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2004年07月31日
ディスプレイの威力
ブログをデータベースに対応させたのだが肝心のデータベースサーバのパフォーマンスが悪いので再度全体を作り直している。
先日、約500通のコメントスパムがあった。コメントスパムというのはブログのコメントにスパムメールのような内容の書き込みを行うものでバイアグラだとかのセールスが主でほとんどは英語で書かれている。これらの書き込みはプログラムにより自動化されており、MovableType(このサイトで使っているブログエンジン)のmt.cgiというプログラムを直接叩いてくる。
最近リリースされたVersion3.0ではコメントスパム対策がいくつか盛り込まれているので早急に乗り換えねばならないな、と思っていたのだがいざPCに向かうとやる気が起きずどうにも後手にまわってしまっていた。
Macでないと製作系のモチベーションがあがってこないのだが肝心のiMacが画面は狭いしトロいというわけでやる気がドライブしてこないのである。贅沢といえば贅沢な話だが実際にやってみると製作系の作業で画面が狭くて遅いというのは致命的である。
PCを買おうとしている人で何らかの製作をしてみたいと思っている人は迷わず広大なデスクトップの実現に資金を投入すべきだ。ディスプレイに関しては一度そろえてしまえば数年は使える。その為、ダメディスプレイ、ダメデスクトップ領域で構築してしまってもそのまま使えてしまうので惰性で作業効率の悪い環境を使い続けることになりがちなのだ。
マシンの買い換えは思った時にパっとやれるがディスプレイの買い換えにはなかなかの断力がいる。だからこそ何かしらの製作にマシンを使おうと思っているのであれば一発目で最低でもSXGA(1280x1024)の表示領域を確保できるディスプレイを導入しておいて損はない。
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投稿者 TKM : 12:50 | コメント (6) | トラックバック
2004年07月29日
当世コンテンツ事情 1.どうにもまどろっこしいネット系のコンテンツ
ウェブサービスやウェブコンテンツをみているとまわりくどいものが多くて嫌になる。
特にデザインだけエンターテイメントな雰囲気を醸し出しているサービス。
どれもこれも直球がない。
ダイレクトに響いてこない。
これよりはまだパチンコの方がましである。
玉を買って、台に座って、打ち、当たれば玉がでてお金かモノに替えることができる。
というシンプルさと射幸性がパチンコの面白さの本質である。
まあギャンブルなんだから仕方ないよと言われてしまえばそれまでなのだけれど。
でもネットのコンテンツが「堅い」のも事実。
つくっている人が優秀だからこんなことになる。
もともとコンテンツや遊びなんていうものは「仕事っつってもなあ」とかいってるメディア的には「どーしようもない人々」が開発したものだ。いまではソニーもMSもゲーム屋になってるけれどあれだってオレらがガキの頃は「ゲームばっかりやってるとバカになるぞ」と脅かされつつそれでもしょーもなくやり続けていたから今みたいになってるわけだし、いまや国策とまでなったアニメにしても子供の頃はTVでアニメばっかりみてると「あと○○分にしろ」とか「せめてニュースをみろ」とか大人にとってはネガティブな印象が強かったのであろう。それがいまや携わる人々が羨望のまなざしでみられようとは。
状況の変化や流れとはいえこうも変わるか。
さてネットのコンテンツだが。
「疲れ」てしまうものが多いのには理由がある。
自分も現場にいたのでわかるがたいがいが企業内で仕事として人材と頭とお金とをつかって開発されている。これがまずマイナスの最大要因である。例外もあるだろうけれどやっぱりコンテンツの発端というのは「遊び」とか「創る」とか「知りたい」とか「やってみたい」みたいな感情にあってそういうのはこれとこれを足すとこうなるみたいな予想可能な方法論ではなく大抵、ズレたところやほころびからはじまる。
ゲームもつまらなくなりはじめはこれは儲かるぞとばかりに様々な企業が仕事としてつくりはじめたころからではなかろうか。例外もあるので一概には言えないけれど大まかにいって大規模になりはじめて以降ゲームはコンテンツから商品に変わっていったというような印象を受けるのである。
一部の映画タイトルやゲームタイトルのように規模が巨大になり製作にかかる金額が大規模になってうまくシステムを組まないとビジネスとしては成立させることができない種類のコンテンツもあるわけでそれはそれでいいのだけれど。ただ、そういうやり方にはなんとなく先がないような気がしてしまう。
まあそれらの巨大なコンテンツも基本は「面白い映像やストーリーをみせて喜ばせる」なわけで極めてシンプルだ。
ところがネットの場合だとここがまどろっこしい。
どんな「面白さ」を伝えたいのか「何がしたいのか」がどうにも遠回りなのだ。
アダルトサイトやギャンブルサイトなどはうまくいっている事例かもしれないけれどそれらはコンテンツというよりは流通業みたいなものなわけでくくりを別にすべきじゃないかと僕は思うのだがそれらにしてもバックヤードのシステムは複雑になっている場合もあるが「魅力的な映像の提供」や「いつでも好きな場所でギャンブルを楽しむ」等のように一言でいえるくらいコンセプトはシンプルだ。
話は飛ぶけれど、ラスコー洞窟の壁画はあの時代の人にしか描けない。絵の具やら道具やら絵を取り巻く状況や人の認識等々が変化してしまっているのでいまの人があの絵を描くことはできない。まねして似たような絵を描くことはできると思う。しかし、ゼロからいきなりあの絵を描くことはできないだろうと思う。
同じようにゲームなんかもアイスクライマーやテトリスなんかができたのは技術が未熟だった背景が大きく影響していると思う。いまの技術で同じようなゲームを企画して開発することは難しいだろう。もちろん技術的な問題ではない。またどんなに完成度が高くて面白くても関係ない。ユーザがそのゲームに触れ良さを感じることができる、そういう機会をつくることが困難になってきているのである。
投稿者 TKM : 13:37 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月28日
「マッハ!!!!!!」 ~タイパワー爆発 燃えよ肉体~
都内にもどって一日目。
やけにバタバタした一日であったが地道に雑務をこなす。
夕刻過ぎ。
「マッハ!!!!!」を鑑賞。
ジャッキーを超えたノースタントアクションに拍手喝采。
ムエタイアクションというニュージャンルの誕生である。
映画の内容はない。
全くない。
村から持ち去られた仏像の首を取り戻すべく村の青年がバンコクへ冒険の旅に出る。といった全くなんのひねりもない活劇である。ところがこの映画がやけに面白いのである。映画を観ていると言うよりも気分はWWEである。アメリカンプロレスにPRIDEとK-1の「キレ」を加えたようなアジアンアクションが満載だ。
セリフだけを聴いているとタイ語の柔らかい語感にほんわかした気分になるがこれが相対的にアクションシーンのすさまじさを強調する効果を発揮している。
ノーワイヤーアクション、ノーCG、ノースタントをうたっているのは伊達ではない。要所要所にストップモーションで再現されるアクションシーンの数々は全盛期のジャッキーを遙かにしのぐ。圧巻はバンコク市内で行われる逃走劇で町中のアイテム、屋台や車などを使ったアクロバティックな「ラン」。これには度肝を抜かれた。通りから走り込んでくる車と地面の間の50cmの隙間を開脚したままのスライディングで通り抜け、職人が運んでいるガラス板の間のわずか30cmほどの隙間を側転する。はては車を飛び越えるのに前方二回宙返りをかまし、飛び上がって10人ほどの追っての肩を走り抜ける。ほとんどマンガの世界だが主演のトニー・ジャーはこれをノースタント、ノーCGでこなしていくのである。
この役者何者であろうか?
