持っている。
生きている人は全員、全く等しく持っている。

いまある権威やポジション、指標、それらは人以外にはおよそ関係がない。
月に住んでいて一生、地球に戻ってこないとしたら地球上での出来事にどれだけの価値があるのかは疑問だ。それは極端としてもおよそ物事はそういうものだと思うのだ。思いこんでいるだけ、というのが正しいのではないだろうか。

++++++

追伸:明日は河原でBBQである。

投稿者 TKM : 02:24 | コメント (0) | トラックバック

2004年04月10日

[雑記] 自転車野郎

二人乗り自転車で世界一周?!


世の中いろいろな人がいる。
友人の金子のように世界一周の旅をする人は多くないにしても身の回りにはいる。
自転車で世界一周という人もいるにはいるだろう。
冒険投資家ジム・ロジャースのように車やバイクで世界をまわる人もいる。

しかし...。
二人乗り自転車とは....。

投稿者 TKM : 20:10 | コメント (0) | トラックバック

2004年04月09日

[雑記] 選挙と位相空間と

外からがなり声が聞こえる。
近くではないがこちらまで聞こえてくる。
選挙の演説のようだ。

この声を聞く度に政治は終わってるという念を強める。
どの演説も似ている。
問題を声高に訴えているといえば聞こえはいいがやっているのはグチに過ぎない。
「こういうことをやりましょう」という提案が皆無なのである。
こんな面白いことがあるですけどやりませんか。
という話をききたいのだが聞こえるのは「がなり声」。

政治。
三流であるとかないとかそういうレベルの話ではない、と思う。
システムの問題、でもないと思う。
実体がこうなのだ、というのが僕の考えである。
ベースが変わらないなら実体も変わらない。

ゴミ。
街をあるけば必ずゴミが捨ててある。
空き缶、ペットボトル、食べ終えた弁当がはいったコンビニの袋。
そこら中に捨ててある。

制度を変える。
ゴミ箱を増やす。
というのはシステム側からのアプローチである。
けれど根本的な解決はもっとシンプルである。

「ゴミを捨てない」

これだけだ。
たったこれだけの簡単なこと。
しかし実行できる人は驚くほど少ない。

全ては関連している。
些細なことも大きなことも何らかの形で人が反映された現象だ。

昨日、奇妙なものをみた。
食事を終えてその店をでようとすると、背中に「イラク派兵反対」とフェルトで縫いつけられた黒い長尺のベストをきたオバサンとその集団が入店してきた。彼等は彼等の荷物を方々において陣取った。でも4人しかいない。二つのテーブルはいらないよな。4人ともひどく顔に精気がない。しぼんでいる顔である。ジョナサンの妖怪みたいだ。(築地にジョナサンに現れる妖怪のようなオバサン。土曜の深夜に入店すると必ずいる。必ずである。)この人たちをみて心底コワイと思った。佐藤愛子風にいうならこの人たちは憑かれている。
犯罪者や異常者の怖さとはことなる種類のコワサである。

映画「もののけ姫」に出てくる、

「おまえ達破滅連れてきた。生き物でも人間でもないもの連れてきた」

というセリフがよぎった。現代は微妙に原始の影が薄れているけれど人は人でどこまでのこの種のコワサ。薄ら寒い淀みや澱が無くなることはない、ということなのだろうか。

偏執狂、異常者、変な人。
それらに共通するのは自己を客観視する能力の決定的な欠落である。
故に彼等は公共性を持たない。

経済的な二極化と人間のソフト面での二極化が急速に進んでいるように見える。
そしてソフトの二極化はパラレルに進む。
だから関係性はより複雑に絡み合いもつれ合う。
分類からのアプローチだとそうなる。

が、それを超えた部分でフィーリングとしての二極化も存在し。
それは「むこう側とこちら側」といった抽象的な言い方しかできないのだが2010年頃にはこの傾向がより強まるのだろう、と思う。いろいろな位相でこれが生じた結果、総体として大きな流れができていく、という感じだろうか。

銀河のように渦まいているイメージがちらつく。

投稿者 TKM : 13:31 | コメント (0) | トラックバック

[夢] 空から降りてきた時間

昨日、久しぶりに奇妙な夢を見た。

空を見上げると飛行機が飛んでいる。
しばらくすると飛行機の数が増える。
あっという間に20機が入り乱れる。

「これって戦争だよね?」

誰かがいった。
空を埋め尽くさんばかりの飛行機が天空で火花を散らし、煙りを上げ、空を覆う。
気持ち悪いくらいの数の飛行機が空中に密集している。
ネズミ色の煙をはきだしながら飛行機が交差する。
これは現実なのだろうか。

