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2004年05月30日
[エッセイ] 9.11の真実(その1)
夕方、あまりにも眠いので眠る。
いろいろとやりたいことやら観たい映画などがありそういう時に眠くなると腹が立つ。
とはいえ眠さはやる気も何もかも奪っていく。
墜ちるように眠る。
2時間くらい眠っただろうかそういえばシャツが一枚みあたらないなあと思ってベランダにでる。ふと隣の部屋のベランダをのぞくと無くなったと思っていたシャツがしっかりと物干し竿に干してあった。
先日の風で飛んでいったのだろうか。
とはいえそれはオレのシャツ。
隣の住人はどうするつもりなのだろう。
■倒壊直前のワールドトレードセンター
消防士のドキュメントを撮影しようとしていた兄弟が偶然に撮影した9.11のビル内部からのドキュメンタリーを観る。観るまでは映像のショッキングさを売りにしたTV番組系の作品だと思っていたのだが内容は全く違った。
予想に反してしっかりとしたドキュメンタリーである。
事件の2ヶ月前から物語はスタートする。
新人消防士に密着したドキュメンタリーである。
彼を通じて消防士の日々、悦び、生活、焦燥を追う。
取材を開始して2ヶ月。
9.10の夜は取材をしている2人がフレンチディナーの夕食をつくることになったのだが肉の量が足りなくて消防士達にネタにされる。誰も翌日のことなど何も考えていない。肉の少ないディナーといつもの夜が過ぎていく。
そのままみんなで夜明かしをする。
翌、9月11日。
ローテーションが変わって昼番の隊員と交替の時間になる。
ガス漏れの通報があり、現場に向かう。
これが午前8時40分。
カメラを持った弟が隊長に同行する。
いつもと同じ、いつもと変わらないルーティンである。
探査機を路面に近づけチェックする。
と、その時。
飛行機の音が大きく響いてくるのに気づいた。
空を見上げると飛行機がビルに向かって吸い込まれていく。
隊長はあぜんとした表情である。
轟音とともにビルの上部が炎上しはじめる。
何が起こったのか詳細は誰もわからない。
隊長と消防士達はとにかく現場に向かう。
消防士の本能であろう。
現場はすぐそこである。
しかし、ワールドトレードセンターまでの2分は永遠にさえ思えたと隊長は回想する。
その時は自分たちでなんとかできる、厄介だが何とかなる、そう思っていた。
現場に到着すると隊長は装備を調えビルのロビーに入る。
「撮影していいか?」
そう訪ねると
「私から離れるな」
隊長が答える。
この一言をまだ覚えている。
ビルに入ると絶叫が聞こえた。
炎に包まれた人間が二人そこに転がっていた。
時折、物がぶつかる衝撃音が聞こえる。
上階からの人が墜ちてきているのである。
投稿者 TKM : 04:14 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月29日
[情報社会論] アムロ感覚とシンクロニシティ
■アムロ観を体験する
シンクロニシティという言葉を聞いたことがあるだろうか。
定義はこうなっているがもっと簡単に「え、何で?」が偶然に起こること、として話を進めたい。最近起こったシンクロ現象をいくつか紹介したい。
2週間前の日曜日。
しんのすけ亭でダッヂオーブンパーティが開かれることになった。
集合時間は午前11時。
いつもならば大江戸線を使うのだが何故か月島から乗って永田町で乗り換えることにした。永田町について有楽町線から半蔵門線ホームへ向かう。構内にシュークリームの店がある。買っていこうかなと思ったが時間が押していたのとヒロタのシュークリームはいまいちという印象があったでやめることにした。以前、TVチャンピオンでシュークリーム・プリン決戦の審査員をやったし、あながち外れてはいないと思う。
この時点で予想不可能性が二つ介入している。
・有楽町線
・シュークリームを買わなかったこと。(ヒロタでなかったら時間が押していてもそこでおみやげを買っていたと思う)
ホームについて電車を待つ。
水を飲みたいなと思ったので中央付近にある水飲み場までいく。
ゴクゴクゴクと水を飲む。
冷えてはいるが東京の水の味である。
そんなことを考えながら周りを見渡す。
日曜なので人は少ない。
外国人の男性(欧米系)がエッサエッサという感じで歩いていく。
つられたわけではないが30mほど渋谷寄りに移動した。
「まもなく電車が来ます」というアナウンスが流れた。
何も考えていなかったのだが更に15mほど移動した。
こちらに向かってくる電車の窓を観ていた。
スーっと流れていく車内の風景。
段々とスローになり、目の前で止まりそうになる。
ボーっとしていたら、見慣れた黒Tシャツの男の姿が見えたような気がした。
ガンダムでアムロが敵を関知するときに画面が斜めに分断され頭の左斜めの方で「ムムッ」と感じるシーンがある。
黒Tの男を認識する直前、アムロのあれに似た感覚にとらわれた。
「なんなんだコレは?!」
不可思議とも悦びともとれる感覚で車内に乗り込み、
「先生、どういうことこれ?!」
と声をかける。
皆さんご存じのやまけんがそこにはいた。
■気づくまではそこに現象がない
二人とも全く打ち合わせ無しである。
同じ電車に乗ることを打ち合わせていたとして、乗る車両の打ち合わせをしておかなければ、乗車しようとしている車両に二人が乗り合わせる確率はかなり低くなる。
確率論の向こうとこちらで認識が勝手に不思議感覚をつくりだしているだけ、という言い方もできる。しかし、僕が言いたいのはそういう理屈ではない。あの感覚は単純に「面白い」のだ。
現象としてただの偶然だろうと何らかの関連性の結果だろうとそんなことはどうでもいい。自分にとって大切なのはそれが「面白い」か「面白くない」かである。僕がこうした感覚や現象に興味を持つのはそれが「面白い」からである。僕が何かを「面白い」と思う時そこには僕にとっては意味のある情報がある。
地下鉄でのシンクロニシティだが、仮に僕とやまけんはその車両に乗りあわせていて、そしてお互いそれに気がつかなかったとしたらどうだろう。現象としてはこちらも面白い。物理的な出来事としてはすぐそこにあるのに、僕かやまけんがお互いの存在に気がつかないかぎり、シンクロニシティという現象はそこには存在しないのである。
■リアルインターネット
以前、清田さんと話していた時に彼がこんなことを言っていた。
「オレさ、思うんだけれど。世界ってのは段々、リアルインターネットになっていくんじゃないかと思うんだよね。インターネットみたいに、あ、と思った時に会うべき人とあっちゃうみたいなコトが普通になっていく。だから待ち合わせとかいらないわけよもう。会っちゃうんだから。」
やまけんとの地下鉄での邂逅はここで清田さん言っている「リアルインターネット感覚」と同じだ。
もう少し解説を加えると「気がつく」かどうかがポイントなのだ。
気づかない限りそこに現象は生じない。見ること、気づくこと、自分の側に現象に意味を作り出すコンテクストがあること、そこで初めて現象がたちあらわれる。だからリアルインターネット感覚というのはある種の認知力であり、感覚の発展系だと思う。
世界のトップアスリート達は僕たちには感知できないくらい微妙な差を認識し行動にフィードバックする。音楽家も微細な音の違いを聞き分ける。レーサーは超高速で移動しながら風景がスローモーションに見えるという。こうした能力は感覚器が発達しているのではなく入ってきた情報を処理する過程の違いなのだと思う。
リアルインターネット感覚とはおそらくこの感覚と近い。
これは僕の印象でしかないが「偶然の一致」を認識した瞬間に生じる感覚は時間感覚のズレみたいなものでそれは「面白さ」の一つのカタチなのだと思う。
「オヤ?!」という感覚の面白さがあって出来事を一つだけみるとそれ自体はたいしたことじゃないんだけれどある特定のコンテクストに照らすと関係性が「オヤ!?」を引き起こす。このコンテクスト力というのがポイントなんじゃないかと僕は思うのだ。
■情報社会の未来
「行くべき人に行くべき情報が伝わる世界」
これが僕のテーマである。
ネットワークも技術もシステムも環境もここに向かって発展していくべきだと僕は考えている。
情報は情報自体に意味があるのではなく情報と自分との関係性、コンテクストによって意味を変容させる存在である。
「行くべき人に行くべき情報が伝わる世界」とはモノや人や情報なんかと自分との間にベストの関係性というものを見つけて、そして、歪みをなおしていくみたいなことの延長にあるんじゃないかなと思う。
■何故「カガヤン」?!
追加でもう一つ最近起こったシンクロ現象を。
先日のlivedoor社長Blogへの「食い倒れ」進出以降、エントリーへの堀江さんのコメントもチェックすることにした。すると
というコメントがあった。
知らないサイトなのでチェックすると地図情報をベースにしたマーケティングサイトであった。コピーは「世界中の写真が集まるサイト」となっている。面白いので、じゃあ、アジアでもみるか、とクリックした。
アジアの地図に切り替わったのでなんとなしにフィリピンをクリックする。
セブ島の下のあたりにリンクを示す赤いポイントがあったのでクリックして絶句した。
表示されたのは、
「カガヤン」
という地名であった。
あり得ないだろう、コレ。
何故オレの名前の地名が????