劇中、その問いが絶えず繰り返された。
オフィシャルサイトで経歴をチェックすると撮影所の雑用係をこなしながらタイアクション映画の重鎮パンナー・リットグライからスタントを習い。剣術、テコンドー、体操を学び「モータルコンバット2」でスタント・ダブルの後にこの映画で主演とのことである。
一言で言って「躰力(からだぢから)」な映画であった。ノースタント、ノーワイヤー、ノーCGの迫力は画面からも十二分に伝わってくる。体術以外の見せ場は全くないのだがそれが「魅せる」のである。撮影方法も体術の映えを重視した手法が多用されておりそれがまたアクションシーンの過激度をアップしている。観ていて思わず「ウォー、これホントかよ?」と何度もため息をついた。CGを全く使わない実写でマンガを体現するとこうなるという最高の見本であるし、アジアンアクションの新たな風といって過言ではあるまい。映画界のK-1ならぬムエタイアクションの今後に期待するとともに格闘技大国の日本を舞台にした怒級のアジアンアクションムービーを実現したいものだ。
※ともかくみていて体術の異様さに笑ってしまう。
投稿者 TKM : 08:32 | コメント (4) | トラックバック
2004年07月27日
スネ夫をデリート
自分も時々やらかすのだが関係性をひけらかすような文章に強い嫌悪を感じる。
それをスノッブと呼ぶならそうなのかもしれないが誰と何をどうやったというような「コト」をひけらかされているようでどうにもいけすかない、という場合が多い。そうでないこともあるのだが大抵はどこかしら顕示欲のようなものが文章に漂っている。
こうした文章を目にすると筆者の歪んだ甘え或いは卑屈さが瞬時に伝わってくる。
目を通じて腐臭が入り込み少しづつ内面が腐っていく。
だから、「ンッ」、と思ったら決してそれ以上を読み進めてはいけない。
全くこれっぽっちの後悔を抱く必要もなくデリートである。
それらの気配を漂わすスカなテキスト、陳腐、軽薄なる文章に意識を向ける必要はない。
見分けるポイントは
・これみよがしな数値や額の話が多い
・これみよがしな名前の提示が多い
・メディアによる価値の担保や伝聞の価値担保を多用する
・そのくせに知ったかぶり
・自慢あるいは、まわりくどい
・自己憐憫のにおいがプンプンする
簡単にいうと
・ネガティブサイドだけのスネ夫
ということだ。
投稿者 TKM : 23:13 | コメント (0) | トラックバック
馬との対峙
一週間ぶりにキーボードに触る。
夏祭りで福島に戻っている間は世事とはかけ離れた戦国な世界であった。周りはみな馬だし、人は甲冑を着ているし、「ハイ、ちょっと持ってて」といって手渡されたのは本物の日本刀やら兜やら。
馬にもなれて「引き手」と呼ばれる馬用の道具(犬でいうところの首輪と紐のようなもの)で馬を捕り回すことも出来るようになった。暴れさせなければ馬は美しい動物だ。ただし犬や猫とは違った肉体の美しさである。祭りに参加する馬の多くはもとは競技用か競走馬である。彼らの身体は驚くほどにしなやかな筋肉でできている。
馬力という言葉があるがあの筋肉に触れるとそれが人の持つ腕力では遠く及ばないものだとわかる。
祭りは壮観であった。
しかし自分にとっては馬と対峙していたあの時間や彼らのまなざしの方が強く記憶に残っている。
投稿者 TKM : 22:45 | コメント (2) | トラックバック
2004年07月21日
スカの大群とライブ力、変通性
今日の茂木さんの日記。
自分が言いたいことを代弁してくれている。
いま売れている本の9割9分は来年はブックオフで100円だし、10年後には再生紙だ。それをよしとするメディアの論調はどこか歪んでいる。
売れれば何でもいいのか、という議論は売れるものが作れないマヌケの遠吠えだ、という意見もある。おそらく微妙なのだ。良いものが売れるわけではない。かといって売れないものがいいものであるというわけでもない。
要は「スカ」が大手を振って「どうだ」といってる裸の王様なんだけれど都合が悪くなるとコンテンツの出来不出来に商業的な基準を持ち込むからおかしくなる。何がスカで何がそうでないかは受け手の状況によるとはいえどうしようもないくらいにスカなコンテンツがベストセラーになるのはもう出版やらTVやらが終わってることの証明に思える。かといってネットのコンテンツがいいのかといったらそんなこともなく、さらにスカってるのがほとんどなのだが。アクセスの多いサイトでスカってないものはみたことがない。どれもおちゃらけかウケねらいでせいぜい「蟻」が「羽蟻」になったようなものだ。形はあっても本音はない。Voyagerの萩野さんなら「まがいもの」と一喝するだろう。
社会的なジレンマが拡大浸透している感じだ。
食も場も何もかもがそう。
中には万に一つくらいマシなものもあるとはいえそのほとんどがスカである。
たいしたことのないものだ。
それをありがたがって悦に入るのはメディアの影響なのだろうか。
本当に心底、それをいいと思ってるのか?とオレは問いたいのだが。
などといってる暇があるなら自分がベストのコンテンツを楽しめばいいのだから、楽しむ方法を考えろ、という意見もある。が、とここでことわっておきたいのはダメなものはダメっていった方がいい場合もある。自分さえ関係なければなんでもいいというわけではあるまい。
「学問のすすめ」ってほとんどがそういう話なんだけれどだとしたらあの本はたわごとまみれのあってはいけない失敗作なのだろうか。少なくともあの本はいまだに面白いし、DVDに焼き込まれた最新のソフトよりもファミコンミニの方がコンテンツ面白いのは何故だ?
コンテンツの本質はそういう部分にあると思う。
関係ないが先日いったライブもよかった。ライブという場はまだ死んでいない。
盛り上がるライブはスカではない。
ライブの場にあっては人は感覚によってスカとそうでないものを判断する。
しかも的確に。
スカなライブはそれがどんなものであっても。メディアがどんなに力を入れても。意味がどんなにあっても。パフォーマンスが悪ければ盛り上がることはない。
ここに可能性を感じるのである。
ライブ力。
今力と変通性。
そういえば教育もライブである。
投稿者 TKM : 02:09 | コメント (1) | トラックバック
二人との対話と時代に益なすベストな形
久しぶりに親友の太と話した。
明日の終業式が終わると彼の夏休みが始まる。
自分と太は17歳と31歳というコンビだが二人のチームワークはバツグンである。
もう15年のつき合いになるので当たり前といえばあたりまえだが年齢にかかわらず15年もの間、親交を保ち続けている友人はそれほど多くはない。歳が上だからとか下だからというのは関係ない。相手に見習うべきところがあるなら学ぶべきだし、教えをこうべきだ。人生全体でみたら10年や20年の差などたいしたものではない。
今年の夏もこのチームで活躍することになりそうである。
彼は乗馬の名手である。
1000年の歴史を持つ野馬追いという地元の祭事での彼と彼の父であり我が親友でもある三品真一軍者の勇姿は壮観である。今年は彼の妹と父が出陣する。
※なんとこのお祭に参加する人は参加とはいわない。いまだに戦国時代同様「出陣」なのである。ちなみに祝ののしは「祝御出陣」である。
このイベントについては写真や動画でもそのイメージを伝えるのが難しい。馬600騎による軍事演習というのがイベントのクライマックスなのだがこのイベントの本質はそのスペクタクル感ではなく、祭りの行われる3日間の間、変容する街の空気にある。朝靄の中を甲冑を着た武者と軍馬がゆっくりと出陣の儀式に向かう様のファンタジー度は映画「戦国自衛隊」の比ではない。(ちなみに、戦国自衛隊の冒頭の戦闘シーンは僕の地元で撮影された。またあのシーンに登場する戦国武士も野馬追いの参加者達である。毎年、実戦をやっている人々だから迫力があるのも当然である)
昨夜はもう一人の親友と話をした。
僕がいうのも何だが彼女は才媛である。
来月からは研究でスイスにいかれるとのことで夢に向かってひたむきに進んでいることを知って嬉しかった。いつも思うが優秀な人はみな謙虚である。石井先生もそうだし、彼女もそうだ。言葉が奥ゆかしいというかガチャガチャしていない。相手を引き出すような言葉の使い方なのである。話していると自分もこういう風に言葉を使えるようになりたいと思うのだがなかなかうまくいかない。
彼女の専門は開発教育である。
教育関連ということでこの間、参加したしんのすけの授業について簡単に説明した。
二人とも何かしらえるところがあるに違いないと思うので彼女がスイスから戻られたら二人を引き合わせたい。勘だけれどいいコラボレーションにつながるはずだ。しんのすけのプログラムが世界に広がっていくきっかけになるだろう。
あとは私事だが来月から就職活動をはじめることにした。
詳細はいずれ。
福沢諭吉の「蟻の人生」という一文を読んでから思索するうちに長年感じていた違和感の理由がわかった。茂木さんの「スカスカする日本」という論考も深く心に響いた。
楽しいという言葉や面白いという言葉でごまかされているがたいていのことはスカスカなのだ。
福沢諭吉は「学問のすすめ」で繰り返し「コンテクスト」の重要性を訴えている。
「変通」という言葉を使っているが同じ事象が時や状況などのコンテクストによって全く価値を変えてしまうことについて様々な事例を用いて論じている。
「ヒロイズムの価値は認めるけれどもどうせだったらそのヒロイズムが時代にベストな形でフィットして益なしている、っていうほうがよくないかい、それが道理じゃないかな、違うかい?」
そういわれているように僕は思った。
投稿者 TKM : 00:58 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月19日
クオリア日記
このところかかさず「茂木健一郎 クオリア日記」を読んでいる。
脳科学の研究者である茂木さんの日記なのだが日常の情景に対する茂木さんの考察にはどこか哀しみの余韻のようなものがあってそれが全体のトーンを変え作家特有の「ひき」の感覚をあらわしているのが好きだ。
金曜の講座にでるつもりだったのだが諸処の事情でかなわなかった。
自分の意志決定の未熟さが原因である。
この件に関しては改めて深く考察していきたい。
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投稿者 TKM : 11:49 | コメント (0) | トラックバック
wire 04 参戦 音楽と場が人を協調ベースの波にかえていく
久しぶりにレイブイベント wire 04へ参戦。
Orbitalのライブを聴いたのは二度目だ。
先回はよくわかっていなかったが今回はしっかりと聴いた。
ゆるやかにスタートすると数曲を経て徐々に場がOrbitalモードに切り替わっていく、後半にかけて完全に場が変質し個ではなく集団の感情を帯びた空気が極限へと向かっていく様子は圧巻であった。
その頃にはすでに身体も心も「我時を忘れたり」である。
あっさりと終電をあきらめた。
それだけの価値がある演奏である。
周囲を見回すと熱狂とは異なる調和のような熱いうねりが人々を渦へと導いていた。
その光景にしばし目を奪われた。
雑多な集団がそれぞれに踊っているのだが時折みせる協調的な振る舞いがあってそれが結構わるくなく、気持ちいいのである。
自分を波にあわせるように身体と感覚を場に同調させていく。
このプロセスが心地よく、しばし時間と場所を忘れる。
これをうまく使えたなら社会的なジレンマも解決されるだろうか。
++++++
つきなみだが昨夜あの場で感じたことは次の一言につきる。
「精一杯生きる」
精一杯やっていれば人は案外、トラブルも起こさないし、楽しそうだし、協調的になるのだと思った。
※僕はこの手のレイブ系のイベントにうといのだがコンピュータミュージックの大御所である矢坂御大の尽力で今回のようにたぐいまれな機会をえることができた。ありがとう!