リアリティがない。

教室で後ろを振り返ると同級生の女の子に封筒と小さな包みを渡された。

「どうしたの?」

そういって顔を上げた。
彼女と目があった。
彼女はしばらく、といっても2~3秒だが、僕を見つめていた。
心が射抜かれたようで動揺した。

「ねえ」

それだけいうのが精一杯だった。
相手と自分の鼓動が高まっていくのがわかった。

投稿者 TKM : 05:08 | コメント (0) | トラックバック

[ネット] マーク・アンドリーセンの話をきく

数年ぶりにホテルオークラに行った。
始めていったのは江藤先生との食事会の時だから10年前になる。

午後になり気温が上がりはじめたせいか神谷町の駅をでてオークラまでの坂道を上っていくと少し汗がにじんだ。

会場について受付をすませる。

「カガヤ君!」

女性に呼び止められた。
こんな場所のこんなイベントに知り合いの女性がくるはずはないのだけれど、と思ってあたりを見回すと知人の女性であった。今日のイベントのマスコミ受付を担当しているのだという。

「へー、じゃあ前田さんもいるの?」

「うん、いるよ。そのあたりにいるんじゃないかな。」

前田さんは飲み友達で数年前に独立してPR会社を立ち上げた。

「アレ!カガヤ君、何やってるの。取材?」

「いえ、一般できました」

「そうかー。そういえば君が興味を持ちそうなテーマだもんな。最近はどうしてる。また飲みいこうか。ハハハ。」

久しぶりに会った前田さんは顔色もよくノリもよく元気そうだった。
年末に蕎麦とPRIDEのチケットをいただいていらいだった。

会場に入ると予想外の人であった。
今日の講演者はマーク・アンドリーセン。
Netscapeの生みの親のひとりである。
Netscape以後の彼を全くフォローしていなかった。
いま彼が何をやっているのかこの時点で僕は知らなかった。

学生だと思っていたのにいつのまにか大人である。
遠目なので40歳くらいに見える。

しばらくして講演がはじまった。
同時通訳のレシーバーはつけなかった。

話しはじめててすぐに「うまいな」と思った。
スライドの使い方、導入での簡単なサマリー、声のトーン、ジェスチャー。
いままできいたビジネス系の講演者の中でも飛び抜けてプレゼンが上手である。
すぐに引き込まれた。

スライドには無駄な説明や文字はない。
シンプルなグラフ。
2行程度のコピー。

それを説明するわけでもなく、補足するわけでもなく、素材としてさらりと使いながらインターネットの過去から現在、そして未来への展望をわかりやすく話していく。視点はオーソドックスなのだろうけれど文句なしに面白い。上質な大学の講義のようである。

プレゼンの上手さもあるが話も面白い。
僕が気になったポイントだけメモしておく。

Wi-Fiつまりワイヤレスラン。
これによっていろいろなものが変わる。たとえばデジタルカメラはアメリカでもかなりの勢いで普及しているがそれを上回るスケールでデジタルカメラ付携帯が広まっている。

10年前は4時間しか録音できなかったMP3プレイヤーがいまは1000時間録音できる。数年後には10000時間になるだろう。そしてプレイヤー同士がネットワークコネクティドな状態になったらどうなるか。ある店舗にいったときそこでだけダウンロードできる曲があれば店を利用するインセンティブになる、という利用法もある。


ハードウェアのコストは十分の一になったが多くのマシンがネットワークコネクティドな状態にあるためセキュリティ問題が大きくなる。例えばこの3年で米国内でのアタックの数は1999年には10000件だったのが2003年には152000件まで増えている。
そんなわけでハードのコストは下がったのだがサーバ管理コストは増加している。

ユーティリティコンピューティング。
スケーラビリティをフレキシブルに提供するサービス。

といったところでさすがに眠くなったので続きは明日に…。

投稿者 TKM : 04:41 | コメント (0) | トラックバック

2004年04月06日

[雑記] 太の夢 ~高速煮魚~

オレ:どんな夢をみんのかいってみ?

太:タドコロにいちゃんがスゴイ勢いで煮魚を食ってる。はじめはカレイの煮魚を食ってる。お酒のみながら。次はアンコウの煮付けがでてきて、うちのとおちゃんが「これおいしいんだよ」といったら。「グロイですね」という。「まー、いーから食べろ」ととおちゃんがいったら。食べ始めて満面の笑みでアンコウにしゃぶりついて「うまいですね!!コレ」っていった。箸は速い。ふつうにはやいんじゃなくて、見えないくらい速い。漫画みたい。
その脇でアヤとノゾミは喧嘩している。タドコロさんは結構でてくるよ。

投稿者 TKM : 12:46 | コメント (2) | トラックバック