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2004年03月31日

[エッセイ] 「俄」の人々 ~年に一度の蕎麦をやる~

今朝は築地の市場で蕎麦。
猫舌なので熱い汁の蕎麦は一年間に1度しか食べない。
12月31日に年越し蕎麦だけである。
今朝は熱い汁でかき揚げ蕎麦をいただいたので今年は2回食べることになる。

築地も午前6時を過ぎると観光客や買い出しにくる人が増え人通りが多くなる。
昨日、朝の散歩にでかけ、爽快な気分でいたのだが築地の前を通ったあたりで気分がおかしくなった。
その教訓をいかし今朝は蕎麦を食べ終えると早々に退散した。
部屋にもどり仕事の仕込みをしつつ、録り貯めた番組をチェックする。

「情熱大陸」。
今回は松井稼頭央であった。(と、ここで衝撃。ATOKで「まついかずお」と入れたら一発で変換してくれた)
松井稼頭央を誤解していた。
彼も「俄」である。
大リーグにいった日本人選手は多かれ少なかれみんな「俄」な人々だ。

人生は俄だよな。
と思う今朝である。

業種や分野に関わらず惹かれるタイプの人の形がある。
ヒロイズムとも違うのだがふっきれている人が好きだ。
情があってふっきれている人はなお良い。

あ、あとさっき「てっぺん魂」の最終回をみていてあることがわかった。
大学生はいま就職活動の最中だと思うのだけれど100%成功する就職活動のやり方が閃いた。
かなりコペルニクス的な思考の転換だがおそらく最強であろう。

投稿者 TKM : 08:47 | コメント (0) | トラックバック

[雑記] コンテンツの核は…

夜更け過ぎ。
仕事を終えて野知さんのブログを観ると宇宙開発についての考察があった。

スクロールさせていくとコメントの投稿があった。
な、長い…。
本文よりも長い…。
スクロールが終わらない…。

これは勝手な思いこみだが、と断った上でいうのだけれど長いコメントをみていると言葉が本人のアクションとリンクしていないような印象をうける。自分はこうしています、だからこう思います。というスタンスになっていないので自分の弁護に聞こえてしまう。だからどんなに文章が明快で鮮明でもあまり心に響いてこない。
自分が議論の為の議論が嫌いなので特にそう思うのだろうけれど。

体験をベースに書いている人の文章は上手でなくとも響いてくることがある。
旅行記や旅日記などときどきハッとさせられるものがある。
自伝も面白い。
といっても、その人が面白くなければ旅行記も何も面白くないのではあるが。

コンテンツの核は「人間力」ということなのだろうな。

投稿者 TKM : 03:21 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月30日

[食い倒れ御免状] つけ麺でボンバイエ ~その心は「馬鹿になれ」~

石神井公園で桜を眺めていると電話が鳴った。
「No.1食い倒れ」ことやまけんからであった。
これからつけ麺を攻めるので参戦せよとの指令だった。
石神井から東京駅までは距離はそれほどではないが時間はかかる。
急ぎ向かうと伝えて電車に乗るが遅々として近づかない。

つけ麺をあきらめ、タケが助っ人を務めるスターバックス茅場町店の開店2周年記念のジャズライブを聴きに行くことになった。食い倒れと共にフラペチーノを頼む。内容をみて二人でどよめく。トールサイズのカップの上には「親の敵」のようにたっぷりと生クリームが盛られていた。無類の生クリームファンのオレとしてはこのサービスは嬉しい。しかし、甘い物が苦手な食い倒れの表情は心なしかしょんぼりとしているようにみえた。

食い倒れの愛機、ThinkPadを借りて今日のマーケットをチェックする。
一日中、外で仕事だったため推移をフォローできていなかった。
チェックを終え、しばし、3人で金融談義を楽しむ。

しばらくしてライブがはじまった。
僕の好きな曲が次々と演奏される。
嬉しい限りである。

ライブを聴きながら今後のビジネスについて話をする。
食い倒れに有益なアドバイスをいただき、かなり展望が開ける。
二人にも今期の目標を話した。

達成はできると踏んでいる。
クリアすべき課題のほとんどは無投資でいける。
9割は自分個人の能力の問題である。
もっといってしまえばモチベーションマネジメント。
更にいうと観法の域である。
観法については食い倒れが第一人者である。

故に、観法の達人である食い倒れのアドバイスは的中である。
食い倒れが今年つかみとったというおみくじを見せてもらう

 「方針:馬鹿になれ」

冗談かと思ったがフォトショップで加工した形跡はないので本物であろう。
さすが食い倒れ。「馬鹿になれ」を引き当てるとは天然素材No.1である。
牡蠣を20個たべて食中毒になったのもその方針故なのであろう。
感心至極である。

投稿者 TKM : 08:01 | コメント (2) | トラックバック

2004年03月29日

[エッセイ] 高校生の友人と坂本さんの曲

最近、会合にいくとストレスを感じることが多い。
剣道に例えると切っ先でチャカチャカしているようで何につけ思きりが悪い。

適当に話すのが嫌いだ。
当たり障りのない会話も苦手だ。

楽しい人と思われているのかもしれないが内実は違う。
本当に気持ちよく話せるのは何人かしかいない。

稽古をずっとやっていない。
クローゼットの奥にしまってある竹刀を最後に握ったのは1年前だ。

先日、夜更けに高校生の友人と話しをした。
15歳ほどの年齢の差がある。
彼の友人の話。
学校の話。
最近の話。
他愛ない話なのだが心地よい。
若い友人と話していると年齢にどれほどの意味があるのだろうと思う。

話の中で彼がいった

「坂本龍一さんって知ってる?この間、はじめて聴いたんだけれどビックリした」

「何が?」

「うーん、韓国語のラップのとあの音楽の組み合わせはなんか響いた。スゴイと思った」

評論には意味がないなと思った。
僕は彼のこの言葉をきいて最新作を聴いてみようと思った。
家に帰ってからマシンにはいっているはずの「Chasm」からその曲を聴いてみた。

