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2004年05月27日

[読むテレビ] イチローx北野武・キャッチボール~9人のイチローと泳ぎが上手な魚の話

■9人のイチロー

「オイラ、よく考えるのはさ。野球で9人、同じ選手だったら一番誰が強いだろうって。」

昨日観たBS-iの番組の冒頭の一言である。
北野武さんはさらりといっていたが僕は随分とショックを受けた。
野球という競技を上記のような仮定で考えたことはこれまでなかった。

人はひとりひとりが個性を持っている。
野球もそれぞれの個性を活かしたチームが強いという前提で観ていた。。
しかし、全員が同じ人間で野球チームをつくりプレイしたら…。

「長嶋さんさんは強いけど3位くらいだと思うんだよな。オレの中ではイチローさんが一番強い。」

「ボクはピッチャーもできますからね。」

二人の対話はこんな風に進んでいくのだが僕は上記の言葉をきいてからしばらく9人のイチローがプレーするチームと9人の長嶋さんがプレーするチームの対戦のイメージが頭から抜けなかった。

笑うというよりもどうなるのかがイメージできないのだ。
長嶋さんの方は全員が全員、思いっきり走っていってファインプレーするか大ポカしているんだろうし、イチロー側は全員がそつなく振る舞っている。どちらが面白いかといったら観ている分には長嶋チームの方が面白そうだが、その面白さは長嶋チームだけで成り立っているのではなく、イチローチームと対戦しているというコンテクストによって成立している面白さである。

■面白さの秘密

面白さは単独では存在しているわけではなく何らかの関係性の上に成り立っている。

上手な物まねはお腹が痛くなるくらいにおかしい。
それならば本物が登場したらさぞかし面白いはずだ。
ところがいざ本物が登場しても少しも面白くない。

物まねの面白さとは本物から特徴的な一部分を取り出すことで成り立つ面白さである。
そこで重要なのはどこを取り出すかという部分でそれはその人を最も特徴づけているポイントでもある。
ここに表現の本質があると僕は考える。
つまり表現とは削ることなのである。

世界は言葉によって分節されることでその姿をあらわす。
言語以前の世界に切れ目は存在しない。
虚無の無ではないがのっぺらぼうの無である。

それを分節すること。
無を有に変えること。
それが表現の根本にはある。
地と図の関係関係である。

■マイナスのないプラスは存在しない

削ることは必ずしもマイナスではない。
削ることによって明らかになる形があり。
形がそこに形として存在するには形を取り囲む無の存在がなければならない。

人の生成も同様のプロセスを経る。
人の指は塊から生えてくるのではない。
塊から細胞が消滅することで指の形状ができあがっていく。
これは興味深い現象である。

同じように人が個性を発揮するのは個性が伸びていくのではなく別な部分が後退することである部分が突出しているように見える、というのが正しい。

イチロー選手の場合も非常に器用な選手という印象が強いが逆を返せばエンターテイメント性には欠ける。激しい感情表現があるわけではない。(本人の弁によれば内面は違うそうである)。逆に長嶋選手の場合はエンターテイメント性が突出しているように見えるがその行動指針を言語化、理論化するという面ではイチロー選手には及ばない。

だから二人のチームが対戦した場合はそれぞれの特性がより強く印象づけられることになる。

■原因があるから治せる

「大リーグでは自分の形を持っていないとつぶれますね。」

イチロー選手は大リーグでプレーするまでに徹底的に自分の形をつくることを目標にしたそうである。

自分の形があれば何かがうまくいかないとき、それが何故うまくいっていないのかその原因を形を手がかりに探すことができる。しかし、自分の形がないと何が原因なのかを知ることはできない。

原因がわからないとどんな名医でも病気を治せないのと同様である。だからまず自分の形、自分の野球の理論というもののつくりこみを行ったのだそうだ。

これは野球に限らずビジネスや学問、何をやる上でもあてはまる方法論ではないだろうか。いったい今、自分はどこにいるのか。何をやっていてどこに向かっているのか。それがわかれば方法は自ずと明らかになる。

ロールプレイングゲームをやったことがある人ならわかると思うがダンジョンに迷い込むとそこから出るまでにかなりの時間を必要とする。その最大の理由は現在位置を知ることができないから当てずっぽうで迷路を進むことしかできないからである。

ところが自分の位置を示すコンパスというアイテムを入手するとそれまで四苦八苦していたダンジョンの攻略が驚くほど簡単になる。

これと同じで実際の生活でも自分の立ち位置がわかれば次に何をすればいいのかを知ることはそう難しくない。何をやっていいのかわからず、結局何もせずにいてしまうのは自分の立ち位置がわからないからであり、それが迷いの最大の原因なのである。