かなり首をかしげる。
地名や画面に特別な意味はない。
しかしこのタイミングでしかも自分にこういうカタチで情報がホイっと表示されるとこれが何故か意味もなく面白いのである。
他の人が僕と同じようにリンクを辿ったとしても僕が感じるような面白さを感じることはできない。カガヤという名前を持つ自分が上記のようにリンクを辿らないかぎりこの面白さはあり得ない。しかも、一番最初にアクセスした時というタイミングの特異性もある。
これはコンテンツのあるべき一つのカタチだと思うのだ。
それが最も効果を発揮する、面白さを最大化させる、コンテクストとタイミングというものが情報にはある。(よくあるたとえだけれど自分の子供が描いてくれた絵は親にとっては最高の絵だけれど、親以外の人にとってはどうでもいい落書きだったりする)
僕が興味を持つのはここなのである。
それが最も価値を最大化させるタイミングとコンテクスト。
これを作り出す、あるいは見つけ出す、ということが情報の一つのコアというかカタチであり、力だと思うのだ。情報を情報化する情報、といったらいいのかな。ここに僕は注目する。
恋愛も同じフレームでみることができるような気がしていて。
例えば自分が惚れている人は自分にとっては夜も眠れないくらいに重要な存在となりうるが、まちゆく人にとっては全く違う意味を持つ或いは何の意味も持たない。ここでも問題の根本は存在同士の関係性であり、固有の関係性によって人の価値や意味は変化する。
しかし、そうだとして、
「で、だからなんなの?どう役に立つの?」
という疑問もあるわけで、それついてはこれから少しづつ考察していきたい。
■関連資料

機動戦士ガンダム I 特別版 【劇場版】

機動戦士ガンダム II 哀・戦士編 / 特別版 【劇場版】

機動戦士ガンダム III めぐりあい宇宙編 / 特別版 【劇場版】

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

機動戦士Zガンダム Part I ― メモリアルボックス版

機動戦士Zガンダム Part II ― メモリアルボックス版

機動戦士Zガンダム Part III ― メモリアルボックス版
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2004年05月28日
[雑記] 久々に雑記・雑記・雑記
■雑記開始
ここ数回、勝手にテキストの練習をやっていたが今日は少し休憩して普通に書いてみよう。普通に書くとどうなるかというと何も考えずに書くことになり、かなり楽であり、意味もなく、誰にわかりやすく書く必要もなく、読む必要もないわけなのでこのテキストは読む必要がない。
夜中に退職する父に手紙を書いて京橋の郵便局(24時間やってる)で出すつもりがあっさり忘れて帰ってきてしまった。そもそも何故、午前1時に虎ノ門だったのか。
スターウォーズ展は予想を遙かに超え充実の時間を過ごせた。
しかし自分が観ていたのは単体の展示物ではなくスターウォーズという言葉の向こう側に広がる何かであったように思う。
一言だけ感想をいうと「モノ力」はすごいという一語に尽きる。
詳細はあとで書くとしてこれだけはメモっておきたい。
虎ノ門からの帰り道、午前6時過ぎだが、スターウォーズは映画としては全く面白くない。しかしそれは映画という視点で考えるからそうなるわけで、たった数百分の映像が産業として成り立っていると考えると別な印象を受ける。エジプトのピラミッドが建てられてから随分経つのにいまだにエジプトに利益を生み続けているのと同じ、というか、グラハムハンコックや不思議主義者がいうようなトランス近代社会で神秘主義的な意味付けよりいっちゃあなんだがただの墓がいつまでも利益を産んでいるというそのことがすごいことだと思う。ピラミッドが地球の龍脈やら宇宙的な意味を持ってるかもとかそんなことよりもあれが観光資源としてエジプトの人々の役に立っているというその部分の方がよっぽどアメージングだ。
■スターウォーズは実体のない情報
スターウォーズもいってみれば現物のない映像の帯なわけでそれが産業規模にまで発展しそうな価値を持っているという事実がすごい。スターウォーズという世界観や概念は実体のない映像情報でそれ自体は食ったり飲んだり、気持ちよくなったり、叩いたり、伸ばしたりできるわけではない。
世界というのはある程度、満ち足りてくるといきなり価値がシフトして情報に向かっていく。これはもう鉄則みたいなもので、現物が足りると次は必ず情報価値に向かう。「食い倒れ」にしたって同じだ。うまいまずいは食が足りてのこと。食が足りなければうまいもまずいもない。喉がカラカラならどんな食い物よりも水のほうがうまい。ようは「食い倒れ」も情報価値というわけだ。
あと思うんだけれどうまい店は理解できる。問題はだ、まずい店があることだ。まずいものでも食べる人がいるからどんなにマズイ店でも成立しているわけだが。じゃあ、明日からいきなり全員が「マズいものはやめます」と宣言したらどのくらいの店が消えるのだろう。と、オレがいいたいのは問題の本質はうまいものを知っているとか食っているということじゃなくて、マズイものが何でそこに存在できているのかというそこがポイントだろうと思うわけだ。ウマイマズイにも市場経済が機能するならマズいものは消えてしかるべきじゃないのか?
市場経済ってのは情報がフラットに存在していてはじめて機能するけれど、そもそもの情報が偏向していたら機能するはずがない。で、問題は情報が偏向しているということだ。
せっかくなんで更にメモしておこう。
近代社会と経済についてちょっとだけ勉強していたら社会というのはガラガラガラガラといつも天変地異ばりの変化をしているのだなあと思った。
■インフレで債務超過が消える
国が債務超過になる→通過を切り下げる→インフレになる→債務が消える→新通貨を発行して旧通貨を廃しする→お国双六のふりだしに戻る
というサイクルを繰り返している。江戸時代、いや室町の頃から日本はこれを繰り返している。徳政令なんてバンバンやっている。年に13回もやった頃もある。江戸時代にも「相対済まし令」なんてのを発令していきなり民事不介入である。
その頃には公事士という民間の弁護士みたいなのが金銭問題の公事を代理していたというのだから驚きである。現代とは比べモノにならない法律社会である。
外貨貯金や外国株取引なども知れば知るほどにアホくさくなる。日本の金融機関を通じてんなことやっても結局、最後は全部円換算なわけで為替リスクを考えたら半分サル仕事である。現地で口座もって、現地の通貨で現地で使わない限りやる必要はない。
金融知識、マネーリテラシーは最低限必要だとは思う。
けれどそれは手段であって目的ではない。
そもそも日本のお金システムの基盤がどこにあるのかを考えると現在、日本円を支えているのは何らかのモノではない。製造力とか生産力である。お金はそれが何か他のものに裏打ちされているから価値を持つわけで戦後はそれがずっと土地だったわけだ。で、それがいまは製造力、生産力に変わって、いや変えられたのだけれど、それが円のバックボーンになっている。
しかし、だんだんと金融寡頭支配が台頭してきているのでこれもあやうい。
製造力、生産力が外国にガンガン買われていく。
そしたら円はどうやって価値をキープをすればいいのか。
心とかいったって、心もすでに空前の灯火というのが実情だと思う。
■消えた笑顔
今朝だって、築地を通ったときに外国人のおばさんは笑顔でさっと道をあけてくれたけれど、日本人の観光客なんて「農協月へいく」(筒井康隆)そのままだし、まー、なんでかしらないがとにかくみんなつまらなそうな顔をしているのは何故だろう?
