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2004年06月25日
[雑記] ベジャール(2)/小学校の作文
■作家と言葉
「作品で大切なのは何を基にするかだ」
ベジャールの創作は作品の「基」を決めることからはじまる。
恋愛であれば二人の関係性を基にする。言葉を基にする場合もあるし音を鍵とすることもある。「リュミエール」ではその言葉が示す通り「光」が作品の基になっている。
光とは何か。
「リュミエール」ではそれを問うことから創作がはじまったそうだ。
僕はアーティストの使う言葉が好きだ。彼らの言葉は難解ではない。(かといってわかりやすいわけでもないが)しかし響いてくる。剣に例えるなら「ただ一撃の為に」とでもなるだろうか。打ち込むべき一点を的確に打ち込んでくる。
ある命題に意識を向けることはできてもその問題意識を維持することは難しい。
どうして彼らは探求というモードで思考を維持できるのだろう。
そしてこう続く。
「私はメモはとらない。準備したものは嘘だ」
この言葉にはしびれた。
と同時に「私はメモはとらない」という言葉をメモしている自分とは何なのだろうと思った。自分の内部で言葉の意味が反転していく。「メモをとらない」という言葉をメモする自分は嘘なのだろうか。
++++++
自分は思うままに書いているだけだ。
何かを伝えようという思いはない。
先日岸崎さんと書くということについて話をした。
自分は書きながら考える。
画面に浮かびあがる文字を「読み」ながら「書く」。
PCで書く時の感覚は「書く」よりも「読む」に近い。
楽しいとか面白いという感覚とは少し違う。
言葉をツールとして使った思考である。
だから原稿を書く時のライティングとは全く違う。作文とも違う。エッセイでもない。おそらく何でもない。
■フィードフォワード
リュミエールの創作過程をみていたらフィードフォワードという言葉が思い浮かんだ。
少し先の未来があってそこから今を引き出している。
再現ではない。
再現が不可能な時間の連続。
モードあるいは気配といった固定できない感覚の再現なのだがそれは再現ではない。
固定しないことによるパターンの伝承のような外側の概念をつかった固定。
先日もエントリーで書いたが「非制御による制御」のイメージと重なる。
話はリュミエールからそれるが自分はある物や現象をみて全く別なことを考えるのが好きだ。目の前にある現象はその背後にある全く別な物事を考えるきっかけである。コンテンツをみる時は常にそういう視点にたつ。感想とは異なる。このやり方は小学生の頃から変わらない。夏休みになると読書感想文を書く宿題がでる。しかし本についての感想を書いたことはない。本を読んで自分が考えたことを書いていた。
小学校二年の時のことである。その当時の担任は森田先生という50歳くらいの女性だった。ある日、視聴覚室で「チビデカ物語」という短編映像をみせられた。身体の小さい少年と身体の大きい少年の冒険談みたいなものだった。視聴後に感想を書くように言われた。何年か前に家に帰ったときに過去のノートをみたらその時の感想文があって読んだら面白かった。
「ちびデカというから刑事が登場し、事件を解決するものと期待していたら全く予想に反して学校の物語だったのでつまらなかった。最初のシーンで壁をやぶらないのは何故なのだろう。意味がない。あのまま学校を飛び出し、二人が逃走の果てに何かをみつけるのかと思っていたのに。」
だいたいこんなことが書かれていた。先生のコメントは確か「あなたが作品とは全然関係ないことについて書いてあってとても残念です」だった。
あのころの感想文や作文をいま読んでみたいがもうなくなっているのだろうな。これから先の学校の授業で書いた作文は全部デジタル化してアーカイブにしておいてもらいたい。あるいはPCで書いてウェブにアップするなどの方法で共有するのもいい。小学生の頃の作文をいつでも読めたら何かが変わるかもしれないし。個人の創作物のアーカイブがあったらそれがどんな作品や作文であっても自分にとっては価値がある。小学生の頃に書いたテストの答案や自分が書いたいろんなもの全てをもう一度みてみたい。
※驚いたことに「ちびでか物語」をネットで検索してみたらいくつかでてきた。解説があったので引用しておく。
投稿者 TKM : 2004年06月25日 06:38
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