あらゆることに言えるのだろうけれどその道のプロにたずねれば今回のようにベストのモノとの出会いを与えてくれるのだなあ、と感心した。
投稿者 TKM : 06:33 | コメント (1) | トラックバック
2004年07月17日
[読書日記] 自省録/中曽根康弘 本を書くよりも大学で伝えるべし
数年前、月島の飲み屋で知り合った青年実業家が中曽根氏と縁のある人で一緒に会いにいこうと誘われたことがある。ビジネスに必至になのは理解できたのだが自分とは方向性が異なるのを感じて丁重にお断りした。その後もいろいろと開発の案件を紹介されたがどうしてもモチベーションのギアが入らなかった。
最近になってようやくわかったのだが僕はコンテンツの開発には興味があってもシステムやプログラムの開発統括には興味がない。いや違うか。案件がどんなものであれ「全力」「本気」で走ってよくて、なおかつそれが歓迎される(正確に評価される)ならOKなのだ。
案件を紹介されたり、相談されることがある。
これまでは稼がなければならない、という抑制下で仕事をしていたがどうにもギアが入れ違っている感じがしていた。理由は簡単でいってしまえばそのチームで「情」とか「気質」みたいなものを共有できるかどうかということである。
「よりいいものをつくっていく」という気持ちで立ち向かってもOKなものでないと結局は時間を浪費することになる。だからいまは本気でやっていい案件しかやらないことにしている。
※仕事の充実度は結局はコミュニケーションによる。いい仕事をする能力は誰にでもある。たいがいの場合、欠けているのは仕事を正しく評価する能力である。これかなり重要だと思う。
自省録だが全体の90%は読まなくても良い。
巻末で今後の外交の方向性について触れている5ページ分くらいの部分を読めば内容全体を把握できる。中曽根氏が体験されてきた政治の舞台裏はあえて読む必要はない。過去にひきづられれよりクリエイティブな政策をつくるさいに脳が抑制される懸念がある。
大局観について要所要所で言及されているが自身の大局観は具体的には言及されていない。もっとイメージできる言葉で伝えないと人には伝わらない。これは政治家に限らず擬態性難解症が引き起こす大きな問題だ。そうだ冒頭で小泉首相が引退勧告をつげに中曽根事務所に来たときの様子を描写するシーンがある。このシーンだがこんなことを言われる時点で時流と大局を読み違えていることの証である。
とはいえ長年の経験は伊達ではないだろうからその経験と視点は伝えられるべきである。
ゆるい本など出版せずにそれこそ大学の政治学部でバリバリに教えるなどして欲しいものだ。
最も有効な人材活用とはそういうものであろう。
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投稿者 TKM : 21:26 | コメント (0) | トラックバック
[夢日記] くすのきの下でピーマンを買う
一日中歩いたせいかぐっすり眠ってしまった。
夢の中で本を読んでいる。
普通の読書とは違ってページには言葉がない。
自分で言葉を探しながら読まなければならない。
ページを開くと少しづつ言葉が現れる。
それは読むというよりもひねりだすような感覚である。
そのかわり浮かび上がってきたテキストは心を揺さぶる。
言葉はわずかな時間だけその場に姿をあらわし消えていく。
そのひとつひとつが心に響いてくるのだった。
本を読んでいたのは実時間では2分くらいだろう。
シリコンバレーでゴルフコンペがあるので出かけなければならない。
デジタルマンガの集いである。
金子の案内でコースをまわる。
3mくらいの幅の土手である。
森の隣にはNYの町並みがみえる。
しばらくして「日本の科学とシリコンバレーの科学の違いは何ですか」と参加者から質問された。「日本の科学はマニュファクチャでシリコンバレーはサイエンスです」と答えたが意味はわからなかった。
デジタルマンガとは何ですかという質問があったので金子におまかせした。
塗りにむらがないのでべた塗りが楽ですと言っていた。
1mくらいの棒をもったおじさんと話をする。
彼はシリコンバレーのVCを運営している。
名刺交換をしようとするのだが一枚も名刺がない。
土手の上で人が通れるのは50cmくらいの道なのでみんなとすれ違うのが難しい。
「大脱走」の中でスティーブ・マックウィーンがバイクで土手を飛び越えるシーンがあるけれどあれと同じようにバイクが土手を飛び越していった。みとれていたらそろそろ雷の時間だと言われた。
大きな楠の下にあるショッピングセンターで母がナスとピーマンを買っていた。料理は1時間後に完成する。
投稿者 TKM : 10:20 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月15日
[雑記] 女子高生達と授業に参加
しんのすけの授業を観戦。
授業なので観戦とは言わないか。
完成度の高い授業に驚く。
生徒サイドのモチベーションも影響しているだろうけれど校長先生もいっていたように授業の構成の完成度は素晴らしかった。良質な参加型プレゼンテーションの基本形という感じがした。参加者の満足度を高め、相手の思考と発見、クリエイティビティを引き出していく。こうした講座はプレゼンテーションやセミナーの教科書としてアーカイブしておき、型を指導する際にかなり有効だと感じた。
講座、セミナー、授業というものは映像コンテンツとしてかなり魅力的である。コンテンツというとどうしてもアニメや映画などのエンターテイメント作品に目がいきがちだがそれは素人考えである。授業やセミナーは対人用のキラーコンテンツである。コンテンツ業界(そんなものは実はないのだが)ではここががら空きなのだ。
ゲストの金子の講義もよかった。
何がよかったかって、さすがデジタル漫画作家。
フラッシュで作成されたプレゼンシートのサービス精神とバランスはパワーポイント等の「機械」っぽさとは全く別ものであった。さらにトークも台本を読むという種類のものではなく状況をフィードバックしながらの「ライブ」感を取り込んでいて心地よかった。
両巨頭の講座(自分はプレゼンという視点でみていたのだが)をききながら企業の商品説明や記者発表などの担当者(たいてい長がつく)のプレゼンは相手への「愛情」に欠けているのだなあと思った。
商品がどれだけよくてもその良さは全く伝わっていない。先日の日立のボクサーの記者発表など特にそれを感じた。キーノートで作成されたプレゼンシートはわかったのだがそれを用いて何を伝えたいのかが全く不明瞭であった。というのも発表者から「愛情」が感じられないのだ。別な言葉でいうとライブを楽しんでいる、という感覚が伝わってこなかった。逆にゲストで登場したシックスアパートの平田さんはライブを楽しんでいるかのようにプレゼンを行っており、その楽しみ度合いがこちらも伝わってくるのであった。
さて、昨日はそんな二人の講座を堪能した後、校長先生らといろいろお話をした。その中で印象的だったのが学年によってカラーがあるという話である。東京女学館は一学年300人くらいでその中にはいろいろなタイプの生徒がいる。なのに学年毎に周期的にカラーが出るというのはどういうことなのだろう。
話をきいていると生徒達が優秀であることが必ずしもいいわけではなく、勿論、いいに決まっているのだが教師としては苦労させられたことの方が印象強く、つながりも深まるそうなのだ。勝手な推測だがその学年に存在を印象づける生徒が数人いる場合、その生徒のモードが伝播し、全体にエントレイメント(引き込み現象)が生じ、それによって系、この場合は学年という集団に空気が伝播しモードが浸透していくのだと思う。状況によって個人の人格や振る舞いもかわるのである。
こういうことは我々の生活の中にもよくあってその人といるときの自分と別な人といるときの自分では人格が異なる、という経験があると思う。親といるときの自分と恋人といるときの自分など同じ人間でも振る舞いは変化するだろう。同じように学校での自分、会社での自分、友達といるときの自分、などなど。人は環境と状況によって振る舞い、性格を変化させる。
授業を終えてからしんのすけ、金子の二人とカフェで話をした。
生徒達のモチベーションの高さに驚いたこと、みんないろいろなことを考えているんだな、ということなどなど。授業中に僕がメモした内容についても簡単に議論してみた。しんのすけの課題は「20xx年後の○○がどうなっているかを調べてくること。またあなたはそれをどうしたいと思うか。その希望も考えてくること」であった。
ある生徒が葬儀の50年後を調べてきた。
彼女の調査によると50年後に我々のお墓というものはなくなって、納骨堂のようなビルにみんなが入るそうだ。これはこれでかなり面白く、なるほどなー、と感心したのだが彼女が面白かったのはその後だ。
「私はお墓がなくなるのは嫌です。何故かというとお墓がなくなったらキモダメシができなくなります。」
何故、キモダメシ!?