■一つの瞬間に二つの脳で考える

「イチローさんなんかの場合はさ、一つの瞬間に二つの脳で考えてるんじゃないかと思うんだ。打ってる自分とそれを向こうから見てる自分と。オレなんか漫才やってる頃さ、ガーっと受けるとそれはそれでウケターっていう自分があるんだけど。頭のこっちの方ではあ、いまウケタな。じゃ、ここでこのギャグかましてやればガっとはまるな。とかさ。同時に二つの自分がいるんだよね。」

同時に二つの自分で考える。
まさかキュービタルの概念が登場するとは思っていなかっただけに驚いた。或いはこの世界の構成がそもそもキュービタル的なのだから当然と言えば当然ともいえるのだが。キュービタルとは「量子的」という意味の造語である。名付けたのは石井威望先生である。
世界とはここからはじまって向こうに進んでいくという唯一一本の矢、シングルリアリティではなく、何本もの矢が平行に並んでおり、それらは確かにそこにあるのだけれど、見ようとするまではその姿が見えないパラレルなリアリティによって構成されている、という考え方である。

上記の例で言えば打席で打っているイチロー選手はそこにいて自らもそこから見ている。しかし、同時に同じ姿をスタンドから見た場合は全く違う自分の姿があり、その視点は確かにそこに存在している。仮にスタンドからの視点・映像をダイレクトに投影できる眼鏡サイズのメッドマウンディドディスプレイを装着して打席に立った場合、立っている自分の視点とそれを遠くから見ている自分の視点が共存する。その場合、パラレルに存在する二つの視点を同時に体験していることになり、主観と客観が混在するため情報のもつれが生じる。


トップアスリートやトッププレイヤー達はこのもつれを意識的につくりだす能力を有していて、その感覚がフィードバックされることで極限のプレーが可能となるのではないだろうか。

作家が作品を書く時にも同じような意識的にパラレルリアリティを顕在化させフィードバック作業を行ってるように思う。

書くという行為の時点で書かれた部分より先のテキストはまだ完成していない。
しかし、テキストを書く時、書いているテキストの先にあるまだ存在しないテキストの存在がいま書いているテキストへ影響を与えている、という感じがするのである。

まだ理論化されていないがこの感覚の理論化が進めば、今後様々な分野で応用され、個人のパフォーマンスを最大化する一つの方法として確立されるのではないかと思う。

これは僕の個人的な推測だがコンピュータやネットワークというインフラもそこに向かって発展しているような気がする。Blogもいってみれば一つの事象に対する複数の視点の共有をプリミティブなレベルで実現している事例ではないだろうか。

※陽明学でいう「知行合一」もキュービタル感覚と似ている。考えている自分と考えていない自分がパラレルに存在している。

■泳ぎが上手な魚はいない

「天才って言われ方をよくするんですけれど僕は自分が野球の天才だと思ったことは一度もないんですよ。」

「それはあれだね、誰も魚に泳ぎが上手だねっては言わないじゃない。それを人間がやってるからさ上手だとか下手があるわけで。だからその商売の魚にならなきゃダメだよね。」

なるほどうまいことを言うなあと思った。
やまけんの「食い倒れ」にしても僕らが見るから「あれだけ食ってよくまだ食えるよな。しかも毎日だもんな。すごい。」となるけれど食べている当人はいたって普通である。いつも食べるのが楽しくて仕方がない様子だ。僕だったらあそこまでいったら仕事になるけれどやまけんにとってはあれが当然なのだ。つまりやまけんは「食い倒れの魚」になっているわけだ。

それを考えると自分は何の魚になっているのだろうか。
つい最近までは「自分はこれがやりたい」という目標もなかった。
最近というよりもここ10年くらい具体的にやりたいことなど何もなかった。

自分は何が好きなのか。
上手い下手にかかわらず何をしたいのか。
全くわからずにいたけれど実はずっと以前からわかっていたようにも思う。

■自分は何の魚だろうか

僕がやりたいことはつきつめていくと一つだけである。
僕は「考察」したいのである。
もっと大きくいうと「知りたい」という想いが行動の根本にある。

感じることも大切だし、実際にやってみることも大切だ。
人と話すことも大切だし、楽しく生きることも大切だ。

しかし、何の為にそれをするかといったら僕の場合は「考察」するために他の全てがある。いいか悪いかはわからない。わからないけれど、僕にとってあらゆるものは「考察」の対象なのだ。何かに集中うしていて、それ以外のことは全て頭から消しとんでいる時でも同時にその状態が考察の対象なのである。あらゆる物事のあらゆる瞬間が考察の対象として存在し、それを言葉にしていく時間がすきなのである。

