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2004年08月31日

Visual Playerの紹介

たまには本業らしいことについて書いてみたいと思う。上記の画面はVisual Playerという数年前に僕たちのチームで作成したインターネットで音楽を遊ぶためのアプリケーションである。(と書いたあたりでグタリとして倒れた。睡眠不足らしく意識が途絶えるように朦朧としていく。少し仮眠をとって復帰。妙に爽快である。)

気を取り直して上記のアプリケーションについて。さきほど久しぶりに起動させてみたがいまだ古さを感じさせない。これはコンセプトとつくりがしっかりしていたからだろう。当時のマシンのパワーでは時々動作が不良だったけれど現在のマシンだとほとんどの環境で快適に稼働するはずである。


メニューから「single」を選ぶと画面中央に「PIANO」「NOISE」という二つのボタンがあらわれる。どちらかを選んでアイコンをクリックすると別ウィンドウが開くのでデータのロードまで数秒待つとアプリケーションが起動し下記のようなコンソールが立ち上がる。

player

ピアノとパーカッションの二つのバージョンがあるがどちらも操作は同じである。鍵盤で音の種類を選びマウスで絵を描くように音のピースをステージ(グリッド)においていく。操作はこれだけ。すぐに音が流れはじめる。作曲ではなく「音で遊ぶ」ことが目的なので思うままに音を並べて遊んでみて欲しい。子供でも簡単に操作できるのがウリである。予想外の音楽ができていくのが面白い。つくった曲はアーカイブとしてホームページ上のアルバムに記録できるのでURLを送信すれば他の人に見て・聴いてもらうこともできる。教室などで作品をつくりあい後ほど鑑賞会を開くこともできる。

このアプリケーションでは複数の人間でネットワークを介したセッションを楽しむこともできる。メニューから「multi」を選択するとドアのアイコンがあらわれる。現在入室しているユーザの人数が表示されていればOK。ドアの上にマウスを持っていくとドアが開く。恐れずに入室しよう。

あとはネットワークを通じて画面上の楽器が共有されるのでネットの向こうの相手とセッションのはじまりである。VisualPlayerチームはこうした「音で遊ぶ」アプリケーションの開発のプロなのだが残念ながら現在はバージョン2で開発が止まっている。スポンサーがいなくなってしまったのが原因だ。

他にも実際に物として触ることができる楽器の開発も手がけていきたいと思っている。また風や音と音楽をつかったインスタレーション作品など定期的に「音を遊ぶ」と「ネットワーク」についての企画や思うことメンバーの話など紹介していきたいと思っている。

■Visual Player 2.0
http://www.yamaha-mf.or.jp/musicreature/vp2/index.html

投稿者 TKM : 16:30 | コメント (2)

風の音とエネルギーと変化について

目覚めると台風の風で窓がガタガタいっている。
外の風にはどれだけの力があるのだろう。
どのように大きな予算をつぎ込んでもこの台風ほどの力をつくりだすことは難しい。

先日、友人と核というエネルギーについて話をした。
「物がここにある」という力を引き出すことで膨大なエネルギーの暴走が生じるのだと解釈しているがベランダにでて台風の風を浴びているとこのエネルギーって何なんだろうと思う。風は何かの為に吹いているわけではなく相互作用の結果としてここに集約されている。

人の世界にも風のようなものがあって一人一人の相互作用の結果、大きな流れができていく。それは時々刻々と姿を変える空の雲のようなもの。それを運と呼ぶならば運を感じることはできるはず。
我があるからこそ自分と他の違いを感じることができる。しかし我とは停止や固定である必要はない。環境そのものが絶え間なく変化する流れであるならばその変化を感じ、流れを読みリズムをつかむことは生きる上で重要なスキルだと僕は思う。

風はまだ強いが外をみると青空がのぞいている。
曇りの日も嵐もいつかわ晴れるのだ。

投稿者 TKM : 08:56 | コメント (0) | トラックバック

外はすごい風の音がする。幸せの秘訣について閃く。

仕事を仕上げた後、渋谷で打ち合わせに出かける。
やる気や感覚が戻ってきたようでグダーっとなることなく深夜までストーリー関係の作業を続ける。

メールがたくさんきていたが外でメールバックができないので帰宅後まとめてメールバック。10通くらい書いた。たった10通でこれなのだから一日に5000通のメールを処理するというライブドア掘江社長はいかなるメールの使い手なのだろう。

チームの二人ともラップトップを持っていないので外での作業はここまで。以後、脚本執筆からはPCが必須になる。

と、ここでずっと忘れていたMovieMagicをダウロードしてみる。
全く使い方がわからないが機能をみるかぎり解読すれば面白そうである。
Winplosionがバージョンアップしたのでアップグレードしてくださいとのメールがあったので早速アップグレードしてみるとさらにexposeに近くなっていた。しかしメモリもくうらしく描画でもたつくのでとりあえず止めた。

さすがにそろそろ眠ろうと思うがものすごい風の音である。
GCFカネコに連載デジタルマンガのオリジナルソフトをもらう。
さっそく遊んでみると第五話。
最終回はクリックによる参加性がリズムをつわえており、フラットになりがちなデジタルマンガに別な面白さをつけくわえていた。(このあたりで脳が眠りを求めてるので寝ます)

昨日は80%くらいまで体力をつかったのでとても気持ちが良い。
身体も意識もこうなっていると不平や不満など抱くわけがない。
「小人閑居して不善を為す」というがまさに言い得て妙である。
自分もご多分に漏れず暇だとろくなことをしていないし、ろくなことも考えないのである。閑にあっては不善を恐れなければならなく、常に自分の能力やパワーを使い切ることができる状態にたもっておくことが幸せの秘訣である。

そうそう。
夜の12時過ぎ、帰宅時に一階の駐車場にしっぽを切り離した灰色っぽいトカゲ(イモリっぽかった)をみつけて50cmくらい飛びのいた。中央区ではじめてみた野生のトカゲであった。
明日は7時に四谷だ。

投稿者 TKM : 03:26 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月30日

魂の円運動

早々に目覚める。
精神が高ぶっているせいで眠りが浅いのである。

今日はこれから仕事の仕上げとGCFKとコンテンツのミーティング。
打ち合わせの詰めである。

人の心を傷つけていいことなんかひとつもない。
忘れないように時々いってみる。

物事は円運動である。
人を傷つければそれは自分に返ってくる。
面倒でも理解を模索しなければならない。
遠回りなように見える。
しかしつけはかならず生じるし、育て創ることなしに得ることはない。

投稿者 TKM : 11:01 | コメント (0) | トラックバック

へつらうよりも100倍面白く

いつだったか忘れたけれどジョン・グレイのインタビューを聴いたことがあってやけに面白いタイトルだなと思った。

似た名前でジョン・グレンという人がいてこちらは史上最高齢の宇宙飛行士である。
一文字違いでこうも違うかというくらいに違う二人である。

ジョン・グレイの本を読んでいたら社会的ジレンマとの類似点を感じた。なるほどそれも人のパターンであり構造なのだろう。

そもそもはじまりが間違いなのだろう。自分の本質とあわないことばかりずっとやってきた。それは違うとはわかっていて渋々やってきたことはやまほどあって、ジレンマでもあり、精神の逆大リーグボール養成ギブスx2だ。

頼まれたり、頼られると断ることができない。
尽くしたいとか何かをしてあげたいという気持ちも押さえがきかないのでバカばかりやる。が、しかし。

それも自分の特性だ。
世界のどこかで誰かの役にはたつ。

問題なし。
ロストした年数は倍年圧縮でトントンになる。

さてこれからは何をしようか。
つぶやいてみると気分は愉しである。

浮かんだ言葉は二つ。

「へつらうよりは100倍面白く」「夢を追えば迷わない」である。

投稿者 TKM : 05:06 | コメント (0) | トラックバック

心の友やまけんのはからいで寿司匠で無限寿司(若干ジャイアン風のタイトル)

誕生日。
日付が変わると同時にメッセージをもらう。
この気づかいがどれだけ嬉しかったことか。
そのおかげか朝から軽快に仕事にとりかかれた。
悪くないスタートである。

その後かなりハードに仕事をこなし、昼食。
その店には太がかなり惚れていた女の子がいるのだがはたしてその子は今日もいた。
彼女とは時々話すので次回名前を聞いて太に教えてやろう。近年まれにみる素直な子で太もいっていたが守ってやりたくなるような可憐さのある女の子である。

その後、祝いのメールが届く。
さすがに素晴らしい人たちである。
不覚にもグッとこみあげるものを感じた。
こうした気づかいは本当に尊敬する。
この人たちこそ幸せになるべき人々である。
みんなありがとう。

スパートをかけて仕事をしていたら夕刻にやまけんから電話。
この男に関しては何もいうまいタイミングがベスティングである。
お互いに仕事を終えて魚仁で会合。
魚仁にいく前にスパムバーガーを攻めてくるあたり食い倒れ党党首の真骨頂といったところである。

二人でマグロを食していると父から祝いの電話。
両親と話す。悪くない。

そうこうするうちにタケも合流。
タケは具合が悪そうだったが次第にタケ節爆発。
その後、匠から電話。
ヤマケンのナイスはからいで寿司をごちそうになる。
と、ここからが怒濤であった。
おそらく一人40貫以上は食べたのではないだろうか。
おまかせのコース3週はしていた。
高校を卒業してすぐに太の父(我が親友、信一パパ)に寿司をごちそうになったときに

「あにい、何でも好きな物を食べろ」
「いやー、あまり食べたことないので名前しらないんです」
「わかった。じゃあ右か左どっちがいい」
「じゃあ右」
「大将、右から全部握ってあにいにお願い」

という伝説の歌舞伎寿司の夜、以来の無限寿司であった。
それにしても昨夜のあれは凄まじかった。
とはいえ味は最高。好きなだけ美味い寿司を食べてもいいという状況に直面すると普通に食べにきているお客さんに申し訳なく思ってしまうが存分にやらせてもらった。あまりものわんこ寿司っぷりにラストのラストの巻物でやまけんにヘルプを求めた。
ブラックホールYけんは流石にポンポンと口に放り込んでがーっと飲み込んでいたがあの量は…。さらに大将のカトウちゃんの計らいで土産にガッツリ酢飯もいただいてしまった。明日の朝はこれでオムライスか梅チャーハンにするようにとの指示。さらに「今晩は肩、折らないでね!」とやさしい声に見送られ夜の門仲を帰る。

匠の無限寿司の祝いとは。
ヤマケン、カトウちゃん、ごちそうさまでした。
これからも祝福に恥じないバカヤロウ街道を驀進していきます。

++++++

幾度か死にかけたことがあってその度に人の奥の奥をみた気がする。
そこは愛だとか感傷だとかとは無縁の世界であった。
簡単にいうとダイナミズムと虚無が共存する世界だった。

日常に埋もれていると時々、その世界のことを忘れてしまう。
けれど人の本質や生命の本質はあそこにあると思う。
自分は笑われても、バカにされても、そこに向き合いたいと思っている。
ぶつかることを避けては何も得られない。

そういう意味でいえばこれまでの生のほとんどの時間はなまくらであったし、まだなまくらだ。自分が本当に自分の持つ精神力の全てを使い切るのを実感することは少ない。

それでも時々、年に2度くらい自分の本性と向き合うときがある。先週も自分の心の奥底と向き合う機会があった。それは偶然にもたらされた戦慄であり危険をともなっていたけれど、あそこで対峙した生と生の躍動を相手も自分も感じていたはずだ。ゼロとイチが共存していた。はたからみれば馬鹿げたやり方かもしれないがそのギリギリの心の攻防を通じて自分は己の生命の躍動を感じた。

決してもう一度繰り返したいとは思わない。
しかし上手ではなかったがそれは理解のパラダイムが転換するきっかけであったと思う。
げんに精神的にギリギリのたちまわりを演じた後、自分の心が開く感覚を感じた。

あれはなんだったのだろう。
奇跡の時間とはあの時間をいうのではないか。
包み隠さぬ自己と向き合うことは鞘のないむき身の刃を持つことでもある。
鋭利で強力だが相手も自分も極度の緊張と危険にさらされる。
しかしその緊張の果てに落下寸前のタイトロープを経てほどける自己と理解を感じた。