正直いってヤラレタと思った。このセンスなのだ。これがあるから女の子は侮れない。ナイーブ(安易という意味でのそれであって決して感受性という意ではない)さは確かに否めないけれど感性というのはこういうことをいうのだ。
プランニングの基本もこれだ。
彼女のこの言葉こそプランニングの肝なのだ。
それをわかっていない人があまりにも多いので世の企画やコンテンツには「媚び」が蔓延するがそんなものはどうでもいいのだ。
肝試し結構。
彼女の言葉は墓というモノの本質をついた言葉だと僕は思う。
彼女の発言には墓というものに対する彼女の「コンセプト」が明確に現れている。
彼女にとって墓は「楽しい」や「遊び」の一部なのである。
これは重要で、墓まいりに何故いかなくなるか、といえばそれが「楽しさ」「面白さ」とリンクしていないからである。何もエンターテイメントである必要はない荘厳さや厳粛さでもいいのだ。ようするにそこにコンテンツとしての魅力があれば人はその場に集う。現に自分の家の墓にはいかなくても世界中の墓の前には日本人が長蛇している。
ピラミッドもなりはでかいがもとをただせば墓だし、有名どころの遺跡の多くもなんのことはない「墓」だ。(そういう意味ではピラミッドをつくった王様はエライ。何千年も過ぎてるのにいまだにエジプトの民に益を与えている)
墓というものを考え直すきっかけと未来を感じさせるコンセプトが彼女の言葉にはあった。あの瞬間、僕には未来の墓のイメージがみえた。彼女は明確なビジョンをプレゼンしたわけではない。きっかけにすぎないのだけれどその「きっかけ」が最も大切なのである。
で、3人の結論だがこの授業がとてもうまく機能している理由の一つはモチベーションの高い生徒達にあるが、それは「女子校」という特異な場による彼女達のオープン性によるのではないかということである。
男子校だったらうまくいくだろうか。
また、共学であったらならばどうだろうか。
とイメージしてみるとやはりあの「オープン性」を作り出すのは難しいのではないかと思う。また中高一貫という部分も重要な要素に見えた。学校内であったどの生徒も「退き」の感覚ではなく、オープンに僕たちに接していた。
それぞれが自分の足場をもっているような、そんな印象である。
女子校の授業ははじめてであったし、学校によって事情は全く異なるのだろう。しかし、あのオープン性は発想をドライブさせる鍵になるのではないかと思った。あのオープン性を企業や組織に取り込んだならば企業はどう変質するのだろう。まだまだ面白いことはたくさんできそうだ。
++++++
やまけんに電話すると「メロンがある」というので金子と二人でごちそうになりにいった。頭痛がひどいらしくいつもの「ヤマケン力」が全くなかった。それがもう一つのおっとりしたインパクトの薄いヤマケンを作り出しており味わい深くもあった。
お好み焼き屋につれていってくれたのだが。
やまけんはほとんど食べていなかった。
メロンは昨年同様おいしかった。
丁度、そのメロンをつくった人から電話がきたので金子と二人で感想をお伝えした。
月島についたらお祭の後の浴衣すがたの人々でにぎわっていた。
祭りだったのをすっかり忘れていた。
投稿者 TKM : 08:44 | コメント (6) | トラックバック
2004年07月14日
[雑記] 信号に縛られる人々
昨日は印象的な出来事が二つあった。
具体的に明記するのはやめておくが言いたいことをまとめると次のようになる。
・信号理論がそこかしこに浸透している
・器量の超縮小化とルールへの過度の依存が進行している
目の前で交通事故が起こったとする。
事故の衝撃で車のドアが大破し開かない。
中には小さな女の子が乗っている。
血も流れている。
事故が起こった場所はある店の前だった。
その店には工具がおいてある。
「すみません、工具を貸してもらえますか。ドアが開かないんです。」
「いやー、うちは工具の貸し出しはしてないんですよ。他で借りてきてください」
彼はルールに従っただけだという。
「工具は貸さない」というルールがあり、それに従ったまでだ、と。
一人一人は悪い人だとは思わない。
知らず知らずのうちに「それをやるとしかられる」という信号に制限されるうちに道理としてすべきこともルールや規約にないから「できません」になっていく。「攻め」と「守り」でいうと圧倒的に守りの姿勢なのだ。
現実への批判や否定は何もうまない。
それを言葉にするくらいならば自分で行動すべし、という人もいる。
「こうした方がいい」ということが自明のことであってもルールや規約で「できない」と思っていることが山ほどある。発想が逆になってしまっている。ルールや規約はそれによって社会生活が良くなる場合に限って維持し尊重されるべきであり、環境の変化に応じてチューニングされなければならない。そもそもルールは人の生活をよりよくするために設けられたものでそれが合わなくなってきているならば速やかに調整されなければならない。
様々な場所で目的と手段がいれかわってしまっている。
警察は自転車の盗難や二人乗り駐車禁止の取り締まりには熱心だが凶悪犯罪の捜査には全く不熱心なのは何故なのか。
大きな病院にいくとどんな重病人でも何時間も待たされるのは何故なのか。
どの政党が勝とうとどの政治家が当選しようと現行のシステムでは上記の問題を解決できない。
それが問題の本質だ。
リニアモーターカーによる中央新幹線が実現されない理由を知っているだろうか?
