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2004年01月31日

結婚式日和

目覚めるとバシ師匠からメール。
ケイタイを忘れたらしい。

午後から友人の結婚式なので待ち合わせていくつもりだったが連絡はとれるだろうか。
それにしてもいい天気である。
結婚式日和だ。

そして夜の部の鴨鍋も楽しみだ。

投稿者 TKM : 12:07 | コメント (0) | トラックバック

2004年01月30日

草間彌生、そうだ「トパーズ」にでてたんだ

来月から森美術館草間彌生展が開かれる。昨年、彼女の自伝を読んだ。僕はその頃を知らないが過去の彼女はそのパフォーマンスと発言などから性解放のシンボルとして日本のメディアでは扱われていたそうだ。本やTVで知ってはいても実際の作品は作品はひとつもみたことがなかったので楽しみである。本の中にでてくる彼女に惚れてしまった箱づくりのアーティストの話をまだ覚えている。いつまでもいつまでも本当にいつまでも長電話が続くのだ、と書いてあった。

ページをみていくとスペシャルトークというイベントがあり、本人の話がきけるようなのでさっそく申し込んでみた。
今日は突然の電話があって、夕方から某企業で打ち合わせである。
そうそう表題だが草間彌生は占い師役で映画「トパーズ」にも出演している。

投稿者 TKM : 14:34 | コメント (0) | トラックバック

その料理いけますか?

家に戻ってから録画しておいた「極人の休日」を観る。
立川談志の回である。

あるダイアログで爆笑してしまった。
思い出すといまも笑える。

談志の家に遊びにきた市川染五郎に談志がもてなしに何か料理をつくると言い出す。
二人して台所にいくのだがこの台所がまあ田舎の家の台所という感じで好感が持てる。
全然洒落ていないのだ。

食材ばかり山ほどあるのだがどれもこれも「古い」。
談志は物を捨てるのが嫌いでお腹を壊しても「古く」なったものを食べるのだそうだ。
なものだから家には冷蔵庫が4つもある。

肉を切りはじめた談志。
ところが材料がない。
うどん粉がない、卵がない。
「買ってこいこのやろう」
と弟子にひとっ走りさせる。

ニヤリと笑って宣言。
「じゃあね、まずはオードブルをつくる」
そういって何やらあちこち探し始める。
この台所、ホントに台所な風情で。
20年くらい前の新築するまえの父の実家を思い出した。
「あれがあるだろ。ワカメ!ああ、そうさ。うちのは古いぞ。ふるいったって10年くらいだ」
そういって水をはったボールにワカメを投入し、鼻歌まじりでいろいろ混ぜ始める。
マヨネーズと胡麻をあえてカットしたワカメと混ぜる。
そうそうこのワカメ、増えるワカメと違って長い。
50cm~1mくらいあるワカメである。
これをチョンチョンと切ってあえていく。
色はなぜか二日目のワカメのみそ汁みたいに緑というよりも土色に近い。
できあがったワカメの和え物を味見する。

「どうですか?いけますか?」

染五郎が談志に訪ねる。
談志は一拍おいて答えた。

「ん?いけないねぇー」

カワイイというのかな。この間が最高だった。毒舌の談志がこの瞬間、素に戻る。照れくさそうに口にした「いけないねー」という言葉は何も背負っていない。何も考えることなく自然とでてきた言葉である。これが良かった。60分枠だから正味40分。その時間の中でベストの場面である。
それから3回くらい談志のマネをして笑っていた。

「ん?いけないねぇー」

言えないよ、この言葉。
人は言葉で生きている、とはCSLの茂木さんの言葉だ。
より良く生きたいと願うなら人は自分の無意識を磨かなければならない。
無意識を磨くのは言葉である。
その人がどんな言葉を使うかでその人の生が決まる。
だから人は言葉を磨かなければならない。

一度だけ、生で談志の話をきいたことがある。
バンダナに釣りに行くときのダウンジャケットであらわれた談志はいきなり、

「健康の話しろったって、オレは来年死ぬ予定なんで」

と始まった。言葉の使い手である。2000人からの聴衆がいっきに引き込まれていた。
そういえば前に図書館で談志の落語のCDを借りてきて聴いたことがある。それまで落語家だという認識がなかった。

cover

GOという映画で主人公がウォークマンで落語を聴いていたのをみて落語をきいてみようと思ったのだ。綾小路きみまろみたいにポンポン話が進んでいく話術とは違ってゆったりとし、これといった盛り上がりもない。しかし、なぜか聞き入ってしまうのだった。

しかし、どの話よりもさっきみた

「いけないねぇー」

が僕にとってはベストだが。

投稿者 TKM : 03:54 | コメント (1) | トラックバック

ICCで映像の未来を観る~変わるのに変わらない、それがキュービタルの意味

久しぶりにICCにいった。現在おこなわれている展覧会「FUTURE CINEMA」をみるのが目的である。

昨年、やまけんに誘われて藤幡先生の展覧会にいったときに「年末にICCでやるからみにきてよ~」と言われていたのだ。

詳細は明日にするとして感想から。
いって良かった。
その一言につきる。
久しぶりに時を忘れた。
インスパイヤされる経験がぎっしり詰まっていた。

収穫としては映像の展示におけるものすごく大切なポイントにきづいた。
境界線といってもいい。
動画としての映像そのものではなくそれがどのようなコンテクストで語られるかによって映像の持つ意味がこれほどまでに変わるのかと感心しっぱなしであった。(自分用にメモをしておくとスケールによって意味はかわるのだ)

これは僕の感じ方なので他の人が同じように感じるかどうかはわからない。
というのは僕が映像をみるとき、特にこうした映像をつかった作品をみる時の視点は「アートを鑑賞する」という視点とは大きく異なる。全く違う部分をみているといってもいい。僕はずっとある問題について考えている。無意識下でも常にその問題についての思考は続いており、異化に対する異常な興味はその問題と関係している。
僕が作品に対して感じる「異化」はその問題意識なしには知覚し得ない感覚であり、作品をみて僕が感心する瞬間とは「異化」の感覚にとらわれるその時なのである。

++++++

藤幡先生の作品はCAVEの部屋を応用した作品である。
どれどれとヴァーチャルリアリティ用の専用グラスをつけて3メートル四方の空間に入っていく。
何度かCAVEを使った作品は体験しているのでCAVE自体への目新しさはない。

CAVEは5面を覆われているので通常のVR以上の没入感がある。
その空間の中で2Dの動画を観るということは頭でわかっていても実際に体験すると全く別ものなのである。
空間に浮かぶ無数の動画がランダムに可変しながら「旅」を再現していく。
見入ったまま時間を忘れた。
どこにでもあるありきたりの映像なのだ。
ところがそれがこれほどまでに面白くなるのか、というくらい面白い。
ずっとみていたいと思った。
「これは」と思ってメモを取った。

石井先生のキュービタルの事例もそうだが技術自体は目新しいわけではない。問題はスケールとコンテクストなのだ。

++++++

この作品からだけインスパイヤされたイメージではないが未来の映像視聴環境はこうなるだろうな、というヴィジョンを得た。人の目は一つの映像だけを観るには良く出来すぎている。速読は何も文字にだけあてはまるわけではない。直感像資質的な映像作品、フォーマットもありうるのだと思った。

++++++

一言でいってしまうと会場は石井先生のいう「キュービタル」でいっぱいだった。
そもそも現実がキュービタルなのだ。

僕はいまこの文章をMacのモニター上で書いている。
OSXのインターフェイスは確かによくできている。
しかし、これは変わる。その変化は僕が想像していたのよりも遥かに大きな変化となり、おそらくより肉体的な体験へと還元されていく。いまのこのシステムでは人は眼の機能すら使い切ることができない。

それは映画にでてくる未来のインターフェイスのような変化ではない。
感覚がブレることで生じるリアリティの介入。
立っているだけなのに後ろに下がっていくような感覚のブレが入ってくるだろう。

テキストも映像も変わらないのに変わるのだ。
ここが重要である。
変わっているのに変わっていない。
これがキュービタルの本質である。

投稿者 TKM : 02:34 | コメント (2) | トラックバック

2004年01月29日

銃弾、そして

さっきこのサイトである動画をみた。
どのサイトもコメントは控えている。

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2004年01月28日

ラース・フォン・トリアー監督「キングダム」全巻を一気に観る

「キングダム」(ラース・フォン・トリアー監督)(キングダム2 第3章【字幕版】THE KINGDOM ?キングダム2 第4章【字幕版】THE KINGDOM ?含む)を1~4巻まで一気に観る。以前、1巻だけ観たことがあったがそれ以降をみていなかったので先週のレンタルセールを利用して全巻を借りてきた。そして案の定返却の前日に一気にみることになった。
1巻からみはじめたのだが半分くらいみたあたりで目をあけていられなくなり、い気づくと眠っていた。展開がスローなのでストーリーの流れに乗るのがなかなか難しい。
1巻のラストちかくからようやくストーリーが加速していく。
あの世界に脳がなじむまでに少し時間がかかったが一度ストーリーに引き込まれると後は最終巻までの7時間があっという間に過ぎていた。