痛みと同時に生きていることを実感した。
生きていて良かった。
あの時、あの時間、本当にそう思った。
あれは確かに生の悦びであった。

投稿者 TKM : 02:12 | コメント (6) | トラックバック

2004年08月29日

蜜柑と人の心 ~32年を生きて思うこと~

肌寒さに朝早く目覚める。
気温をみると20℃を切っている。
先週の日曜から一週間しかたっていないのに季節が変わったかのようだ。

今朝はロシア産の蜜柑を食べる夢を見た。
食べながらやまけんにくれてやろうと思った。
その蜜柑はキノコのように樹に生えていた。
不思議な蜜柑の植生にみとれていると蜜柑の木を守る老人が

「こちらの木をみなさい。この木には最盛期に200個の実がなったこともあるのだよ。ほら。」

といって枝になった蜜柑を手渡してくれた。
渡された蜜柑はとても固い。中がみっちりしている感じである。外見は蜜柑だが大きさと固さは別な果物のように思えた。皮を剥いてみると形のしっかりとした実が現れた。大きさは夏蜜柑くらいある。

すっぱい味を予想していたのでほんのり甘いのに少し驚いた。でもこれは夢なのだ。夢の中でも甘さやすっぱさがあるのだなと考えていた。それからしばらくして河原にいった。河原でロシア人の女性から本を受け取った。彼女は世界的に高名な作家でその本は彼女が自分の為に書いてくれた作品だった。

++++++

目覚めてから窓際に座って深呼吸しながら数分間を過ごした。
これまでの時間や日々について5秒だけ考えた。
意外に満ち足りて穏やかな時間だった。
多少は自分も成長しているのだなと思った。

この10年くらい自分は他者への依存によって生きていたように思う。それが大事な相手であれそうでない相手であれ他の人がどうあるかによって自分の心は揺り動かされていた。

正しくても正しくなくても人は自分が変わろうとしないかぎり変わることがない。人に変わることを強いればその代償は必ず自分に返ってくる。人と人のいざこざの原因の一つは互いに「こうあって欲しい」という思いが錯綜しコミュニケーションがズレていくことにある。

これを解決する方法は一つしかない。人や相手を変えようとしないこと。それだけである。正しいかどうかは問題ではない。どちらに理があるとか非があるということは大した問題ではないのだ。最終的に何を望むのか。どこにいきたいのか。何がしたいのか。自分の我を通したいだけなのか。ただ自分が理解されたいと願うのか。それとも本当に相手を理解したいと思うのか。問題はそこなのだ。相手を理解しようとするなら相手を変えようとしてはいけない。

人の幸せの根元とは「人を理解する、あるいは自分が理解されている」ことを実感できた時に感じられる感覚である。
良質なコミュニケーションとは相手を変えようとしない、人を変えようとしないことからはじまる。人は他人から与えられたルールや正しさを受け入れることはできない。それは自分でみつけなければならない。
相手を変えようとしないこと、そして相手に理解を強いないこと。
理解とはそこからしか生まれない。

それがこの数年で自分が学んだことである。

投稿者 TKM : 09:46 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月28日

移動と閃き

午後は閃いて友人と二子玉川で会合。
友人の女性が言うように移動と閃きはリンクしている。

投稿者 TKM : 14:13 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月27日

キュービタル的人口のとらえ方

一日の時間は24時間と決まっている。
地球の回転速度の問題だからこればかりはいたしかたない。
これが48時間とか72時間に増えたとしてもそれだけで生産性が向上することはない。

先のエントリーの続きになるが時間の余裕と生産性、能率はあまり関係がない。
集中していれば10分で終わるものが同じことをやるのに2時間を要する時もある。
10分と2時間の違いは「やる気」である。
あとは流れと運。
こちらの方が本質に近いだろうけれど発端はやるかどうかなわけでその基はやっぱり「やる気」あるいは行動そのものであろう。

ではこの「やる気」というヤツはいったい何なのだろう。
買うことはできるのだろうか?
できないのだとしたらどうしたらベストの「やる気」をキープすることができるのだろう。ここを解決していけばいろいろと面白いことが起こる。

例えば国という大きな組織について考えてみる。
国を計る際に使われる大まかな目安はまずは人口である。
経済でもなんでも人口との比率によって決まっていく。

20対80の法則じゃないけれど20%のやる気の人々がその他80%のやる気レスな人々をカバーしている人口そこそこの国と人口は少ないが80%のやる気満々の人々が20%のやる気レスな人々と一緒にやっている国の経済規模が同じくらいだったとしたら規模は同じでもやってる内容やノリは相当に違うはずだ。

ノーマルな見方をすると80%がやる気な人々の国の方が強いようにみえる。けれど本当にそうなのかは怪しい。

20%の人々しかやる気がないのにそこそこいけてしまっている国の方は残り80%を活性化できる可能性を持っているわけで質的な転換が生じれば別物に転じるかもしれない。

とはいえそれは仮定だからいま80%の人々がやる気をもってる組織の方が発展性を持つし魅力的だ。

そうだ忘れていた。キュービタルという視点でとらえると一騎当千という考え方があてはまるから人口を単純に人の数と考えてはいけないのだった。例えば中国には12億の人がいる。数だけみると人口でこれに対するのは難しい。けれど1人が10人前の働きをすれば1億の人口でも10億の働きはできるはずだ。だからキュービタル的人口規模のとらえ方では一人がどのくらいの活動をするかを考えなければならない。

それを考えていくと前述の「やる気」と「能力」の話になっていくのだがやる気や能力というものは定量化することが難しいので「何となく」というとらえかたしかできないのである。

これはキュービタル的解法を探すうえでの課題である。

投稿者 TKM : 13:49 | コメント (0) | トラックバック

ストーリーは突然に

GCFカネコとの新作のストーリーを練っている。
ずっと脳にブレーキがかかった状態だったが先ほど少し抜け出しイメージが逸脱しはじめた。良い傾向である。ストーリーを練る際に重要なのは「遊び」である。これがないと「面白さのツボ」がズレてしまう。

こうなってくるとしめたものでストーリーに自分が巻き込まれていく。自分でも続きを知らないのだから展開していくのが面白い。感覚としては目を覚ましたまま夢をみているような感じといったらいいだろうか。

子供達がおもちゃでやっている「●●ゴッコ」に近い。大事なのは最初の逸脱である。これができればあとは雪崩式にイメージが展開していく。プロデュースやディレクションばかりやっていたが自分でやってみるのはまた違った面白さがある。

しかし存在していない世界をつくりだしていくというのは面白いが大変なことだ。考えるとか努力とは無縁といってもいい。大事なのはストーリーが動き出すその瞬間である。この流れをうまくとらえればスラスラと進むが捉え損なうと何をやっても動かなくなる。

そもそもストーリーとはどこから生まれるのだろう。
ストーリー、物語とは何なのだろう。
どうして面白いのだろう。

投稿者 TKM : 01:26 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月26日

能率と効果

能率をあげるにはどうすればいいのか?
日々考える課題である。能率をあげるには気分ややる気をあげていけばいいのだがこれらは目に見えない感覚的なものなので自分がいまどういう状態にあるのかを把握することが難しい。

同じことをずっとやっていると集中力が途絶えてきて「段々ペースが落ちてきてるなあ」と感じる。一度そうなってしまうと集中力を復帰させるには何らかの処置をしなければならない。身体を動かす、音楽を聴く、休憩する等々。しかしそれらがどれだけの効果を持つのかは定かではない。

どんなに美味しい料理でもお腹が一杯になれば食べたくなくなる。それと似ているのかもしれない。だとすれば適度な量でありながら常に枯渇している状態をキープするということが解決法なのだろうか。

仕事に限らず何かに集中しているときその集中度合いにもよるけれど波があるのを感じることがある。ゲームでも本でも「これは面白い!」という気持ちで集中しているのは全体の20%くらいの時間なのではないだろうか。

映画でも本当に集中してみているのは全体の3分の1くらいの時間であるように思う。作品によっては全体の100分の1の時間を作り出す為に99%の時間が割かれる場合もある。

僕は家でひとりで仕事をしている。フリーランスの人間はだいたいの人が同じ環境だろう。インターネット環境やPC環境は改善され個人が利用する環境も会社の環境も違いはほとんどない。ネット環境に関してだけいえば自宅に光ファイバーの回線が導入されていれば個人の環境の方が上の場合もある。

しかし仕事と集中力ということに関していうと会社の持つ「場」の力について考えないわけにはいかない。自宅でやっていると独りなものだから緊張感が薄れる。さぼろうと思えばいつでもさぼれるし、部屋にいるだけでは偶然何かが起こるということはない。より高度な自己管理と主体性を持って行動することが求められる。

ところがこれがなかなか難しい。以前、仕事を始めたばかりの頃は目にするもの全てが新しかったのでどのような仕事に対しても最高のモチベーションで向かうことができた。

どんな映画や小説にも当てはまると思うのだが一度目と二度目では一度目の方が面白い。マンガも最初の一回は面白いが何度も読めば飽きてしまう。

仕事にもこれと似ている部分がある。最初は面白かった仕事も一度やり方を覚えてしまうと同じことの繰り返しになっていく。特に製作に関してそう思うことが多い。だったらそこに「よりよくしていこう」という「クリエイティブの悦びを発生させればいいではないか」という考えもある。勿論それは正しい。

が、必ずしも正しいことが簡単にやれるとは限らない。そもそも何故それをやっているのかという理由をわかっていないとやる気は喚起されない。

なるほど書いていて思ったがやる気や集中力を高めるにはそもそもそれを「何のために」やっているのかという部分を心の底から理解することがまず必要なのだ。

さて自分は何の為に仕事をしているのだろうか。生活の為、自分の為、面白いから等々、理由はいくらでもつけることはできるが自分が本心で納得している理由はそこにあるだろうか?

遠回りなように見えるがここをしっかり納得させておかないといつまでたっても前進はない。

++++++

とここで集中力が切れるわけだがこのテキストは後ろに埋もれていってしまう。これはブログの時系列表示という形式によるものでここでテキストが切れてしまうから続きのテキストが書けなくなる。長い文章を書こうとする場合、ブログというツールは形式的にあっていないのだ。なるほどツールによって思考の方向性やクリエイティブの志向が影響をうけるのはとても面白い。逆に利用すれば物語をつくりやすいアプリケーションやフォーマットも開発可能になる。

投稿者 TKM : 19:45 | コメント (2) | トラックバック

「鋼の錬金術師」と物語の面白さ

仕事の参考にと「鋼の錬金術師」を観る。
原作と少し話が違うのだがTV版の方がストーリーに影があって面白い。錬金術が存在し自在に物質をつくりだすことができるが生命体だけはつくることができない。

主人公は錬金術が使えるのだからどのような敵に対しても何でもできるはずだがこれが案外と使えない代物を呼び出しそれを利用した格闘によって決着をつけていく。このドラマでは錬金術というアイテムがドラえもんに出てくる「もしもボックス」と同等な位置づけになっている。そのため万能なはずの錬金術が肝心な場面では役に立たない場合が多い。
この物語の面白さは錬金術というアイテム、世界観にあるわけではない。それらの設定は面白さを引き立てる役割を担っているが本質ではない。ではこの物語の本質はどこにあるのか?