具体的にそれで頭が痛くなったり足が痛くなったりするわけじゃないから、問題としては後回しになっているけれど、笑えない人々の大量生産はヤバイだろう。
スターウォーズとは関係ない話になってしまったがもう一点だけメモ。
個人と社会を同一視すると流れを間違える。
個人が流れをつくろうとしてもそれは無理。
流れはそもそもがそこにあって、何かをつくろうとしてそこにできるわけじゃない。
アメリカが云々とかいろいろ言うけれど国といったところで実体があるわけじゃない。
個人は国とは別ものだし「国家百年の計」といった寝言は45年後の年金を期待してるのと同じ。100年の計でインターネットがつくれるかっての。ビル・ゲイツですら「2年先は全くわからないって」いってるところに100年の計もねえだろう、と思う。んなもんはつくろうと思ってつくれるもんじゃない。
国家存続とか繁栄とかいってる間に「なーんもないよ」(by 長州力)だ。
そういう理論が、いや、理論ですらないが、もう全然ズレまくっているのだ。
■そして世界
年金問題といったところで結局解決法は皆無。
どうあがいてもネズミ講よろしく永久に加入者が増加していかなければ存続不可能な制度が成立しつづける道理はない。全盛期のクオォンタムファンドなみの運用成績で驀進しない限り(つまりありえない)崩壊は必至。徳政令をかまさないとしても、切り下げ→インフレ→債務帳消し、とかするしかない。
と、悲観的なことばかり書いてもしかたないのだが、というか、何が起こっても社会的な依存なしに生きている自分にはほとんど影響はないのだが。そもそもこういうことを書いても何も意味はない。流れはでかすぎてもうかわるのかわらないのというレベルの問題ではない。
国システムとか国際関係とかそういうったものがいまのままありつづけるということもないわけで。そうそう、さっきふと思ったんだけれど、ネットワークとか情報社会とかWebサービスとかそういったものは日本で成功しているやつは大体が日本語のサービスで日本語という壁のこっち側にいて、そこで勝った負けたとやっているけれど、仮に30年後はみんな英語が日本語並みにできるとしたら、そしたらどっちを使うのだろう。
言語がどっちでもよくてとなったら日本のサービスを使う必要はなくなるよなあ、などなど。更に一つの国に住む、というそのスタイルってまだ続くのだろうか。全世界をカバーする社会保障制度を持つ新国家あるいはサービスがバーンと出てきて、そこに登録(税金も払うか)だけすると医療と個人の照会やらパスポートや免許なんかが保証され、となったらあとは好き勝手に住みたいところに住む、と思うのはオレだけだろうか。
あとはエネルギー問題が解決すればこれだって絵空事じゃないと思うのだが。
投稿者 TKM : 08:30 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月27日
[雑記] スターウォーズ展
これからスターウォーズ展にいくことにした。
金子にすすめられていたのだがまだいっていなかった。
閃きは即実行が効果的。
詳細は後ほど。
■関連資料

スター・ウォーズ トリロジー DVD-BOX
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[読むテレビ] イチローx北野武・キャッチボール~9人のイチローと泳ぎが上手な魚の話
■9人のイチロー
「オイラ、よく考えるのはさ。野球で9人、同じ選手だったら一番誰が強いだろうって。」
昨日観たBS-iの番組の冒頭の一言である。
北野武さんはさらりといっていたが僕は随分とショックを受けた。
野球という競技を上記のような仮定で考えたことはこれまでなかった。
人はひとりひとりが個性を持っている。
野球もそれぞれの個性を活かしたチームが強いという前提で観ていた。。
しかし、全員が同じ人間で野球チームをつくりプレイしたら…。
「長嶋さんさんは強いけど3位くらいだと思うんだよな。オレの中ではイチローさんが一番強い。」
「ボクはピッチャーもできますからね。」
二人の対話はこんな風に進んでいくのだが僕は上記の言葉をきいてからしばらく9人のイチローがプレーするチームと9人の長嶋さんがプレーするチームの対戦のイメージが頭から抜けなかった。
笑うというよりもどうなるのかがイメージできないのだ。
長嶋さんの方は全員が全員、思いっきり走っていってファインプレーするか大ポカしているんだろうし、イチロー側は全員がそつなく振る舞っている。どちらが面白いかといったら観ている分には長嶋チームの方が面白そうだが、その面白さは長嶋チームだけで成り立っているのではなく、イチローチームと対戦しているというコンテクストによって成立している面白さである。
■面白さの秘密
面白さは単独では存在しているわけではなく何らかの関係性の上に成り立っている。
上手な物まねはお腹が痛くなるくらいにおかしい。
それならば本物が登場したらさぞかし面白いはずだ。
ところがいざ本物が登場しても少しも面白くない。
物まねの面白さとは本物から特徴的な一部分を取り出すことで成り立つ面白さである。
そこで重要なのはどこを取り出すかという部分でそれはその人を最も特徴づけているポイントでもある。
ここに表現の本質があると僕は考える。
つまり表現とは削ることなのである。
世界は言葉によって分節されることでその姿をあらわす。
言語以前の世界に切れ目は存在しない。
虚無の無ではないがのっぺらぼうの無である。
それを分節すること。
無を有に変えること。
それが表現の根本にはある。
地と図の関係関係である。
■マイナスのないプラスは存在しない
削ることは必ずしもマイナスではない。
削ることによって明らかになる形があり。
形がそこに形として存在するには形を取り囲む無の存在がなければならない。
人の生成も同様のプロセスを経る。
人の指は塊から生えてくるのではない。
塊から細胞が消滅することで指の形状ができあがっていく。
これは興味深い現象である。
同じように人が個性を発揮するのは個性が伸びていくのではなく別な部分が後退することである部分が突出しているように見える、というのが正しい。
イチロー選手の場合も非常に器用な選手という印象が強いが逆を返せばエンターテイメント性には欠ける。激しい感情表現があるわけではない。(本人の弁によれば内面は違うそうである)。逆に長嶋選手の場合はエンターテイメント性が突出しているように見えるがその行動指針を言語化、理論化するという面ではイチロー選手には及ばない。
だから二人のチームが対戦した場合はそれぞれの特性がより強く印象づけられることになる。
■原因があるから治せる
「大リーグでは自分の形を持っていないとつぶれますね。」
イチロー選手は大リーグでプレーするまでに徹底的に自分の形をつくることを目標にしたそうである。
自分の形があれば何かがうまくいかないとき、それが何故うまくいっていないのかその原因を形を手がかりに探すことができる。しかし、自分の形がないと何が原因なのかを知ることはできない。
原因がわからないとどんな名医でも病気を治せないのと同様である。だからまず自分の形、自分の野球の理論というもののつくりこみを行ったのだそうだ。
これは野球に限らずビジネスや学問、何をやる上でもあてはまる方法論ではないだろうか。いったい今、自分はどこにいるのか。何をやっていてどこに向かっているのか。それがわかれば方法は自ずと明らかになる。
ロールプレイングゲームをやったことがある人ならわかると思うがダンジョンに迷い込むとそこから出るまでにかなりの時間を必要とする。その最大の理由は現在位置を知ることができないから当てずっぽうで迷路を進むことしかできないからである。
ところが自分の位置を示すコンパスというアイテムを入手するとそれまで四苦八苦していたダンジョンの攻略が驚くほど簡単になる。
これと同じで実際の生活でも自分の立ち位置がわかれば次に何をすればいいのかを知ることはそう難しくない。何をやっていいのかわからず、結局何もせずにいてしまうのは自分の立ち位置がわからないからであり、それが迷いの最大の原因なのである。
■一つの瞬間に二つの脳で考える
「イチローさんなんかの場合はさ、一つの瞬間に二つの脳で考えてるんじゃないかと思うんだ。打ってる自分とそれを向こうから見てる自分と。オレなんか漫才やってる頃さ、ガーっと受けるとそれはそれでウケターっていう自分があるんだけど。頭のこっちの方ではあ、いまウケタな。じゃ、ここでこのギャグかましてやればガっとはまるな。とかさ。同時に二つの自分がいるんだよね。」
同時に二つの自分で考える。
まさかキュービタルの概念が登場するとは思っていなかっただけに驚いた。或いはこの世界の構成がそもそもキュービタル的なのだから当然と言えば当然ともいえるのだが。キュービタルとは「量子的」という意味の造語である。名付けたのは石井威望先生である。
世界とはここからはじまって向こうに進んでいくという唯一一本の矢、シングルリアリティではなく、何本もの矢が平行に並んでおり、それらは確かにそこにあるのだけれど、見ようとするまではその姿が見えないパラレルなリアリティによって構成されている、という考え方である。
上記の例で言えば打席で打っているイチロー選手はそこにいて自らもそこから見ている。しかし、同時に同じ姿をスタンドから見た場合は全く違う自分の姿があり、その視点は確かにそこに存在している。仮にスタンドからの視点・映像をダイレクトに投影できる眼鏡サイズのメッドマウンディドディスプレイを装着して打席に立った場合、立っている自分の視点とそれを遠くから見ている自分の視点が共存する。その場合、パラレルに存在する二つの視点を同時に体験していることになり、主観と客観が混在するため情報のもつれが生じる。
トップアスリートやトッププレイヤー達はこのもつれを意識的につくりだす能力を有していて、その感覚がフィードバックされることで極限のプレーが可能となるのではないだろうか。
作家が作品を書く時にも同じような意識的にパラレルリアリティを顕在化させフィードバック作業を行ってるように思う。
書くという行為の時点で書かれた部分より先のテキストはまだ完成していない。
しかし、テキストを書く時、書いているテキストの先にあるまだ存在しないテキストの存在がいま書いているテキストへ影響を与えている、という感じがするのである。
まだ理論化されていないがこの感覚の理論化が進めば、今後様々な分野で応用され、個人のパフォーマンスを最大化する一つの方法として確立されるのではないかと思う。
これは僕の個人的な推測だがコンピュータやネットワークというインフラもそこに向かって発展しているような気がする。Blogもいってみれば一つの事象に対する複数の視点の共有をプリミティブなレベルで実現している事例ではないだろうか。
※陽明学でいう「知行合一」もキュービタル感覚と似ている。考えている自分と考えていない自分がパラレルに存在している。
■泳ぎが上手な魚はいない
「天才って言われ方をよくするんですけれど僕は自分が野球の天才だと思ったことは一度もないんですよ。」
「それはあれだね、誰も魚に泳ぎが上手だねっては言わないじゃない。それを人間がやってるからさ上手だとか下手があるわけで。だからその商売の魚にならなきゃダメだよね。」
なるほどうまいことを言うなあと思った。
やまけんの「食い倒れ」にしても僕らが見るから「あれだけ食ってよくまだ食えるよな。しかも毎日だもんな。すごい。」となるけれど食べている当人はいたって普通である。いつも食べるのが楽しくて仕方がない様子だ。僕だったらあそこまでいったら仕事になるけれどやまけんにとってはあれが当然なのだ。つまりやまけんは「食い倒れの魚」になっているわけだ。