ストーリーや映像のリズムではなくもっと単純に一定時間で刻まれる裏側のリズムがあって段々と頭が馴染んでいく。強烈な映画だ。イレイザーヘッドのおぞましさとナウシカ並みの聖な感じやら宗教、黒魔術、オカルト、医学、病院、ツインピークス的な間合いとノリがぐちゃぐちゃに混じり合っている。唐突にあらわれる電気自動車とコード。ヘルマーが毎日抱えていく車のホイール。秘密結社のイニシエーションとイギリスのコメディ的なチープさ。怖いのか真剣なのか不真面目なのか遊んでいるのかドロリとした軟体が気化し液化し映像が状態変化を続けながら蠢いている。

映像は濃厚というよりも情報的、脳的で幾度も目眩のようなフラッシュバックを繰り返す。そして徐々にパターンがしみ込み世界が入り込み、今という時間の体験が記憶へと変わっていくのを実感する。刻まれた記憶がチラチラと甦り、なんでもなかったシーンがフラッシュバックする。一気に観ることでアーカイブの鮮度を保ったまま次のシーン、今のシーン、それまでのシーン、を流れとして体験しているのだ。

それにしてもこの作品。
デンマークでは普通に地上派で放送されており50%の視聴率を得たというのだから驚きである。
日本なら企画すら通らないだろう。(エヴァンゲリオンは社会現象になったがそれでも50%の視聴率はとれないよやっぱり)
この作品が国民全体に受け入れられる国もあるのだ。
世界はやはり面白い。

そしてキングダム、何よりも脚本にノックアウトされた。
何故、あの設定であの脚本が発想できるのだろう。
異常事態である。
あの脚本がかける人はつくるべくしてあの作品をつくったのだ、としか言いようがない。
奇怪で巨大で長過ぎる手足を持つ子供。
外観とは正反対の聖の衣。
映像的にはチープなことこの上ないのに異様な恐怖とリアリティを感じさせる悪意と悪魔の表現。
感服である。

(狙われた学園の悪魔のイメージもすごかった。一番、盛り上がりのシーンで悪の化身が登場するのだが、これがスゴイ。何せお腹に渦巻きを書いて「私が悪のブラックホールだ」みたいな台詞なのだ。平井和正の「幻魔大戦」の原作で2巻をすぎたあたりから学園政治小説にかわっていくのもすごいが)

投稿者 TKM : 08:32 | コメント (2) | トラックバック

2004年01月27日

久保君(くねくね男)の先生を発見

友人の久保君はくねくねと軟体動物のように肩を逆側にまげる芸が得意で飲み会の席で披露してはみんなに顔を背けられる。ところが本日、その軟体動物久保の先生をを発見した。
くねくねと腕が200度くらい動くおじさん」である。左のメニューの「Rubber Man」がそれ。

投稿者 TKM : 16:17 | コメント (0) | トラックバック

イスラエルのめがねとキュービタル再考

イスラエルの製品はどこかしら軍がらみなのだけれど実に興味深い。

例えばこれだ。
ウソ発見メガネ」。
よくこんなものを考えつく。
そして悔しいが面白い。
これなども実にキュービタル的な製品だと思う。
石井先生との対話や昨日の孫さんの話などをきいていてもものごとが同時並行的、パラレルリアリティ、なキュービタルな日常に向かっていることを痛感している。
ビジネス系の話も面白いのだが僕がなぜそれらを面白いと感じるかというとそうした話や事例の端々に情報の生命的な振る舞いや「キュービタル」的な振る舞い、実際が見え隠れするからなのだ。

キュービタルとは考え方であり、現実世界をキュービタル的視点で再構成し、より「面白く」「自然な」社会や人のあり方を追求していこうという試みなのである。

※キュービタルに関心のある方はご連絡ください。キュービタルに触れる機会、講演会、勉強会などの情報をお送りします。

◆参考URL
東京海上研究所ウェブフォーラム
http://www.tokiomarine-forum.org/index.html

投稿者 TKM : 13:54 | コメント (1) | トラックバック

久しぶりにきいた「アキア」という社名

今晩の「ガイアの夜明け」はなんとあのMac互換機を販売していたアキアを率いていた飯塚社長の特集である。予告をみると液晶テレビに参戦するようだ。

アキアのMacは一度も使ったことがなかった。
資料によれば最盛期は120億円の売り上げがあったそうだ。
仮にジョブズが復帰しておらず、互換機の販売がいまも続いていたらアキアは存続していたかもしれないがOS Xは存在せず、Be0Sが基本OSになっていたのだろうか。

何年も前のMac雑誌にアキアの社長のコメントが乗っていたのを覚えている。アキアはPowerBook市場に参入したがっていた。あるパーティで当時のCEO(スピンドラーかアメリオ、南米系の人だったような)に直訴するも「我々にもう少し儲けさせてくれ」と懇願された、との談であった。

投稿者 TKM : 11:47 | コメント (0) | トラックバック

2004年01月26日

それもまた違う人

先日、ある仕事でその人のお嬢さんが初対面で僕にいった台詞と同じことを言われた。

「カガヤさん、て想像してた人と全然違ったわ」

細くて青白く大人しい人をイメージしていたそうだ。
実物は全く別人でワイルドな感じなのでびっくりしたといわれた。

投稿者 TKM : 02:34 | コメント (0) | トラックバック

僕の持つ奇跡

最初の頃は楽しかったが現在はメタブログ論を読むと頭が疲れてくるので最近は流し読みである。が、そんなものはどうでもいいよ、とは思わない。メタブログ論も面白い。だけど狂牛病みたいで疲れてくる。再帰的なのだ。ブログでブログを論じるとテキストは狂牛病になる。中身は空っぽだ。

時々会いたくなる人がいる。
その人とは10年以上会っていない。
かなりの偶然か運命のいたずらがないかぎり会うことはないのだがいまでも惑い迷う時はその人を想う。
ただ一人、天才と認めるその人を想う時、心が軽くなる。
そうだよな、という気持ちになる。
間違いもただしさも考えることなく、少しでもその人のようになりたいと思う。

永遠の子供ような人である。
その人はハートと愛情に溢れた人である。
あんな人が実在することはある意味、奇跡かな、とさえ思う。
その人の周りは幸せに包まれる。
あの温かさと豊かさ、素直さとおおらかさはどこからくるのだろう。
この世でただ一人、天才と認めるその人のためにできることを思う。

投稿者 TKM : 01:44 | コメント (2) | トラックバック

夢から醒めないまま

この間、志乃ちゃんからお土産にともらったワインを飲みながら「ウェイキングライフ」を観た。少しづつ意識がブレていくのがわかる。どこまでもつづく夢の世界が独特のアニメーションで描かれる。(ワインはうまい。そしてワインの酔いは心地よい)

この生も夢なのだ、という感覚に襲われる。
さっきまでいた渋谷の街は実在する街だろうか。
明日や昨日は現実だろうか。
段々と意識が混濁していく。

思うにまかせて思考をやめた。
瞬間以外の全てについて考えるのをやめてみた。

勝ちどき橋を渡る時、昨日に比べて5000倍くらいのストレスを感じていた。
たった50分前のことである。
それらが消えていくのがわかった。

時はこの一点でそれ意外の時は記憶というアーカイブの中にしか存在しない。
再現性はない。
過去はいまではない。

英語のシャワーを浴びているうちに字幕をみないでも言葉がききとれるようになっていた。
つかの間、そんな時間が流れた。

アップルパイが欲しかったんだ、頭の中でずっとそう繰り返した。
肩越しに何人かの友達に話しかけた。

バラに水をやってからフォアグラを食べ、グラスにワインを注いで時間について考えた。
エレベータの前に黒く縁取られた紙が張ってあった。
マンションの管理人のおじいさんが亡くなったとのことだった。
今日の昼から葬儀だそうだ。

幾度か言葉をかわした。
5回くらいだろうか。
しっかりとした好感の持てる人だった。

死は人を浄化する。
「世界の中心で、愛をさけぶ」のラスト近くでおじいさんがいう言葉だ。
死は人を浄化する。
死者を恨むことはできない。

投稿者 TKM : 01:29 | コメント (4) | トラックバック

2004年01月25日

サービスと待ち時間、伝播する意識

自宅のMacのシステムを入れ替え。
ずっとG5で作業をしていたせいか自宅のMacが旧世代のマシンに思えてくる。
G5恐るべし。

その後、有楽町で父と食事。
久しぶりに三州屋にいってみる。
午後3時で魚が食べられる店で開いているのはここくらいだろう。

ついてしばらくは快適に過ごす。
しばらくして、4時近くになると店が混みだす。年配の人、といっても40~50代の人だが、が多い。悪い店ではないのだが店員のおばさんがひとりしかいないので店のオペレーションがだんだん混乱してくる。注文したくても注文ができない。お客が店に気を使ってしまっている。店がこうした状況におちいるとお客はストレスを感じる。それもかなり大きなストレスである。