坂本さんの曲を意識してきいたのははじめてではないだろうか。
友人が「ビックリした」という曲を聴いてみる。

仕事場で作曲している時の坂本さんの姿を思い出した。
そうか坂本さん、こういう曲をつくるようになったのか。

いろんなことを思った。
坂本さんを取り巻く人々や環境が3D空間にサークル状に配置された写真のようにゆっくりと回りながら浮かんではきえていく。

何をということはないのだが「ま、いっか」という気持ちになった。
いろんなことがゆっかかりつっかかりしていたけれど、それでも「ま、いっか」と思った。
それもまたそれだし、もっと大きなところでゆるやかにうねっているのだろう。

流れに身を任せようと思うと心地よくなった。
石神井公園にいく電車の時間を調べiPodにChasmを転送してからお茶を飲もうと思った。

投稿者 TKM : 08:54 | コメント (3) | トラックバック

[雑記] オリハルコンの糸巻き

連日の睡眠不足の為だろうか昨日、日曜日の午後にバタリと倒れるように眠り。
目覚めると午後8時であった。
たくさん眠って血が循環したのか頭がスッキリしている。


たかのてるこ「モンキームーンの輝く夜に」を読みはじめる。
なんとなく外にでたくなる。
銀座の外れにあるカフェは夜11時までやっているのでまだ1時間30分くらいはあいている。
読み始める。

脳内に広がる風景は東南アジア。
言葉の力を感じながら読み進める。
たかのてるこの文章は決して難解ではない。
話すように書かれているからだろうスラスラと頭の中に入ってくる。
言葉とは本来こうあるべきなのではないだろうか。

難解な言葉も通じなければ意味はない。
インターコミュニケーションのテキストは洒落ているが全く心には響かない。
勿論、記憶にも残らない。

洒落た雑誌のテキストは言葉ではなく幾何学模様のようだ。
スラリとしているがそれだけで言葉が響いてこない。

ほとんどのテキストはカタチだけなのだろうか。

午前1時。
部屋にもどり明日の仕事の準備を始めた。
準備の合間、思いついて、机の上においてあったアロマキャンドルに火をつける。

ゆったりとした灯り。
部屋の雰囲気が変わっていく。

リラックスチェアに腰掛けてお茶を飲む。
ゆっくりと呼吸しながら考えるのを徐々に止めていく。

何も考えない。
やってみると難しいものだ。

午前2時30分。
準備が終わった。
ベッドに横になる。
夢の中に落ちていった。

朝。
6時に目覚める。
夢をはっきりと覚えていた。
崖を滑り降りていた。
スキーの滑降ではない。
手には強度の強い針金のような細い鉄棒を二本握っていた。
先端は90度に折れ曲がっている。
細棒をつかい滑走する。
ほぼ垂直に切り立つ崖を滑り降りる。
不安はない。
背後に人の気配を感じた。
知っている人間だが彼はすでにこの世の人ではない。
彼は何故にそこにあらわれたのだろう。
ぼんやりと考えた。

疾走は止まらない。
崖は永遠に続く絶壁である。
落下していく身体を細棒で支える。
エッジを効かして雪原を滑走するかのように垂直に滑っていく。
崖はまだつづく。

絶壁の岩を削り落としながら落ちていく。
しばらくして鉄柵にたどり着いた。
そこが底である。

門は閉ざされている。
よじ登りながら、飛び越えた。
前転をしながら着地する。
目の前には門がある。

門は閉ざされているが開き方は知っていた。
気配は消えていた。
門を開く。
鉄柵の上端に釣り糸のホイールのような黄金の物体がかかっていた。
一緒に肩掛け鞄と紺色のランニングパンツがつり下げられている。

糸巻きに触れようとしてためらった。
ペンチがあったのを思い出してペンチで糸巻きをつまんでみる。
糸巻きは変形し平たくなっていく。

同時に防具が自分を包んでいく。
旅の仲間なのだろうか35歳くらいの異国の男性があらわれた。
彼の顔をみていると鼻から下を5cmくらいの白い円錐状の渦巻きが取り囲んでいく。
渦巻きは全身を覆っている。
刹那、彼の身体は鎧に包まれていた。
鎧は躍動している。
彼の顔の前だけが透明度を30%にしたレイヤーのように薄く向こうが透けてみえた。
ぼんやりと渦巻きも見える。

彼は金色の糸巻きを示し
「オリハルコン」
といった。
超古代物のSFにありがちな名称だな、と思った。
しばらくして仲間は3人に増えた。
出かけることにした。
行き先は未定だった。

投稿者 TKM : 08:33 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月28日

[雑記] 朝の桜

午前6時。
目が覚める。
空は静かである。
太陽に照らされてうすい青に変わっていく。

外の空気を吸いたくなった。
iPodをポケットにいれ自転車でリバーシティを散歩した。

メルキート聖歌を聴きながら桜並木を下から見上げた。
通り過ぎていく桜の花々の向こうに空とリバーシティの超高層が見えた。
中央大橋をわたるとき。
見上げると橋桁へとのびるワイヤーがどこまでも続いていた。
山種の倉庫の向こうに太陽がのぼってくるのが見えた。

何もいらないな、とおもった。

投稿者 TKM : 09:25 | コメント (1) | トラックバック

[エッセイ] スケートの無

荒川静香のフリーの演技をみた。
一日の終わりにこんなものを観れるとは思わなかった。
スケートを観てはじめて涙を流した。

僕は荒川の表情しかみていない。
キッとしたの荒川が氷上に踏み出す。
厳しい表情である。
トリプル、ダブル、トリプル。
安定感のあるジャンプが続く。
しかし彼女の顔に笑みはない。