それを考えると自分は何の魚になっているのだろうか。
つい最近までは「自分はこれがやりたい」という目標もなかった。
最近というよりもここ10年くらい具体的にやりたいことなど何もなかった。
自分は何が好きなのか。
上手い下手にかかわらず何をしたいのか。
全くわからずにいたけれど実はずっと以前からわかっていたようにも思う。
■自分は何の魚だろうか
僕がやりたいことはつきつめていくと一つだけである。
僕は「考察」したいのである。
もっと大きくいうと「知りたい」という想いが行動の根本にある。
感じることも大切だし、実際にやってみることも大切だ。
人と話すことも大切だし、楽しく生きることも大切だ。
しかし、何の為にそれをするかといったら僕の場合は「考察」するために他の全てがある。いいか悪いかはわからない。わからないけれど、僕にとってあらゆるものは「考察」の対象なのだ。何かに集中うしていて、それ以外のことは全て頭から消しとんでいる時でも同時にその状態が考察の対象なのである。あらゆる物事のあらゆる瞬間が考察の対象として存在し、それを言葉にしていく時間がすきなのである。
考察者という職業はまだないけれどスキルとしての考察力は生きる上で有効だと想う。
例えば感情の暴走というのがあって、感情が高まるとその感情によって行動してしまうことがある。感情が行動のトリガーとなるのである。時として感情を原動力とした行動は思いもよらないパワーを生み出す。しかし多くの場合、感情による行動は感情が強ければ強いほどその反動も強い。
だから感情の高まりによる行動を上手に活用するには「一つの瞬間に二つの脳で考える」必要がある。そうしないと反動によって行動が平均化されてしまうのである。
そしてその為のツールが「考察力」だと僕は考える。
考察は脱構築のプロセスである。
ある行動や現象、感情をそれらの渦中にいながら同時に別な視点で捉える技術である。
これができるようになると偏見がなくなり、自分の位置がより正確に把握できるようになる。そして自分は何者なのか、どんな人間なのか、が少しづつわかってくる。それがわかってくるから、自分はこれからどうしたいのか、どこに行きたいのか、何をしたいのか、も明確になっていく。と同時に、自分を取り巻く大きな流れの存在にも気づく。
次は自分が流れのどこにいるのかを考察していく。
考察の伴わない行動から自分の位置をわりだすことは出来ない。
それは永遠に迷い続けることを意味する。
人生が永遠ならば偶然を待つこともできるが人生の時間は有限である。
その時間の中で自分が何者なのかを知らずに生きることは方位磁石や航海法を持たずに海を旅することに等しい。
確かに生まれそして死んでいくという道の最初と最後は決まっている。
何もしなくても何をやっても最初と最後は誰しも同じである。
映画も小説も旅もはじまりがあって終わりがある。
どんな映画を観るか、あるいは出るかは個人の自由だがどうせならば僕は面白い映画を観たいし出たい、と思う。
そのためには自分がどこにいるのかまずはそれを知ることからはじめよう、というのが僕の考えである。
「イチローx北野武」の対談から随分話題が膨らんでしまったが二人の対談にはそのくらいインスパイアされる要素が詰まっていたし、話を聞いていたら元気が出た。
最後に気がついたことだがイチロー選手はとても綺麗な言葉を使う人だった。
イチロー選手に限らずトップアスリートはみんな使っている言葉が違うように感じる。
言葉が人をつくるのか人が言葉をつくるのか。
興味深いポイントだと思った。
◆参考図書・DVD

イチロー×北野武 キャッチボール(DVD)
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2004年05月26日
[食い倒れオフとやまけんの意味論] (その1)まずは前哨戦、マジックはやまけんだけに起こったわけではなかった
■食い倒れオフ(その1) 前哨戦/ジョッキがグラスに変わること~それは錬金術ならぬ錬酒術
先週、私の人生の師であるやまけんが主催するHP「食い倒れ日記」のオフ会が開催された。幹事を頼まれていたのではやめに会場に向かった。
新宿駅につくともうひとりの師(こちらは酒の師匠)であるバシ師匠から連絡がはいった。すでに笹塚に到着しているとのこと。この日バシ師匠は7時に到着の予定であり、6時には幹事の僕とやまけんの二人が無二路に向かっている予定であった。ところが何故かバシ師匠は6時に笹塚についていた。受付が一人ではきついなあと思っていたところに電話があったので
「バシ師匠、これも何かの縁です。できれば受付を手伝ってもらえませんか。確か駅をでてすぐのところに本屋があるのでそのあたりで待っていてください。」
「あー、いいよー。じゃ、笹塚でまってます。」
さすがアニキ、バシ師匠。
一分の迷いも感じさせずに快諾であった。
バシ師匠はゲストである。
今日のオフ会には決して安くはない会費を払っての参加である。
お手伝いをお願いしていいものかと一瞬考えた。
しかしバシ師匠の声はそれを受け入れ許容しなおかつ楽しむであろう心の豊かさを感じさせた。
これこそがバシ師匠が師たる所以である。
笹塚についてすぐにバシ師匠に電話をした。
「あ、加賀谷くん、いまね。出たところの脇にあるバーキタザワにいるから。」
いつもの師匠とは異なり妙に落ち着きのあるさわやかボイスが飛び込んできた。
何故か妙にはまっている。
納得がいかない。
あのムンムンパワーの師匠が何故に「さわやか」。
そして何故に「バーキタザワ」?。
予想は的中であった。
さすが我が師。
いきなりジョッキで銀河高原ビールをあおっている。
入り口からちょっと入ったテーブルにバシ師匠は座っていた。
満面の笑みである。
やまけんが到着するまであと10分強はある。
僕もグラスで一杯だけつきあうことにした。
やまけんのページでは「食い倒れオフのマジック」について触れられているが実は裏方の僕たちにも様々なマジックはおこっていた。
店の女性がビールを運んできた。
ところが何を間違えたのか彼女はジョッキでビールを持ってきた。
「あれグラスって言わなかったっけ?」
と言ってはみたが「覆水盆に返らず」あらため「生ビール、サーバに返らず」である。
バシ師匠は間違えて運ばれてきたジョッキをみてうなずく。
当然、満面の笑みである。
「加賀谷君、いーんだよ。」
語らずとも師の表情はそう語っていた。
今は無き、もうひとりの酒の師匠(本当は文学の師匠なのだが)江藤淳先生の教えに従いここは気持ちよくいただくことにした。(江藤先生の教えはシンプルだった「もらったものはうけとりなさい」。そして今朝は我が人生の指針たる一言も記さなければいけないだろう。「加賀谷君、とりあえず生き残れ」それが師の最後の教えであった)
予定ではもう店に向かっているはずの時間である。
ところがこれも偶然なのだがやまけんが10分くらい遅れるとのことである。
いま振り返れば会がはじまるまでのわずかな時間に凝縮されたいくつかの偶然がその後の運命を決定づけたのかもしれない。
カオス理論が示すように非線形力学においては初期の微細な差異が時間を経るにしたがって現象全体に多大な影響を与える。我々が暮らす世界とは相互依存の網の目で出来ていてあらゆるものは単独では存在できない。香港に舞う一羽の蝶の羽ばたきがめぐりめぐって台風を引き起こすように。
そしてこれからはじまるマジックもグラスで注文したはずの一杯のビールがジョッキに変わったことが原因で引き起こされた奇跡なのである。
「酒の席にノーはない」を信条とするバシ師匠が2敗目のジョッキを飲み干しグラスをテーブルにおいたその時、やまけんから
「はいエブリワン。笹塚つきました。」
と連絡があった。
軽妙とも神妙ともとれる食い倒れヴォイスであった。
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2004年05月25日
[情報社会論] Google社のBlog利用法にみる情報社会の未来
■Blogツール以前と以後
MovableTypeやココログ、はてなダイヤリーなどのASPの登場によって個人ホームページの運営の仕方は随分変わったように思う。Blogツール(CMS)が登場する前はHPを更新するにはDreamweaverやホームページビルダーなどのホームページエディタを用いるか直接HTMLを書いてFTPツールでファイルをアップロードしなければならなかった。
Blogツールの登場によってホームページの更新はかなり簡単になり、HTML作成の手間から解放されたことでよりコンテンツ作成へ注力することができるようになった。
僕もMT(MovableType)を使用しているがMTが登場するまではフリーのCGIを加工したBlogツールを使っていた。MTほど強力な機能は備わっていなかったがそれでも書いたテキストをページングしてHTML化することはできたので「テキストを書く」ということに注力することはできていたと思う。
そんなわけで以前から書くことに注力できるツールを使っていたのだがMTの導入によってインターフェイスが整備されシステムが強力になった分、それ以前に比べるとより簡単な作業でより綺麗なページが生成されるようになったし、更新の手間も減った。
しかしテキストの作成の仕方は随分変わってきたようにも感じている。
それにテキスト自体をつくる手間は増えているように感じる。
というのは以前は本当に「テキスト」を書くだけだったのが最近は書いているうちにそのテキストが他のテキストと何らかの関係性を持っている気がしてきて、
・他の記事
・他のBlog
・ネット上のなんらかの情報
などの他の情報とのつながり、関係性をリンクとして示しておかなければ、という気分になってしまうのだ。
MT以前にはそれらを表記したりリンクをまとめるという作業をすることはまれだったのにいまは自然と関連性のある情報を探してリンクしてしまう。
これはBlogというメディアの持つ特性の為なのだろうか。
■Blogはパブリッシングツールではない
昨年、マスダさんにお会いした時にGoogle社でのナレッジマネジメントについてのお話を伺った。マスダさんによるとGoogle社では社員全員がBlogサイトを持ち、独自のRSSリーダによって情報を共有しているのだそうだ。
個人の情報とパブリックな情報がBlogツールをつかって発信されRSSリーダによってそれらがフィルタリングされリアルタイムに情報共有がなされる。その話をきいたとき電子メールとHPが融合され発展したような印象を受けた。
その頃、僕はWikiというCMSツールに情報パッドとしての未来をみていたのだが同時に情報エディタとして考えた時にWikiには決定的にかけるものがある、ということをおぼろげに感じた。
Wikiはその自由度ゆえにコンテンツをひねり出す強制力がかけている。
情報をはりつけるメモパッド、あるいは雑記帳としての秀逸さが逆に情報を「引き出す」機能を低下させてしまっているのである。
情報を引き出すにはある種の拘束条件が必要である。
書籍は紙面という物理的な拘束を持つ。
それ故に一冊の本に何らかのテーマを固定せざる得ない。
しかし固定されたテーマは全体の拘束条件として働くため情報を効率的に集約し発信することが可能となる。
情報を引き出すとは無制限に情報を取り入れることではない。
逆説的だが情報とつきあう基本は余分な情報を捨てることである。
MTなどのBlogツールはこうした拘束性をつくりやすい。
それは何故か?