普段は3人くらいいる店員が1人になっただけで食べ物の味も店舗もかわらない。それなのに満足度は等比級数的に低下していく。マクドナルドとモスバーガーの違いを思い出す。商品が手渡されるまでの待ち時間はおそらくモスバーガーの方が長い。しかし、注文を終え代金を支払うまでの時間は圧倒的にモスバーガーの方が短い。モスバーガーで商品ができるまで座って待つことには耐えられる。しかし、マクドナルドで注文し、料金をしはらうまでの待ち時間は拷問に近い。

心理的な時間の負荷は実時間とは異なる。
注文のしずらい店、店員にオペレーション上の負荷がかかってしまいゆとりがなくなっている店はそのストレスがお客にも伝播するので楽しさは低減する。これと同じことは普段の生活、人との関係にもあてはまる。

投稿者 TKM : 06:55 | コメント (1) | トラックバック

2004年01月23日

トラック野郎

トラックで崖からダイブ
トヨタのCMもかなり終わってる。
よくこれを考えつく。

投稿者 TKM : 12:59 | コメント (2) | トラックバック

タクシーと「にわか」

昨日、仕事で久々にDirectorを使った。
どうにか仕事は完了。
Movieにおとして、CD-Rに焼いて帰宅しようと電車に乗るとなんと経堂止まり。
タクシーで新宿にでて友人と軽くひとあて話をし帰宅。
昨年から今年にかけて一番の寒さではないだろうか。
中央公園の角でタクシーを待っていると歯がガチガチ鳴った。

家にもどって(なんだか久しぶりにもどってきた気分だった)一息つく。
帰宅して雑務を片づけ一段落しているとショックなニュースを知る。

++++++

唐突に「にわか」という言葉を思い出す。
形容詞ではなく名詞の方の「にわか」である。
この世界は「にわか」みたいなものだ。
歩いたり、話したり、笑ったり。

近くでサイレンが鳴っている。

投稿者 TKM : 06:36 | コメント (0) | トラックバック

2004年01月22日

バラと相転移

国際フォーラムでウキウキ社長の話をおききする。
講演後、紹介されて少しだけ話す。
今度改めて会合することになるのかな。
ウキウキ社長の会社はなんと日本の小中学校の水泳帽子市場の50%のシェアを持つ隠れたNo.1企業である。
なんとなくやぼったい企業のイメージがあったのだが話をきいてみてイメージが変わった。
経営の視点が柔軟かつ合理的でポップなことに驚く。

その後、有楽町でみつけたタイ料理屋でカオマンカイを食べる。
ふと気づくと永井一正さんの個展の会場の前だったのでふらりと入ってみる。
良い。
実に良い。
特にライオンが最高であった。
多数の作品が展示されており、しばらく会場にいた。

それからミスティック・リバーを観て、「天国の本屋」を読み、築地のヴェローチェでSONYのプレイステーション事業についてのドキュメントリポートを読む。書籍は分厚いが近しい業界なのでイメージがわきやすくどんどん読み進める。

創業当時のSCEでプレゼンをした頃を思い出した。あの時の自分が行ったネットワークエンタテイメントについてのプレゼンが何故なかなか受け入れてもらえなかったのか理解できた。開発案件ではなく、即、キャッシュフローを生み出すであろうコンテンツ企画、つまり、早急に完成できインフラを必要とせず、開発費のかからないソフト開発にしか当時のSCEは投資できなかったのだ。
本の中の久多良木さんの言葉「10あったら2くらいまでしか話してはいけない。それ以上話すと理解を通り越して警戒される」である。

それはさておきプレイステーション事業については大体しっていたつもりだったが僕が理解していたのは2割くらいだと知った。あの事業の最重要ポイントはプレイステーションというハードやソフトの出来ではない。(もちろんそれもかなりの重要ポイントではあるのだが)ゲーム業界の構造変化とコンピュータを用いた家庭用エンタテイメントの実現こそが本質であり、それによって根本からゲームビジネスが変わったのだということを初めて知った。奥深い。とともに読んでいてある種のビジョンが浮かんだ。ゲームに限らずあらゆるビジネス、いや、社会的活動といった方がいいか、はある閾値を超えた瞬間から別ものに変わる。

例えるならやっていることが「物づくり」であるとか「ビジネス」である、という視点ではなくなるのだ。
活動自体が別の組織体、個体化するような、人間をセルとした情報生命体の振る舞いのように見えてくる。
極めて生物的な動きに見えて仕方がなかった。構造、あるいはパターンと呼ぶべきなのだろうか。
会社間での違いや組織体の規模の差異はあるが閾値の向こうとこちら側で相転移するような、そうした感覚につつまれた。このイメージは何なのだろう。
とても興味深い。

帰りに有楽町の無印でコップくらいの大きさの鉢にはいったバラを買った。
高さ20cmくらいの小さな赤いバラである。
棚の上においてみる。
花は二つ。
一輪はすでに開いている、もう一つのつぼみは少し開きかけている。

投稿者 TKM : 02:36 | コメント (0) | トラックバック

2004年01月20日

教育という言葉から情報の振る舞いについて考えた

本日、夜11時からの「ガイアの夜明け」は「世界教育ウォーズ」。教育という言葉を聞く必ず友人の愼之介の姿がよぎる。

現在、彼は学校を設立すべく奔走している。
目的が定まっていると関連する情報や環境が段々と集まり構築されていく、ように見える。僕も教育に関連する情報に触れると自然と彼のことを思う。有用と判断すれば連絡もいれる。何故、情報はこうした振る舞いをするのだろう。とても興味深い。

精神論や自己啓発エッセイで語られるような「勢い」とか「好きなことをやっている向こうから幸運がやってくる」という話をきいていると心地がいい。実際のところ心の持ちようと情報の振る舞いは全く無関係ではないのだろうけれど。
しかし、これらの現象には情報論的な理由がある。

この部分がわかってくると人がどう生きるべきかとか、その人が何をしたらいいのか、とか。人に関する様々な問題の入口まではいける気がする。

投稿者 TKM : 22:14 | コメント (5) | トラックバック

村島家の朝

昨夜は仕事で遅くなり村島さんの家に泊めていただく。

「帰れないようだったらうちに泊まってっていいよ。」

とあたたかい電話。12時過ぎに「やっぱり帰れそうにないです」と電話すると

「わかったー。布団しいておくから」

奥さん(ユカちゃん)が穏やかな声でこたえてくれた。村島さんに道順を教えてもらい夜の世田谷を歩いた。住宅街は静まりかえっている。環八を越えて半分くらいまできたあたりでネコが一匹、壁の前でもじもじしていた。壁にのぼりたいようだがそれほど熱心には見えない。

目印にと教えてもらったセブン・イレブンで休憩。
ビールが売っていたのでタドに教えてもらったようにビールとトマトジュースを買って道を急ぐ。つもりが2分くらいヤンマガを立ち読みしてしまう。「カイジ」の展開が気になっていたので誘惑を断ち切れなかった。

しばらく歩くとみなれたパーキングの看板が目に入った。
無事「経堂の杜」に到着。

玄関のドアを開けると二人が迎えてくれた。
村島さんの実家から送られてきたスルメを食べながら話をした。
BSではホウ・シャオシェンの映画が流れていた。だいぶ古い映像だった。その映像を観るなり映画マニアの村島さんが一言「シネスコで撮ってるんだ」。そんな感想かよー、とユカちゃんと二人で笑い転げた。ツボにはいってしまいその後ずっとマネしていた。

笑い疲れた頃に村島家の和室で眠った。
畳の上で眠るのは久しぶりだった。
驚くほどゆっくりと眠った。

朝、目を覚ますとリビングはポカポカと暖かかった。
村島さんがつくってくれた朝食をいただいて帰路についた。

「これスゴイ売れてるらしいよ。面白いから貸すよ。」

と村島さんから手渡されたのは上野千鶴子と双璧をなすフェミニズムの論客、小倉千加子の最新エッセイ「結婚の条件」だった。感想は後日。

投稿者 TKM : 21:43 | コメント (0) | トラックバック

2004年01月19日

クレイマスターとドッグヴィル

The Cremaster Cycle(クレマスター)/Matthew Barney。

DVDが欲しい。
そして「ダンサーインザダーク」のラース・ファン・トリアーの最新作「ドッグヴィル」が来月から公開。シャンテでも上映されるので渋谷にいかなくてもいいのが嬉しい。