一つはキャラクターである。それぞれ性格の異なる登場人物が織りなす人間関係の面白さ。主人公とその弟を核にしながらも登場人物はそれぞれに特異な過去を背負う。話の要所要所で彼らの過去が明かになっていく。そのため登場人物が徐々に自律的な存在として物語に関わってくる。観ているとこのキャラはこんな過去があってこういう人間でというのが頭の中にできあがっていき、前の回を観てそれを知っているからこの場面ではこうなんだとと観る側が解釈をしはじめる。

こうなるとそれぞれのキャラが画面ではなく観ている自分の頭でも常時存在し活動しはじめる。そして物語は深みを増していく。これは続きものや連載、大河ドラマの持つ連続性のダイナミズムが引き起こす面白さである。

もう一つの面白さは「謎」である。これはおそらく人の本性なのだろう。人は「謎」に対して無関心でいることができない。

「ま、まさこれは?!」とか「例の計画」「その腕の紋章は?」などのセリフによって謎かけをされるとそれが何かを知りたいと思ってしまう。だからそれが明かになるまでは物語に集中せざるえない。こうした「謎」が物語の随所にちりばめられている。そしてそのバランスが絶妙なのである。あまりに哲学的な謎の場合、答えは形而上学的なものになってしまう。そうなるとドラマとしては成立しない。かといってそれが明らかになったとき全く頭を使わなくてもそれがなんであるかわかるような答えのあるような謎では面白みに欠ける。

ある程度の哲学性があり「そういうことだったのか」と感心できる「なるほど感」のバランスを持つ「謎」がポイントなのだ。鋼の錬金術師という物語にちりばめられた謎はこのバランス感が絶妙なのである。それだけ脚本がよくできているということなのだのだが連載という体裁にはひとつの欠点がある。

このシリーズにおいてもその欠点が少しづつ見え隠れし始めている。本来、謎はストーリーの必然として存在しなければならない。しかし盛り上げの為の謎になってしまうと回を重ねるにつれて謎も敵もより巨大・強大化していってしまう。末期のドラゴンボールや幽々白書などその好例で後にいけばいくほど敵は宇宙規模の強大さへと向かっていく。こうなると中期の熱気とスピード感や意外性は姿を潜め徐々にネタ切れ感が強まってきてしまう。

この問題はいつか終わらなければならないという物語という形式の持つ欠点(或いは利点)なのだろう。
未だ答えはないのだが鋼の錬金術師の場合は現在までのところ段々と深まる謎、深刻化する世界との関わり、哲学的な問題への発展、などなど大人から子供までそれぞれの理解に応じて楽しむことのできる良質なつくりになっている。

スクウェア・エニックスのアニメとあまり注意していなかったがいざつくろうとしたらこう上手にはつくれないだろう。他のアニメや作品にもいえることだが内容が薄いとかちゃらけている場面があるとか深みがないなど批評するのは簡単である。しかしこれをつくるとなるとそう簡単ではない。

批評家は自身はつくらないからこそ批評できるのだと思う今朝であった。

追伸:そうそうもう一つ、物語の核となる面白さとして「ヒロイズム」がある。キャンベルがいうようにそこにどんな意味があるかとは無関係にヒロイズムは人をひきつける。

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投稿者 TKM : 05:02 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月25日

ブログハイブリッドの提案

遅れていたMovableType3.0への移行をようやく終了した。インストール自体は随分前に終わっていたのだがデザインの調整やデータベースの設定など後まわしにしてしまっていた。仕事などと違い締め切りがあるわけではないので自分のサイトの調整を後回しにしがちなのは悪い習慣だ。

ブログというツールによってサイトの管理は楽になったのだがブログ的でなかった頃のサイトの良さは少なくなってきているのかもしれない。

これはブログの場合新しくつくったページが時系列で表示されることと関連している。過去の記事がスポットライトから外れやすくなってしまうのである。もう少し管理機能が強くなりメイン画面にどのページを表示するかなどを選べるようになると総合サイト管理ツールとして使えるようになると思うのだがそれらの機能はまだ装備されていない。

とはいえいずれはそうした機能も追加されていくだろうからホームページ、ウェブサイトをつくる場合、数年前のように手書きでHTMLを書いたり、ホームページビルダーDreamweaverのようなHTMLエディターでページ毎に作成していくというやり方は広告やイベントのサイトなど特殊なケース以外では少なくなっていくのだろう。

運営者が個人であれ法人であれウェブサイトの運営にはコンテンツ管理機能が必須である。しかし全てをブログやコンテンツマネジメントシステムでまかなう必要はない。サイトの基本はブログツールで管理し、雑誌でいうところの特集企画やイベントにあたるページや動画や音声などを用いたリッチコンテンツページは個別につくる。そしてサイトのメイン画面(このサイトでいえばトップページ)に企画のバナーなり告知をレイアウトすればいい。

こうしたホームページの構築方法を「ブログハイブリッド」と呼ぶことにしたい。規模やサイトの趣向、機能によってはこの方法がそのままあてはまらない場合もあるし、効率的ではないかもしれない。しかし一般的なサイトの構築に関してはブログハイブリッドが主流になっていくのではないかと思う。

※現在のブログツールは日記以上の機能をもたせようとすると機能的に足りない部分があるがいずれはこの部分が補完されていくと思われる。

ところでこんなソフトも最近はでている。Niftyのココログの1年間利用権がついたブログ作成クライアントソフトである。面倒な設定がなくてもこのサイトのようなブログサイトがWordを使う手軽さでつくれてしまうという代物である。ソースネクスト社には注目していたがブログサービスとブログクライアントをセットにした低価格パッケージを早々にリリースしてくるとは。この動きの速さには驚かされた。


いきなりブログ
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※詳細はソースネクスト社のページを参照

投稿者 TKM : 15:48 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月23日

高校生と過ごす週末

昨日の恐竜博以降、BlogWriteというツールをつかってエントリーを書いている。土日は太と過ごした。高校生と話をしていて気がついたのだが彼らは普通に素直である。勿論、粗もある。ここがダメというところはいくらでもみつかるし「オイ、お前何やってんだ!!」と一喝したくなる瞬間もある。

親であればそこで声か態度が出てしまうのだろう。しかし自分は保護者ではない。説教や矯正をするためにいるわけではない。友達だから一緒にいるわけだ。だから自分にも学ぶところがたくさんある。詰めの甘さや考えの甘さがあるから逸脱し新しいものをつくる力を発揮することができるわけで老成よりはマシなのだ。

さきほど次の宿泊先である太の親戚夫婦との待ち合わせ場所に送ってきたのだがヤツもよくやる。先方と連絡がとれたのは昨夜の深夜。それまで相手の住所も知らなかったそうだ。相手が月島にいるならもっとはやく言えよな、という心境ではあったがその甘さを否定しようとは思わない。変われといっても本人が変わろうとしない限り人は変わらないし、相手がどうあれ自分がそれに影響される必要もない。

湘南の友人にはリーダー的な役割を担う人が多かったように思う。そのせいか気の利かない人をみるとつい「何でそのくらいの気がまわらないのかな」と思いがちだがそこは二律背反していたりもするわけで気が回りすぎることで逃している何かもある。

無理矢理でも「笑顔」をつくれば気持ちも多少は笑顔になる。という話を二人でずっとしていた。ことの発端は銭湯にいたおじさん、若者が一様にムスっとした表情で彼らは何故風呂にまできてあんなにムスっとしているのだろうか?ということについてサウナで話をした。

どちらが最初かというのが問題なのだろう。面白いことがないからムスっとするのか。笑顔をつくらないから面白いことが起きないのか。これは自分の考えだがまず方向性がありきだと思う。心の笑顔をつくれれば自然と行動にもその気配が満ちていく。店にはいっても注文の時は「●●をお願いします」と自然に笑顔がでるかもしれない。そうすれば相手も笑顔をかえしやすくなる。

相手ではなく自分だと僕は思う。自分がどうするかは自分で選択できるわけで相手がムスっとしていたからこちらもムスっとする、では意味がない。相手がどうあれ自分の心は笑顔でいれたほうがいいはずだし、ムスっとしている人はどこか心が堅くなっているのだと思う。それに合わせる必要はない。とはいえその連鎖が段々と人を閉鎖的にしているような気がする時もある。

それでも自分が変えられるのは自分なわけで自分がそうならないように気をつけるとか、笑顔がでてないなと思ったら形だけでもいいので顔の筋肉を動かしてみる、などやってみれば何かは変わってくる。

小さいことだけれどそれが時間の流れの中で反復増幅されれば少しづつ自分の周囲が変わっていくのだろう。

++++++

本棚に積んであったノートをパラパラとめくって太が叫んだ。

「何だこの絵!絶対Tシャツをつくって欲しい。この絵でTシャツがあったら絶対に買うよ!」

と。なるほどあの絵は面白いのか。下手だなあという思いしかなかったのでよくわからなかったが自分のノートは面白いらしく、太はトイレにまで持ち込んで熟読していた。やはり高校生との対話は面白い。

投稿者 TKM : 18:22 | コメント (0)

2004年08月21日

恐竜博で巨大生物に恐れおののく

予告通りGCF金子と恐竜博へ。

久しぶりに巨大生物との対面。

DSCF0016

これが中国最大の恐竜チュアンジエサウルス。

しかし本当にこれが動いていたのか?

実際にこれが歩いている姿をみたらかなりの衝撃であろう。恐い。

存分に堪能した後、数時間かけて金子と作品のネタ会議。ストレートな作品をつくろうという部分以外には詳細はきめないままの会議だったが徐々に骨格が決まっていった。中盤、ある作品についても企画がまとまる。夕刻、やまけん御大より連絡。急遽新川デリーにてカレー会議。さらにそのあと裏ヤマケン節爆裂の河原飲み。やまけんをモチーフにした作品案について説明をすると好感触。こちらも進めていっていいかもしれない。

その前にヒロイズムをベースにした方をつくりこむ感じ。金子は今日は朝からビーチバレーということで遅くなりすぎない時間に解散。ヤマケンとしばし農業トークをしながら月島でわかれる。

今日はこれから太(ダイ)を上野に迎えにいって、合流。

その後の予定はないので平和島のフィールドアスレチックにでもいこうかと思っている。

投稿者 TKM : 10:46 | コメント (0)

2004年08月20日

恐竜博

今日はこれから取材を兼ねてGCF金子と恐竜博へ。
土日は高校生の友人が泊まりに来る。
というまたしてももろもろ盛りだくさんの週末である。
そんなおり、今朝は気が張っていたのか目覚ましが鳴る前に目覚める。
昨日のペルー料理のパワーはまだ持続中でお腹はすかない。
夢を覚えていた。

二人の女性がタイの公園で赤い花をめぐるすれ違いをする夢だった。
親友と二人で彼女たちのすれ違いをどうにか邂逅させようと奮闘するのだがなかなかうまくいかない。公園を亀が歩いていく。

「その亀をつかまえるのだ」

と老人に言われて亀を追う。道を間違えて外にでてしまう。川が流れており岸の向こうがわにきてしまった。橋を渡ろうとすると兵士が近道を教えてくれた。果たして二人をあわせることはできるのだろうか。

様々な思いが交錯するなか電話にメールが入った。

「あと30分で南部に移動します。いろいろありがとう。」

といっても二人の距離はそう遠くないはず。間に合うのだろうか。

投稿者 TKM : 09:39 | コメント (1) | トラックバック

2004年08月17日

当世コンテンツ事情 2.コンテンツと味覚の類似性

何がどういうわけではないのだが世に溢れるコンテンツ群に対する違和感が日に日に強まっている。

「時代を開く」とか「新しい枠組みをつくる」という言葉はどことなく空虚だ。その言葉を確かめるべく「どれどれどんなことが時代を開くのだ」とみてみると「着メロ」であったり「ゲーム」であったりする。

狐につままれたような感覚に陥る。

「それが受け入れられていて儲かっているのだからそれでいいじゃないか。」

という意見もある。けれどコンテンツ全般の質感はもの凄い勢いですり減っている。数年後にはそんなものがあったことすら記憶から消え失せているだろう。それも流れなのだろうけれど。

コンテンツとは消費されるものである、という認識の方が一般的だ。しかし消費を目的につくられたコンテンツは人を掘り起こすことがない。記憶に粘らない。

自分はコンテンツを体験し、それが何なのかを脱構築するということをずっと繰り返してきた。その経験からわかったことは優れたコンテンツはユーザ、視聴者、読者の「参加」を強いる。記憶に粘らないコンテンツに価値はない。それらは消費され消えていくのみでユーザの感覚を掘り起こすことがない。

商業的に成功しているか否かはコンテンツの成功をはかるひとつの指標である。

良いコンテンツだけれど商業的にはそれほど成功しなかった、という言葉を時々耳にする。これをもってコンテンツの出来不出来を論じることは間違いである。商業的に成功しなかったのは単にマネジメントのミスである。マーケットサイズの読み違えが商業的不成功の理由の大半である。

メガヒットは宿命的に「薄」を伴う。これはコンテンツの宿命でもある。濃さはニッチに向かわざるえない。日本で一番美味い寿司屋よりもファミレスの方が商業的には成功しているだろう。美味い店と売れている店は一致しない。美味さを感じるには豊富な味の経験が必須である。コンテンツもこれと似ている。

子供の頃から様々な味のコンテンツを味わうことなしに本当のコンテンツの味を感じることはできない。味覚とコンテンツの価値を判断する感覚は近い。やまけんにきいたのだが脂と甘さに対する味覚に関しては経験がいらないそうである。だから子供は脂か甘さが好きなのだといっていた。例えば鮎の肝を食べて「ウマイ」を感じるにはそれ以前に様々な味を経験することで味覚を育てていく必要があるのだそうだ。