僕はBlogの持つアーカイブ性がその理由だと考える。
Blogという文脈ではアーカイブされた過去のエントリーが拘束条件として働きそのBlogにテーマを与えている。ここがBlogの面白さであり、最大のネックでもある。いまのBlogツールでは一つのBlogサイトで二つ以上のトーンをつくりだそうとするとツール側、つまりアーカイブの構造がパラレルな価値観を許容するつくりになっていないため利用者側に過大な負荷が生じざるえない。これがBlogをつかったコンテンツづくりが難しい所以である。
※僕はここにパブリッシングツールとしてのBlogの限界点を感じる。
■Google社でのBlogの使われ方にみる情報社会の未来
話をGoogle社の事例に戻そう。
Google社ではBlogとRSSリーダを用いてBlogツールをナレッジマネジメントに活用している。これはBlogツールの理想的な利用のカタチの一例ではないかと僕は思う。
閉じた情報空間での情報発信はパブリックな場での情報発信とは異なる利点が幾つかある。
ひとつは共通したコード(この場合は会社というコンテクストでだけ機能する事柄や事例)の存在。もう一つは情報空間が限定されることによって発生する情報発信の圧倒的自由性である。
本来は全ての情報空間で情報発信の自由性が成立すればいいのだがいまの社会では情報については法の規制が存在し閉じた情報空間ほどの自由は保証許されていない。
情報発信の自由性については2chを考えるとわかりやすい。
2chでは人々は自由勝手に言いたいことを言いたいようにいう。
中にはひどい発言もあるし、何をいっているのかわからない発言も多い。
こうした発言の自由度の高さが成立しているのは匿名性によって自分というパーソナリティと発信した情報の連鎖が断ち切られることが理由である。
誰が発言しているおかがわからないから誰もが勝手に物を言うし、何を言うのも自由なのだ。
これの裏返しが閉じられた情報空間である。
発言の自由はここでも実現される。
例えば自分と数人のグループしかアクセスできない掲示板があるとしたらそこでの会話はグループの一員でしか理解できない言葉でやりとりされるかもしれないし、他では言えない事柄や話題についても活発に議論されるだろう。ここでは2chの場合とは逆に誰が観ているのか誰が情報を発信しているのかが特定されていることで信頼と安心が提供される。
このように情報の匿名性と明示性は表裏一体の関係にある。
そして企業内でのBlog・RSSによるナレッジマネジメントはこれら二つの特性を融合させたものという印象を受ける。
■Blog+RSSは電子メールとHPの中間的な存在
先週のCEOサミットでの基調講演でビル・ゲイツはBlogとRSSの利用について下記のようにのべている。
個人メールなどのように完全に閉じた関係での情報のやりとりではなく組織や社会などある程度の幅をもった情報空間で情報発信がなされた場合の理想的な情報の伝播はより価値の高い情報はより早いスピードでより広く広まり、ある特定された人にとってだけ価値を持つ情報(例えばプロジェクトの打ち上げの提案など)については特定の情報空間でだけ共有されるというカタチが最も効率が良い。
つまり「行くべき場所に行くべき情報が行き着く」状態である。
完璧ではないかもしれないが閉じた情報空間でのBlog+RSSによるナレッジマネジメントはこれに近い情報環境を実現しているのではないだろうか。
一般にBlogはパブリッシングツールという捉えられ方をしている。
CMSとしてのBlogツールという側面をみればそれは正しい。
しかし、RSS(別にRSSでなくてもよい。発信された情報の伝播形式という意味)という情報生成とは別の機能に注目した場合、Blogのもう一つの特性が明らかになる。
情報のおだやかな接続性とでもいうべきだろうか。
電子メールとHPの中間存在としての情報ツール像が浮かび上がる。
ただしこの特性が機能するには閉じられた空間でBlog+RSSが用いられる必要がある。ここをどう乗り越え、個の自立と相互依存のバランスポイントという情報社会の到達点(とされている)をどうやって達成していくのか。それが今後のWebサイトや情報社会を考える上での一つのポイントなのではないだろうか。
■関連図書

1日5分の口コミプロモーションブログ
長野 弘子 増田 真樹
投稿者 TKM : 08:45 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月24日
[ウェブサイト批評] 先見日記を考える
■コンセプトはいいのだが面白くない
「先見日記」というページを見つけた。
昨年みたときはあまり面白そうではなかったのでずっと忘れていたが今日みたら坂本さんもきちんと日記をアップしている。
先見日記とは7人の著者が曜日ごとに「日々の出来事の中から将来に向けてヒントになりそうなこと」を書いていくという企画である。
面白いコンセプトだと思った。
しかし実際のコンテンツは思ったほど面白くない。
何故だろうと考えてみる。
執筆者の関係性が希薄なのである。
関係性が希薄なのは「テーマ」が存在しないからである。
ブログが面白いのはある特定のテーマによって情報が編集されているからである。
それは個人のサイトでもグループのサイトでも企業のサイトでも変わらない。
明文化されていなくてもサイトにはなにがしかのテーマがある。
しかし先見日記にはそれがない。
漠然とした「将来へのヒント」というテーマの選択はテーマ性の放棄に他ならない。
編集によるコンテクストの付加という視点が決定的にかけているのである。
例えば先見日記の港千尋さんの文章を読むと綺麗で優雅だがその綺麗さは次の日の日記を読むことで全く消え失せてしまう。先見日記のそれぞれのテキストは面白い。しかしそれらが単純に曜日という拘束条件によって束ねられているため、テキスト同士が孤立し面白さを打ち消しあっている印象を受けた。
とはいえある種のメセナ(いまではもうきかなくなったが)としてこうしたサイトをつくってしまうNTTは偉いと思うのだけれど。(ICCもそうだけれど)
■どうしたら面白くなるのか?
では先見日記をどうしたらより面白くできるだろう。
ありがちなのは毎週テーマを設定してそれについて書いてもらうという方法だろう。
しかしそれでは日記の意味が薄れてしまう。
日記の集合体なのだがそこには通底した空気があり、その空気がメディアの方向性をつくっていく、というベストなカタチがあるはずだ。
同じようにいろいろな人が好き勝手に書いているイトイコムの場合はどうなのだろう。
そこでひさしぶりにイトイコムものぞいてみた。
イトイコムの場合は主催者の糸井さんのカラーが全体のトーンに統一感を持たせている。イトイコムのコンテンツは全般的にゆるいのだがただゆるいというわけではなくある種の編集がほどこされたねらいのあるゆるさである。作家性やメッセージ性はあまり感じない。
各コンテンツは記号化されたテキスト群といった印象を受ける。
広告的といったらいいのだろうか。
何かの役に立つわけでもないし、熱心に読みたいと思うわけでもないがそこには人を引きつけるカタチはある。
先見日記のコンテンツではこうしたトーンの共有がなされていないのである。
それが故にコンテンツとしての記号性が分散され印象が薄くなってしまっている。
オーガナイザー、キュレーター、編集者らコンテンツのプロデュース側が「より面白いものをつくる」という姿勢を打ち出す必要性があると僕は感じた。
コンテンツの面白さの根本にあるのは
「何をつくりたいのか」
である。それが感じられないコンテンツは綺麗であっても「面白くない」のだ。
投稿者 TKM : 13:03 | コメント (2) | トラックバック
2004年05月21日
[俄] 食い倒れオフとやまけんの神通力
昨夜から続く雨は今朝も降り続いていた。
午前6時、外に出ると豪雨である。
雨の中の開催を覚悟しながら眠った。
お昼近くまでしばらく休んだ。
目覚めてPCをたちあげHPをチェックする。
通常はメールのチェックとRSSリーダーで各ブログの更新状況をさらっとみてから行動を開始する。
いつもみているブログに「livedoor社長日記」がある。
社長の堀江さんはTV・雑誌などへの露出も多い。
彼は数多くのアスリートが通うトータルワークアウトへ通っていてそこでの肉体改造プログラムをブログでレポートしている。その過程が面白かったのだ。
話がそれたがそんなわけでRSSリーダでチェックすると更新があったのでぱーっと堀江さんの社長日記をみていた。
するとそこに見慣れた単語があるではないか。
「やまけんの食い倒れ日記」。
よもやここで目にするとは。
これには正直驚いた。
なぜなら今日は「食い倒れオフ」開催日なのである。
昨夜も党首やまけんと今日のイベント詳細について打ち合わせをしていたところである。