投稿者 TKM : 04:28 | コメント (5) | トラックバック

G5は美しかった

ここ数日、外出が多かったせいかブログへのコメントバックやメールバックなどができなかった。正確には外出というよりも電車での移動がほとんどなのだがこういう時、モバイルの必要性を感じる。メールやらブログへの対応などは自分のマシンがないとなかなか難しい。ネットカフェを利用するという手もあるがそれも場所は神楽れている。

昨日はG5の設定をしてきた。
はじめて新品のG5を箱から出してセットアップした。
G5は感動的に美しいマシンであった。
ひんやりとした手触りのアルミニウムボディ。
PCメーカーはAppleにデザインを依頼したらいいのではないだろうか。

さてG5のセットアップだが注意が必要な点がいくつかある。

1.OS
Pantherがプレインストールされていない。
これはあっさりと見過ごしてしまって失敗した点である。プレインストールされているとばかり思っていたので最後まで気づかなかった。同封されているならしっかりと大きく明記して欲しい。

2.メモリ
メモリは二枚一組でないと認識されない。
標準搭載の256Mが128Mx2だとは思っていなかったのでびっくりしたがこれについては知っていたので問題いが。純正(ヨドバシなどで売ってるメモリ)とバルクでは倍くらい価格差があるので注意が必要。

3.データの移転
FireWireのケーブルを忘れずに持っていく。
iBook/Powerbook/Desktopなどからデータを移転する際に必需品。

これといって目新しいことはないのだが案外みのがしてしまいがちなポイントだと思う。

投稿者 TKM : 03:37 | コメント (0) | トラックバック

2004年01月18日

山頂でサブちゃんに出会う

今日はこれから秋葉原でメモリー。
その後世田谷でG5の設定。
ブラザー製のFAX/プリンタ/電話/スキャナが一体化した驚きのマシンの設定も。

気持ち良く晴れた日曜日。
今日も都内を飛び回る。
年末に読んだ「タイムライン」が公開されている。
あのテキストがどのような映像に翻訳されているのかを確かめたい。
コンテンツを消費するのではなく構造や関係性(ストーリーという意味ではなく)の視点から観るのとではモードが異なる。

+++++++

朝方夢をみる。
山の頂上に設営されたステージ。
何故かカバンを忘れてステージの裏から戻ろうとすると主演の北島三郎を1000倍くらい有名にした国民的スーパースター(サブ似てはいたが)に呼び止められる。彼はザ・日本という出で立ちで歌舞伎も能も通り越してエンターテイナー兼スーパー文化人な人であった。

「あれ、みていきなよ~」

気軽に声をかけられて焦る。

「あ、あー、はい。わかりました」

答えるといきなりステージ脇に座らされる。眼前には10万人以上の観衆。やばいなー、と思っているといきなり

「太鼓がー、ドンドン」

と熱唱。衝撃の猪木イズム爆発。世界が熱気に溢れている。しかし何故この歌に熱狂する?
分析していくとどうも太鼓のリズムに覚醒作用があるもようで若干のトランス状態を引き起こすようであった。そうこうするうちに曲が終わりなぜかMC。

「感想をきいてみます」

といっていきなりこちらに歩いてくる

「はい、カガヤ君、どうでした?」

サブがいきなりきいてきた。

「頭が飛びました。」

一瞬、たじろぐが何故か緊張はない。

「そう!カガヤ君はどうしたいの?どー」

「はい。世界の果てまでいきたいです。一緒にいきましょう!」

「はー、これはまいった。世界の果てときたか。よし、みんなー、きいたかー。」

とやっているうちにこれからプロレスの試合があるので軍馬にまたがり山をおりる集団と一緒に祭りの会場にいくようにと誘われたのであった。

投稿者 TKM : 13:10 | コメント (0) | トラックバック

2004年01月16日

あんぱんまん

劇画あんぱんまんを読む。
梅図かずおの「ウルトラマン」は最高のできだったがいまはどこかで読むことができるだろうか。

投稿者 TKM : 02:56 | コメント (1) | トラックバック

2004年01月15日

江藤先生に安藤忠雄を紹介される

江藤先生の夢をみる。
先生連れられてある部屋にはいる。
こたつにはいっている安藤忠雄に紹介される。
まわりには数人の学生。
先生の右に座っていたら左に座るように言われる。
それが学ばなければならない礼儀なのだよ、と教えられる。

「オイ、おまえら若いのちょっと買い物にいってこい」

安藤忠雄が学生達をうながす。

「若いのに僕も入ってるんですか?」

さて、その数十分前。スタジアムにいた。そのスタジアムは田舎にあった。田園地帯である。観客席では合唱コンクールの練習をしている。スタジアムの特徴を教えてくれるというのでお願いしたらスタンドの後方から可動式の白い屋根があらわれ全天候型のドームを形成していった。

スタンドでは数百人が合唱している。
その人達が一斉に足を踏みならし始めた。

「このドームは楽器になっているんですよ」

++++++

さて今朝も快調である。
今日はこれから入間。
サイトをひとつ立ち上げ。

某社の新商品について全く勘違いしていた。
扱うのは声と音であった。
僕は香りを扱うマシンだと勝手に解釈していたのだがそれは自分のプランであった。
これは。
やれってことかもな。

そうそう一昨日「匠」にいった。
オーストラリアに移住する後輩の送別会だった。
皆「匠」の寿司を絶賛。
さすが「官能食い倒れラー」のやまけんの選ぶ2003年度ベスト食い倒れの店である。
僕も数ヶ月ぶりに食べたが「旨い」の一言である。
これは...。
是非、うちのパパと母にも食べさせねば。

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気力、復活!

なんと数ヶ月ぶりに「仕事」が面白いと感じた。
恵比寿で仕事をして夕飯をごちそうになった。
終電までいろいろと話をする。
歯車が回り出した。
と、これが不思議なことにずっと停滞していた気力が復活してきたのであった。
「何をやってもうまくいくだろうな」という感覚。
いろいろとやりたいことが溢れ眠るのがもったいない。

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2004年01月13日

異化について

ウェイキングライフのDVDが発売になっていることに気づかなかった。昨年、どこかの番組でみたときに「こんなコンテンツをつくりたい」と思った。

面白さにはストーリーの面白さや美しさ感動、本能、欲望さまざまな方向の面白さがある。
しかし中でも僕が愛して止まないのは「異化」の面白さである。

ディストーションの感覚がたまらないのだ。
まるで別な次元が介入してくるような感覚。
視点が歪み世界が別な姿で自分に迫ってくる。
視覚的に歪むのではなく概念や意味が捻れ、自分の見ている世界がグラリと揺れてしまうのだ。
あの「開けた」感は他の表現では感じられない面白さである。

例えばパルプフィクションでユマ・サーマンが空中に指で四角を描くシーンがある。
車の座席にすわり「四角野郎(頭の固いヤツ)」を表現するために彼女は指を宙に走らせる。
すると指の奇跡が白い点線となって画面に現れる。
指でたどった後が白く空中に浮かび上がるなど現実世界ではありえない。
この瞬間に世界がグラリと揺れる。

交差せず並行に進んでいく二つの世界。それらは互いに別々の法則にもとづいて成立している。
ところが頭の中でイメージした白い点線が画面に現れることで別な現実がこちら側の現実に入り込んでしまう。

「あれ?オレはどっちの世界にいるんだ?」

はじめてみたとき、視点がぐにゃりとうねる感覚を覚えた。

「エッ?!そんなのありなの」

別々の法則によってなりたっていた世界が交差した瞬間だった。

同じ手法は最新作「キルビル」にもみられる。
殺人者に見つかるまいとベッドの下で声を押し殺す少女。
刀がつきささりしたたる血。
少女の口から音が漏れていく。
その声が殺人者に聞こえてしまえば少女の命も失われる。
彼女は口からでた音を両手で抱えあわてて口につれもどす。
そのシーンでは音がモノ化しているのだ。
音の世界の法則にモノの世界の法則が介入している。
ああいった表現がたまらない。

※異化・デファミリアライズとは例えるならば文楽などの黒子がでてくる劇でいきなり黒子が話しだすようなものだ。リアリティの軸のもつれである。

投稿者 TKM : 18:26 | コメント (0) | トラックバック

2004年01月12日

3時間の魔法

新年になってからほぼ毎日走り込みをやっている。
そのおかげだろうか絶不調だった体調は日に日によくなってきている。

聖路加の前を抜けて隅田川沿いのテラスを走る。
走り始めて今日で一週間くらいになるが思うように足が動くようになってきた。
翌日に持ち越す筋肉の疲労も少ない。
数ヶ月ぶりに走ることを楽しめた。

人の心は段々と膨らんでいく力の液体ボールのようなもので放っておくとどんどん膨張していく。力は方向を常に探していて流れる方向をみつけたエネルギーはその方向に向かって強くなっていく。前向きだったり後ろ向きだったりというのは強さ・弱さではなく方向性の違いである。

