« Evolution Cafe エヴォリューションカフェ | メイン | 2004年の出来事 その1・アソブラボ発足! »
2004年12月30日
協創 Sleepy…Zzzz
唐突だがさきほど午前5時過ぎ、仲間の大切さをしみじみと思った。
誰といたわけでもないし、何があったわけでもない。
仕事の合間にふと思ったのだ。
世の中にはいいヤツもいれば悪いヤツもいる。
切込隊長こと山本一郎さん推薦の「繁栄と衰退と」の1500年代のオランダ独立戦争のあたりを読みながら帰ってきた昨日の電車の中の風景を思い出した。何があったわけでもない。
男性は3分おきに鼻を鳴らしていた。赤ら顔の男性であった。35歳くらいだろう。普通に働いている善良な人、だと思う。
僕は正直いってその男性が異物に見えた。多様性を差異に置き換えてしまうことは危険な思考ではある。けれどその時はそう見えた。
男性と入れ違いに別な男性が大門から乗車してきた。
彼は男性にしては長髪であった。飯野賢治、いや、宅八郎くらいの長さの髪といったらイメージしやすいだろうか。彼はベージュと茶色のチェックのジャケットをきていた。柄は大きめの格子にも見えた。中央の座席に座ると彼は斜め上空をみつめた。
そのまま笑っている。視線の先には何もない。何もない空間をみている。
ニヤニヤではなくねっとりとした笑いである。
刹那、自分が取り憑かれてしまうのではないかという思いがよぎり慄然とした。
僕の隣の席には外国人の男性が座っていた。
英語の雑誌を読んでいる。
単語が目に入った。
最近よく目にする名詞だった。
部屋に帰ってPCに向かうとカネコからメッセージがきていた。
アソブ研のパートナーでもあるカネコが以前、面白いことをいっていた。
「ネットワークに接続されたPCだと作業ができないんだよね」
そう言われてハっとした。
仕事という名目で僕は「創る」と「処理する」の二つの作業をしている。
二つの作業は同じPC上でおこなわれるけれど別なものなのだ。
ネットワークに接続された環境だと「創る」にブレーキがかかる。
メッセンジャやSkypeは直接的だがメールやウェブもマイナスに働く。それらは調査やコミュニケーションという側面では素晴らしく有効だがこと「創る」に関する作業には不必要な場合が多い。
何かを紡ぎ出す作業は他者ではなく自分との対話によってなされる。きっかけはコミュニケーションにあっても最終的に創出させる作業は個人的なものだ。一本の鉛筆を二人で握っても絵が上手にかけるわけではない。連弾がいいとも思わない。
昨日、久しぶりにトオヤマに会った。
彼も優秀な男でいまは博士課程にいる。
「仕事ってなんでしなくちゃいけないんですかね」
と彼がいう。言われて一瞬考えた。
「働かなくても生きていける人が多いってのはそれだけ国がパワーあると思うんだけどな」
とカワマタ君。僕は仕事が嫌いではない。もとからそうだ。
システムのエラー、セコさ、気持ちのなさ、みたいなものを漂わせている空間や人が嫌いなだけだ。
自分でも自分が喧嘩好きではないことを自覚している。議論やディスカッションは好きだが陥れるとか不善というものが苦手だ。悪意をダイレクトにぶつけてきて平気な人間やキンキンした雰囲気が嫌いだ。
そういうものはどこから来ているだろうかと時々考える。
世界では争いがなくならない。
オランダ独立戦争の記述を読んでいたらほんとうにそう思った。
けれど、人の意識なんてのはあてにはならない。
ゆとりがあると人はロクなことをしなかったりする。
自己の保守が最大の関心事に変わっていく。
意識が自動的に保全モードに切り替わるのだろう。
危機に陥ると人の心は優しくなる場合もある。
自分の弱さが前面にでるから、人に対してオープンになる。
相手を変えようとする気持ちなどどこかに消えていく。
風が気持ちいいとかそういうことで幸せを感じたりもする。
弱さによって心がほどけていく、ということもあるのだ。
その逆で期待していた未来。こうあるであろうと思いこんでいた未来が裏切られることに人の意識はいまだ対応できない。
「アァー?!」
という声の出所は大抵、そうした期待の裏切りにある。裏切りは人の自己保全欲を顕在化させる。たかが食事やお酒ごときで喧嘩することさえある。この平和な国で飢えと無縁であっても食事で喧嘩する。
ならば。
自分の深部と強くリンクしている事象や対象、人があろうべきでない形に変容する、あるいはさせられた時、人はどのような感情を抱くのだろう。
電車に乗る前にしばらくそのことについて考えた。
自分の中にグツグツと憤怒の感情が湧き出す。
言葉が溢れる。流れのような言葉である。