終盤。
境界が薄れ全身が調和を帯び始める。
そして彼女が変わっていく。
豊かさに満ちた表情。
画面をみながら、あーっと引き込まれていった。

こんな時。
生きていて良かったと実感する。
人が「開く」感覚が伝わってくるのだ。

迷いが消えるとき、人は等しく美しい。
その人であるもの以外は何もかも消えていく。
時間にすれば数瞬であろう。

自分が何かを感じ、いまここにいるということが「わかる」。
そんな瞬間がある。

生きていて良かった。
本当にそう思った。

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2004年03月26日

[エッセイ] 薪割りと笑いのツボ

年金は運用に失敗したファンドだ。

高速道路やいらないトンネルより日韓トンネル。
車で韓国にいけたら笑ってしまうに違いない。
フランスとイギリスでできたのだから日本と韓国でもできそうだ。

都市にも空き部屋はたくさんある。
満員電車で都心に通っている人々は限られた時間と体力を浪費する。
さらに悪いことに心もすり減っていく。

100年後。
ガソリン車は存在しない。

トヨタは他の会社が10年間にあげた利益を単年度で達成した。
その額は1兆3200億円である。
しかし利益の80%は米国市場での売り上げによる。

国家に依存するビジネスは遠からず衰退する。
政治リスクが大きいからである。

教育に費やされるべき予算のほとんどは道路と建物に消えた。

セーフネットは存在しないが人はどこでも生きていける。

セコさは何も生まない。

隣の人に気軽に「ねえ」といって話しかけられないならその人は不幸である。

一日に一度も笑わない人も不幸だ。

つらいと思うことがあるならその人も不幸だ。

感動は気持ちがいい。
笑うと元気になる。

「おいしい」は幸せである。

++++++

百瀬博教氏の本に「薪割り」という言葉がでてくるたびに笑ってしまう。

「親父にね。口答えなんかできませんでしたよ。口答えなんかしたら。夜寝てる時に薪割りで頭割られるんじゃないかと思ってね。」

先日も番組の中でそんなことをいっていた。
その言葉を聴くと「ウー、頼む、やめてくれ。拷問だ。薪割りっていったい何だよ~。ナタのことだよね?
クー、薪割り。薪なんていまないのに。薪割り。頼む~」となってしまう。

更に連続技で

「いやー、藤原がちょっと生意気なこといってたんで。そのうち薪割りでやってやろうと思ってるんですよハハハー」

などとたたみ込むように「薪割り」の波状攻撃が繰り出されるものだがから「ハハハハハ、クーーーウーー腹筋が」と笑いすぎで腹筋が痛くなった。

何が面白いということもないのだがどうもツボにはいってしまうようなのだ。最初「あれもしかしてなんか面白いぞ」と思ってしまうともうだめだ。クスクスと口元がゆるむとあとは一気に笑いエネルギーが湧き上がりとまらなくなる。そうなるともうノンストップ。別なことをみても。何を聴いても笑ってしまうのだ。

笑いって不思議だ。

投稿者 TKM : 06:31 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] 時代とジェダイ

ジェダイの復讐」という映画がある。
世界的にも有名な一大叙事詩「スターウォーズ」3部作のひとつである。

さて、この映画のタイトルにもなっている「ジェダイ」という言葉だが。
この由来を知っているだろうか?
実はジェダイとは日本語の時代劇の「時代」からとった言葉である。

昨夜この事実を知った時に僕の脳裏をよぎったのは全く物騒なイメージであった。
我々は「時代」に復讐されるのではないか。

ここでいう時代とは現代という時代のことではない。
「時代マインド」のことであり、狭間のうねりに見え隠れする「人」である。

投稿者 TKM : 03:18 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月25日

[雑記] 朝の築地

今朝は早々に起きて6時過ぎに朝食。
築地でマグロ丼。
大和を攻めようと思ったのだが6人ほど並んでいたので却下。
並んでいるのは20代の若者達である。

大和はTVや雑誌への露出が多いので土曜日は行列が必至である。
しかし平日の午前6時はたいてい並ばずに入れる。
今日の混み具合は春休みで観光客が増えている為だろう。

「あっちの人がお父さんでこっちで握っているのが息子さんなんだよ」

と20歳くらいの女の子が友達に説明しているのが聞こえてきた。
5人くらいの外国人のグループが人や車でごったがえす市場の中を一列になって歩いていく。
ターレットにも全く動じない。

マグロ丼を食べ。
お茶を飲みにジョナサンにいく。
なんと、築地にもジョナサンができたのである。
このあたりには24時間あいていてお茶が飲める場所がなかったので朝は築地で働く人でにぎわう。フロアは中央のレジを境に左右わかれている。それぞれ禁煙席、喫煙席になっている。

やまけんのブログをみるとオフ会をやるとの告知があった。
楽しみである。
さっそく「Best of 食い倒れエントリー賞」実施の提案をしておいた。

明日は編集会議である。

投稿者 TKM : 13:03 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月24日

[雑記] 今朝の時刻は7時25分 TOMAS・戦う学習塾 ~高田延彦が「おまえら出て来いヤー」と叫んだ時、オレとバシとヤマケンとヤマシンはドームにいた~

夜。
高校時代の同級生からメールがあった。

「入院するので。退院したら飲みに行きましょう。」

とのことだった。
この間、バレーボールの試合を一緒に見に行った時に膝を痛めているといっていた。
悪化したのだろうか。
退院する頃には桜は散っているかもしれない。
それでも花見に行こう。
花びらの一枚くらいは残っているだろうから。

++++++

夜、録画しておいた「ガイアの夜明け」を観る。
学習塾の特集であった。
僕は予備校も学習塾もほとんどいっていない。
二つも学校に通うと疲れそうだが小学生も高校生もみんながんばっている。

カメラは算数で落ちこぼれた5年生の生徒を追う。
彼は個別指導で有名なTOMASという塾に通い始める。
(そんな塾があることを知らなかった!有名らしい?!)