これらの根は全て同じなのだ。
企業ならば競争によって最適化が進むという考え方もある。
結果、コンビニ化に向かっているわけで必ずしもそれが良いとは言えないが必要性にあわあせて変化していった結果がそれなのだ、と考えることもできる。
それでもより「合うもの」にしていかないと消滅の危機にさらされる、という点でマーケットエコノミーの方が政治システムより機動性がある。
政治の問題は結局のところ個人が政治家を選んでいるわけだから個人の責任だ、と言われる。しかし好んで政治家になろうとする人は少ない。何故か?割にあわないからだ。
まともなことをやろうとする人がまともにやれないのが政治なのだ。
そもそもここがズレている。
政治が扱うべき問題と経済が扱うべき問題が一緒にされているのがそもそも問題なのだ。
概して既得権周辺の事業は実ユーザが不在だ。
よって評価もされないから競争も生じない。
カタチを変化させるという意志がない。
循環は失われていく。
うまくいえないのだが政治が扱うべき問題は別にあるはずだ。
方向性とか。
この人とあの人で利害が一致するかしないという問題は永遠にあってそれを政治の場に持ち込むのは違うだろう。なんかそれとは別な部分で大きな合意みたいなものはあるわけで、例えば「犯罪はないほうがいい」とか「町中にゴミを捨てる人はいない方がいい」とか「キンキンしないほうがいい」とか誰も反対しないけれど良くなったら気持ちいいことはたくさんある。
もっとベースの部分を扱わないとだめなのだ。
各論、詳細、細かいことはそれぞれもっと現場レベルでやればよくて、もっと大本の部分を攻める場があってそれらがおこなわれないと効果的ではない。かといって中央集権がどうとか分権がどうとかそういうことではなく、かなりシンプルなシステムの導入でエントレイメントが起こるみたいな。
国家100年の計とかアホなことはどうでもいいし、そんなことを言う人間がいたら信用してはいけない。そんなものはあるわけがない。無限に変動しつづける環境下でその相互作用を予見しコントロールすることはできない。
江戸時代の人も月の夢はみたと思う。
そういう100年はわかる。
しかしOSやそのインターフェイスを夢をみることができたとはおもわない。
と相変わらず散漫なのだが。
優秀な人は政治に向かわずビジネスに向かうように見える。
男女問わず。
いまビジネスの世界の第一線で活躍している人を全員政治に投入して組織からシステムからつくりかえて好きなようにやっていいから。その代わりこれとこれとこれという目標だけは達成して欲しい、と依頼したらガーっとやって全然違うマインドの社会にかわるんではないだろうか。しかもあっという間に。
そういうのがダイナミズムだと思うんだな。
あと、いろんなところで言われはじめた「既得権益に固執する老害な人々」だけれどこれだって、一部の話で中にはクリエイティブな老人もいるし、イノベーティブな人もいる。全部を一緒にし単純化するからうまくいかないのだ。「老害」はマインドの問題であって年代は関係ない。
若年であっても老人であっても賢人は賢人だし、愚は愚だ。それを高齢者は敬いましょう、というインチキくさい言葉でひとくくりにするからおかしくなる。ようは人間力の問題で。魅力ある人は魅力ある人は大切にされるし、魅力がない人はそれなりにしか扱われない。年齢など持ち出さずより魅力ある人間になるように自分を磨いていったらいいだけだ。また政治の問題も経済もおよそ人間が原因の問題はそのほとんどがコミュニケーションの問題で(「24」を観ていてもそう思った)大概はすれ違いとか互いの思惑のズレが反復増幅された結果、問題化、結晶化(秩序化)に至っている。
学問のすすめを読んだらここらに関しても福沢節が爆裂しており「殺される人と殺す人を一カ所に数日入れて腹割トークで話をさせたら何かしら通じる点はみつかる、故にその人ではなくその人の持つ怨望が問題の根なのだ」みたいな話がつづく。「学問のすすめ」は当時の超ベストセラーで300万部以上売れたらしい。で、人の持つ怨望のような目に見えないもの、「気力」(本ではスピリット)に目を向けよ、との説が様々に事例をあげて論じられている。そういえば福沢諭吉といえば戊辰戦争の時に外では刀を振り回し大砲がドカンドカンやってるという状況下で凛として経済書の講義をやっていたそうである。その時、使っていた経済書がウェイランドの「モラルサイエンス」だったのではないかと言われている。つまりいまのCRSの原点だ。
++++++
今日はしんのすけの手伝いで授業の撮影である。
金子の授業も楽しみだ。
投稿者 TKM : 11:39 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月13日
[雑記] 前進と後退
福沢諭吉の文章だがなかなか読み終わらない。当時の日本語の文語に慣れていない。ちょうど英語を読んでるのと同じスピードである。
で、諭吉っぽくてなんだが、
「世に前進と後退あり、然るに前進に向かうは人の道理にて世にそれを妨げる理なし」(加賀谷)
と強く思うこといと多けり。
投稿者 TKM : 12:42 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月12日
[雑記] 面白い人、つまらない人
濃い薄いという言い方が正しいとは思わないがとりあえず物事には濃い薄いという感覚がある。また何かをやったり、みたり、しているときに自分は「面白い・つまらない」を感じているわけだが何が面白く何がつまらないのだろうか。
面白いとつまらないの違いは一つには情報量だと思う。
つまらないもの、つまらないこと、は自分にとって有益な情報が圧倒的に少ない。
話をしていても「つまらない話」をする人もいるし、面白い人もいる。
つまらない話をする人はたいての場合、自分が重要と感じるような新しい情報を持っていない。
けれど同じ人が他の人にとってはとても「面白い人」である可能性もある。
僕にとっての「つまらない人」が他者にとっても「つまらない人」であるとは限らない。
また、言葉の内容がデータとして新しい内容を含んでいないからつまらない、ということでもない。自分が知っている物事についてであっても、その人の「モード」という情報が付加されることで全く別の印象と価値を生じさせることが多々ある。
雑誌やTVで著名人が商品を紹介するのはその人のモードによって商品自体の印象をかえるという目的もある。PRの世界はこうした手法で物やサービスを刷り込んでいく。
こういうのをパブリシティというのだけれどどんなに綺麗で派手であっても広告で宣伝される時、その商品はどこかうさんくさい。自社の商品を悪くいう広告はあまりない。ここがいいんだぞというウリをこれでもかという記号のラッシュでまとめこむ。
なので広告自体を楽しみはしてもそれで商品を判断するということは稀である。
そこで使われるのが前述のパブリシティという方法で商品を広告としてではなく記事や番組として刷り込んでいくという手法である。
この方法だと広告と違って商品の宣伝をしているわけではないから、商品を判断する基準になりやすい。例えばみのもんたがココアの効用をお昼のワイドショーでしゃべりまくったらココアの消費量と販売量が目に見えて向上した。
この場合、ココアという商品自体に革新的な改善があったわけではないがみのもんたというという著名人への信頼度によって商品の信頼性が向上したのである。勿論、ここでココアが紹介されたのは偶然ではない。ココアメーカーとPR会社の仕込みによって番組で取り上げられたのである。更に成功するPRの場合、これと同種の「仕込み」を各媒体で連鎖的に行っていく。一つが成功すれば他の媒体にもっていくときの成功事例になるので企画は通りやすくなる。
これらの企てがある程度機能的に働くとある程度のブームはつくられる。
これが本当のブームとして波及するかどうかを完全にコントロールすることはできないがメディア内部のブームに関してはある程度のコントロールは可能である。
話がそれた。
面白い・つまらないと情報量についての話だったのを忘れていた。
いや、こういうことをいま書いているのには理由があって人と会って話をしてもつまらない人が多い。それは何でだろうかと考えてみた。
自分がその人の面白さを引き出せないのか。
それともその人がもともと面白くないのか。
だとしたら何故その人は面白くないのだろうか。
と考えていくと簡単にいってしまうと「オヤ?!」がない人は概して面白くないのだ。
どんな業界のどんな職種の人でもこの法則は変わらない。
主婦でも面白い人もいるし、面白くない人もいる。
編集者でもTVマンでも広告マンでも全ての人が面白いわけではない。
つまらない人も大勢いる。
これは僕の心証なのだが「クリエイティブ」感覚のない人はつまらない。
何かしらその人の味というものがあって話であれ振る舞いであれ全てにそれが反映される。自分が相手から受け取るだけの姿勢でやってきた人と何かやってやろうと常に思っている人とでは空気が違ってくる。いろんな場面で。
TVとは人のみたいものをうつす奇妙なメディアだ。
TV番組は訴えたいものがあって創られるというケースは少ない。
人がみたいと思うからその番組はつくられる。
けれど、TVを観ているのと番組をつくるのでどちらが面白いだろう?