こんなこともあるのだ。
びっくりしたのでさっそくやまけんに連絡を入れる。
そしてふとカーテンを開けてみた。
なんと晴れである。
しかも晴天。
天晴の晴れである。
これも党首やまけんの神通力だろうか。
昨夜までの雨があがりきれいに晴れ渡っている。
投稿者 TKM : 13:50 | コメント (0) | トラックバック
[読むテレビ] 日本最高の鮨職人 ~「すきやばし次郎の365日」を観て
■世界最高の鮨を握る店
「次郎ほど清潔な店を知らない。魚のにおいのしない唯一の鮨屋だ。」
フランス料理界の重鎮ジョエル・ロブションはすきやばし次郎を訪れた際にそう言って感嘆したそうである。店主の小野二郎さんは「日本で一番うまい鮨をにぎる」と言われている。
すきやばし次郎の外観に派手さはない。
店は雑居ビルの地下にある。
カウンターとテーブルが少しの小さな店構えである。
しかし全てが徹底している。
徹底した仕込みをみせられると最低20000円からという値段もそうズレたものではないと思えてくる。彼が握る鮨と僕たちが書いたりつくったりする企画や原稿を比較してみるとページあたりの原稿料と彼の握る鮨の値段はそう変わらない。
他の食の値段と比較するから相対的に高いと思ってしまうがある種の知的労働の成果としてみた場合、20000円の握りが必ずしもべらぼうに高額な商品というわけではないのかもしれない。
それほどのノウハウと手間が握りのひとつひとつに込められている、と僕は感じた。
■回転鮨も美味しいですよ
「回転鮨。そうね、あの値段であれだけのものを提供できるってのは美味しいですよ。いいじゃないですか。グルグル回って、自分の好きなものを食べられて。あんないいものはない。私も食べるもん。美味しいですよ。」
二郎さんはそういって笑った。
「回転鮨屋さんにお酒飲みにいく人はいないでしょ。みんな鮨を食べにきてる。うちとおんなじですよ。」
すきやばし次郎は鮨屋である。
飲み屋ではない。
より「うまい鮨」を握ることへのあくなき探求心。
それが次郎さんの原点である。
すきやばし次郎の店内は驚くほど静かだ。
客はある種の緊張感の中で鮨を味わうことに専念する。
「どうやったらもっとおいしいものをお客さんにだせるか。それだけですよ。高いのはしょうがない。値段を下げるつもりもないです。だってネタを下げるわけにはいかないんだから。」
■すきやばし次郎の秘密
僕はそれほど多くの鮨屋にいったことがあるわけではない。
それでも「これはうまい!」と思う店もあればそうでない店もある。
その違いはどこにあるのだろう。
味なのかネタなのか姿勢なのか雰囲気なのか。
様々な要素の組み合わせなのか。
味の違いもあるだろう。
しかしそれだけだろうか。
おそらくすきやばし次郎には他の鮨屋とくらべて絶対的に違う部分があるに違いない。
それは何なのか。
「おやじさんの存在感。それが一番の違いなんだ。おやじが握るかどうか。つまりそれなんだな。違いは。」
次郎会とよばれる全国で「次郎」を名乗る弟子達の会であるお弟子さんがいった言葉である。
すきやばし次郎が次郎たる所以。
それは「二郎さん」が握るかどうか。
違いはただその一点に集約される。
そこに僕は世界の秘密を見た気がした。
優れた技術を持つ画家ならばピカソの作品と寸分違わぬ絵を描くことができるかもしれない。しかしそれは贋作であってピカソの絵ではない。そして贋作と真作の違いは誰が描いたのかというただその一点に集約される。
それと同じことがすきやばし次郎の鮨にもあてはまるのではないだろうか。
二郎さんが握るからすきやばし次郎の鮨は日本最高の鮨なのであり、全く同じ味を再現することができてもそれは二郎さんの鮨ではない。味は全く同じであってもである。
おそらく職人とはそういうものなのである。
その人しかつくることができないから職人は職人たるのではなくその人がつくるから職人は職人たる。
僕はそう思うのだ。
上か下かではない。
その人が介在することで全てが決定づけられる。
これは量子力学において観察者の「観る」という行為が現象そのものに影響を与えるのと似ているのではないだろうか。
おそらく人が介在する事象のほとんどは関連性の網の目によって互いに関連しあうためある事象がそれだけで単独で存在することはできない。つまらいあらゆる事象は何者かと無関係ではいられない。特に意味や意志、感覚といった現象と非現象の狭間にある概念においてはその傾向が顕著だと思う。
最終的にある現象に最も影響力をおよぼすものは現象や事象そのものではなく現象の向こう側にあるひとつの要素なのだ。
日本最高の鮨の秘密は技術ではなく「次郎さん」という職人の介在によってはじめてつくりだされる。それは現象の向こうがわにある関係性によってつくりだされる価値であり情報である。
※うちの党首のやまけんも以前おなじようなことを言っていたのを思いだした。「これはこういうものなんだと知っていること。それではじめて感じることができるうまさもある。オレがつくりたいのはそれなんだ。」と。つまり党首が求める「うまさ」「食い倒れ」とはおいしい食や料理をみつけることではなく、それらを「感じる」ことができる食のコンテクストを自分の中に構築していくことなのだ。
■あたり前のことをやる
昨年の春にオープンしたすきやばし次郎六本木店の一周年目の日。
次郎さんは店を訪れた。
店は銀座の店と同じ寸法でつくられている。
「ここでいいということはないんですよ。このレベルまでいったでもそれをキープするではだめなんです。そうじゃない。いまここにいたら来年はもっと先へ。次はもっと先へ。それを重ねていく。そうやってのぼっていく。それだけなんです。」
あたりまえのことをあたりまえにやる。
ただ「よりおいしい鮨」をつくることを求め続けてきた。
それだけのことだと次郎さんはいう。
小野二郎さん78歳。
日本最高の鮨職人は今日も己が求める最高の味を求め握りつづける。
◆参考URL
・NONFIX 日本一の鮨を握る男~すきやばし次郎の365日

すきやばし次郎―生涯一鮨職人

すきやばし次郎 旬を握る
里見 真三

至福のすし―「すきやばし次郎」の職人芸術
山本 益博
投稿者 TKM : 05:26 | コメント (2) | トラックバック
2004年05月20日
[私の仕事] 「引き出し屋」という仕事
今朝は眠るタイミングも起きるタイミングもズレてしまった。
そのせいだろうかなかなか気持ちがドライブしないまま一日のスタートをきることになった。こういうときは頭ではなく身体の方からスタートさせるといい。しかし外は雨。走るには少し雨脚が強い。
軽く泳いで身体を暖めるのも悪くない。
しかしこれまた雨のせいか出かけるのがどうにもおっくうである。
泳ぐこと自体への抵抗はないのだがそれまでの支度、ロッカールームでの着替え、鍵の管理、受付、などなど泳ぐまでには驚くほどタスクがあることに気づく。
そこで思ったのだが公共施設もスイカのような共通カードで管理したらどうだろう。
入場はサッとカードをかざすだけ。
ロッカーもカードで利用でき、施設内での買い物もカードでまかなえる。
これまでは人がインターフェイスとして配置されなければならなかった部分をマシンにおきかえていけばそこで解放されたヒューマンリソースを本来の「運動」の補助に回せるのではないだろうか。
プールにいくと必ず監視員がいる。
高いイスに座ってプール全体を監視しているのだが彼らと利用者との間にはコミュニケーションはない。全くの断絶である。以前、いっていた湘南台にある秋葉台のプールの場合は一週間に一度、水曜日に監視員が泳ぎを指導してくれる教室が開かれていた。
そこでクロールとクイックターンを習ったおかげで10年たったいまでもクロールとクイックターンに関しては問題ない。
公共施設の問題は物理的に老朽化が進んでいるなど施設自体の問題よりも施設を運営する職員のインターフェイスと姿勢にあると僕は思っている。プールに限らず図書館、体育館など利用者に「遊んでもらう」という視点があまりにも少ない。
特に図書館については使いやすい図書館ではなく「面白い図書館」にしていこうという視点が欠けているように感じる。
ビジネスも同様である。
「面白さ」のマネジメント・コンサルティング・アドバイスという仕事が存在していないので各分野のコンサルタントと呼ばれる人々が代行している状態である。
「面白さ」には核がある。
この核をつくることができればどのような分野であれ「面白く」していくことは可能だと僕は考える。そしてあらゆる場所に潜む「面白さ」をこちらから提示して「与える」のではなくそれぞれの場所のキャストから「引き出していく」のが自分の仕事です。
投稿者 TKM : 16:16 | コメント (2) | トラックバック
[読むテレビ] デューク更家と魔性の女
■魔性系?