驚いたことにカメラは5ヶ月も彼を追う。
こうなると執念だ。
TOMASの先生は現役の大学生や大学院生。
それが個室でマンツーマンで指導する。
そりゃ学力は上がるさ。

にしてもこの5年生。
好きなモノは熱帯魚。
将来はペットショップの店員になりたいという。
だったら算数なんてやめて熱帯魚屋でバイトすればいいのに。
それができないのは日本が窮屈だからなのだろうか?
どうにも腑に落ちない。

舞台は変わってカリスマ塾講師が金沢に開校した進学予備校。
少し年配の著名塾講師が超党派的に各有名予備校から集まり指導する。
田舎の進学塾の趣。
全部が全部、不器用である。
僕は嫌いではないけれど少しズレているな、と感じた。

実際に働いてみればわかるが学校の勉強はほとんど社会では役に立たない。
大学もいきたければいった方がいいけれど会社員になりたいとか教員や医師になりたいという希望がないなら、あまりは関係ない、と思う。
(オレがいってもあまり説得力はないのだが)

そんなのとは関係なくいい男はいい男だしいい女はいい女だ。
男とか女を磨く方が豊かな人生にはプラスなんじゃないかな、と思う。

さて、話を5年生に戻そう。
中学受験を終えた6年生たちが合格発表に歓声を上げるころ、彼らの受験シーズンがはじまる。
ここでオレはかなりびっくりした。
5年生の生徒全員が教室に集められ

「一週間にどれくらいの時間、勉強できそうか。ちょっとでいいんで考えて何時間くらいかな、というのを書いてみてもらえるかな」

と塾の校長先生がいう。(学校じゃないのに校長というのはおかしいか。塾長だな)
書き終えた生徒達に校長先生が

「何時間くらいかな?」

ときいいく。

「35時間」
「35時間」
「35時間」
「25時間」

んんんんん?!
こいつら一日に5時間も勉強すんのか?
算数、国語、社会、理科、とあとなんだっけ、か忘れたが一教科1時間はやるってことだ。
あっけにとられた。
遊ぶ暇ないじゃん。

小学生の頃に遊ばなくていつ遊ぶんだヨ。
なんかつまらないガキが多い理由がわかった。
こしゃまっくれてる割に才能ねーなというのがいっぱいいるのはこういうカラクリか。

といっても、いい子もいっぱいいる。
たいていそういう子は勉強しなくてもスラスラ問題なんて解いていく。
ようにオレは思うんだけれどな。

まあそれはいいとして。
公立の中学にいかない小学生は辛いなあと思った。
自分の事例しかわからないけれど学校なんて公立いこうが私立にいこうが入るときは大学に簡単に入る。
確かに勉強の仕方を知らなかったからどうやったらいいのかを知るまでは勉強っていっても何をやればいいのかさっぱりわからなかったけどやり方さえ分かればあとは塾に行こうが予備校にいこうが独学だろうが一緒だ。
方法は一つしかない。

「出る問題をやる」

これに限る。出ない問題を1000問といても全く力にはならない。
この簡単で最強のルールを学校では教えないのだから不思議だ。
期末テストや中間テストなんて全部一週間前に問題を公開しておけばいい。
無駄な勉強をしないで一番効率よく実力がつく。
塾とか予備校をみてたら教えることの根本がズレてるなあと思った。
かといって文化やら芸能やらを教えるのもどうかと思う。
つーか、「教える」というのがいまいちわからない。
プロとか本物がいてその人の話をきいてインスパイヤされたら。
「後は勝手に学べ」がベストだと思う。

まあそもそもが社会の構造そのものが逼迫してるからしょうがないのか。
東京で朝の電車にのるとわかるけれど。
多くの人の表情はどれも違和感に満ちている。

これはオレの考えだけれど。
釣りやっても生きていける世界にしなきゃダメだよ。
そうなってはじめて個性が出てくるんではないだろうか。

あ、そうだ。
昨日読んだ本の言葉。

「たとえばイラクとアメリカが戦ってアメリカは勝ちました。しかし、どっちが勝っても人類全体から見れば、戦争をすること自体がすでに負けなのです。」

こういうことだと思う。
誰かが勝って誰かが負ける、それによってより良いモノが生み出され残っていく。
これがマーケットエコノミーの優れた効用、となっているが。
果たしてプラスなのかどうなのか。
勝ったなら喧嘩はいらないのではないかと思うのだが。
いまだにどこでもやってるのは「勝つぞー」だったりする。

「勝ったから次なにやろっか?」

みたいなトボケが面白いではないだろうか。

ああ勿論、競争によって悪いサービスが消えていくのはいいんだ。
悪徳とかいい加減とかインチキくさいのは無くなって当然。
それは歓迎、ウェルカムである。

問題はその先だ。
その先がぽっかり抜けてるから、

「あー、うー、あ、もう一回やるか」

みたいなのがこれまでの定石だったと思うんだが別のスパイラルをつくってもいいんではないだろうか。

「OK。とりあえず勝ったんで次はルール変えよう。その前にまず腹ごしらえしようか。オレのおごりでいいよ」

みたいな大らかさでもいいと思うのだが。
多分、夜空のお星様達はスピード競争やでかさ比べみたいなことはやってないと思うんだよね。
あと昨日メモした言葉を一つだけ。

「あるべき姿」

ってあると思うのだ。
あ、自然こそがあるべき姿で「自然に帰ろう」などと眠いことを言いたいわけじゃない。

違和感を感じるならそれは「あるべき姿」でない。
ということを言いたいわけで。
「あるべき姿」からの乖離があるならそれはどんどん減っていった方が、いや、減らした方が気持ちよいのではないだろうか。