僕にとっての「面白い・つまらない」の違いはそのあたりにある。
というわけでかなり極論だが「創」の「エンジン」を内部に宿した人との対話は分野に関係なく面白い。
対話もいってみればある種の創造みたいなものでコミュニケーションによって場をつくっていく作業だ。すれ違うこともあるけれど初めての対話で人はお互いにどこがヒットするかその共通点を探り合う。
この探り合いのプロセスはクリエイティブ感覚といってもいいと思う。
その時、二者は互いの関係性を創造しているのだ。
人との間に対話を築くのが得意な人はそうした職業につくし、文字との間に関係を築くのが上手な人はモノを書く。
脱超能力者の清田氏に何故スプーンだったのか?と訪ねた時、彼は
「何故かスプーンとはコミュニケートできたんだ」
といっていた。同じように人々は自分がコミュニケートしやすい分野でその「創のエンジン」を発動していく。そしてこの「創エンジン」がつくりだす「クリエイティブ感」の有無が面白さを決めている。
料理でもそれは同じだ。
料理という表にあらわれたものの背景にどれだけの情報量がつまっているかが本質的な料理の価値だと思う。定量化はできないがまずい料理とうまい料理の情報量の差はパッとみただけでも明らかだと思う。
と話は散漫になってしまったがどれだけ他者を喜ばせることができるか、ということはどれだけ他者にとって価値のある情報を提供できるか、ということでもあり、恋愛や家族関係や人間関係、全ては「その人がどんな人なのか」つきつめていくと人の価値はそこに集約される。
++++++
※昨日の新庄選手のパフォーマンスがなぜ面白かったのか。
その理由はそこに「オヤ?!」があり、彼のつくりだす妙な雰囲気・空気があったからで、
その空気はあの場の関係性を通じて彼という存在がつくりだしたものだと思うのだ。
個性とは創造性とつながっており、逆説的だが多の同意を得るものは何らかのカタチで個であるが弧ではない。他者の内部にある何らかの感情を思い出させる鍵として機能する。言い換えると反応できるということはどの人の中にも同じ要素はあるわけで、それをカタチとして表出できるかどうかが「クリエイティブなモード」であるか否かを決めるのだ。(やろうと思えば程度の差こそあれ誰でもできるし、やっているとできるようになる。ようはやっていないだけ、ということなのだろう)
あと全然関係ないのだけれど「学問のすすめ」を読み進めていて、あちこちにぶっとんだ比喩が満載なので少しづつ紹介していきます。読んでいると福沢諭吉は何かしら新しいことをいってるわけではなくて、持論や正論を展開し説明するときに妙な繋がりをみつけるのが異様に上手でそのつながりの付け方が「新しい」のだ。
投稿者 TKM : 14:10 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月11日
[政治] 選挙とキッシンジャー氏の発言
昼過ぎまどろんでいると複数のビジョンが並行して進んでいくのがみえた。
夢と覚醒のはざまである。
相互依存と関係性、相似象がイメージとして迫ってくるのをみていた。
物事は単独では存在しない。
時の影響下で相互依存の関係はあらゆるものに影響していく。
夜、選挙の開票中継をみた。
選挙の結果に対する議論は多いが政策に関する議論は少ない。
争点があるようにみえるが各候補や党は真っ向から対立する政策を掲げているわけではない。
学生が就職に対してネガティブにとらえているのと同様、選挙に対して多くの人が興味を持っていない。知名度や印象を基盤にした投票は株式市場を眺めているかのような印象をうける。個人投資家の投資基準と選挙での投票基準はあまりかわらない。メディアへの露出と個人の好みが投票・投資行動を決定している。
しかし否定も肯定も必要はない、のだと思う。
選挙というシステムが現実に対応できなくなっている。
選挙にもとづく政治・統治システムは過度に非効率的であり、もはや有効ではない。
政治も株式も似ている。
3年前の小泉ブームの時の映像をみていたらそう思った。
熱狂した人々はどこにきえたのだろう。
高校生でさえいまでは「コイズミ」と自国の首相を呼び捨てにする。
同じ人々が3年前には「小泉コール」を絶叫していた。
そんなおりキッシンジャー博士が9日づけにワシントンポストに投稿した論文についての記事を読んだ。
http://www.sankei.co.jp/news/morning/11int003.htm
先日のエントリーで六カ国協議について書いたが補足する意味でこのキッシンジャー氏の記事の最後の部分で触れられている3つのシナリオについて考えてみたい。
現行の政治体制、「バランサー外交」のままでいくならば1の選択肢が妥当となるだろう。問題は3である。こちらの可能性を否定することはできない。し、キッシンジャー氏も当面は国益の追求という名目でのコンセンサスの形成という流れを示唆している。
しかし本来は「2」だと思うのだ。
それは自分の考えでしかない、のだろうか。
関連性の渦の中でものごとをとらえる必要があるわけで非同盟志向は孤立をよしとする意志を感じてしまう。金森先生ではないがそれでは「つながり合う」の逆に進んでしまう。
大きなながれとして集散の後、世界はいくつかのブロックを形成していく。そのとき基盤になるのは地政学的な要素ではない。学校では席が決まっているけれど隣り合った席の人とグループをつくるわけではない。それと同じような連携の仕方をしていく。
政治というと脂ぎった顔のおじさんというイメージが強い。
それは僕らの世代の共通認識だと思う。
今日の選挙をみてもいまだに政治は国内問題としてしか捉えられていない。
政治に対する局所的な熱狂。
それに対して危機感ではなく違和感を感じる。
どの政党が勝つ負けるという問題はそれほど大きな問題ではない。
どの政党も政策に大きな差はない。(政権を取りうる政党という意味)
問題の本質はビジョンが欠けている、ということだ。
勿論、それを指摘することは誰にでもいえる。
「じゃあどのようなビジョンがあるのか、それをいってみろよ」
それが問題となる。僕の回答は極めてシンプルだ。
「ダイナミズム」
連鎖を組み込んだダイナミズムをエンジンとして政治・社会システムへ組み込み実現すること。
短期的にはこれが政策目標となる。
些事は引き込み現象によって解決される。
投稿者 TKM : 23:07 | コメント (3) | トラックバック
[コンテンツ] 新庄力爆発
野球はほとんどみない自分だが今日の新庄のプレーには魅了された。
あれなのだ。
自分が欲するエンターテイメントのカタチがあそこにある。
素晴らしかった。
新庄の持つエンターテイメント性は「新庄力」とでもいうべき爽快な風である。
素直に拍手を送りたい。
投稿者 TKM : 21:18 | コメント (1) | トラックバック
[映画] スパイダーマン2
そういえば先日「スパイダーマン2」を観た。
感想を書くのを忘れていた。

■見所はCGよりも「もどかしさ」
CGに関しては少し慣れてしまった感がある。それでもスパイダーマンとDr.オクトパスの活劇は素晴らしい。CGなしでは表現不可能なバトルシーンが展開される。
ストーリーの明快さと「もどかしさ」。この映画の魅力の本質は主人公をめぐる「もどかしさ」にあるように思う。これといって難しい話ではないし、新しい仕掛けがあるわけでもない、まさにハリウッド王道系のシナリオなのだが万人を物語世界に引き込んでいくリズム感とパターンのバランスが絶妙である。
「弱さ」と「成長」を取り入れた主人公の描き方がさらに感情移入をしやすくしている。主演のトビー・マグワイアがみせる正直さ、清々しさ、「もどかしさ」はどこかしら東洋的で日本人好みだと言えるだろう。
といろいろ解説してはみたが「スパイダーマン2」は明快さの中にも、やるせなさや、信念が描かれたアクション映画であり。心理的な「もどかしさ」を含む様々な「面白さの典型」がバランスよくまとめられた作品で夏の娯楽映画としてはかなりオススメできる。
また娯楽作品ではあるけれど安易な勧善懲悪で構造を単純化していないのもよい。それが主人公をめぐる「もどかしさ」を構成する要因にもなっている。
大人から子供まで、猛暑の都心へわざわざ出て行って鑑賞しても満足できる一本だと言えるだろう。
※補足:スパイダーマンの物語構造だが小学生の頃にみた榊原郁恵主演のドラマ「婦警さんは魔女」ととてもにている。魔女としての能力を使って事件を解決するのだが、それゆえに自分の思いを上司である国広富之つげられないもどかしさ。これと同種の「もどかしさ」が「スパイダーマン2」の物語基盤になっている。それと中盤で主人公がビルからジャンプするシーンだがヴィム・ヴェンダースの「ミリオンダラー・ホテル」を思い出した。
■スパイダーマン2公式サイトhttp://www.sonypictures.jp/movies/spiderman2/
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投稿者 TKM : 16:32 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 金森学級、榎本君の言葉
朝、「こども・輝けいのち 涙と笑いのハッピークラス」の再放送をみた。
偶然である。
愼之介に教えてあげたかったが間に合わなかった。
既に30分が過ぎていた。
チャンネルを合わせると
「友達だからおれ守った」
と榎本君が話していた。
小学校4年生の彼の言葉はまっすぐである。
言葉が胸につきささる。
「まっすぐさ」にあこがれる。
自分をふくめ人々が彼のように信頼して言葉を話すならば世界は変わる。
彼らにまなぶべきことは大きい。
人の根本にあるカタチのない核の存在を感じる。
榎本君は僕の親友の太の小さい頃にそっくりだ。