この点はコンテンツも似ている。経験がなくともアクションの生み出す爽快感、場のすべりが生み出す笑いのようなものはある程度は理解できる。けれども「ミレニアムマンボ」のような平坦な場面描写や時間の流れの総体として観ている間ではなく見終わった時に完成するタイプの映画などの場合はそれが指し示す言語化の不可能な「感覚」「質感(クオリア)」の経験がないとその良さを感じることはできない。

経験の必要とされない刺激としての映像情報作品がヒット作の大半を占める。しかし劇場というフィルターがかかっている映画の場合、マーケットサイズを読み違えなければサステイナブルな形で良質のコンテンツが生き残る可能性は高い。
近年の日本映画の盛り返しなどをみているとそう思う。

ネットやケータイの場合は末期状態といってもいい。ある程度のリーチをもっているサイトは例外なく「スカ」である。初期においてはネットとはニッチを狙ったコンテンツが存在できる可能性がある最後のメディアである、というような言い方がなされたがそれは幻想である。

ネットという場では相手に思考を強いるコンテンツは商業的に成功しない。大きなリーチを得ることもない。これはメディアの特性である。

ネットという媒体に対峙するとき人は集中力を維持できない。同時に多数のことが並行で行われる為、意識がバラつくのだ。だからネットのコンテンツはTV以上に「薄」に向かわざるえない。少なくとも現状では。

僕もそうだしクリエイター達もそういっているがIPリーチャブルな環境(オンライン)だと自分の内部を掘り下げていく作業はやりづらい。創作においてはどうしても外部と自分を切断する必要がある。話ながら書くことはできない。編集しながら書くこともできない。

しかしオンライン状態では完全な没入は難しい。つながっていることによって外にひっぱられる。それが全て悪いことだとは思わない。しかしある場面、例えば完全に自分が独りで思考あるいはイメージしなければならない場面においてはマイナスである。

おそらくバランスなのだとは思うがまだネットは人の創造性をドライブさせる有効な方法として機能していない。便利さと創造性のドライブは別ものである。コミュニケーションはきっかけをつくることはできるが創造自体は自分がやらなければならない。

と自分はいまいっているけれど全てはバランスの問題である。
どう使うことによって加速するのか。
使い方の問題なのだ。
それがまだわかっていない。だからコンテンツ、特にネットで商業的に成功するコンテンツをつくるならば「薄」の方向に向かわざる得ない。短期的にはこの傾向は顕著である。
が、僕が観ているのはその先なのだ。
その先にあるものは何なのか。
それが知りたいのだ。
それは人をどうするのか。
自分の感情体験をより豊かにするにはどうしたらいいのか。
自分が探すものはそこなのだ。

ケータイのコンテンツもいい。
ネットのコンテンツにも面白いものはたくさんある。
が、それで泣くことはあるのだろうか。
心に響く体験をすることはあるのだろうか。

おそらく現在それを提供でいているのはメールくらいだと思う。
メールとはあなた個人にむけてつくられたコンテンツだ。
それは他者にとってはノイズかもしれない。
でもそれを読んだあなたの心は揺れたかもしれない。
そうした体験は誰しもあるだろう。
メールだろうと心に響くことはある。

ここに本質的な問題があると思うのだ。
日々、様々な情報がネットからTVから押し寄せてくる。しかし自分に宛てられたメールや友人や恋人との時間、人と会い、場に出向き体験する、など自分との関係性や体験以上に価値を持つ情報があっただろうか?
現在のコンテンツには大きな何かがスッポリと抜けている。

ネットに限らず「今」のコンテンツの多くはは自家中毒に似た症状を引き起こす、ように僕は感じている。どこかで読んだのだが無人島に一本だけ映画をもっていっていい。でも生涯その映画しかみられない。だとしたら何をもっていきますか?という質問にその人はこう答えていた。

「映画は一本だけでもかまわない。ただし一つだけ条件がある。映画を観るときだけは他の観客と一緒にみせてくれ。」

最初、その意味がわからなかった。独りでみようとまわりに観客がいようと映画の価値は変わらないじゃないか、そう思っていたのだがいまは少しわかる。

僕はコンテンツを考える上でその部分をもう一度掘り起こしてみたいと考えている。

投稿者 TKM : 18:14 | コメント (1) | トラックバック

幸せの黄色いTシャツ ~バシパワー全開~

週末はハマースタジアムこと荒濱さんの自宅でPRIDE観戦会がおこなわれた。

午後3時。
3人は予定通り津田沼駅に集結。
当然ながらバシ師匠の姿はない。
パルコで買い物を終え地上にでると荒濱さんが車で迎えにきてくれていた。

熱い抱擁、はしなかったがナイスな挨拶をかまし、ハマースタジアムへと向かった。
初対面のヤマシンを紹介すべく、

「こっちが和製ニコラス・ケイジのやましんです」

といったらバケウケだったが、すかさずヤマシンに

「最近はジーコやねん」

と返された。

ハマースタジアムは一軒家である。
一軒家に遊びに来るのは久しぶりだ。
途中、バシ関係のバカ話で盛り上がる。
本人がいなくてもこれだけ周りを盛り上げるのだからバシ師匠の存在意義はでかい。

玄関のドアが開いて奥さんとハマージュニアことケイタ君(2歳)が出迎えてくれる。このケイタ君が異様にカワイイ。髪の毛は栗毛色できめ細やかな肌が外国人のようである。荒濱さんも幼少の頃はマグドナルドのCMなどで活躍されていたのだがその才能はしっかりと受け継がれたようである。

PRIDEの中継が開始され場のテンションがあがりはじめる。と、そこでバシが到着したとの連絡があった。ここでバシが何故おくれたのかを解説しておかなければなるまい。前日のメールでは本人から「午後3時に集合して買い物をしてからみんなでいきましょう」と提案があった。更に午前中の電話では「タクシーに分乗していきます」との宣言もあった。ところが…。1時30分。突然電話があった。

「あ、カガヤ君、高橋です」
「あ、バシ師匠。どうしました。もう出てます。いまどこらですか?」

「あ、うん。いや。その。髪を切ろうかと」

「は?!なにもいまいかなくても」
「いや、速攻。すぐに切り終わるから大丈夫っしょ。」
「いやー、無理でしょう。でも閃いたならいった方がいいですね。まあ先に買い物いってますよ。」

と何故かバシ師匠に唐突に「散髪願望」がわき起こり、以後、いつものように「ハイドウモー」とマイペースでの登場とあいなったのであった。当然ながら「散髪」に関する議論はこの日、一日を通して幾度も言及されたのだが詳細は面白すぎるのでまた別な機会に譲るとしてとして、連絡があってからしばしバシ談義をしていると急にビジョンが見えた。

「赤か黄色のTシャツであらわれそうな予感がする」

僕はそう予言した。

バスを降りたとの連絡が再度あったので奥さんとケイタ君と3人でバシを迎えにいった。
歩きながら「バシとあうのは久しぶりじゃないですか?」と話していると奥さんが

「あッ!!」と声をあげた。

以後は一堂、爆笑である。

200m以上はなれているが明らかにそれであろう黄色い物体がうごめいている。
やはりやってくれた。

バシ、黄色Tシャツで登場。

この時点で3人とも爆笑しているのだがバシ師匠は自分が何故うけたのかわかっていない。が、テンションは高い。遠くの方でこちらを伺うそぶりをみせたり、膝をカクカクさせたり、芸達者っぷりを披露している。あいかわらず最高である。彼以上にあれだけ見事に黄色を我がモノとして着こなす男にはあったことがない。あの絵だけで「黄色T=バシ」が成り立つ。それほどまでに世界でも希有な黄色T着こなしマンである。

こうして素晴らしい日曜日の午後がはじまったのであった。

追伸:バシ師匠の子供への影響力は多大、甚大。この後、ハマースタジアムでもその才能はいかんなく発揮され爆発そして暴発を繰り返した。2歳児VSバシという漫才ともいえるやりとりはそれをみるためだけにお金を払ってもいいと思えるほど成熟した芸の域に達していた。バシ魂をそこにかいま見た。バシ王。恐るべき男である。

投稿者 TKM : 06:17 | コメント (1) | トラックバック

2004年08月15日

前夜祭で痛飲

さて花火大会直前である。
月島の町に人の波が…。

凄まじい人である。
どこから集まってくるのであろうか。
蟻あるいは虫の群れのようだ、と書いて気づいたが今晩の映画は「スターシップトゥルーパーズ」ではないか。

通常は晴海の本会場に2時間前から入ってひたすら打ち上げを待つ。家からしか観たことがないので本会場での観戦は体験していないのだがいった人の話だと体力的には結構つらいようである。飲み物・食べ物の運搬となにしろ人混みがスゴイのでそれでやられるそうだ。

東京湾花火大会の場合、ここからだとスターマインなど高度のない花火は見えないのだがしだれ柳系のデカいめの花火は見えるのでかなり快適な花火観戦環境だ。友人と語らいながら部屋からのんびりと夏の花火を見上げるのは結構気持ちがいい。

今夜はタケとその友人とヤサカ御大が参戦の予定である。
気づいた人が来ればいいかと思っていたのでこれといって声をかけていなかったのだが装備だけは万全にした。ドリンク、フード、共にベストをそろえてある。

といっても屋台料理だが。

とここまで書いたらタケが登場。
ヤサカ御大とヤマケンも参戦。
深夜までみんなで飲んだあたりまでは覚えているが。
以後は記憶がない。
男の飲み会というのもいいなと思った。
女の人がいると華やかで楽しいがこうは酔えない。

強者共が夢の後。

久しぶりに飲った。
そして今日が本番である。
PRIDE GPだ。
我々はハマースタジアムで観戦だがタケの友人でベトナムで精肉店を営むコタニさんはなんとVIP席、前から4列目で観戦とのこと。

熱い男達の祭りが今日行われる。

投稿者 TKM : 12:02 | コメント (4) | トラックバック

2004年08月13日

最後のロメ王・岩竹先生の思い出

肉体改造進行中。
今日も走る。
太陽に焼かれた路面が熱放つ。
川沿いのテラスを走りながら創造学ってもありだな、と考えたら30cmくらいの大きな魚が水面に飛び跳ねた。なんとも幸先がよいではないか。

明日は東京湾花火大会である。
月島の街はお祭ムードが漂う。
人々が賑やかだ。
花火にあわせて

「タケザワ、撃てー」

といったら笑えるだろうなあ、とイメージしていたらまた魚がはねた。

明日はパンチ、いや、(若干似合いそうではあるが)パンチアウト・タケザワともしかしたらやまけん&バシも登場するかもしれない。そのあたりはアバウトだ。タイミングのあう人が集えばいい。

トレーニングの成果は上々で今日もいい感じに落ちている。
そしてこれが驚きなのだが食べたいものが段々と変わってきた。
更に味覚も鋭くなってきて、オリジンの総菜を食べたら何が使われているか細部までイメージできた。というか味の段階がそれまでは10刻みくらいだったとしたら50刻みくらいまで細分化された感じである。これは結構面白い。

こういう感じで味以外の部分、例えば、ビジネスとか金融とか人間の心などについても感覚が鋭くなっていけばどうなるのだろう。

岩竹先生ならば

「うーん、それはー…、面白くなる」

と一言で片づけるだろうなあ。

場所はNTTドコモの人たちとの会議。
久保田先生(現在は多摩美の教授)から総括を求める質問があった。

「岩竹先生、こうしたテクノロジーとネットワークの発展によってコンピュータミュージックはどのような発展をしていくのでしょうか?」

20人くらいの識者やお偉いさんが見守る。トーリュー(岩竹先生)はかなりの考える人ポーズで思考に時間を割く。我々、助っ人のスタッフも固唾をのんでその言葉を待った。そしてトーリューの口から出た言葉は

「そうねー、便利になる。

ハハハー、

ま、便利になっていーんじゃないですかー」

肩すかしに周囲は鳩が豆鉄砲状態。さすがトーリュー、あの瞬間に惚れました。天真爛漫アーティストパワー炸裂。今必要なのはあれであすよあれ。あのセンスだね。

その後、打ち上げにいったら「なんでも好きなものを飲みなさい」と言われてみんなでガツンとギネスで乾杯しようという話になる。ところが当のトーリューは渋い顔。

「あれ、先生、どうしたの?」

「ん。いやー、うん。アルファできちゃったからさー。飲めないんだよなー。いっぱいだけならー。いやー、やっぱりだめだよなー。うん。」

「ペ、ペリエにするよ。」

その後、僕たちはギネスの夜を満喫し二次会へくりだすことに。
そしてその脇を愛車の真っ赤なアルファロメオが寂しげに走り去っていった。カッコいいのか悪いのかわからないデザインが妙に悲しげであった。(本人は「ビューティッフルだろー、エー、どうだいこの曲線美」とご満悦だったがオープンにするときに力を入れたらボキって音がして顔面蒼白であった)