考察者という職業はまだないけれどスキルとしての考察力は生きる上で有効だと想う。
例えば感情の暴走というのがあって、感情が高まるとその感情によって行動してしまうことがある。感情が行動のトリガーとなるのである。時として感情を原動力とした行動は思いもよらないパワーを生み出す。しかし多くの場合、感情による行動は感情が強ければ強いほどその反動も強い。

だから感情の高まりによる行動を上手に活用するには「一つの瞬間に二つの脳で考える」必要がある。そうしないと反動によって行動が平均化されてしまうのである。
そしてその為のツールが「考察力」だと僕は考える。

考察は脱構築のプロセスである。
ある行動や現象、感情をそれらの渦中にいながら同時に別な視点で捉える技術である。
これができるようになると偏見がなくなり、自分の位置がより正確に把握できるようになる。そして自分は何者なのか、どんな人間なのか、が少しづつわかってくる。それがわかってくるから、自分はこれからどうしたいのか、どこに行きたいのか、何をしたいのか、も明確になっていく。と同時に、自分を取り巻く大きな流れの存在にも気づく。

次は自分が流れのどこにいるのかを考察していく。
考察の伴わない行動から自分の位置をわりだすことは出来ない。
それは永遠に迷い続けることを意味する。

人生が永遠ならば偶然を待つこともできるが人生の時間は有限である。
その時間の中で自分が何者なのかを知らずに生きることは方位磁石や航海法を持たずに海を旅することに等しい。

確かに生まれそして死んでいくという道の最初と最後は決まっている。
何もしなくても何をやっても最初と最後は誰しも同じである。

映画も小説も旅もはじまりがあって終わりがある。
どんな映画を観るか、あるいは出るかは個人の自由だがどうせならば僕は面白い映画を観たいし出たい、と思う。

そのためには自分がどこにいるのかまずはそれを知ることからはじめよう、というのが僕の考えである。

「イチローx北野武」の対談から随分話題が膨らんでしまったが二人の対談にはそのくらいインスパイアされる要素が詰まっていたし、話を聞いていたら元気が出た。

最後に気がついたことだがイチロー選手はとても綺麗な言葉を使う人だった。
イチロー選手に限らずトップアスリートはみんな使っている言葉が違うように感じる。
言葉が人をつくるのか人が言葉をつくるのか。
興味深いポイントだと思った。

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投稿者 TKM : 2004年05月27日 05:48

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コメント

自分は何の魚なのか、に「あッ!」と。

主婦で母で会社員で女で志乃で・・・大変だねとよく言われるけれど、そう思わない。

いろんな環境に同時に入っていって、出来事が同時に進行していく。この面白さは抜けられないけれど、これって何の魚なんだろう。

投稿者 志乃 : 2004年05月27日 09:47

オレも「野球、同じプレーヤーx9 vs 同じプレーヤーx9」 考えたことがある!

っていうのも、私は、野球というスポーツは
チームスポーツでなく、個人競技と
思っているから。 なら、個人x9 vs 個人x9
というものが、一番野球というスポーツを反映させる やり方ではないか、と思っていた。

現実では無理だが、コンピュータゲームでは
それを疑似体験できるはず。(データがいかに
リアルに数値化できるか、って問題はあるが)

仮想空間上ならいろいろ ためせそうだなぁ。

投稿者 GC_Factory : 2004年05月27日 12:25

>これって何の魚なんだろう。

そういうってなんていうんだろうね。女性しかできないよな子供産んで育てるという偉業は。考えてみれば「親」というのもひとつのプロだよね。クローズドな世界ではあるけれど。そこに秘められたノウハウを共有し一般化できたら(一部という意味で)子供の未来とか将来はより広がっていくのだろうか。あまりイメージはできないけれどみんなそれなりにプロの親やってるわけでどこかしらそこに勝負をかけた人々には共通項があるのでは。先日の志乃ちゃんのエントリーにもあったみたいにね。

>私は、野球というスポーツは
>チームスポーツでなく、個人競技と
>思っているから。

これは面白い見方だよね。
オレは野球ってタラタラしていてあんまり好きじゃなかったんだけれどイチロー選手とか新庄とか特定の選手に注目してみるとまた違った見え方をするわけで、いままでそういう視点がなかったということなんだな。

「食い倒れ」とも通じるのだけれど「どうやってみると面白いのか。野球を面白く観るコンテクストを自分の中に構築する」という作業が必要なんだろうね。

投稿者 かがや : 2004年05月27日 13:43

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