何となく違和感を感じるものはどこかしら「あるべき姿」からズレていると思うんだな。
簡単に言うと自然でないってこと。
「不自然」ということだ。

それを感じる感覚が弱くなってるとしたらそれこそ何やっても最終的には「負け」だと思う。

もう、勝ち負けの先を問わなきゃいけないのかな、と。
(格闘技の面白さはまさにそこにある、と僕は思うのである。いい試合は勝ち負けとは関係ないわけで。)

投稿者 TKM : 08:13 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月23日

[エッセイ] 「SPA!」ライブドア社代表インタビューを読む

昨夜のエントリーでライブドア社のビジョンについて触れた。今朝、コンビニに野菜ジュースを買いにいくと今日発売のSPA!が置いてあったのでパラパラとめくる。

エッジな人々でライブドア社の社長が取り上げられていた。
インタビュー記事である。

ライブドア社はつい最近までエッヂ社であったのが今年にはいって社名が変更になった。
元エッヂ社の社長がエッジな人々でインタビューというのもなんとも肩すかしな感じがしてSPA
!っぽいなと思った。

インタビューの中で堀江氏は鬱々とした空気の元凶は老害であると看破していた。(ここでの老害は企業や組織の頂点にいすわりつづける老た人々のマイナスな空気という意味)
国も企業も若返りが必要なのだ、と。

池上遼一のマンガの主人公みたいだ。
爺キラー系かと思っていたので意外である。

物事は様々な要因の相互依存性によって成り立っている。
老害が消えたらどのくらい世の中は変わるのだろう。
いい方向と悪い方向とどちらもあるだろうし、何も変わらないかもしれない。
大波の前では個人の影響力は無に等しい。
影響を持つのは個人そのものではなく個人と環境、個人と個人の関係性である。

世界は波打っている。
べた凪の休日もあれば時化の朝もある。
相場と同じで一番下手を打つのは何もしないという選択である。
環境に応じてとるべき施策は異なる。
迅速に意志決定を行い気持ちよく時を過ごす。
気持ちよい時の絶対値と継続時間を伸ばしていく。

全ては球に向かえばいいと思っている。
そういえばこの国の通貨の名前は「円」である。
いい名前の通貨だったんだなと思った。

円とは世界の成り立ちをうまくいいあらわしている。
全ては一様ではなく円のように循環し続ける。
いいときもあれば悪い時もある。
どんな状況にもとるべき施策がある。

いつか老害も消えるのだろう。
少なくとも現在、老害の原因として存在している個人は100年後には存在しない。

老害が老害として悪循環を引き起こしているならそこには原因がある。
原因は「円」にある、と堀江氏は答える。

老害以上に僕が鬱々とした空気の元凶だと考えるのはメディアに影響される自分であり、人であり、集団である。

クリエイターや作家が解決できる問題ではない。
全ては構造的な問題である。

メディアの構造問題は根が深い。

ライブドア社から話がそれた。

コンビニからの帰り道。
交差点で信号待ちをしていると朝の築地に向かうバイクとトラックが轟音を立てて通り過ぎていった。

100年もすれば、Googleが無くなり、MSもなくなり、ソフトバンクもなくなり、ソニーがなくなり、トヨタも消え、ホンダも日産もなくなり、電通や博報堂も消滅し、政治家やあらゆる「長」も消えているのかもしれない。

そうそうライブドア社代表の堀江氏はライブドア社が「あがり」までいったら宇宙開発をやるそうだ。

宇宙か。
いい言葉だ。
どうせ一度の人生だ。
宇宙(そら)をかけるのも悪くないなと思った。

++++++

昨夜、目覚めると「ビューティフルライフ」の再放送が流れていた。
「踊る大捜査線」を観た時にも思ったがドラマのセリフというのはプレゼンみたいだ。
何でもかんでも説明してしまうから観ていると毛恥ずかしくなる時がある。

投稿者 TKM : 05:42 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] 舌の根も乾かぬうちにトラックバックを使ってみた

前に「トラックバックなんてもういらない」でトラックバックってあんまり使わないし、コメントも書いたことがあまり無いと書いた。

しかし今日になってトラックバック的な使い方を二つ体験した。
一つは「呼び込み屋は対話の天才」という歌舞伎町の呼び込み屋についてのエントリー。小鳥(a little bird)さんのエントリーを読んでいたら思い出したので書いた。

「呼び込み屋=言葉の使い手」という感覚はまさに我が意を得たりの感があった。

その直後、今度は隆慶一郎に関するエントリーに対してトラックバックがあったことを知らせるメールが届いた。

辿っていくと自分が隆慶一郎を読むきっかけになったサイトからであった。何を隠そうやまけんが絶賛している隆慶一郎とは何者ぞ?と思ってこのサイトへのリンクを辿っていったのがそもそもの発端なのだ。

こうしてみてみると確かにトラックバックは有効なのかもなと思う。
ただし、それは議論という方向性ではなく「遊び」に関する共感という部分で有効なのだと思う。

そこから何がはじまるということではないがインスパイヤされた元ネタを明記するというのはわるくない。といったところで隆慶一郎のエッセイでも読もうかな。

投稿者 TKM : 03:47 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] 呼び込み屋は対話の天才