投稿者 TKM : 15:27 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月12日

最近面白かったシーン

築地の吉野屋の手前に寿司大という寿司屋がある。


(これが寿司大)

この寿司屋の前を通り過ぎようとしたら角からかなりのいきおいで自転車が走り込んできてズリズリと音をたて

タイヤをドリフトさせながら右にまがっていった。

と、これだけならばまあわかる。問題は乗っていた主である。

御歳70歳くらいの恰幅のいい男性であった。

というか爺さんだが。


(この角からいきなりヤツは飛び出してきた)

この爺さんがなんともファンキーな自転車の乗り手なのである。キーっととまったかと思うと素早い発進。それでいてクールという稀にみる熟年ライダーである。この絵ばかりは金子画伯にビジュアル化してもらいたい。ほとんど浦安鉄筋家族)な世界であったよ。

次。
一日に10分、木や川や空をみると気持ちが落ち着くということを発見したので音楽をききながら皇居の夕暮れを堪能する。でかい蜂がよってきたのに気づかず、何気なく隣をみて顔面蒼白2cmの距離でヤツと対面。その姿に半ばパニックになる。が、それも愛嬌。

眼前には「地獄の黙示録」状態で夕日が皇居の杜の向こうに沈んでいくのであった。
さてその帰り道。
再び築地を抜けて帰ろうと聖路加の方に向かう。前田さんの事務所の近くを通ったのでそういえば今回は前田マジック(前田さんの知人がPRIDEの現場監督をやっていてよくチケットを頂いたのだが今回はさすがに難しかった)はなかったなあ、そのかわり心優しき

「ひとり世直し運動家Mr.ハマー」

こと荒濱さんがスカパー入ってみんなを招待してくれたのである。しかもPRIDE GP。となれば

気分は高田信彦である。

ハマー、男の中の男だ!

などと悦にいっていたら

前方に黒猫が。

イカン!
こいつは横切らせちゃいけないとスピードをあげたが明らかに無理。なんとなく嫌だったので戻って猫の経路を大幅に迂回してパスすることにした。

角をまがる。
と、そこにあらわれたのは…。


<

巨大な車であった。

「まさかコイツは!」
と後ろに回って名前を確認するとそこにはデカデカと

「HAMMER」の文字が!


(コイツがハマーだ!詳しくはコチラ

こういう偶然にはかなりビビる。ひとり笑ってしまった。
で笑いながら聖路加について茶でも飲もうかと川沿いにいくと空がなんともいい感じである。これはオレにやれといってるに違いないとひとり納得し、最上階の展望室へ。

そこは別世界であった。
眼下に広がるのは蟻の世界。せせこましき些事に心をゆらす時間は過去へときえさり。未来と今が祝福の時をいまかいまかとまちわびているに違いない。

上空からみる東京の空は紅がほんのりと桃色にかわっていく無常の世界であった。素直に感動。
と、ここで異音に気がついた。

ガチン、ガチン、ワハハー!

どこからか陶器を打ち付けるような音がする。しかもたくさん。

ン?何の音?

と、視線をずらしていくとサラリーマン諸君がビヤガーデンでガチガチジョッキをならしているではないか。なんと夏期はレストランルークがスカイビアテラスなるビール好きには最高の舞台を用意して待っていたのであった。


地上200メートルにあるビアレストランはさながら天空の城であった。

が、残念ながら予約制とのことだったので片目でヤツラを牽制しつつ夕焼けを堪能。下に降りてお茶を飲んで外に出ると目の前が煌煌と明るい。

何事?!

表にいってみると今宵は消防の夜間訓練日で団員が勢揃いしている。やばいなあ、ここ通っていいのかな、とおそるおそるたずねると笑顔で

「はいどうぞー!」

なんていい人達。みんな挨拶をしてくれるのであった。が、しかし、僕が通り抜けたその瞬間、背後から

「●●準備。カカレ。ヨーォーシ!!!!!」

「ハィイイ!!!」

と怒号のごとく号令の咆吼があがった。
オオオオォォォー、こ、これは。
うちの田舎のラストサムライフェスティバルの「口上」(こうじょう)と同じだ!
かなりカッコいいのである。
おそらくみんな普段は普通の人なのだろうけれどあの訓練の号令には惚れた。
かなり惚れた。
正直、カッコいい。トム・クルーズよりもあんたたちの方が数段上だ!
日本の漢ここにあり。

暗がりにおかれた投光器の明かりが漢達を照らしている。
そして川辺にはいつはてるともなく彼らの怒号が鳴り響くのであった。

なんともダイナミックで面白いが盛りだくさんの一日だった。
そしてまだ今日は続くのである…。

投稿者 TKM : 21:28 | コメント (1) | トラックバック

近年のルーサーNo.1を発見

いきなりでなんだがこの写真かなりジョークである。
はまりすぎている。
というか友人に似ている…ような。

投稿者 TKM : 20:54 | コメント (0) | トラックバック

体重

電話にでると外国人の男性だった。

「鍵をなくしてしまったのですがどうすればいいですか?」

少し話したのだがいい人であった。

以前からちょろちょろとは走っていたが今週に入ってからわりとハードに走り始めた。食にも気をつかうようになった。
月曜から数えて今日で4日目。
ベースラインで2キロくらい落ちている。
悪くない。

今月中にベスト体重までもっていくのが目標。
このペースをキープすればいけそうだ。
ベルトの穴が段々縮まっていきウエストが落ちていく感じは悪くない。
けっこう気持ちいい。
自分の場合、気力はまずは肉体からである。

10年前、2ヶ月かけて泳ぎまくり77キロ→67キロという肉体改造を行った。
体調を含め、外見がかなり別世界になったのが今回はどこまでいけるか。

といっても難しいことをやっているわけではない。

食事前に1時間の走り込み。
就寝前と起床後にストレッチとウェイトorサーキットトレーニング。
食事で脂質と糖質を極力避ける。
これを地味に続けていくとおよそ一月で肉体が別物になってくる。

で、可能であれば週に3回くらいジムで90分のウェイトトレーニングと同3回、一回90分のスウィムを加えると更に効果的である。更にこれをチームでやれるとベスト中のベストひとりよりもチームの方が楽しいし、能率もあがる。

たった一ヶ月やるだけで人生が別物になる。
コツは短期集中で身体に覚え込ませること。

投稿者 TKM : 15:33 | コメント (0) | トラックバック

恋愛力のもつスゴさ

タケのブログに長文のレポートが掲載されていた。
起きてすぐに熟読し、少し考えた。

メールを確認すると気持ちのよいメールが2通きていた。
それから昨夜の自分の仕事についてみなおしてみる。
さらに信号(赤・黄色・青のあれ)と信号理論について考察する。

と、いきなりひらめいた。
人類の最終兵器は「恋愛力」だ。

恋愛とはすごくおもしろい現象だと思うがそれがなんなのか実はあまりわかっていない。
恋愛の感覚と何をしたかとかそれがうまくいくとかいかないとは全く関係がない。

「心が変わると書いて恋と読む」みたいな話をどこかで読んだけれどまさに転じる瞬間というのが確かにあってそれは説明の不可能な感覚である。
脳が別な機能を覚醒させる感じとでもいえばいいだろうか。

それはいきなりわかるのだ。
恐れとか信頼とかゆがみとか人間性とか心とかそういう観念がクルっと転じる。

何があったからそうなるということでもない。
おそらく理由はない。
要素があまりに複合的でコレとかアレに限定することは不可能なのだ。

で、ここが肝心なのだが「常にそうあったらいいじゃないの」というのが僕の意見だ。
悲しい恋なんてものはこの世には存在しない。それは振り返っていってるだけのことで渦中にあってはそんなものはない。(いくつかモードがあるのとは思うけれど)

深いの浅いのとか言ってる場合ではなく常に脳は恋のモードに入っていた方がパフォーマンスがあがる。これは多分間違いない。誤解があるかもしれないので少し解説をしておくと「思い悩む」方のではない。僕が言っているのは転じた瞬間のあの感覚である。

これは愛情と背反するものではなくパラレルに存在する。
ここの認識がズレると人の内部には感覚のドライブをセーブする信号ができあがっていく。

人間の中身、心情というのは常に波うっている。
夜と朝では気持ちは変わる。
睡眠の前と後ろでも意識は違う。
ミラーニューロンの例が示すように脳は夢も仮想も同じように認識している。
リズムと同期のバランスがコミュニケーションには必要だ。
常にどのような人とでもベストのコミュニケーションがとれるわけではない。
コミュニケーションの波長はそのときそのときで変動している。

人間の能力と脳力のパフォーマンスを最大化するにはどうしたらいいか。
呼び名が誤解をまねきそうだが「恋愛力」はその一つの答えだ。

「なんだそれ。あまりにも簡単じゃないか?つーか発見でもなんでもないぞ?」

と思われるかもしれないけれど感覚が開く、あるいは転じる時のあの感覚の持つ力は絶大だ。実際に世界が転じる感覚を誰しも味わったことがあるはずだ。

男の人も女の人も相手が男性であれ女性であれその人と対峙しているその瞬間を恋な感覚で過ごせれば少なくともその時間とその日くらいは一日が幸せを感じる。これは「転じる」という感覚によって引き起こされる現象だと思うし、本来コミュニケーションとはそうあるべきだ。

そんなわけであれが何なのか、あの力とはどこからきて何をしているのか、それを考えることは実は小難しい理論や「心」のありようを分析するだけで具体的な方法がともなわない抽象論の集大成である成功哲学よりはるかに即効性がある。

成功哲学というものは恋愛力と類似しており、それを読んだ時に脳が転じる感覚があってそれを言葉で引き出すにはあの形がベストだったということなのではなかろうか。米国ではひとつの市場として成功哲学という分野(日本でも大きくなってきている)が成立しているけれどかなりの部分「恋愛力」とかぶっており、つきつめていけばそこに「快」があることが最大の理由だ。

また、恋愛力についてはありようや使い方がこれまで間違えられていたのではないだろうか。

「学生のくせに」とか「半人前のくせに」とか「子供のくせに」とかこういうバカげた言説によって本来の「恋愛力」のありようが歪んでしまっていて。実際には逆なのだと思う。「恋にうつつをぬかす」からダメになるのではなく感覚に外部からブレーキがかかることで生じるストレスがダメの基なのだ。

また幸せな人は総じて恋愛力が高い人であるように思う。
といっても「恋多き●●」というのとはちょっと違うのだが。
映画のような毎日とは映画のような出来事が日々おこることではなく、それを感じる力や波長の有無を指しているといえばいいだろうか。風景や世界は心のありようで意味や印象が全く別なものにかわっていくこともある。

++++++

と、いっきにはまとまらない話なので続きは少しづつ考えていこう。

投稿者 TKM : 12:47 | コメント (3) | トラックバック

セミの朝

午前4時50分。
はやくもセミが鳴いている。

このところ朝8時には目覚めていたのだが今朝はまだ寝付けない。
なので久しぶりに眠れない朝である。

何なのだろうと考えるが答えはない。
というのは嘘だ。
わかっているのだが方法が思いつかない。

どうすればいいのかわからない、あるいはどうかしたいのか。
イニシアティブのとれない問題は苦手だ。

10年前から繰り返しているが「安易な奇跡はない」ということだろう。
そう簡単には休ませてもらえないのだ。

自力でやらなければならないことが結構たくさんある。
なんだってやれないことはないのだが時間はかかる。
間際にならないとわからないだろうことなのだろうけれど、やれないことはない。
何十年か、あるいはもっと多くの時間を得ることになるかもしれない。いや時間からフリーになるのだろう。と、考えているのは頭蓋という小さな場所にある1000億のニューロンのつながりなわけだが、それらが関連しあい心情が生まれる。

意識とはシステムである。
要素ではない。

と書いて思った。
OSは言語で書かれている。
そしておそらくは意識も言語で書かれている。
なるほど10年前に師にいわれたことを思い出した。

投稿者 TKM : 05:07 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月11日

犯罪者と手錠 ~創造性のスイッチと地と図の関係~

「妙に気分がのっているな」と感じる時がある。

どんな時にそうなるのか?