それをひとつづつほどいていく。
これを怠れば意識は言葉の流れにひっぱられていく。
一度その流れが生じると行動もその影響を受け、事態はダイナミズムを得る。
けれどそこには「想い」がない。
シビリアンコントロールを失った軍隊のようなものだ。
破壊が目的化してしまう。
様々な人が様々な仕事をしている。
いいヤツもいればそうでないのもいる。
本気のヤツもいればそうでないのもいる。
「ゆるいな」と思うことが多々ある。
自分も十分に「ゆるい」のだがそれでも大きな違和感を感じたり、相容れなさを感じる時もある。
風呂上がりに腕立てをやったら身体がやたらとダブついているのを感じた。重量にすれば5kgに満たない贅肉だろう。しかし感覚的には30kgくらに感じられる。自分は太っているわけでもないし、痩せているわけでもない。わかるのは3年前に比べると身体は「ゆるく」なったということだろう。
肉体改造ではなく人間改造だな、眠い目をこすってプランを考えようとした。
投稿者 TKM : 2004年12月30日 05:29
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kagaya.com/mt/mt-tb.cgi/4292
コメント
先程、プーケットから帰ってきた同僚に災害時の写真を見せてもらいました。そこに写っていたのは、想像外の出来事でした。車が3段に重なっていたり、家の中に車が突っ込んでいたり。パンガローはこなごなでした。日本でも津波の被害があったときには、鎌倉の大仏のところまで、水が来たそうです。
津波が襲ってきた時の映像をニュースで見ると、人々は、津波を見てから、逃げるまでに一瞬の間があるように見えます。想像外の出来事に対処することが大変難しいものだということなのでしょう。
話がそれてしまいました。
多様性と差について、ふと思い浮かんだことを書かせていただきます。本質や、今回の意味合いとは違いますがご了解ください。
モロッコで出会った日本人皆が口をそろえて話していた事の一つに、”障害を抱えている人が普通にくらしている”というのがありました。この意味合いは表面的な意味より深いのだけれども、健常人との差が生活で感じられないし、だれもが皆、普通に足りない部分を補う作業をしていました。なので、同じく皆でお茶をし、食事をし、たまにはBar(イスラムなので、公然ではなくインシャラーである)で過ごしていました。私の感覚からすると、日本でよりも、そういった人をかの地では多く見かけます。でも実際の割合は、日本でもモロッコでも同じではないのかなと思っています。その差はなんなのでしょうか。
>「働かなくても生きていける人が多いってのはそれだけ国がパワーあると思うんだけどな」
私の実体験としては、お金だけの、もしくはお金がなくとも、成長や喜びをあたえることのない生活や仕事をしていると、頭がおかしくなってくるということです。
それと、石油産出国の人々はどのような気持ちで生活をしているのだろうと考えてしまいました。そこでは成長がともなう仕事はどういったものがあるのでしょうか?
満たされた先に求めるものは何なのでしょうか?そして、一度満たされた人たちがその先に求め感じるものは?
すべて繋がっているように思いました。
文章で、伝えるのは難しいですね。失礼な言葉がありましたら、お許しください。
大変興味深い御話をいつも読ませていただきありがとうございます。来年もどうぞ宜しくお願いします。
今日は、富士山がとても綺麗です。
投稿者 tam : 2004年12月30日 12:18
>「働かなくても生きていける人が多いってのはそれだけ国がパワーあると思うんだけどな」
東南アジアの国々は、放っておいてもコメや果物が取れて、そんなに働かなくても生きて行けるっていう、かつてはある意味とても豊かな生活をしていたんだと思います。
でも、やっぱり貨幣経済が入ってきて「金こそすべて」な文化に侵されてからは、コメや果物が取れるだけでは「豊かではない」ということになって、みんな都会に出てきてあくせく働いて働いて働いてでもこんなに働いてるのに豊かにならないなぁ、とか思ってるんでしょうな。
…と今バンコクにいるんですが、そう思いました。
田舎はめちゃめちゃのどかなんだけどねぇ。川沿いだと、網はってるだけで魚入れ食いらしいのに、「豊かさ」求めてみんなバンコクに出てきてるんやろな。
「豊かさ」ってなんでしょね。
> それと、石油産出国の人々はどのような気持ちで生活をしているのだろうと考えてしまいました。そこでは成長がともなう仕事はどういったものがあるのでしょうか?