心の力を使わずにいる状態が長く続くと何かちょっとした傷でもほころびでもあればそこに向かってエネルギーがガーっと集中していく。例えそれが内側に向かって入った亀裂でも。

限界深度まで潜行した潜水艦をイメージしてみるとわかりやすい。
ちょっとした傷で艦は圧壊してしまう。
心の場合も同じだ。
膨張したエネルギーをそのままに放置すると心にかかる圧力は段々と強まっていく。
わずかの出来事、何故?と首をかしげるような些細な出来事が萌芽となり圧壊への秒読みが始まる。
カミュが「シーシュポスの神話」の冒頭で「穴を穿っていった」と表現しているあの状態である。

良いことも悪いことも同じように存在する。
いや同じ物が良いことであり同時に悪いことにもなりうる。
現実がリアリティを持つのではない。
リアリティは内側にある。

心の力はマイナスでもプラスでもない。
流れをつけてやりさえすれば現実が変わってくる。
(正確には事象が変化するのではなく事象に付随するリアリティと意味が変化していく)

もしマイナスに傾きそうな自分を自覚したら何でもいい動くこと。
身体でも頭でもなんでもいいから3時間集中する。
本当になんでもいい。仕事でもカラオケでも音楽を聴くことでも、食べることでも、料理をつくること、なんだっていい。自分の限界まで集中すれば理想だ。創造的に過ごすことはできる。何をやったかよりも重要なのはどれだけ集中したかで。
歩くことでも走ることでもなんでもいいのだ。3時間、それだけに没頭すれば。
それだけで世界は変貌を遂げ驚くほどいきいきとして自分に迫ってくる。

投稿者 TKM : 15:21 | コメント (1) | トラックバック

「正しい」より「楽しい」を

人の問題について。

「正しい」。
それが正しい、あれが正しい。
自分が正しい、相手が正しい。
そうやって「正しい」を探していってしまうと物事は正しいと正しくないの二つに分けられてしまう。そうなると正しくないものは認められないから対立してしまう。

「あなたのその考えはおかしいよ」と言われたら反発したくなるのではないだろうか。
誰だって否定されるのは嫌なものだ。
「正しい」を探すからおかしなことになってしまう。
じゃあどうすればいいのか。
簡単だ。
「正しい」じゃなくて「楽しい」を探せばいい。

自分が正しい、相手が正しくない、そんなことは本来はどうでもいい。
どうやったら「楽しいか」。
ここがポイントだ。
最終的に「楽しい」につながらないならその正しさは偏った正しさでしかない。
自分が正しかろうと相手が正しかろうと、もし「楽しく」ないいまをつくってしまっているならやり方が間違っているのだ。正しいかどうかは重要な問題ではない。「楽しさ」へつながらない「正しさ」は間違った「正しさ」なのだ。

人の世界の諸問題は必ず解決法を持っている。
しかしそれらは正しいか正しくないかをシロクロつけるようなやり方では解決されることはない。
更なる対立を呼び込むだけである。
どうやったら「楽しい」につながるのか。
思考をそちらにシフトさせることができれば問題は解決への向かう。
それが世の道理である。

自分はAだ、自分はAだ、そう思いこんでいるとAなんじゃないか、Aだった、そう、Aだ。
と思考が固まってきてしまう。しかし、世界の本質は確定的ではない。
本来、確定的でないものを確定的にしようと足掻くから問題が生じる。
AでありBでいいのだ。その方が便利だからそうなっている。
と考えた方が楽しいはずだ。

どんな問題も解法がある。
解決できないのは「これはこうなのだ。こうならなければならないのだ」と「正しさ」を求めてしまうことに原因がある。
問題というのは何もマイナスの側面ばかりではない。
問題が起こるということはチャンスでもある。
行動や思考が「楽しい」からブレていくから問題が発生する。

問題を解決するには視点を広げるしかない。
それは世界を広げることだ。
問題とは世界を広げる為の遊びみたいなものだ。

「正しい」を求めても答えはでない。
「楽しい」を探さなきゃいけない。

投稿者 TKM : 10:58 | コメント (2) | トラックバック

92歳は今日も眠らない~最強の医師

大好きな番組の一つ「情熱大陸」。
今日は聖路加病院の院長日野原さんだった。
92歳の日野原さんは夜もあまり眠らずに精力的に仕事をこなす。
それでいて朝7時には目覚ましなしで目を覚ます。
パワフルな92歳である。
人生の転機はハイジャック事件への遭遇。
ハイジャックされた機内での体験から人と死の関係について深く考えるようなる。
92歳の現役の医師。

その目と同じ輝きを最近どこかでみた。
気になる。
どこだろう。
しばらく考えてハっと思い出した。
日野原さんと同じ医師の経験を持つ我らがビジョナリスト・石井威望先生がメガネの奥からみせる目の輝きと驚こうほど似ている。

日野原さんは聖路加では給料をもらっていない。
65歳で定年を迎え病院を去ったのだが請われて復帰。
その時に日野原さんがつけた条件が「無報酬」。
生と死を見つめ続け、みとった患者は4000人。
診察は1時間におよぶこともある。
日野原さんは患者と話すことに最も力をいれる。
脈を取るように患者の手を握り、相手をみつめながら話す。
医師は聞き上手でなければならない。
日野原さんの信条である。

92歳にして睡眠時間はおどろくほど少ない。
毎晩午前2時過ぎまで原稿執筆。
気負ったところもない。
自然体である。
「私は患者さんからパワーを貰うの。死にゆく人でも手を握ったらその人のパワーが流れてくる」

そんな日野原さんから僕も力をもらった。

投稿者 TKM : 04:31 | コメント (0) | トラックバック

2004年01月11日

あの日は空を飛んでいた

3年前の12月。
僕と村島さんは空を飛んでいた。
4000メートルの上空から虚空へと一歩を踏み出す時の昂揚と動悸を生々しく覚えている。

夕方朝日コムのニュースを見た。
体験ダイブをしていた人が墜落死したと報じられていた。

実体験があるだけに人ごととは思えなくて。
僕と村島さんがいないいまもあったわけで、生きてることはそれだけで幸運なんだと思った。

久しぶりにCDを借りてきた。
タドに教えてもらった小沢健二の「刹那」。
平井堅の「Ken's Bar」。
Aikoの「暁のラブレター」
その3枚が並んでいたので手に取った。
平井堅以外は本人のステージをみたことがある。

平井堅のCDを聴いてるいまを昨日の今頃は想像できなかった。
1時間前。
築地のヴェローチェでお茶を飲んだ。
ペンもノートも持たずにいったのでお茶を飲みながら目を閉じて諸問題について考察した。
人と話すのも好きだがひとり思考するのも好きだ。

ふと石光君のことを思い出した。
久しぶりに会いたいな、と思った。
石光君は独特の話術、間合い、トーンで話す。
マユちゃんの結婚式の時に彼が挨拶した。
「朝起きたら天気がよくてー」で始まるその挨拶は話自体は爆笑するような話ではないのだがモノマネすると何故かとても面白くて、以来、石光君の挨拶のモノマネばかりしていた。
だんだんモノマネの方が本物みたいになってきて本当はどんな話し方だったか定かではない。

投稿者 TKM : 20:08 | コメント (3) | トラックバック

物語について考える

うーむ、こんなソフトがでたのか。
winexpose
こうしたソフトの登場の仕方はとっても生命的なものを感じる。
足りないと補完するものがすぐにできあがってくる。

昨夜、泳ぐ夢をみた。
ビルの屋上にあるそのプールではコワイ監視員の女性が小学生を指導していた。
キンキンした声だったのですぐに別なプールに移動した。
夢の中だったのだが肩の骨をかばってあまり大きくは腕を動かさなかった。

同窓会の後、悪魔にとりつかれた男ことyoppaらと痛飲。サルのかぶり物をしながらyoppaがスペシャルアイテムをみせてくれた。ネーム入りのiPodだった。クリスマスのプレゼントだという。本当に嬉しそう。

僕はといえばここ最近は本を読んでいる。
読んでいるというよりも「言葉」とは何なのかということや本を読むということ、なぜ物語を読むということに人は面白さを感じるのか、というようなことを体感しながら考察している。クライトンの小説などエンターテイメント作品を読んでいる時の頭の働きは言葉を読むというよりも波みたいなものを取り込んでいるという感覚なのだ。

ストーリーがある程度のリズムをつくりはじめるとそこに意識が引き込まれていく。
本が面白いというよりもこの取り込まれるという感覚の方が物語の本質なのではないかと僕は思う。