ときかれてもはっきりとは言えないのだが何となくそれがそのスイッチがONになる時は予感めいたものがあって、それは肉体からきているような気がする。
こう、身体から躍動してくるものがある。

この意識の躍動スイッチが入ると意識が鮮明になり、物事の間の関係性がみえはじめる。「あれってこういうことではないのかな」とか「これはこうだな」というのが急にパラパラとつながっていくのである。この感覚はとても面白く、僕はこれを「感覚のドライブ感」と呼んでいる。

これら一連の創造性に関するドライブ感を僕は「クリエイティブスイッチ」と呼びたいがそれだとわかりにくいのでもっと簡単にある言葉で呼ぶことにした。
その言葉については別な企画としてたちあげるのでもうしばらく伏せておきたい。

こうした気持ちの躍動が実生活や行動に具体的にどのような影響を与えているかを考えたことがなかったのだけれど自分の身体や心のありようと成果について分析していくと両者の間には強い因果関係があることがわかってきた。

気持ちが滅入っている時は何をみても滅入った感じになるし、身体や気持ちが高揚している時は何をみてもヒントに見える。

銀座のブックファーストの今週のトップセラーをみたら「愛されてお金持ちになる魔法の言葉―あなたが変わる」という本が一位になっていた。

内容は昨日みた「悪い男」とは全く別世界である。
ありがちな幸せのフレームというものをベースにして語られているが内容は簡単にいってしまうと、

「ものごとは気持ち次第。どうせやらなければならないなら自己完結であろうとなんだろうと幸福であった方が世のためにも自分の為にもベター」

とでもなろうか。基本的な考え方は高校生の頃に読んだポップサイコロジーの本とかわらない。けれどある意味これは真理であろうと思う。前述の「妙に気分がのっている」状態が継続するなら環境や状況とは関係なく物事をクリアしていくことが妙に楽しく感じられる。周りが変わるというよりも環境からの影響を受けづらくなるというべきだろう。自分に都合のいいものにだけ目がいくようになる。これってとても大切なことだと思う。

子供が突飛なアイディアを考えついたり、「何だそれ?!」という企画はたいがい規制を外すところから生まれてくる。

この法則はプランニングに関しても全くその通りあてはまる。
プランナーというのはアイディアマンだと思われているがそんなことはない。
他者のプランを練るから規制を外し逸脱しやすくなりアイディアや企画が閃く。
けれど自分のこととなるとなかなかこれが難しい。プランナーとアーティストの決定的な違いはここにある。

プランナーは自分のことをプランすることができない。

逆にアーティストは他者のプランを練ることは苦手だが自分のプランを練ることは得意である。

思考を生業としていてもどの方向性でやったときに能力が最大化するかを考えることは実は大切だったりする。

「人には向き不向きがある」というのはよく言われる。
文章はうまいけれど歌は下手だとか、この分野には向いているけれどこれには向いていないといった話はよくきく。
しかしこうした評価は他者の判断であってそれほど重要ではない。

下手であってもそれをやっている時に感覚がドライブすると感じるならばそのままやり続ければ途中でスイッチがONになる。
上手くできることとスイッチは関係がない。

要はやり方はなんでもよくていかに簡単により強いドライブ感が得られるか。
それがポイントである。

このスイッチが入っている人は何となくわかる。
惑わないし迷わなくなる。
かといっていい人になるということでもないのだがとりあえず変な空気がではじめる。これに周りが引き込み現象で引き込まれていく。なんだそれ?という感じがするかもしれないけれど妙なオーラを出してる人々の近くにいると引き込まれる。

それが時代にあえば周りは幸せになるし、ズレればズレたでやはり騒動や動乱に転じ、激しい流れを生じさせる。

++++++

もう15年くらい前になるけれど受験で東京に向かう電車で護送中の犯罪者二人と刑事二人と隣あわせたことがある。約2時間。彼らと一緒だった。TVでみるように二人の手首には手錠がかけられており、刑事は手錠につけられた紐を握っていたように記憶している。
しかし、僕にとっての衝撃的だったのはその光景ではない。
手錠をかけられた二人の目に宿る暗い光である。

そんなものありえないと言われればそれまでだが僕は明らかに常人とは異なる目の輝きをそこにみた。獣の目といえばいいのだろうか。まわりの人々とは発する雰囲気が違うのである。人間としての生命的な機能は大差ないはずだ。しかし彼らは全く周囲にとけこむことなく異形であった。外見の異形は目にあらわれ、雰囲気の異形は彼らを取り囲む周囲数メートル四方に沈黙を強いていた。

それは強いマイナスの引き込み現象であった。

世界はマイナスとプラスががせめぎあってできている。
どの時点でどちらに転じてもおかしくない。
二者は地と図の関係にある。

創造性について考える場合、まずはここに注目しなければならない。
記号はそれが単独で存在するかぎり無と同意である。
唯一、他との関係性が成立する時、相対的に記号化し、意味が生じる。
分節とは関係性のはじまりなのだ。

投稿者 TKM : 04:03 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月10日

「悪い男」キム・ギドク

悪い男

仕事が一段落した後、有楽町シネカノンに向かう。
どうにか時間に間に合う。
しかし驚くべきことに「誰も知らない」が満席とのこと。
この映画で有楽町シネカノンが満席になるとはにわかには信じがたいものがあった。
これもメディアの力なのだろうか。
どのような客層が劇場に足を運んでいるのかが気になった。

部屋に戻り、仕上げを終えてから「悪い男」を鑑賞。
なんとなく気になったので念のためと思ってみはじめる。
のっけから俳優の存在感に圧倒される。
ムンとした雰囲気が画面から漂う。

あのタイプの映画、といってはいけないのだろうけれどどうしてもATGの雰囲気を思い出す。「痛い」映画である。

いくつかの映画のシーンがよぎる。
マジックミラーになっている鏡をたたき割るシーンは「恋人たちのアパルトマン」を思い出した。あとなんだったかな、いくつか思ったのだが。そうだ、あれだ、渡哲也の「仁義の墓場」だ。ストーリーは異なるが冒頭と前半の暴力性と絶望はあの映画の救いのなさと似ていた。全般的に様々な映画が混じっているような印象を受けた。どこかでみたシーンだな、と幾度か思った。

が、そんなことはどうでもいいのだ。
むしろ主演の二人の強烈な存在感でまとめあげていく乱暴さに逆にひきつけらえた。その1時間前にみた「幸福の鐘」(SABU)は悪いとは思ったが途中から倍速でみた。映画から「生命の躍動」が感じられなかったからだ。一方、「悪い男」はDVDとはいえエンディングまで画面をみつめさせる映画力をもっていた。

綺麗な映画がいい映画ではない。
面白い映画もいい映画ではない。
いい映画とは「生命の躍動」でなければならない。

映像がパワフルである必要はない。

そこにあればいいのである。
流れていく時間と映像の中でしか存在しえない躍動の痕跡が。
欠片でもいい、気配でもいい。
思考にたどりつくまえのまだ言葉になる前の世界の一部が純粋な形で含まれていればいい。それが自分がコンテンツに求める唯一の条件である。

++++++

映画をみていてメモしておきたくなったことについて書いておく。
自分は「けがれ」が苦手だ。つくりものの映像とはいえ人がけがされるのをみることは耐え難い苦痛である。

映画の中で主人公の女性は逃げ場なくけがされていく。救いのない人々の狭間で落ちていく。現実には「ありえんだろそれ」と思うが先日放送された「世界が100人の村だったら2」では先祖代々生まれながらにして「奴隷」の少女の姿があった。あんなものがなぜ現存しなければならないのか、とやるせなさと納得のいかなさに感情的になり、「なんなんだそれは」と強いいらだちを感じた。

同種の感情はスパーフリー事件やコンクリート殺人事件など細部を知れば知るほど強まる。弱者に対する絶望的な暴力や破壊が許せないのだ。そこには何の根拠もない。

テストステロンの暴走ですまされる問題でもない。
夜がまた来る」、「悪い男」など全部に共通している、自分はあの手の卑劣・愚劣は許せない。勿論、それらが人間の精神の深部とリンクしているとも思う。人間をテーマにしながらも「もののけ姫」が売れたのはどろどろした得体の知れ無さと暴力による、とする意見もあながち嘘ではないと思う。

が、それはわかっているけれど、「所詮そんなの綺麗事だ」と自己の立場をひきの位置に定位し守りによって安泰を享受するのは違うと思う。

全ての物事を正誤に二分化できるわけではない。
しかしそれは時間という軸をくわえた次元全体のマクロでの話であって、自分という個人、人間の中での正誤ははっきりしていてかまわない。自分はそういう立場をとる。

綺麗事であろうとなかろうと人の持つ醜なる部分に対して自分は嫌悪を感じる。自分もそうなっている場合も多々ある。それでも絶えず「肩の鳥」は忘れたくない。

※肩の鳥は"モリー先生との火曜日(原題:Tuesday's with Morrie)にでてくる仏教の話で自分の肩に鳥がいると思ってその鳥に「自分はこれでいいのか」「やれているのか」と話かける、そこに鳥がいるなら大事なことを後回しにすることはない、という話。

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■悪い男公式サイト
http://www.kimki-duk.jp/badguy/mainFrame.html

投稿者 TKM : 03:52 | コメント (2) | トラックバック

2004年08月08日

「矢場とん」の夜と幸せの秘密

東山魁夷のインタビュー映像を観た。
なんて優しい話し方をする人なのだろう。
ひとことひとことしっかりと言葉を伝えようとしているのがわかる。
熱く語るという雰囲気ではないが言葉の奥にある強さは本物である。

「外国旅行をしてもこういう所をかこうと思って歩くのではなくて、そういう気持ちを捨てて歩いていると相手の方から声が聞こえてくる。例えばですね、向こうから発信音がでているんだろうと思うんですけれど、だけれどもこちらの機械がですねあまり雑音ばかり入っていると聞こえないわけなんですね。それと波長があってないといけない。ですから両方がひとつに結ばれるというのは両方の生命の源泉がひとつだと感じるからだと思うんですね。これが木は植物で人間は人間で、人間が生物の中で一番えらいんだという風な気持ちをもっていたんではいつまでたってもですね、発信音は聞こえないしですね。そしてまた生命がつながっているものですよという音が聞こえないような木がしますね。」

穏やかな声である。
しかしこの言葉にはハっとさせられた。
心に雑音が多ければ大切な信号が自分に発信されていても気づくことはない。

自分の日々など雑音だらけではないか。
なるほど自分には信号が聞こえていなかったに違いない。

考えてみれば素直になればいいだけであり簡単なことだ。
悋気をなくし、素直になる。
それだけで毎日は大きく変化していく。

自分の心なのだからコントロールすることは可能だ。

午後7時過ぎ、急にイメージがひらめいて銀座の「矢場とん」にいった。
わらじ定食を注文した。
お茶を飲んだ瞬間、やまけんが串カツを食べていた絵が思い浮かんだ。
メニューをみると串カツ定食もある。

「すみません串カツ定食に変更していただけますか」

店の人に告げると

「はい、どう、大丈夫?」

と料理人に確認をとると、

「あ、すみません、もう揚げはじめてしまったんですよ」

カウンターの向こうで料理人が答える。

「そうですか。それでは結構です。ありがとう。」

と我ながらなんでそんなに楽しそうに話すのだろうかと思うくらいにさわやかかつ丁寧な言葉で話していた。するとである。何故か奇跡が起こった。

インターホンから二階の客の注文を伝える声が聞こえた。

「●●とわらじです。」

やおら調理場で声が飛び交い、女性の店員が笑顔で近づいてきて

「あの、いま別な方のご注文がありましてよろしければお客様の注文をそちらと交換して串カツ定食に変更することもできますが。」

といった。

「そうですか!では串カツ定食でお願いします!」

厨房の料理人達も笑顔でこちらに挨拶をしている。

「よろしければ、味噌ダレとソースとを半分づつという半々にもできますよ」

「お、じゃあ、半々でお願いします。どうもありがとう!」

となぜかトントン拍子で物事が運んでいった。
とてもいいコミュニケーションがとれたなあとなんだか嬉しかった。

これって何なのだろうとしばらく考えた。
なんだかわからないがともかくこの世の中、世界のありようというのは気持ち次第で驚くほど簡単に変容するのではないだろうか。

食べ終えてから余韻を楽しんでいると先ほど機転を利かせて注文の変更をしてくれた料理人がお茶のおかわりを持ってきてくれた。

感じのいい青年である。
月島なので近いんですよ、と話をしていると「先週、もんじゃにいきましたよ」という。どこのもんじゃがいいのか教えてくださいときかれたので幾つか店の名前を教えてあげた。会社の寮が佃大橋のたもとあたりにあるそうで月島にはよくいくのだそうだ。