> 満たされた先に求めるものは何なのでしょうか?そして、一度満たされた人たちがその先に求め感じるものは?
ほんとオマーンとかブルネイとか何もしないでも石油出る国の人々は何を求めているんでしょうね。
枯渇への不安を払拭するための一時的な享楽にひたってるんでしょうかね。
投稿者 やましん。 : 2004年12月31日 02:35
>tamさん
コメントありがとうございます。
先日、NYから帰国していた友人と話をしていたのですが「日本はどうなるの?」という話題になりました。いろいろな問題について話をしたのですが自分たちの専門でもある「メディア」そしてその背景にある「お金」についての話しました。
「日本にいると他との比較で価値が決まっていくような気にさせられるよね。なんでだろう?」
という話になりました。メディアの影響だけが原因ではないのだろうけれど一番影響が大きいのも確かではないかと。何度も書いてるんですが「日本のTV番組をみてるイタリア人がどれだけいるんだろう」と僕はよく考えます。基本的にTVは人が見たいものしか写さない。なので日本人が見たいものが日本のTVには映っているんですよね。
産油国の生活を僕は知りません。似てるかどうかわかりませんがアフリカで餓死しそうなのよりも日本で飢餓しらずで生きてる方がいい、と僕は思います。しかし日本ではそれとは違う理由で自殺する人もいる。
人は自分しか生きられないというか。どういう関係性にあるかで今をどう感じるかがかわってくるのでしょうね。
全然関係ないのですが以前、野口さんという登山家が「富士山を綺麗にしたら日本がかわるんじゃないかと思った。だから富士の美化運動をはじめたんです」といっているのをきいたとき、「なるほど」と思いました。ブロークンウィンドウセオリーの規模を大きくしたらそういうことがあると思うんですよね。自分ではそれと認識していないけれど行動や思考に多大な影響を与えている「傾き」のきっかけというものが。
>やましん
バンコクからコメントありがとう!
昨夜もカワマタ君とやましん大丈夫かなと話をしていたところです。
豊かさの問題っていろいろな人がいろいろな立場で言及していて、状況や立場で変わるから絶対的な「これが豊かさだ!」みたいなものはないんだろうね。
じゃあどうすればいいんだ?
って話になるけれどこれはオレの意見でしかないのだが「自分の人生は自分しか生きられない」という見方をするしかない。なんかこう幸せとか豊かさってのはその物理的にホントにヤバイのを除けばかなりの部分で内面的なものだと思うんだよね。
さっき「オアシス」という韓国映画をみていたら、すごく自分達の認識って狭いな、と実感した。ルールがあると思ってるけれどそのルールってどれだけのものなのかと。
ほんとに答えはないけれどできるなら「人はどこにいくのか」ということについて実践し、考え、追求していきたい、と思う今朝でした。
投稿者 かがや : 2004年12月31日 03:25
バンコク暑いです。
> バンコクからコメントありがとう!
> 昨夜もカワマタ君とやましん大丈夫かなと話をしていたところです。
バンコクはいつもの喧騒の大都会なままです。
まぁ、新潟で地震が起こった時に東京に旅行に行く、って感じだから、当然かもね。
ただ、今回の津波で国王のお孫さんが亡くなったのと被害者祈祷のため、野外コンサート等の年越しイベントが軒並み中止になってしまいました。
そのうちいくつかは、被害者救済チャリティーコンサートに名前を変えて開催してるみたい。
とにかく、タイ人はお祭り好きというか、遊び方がわかってる国民なのかも。
> かさの問題っていろいろな人がいろいろな立場で言及していて、> 況や立場で変わるから絶対的な「これが豊かさだ!」みたいなものはないんだろうね。
上の文章書いてて思ったけど、「日々の生活での楽しみ方を知っている」ってことも豊かさの一つやね。
日本は高度にマニュアル化されてて、遊び方のガイドブックや情報が多過ぎて、自分なりの楽しみ方を見つけるのが難しくなってるのかも。
常に「何か楽しいことないかなぁ。」「なんか満たされないなぁ」と感じているような気がします。
僕が旅行する理由は、外国に着くと頭のスイッチがカチっと切り替わって、「何でも楽しんでやろうモード」に強制的に入ることができるからなのかも。(日本にいたらこのモード変更は難しいからね。)
みなさん、よいお年を~。
投稿者 やましん。 : 2004年12月31日 22:12



















































