小鳥(a little bird)このエントリーを読んだら先週のことを思いだした。

先週、夜の歌舞伎町を歩いていたらごつい黒人が近寄ってきた。

「ハイー、コンバンワ。サワリホウダイモミホウダイ。ハイー」

底抜けに明るい声である。
先月も夜の歌舞伎町を歩いていたら

「アニキー!!!」

と笑顔でごつめの黒人が嬉しそうにこちらに歩み寄ってきた。
屈託のない笑顔だよなと偉く感心した。

「ノリいいね。」

と声をかけると嬉しそうに

「アニキ。アタリマエヨ。ノリイイネ」

と答えてくれた。

日本人の呼び込みの人もノリは悪くない。
が、時々全身から疲れオーラを放っている人もいる。

黒人の呼び込みの兄さん達はたいてい笑顔だ。
呼び込みの人々の会話は軽妙である。
ああいえばこういうで絶妙の切り返しをしてくる。
ある種、言葉の天才である。

通りすがりに交わす彼等との会話も夜の歌舞伎町の楽しみの一つである。

投稿者 TKM : 03:30 | コメント (2) | トラックバック

[テキストのカタチ] 「杜子春・芥川龍之介」と電子ブックの未来

「杜子春・芥川龍之介」を読んだ。

といっても新潮社の文庫本で読んだわけではない。
青空文庫で「杜子春・芥川龍之介」のXHTMLファイルのテキストをブラウザに表示させ、ブックマークレットにある自動スクロールを利用して自動スクロールさせながら画面のテキストを読んだのである。

これまではPCだと横書きだし画面上で物語を読むのは苦痛だと思っていた。いや実際に幾つかの作品をT-Timeのような縦書きビューワーで読んだりもしてみた。しかしフォントが綺麗になり縦書きになっても読みづらさは払拭されない。

ところが自動スクロール機能を使って読んでみると物語がすらすらと頭の中に入ってくる。芥川龍之介の原作が素晴らしいのもあるけれど放っておくとスクロールして画面から消えていってしまうテキストを勝手に目が追っていくのだ。

本にしろ画面にしろテキストを読むときは結構な集中力がいる。
ところがテキストにモーションが加わるとこのハードルが一段下がる。
過ぎていくテキストは否応なしに反応と集中を高める。

人は動いているものがあると無意識に目で追ってしまうのである。
テキストの新しい読みのカタチだと思った。

RPGやアドベンチャーゲームなどテキスト系のゲームをプレイしているときもテキストを読むことがストレスになっているわけではない。これもテキストにモーションが加わっている為だ。

「本が読まれなくなっている」

と識者と呼ばれる人々の多くは嘆くがTVもPCもゲームコンソールも無かった30年前ならばまだしも紙の上のテキスト以外に膨大な情報に溢れている今、紙の本が読まれなくなったといって嘆くことの方がナンセンスである。人が処理できる情報量は無限ではない。能力の方が情報量に比例して拡張されていくわけではないので相対的にメディア毎の情報消費量は減っていく。

しかし、紙の上のテキスト消費量は減少傾向にあるとしてもテキスト全体の消費量は増えているというのが僕の考えだ。携帯やTV、PCのモニタ。紙以外の場所にテキストに浸食されている。ジワジワと領土を広げるようにテキストはその存在箇所を拡張している。

紙の上のテキストが無くなることはない。
利便性の上でも紙はまだ優位性を持つ。
しかし、さっき僕が画面で杜子春を読んだような「読み」はあり得ない。
紙の上のテキストではあり得ない「読み」が存在する。
これも事実なのだ。

それが故に僕は可能性を感じずにはいられない。
Σブックのようなハードウェアの出来について議論するのはあまり意味がない。
問題の本質はテキストとモーションの関係にある。

今年はSD-Book、ソニーの電子ブック端末など様々なビューワーが登場してくる。けれどそれらは「本」を模してつくられたものだ。各ハードウェアの本質部分はテキスト・画像の電子化による流通の改革に他ならない。

しかし、僕が可能性を感じるのはそこではない。
僕が惹かれるのはテキストとモーションの関係だ。
古いテキストもモーションによって蘇り、新たな命が注ぎ込まれる。
名作と呼ばれるテキストの持つ魅力は健在だ。

既存の本とは違うものをつくりたい、そういって人々は電子ブックの未来を語る。
しかし本来語られるべきは本の未来ではない。
本は媒体に過ぎない。
本質、ゲノタイプは「テキスト」にある。

何故、小説という表現のカタチがなくならないのかずっと不思議だった。
マンガの方が面白いし、映画の方が没入しやすい。
何故いまだに本なのだ?
そんな思いが強かった。

小説の本質はストーリー性にある。
それが故に小説が消えることはない。

ストーリー性を有するコンテンツの一つとしてマンガというカタチもある。

既存のマンガは紙の上で固定されている。
マンガの場合はテキストよりも直接視覚にはいってくるのでスピード感がありよりモーション性が高い。しかし、それだけではマンガも行き止まりだ。マンガもモーションによって生き返るはずである。

フィルムブックというものがある。
映画に強引にコマ割をつけてコミック化したものだ。
よくドラえもんの映画などがフィルムブック化されているので目にしたことのある人も多いと思う。
あれの逆もまたあり得る。

コマ割という文法が効かなくなるのでフェノタイプは変化するだろう。
面白さのポイントもズレるかもしれない。
しかしストーリーというゲノタイプが共通していれば伝わる情報もあるし、逆に劇的な効果をつくりだす場合もある。例えば紙の上のマンガには決して超えられない壁として音の問題がある。あるシーンでどうしても曲を流したい場合などよく音符の絵とともに歌詞が波打って描かれていたりする。しかし、どのような表記技術を開発しても紙の上では音は再現できない。midiレベルのチープな音でも描かれた擬音やテキストとは比較にならない伝達力がある。

投稿者 TKM : 02:59 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月22日

[エッセイ] ソーシャルネットワーク

SN(Social Network)が流行の兆しを見せている。
最初にこの言葉を目にした時はオーディオの世界のSN比の事かと思ったが全く違った。
日本でもいくつかのサービスがローンチしようとしている。