「じゃ、魚仁いったことある?」

と月島No.1のパワフル居酒屋を紹介すると是非いきたいという。ノートを取り出して地図をかいてあげたらマネージャーもやってきて、しばし月島居酒屋談義にはながさく。とても丁寧に気持ちのよい笑顔でみんなが「ありがとうございました」見送ってくれた。こんな風に食事をして、店の人と話をして楽しい気分になるというのは幸せなことだ。

良質なコミュニケーションは人を幸せにするのである。

これは人生の秘訣なんだろうなと思った。
外にでると夜風が気持ちよくて心がふわりと浮いたようだった。

通りを数人のおじさんたちが歩いていく。

「そういえばこのあたりにカガヤってなかったっけ」

すれ違いざまにそんな声がきこえた。
なるほどこれも受信機に雑音があったら聞こえない信号に違いない。

投稿者 TKM : 01:39 | コメント (3) | トラックバック

2004年08月06日

「カラシニコフ」 AK47と呼ばれる自動小銃

連日の夏日である。
昨日、タケとも話したが気温がこの猛暑の中を自転車で歩き回っているとジリジリと照りつける太陽に身体が焼かれているような気分になる。

皇居をぬけ四谷の上智大学あたりまではどうにか気合いで乗り切れるがそこから先が微妙な上り坂になっていてこのあたりで気力が萎えてくる。気温も最高潮に達する。

車に乗っていると気づかないが自転車で道路を走っているとまわりの車がえらく熱をおびていることに気づく。燃焼機関を内蔵しているのだから考えてみれば当たり前なのだけれど通り抜けざまにヌオっとした車の熱気が迫ってくると都市がいぶされているみたいだ。
今朝も早々に目覚めたのだが洗濯をして朝食を食べ打ち合わせに向けて調べものをしてとやって予定していた打ち合わせが急遽キャンセルになった。

時間があいたので図書館に寄って日経二紙をチェックする。
「カラシニコフ」という本をみつけた。

カラシニコフとは通称AK47と呼ばれる自動小銃の名前である。
1947年にロシアのミハイル・カラシニコフ氏によって設計・開発された。
世界の紛争地域には必ずこの銃が存在する。
現在、地球上には一億丁におよぶAKがあるとみられる。

アフリカ・シエラレオネでのもと少女兵へのインタビューから本書はじまる。
それが現代の地球の話であることにリアリティが感じられない。
そのくらい自分が生きてきた数十年とは乖離した世界があった。
自分たちとは全く違う世界を少しだけかいま見た。
と、同時にここにいること自体がおそろくし幸運なのだと思った。

憂鬱の先端としての憂いはあるし、問題がないわけではない。
しかし少なくともこの国では夜に眠っていていきなり街がゲリラに襲われ、数百人の子供が連れ去られ、10歳の少女達が全員レイプされ、奴隷化され、少年・少女兵に仕立て上げられ10代という時間を絶望の中で過ごすということはない。

悲劇を報道しろとかそういうことを言ってるんじゃない。
しかしもうバラエティを尊ぶ時期は過ぎ去っていて、もっともっと知るべきことがあるのではないか。

それを口にすることは自分の驕りかもしれないけれど、でも、自分らがまともになったら他は知りませんというのは違う。

豊かであることとか楽しさとか面白さとかいろいろある。
でもそこまでいけないものごともたくさんあって、それがどういうことなのかを考えなければならない時期なのだ。

いや、それを考えないと人の根本部分だけがすり減っていく。
物事は単体では存在していない。めぐりめぐって全ては関連して異国の全く無関係に思える物事が思いも寄らない現象を引き起こす場合もある。

出来事は無視してはいけないのだ。気づいたことには意味があるし、それは関連性の渦のどこかにある。それを考えなければならないのだ。

大きな流れだけれど流れはたしかに存在する。
そして僕たちはその流れの中で生きている。

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投稿者 TKM : 16:01 | コメント (2) | トラックバック

仕事のポイントとできない人の共通点

赤坂で打ち合わせの後、久しぶりにMr.バイチャンス・タケザワと落ち合う。だいぶ遅い時間だったがどうにか到着。

一日を通して電車の乗り継ぎや打ち合わせやらもろもろのタイミングが微妙にあわなかったのだが一日の終わりにいい時間を持てた。終わりよければすべてよしとはこういうことなのだろう。

タケの同僚の方々をみていて「こういう人たちを雇いたい」と思った。なるほど成長している企業には人材が集まる。自律している女性は優秀だ。加えて人を心地よくさせるムードがある。幸せになるべき人々である。なんとなくではあるが共通した雰囲気があり、企業にはDNAがあるのだとも感じた。

++++++

話はかわるが昨日はこんなことを考えていた。
仕事のできない人は人の使い方を知らない。仕事を人に依頼する場合、頼む側と頼まれる側の関係は決して「受注・発注」という主従関係ではない。他者への依頼はサービスの交換である。特に知的労働に関していうと自分ができないことを他の人に「お願い」するのであって立場はイーブン、対等である。

この部分を理解していない人が驚くほど多い。
彼らは多大な損をしているのだがそのことに気づかないのが不思議でならない。
ある仕事を頼む場合、重要なのは相手のモチベーションをあげていくことである。繰り返しになるがここを理解してない人があまりにも多い。彼らはバカではなかろうか。

費用が同じでも自分のモチベーションがあがっている状態であれば10倍も20倍もの力で仕事にのぞむことができる。だからモチベーションをあげるのが上手な人がトップをやっている企業はそのことだけですでに強力なアドバンテージを有していることになる。
同じコストで人の働きが何十倍も違ってくるのだから他社とは比較にならない。
この能力を定量化することは難しいが視覚化できたらな天と地ほどの差がある。

人の気持ちを萎えさせる人がトップをやっている企業は消滅への道を前進している。
そうやって考えてみると伸びる企業は伸びるべくして伸びているのだとも思う。

人の心を読むことからはじまり、市場の成長カーブを読むこと、動きのポイントを読むこと、物事の道理を知れば何をすべきかはおのずと明かなのに駄目な企業はこれらを徹底的に逆に推し進める。やるべきことをやればいいのにやらなくてよいことにだけ興味を持つ。ネガティブスパイラルを自ら引き込んでいる。

ジョナサンや茂木さん同様に自分も「スカスカ」したものに対して反抗的である。
デコレーションが先導するスカスカしたモノやコトは見た目の派手さと裏腹に「すり減っている」感じが強い。全体的な流れとして大多数に受け入れられるという状態は終わりのはじまりであるように思う。
(成長カーブに忠実といえばそうだけれど)

いつも思うがダイニング系の店や洒落たカフェっぽい店にはメッセージや思想を感じない。
雑誌が広告用の媒体と化していったのと同様、物事がモードに偏重するあまり根本的な問題意識が忘れさられている。それは店ではなくユーザの選択なのだ。

TV同様、人がみたいと思うものを提示しなければビジネスはなりたたない。けれどその方向性に豊饒はない。美しくない。みてくれは美しさと似ているが本質は否である。変化して継承されることはなく消えていくのみ。長期的にみて人から可能性を奪いはしても感覚をドライブさせることはない。確実にすり減っていく。

しかしそれほど悲観はしてはいない。
少しの企てでガラリと様相はかわる。
要はポイントなのである。

投稿者 TKM : 09:13 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月05日

グラフィックアーティスト・ジョナサン・バーンブルック氏とのナイストーク+個人ワークショップ

昨日は銀座でジョナサン・バーンブルック氏と話し込んだ。

ジョナサンはグラフィックアーティストで六本木ヒルズのロゴのデザインも彼の手によるものである。その他多数の作品や製品に彼のロゴやフォントが使われている。

明日から銀座グラフィックギャラリーで行われる個展の準備で銀座にきていたそうである。といっても僕は初対面かつ作品についても何も知らないので雑誌などをみながら作品についていろいろ話し込んでいくと、ジョナサンは鞄から使い込まれたPowerBookG4を取り出し作品群をみせてくれた。

いきなりアーティスト自ら個人ワークショップである。
なんとも恵まれた機会である。

図書館にいると電話が鳴ったので外に出てから折り返すと友人からで銀座の喫茶店を教えて欲しいという内容だった。

「もう店に入ったから時間があればどうですか、ジョナサンを紹介します」

誘いは断らない主義である。
そんなわけであのロゴをつくる人とはどんな人であろうかといってみるとジョナサンは優しいイギリス人であった。しかしそのメッセージは多分に政治的であり、かなり共鳴を感じた。みせてくれた作品で印象的だったのは「脳死」という作品。

彼が作成した「脳死」という文字とアンテナ・伝播・TVモニター・コンテンツという内容を配置した作品なのだがこの作品にはグっときた。彼はグラフィックアーティストだが作品の核は「メッセージ」なのである。

「パロディ」あるいは「ブラックユーモア」ともとれる内容にみえるが思想は本物である。ジョナサンが世界をみつめるうえで抱いている問題意識が作品と本人から直に伝わってくる。

この感覚なのである。
「アーティストの持つ感性」という言葉でメディアはごまかすけれど感性とかそういう問題ではないこれは「視点」なのだ。「その人」がいったい何者かといったときそこで問われるのはその人がみている世界、その人の視点である。作品とは彼らの視点や世界が表出し形になったものでありそれは彼らの世界の一部なのだ。

ジョナサンの思想はわかりやすい。
マグドナルドやスターバックス、ナイキといったある種帝国的にモードによって浸透しもともとその場にあったものの気配を薄めていってしまうモノ達に対する反抗である。

ジョナサンはスターバックスには絶対いかないといっていた。
「なんで」ときいたらスターバックスのロゴをつかって帝国モードを批判する作品をつくったら強いクレームがきたそうである。しかしスターバックスの製品には彼のフォントが用いられているのだからこのあたりがまた皮肉である。

そうジョナサンの作品は「風刺的」である。
シンボルはシンプルかつダイレクトだがその背後には膨大なメッセージが織り込まれている。何千枚ものテキストによる批判よりもただ一枚のグラフィックスアート作品の方がより多くの情報を持つ場合もあるのだ。

二日連続で二人のアーティストと話をしたが彼らの作品も価値を持つけれどそれ以上に彼らの思考とモード、視点のようなものこそ価値の本質であり、それに触れることでそれぞれが何らかの「気づき」を体験すること、それが彼らの存在価値なのではないかと僕は思った。

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第219回企画展
Friendly Fire バーンブルック・デザイン展
2004年8月5日(木)~8月28日(土)
http://www.dnp.co.jp/gallery/ggg/

ジョナサンのサイト
http://www.barnbrook.net/

ジョナサンのフォント(購入できます)
http://www.virusfonts.com/

投稿者 TKM : 14:31 | コメント (0) | トラックバック

「動くの?コマ~布山タルト」展@京橋ASK?