投稿者 TKM : 12:05 | コメント (3) | トラックバック

2004年01月10日

世界の中心で、愛をさけぶ

図書館で「中高生のための現代美術入門」という本を借りてきた。
冒頭の一文。
「数学を理解するのには勉強が必要です。同じように美術を理解するのに勉強が必要だとどうして考えないのでしょう」
なるほど。とても説得力がある。

同日。
ブックファーストで「世界の中心で、愛をさけぶ」を読む。
エヴァンゲリオンのタイトルのイメージとかぶってしまいずっと読まずにいたのだがたまたま読んでみることに。

読み始めたらスッと物語世界にはいってしまい。
流されるように同化し、気づくとこみ上げ、涙していた。

郷愁とも違う。
ただどこかの記憶が共鳴する。
ずっと夏を見ていた。

投稿者 TKM : 10:47 | コメント (0) | トラックバック

2004年01月09日

対話について考える

とても示唆的なエントリーだったのでさらに考察してみる。

対話は何故大切か。

人は自分自身については永遠に考え続けることができる。
だから再帰的な思考のループに陥るため自分で自分を見つけることはとても難しい。

鏡を使わないと自分の姿はわからない。
自分という人間がどんな人なのか知るには「人」を写す鏡が必要なのだ。
それが対話だと思う。

普通に生きていると否応なしに日常が迫ってくるから自分と向き合う機会はほぼ皆無である。
段々と自分がぼやけていく。
考えているのは自分なのかそれとも自分以外の社会的な規制のようなものなのか。

人はコミュニケーションによってしか幸せになれない。
自分が幸せを感じるのはどんな時だろう。

「理解」を実感する周辺の時間。
独りではないと実感する時間。
つまり自己がフッと消える何も考えていない時間。

理解されるかどうかできているかどうかはあまり重要ではない。
相手を理解しようとするその姿勢が大切なのだ。

対話して心地よい人というのは簡単にいってしまえば相手の話をよく聞くと同時に自分の世界を広げてくれる人だ。全ての人が少しづつそうなっていけばこの世界の問題、人の世界の問題はなくなっていく。

そうならないのは世界に歪みがあるからで単純な問題も時間の要素によって複雑化していく。

年始に小学校時代の同窓会があった。
いろいろな人と話をし、いろいろな人生と交差した。

最初は中学を出てすぐに働いた友人達とは話が合わないように感じた。
それぞれが持っている背景知識が全く違うからどこを話せばいいのかがわからない。
「層」の存在を感じた。
ところが二次会あたりでひとりづつ話をしていくとそんな「層」はないなと思った。
その人たちがどう生きているかを訊くとみんな快く答えてくれた。
その人個人と向き合うことが大切なのだ、とわかった。

みんなが話をできない理由は単純だ。
ここが無人島ではないからだ。
個人と個人が向き合う、ということが極端に少ないのだ。

自分には飲み友達が何人かいて彼らとはもう10年来のつきあいだ。
あって何を語り合うわけでもないが話をする。
二人で飲みにいける間柄の友人がいるのは幸せだ。

酒が入ってからでないと本音がない、というのは当たり前だ。
本質は酒にあるのではなく酒が深まるにつれて段々とモードが対話へとうつっていくのだ。
全ての酒は最後は対話へと続く。
自分が飲む理由はおそらくそこだ。

投稿者 TKM : 14:53 | コメント (2) | トラックバック

2004年01月08日

ふんわりと

頭が左へ右へと大きく振れる。
自分は本来、激しい性分だ。
それを押さえ込んでいる、というわけでもないが。

と目を閉じる。

++++++

夕飯に鍋をつくって食べた。
とてもおいしく最高であった。
しかし、しばらくしてから頭が壊れそうになって吐いてしまった。

目をつぶって首を右に傾けてみる。
「ふんわり」とした気分をつくろうと二度三度、時計の逆まわりに頭を回してみる。

夜。
突然の電話。

話していると段々と電波が弱くなっていく。
「あの・・くる・・・おも・・て・・・そ・・・・・な。もし・・も・・・・」
と断続的に声が聞こえる。
しばらくして切れてしまった。

切れた後にどうするかでいつも迷う。
すぐにかけ直すと相手もかけ直していて留守電になることが多い。
かといって待っていると相手も待っていてずっとお見合い状態になる。
向こうから自転車で人がやってきていて自分も自転車に乗っていて、よけようと右にハンドルをきると向こうも右に、左にいことすると今度は相手も左に、ということがよくある。

電波が弱くなっていって切れてしまった電話とその後の対応はそれと似ている。

※全然関係ないけれど「突然の贈り物」という曲が好きだ。年末に村島さんとコンサートにいって大貫妙子の曲だと初めて知った。

唐突に視点を誤った、と気づく。自分で選んできたわけだが視点がズレていた。
この3分くらいの間にふわーっと見えてきた。
勿論、時間の枠でどうなるかは不確定ではあるのだが少し晴れた。
人は身体で生きているが身体は意識の影響を受ける。

と、ここでまた不思議なことが起こった。メールが届いたのでチェックすると
ずっと音信不通で連絡が取れなくなっていた韓国の友人からのメールだった。
思わぬ人からの連絡が相次ぐ夜である。

と思ったらまた電話がなった。

投稿者 TKM : 21:40 | コメント (0) | トラックバック

軍隊のプロモーションビデオ

すごい!
ウエストポイントのプロモーションビデオをみたら映画の予告編みたいだ。軍を部隊とした映画がたくさんあるせいか「映画か?」と思ってします。
自衛隊にもプロモーションビデオはあるのだろうか?

投稿者 TKM : 15:16 | コメント (0) | トラックバック

入るまでの過程

「受け」や「消費」ではない「面白さ」というのは集中の度合いによって決まり、入るまでの時差と入りやすさの違いはあっても対象とは無関係である。ある深度までいければ対象は限定されない。人によって入りやすさの違いがあるだけだ。

「アーカイブ」は「受け」「消費」の面白さを変質させる。
関係性(アーカイブへのリンク)構築の速度と幅は志向と練習で変わる。
あらゆる分野でそうなのだ。
だからAが突出するとBも突出しやすい環境ができる。
これはスゴイことだと思う。

投稿者 TKM : 03:25 | コメント (0) | トラックバック

大事なメモ

「止める」というか「やる」んだが。
「やる」が故に「止める」わけだ。

この一文は自分にとってとても重要。
「やめて」ではなく「とめて」いたものを「とめない」という状態にするのだ。
では何を「とめて」いたのか?

言葉である。
かなり長い時間、言葉を「とめて」いた、と思う。
しかし「とめる」必要もない、と思ったので普通に言葉を使うことにしよう。
それは裏返せば「使わない」ことの「はじまり」でもあるのだが。

刀があって、これまでは腰にぶらさげるか手にもってきたとすれば。
これからは抜くというか抜かないのだが抜くというか、抜くのだが同時にしまっている、みたいなそういうイメージだ。

時間は止まっていない。
流れている。
と思われているけれど。
それは感覚であり、肉体からきている。
思考そのものには時間はない。

文字には時間はあるのか?
じゃあ音楽は?
音楽が音楽として聞こえるのは...
やっぱり記憶と絡んでくる。
音楽は何故音楽として聞こえてきて、心地よかったり、そうでなかったりするのだろうか。
パターンのせいか?
何故パターンが記憶とリンクするのだろう。
時のない音楽もある、というか、時を持たない音楽は音楽として聞こえるだろうか?
残る部分。アーカイブへの回路が開きながら閉じるという感覚。

※自分へのメモ(重要)

投稿者 TKM : 01:38 | コメント (0) | トラックバック

坂本さんのナイストーク~愛の真実

今日のリアルガイドは坂本さんのインタビューだった。

メールを書きながらきいていたので前半はあまり記憶していないのだが後半で「39歳でNYにくるまでは週のうち6日は朝まで飲んでました。朝まで飲んで帰ってきて。昼から仕事してまた夜になると飲みに行く。毎日4軒は必ずハシゴしてたな。」というあたりからは急に言葉が頭に入ってきてかなり面白かった。

坂本さん、曰く。

「遊びなさい。友達を大切にしなさい」

とのことであった。だな、と思うが重要なのはこの「遊ぶ」の中身だ。
別にお酒を飲む必要はなくお茶を飲んでいてもいいわけで、ようは忘我になっているかどうかということだ。で「遊び」のモードというのは忘我に入りやすい。
人のことが気になったり、頭で考えてる、という状態だと大抵うまくいかない。
苦行とか勉強から忘我に入るよりは遊びで入る方が瞬発力もあるし持久力もある。