僕にも二つのSNからinviteが来ていた。
面倒だったがやってみないとわからないので登録した。

以後は全くほったらかしである。
最初はFriendが増えるにつれて画面に写真が増殖していくのが面白かったのだがそれ以上の面白みがないので観ることすらやめてしまった。可能性はあるのだろうが大事なところが抜けている感がある。

例えば。
あんまり友達じゃない人から強引なinviteが来たりする。メールにあるURLをクリックすると

「あなたを友達だといっている人がいますがこの人を友達リストに加えますか?」

というメッセージが表示される。
ほとんどの人からのinviteは心地よいのだが善意ではなく単なる見栄のような気配を感じるinviteがあってそれらに対しては「頼むから去ね」(池上遼一のマンガで多様される漢言葉)の一言を送りたい。

ヤフオクでネムい対応をするとマイナス評価されて取引停止に追い込まれるようなリスクがないとサービスは適正化していかないのではないかと思う。

昨年はブログ。
今年はSNと手を替え品を替え続々と似たようなサービスが生まれてくる。
この生命力には感服せずにいられない。

リスクを伴わないSNはリスクがないだけにリターンもない。
頻繁にあうから友達なわけじゃない。
縁があって知り合い、縁が続くから友達なのだ。
ほとんどの理由は後付であり、友達が友達でいる理由はフィーリングと縁である。

++++++

いいこととそうでないことというのは相対的なものだから評価は難しい。
難しいのでそこは考えないことにして何かいいことをしたら生命力と気分に交換してあげます、みたいなシステムがあったら世界はどう変わるのだろう。過去を振り返ってみて皇帝様の時代とか最後にいきつくのは生命力だったりするわけでそれはいまの世も変わらないと思う。

人の問題はそれが同じようなものであっても時と場所によって重要度は全く異なる。
日本に暮らしていて問題と感じる物事はアフリカでは全く違うかもしれない。

全員が皇帝である必要はないけれどスナフキンくらいではいていいと思う。
そういうのが健全っていうのではないだろうか。

投稿者 TKM : 19:28 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] 午後のお茶と今日のマーケット

月曜日。
雨である。
午後3時までマーケットを眺めるつもりだったが外は雨。
やめてお茶を飲むことにした。

昨日、日興ビーンズと合併を発表したマネックスの寄りつきに興味があったがなかなか値が付かない。後場にチェックするといきなりストップ高であった。オンライン証券会社各社ともに淘汰はあるだろうがまだまだのびる。日本では個人投資家の比率が低すぎるのだ。社会参加という側面についてのフォローは大学にまかせるとして経済を理解するのに株というツールは有効だ。人の世界が波打っている様子が実体として眼前にあらわれる。

先週もストップ高をつけたライブドアを眺めると予想に反して今週もストップ高。
高騰の理由は期待感というか個人投資家の気分的なものだろうと思うのだが明日もストップ高になる可能性もある。というかこうなるともう読めない。材料がない状態で株価だけが一人歩きしている印象を受ける。

先日のイーバンクとのごたごた(例のイーバンク社長からライブドア役員への脅しともとれる電話の録音。「おまえの会社つぶしちゃうよ」という音声ファイルの公開があった事件)の余波で低迷していたが3月に入り矢継ぎ早にリリースが打たれた。TurboLinuxの買収、翌日のHPによる対アジア圏向けにTurboLinuxの戦略的OEM契約の発表。その後10万株の買いをスタートに連続する高騰がはじまる。

ここ数ヶ月、社長である堀江氏のブログを読んでいる。
先日、初めてライブドア社のビジョンらしきエントリーを目にした。確かに見えにくいがこのエントリーでようやくこの会社の未来がイメージできた。シンプルでわかりやすい。

ライブドア社の基本戦略は「柳の下のドジョウ」である。
ある分野でうまくいっているサービスをみつけそのサービス研究した上で同等かそれ以上の付加価値のあるサービスを矢継ぎ早に展開する。この展開のスピードは素晴らしい。先行者利益はないがその分比較にならないくらい開発コストが低く抑えられ、分野で2~3位のポジションにつける。そこから経営力と資本力で体制を整え少しづつサービスの浸透をはかる。このあたりはMSの戦略とよく似ている。

これまでに打ち出した施策はよく機能しているように見える。
毎週一つづつ会社を買収してはローカライズしてローンチというのをやっていた頃のバンクを思い出す。
分野は違ってもネット系の会社が大きくなってやることは多かれ少なかれ似ている。
RPGでいえば中ボスと戦うのに楯や剣、兜やポーションなどの装備を調えるのに近い。

物事をRPGのメタファーで捉えてみると見えなかったものが見えてくる。
より大きな集合体である国についてもRPGメタファーで捉えなおすとどこにガタがきているのかがよくわかる。RPGをやり続けていると独特の戦感(いくさかん)が出来てくる。これならば剣に全部ぶっこめばいける、とか。強い剣で強い敵を倒した方がリターンは高い。防具はその後で揃えた方が効率的な場合もある。

ここでふと疑問がよぎる。
RPGでは何が一番の目的になっているのだ?
短時間によるクリアなのだろうか。

++++++

昨日の情熱大陸のターゲットは「松井証券」であった。
正確には松井証券社長の松井道夫氏だが。
兜町のボロいビルから半蔵門の日本で一番賃料の高いビルへの移転。
移転前と移転後では会社の外見が全く変わってしまった。

社長のデスクにおかれたPCはかなりのロートルマシンでその隣の机の上に置かれた本や書類をみていると違和感が漂う。デザイン会社のオフィスのようにいかないのは業種の違いだろうか。洋服を着替えても人は変わらないということだろうか。

露出の効果がどのくらい株価に影響を与えるのだろうかと思って今日の寄りつきと後場の半ばで一度チェックしたが全くべた凪。静かなものであった。

投稿者 TKM : 18:56 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] トラックバックなんてもういらない