やまけんのブログでも紹介されていたが布山君の個展をみにいった。
学生時代に彼がつくった作品はいずれもそれまでに体験したことのなかった「視点」が含まれていて興味深かった。
今回展示されていた作品は3点。
「FRANK」と「SFの助」は映像作品でともに原作のマンガをアニメーション化した作品で
ある。

代表作の「FRANK」は第7回文化庁メディア芸術祭で優秀賞を受賞した作品である。
布山君の案内でまずは先入観なしに映像作品をみることにした。

壁には原作のマンガが展示されている。
アニメーション作品はそれをもとに布山君がゼロからかきおろしたそうである。
白黒の映像をCG技術によって平面と立体が違和感なく融合された映像にしばしひきこまれる。劇のクライマックスでの映像表現のダイナミズムにかなり圧倒された。2次元の絵をこのように表現してくるとは。

アニメーションとは「視点」なのだと思った。
視点のアート、あるいは視点の表現。
作品を観賞後に会場に展示されていた原作と比較する。
さきほど体験した圧倒的な視点のダイナミズムの余韻がまだ残っている。
原画には独特の味わいがある。
これはコンテンツの遺伝形の情報といっていいだろう。

「FRANK」に僕が感じたのはこの情報をもとにアニメーションという「布山エンジン」によって「視点」と「時間」がかけ合わされた新たな表現形の誕生であった。

観賞後しばらく「これは何なのだろう」と自分の体験した感覚について考えた。

表現形として固定された作品の面白さと「原作」との対比によってはじめて見える「アニメーション」あるいは「視点」と「時間」(リズムというべきかもしれないが)という「コンテクスト」の面白さは別ものだと思った。

作品を別な表現形に変化させるエンジンとそこに付随する予想不可能生。それによって同じ遺伝形をゆうしながら全く別の表現形(この場合は映像作品)へと変ずる多様性や可能性をかいま見た。アニメーター恐るべし。

他の二つの作品も別な「気づき」を与えてくれたように思う。
「アニマルーぺ」というインスタレーション作品はこれこそ携帯電話が担うべき「遊」と「表現」の具体形であろうと唸ってしまった。

布山君の作品はどれもそうなのだが相手をつきはなした表現ではない。相手に媚びるわけでもなく、かといって「わかる人にだけわかればいいさ」という自分勝手な表現でもない。
「どうだこれがオレのメッセージだ!」と変に熱いわけでもなく。
相手のどこかに潜む「オヤ?!」という感覚を呼び覚ます余韻の残る作品である。
※僕が好きな「異化」の感覚と近い。

アーティストの持つこの視点や感覚に触れると自分がリセットされた感じになる。

++++++

その後、やまけん、布山君を交えてギャラリーオーナーの木村さんの店に向かい食事。
食べながら、飲みながらいろいろ話す。

「おい、タルト、っつーか。タルトってなんでだー!」

とヤマケン。
対する布山君はいたって冷静に

「前から作品の時はそうだったのだけれど、名前をかえるというのは気持ちの切換の上で重要で。たとえば教えるときと創るときとでは切換が必要なんだけれど、なかなかスパっと切り替えるのは難しいじゃない。でも名前をかえることで自分のモードをきりかえることができると思うんだよね」

なるほど。かなり納得である。これはメモだ、と思った。
やまけんも「食い倒れ者」と「農産物物流コンサルタント」の時とでは名前を変えたら更に「食い倒れ道」がきわまるというものであろう。などとバカばなしをしているうちに半ば強制的に布山君も食い倒れ党に入党が決定した。広報担当としてはきたるヤマケンのビックイベントには布山君作の

「食えるの?やまけん」

の作成を依頼したいと思うのであった。
そして当然ながら我々「食い倒れ党」も布山君の活動を全面的に応援することを誓うのであった。
布山君、やまけんともどもイベントの手伝いしますよ。

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「動くの?コマ」展

会場:art space kimura ASK?
東京都中央区京橋3-6-5 木邑ビル2F
TEL 03-5524-0771
Email: asku@oak.ocn.ne.jp 
http://www.kb-net.com/ask
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投稿者 TKM : 13:39 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月04日

コメントスパム対策(プログラム編)

またしても大量のコメントスパムが襲来したので今回は大本の部分から対策を練ることにした。変更を加えたのはmt-comments.cgiというブログにコメントを投稿するプログラムファイル。対策法は下記のサイトの方法を採用した。

MovableTypeコメントスパム対策

プログラムファイルに直接アクセスしてコメントを一気に書き込んでいくというコメントスパムを防止するためにフォームから投降する時に特定の文字列を埋め込み、それがないとコメントとして登録できないようにした。

これでブログへのコメントはフォームからしか投降できないようになった。
果たして効果は劇的であった。
あっさりとコメントスパムが止まった。

しかし何故にこの世の中にはコメントスパムやスパムメールといった人の迷惑にしかならないプログラムをつくる人々がいるのだろう。その能力を別な方向にいかしたらいいのにと思うのは自分だけだろうか。

投稿者 TKM : 12:55 | コメント (0) | トラックバック

2004年08月03日

36歳の女性起業家達

深夜、TBSのドキュメント番組「ドキュメントD・D」をみる。

数年前に同じ番組で放送された3人の女性起業家たちのその後をおったドキュメントである。
現在、彼女たちはみな同じく36歳。
パワフルさの反面なかなかに疲れた表情をしているのが印象的だ。

3人の女性が登場するのだがその中の一人でマネーの虎などにも出演されていた方がいる。今年に入ってから事業をたたみ数ヶ月間、自らリセット期間と宣言しビジネスを離れていたのだが暇に耐えられず腰越で海の家をプロデュースしビジネスに復帰したそうである。

で、登場した人々にてついて僕が思ったのは「なんかすっきりしないな」という曖昧な感想である。
具体的に何がどうというのではない。

これまでいろいろな人にあったし、いろいろな人と話してきたから、という自分の個人的なものさしなので絶対とはいえない。しかしその人が使う言葉や音に注目すれば何となくその人の持つ空気というものはわかる、と僕は思っている。

気になったので調べてみたら彼女のプロデュースした店舗とは「Livedoor Cafe@江ノ島」であった。

投稿者 TKM : 03:30 | コメント (2) | トラックバック

2004年08月02日

地と図 ~傷つくことは悪くない~

睡眠もまた多分に心のありようと関連している。

信用、あるいは信頼とは裏切られる覚悟をきめることでもある。
裏切られてもかまわない、それを含めて信頼する。
コミュニケーションとはこうした信頼にもとづいて行われなければならない。

傷ついたと感じる時、人は嘆いたりかなしんだり、辛く途方にくれるけれどそれは大きな飛躍のチャンスでもある。心の揺れは方向がどうあれ人の深部に働きかける。

自己の心のありようは事象とは本来関係がない。
何をどう感じるかは自分次第である。

付け加えるとダメージが大きければ大きいほど飛翔は高くゴールは近い。
傷が深ければ深いほど心は豊かになるチャンスを得る。
ばからしいほどに単純な話であるけれどこれはおそらく正しい。

地と図の関係である。
生きている限り全ては磨き砂である。
何事も起きないことが幸せなのではない。

感情がゆれないことは不幸なのだ。

幾つかの方向性があるけれど信頼ベースで感情がうねりの咆吼をあげるとき人の感覚はドライブする。
そして人と関係性を活性化させる。

問題視しなければならないのはうねりや揺れではなくダイナミズムの停止なのである。

投稿者 TKM : 05:08 | コメント (2) | トラックバック

鉛のバラ

丸山健二の小説を読んだ。
初めて読了した。
タイトルは「鉛のバラ」。
高倉健を主演にみたてて書かれた小説である。

映画であれば物語として受け入れることができる。
しかし小説としては別である。

どうしても。
最後がどうしても気になるのだ。

小説表現における心情の言語化によって引き起こされる違和感なのだろうか。
いまだ底に落ちてこない。

鉛のバラ
丸山 健二


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投稿者 TKM : 04:26 | コメント (0) | トラックバック

「この杯を受けてくれ~(中略)左様ならだけが人生さ」(勧酒より) ~このあいだ旅先である人が書いてくれた言葉である

日々は乱気流のように過ぎていく。
生きているのが不思議だ。
昨日、自動車にひかれそうになった。
あそこで人生が終わっていてもおかしくなかった。
戦慄とまではいわないが確かに風景がスローモーションのようにゆっくりと流れていった。

いや本来はあそこで終わっていたのだろう。
たまたまここにいるに過ぎない。

しばらくの間、空をみながら音楽を聴いていた。
ベンチに横になり空を見上げた。
雲ひとつない青く澄み渡った空だった。
人と人が理解しあえたらいいのにとずっと考えていた。

隣のベンチでは子供達が遊んでいる。
母親が女の子に何かを叫んでいる。

太陽がジリジリと照りつける。
夏の日差しである。
太陽のまぶしさに手をかざした。

あの一瞬、10分に満たない時間と数瞬の沈黙を境に滅していく自己を感じた。
板に頭を打ちつけて感情を散らしたのはそれほど昔の出来事ではない。

先週、ブラジル人の運転するタクシーに乗った。
彼にブラジルにいくように強く進められた。
東京駅で降りるとき。
釣り銭を渡しながら「必ず銃を持つように」念を押すように運転手はそう言った。

手のひらの火傷が少し痛む。
跡は消えたが痛みはまだ残っている。

悲観的な感覚はない。
苦々しい重みもない。
もういちどゼロからなのだと言い聞かせて支度を整えはじめる。
カーテンをあけると川の向こうに月が輝いていた。
夜風に吹かれて雲がながれていく。

 「左様ならだけが人生さ」

唐突にその言葉が降ってきた。
幾度か反芻するうちに何故かおかしくて笑っていた。

投稿者 TKM : 02:19 | コメント (2) | トラックバック

2004年08月01日

孤独の効用

今年も花火の季節だ。
この部屋からは東京湾花火大会がみえる。
今年はPRIDE GPと重なってしまったかと思っていたら一日違いの8月14日が花火大会だった。ベランダにイスをおいてゆっくりと眺めることにしよう。

最近よく思うが孤独というのも悪いものではない。
遅いか早いかだけでいずれ自分も他者もこの世界から消えていく。

安易に友人や恋人といった手近な関係に没していくくらいなら孤独に対峙していたい。
理解やコミュニケーションがないと嘆き、凡庸な安らぎに埋没する。
みためにはそれも悪くない人生だろう。
しかしそれは人に迷惑をかけない、という程度の人生でしかない。
ひと味違う人生をおくるにはひと味違うやり方を見つけ、実行しなければならない。

僕は優しさや思いやりというものは大切なものだと思っていたけれどそれらが自分の人生でどれほどの意味をなしたのかはわからない。好きだからやっているだけで人はそんなものには興味などない。

メディアや人は「楽しめ」とか「面白いこと」をしなければならないと人を追い立てるがそれはまやかしだ。時間には感情なんてものはないし、優しさがあろうと思いやりがあろうと誰が何をしていても地球は回り続ける。

依存が悪いとは思わないがシナジー(相乗効果)は弧から生じる。
自律と相互依存のバランスポイントとはそういうことだと思う。

時間の枠をとりはずしたところにある理解やコミュニケーションの持つ力は絶大だ。
人にとって最大の悦びは「理解」と「コミュニケーション」である。

しかし理解やコミュニケーションがないからといって悲観する必要はない。
マーケティングでいうところの差別化みたいなもので誰にでも理解されるものは誰にも理解されることはない。

だから「理解されない」を経過しない理解は存在しない。

この世界は基本的に与えることに関して自在である。
愛情でも幸せでも与えるのは簡単だが獲得しようとすれば果てしない困難と直面する。

投稿者 TKM : 13:27 | コメント (0) | トラックバック

状況マネジメントという考え方

異様なストレスと対面しつづけているわりには結構よくやっているではないかと時々思う。しかしそれが理由で感覚にブレーキがかかっているのも確かである。

自分のベストパフォーマンスを発揮するには状況をマネジメントしなければならない。
これは自分だけでなくあらゆる人にあてはまる。

自分の場合そこでズレと歪みが生じている。
いやもう何年もの間、歪みっぱなしである。

かろうじてタイトロープで感覚をキープしているに過ぎない。
ベストパフォーマンスとはほど遠い。

性格とは絶対的なものではなく状況に依存するものである。
パワフルでワーっとパワーがムンと伝わってくる人がいるけれど、その人個人がそういう人であるというよりは取り巻く状況がそうさせている場合が多い。そういう自分でいられる状況をうまくつくりだす、そういう状況のマネジメントが上手なのだ。

ガンガンいってる感じの人も状況が変わると急におとなしくなったりするし、そういう人の場合、病気になると急に弱気になる場合もある。逆にひ弱な人の方が病気には強かったりもする。

ではどうすればベストパフォーマンスの実現を可能にする状況マネジメントができるようになるのか?

まどろっこしいようだがこの問題についてはアスリートと競技の関係、試合と結果の関係などを参考に考えていくことにしたい。結論からいうと「状況マネジメントはサイエンスである」という認識にかえていくこと。これが状況マネジメント術をマスターするスタート地点である。

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コメントスパム対策としてメニュー画面でコメントを一括削除できるように改造した。修正したのはmenu.tmplのJavascriptとCMS.pmのコメント表示数。これで数百に及ぶコメントスパムの削除は完了。

投稿者 TKM : 12:23 | コメント (0) | トラックバック