目的への邁進としての忘我こそが幸せ、悦びのもとである。
と利根川先生もいっていた。

生きるの全てはここにある、と僕も思う。
さらに全ては同時に行える。
パラレルでこなせる。
何かをしながらでも何でもそれらに同時に忘我状態で集中する、ということが可能なのだ。
愛は無限というか。
例は悪いけど同時に何人でも愛せるみたいな。
そこでふと思ったがAへの愛が失せたからBという螺旋はない。
love A, and love B, love +nとつらなっていく。
社会的な規定で愛の能力を限定している、というのが本当の話で愛はひとつというのはとってつけた説明だ。
愛の総量というのは決まってない。
どの愛も同一ではないけれどそれは質の違いであって量的なものではない。
更にいえばそれらは常時存在しているわけでもない。
散逸的に存在している。
ここという時に実体化し普段は形をもたない。
ムードとかモードとしてはあるけれど。

形の固定された愛(愛に限らないが)は不測に対して無力だ。
感情や想いを生命的なイメージでとらえなおすと時間を持つ幅のようなくくり、人生を一本のソーセージみたいなものだとしてそれのここからここまで、という範囲が見えてくる。それが何なのかはわからないが何らかの構造を示している。

進化と量子の関係のようなイメージ。ちらつくコミュニケーションという言葉。
理解と信頼という言葉が示す構造。
構造と関係に時間の幅が加わる。
コンテクスト。
無人島での感覚と現実としてここにある今との差異。
ここにも見え隠れする散逸構造。
最適化する構造があり、それらはランダムにやってくるのだがパターンはある。
しかし絶対ではない。要素も常に一定ではないから。
同期と固の運動法則、あるいは志向。

しかしルールは案外とシンプルだ。
簡単な方法なのだ。
隠れているだけで。

他者ではなく自分なんだと思うのだ。
心理学を学んでも自分の心理を分析することは難しい。
プログラムは自分の間違いに気づくことができないのと似ている。
他者の分析はできても自分の分析は他者によってしかできない。
コミュニケーションが必要なのはその為だ。
自分を知るには他者が必要なのだ。

忘我の奥。
更にその奥、もっと奥へと進んでいく。
けれど深度はない。
尺度が変わるのだ。

別な宇宙の永遠はこの世界でのゼロに限りなく近い。
「永遠と一日」ではなく「永遠と限りなくゼロ」。

という目をもつこと。
練習すれば記憶から記憶を外すことができる。
一日を過去から継続した一日を過ごしながら、同時に一日を過去と切り離した一日として過ごす。
記憶から記憶を外すとはアーカイブとしての記憶を持ちながら記憶の拘束、慣習には無縁である状態。忘我は意図的に入ることは難しいがそうなっている。

投稿者 TKM : 01:13 | コメント (0) | トラックバック

2004年01月07日

衝撃のライブストリーム体験

ジョブズのキーノートスピーチをみていたらiTuneのコーナーでaudio bookの説明をしていた。
日本ではaudio bookはあまり普及していないように感じるが海外では事情が違うようだ。
興味深い。
日本でもmusic storeサービスでaudio bookが買えるなら買うかも知れない。
案外とビジネス系のテープやインタビューには面白いものが多いのでそれらが買えるならいいかも。
audio bookならば曲を販売するのと違ってしばりはゆるくてもあまり文句はでなさそうだし。
music storeで開始されるギフトサービスというのも面白い。
こういうギフトなら貰ってもうれしいしこれまでもらったことがないから楽しい。

ふと思い出したがデジタルステージのリリースに簡単に旅行のメタファーでウェブサイトを作成するソフトを開発中、とあったのを思いだした。とてもApple的なソフトだなあと思ったのを覚えている。

CMSも更に進んでいくと上記のソフトと同じように各種のモードによって自動的にユーザから情報を引き出していくような機能を持つようになるだろう。それこそ野知さんのいう「ものがたり」を引き出す装置である。
それゆえに既存のブログシステムのようなCMSは物語性を引き出すための装置ではない、という気がする。

シナリオエディタとしてのムービーマジックをイメージするとわかりやすいだろう。
といった瞬間にMacがフリーズ。
ジョブズがiPodminiを出す瞬間だったのでかなりやられた感がつよい。
ワシントンの映画館で「マイノリティリポート」をみていた時にまさにココという場面でいきなりフィルムが焼き切れ15分間の休憩になった時くらいの出し抜かれ感である。
一度切れたらもうつながらないのがライブストリームの怖さ。
もはやイベントのライブストリームをみることはかなわず。
矢坂さんのコメントでいろいろとみるだけ。
こういうときにネットの弱さを痛感する。

逆説的にだがあのタイミングで落ちるとは運が良すぎる。普通にライブでみていたらいまの感覚は得られていない。衝撃的である。ある意味サムシンググレートの存在さえ感じてしまう。

投稿者 TKM : 04:20 | コメント (5) | トラックバック

コンテンツとパラレルリアリティ(先のエントリーへの補足)

※補足
簡単にいうと情報が勝手に視界にはいってくるので、本を読みながらTVをみたり人と話をしたり。TVをみながら歩いたり。文章を書きながら別の文章を読んだりといった具合に別々のことを同時にやることでより強い引き込み現象を引き寄せることにつながるわけだ。
中でも衝撃的なのは二つのコンテンツを動じに楽しむということができるというあたり。また同時に複数の視点を体験する、みたいなことに注目したい。
更にいってしまうと人の心の問題が解決してい予感がある。コミュニケーションとは情報のやりとり。そして人を苦しませたり悦ばせるのはコミュニケーション。いまは笑いながら泣くのは難しい。だから哀しい時は哀しさのループ。寂しい時は寂しいループにはいっていく。が、ここがもつれてくる、というのが僕の読みである。
コミュニケーションによって人は感情の状態を変える。だから困ったことがあると人と話したくなる。悦びも同じだ。人とわかちたくなる。まだはっきりイメージできないのだが悦びを記録できるようになり、そのアーカイブが感情のマネジメント、あるいはモチベーションマネジメントにつながっていく。
あまり注目されていないがこれが段々と重みを持っていくと思うのだ。
気持ちのよい人はより気持ちのよい人になり、豊かな人はより豊かに、悦びおおき人はより悦びおおく、というループがある。これには理由があって、それが上記の感情のアーカイブとリンクしているのだ。懐古的にではなく生産的に過去を無意識的に利用する方法がありうる、それがパラレルリアリティの一面だと思う。アーカイブとパラレルリアリティの関係はそこにある。

投稿者 TKM : 03:19 | コメント (0) | トラックバック

2004年01月06日

コミュニケーションのパワー

クライトン読破を試みるべく「タイムライン」に続いて「PREY」を読む。
朝から昼間にかけて体調が最悪であった。
身体ではなく頭がだるい。
力が入らない。
それでも気合いで新年初のロードワークを試みる。
鎖骨を折っていらいだから2ヶ月ぶりである。

心地よい。
しかし頭はだるい。
これは病気である。

夜にはいって買い出しにいく。
寒気までする。
更に調子が悪くなる。

半ば諦めてコロナを飲む。
飲みながら部屋を歩き回る。
歩きながら考察を重ねる。
想いとか悦びについて考える。
常に思考は回り続ける。
クライトンの小説にあった無限ループである。

人工生命プログラムの場合ここにランダムさを注入する。
創造、創発はランダムさから生まれる。
不確定さを持たない系は創造とは無縁である。

自分に必要なものはランダムな行動であろう。
ということはわかりきっている。
もう10年もこんなことをやっているので半ば安心している。
ゴーンさんがいっていた不安への耐性のようなものだ。

実家に帰ったときに本棚の本をパラパラとめくっていたらいまはCNETで連載している望田さんの本があって「欧米の思想にはマドルスルーを楽しむような感じがある」みたいなことが書いていった。そうそう望田さんらのセミナーつきのシリコンバレーツアーが再来月にある。

さてそうこうしていると直子さんから電話があった。
PCについての相談であった。
明日、Macエクスポがあるのでそれを待って判断すべし、とアドバイスした。関係ないが直子さんと話していたら頭のだるさが消えた。やはりコミュニケーションにはパワーがある。実感した。実感ついでに二本目のコロナを飲み始めた。

PC関連の相談は何故か続いていて。
明日は恵比寿の会社にいってくることになった。
コンテンツ企画の仕事も好きだがこうしたPC関連の相談、しかも大規模でないもの、SOHO・個人の相談、というのは好きな仕事だ。向いている、のかもしれない。

投稿者 TKM : 23:58 | コメント (0) | トラックバック

コンテンツとパラレルリアリティ

先ほどのエントリーへの補足でメモ。
この間、石井先生との会合を通じて、端末の携帯はおそらくこうなるだろうなという未来をかいま見た。
既存のどの端末もシングルリアリティで考えられている。
しかし、未来はパラレルリアリティテクノロジーが台頭してくる。

それは何も難しい話ではない。
HMD(ヘッドマウンティドディスプレイ)である。シアター型のゲームなどで体験したことがある人も多いと思うがあのタイプのHMDではなく超小型タイプのHMDは利用者に「?!」な体験をさせてくれる。(ちなみにこのHMDだが10000台の生産台数が確保できれば一台あたり5000円でつくれるそうである。ガツンとやられた気分だ。)

