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2004年06月20日

[エッセイ] 擬態性難解症

擬態性難解症」という言葉を初めて知った。
判断力」という本の中でみつけたのだが読んでいて「こういう人っているよな」と思わず膝を打った。

「擬態性難解症」とは筆者の言葉によれば「分かり切ったことをわざわざ難しくいう」ことである。

質問をすると難解な説明をする人がいる。しかしたいていの場合、それは問いへの答えではない。いかにも「オレ様は知者だよ」という態度はわかるのだが話に核心がないから心に響いてこない。

話はそれるが糸井重里がモデレータをつとめるシンポジウムや会合にいくと彼がやっているのは言葉の翻訳なんだと気づく。自分の意見をいうというよりも相手の言葉を咀嚼して「それって簡単にいうとこういうことじゃないですか」と専門家でなくても理解できる言葉への置き換えをやっているだけなのだがこれが驚くほど上手だ。なるほどこういう言い方にすればいいのかといつも感心する。

ネット上の文章にも擬態性難解症が多い。
難しい言い回しを使いたいその気持ちは理解できるが何をいっているのかよくわからない論文や意味や気持ちの伝わってこない「つまらない」テキストが多い。誰かに伝えようとして書かれているわけではないから仕方がないといえば仕方がないのだがほとんどは議論の為の議論や揚げ足取りばかりで核心がない。

意見や自分がそこにないのだ。
意見を出し、自分を出す、ことは「リスク」が伴う行為だ。
しかしそれをやらなかったらコミュニケーションははじまらない。

告白するときに勇気が必要なのはそこに「リスク」があるからで、だからこそ緊張もするわけだがそのリスクなくしては相手との関係を劇的に変えることはできない。

簡単にいうと何かをやるときは「やってみる」という選択肢は存在せず「やる」か「やらない」しかないということだ。

投稿者 TKM : 2004年06月20日 09:35

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