「女性には癒し系、パワー系、そして魔性系の人がいるんですよ」
デューク更家はそういって隣に座る女性に視線をうつした。
女性は少しはにかみながら。
しかししっかりとデュークを見つめる。
意志を感じさせる目である。
女性の名前は更家由美子。
デューク更家の奥さんである。
情熱大陸やグレートマザー物語などいくつかのドキュメンタリー番組でデューク更家が取り上げらた際、奥さんが登場する場面もあった。しかし、あくまで主役はデュークであり奥さんがどのような人であるかにはほとんど触れられていなかった。
ちらっと見ただけだったがカッコよさそうな人だなとは思っていた。
今日の番組をみて「なるほど」と思った。
デューク更家の奥さんは「女っぷり」の人であった。
■デュークのプロポーズ
デュークと知り合った頃、由美子さんはデュークの知人の会社の社長秘書をしていた。
その当時デュークは大阪でも有名な遊び人だったそうである。朝まで遊び歩く毎日が続いていた。そんなデュークを由美子さんは警戒して3~4年観察していた。そうするうちに由美子さんの中にある思いがわき上がってきた。どうしてもデュークに一言いっておきたい、いや言わなければならないそう思うようになった。そしてある夜バーにいくとデュークがひとりで飲んでいた。由美子さんもひとりだった。
言うならいましかない。
そう思った由美子さんはデュークにこう切り出した。
「時間とってもらえますか。話したいことがあります。」
デュークは
「いいよ。じゃあ、夕飯でも食べにいきましょうか?」
「いえ、ご飯はいりません。」
「じゃあ、飲みに行きますか。」
「いえ、お酒もいりません。」
「は?じゃあなに?」
それから日をあらためホテルのロビーで二人は再び会った。
食事もお酒もなしである。
ホテルのロビーで由美子さんは延々とデュークに彼女の思うところをプレゼンしたそうである。
「この人は優しい人でその優しさはなにも女の人に対してだけというわけじゃなくて。男性にも年配の人にも子供にも優しくて。そういう気遣いのできるところがあなたの良さなのに何故あなたは朝まで遊んでるだけなの?パワーを使う場所って他にあるんじゃないの?それだけしかできないの?って延々プレゼンしたんです。」
由美子さんのプレゼンをじっと聞いたデュークはふっと由美子さんの方へ向き直りこういった。
「結婚してくれませんか」
それがデュークのプロポーズだった。
■ウォーキングドクター誕生
ウォーキングドクターとして全国を飛び回るデュークだがそこまでの道のりは決して楽ではなかった。そもそもデュークがウォーキングの指導を始めたのは彼の母の死が原因である。病床にあったデュークの母は近くの砂浜を歩いて体力をつけようとした。ところがこのウォーキングが原因で膝を痛め車いすの生活を余儀なくされまもなく他界した。
最愛の母を失ったデュークはやる気もパワーも失った。
生活が出来る程度に、時々、仕事をする以外は子育ての日々を送った。
そんな日々が2年続いた。
そんなある日、由美子さんから「女性のウォーキングを指導して欲しい」という相談を受けた。ファッションショーのプロデューサーをしていたのでモデルの女性を育てる経験はあった。しかし華やかなファッションショーの舞台をやってきた自分が素人の女性を指導することには抵抗があった。しかし奥さんの熱意にまけて渋々レッスンを始めたデュークだったがいざはじめてみると思いのほかそれが自分にあっていることに気づいた。
「これでやってみるか。お母ちゃんが死んだのももともとは歩き方が間違って膝を悪くしたせいだし。もし、もっといい歩き方を知ってたらお母ちゃん死なずに済んだかもな。」
こうしてウォーキングドクター更家がスタートした。
■魔性ではなく「引き出し力」
「でもね彼女はすごくポイントを押さえるが上手なんですよ。オレがこういう性格なんでどこをついたら一番効くかってのがわかってるですね。はっぱをかけるのが上手というか。一番、きついところをずばずばついてくるんですよ。でも責めてるっていうんじゃないんだけど。ずどーんと落としてぐーっと押してと。」
笑いながらデュークは語る。もともとが遊び人のデュークである。おとなしく結婚生活を送っていたわけではない。遊びもした。しかし由美子さんは一度もそのことでデュークを責めたことはないそうだ。
「この人はいつか化ける。そう信じていたんです。これだけで終わる人じゃない。絶対やるはずだ。」
そう話す由美子さんの目には「深さ」と「強さ」があった。
信頼とも依存とも違う。
しっかりとした芯の強さである。
しかしそれはしなやかな強さである。
女性だけが持つ強さといったらいいのだろうか。
時々、夜の街ではこうした強さを持つ女性に会うことがあるがその種の強さである。
女の人の魅力とはデュークのいうように「癒し系」であったり「パワー系」のようにいくつかのタイプに分類される。あるいは幾つかのタイプが組み合わさっている。どのタイプの女性とどのタイプの男性が相性がいいという相性も確かにある。
これもタイプなのだが女性には男性の持つ力を引き出す側でその力と魅力を最大化するタイプの人もいる。特に夜の街にはこういうタイプの女性が多い。
僕は男性なので男性の側からという書き方しかできないがおよそ世の人々が銀座に集うのはこの種の魅力、自己重要感を高められることへの渇望と無縁ではない。男性にとって「力を引き出される」ことは心地よさを超えて心に響いてくる。
人がおいしさを感じるとき料理そのものが味に与えている影響は3割だそうである。
残りの7割は個人の気持ちに依存しており、どんなに美味しい料理でも最悪の気分で食べるならば決しておいしいとは感じられないのだそうだ。
気持ちがいいと日常の風景も悦びに満ちたものに思える時がある。いいことがあった後は空を見上げただけでもこの上ない嬉しさを感じることもある。環境は変わらないのに自分が変わると世界が変わって見えてくるのである。
これを作り出せる力。
それがデュークのいう「魔性」であり言い換えるならば相手の潜在能力を最大化し一つ上のスパイラルへとステップアップさせる「引き出し力」である。
「私は彼がいつかやるとは信じていましたがまさかここまでウォーキングをつきつめるまでになるとは思いませんでした。結局は彼に勝てないんですけれどね。それがわかってるからできることもあります。」
最後にそう語る由美子さんの目はやはり「深く」「強く」その隣で笑うデュークは本当に嬉しそうだった。
◆参考URL
・NHK今夜は恋人気分・とっておき夫婦物語HP
・デューク更家公式HP
投稿者 TKM : 01:28 | コメント (4) | トラックバック
2004年05月19日
[個人的情報論] 最も価値のある情報のつくり方
天才達の思考法
大切なのは「問い」を考えることだ。
思索の際、あるテーマについて思考を巡らすというアプローチをとってきたがその方法には限界点がある。情報が内部循環してしまい思索の場で外部にある情報を取り入れることができない。
そこで僕はアインシュタインの方法を参考にしたい。
「もし自分が殺されそうになって、助かる方法を考えるのに一時間だけ与えられたとしたら、最初の五十五分間は適切な問いを探すのに費やすだろう」
ポイント思考といったらいいだろうか。
間違って伝えられているエジソンの99%の努力と1%の閃きの話と似ている。
エジソンは1%の閃きが全ての核になっておりそれが自分の考える発明の本質だ、といっている。補足するとそれは彼が考えているのではなく彼の頭の中にいる「リトルマンインマイブレイン」がやっているのだそうだ。極度の集中によって忘我状態に入り、そこからインスピレーションを得ていたと思われる。
同じように忘我状態を利用して創造性を活性化させているのが作家のダニエル・キイスである。彼の創作法もユニークだ。早朝、四時頃に起きる。朝はやいため少し眠い。眠い目をこすりながら書斎にむかいゆったりとしたイスに座りまどろむ。まどろんでいると夢うつつになりながら様々なストーリー、ビジョンがあらわれる。それを核にして創作を進めていく。「アルジャーノンに花束を」もこうした創作法によって生み出された。
画家のサルバトール・ダリも眠りと覚醒の狭間の忘我状態を創作に利用したひとだった。彼の創作方法はこうだ。
まず眠る時にスプーンを手に持ったまま椅子に座る。眠りに入ると手の力が抜けていき、持っていたスプーンが床に落ちる。落ちたスプーンの音でハっと起き、それまで見ていたビジョンをもとに創作を行った。その成果がこれらのシュールリアリスムを代表する作品の数々である。

◆サルバトーレ・ダリ アートギャラリー
http://www.dali-gallery.com/
情報にはいきたい場所がある
思案する、悩む、考える、などある時間に人が思考できるエネルギー量は一定である。対して外の世界に存在する情報は個人が処理できる情報とは比べモノにならない。ほぼ無限といってもいい。問題はこうした無限ともいえる情報をどう使っていくかである。
情報とどう向き合うか。
それによってその人の人生や幸せのカタチも決まってしまう。
幸せな人とは情報と上手につきあっている人である、という言い方ができると思う。
不幸せな人は知らないでいい情報を知り、知るべき情報を知らない人である。
情報はそれぞれその行き先を持っている。
ある情報がこの人にとっては最高の価値を持つけれど、別な人にとってはノイズと化してしまう、ということが多々ある。
僕が注目するのはここなのだ。
その人にいくべき情報がその人にゆくならば世界はどう変わっていくのだろう。
それを考えるのである。
例えば人と人の関係もそうだ。
その人が最も求められていてなおかつその人が最も能力を発揮でき悦びを感じる場や相手と出会えばその人もその人を含む環境そのものも活性化し結果として悦びのスパイラルがつくられる。
人の世界の問題の本質は情報が行くべき場所にいっていないことである。
物理的に不可能なのではなくルールや拘束によって不可能たらしめられている物事のなんと多いことだろう。それらは情報の振る舞いをかえ、伝わるべきところに伝わるべき情報を伝えていくという極めてシンプルな方法によって解決できる問題である。
奇をてらったやり方は必要ないのである。
伝わるべき相手や場所に情報を伝えていく。
必要なのはそれだけなのだ。
そのためにはまず情報にカタチを与えなければならない。
そのはじまりは「問い」を創る作業なのだと僕は考える。
問わなければ情報はその姿を現すことはない。
ネットの世界でもYahooなどのポータルサービスからGoogleの検索サービスへとスタープレイヤーがかわってきている。これなども虚無に近い情報を検索という「問い」によってカタチにしていくその過程に価値があることを示している、と僕は思う。
投稿者 TKM : 15:33 | コメント (2) | トラックバック
2004年05月18日
[俄] ミルコが渋谷に潜入!