目の前にある現実ともう一つの現実が同時に視覚に入ってくる。
単純な体験だが僕はそこから強力に未来像を感じた。

携帯電話、TV、ビューアー、PC、またそれらを対象にしたコンテンツ、それらはシングルのリアリティつまりメディアに閉じた形で考えられている。が、人の能力は二つの情報を並列処理できる。逆さメガネの実験の例と同じくパラレルアイの実験でも一週間程度の実装で脳は二つの画像世界を違和感なく処理しはじめる。

僕がぐっと惹かれるのはここなのである。
シングルリアリティでの価値とパラレルリアリティでの価値は異なる。
この思想は更に拡張される。
国の価値を計る。
企業の価値を計る。
既存の指標はシングルリアリティだ。
しかし、パラレルでみた場合はどうか?
全く別の基準が浮かび上がってくるのではないだろうか。

メモなので簡単にまとめておくと

・HMD的なデバイスの進化→視覚用のビューアの変移→携帯・ブックビューアなどは置き換わる。
・同時並列処理→二つのこと、さらに三つのことを同時にこなすようになる→人口で測れない数値と現実や生産性がもつれてくる
・コンテンツ→シングルリアリティ用のコンテンツからパラレルリアリティ用のコンテンツへ→テキストもパラレルに同時に存在するようになる→速読者は既にパラレルでテキストを処理できる

みたいなことが現実になってくる。使い方の方が製品を追い越し始めている。

補足エントリーあり

投稿者 TKM : 11:41 | コメント (0) | トラックバック

「高い城の男」~デジタルコンテンツについて

久しぶりに福島に戻った。
正月に二日から五日までの三日間、家においてある本を眺めて過ごす。
ディックの「高い城の男」を探すがみつからない。
本の山のどこかに埋もれたようだ。
実家には湘南においてあった本を全部送ったので2000冊くらいの本が段ボールに入っておいてある。両親が少し整理してくれたが大部分は未整理のままだ。

電子出版の可能性についての本を昨日読んだ。
コンテンツを「楽しむ」という視点で考えると「止まったテキスト」(既に書籍として出版されているようなテキスト群)をデジタル化しても楽しくはないだろう。それらは電子本として「読む」為のテキストではない。しかし、アーカイブとしての価値は素晴らしい。僕がやむなく実家に保管している自分の書籍の全てが数十ギガ程度のディスクに格納でき常に持ち運べるとしたら夢のようである。常に読みたいわけではないが持っていることを確認したくなるテキストや作品はある。

電子出版には二つの方向性があるのだろう。

アーカイブとしてのデジタルテキスト・コンテンツ。
そして流れていくテキスト・コンテンツ。

完成された作品は本という形で楽しんだ方が便利だし楽しい。
書籍を買うと、それにデジタルテキストもついてくる、というような形体がいい。そうすれば自分のライブラリーを常に携帯できる。この魅力は大きい。
それに長文を楽しむには「モノ」が持つ魅力と拘束力を利用しなければならない。だから「読む」時は書籍。しかし参照するときはデジタルというのがいい。

映像でも似ている例があって完全に消費、あるいは受けの姿勢でみられる作品はよいのだが「ミレニアム・マンボ」のように受け手の積極的な参加、つまり作品の時間・空間への同化を必要とする映画の場合は映画館でみるとジーンとしみいってくるものが家庭でDVDというコンテクストだと作品の持つ装置が有効に働かないのでかなりの苦痛を強いる。

帰ってきてRSSリーダをたちあげると山ほどのエントリー一覧が現れた。まずは友人のカテゴリーからまわっていく。これが僕のウェブログの閲覧スタイルで一度RSSリーダを使うともう普通にブラウザでサイトを巡回するということができなくなってくる。
まず野知さんのサイトをみてみる。年頭に今年はコンテンツパブリッシングでいく、との宣言がある。部類の本・情報好きの自分としても今後のデジタルパブリッシングの展開が楽しみだ。

コンテンツパブリッシングについては昨年末に金子と話し込んだ。いろいろなテーマについて話したのだが電子ブックリーダーについて金子の感想が面白かった。

クリエイターの立場からいうとΣブックのような見開き型の端末には大きな違和感を感じる、とのことだった。というのはΣブックにみられるような見開き型の形状は必然性から生まれているわけではなく「本」というメディアを模倣したもので、そこからは次の表現、新しい作品というものは生まれにくいのではないかというのだ。

金子によれば基本的に紙のマンガの吹き出しは縦書き表記されている。その為、視点の動きは右上から左下に向かって時系列で進んでいく。しかし、ほとんどのPC、ゲーム端末などは横書きが標準であり、金子自身も作品は横書きでつくっている。作品中の時系列の流れは既存の書籍のように右上から左下というものではなく左上、あるいは中央、など書籍とは異なるものになっている。その方が自然に感じるというのが理由だ。僕も金子の作品を観てみたが横書きの展開に対しては全く違和感を感じなかったし、金子の指摘するようにごく自然なものに思えた。

Σブックにみられるような「本」の形状の模倣は懐古的であり新しいコンテンツのプラットフォームとしては必ずしも適切である、とは言えない。既存の書籍を読む場合の視点の流れを電子ブックリーダーに移植するために二面パネルが採用されているということは理解できるが、そこでは新しいデジタルコンテンツの可能性が忘れられている。

金子と話していて思ったが「端末からの発想」では新しいコンテンツは生まれないのだろう。こうした議論はどこでも行われていることなのかもしれないがその多くは「クリエイターではない人」によって行われており、実際に絵を描きストーリーをつくることができ、それらをインタラクティブなコンテンツとして完成させる能力を持った人の意見や声はほとんど聞こえてこない。

++++++

ここからはメモ。
僕の意見だがことエンターテイメントに関して言えば面白ければ書籍だろうとPCの画面だろうと地上波の放送だろうと映画館だろうとDVDだろうと観る。クライトンの「タイムライン」の文中にあった一文が見事に表現していた。原本を実家においてきたのでうろ覚えだが「現代において人が最も恐れるものそれは暇である。人は退屈には耐えられない。」みたいなことが書いてあって、実にうまい言い回しだなあと思った。

投稿者 TKM : 11:13 | コメント (2) | トラックバック

2004年01月02日

同じ花火をみていた

昨夜、東銀座で電車をおり築地の方へと歩いていた。
銀座の街は静かで人もまばらだった。
風もそろほど冷たくはない。
松竹のビルの前にあるバス停の時刻表をのぞきこむカップルがいた。
バスか。
オレは歩いて帰ろう。
風が気持ちいい。
バス停の前で女性に声をかけられた。20代前半だろうか。

「あのおすみません」

少しアクセントが違う。

「はいどうしました」

自分でもよく言えたなあと感心するくらい穏和な声だったと思う。
ホッとした表情で女性が

新阪急ホテルにいきたいんですけれどわからないんです。どこでしょうか?」

はてどこだろう。ガイドをみせてもらうと聖路加の片方のタワーが新阪急ホテルだった。

「ああ、聖路加ですね。この先までいくと見えますよ。」

「聖路加?」

「聖路加タワーっていうんですよこのツインタワー。綺麗なビルですよ。いいところですね。同じ方向にいくので築地の交差点まで一緒にいきましょう。」

3人で築地の交差点まで歩いた。二人は今日、大阪からきてさっきまでディズニーランドにいっていたのだそうだ。人数制限をしていたらしくディズニーランドは空いていたといっていた。いつまでいるんですか、と訪ねると明日の夜にはかえるのだそうだ。

およそ1時間前、おそらく二人もみたであろうディズニーランドの花火を僕も観ていた。
高速道路からみる花火は唐突に現れ30秒くらい僕たちを楽しませそして彼方に消えていった。

投稿者 TKM : 11:15 | コメント (2) | トラックバック

2004年01月01日

「チキン&ポーク」は名言である

2003年最終日は埼玉スーパーアリーナ。
いただいた席はリング正面のとても良い場所だった。
双眼鏡は必要なく5面あるオーロラビジョンを利用したキュービタルアイでの観戦。
TVを意識した進行だった為、現場では観客とリングのリズムが微妙にずれる。
それが試合にも影響を与えているように見えた。
ベストマッチは試合ではなくゴールドバーグと小川・橋本の対峙。
さらにベストモーメントを言うならば小川・橋本をリングに呼び寄せる時の高田の一言。

「おい、チキン&ポーク、いるなら出て来いヤァァー」

この一言はかなりのヒットだった。
高田への評価が200ポイント、アップした。
場数を踏むことで高田のトークは段々と独自の芸風と風格を備えつつある。
人はこうも変わるのかと感心した。
人の力とは素晴らしい。

投稿者 TKM : 16:28 | コメント (2) | トラックバック