話し方も顔つきも、心のありようも似ている。
正直に心の人なのだ。
番組の詳細については以前書いた。
最後の場面について補足しておきたい。
「つながり合う」
金森先生が最後に黒板に書いた言葉である。
人と人がわかりあうこと。
それが金森学級のテーマである。
子供にはできるが大人にはできないこと。
理解されたい、あるいは理解したい、ということは間違いないのだろうか。
と時々惑う。
簡単なことがなかなかできない。
心をひらいて話せる、自分という人間をフルで受け入れてくれる相手との関係を大切に思う。
自分には大事なものは何もないと思っていたけれど、ただ「わかってもらえる」というそれだけで人は生きようと思うし、何かしたいと自然に思う。
そう思える関係こそが本来、大切な関係なのだ。
けれどそうでない表面的な関係に振り回されていることが多い。
それがなかなか人と人がわかりあえない理由だ。
自分を見つめる、相手を見つめる、それだけのことが難しくなっている。
どの場面でもそれを感じる。
誰に対しても。
馴れ合うのは好きではない。
そうではなく「わかりあえること」の意味、価値を認める。
それだけでいいのだ。
それが「いのち」の目的だと思う。
投稿者 TKM : 10:19 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 平家物語
今朝もいい朝であった。
空の色が少しづつ黒から青へと変わっていく。
地球はまわっているのだなと思った。
昨日読んだ、茂木さんの論考に平家物語の一節があった。
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ
中学生の頃に読んだ時は教科書の一ページを嫌々だったがいま読み返してみると以前とは違って言葉が一陣の風のように身体を通り抜けていく。心が潤いを帯びていく。
たったこれだけの短い言葉が世界の全てを言い表している。
投稿者 TKM : 06:06 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月10日
[アート] 情報小説、あるいはメディアアートとしての「氷塊/平野啓一郎」と12時間の眠り
■鳥肌のたつ読書体験
昨日の夕方に眠って起きたら今朝であった。
12時間も眠っていたのか。
驚いた。
今日は江戸の真実を知る小旅行にでる。
といっても遠出ではない。
江戸時代の人々は背が低かった。
それは何故だろう、という視点での探求となる。
午後には出かけるとしてそれまではいくつかやることがあるな、などと思っていたらあっという間に7時である。
そういえば昨日、鳥肌がたつ経験をした。
平野啓一郎のインタビューを読んでいると「氷塊」という作品の話がでてきた。ページを上下に二分し、同じ時間軸ですすむ二つの視点の物語を書いたというのだ。上半分が少年の視点、下半分で女性のストーリーがすすんでいく話らしい。
図書館とは便利なものでこのような記事をみたらすぐに原本にあたることができる。幸い貸し出し中ではなかったので早速、「氷塊」の収録されている「高瀬川」という作品集を探してきて読み始めた。
そうだ、この本は以前、書店で手にとって「なんてありきたりで安易な手法だろう」とさっさと書棚においた本であった。改めて読むのもなんだな、と思いながらパーっと読み進めることにした。
■結晶感覚とテキストの可能性
5分くらい読むと段々と上下二段のパラレルストーリー展開の「読み」がわかってきた。見開き1ページ毎に上を読み、下を読み、とやっていく。この時の必須条件としては速読でこれを行わなければならない。上段のストーリーの時間が過去になっていく前に下段の時間を必死でよりもどす、という作業を続けていく。10回くらい(つまり20ページ分)これをやると頭が「氷塊」モードに切り替わる。
そうなると不思議なことに絵をみているかのようにストーリーが頭の中で動き出す。ほとんど映画の世界である。
そしてこれがもっとも素晴らしい点なのだが時間が寄ってくる感覚が生じるのだ。
詳しく説明しよう。
最初にもいったように上下でパラレルに進行するストーリーを一つの頭で追いかけるのは面倒だ。これはスタート時点で二つのストーリーに関連性がないためである。ところが少しづつ二者の時間が近づいていく。パラレルにすすんでいた物語がある一点に向かって段々と結晶化していくのである。
この「結晶感」を文字で表現しているということに一番驚いた。
日本文学の特性というか内面の描写が冗長的でいささかうざったいのだが「氷塊」のつくりだす「結晶感」はそんなことはどうでもいいと思わせるスピード感と躍動性がある。
「氷塊」のストーリーはアクションとは無縁だが冒険小説などよりもはるかにスリリングな読書体験を与えてくれる。こればかりは読んだ人にしかわからない感覚であろう。
アクション小説などでは各キャラの視点で同じ時間の別なシーンを描写することがよくあるがあれとは全く異なる読書体験なのである。単純だが上下二段の構成がこうも効果的に機能するとは驚愕である。
時間同士が寄っていく感覚は映画的でありテキストを読む感覚とは異なっていた。
読後感は良質の映画をみた後に感じる包容感と同質であり、満ち足りていた。
正直「読んでいてよかった」と思った。
これも全て「平野啓一郎」という作家の力量のなせる技なのだろう。
久しぶりに「作家、恐るべし」の感を抱いた。
同時にこのような作家が同時代にいるということを幸福に思った。
■メディアアートとしての小説表現
自分がこの作品をこのような「読み」で体験できたのは昨年より研究しているパラレルリアリティ感と大きく関連している。各種実験によるパラレルリアリティの体験を通じたパラレルリアリティ感覚の理解があるとないでは印象が大分違っただろう。僕が驚いたのはそれらの認識なくして作家がその感覚と力量だけでこの表現を完成させたことである。「氷塊」は文学作品という体裁をとっているがこの作品の本質は「情報体験」である。
メディアアートとして捉え直す必要がある。
さらに「高瀬川」に収録されている「追憶」という散文作品がある。この作品も文学作品としてみるのではなく「体験」的に迫ってくる書籍という形態を用いた一種のメディアアートだと感じた。
これらの表現が書籍とテキストでなされたこと。
それが驚きなのである。
あらためてパラレルリアリティ感覚の台頭を感じた。
※追記:インタビューが掲載されていた文学界には茂木健一郎さんの「脳のなかの文学」という論考が収録されている。この論考があまりにも面白かったのでコピーした。図書館で本をコピーしたのは何年ぶりだろう。茂木さんはソニーサイエンスラボでクオリアの研究をされている方である。そして何故か僕の友人のカラオケ仲間なのだそうだ。

高瀬川
平野 啓一郎
投稿者 TKM : 07:24 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月08日
[雑記] 慶應大学の図書館
授業の後、電話で金子とコンテンツ企画についての話をしてから食堂に向かう。
講義棟の隣に「山食」と書いてあったのであたりをつけていってみるが営業時間は午後4時まで。明日、また来ることにして図書館に向かった。
慶應大学の図書館は卒業生ならば入館証を発行してもらえば誰でも自由に使える。三田の図書館の窓際の席が勉強しやすかったのを覚えていたのでそちらに向かう。途中、日経新聞に掲載された「新興ネット企業 M&A成長戦略」という特集を読むために新聞コーナーに立ち寄る。あいにく日経新聞は誰かがもっていってしまってそこにはない。
記事の趣旨は「新興IT企業の相次ぐM&Aだがそれらは実際にシナジー効果を生み出しているのだろうか?」という問題提起である。ライブドアによる近鉄バッファローズ買収問題など概して新興IT企業によるM&Aの事例は話題として派手であるがプラスと報じられている業績結果は単純合算による業績の向上であり、株主価値の増大にはつながっていない。
M&Aは事業を得、それによってシナジーが得られている場合において有効なわけだがそうした事例は少ないように見える。
という話はさておき。
図書館にいってみると大勢の学生が勉強している。
ベストの席を探したがあいにく埋まっていた。
窓際のはずれの閲覧席に座った。
角に配置された閲覧席は対面にすわる人との間に敷居がないので集中しづらいのだが環境としてはジョナサンの1000倍くらい快適である。
ペンとノートを取り出し作業をスタートする。
しばらくして、気づいたが、よくみると2割くらいの学生は眠っている。
2時間くらいいると2割くらいの学生が30分毎くらいで入れ替わっている。
みんな真剣に勉強している。
法学の勉強と語学の勉強をしている学生が多い。
語学の勉強をしている学生は電子辞書を机においている。
僕たちの学生時代にはあんな小さな電子辞書はなく、CD-ROMが内蔵されていた。
そうこうするうちに夜になる。
図書館は10時で閉館になる。
9時30分過ぎに図書館を後にした。
何も食べていなかったので空腹だった。
明日からはカロリーメイトをもってこようと思った。
++++++
ちなみにこの日、はじめて「学問のすすめ」の4編、5編を読んだ。
福沢諭吉の本はほとんど読んだことがなかったがかなり「イイ」。
福沢諭吉はビートたけしなど比べ物にならないくらいの皮肉屋である。
圧巻だったのは
「勉強もできて仕事もやって、しっかり働いて、家もつくって、奥さんをもらって、子供がいて、子供もしっかり教育して、という男がいる。なるほど人々は大変立派に独立している人だという。でも、ちょっとまて。それは全然違う。それだけならば蟻でもできるではないか。そんな生涯は蟻とかわらない。人に迷惑をかけないというだけで何もやってない。そういう人生を送ってはいかん!」