今晩11:15からのNHK総合「ものしり一夜づけ」で格闘家のミルコ・クロコップが渋谷に潜入します。
いったい何故渋谷なのだ?
そして何故ミルコなのだ?
謎は深まるばかり。
格闘技に命を捧ぐものとしてこの映像は必見に違いない。
投稿者 TKM : 19:13 | コメント (0) | トラックバック
[俄] べく杯メモ
べく杯とはサイコロのようなコマを回して倒れた方向にいた人がその時に出た目と同じ杯(おかめ、ひょっとこ、てんぐ、うた)でお酒を飲む、という四国のお酒をつかった遊びである。
遊び方が書いてあったので引用しよう
飲み干してしまうまでは下に置くことができません。
この三面杯には、おかめ、ひょっとこ、天狗の盃と、こまが入っています。
遊び方は簡単で、こまを回して止まったときに軸の向いている方向に座ってい
る人が、こまに書かれている絵柄の可杯(べく杯)にお酒を注いで、グイッーっ
と飲み干します。
かわるがわる「こま」を回して、杯を決めながら一気に飲む、というのが可杯
の遊び方です。
食い倒れ党では時折べくはい大会を行う。これはポイントシステムになっていて、10回コマを回して一番ポイントが高い人が試練の旅に出る。
先回、しんのすけ亭でべくはい大会を催した時は僕と党首のやまけんが試練の旅に出た。やまけんは手にカエルの人形をはめ腹話術で会話しながらユニクロで女性モノのピンクのTシャツ、しかもSサイズを買って着て帰ってくるという試練。僕は手に鍋つかみをしたままコンビニにいって店員さんに「マウスウォッシュください、シュッシュ」とシャドーボクシングをする、という試練。しかし、マウスウォッシュがなかったのでアイスクリームをレンジで温めてもらうというアドリブを要求された。
これらの旅の一部始終は策士金子によって記録されておりそれぞれは反省と自戒の念を込めて次ぎのゲームに臨むことになる。
で、毎回どんな試練を課すのかが問題になるのだが今日、新たな試練がひらめいた。
「マクドナルドにいってビックマックのピクルス、肉ぬき、チーズなしを注文する」というのはどうだろう。あるいは吉野屋で築地メニューの「肉3切れねぎだくつゆぬき」という注文というのもなかなかではないだろうか。
更に試練度を上げていくと
「ヨッタマックを店頭でつくって持ってくる」
というのがある。
ヨッタマックについては下記のリンクの記事に詳しい。
◆ヨッタマック関連リンク
・ヨッタマックを作ろう!!
・ヨッタマックは本当に限界か?
・ヨッタマックへの挑戦
・http://village.infoweb.ne.jp/~nonn/yottamac.htm
・ヨッタマック
投稿者 TKM : 18:48 | コメント (6) | トラックバック
リスニングバー
米スターバックスが「リスニングバー」なるサービスを始めたことを知った。
スターバックスの店舗にそなえつけられたタブレットPCを使ってネット上から曲をダウロードしお好みのCDをつくることができるサービスである。機材とバックヤードのシステムはHPが提供しているとのことだった。
いつかそういうサービスがはじまるだろうな、ということは誰もが予想していたわけだがスターバックス&HP連合。動きが早い。日本では楽曲のダウンロード販売サービスははじまっていない。
この手のサービスの開始時は必ずといっていいほど音楽著作権がらみで一悶着ある。
ところで著作権といえば昨日の切込隊長ブログにあった「パブリックP2P」という考え方には感銘を受けた。まさにその通りである。コンテンツの入手手段としてWinny以外の解を提供できずにいるのが現在の進んだ情報社会の真実である。
ここがスタート地点なのだ。
できないのは技術の為ではなく政治的な問題である。
そして、政治が変わり、法が変わるとき、波は起こる。
投稿者 TKM : 05:38 | コメント (1) | トラックバック
ハイパーカードが消えた理由 ~ビル・アトキンソンさんの話をきく~
銀座Appleストアでビル・アトキンソンさんのお話をきいた。
アトキンソンさんはハイパーカードや初代AppleのGUIを開発した人である。
登場したアトキンソンさんは意外にグッドシェイプで鍛えている感じである。
現在は自然写真家として活躍されている。
前半はApple初期の裏話など。
後半はカラーマネジメントについて。
前半は通訳が逐次通訳で対応していたが後半のカラーマネジメントについてのお話は日本語で聞いてもほとんど外国語と思われるような専門用語のオンパレードの為、Appleの社員らしき男性(この男性がなぜか妙にダンディというか胸はだけてます系のいでたちでやり手のエグゼクティブだぜオレは、な雰囲気を十二分に醸し出している)がかわって通訳を務める。しかしいかんせん付け焼き刃。かみすぎで話がつっかえるは聞きづらいはつまらないはでどうしようもない。はだけっぷりもこうなると仇になる。
とはいえ約2時間におよぶAppleの基礎をつくった生ける伝説プログラマーの話は十分に刺激的であった。アトキンソンさんがAppleでMacをつくっていた頃、社員は30人だった。けれど辞める時に社員は15000人になっていたそうだ。さらっといっていたがこの変化は凄まじい。このドライブ感を体験できたということは素晴らしい経験だったのではないだろうか。
アトキンソンさんは
「いまだにハイパーカードをつかっていますよ」
と言っていた。フルスペックのG5に23インチのシネマディスプレイ。それがアトキンソンさんの環境だ。現存する最高スペックのMacにしてあるといっていた。そこで使っているソフト群について説明してくれた時に
「クラシック環境も入れてあるんです。ハイパーカードをつかうのでね。」
ハイパーカード。
創られたのは随分昔だがいまだに優れたインターフェイスの使いやすさは健在である。どうしてMacにハイパーカードが付属されなくなったのか疑問に思っていたのだがアトキンソンさんが教えてくれた。
「ジョブズとスカリーの対立があったことはご存じですよね。そのスカリーがハイパーカードのライセンスを持っているのでAppleはもうハイパーカードを使えないんです。残念ですけれどAppleがハイパーカードを使うことはないと思います。」
そういう理由だったのか。技術的な問題ではなく政治的な問題が原因で創造性を高めるソフトウェアが忘れ去られていくのは残念だ。
ハイパーカードの面白さは使ってもらはないとわからないのだが簡単にいうといまの1000倍の手軽さでWebページをつくることができる、感じである。
「そうそう私にとってマーク・アンドリーセンはヒーローなんです。何故って、彼がモザイクをつくったことで結果的に私が実現したいと思っていた世界が実現したんです。PC同士がつながっていろんな人が情報を共有する。それが私がハイパーカードでやりたかったことなんですよ。」
マーク・アンドリーセンを「私のヒーロー」ですと嬉しそうに語るアトキンソンさんがとても印象的だった。アトキンソンさんは根っからのエンジニアで自分の夢を追っている。カラーマネジメントのソフトを開発したのも自分の写真を完全な色で印刷したいと思ったからだといっていた。解説をきいたらアトキンソンさんの開発したソフトを使うと印刷において驚異的な成果を出すことができる、とのことである。
彼はもともとインターフェイスの研究者・開発者なのだがその彼がいま考えている未来のインターフェイスについて一つだけ教えてくれた。
アトキンソンさんはそのコンセプトをタッチプレートと呼んでいた。
キーボードに変わる入力用のインターフェイスである。
そこにはキーのような凹凸がない。完全な平面である。グラフィカルにつくられたもう一つのディスプレイと考えればいい。
板の上に無数の円が配置されている。
数は通常のキーボードの二倍くらいである。
この円のそれぞれにキーを割り当てる。
シフトでもいいし、アンドゥーでもいい。
面白いのはそこから先である。
これらの円はそれぞれユーザが好きなキーを割り振ることができる。
どんな言語でもいいので他言語対応も可能だ。
現在のキーボードは「打つ」「叩く」という動作が必要だが彼の考えるキーボードは「触る」ことで入力を可能にする。なめらかにすべるように優雅に入力する。
「例えばピアノをひくときに指は滑らかにうごきますよね。鍵盤を滑らすように指を動かすとメロディがこう流れる。同じようにこのタッチパッドでもスっと指を滑らせるとTHEという単語になったり。Iという文字をたくさん使うならIというキーがたくさんあったりすればいいと思うんです」
少し詳しく解説するとこういうことだ。
例えば英語だったらホームポジションの位置からINGという配列でキーがならんでいる。その下にはTHEという文字が配置されている。
通常、文字を入力するにはそれぞれの文字を一つづつ打ち込まなければならない。
例えばTHEという単語だとアクションは3つ必要になる。
しかしタッチパッドならば指をスっと滑らせるだけでTHEが入力される。
ワンアクションである。
僕たちが考えるのとは全く違う発想の仕方だ。
こういう人がMacをつくったのだ。
発想のベースになっている出発点が全然違うと感じた。
よりフィーリングな世界からきている。
心地よさとか優しさみたいな閃きというよりも遊びというか。
PCは単なる性能の向上ではなく人の気持ちよさをより高め、使う人の意識やモチベーションを高めていく、という方向に向かっているのだろうと思った。
++++++
夜から矢坂さんとアトキンソンさんの話をもとにブレストをした。
アトキンソンさんの話はPCの世界の話だが僕たちが話したのはネットワークの世界の話だった。ネットワークによってコンテンツはどのように変貌していくのか、それについていろいろと議論した。次回はその話についてまとめたい。


