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2004年04月25日
[雑記] 人の核(コア)と音のない街
「KILL BILL vol.2」と「キャシャーン」を連続で見終えると外は明るくなっていた。朝である。誰もいない朝を帰る。
銀座の街から音が消えていた。
タクシーもいない。
空気の肌寒さが心地よい。
そのまま自転車で晴海通りを海の方へと帰る。
かちどき橋にさしかかるとリバーシティーとトリトンスクウェアの間の空に太陽が見えた。空が広がっていた。東京の狭い空がどこまでも広がっているように見えた。見上げると薄いブルーが天球を覆っている。
いいな、と思った。
幸せなんて簡単で些細なものだ。
空を見上げている時間は短かかったけれど幸せは心に浸透していった。
先週の土曜日は川崎にいた。
やましんと話していた。
心が穏やかになって人に優しくしたいと思った。
今朝も同じだった。
物音が消えた東京の街で空をみていると人に優しくしたいと思った。
町ゆく人々も生きてるんだな、と思った。
自分が観ている光景はここにあるけれど100年後には違う光景がこの場所に現れるのだろう。いま自分がみているモノはうつろい消えていく。時間が存在するかぎりこのルールは変わらない。
だとしたら。
と、そこで考えた。
だとしたら、何がいまで何がここで何が何なのだろう、と考えた。
昨夜の午前1時30分のことである。
人は人であり人の人的なものとは何なのか。
それを考えた。
様々な事柄に思考は影響を受ける。
機嫌がよくなったり、悪くなったり。
人に嫌悪を感じたり、焦燥に駆られたり、僻み、妬み、渇望することもある。
愛を求めるのではなく愛されることに執着する。
コミュニケーションのズレから引き起こされる様々な違和。
それらは人の感情の本質とリンクしている。
人は何故。
それを考えること。
それ以外の目的や夢は代替できる。
けれどこれだけは消すことのできない本能的な欲求だ。
キャシャーンでセフィロートが使われていた。
それが登場するとは思ってもいなかった。
セフィロートをみた時に生じた心の震え。
それは作品とは関係のない感情である。
しかし自分の最も奥底にある感覚でもある。
現象が記号化される。
或いは記号が物質化する。
言葉とはモノなのか。
これは何なのか。
昨日はじめて3G携帯を使った。
それ自体は機械であり一般化しているのだが使ってみると幾つかのイメージがフラッシュした。未来が観えた気がした。それは機械の未来という意味でもないし、先端という意味での未来でもない。人の世界の一つの方向性が感覚として広がったのである。
朝の帰り道で幸せが降ってくるイメージが見えた。
サービスや商品はビジネスという言葉で固定されるが人の世界の根本部分には人がある。
人は幸せになるためにここにいる、と自分は考える。
人は人に還る。
思考としての宗教ではなく人へと還る。
人は思考ではなく人に反応するのだ。
では人とは何か。
その人が人としてあることの根本は何なのか。
何がその人なのか。
身体なのか。
声なのか。
色なのか。
言葉なのか。
それら全体なのか。
どの時点での人が人なのか。
昨日なのか今日なのか明日なのか今なのか。
では一昨日は昨年は別な人なのか。
連続しているなら時間はどこに消えていくのか。
昨日はどうしてここにないのか。
明日もどうしてここにないのか。
人とは関係性の生物である。
ポジションと関係性がコンテクストによって意味をつくりだす。
人には核がある。
一緒に休日を過ごしたいと思えるような政治家はいるだろうか?
いないとしたら何故なのか。
最後に人に向かうなら最初から人に向かってもいいはずだ。
やり方もわからなかったし、立ち位置もわからなかった。
が、自分をつくっているものの核(コア)がどこにあるのか。
そこなのだ。
そこがポイントなのだ。
目が持つ意味を想う。
目の持つ記号性とキュービタル性。
目があれほど多くの意味を持つのにはわけがある。
目はみているが同時にみられもする。
勇気は決断と同意だ。
投稿者 TKM : 2004年04月25日 07:31
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