といきなり「蟻」を持ち出すこのセンスである。「学問のすすめ」にはこれと同種の福沢節が爆裂している。この思考の飛躍は読んでいて笑ってしまうほど面白い。学問のススメは古典・啓蒙書と分類されることが多いと思うのだが希にみるエンターテイメントな書である。
++++++
江藤先生は新入生歓迎のフレッシュマンキャンプでは必ず「学問のすすめ」の読書会をやっていたそうだ。僕は参加したこともなかったしそもそも読んだことがなかったのだが昨日感じたようなエンターテイメントとしての福沢節の面白さについて江藤先生と話さなかったことが残念だ。(簡単な話でコンテンツの根本原理について全く勉強していなかったのだ)
「人生で悔やむのはやってしまったことではなく、やらなかったことだけだ」という言葉が思い出された。
投稿者 TKM : 14:13 | コメント (1) | トラックバック
[エッセイ] 慶應大学でアジアの安全保障について考える
■久しぶりに慶應大学@三田
10年ぶりに大学の講義に出た。
テーマは
「東アジアの安全保障」。
月島から慶應大学三田キャンパスまではなんと電車で一本。
赤羽橋で降りて少し歩くとキャンパスについた。
とはいえこの猛暑の中数分歩いただけでも汗が噴き出す。
同じ慶應でもこのキャンパスで授業を受けるのははじめてなのでいまいち勝手がわからない。図書館で塾員用の入館証を発行してもらい、売店の場所をきいてから教室に向かう。
購買部はキャンパスの外れにあり、古びた感じがする。
来週から試験がはじまるからだろう校内は学生でごったがえしている。
教室についてひといきつくと授業がはじまった。
■東アジアの安全保障
先週からベトナム戦争直前のアメリカ外交政策について調べている。
今日のテーマはアジアの安全保障となっているが北朝鮮問題では核が関連しているため朝鮮半島、アジア地区のローカルな問題からグローバルな問題へと発展してる。そのためアメリカの外交政策がアジア地区の安全保障に対して大きな影響力を持ってくる。
争点の一つはイラクの核保有問題と北朝鮮の核保有問題の違いである。
北朝鮮にとっての核は現体制を維持することが主たる目的であったがイラクの核保有は中東での影響力の強化が目的である。この点において両国の核保有問題は目的を異にする。
よってイラクへの軍事介入と北朝鮮への軍事介入の可能性はわけて考えられなければならない。イラク戦争が開戦された背景としてはいくつかの要因があるが軍備的な側面としてはイラクがイスラエルを射程圏内とする核兵器を保有していなかったことがあげられる。もしイスラエルがイラクの核兵器による攻撃の危険にさらされていたならばイラク戦争はなかったであろう。
そうした背景を考えると北朝鮮が東京、ソウルを射程圏内とする核兵器を保有しているならば北朝鮮への軍事介入は難しい。
外交についてだが現ブッシュ政権以前のアメリカは対北朝鮮外交にたいして積極的でブッシュ政権が成立していなかったならば、つまり、ゴア政権が誕生していたならばクリントンの平壌訪朝があったはずだ。
その場合、日本はどのような事態に陥ったのだろう。
日本と北朝鮮との間には国交が回復されていない。
それを飛び越える形でアメリカが北朝鮮との間で友好関係を結べば日本としてもそれに追従せざる得ないわけだがそのためには懸念の拉致問題を解決しなければならない。
クリントンの訪朝があった場合、世論は下記のように二分化され日本国内は収拾のつかない事態に陥ったであろう。
1.日本も遅れずにアメリカの対北朝鮮政策についていく
2.国際関係がどうであろうとまずは拉致問題を解決する。それまでは動いてはならない。
また、93~94年の頃に生じた北朝鮮の核危機で先制攻撃が行われていた場合も当時の政権にはプランが用意されていなかったため混乱は必至だったと思われる。
■日本と中国と北朝鮮
中国と日本の対北朝鮮外交政策はどのような違いがあるのだろう。
総じて日本の外国政策は「出来事に対する対応」というスタンスで行われる。
事が生じた後に関連諸国の状況をみて政策決定をする「仲介外交」「バランサー外交」である。
一方、中国の場合は国家目標が政策決定の指針となる。
具体的にいうならば現在の約10%という経済成長率を維持しつづけることが政策決定の要因となる。中国の急速な経済発展については様々なメディアで報じられている。しかし、経済成長率、発展ともにその大部分を「外資」に依存しているという実情についての報道は少ない。
これは中国の対北朝鮮外交を考える上で重要なポイントの一つである。
つまり北朝鮮での軍事的な紛争が発生することは、中国の経済発展の基盤となっている外資の引き上げを意味する。その場合、経済成長率は大きく低下する。
更に北朝鮮の核保有問題はアジア諸国での核開発を再燃させる恐れもある。例えば台湾が核開発を開始した場合の混乱などを考えてみれば北朝鮮の核保有問題は中国とも無関係ではない。
■考え得るシナリオ/本当に大切なこと
というわけで問題の行方は次の六カ国協議に持ち越される。
そこで考え得るいくつかのシナリオとしては
1.初期合意達成(一気に核完全撤廃とはならない外向的に有効である以上、核廃止は段階的に行われる)
2.協議が決裂し安全保障理事会に付託
3.現状維持で中途半端な状態がつづく
更に日本の外交の選択肢としては
1.核問題協議と日朝交渉を連結し国交正常化・拉致問題の完全解決
2.軍事緊張をともなう経済制裁という方向
3.強硬論による単独制裁
「1」へ向かうのが望ましいとは思うがそこには拉致問題という厄介な問題がある。確かに拉致という人道問題は解決しなければならない。報じられていないだけでアジアの緊張は遠い未来ではなくすぐ目の前にある。自国のポジションを明確にし国家間の関係を見直し目前にある危機を解決した後にその他の問題は解決するというオプションをとるべきだというのが自分の考えである。
発展的解決の道を模索しなければ問題はいつまでも解決しない。
※この考え方に関しては「国交正常化が実現した場合、北朝鮮が拉致被害者を消滅させるおそれがある。よって拉致問題の完全決着なくして国交正常化などもってのほかである。」という反論がある。これらの反論に対しての僕の考えは山本氏のこのエントリーに同じである。
「3」はないにしても現在の強硬姿勢を維持するならば「2」の可能性は十分ありえるわけでそれは発展的な解決にはつながらない。
核の廃絶によるアジアの安全確保が第一に考えられるべきで人道的観点や心情を基盤にした強硬路線は遠からず悲劇の拡大につながる。
考えなければならないのは核や戦火の恐怖を取り除くことであり、発展の基盤をつくったのちに議論はなされるべきなのだ。
投稿者 TKM : 13:54 | コメント (0) | トラックバック
[夢日記] 音楽ロボットの夜
午前6時30分。
今日も目覚めはいい、かな。
タド&KYが主催するコンピュータミュージックのイベントを観戦する夢をみた。音や内容が妙に具体的である。まずリングのような場所にエイリアン2でリプリーが操縦するようなロボットが設置されており、このロボットを使って音はつくりだされている。基本になるのはCDの音源のようでそれをロボットがつかみ音へと変換していく。
アーティストはプログラムによって一連の動きを可変させる。しかしロボットの動きに問題があると音にも派生されフィードバックループが閉じてリミットサイクルに陥り、音が「滅亡」する。ある意味、これは人工生命プログラムともいえる。
2階から眺めていたのだが音が「死」に向かっている予兆を感じて階下に降りる。ロボットはCDを握りつぶす直前であった。と、その刹那音が「死」を迎えた。観衆はブーイング。KYが英語で説明をしている間にタドが次のCDを探している。
黒いビニール製のケースからDODとプリントされたCDをスロットにいれる。裏のルートを通りロボットの手にそのCDが送られる。事なきを得たようである。
しばらくして、外にある池を飛び越える練習をすることにした。
池には石がおいてあり、一回に2mをジャンプすればどうにか向こうがわに渡れる。助走をつけて石から石へとジャンプする。岸まで1mの位置にある石に右足がかかるところで、その石が2cmほど水面下に沈んでいることを発見し、躊躇したのがいけなかった。少しバランスを崩した。落ちるかに思われたのだがギリギリで向こう岸に飛び移ることができた。KYと坂本さんがそれを撮影しており、みせてくれた。映像でみると僕は星条旗柄の靴を右足にはいていた。それがなんとも奇異に見えた。
ベージュの短パンにポロシャツという姿の自分をみたのははじめてだった。
バスの時間だから、と言われて通りを左にまがったところのバス停に向かう。途中でペットボトルなどの資源ゴミを捨てるべくゴミ捨て場によるが朝9時前の投稿は厳禁などと書かれている。はて、とあたりを見回すとおばさんが「どうぞおいていきなさい」というのでそこにおいていった。
朝なのであたりはまだ寒い。バスがくるのは6時30分。一駅いってから折り返してここに戻ってくるから乗り込んでももう一度この駅を通る。
投稿者 TKM : 07:02 | コメント (0) | トラックバック
2004年07月07日
[雑記] 「忙しい」をいう人ほど忙しくない
今朝は爽快に目覚める。
日曜以降、心身ともに不調だったが復調したようだ。
「忙しい」という言葉をよくきく。
そして不思議だと感じる。
本当に忙しい人は決して忙しいとは言わないものだ。
「忙しい」と口にする人は概して効率の悪さを「忙しさ」と勘違いしている。
以前こういうことがあった。
某著名な方とお会いする機会があったので知人に声をかけた。
「今晩、暇?」
「忙しい」
「ああこれから○○氏に会うんだけれど。一緒にどうかと思ったのだけれど駄目か」
「エ、じゃあ調整する」
なるほど「忙しい」とは絶対に必要な