切込隊長・山本一郎さんの「ISP、ポータル各社が物凄い勢いでBLOGに参入している件について」という記事にもあったがトラックバックというシステムはBlogシステムに触れた最初のころは「こりゃスゲーや」と思っていたのだが一年以上やっているのに自分自身が使ったのは2回くらいである。

またトラックバックされた場合もどこがリンクされてるのかなとみにいくけれど実際に連絡をとるということは皆無である。理由は前述の切込隊長のエントリーにあったように往々にしてトラックバック元の記事に比べトラックバック先の記事のクオリティがどうしようもないほどに低い。

セマンティックウェブの実践というふれこみであったがトラックバックに関しては企画倒れの感が強い。最大の理由はこれもまた切込隊長のエントリーで触れられているように面白くない人に面白い道具を渡しても面白い使い方をしないということであろう。

僕も常に面白いブログを探しているのだが全くといっていいほど無い。
ほとんどが情報の紹介に終わっていて筆者の顔が見えてこない。
そういう意味では「切込隊長ブログ」がBlog of the yearになったのも理解できる。
日記と考察のバランス、考察の深さ、更新のスピード、分野、独自な視点は読むにあたいするテキストである。
エントリーの多くは毒舌がさえ渡っているのだがふとした一文に暖かさを感じる時がある。
このバランスによって生み出されるテキストの「人っぽさ」が切込隊長ブログの魅力だと僕は思うのだが。

山本一郎さんの著書「美人(ブス)投票入門」

投稿者 TKM : 08:15 | コメント (0) | トラックバック

[雑記] 鼻炎スッキリクンという商品をみた@明け方のTVショッピング

昨夜は午前2時過ぎには眠った。
起きている限界点だなという感覚があった。
脳の奥の方がぼんやりしている感じで思考がついてこない。
横になって「運」についての考察をしていた眠っていた。

夢もみたのだが記憶の彼方である。
午前6時45分。
鼻が苦しくなり目覚める。
朝はいつも鼻炎だ。

よく通販で紹介している「くしゃみ・鼻水・花粉症解消に家庭用治療器 「スッキリクン」」(下記)

くしゃみ・鼻水・花粉症解消に家庭用治療器 「スッキリクン」

で鼻の通りを改善させたいものだ。TVの解説をきいているとアレルギーの素や鼻づまりの原因について詳細な説明がありなるほどなあと感心してみていた。僕は慢性的に朝は鼻炎で埃にも敏感に反応してしまう。こうした鼻炎のつらさはなったことがないとわからないと思うのだが朝起きた時や夜に鼻づまりを解消できたら人生がかわるのではないか、と思うこともしばしばである。

夏だとそれほど気にならない気もするのだが冬になると空気の温度差に対する身体の反応なのか鼻づまりになりやすい。後輩からメールがきていて「来月からオーストラリアに移住します」とのことだった。昨夜メトロマガジンをみたら冒頭にパース特集があって眺めていたら自分も引っ越そうと本気で考えた。

鼻炎に関する本のリスト

投稿者 TKM : 07:48 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] 失敗と解決

先週の月曜日~水曜日で一つ失敗があった。
取り返せない失敗ではないが失敗は失敗である。
無いにこしたことはない。

金曜日。
宮崎の地にいるはずだったが東京にいた。
これもミスの余波である。
ミスには違いない。

ミスが重なった理由はない。
確率論あるいは波のように上下する放射線状のカーブの問題である。
人生においてこのカーブから逃れることはできない。
ただ自分がカーブのどこにいるかを知っているのとそうでないのとでは未来が変わってくる。
初期値の違いは反復増幅され未来を大きく変えていく。

自分とは無関係に振る舞う大きな流れや津波を変えることはできない。
しかし自分が流れのどこにいるかがわかっていれば対応は可能だ。

世界はどこに向かっているのか。
ホントの所、自分の関心事はそれだけなのだろう。
それ以外のことは些事に思える。
とはいえば直面すれば問題に右往左往するのだが。
多くは人の世界の問題だ。
であれば解決は可能だ。
方法はあるわけだから。

投稿者 TKM : 01:27 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] 未来と情報

学生時代に情報社会論の授業で石井先生がこんなことを言われていたことがあった。

「一番大切な情報というのは何だと思いますか。」

何だろうと考えてみるが咄嗟には答えがでない。(僕の場合、思考はその場でパっと思いつくケースよりもノートやPCでテキスト化していく時にドライブする。)
石井先生の答えはシンプルだった。

「できる。できない。これが実はとても大きな情報なんですね。出来ないというのはマイナスに捉えられがちですが。出来ないということが証明されるというのは出来るということと同じくらい重要なんです。」

なるほどなあと思いながら、一拍遅れて。自分だったらどう考えるだろう。出来るか出来ないか。それも確かに重要なのだが少し違和感があった。僕にとって一番重要な情報は「未来」かな、急いでメモした。しかし、未来は理論的には知ることができない。ただ予想するだけである。ミクロの不確定性をそのままマクロに適応するのは間違っているけれど。

世の中を見てて、といってもオレがやってることといえば街を歩いて人をみたり、人と話したりしているだけなのだがそれでも多少は変化や温度くらいはわかるものだ。で、何を感じているかだが。

「未来」の風があんまりないな、と思った。

いったいこの世界でいまというこの時間を生きていて未来というものをイメージしている人はどのくらいいるのだろう?いるとしたらその人たちの未来はいつ頃なのだろう。明日とか来週、半年先、一年先、そのあたりなのだろうか。

10年前をちょっと思い出してみる。
何が一番変わっただろう。
大まかなところでは何もかわっていないがとりあえず待ち合わせの方法は大きくかわった。
携帯電話があれば場所と大まかな時間だけ決めておけばそれで人と待ち合わせることができるようになった。
これは大きな変化の一つだ。

あとは福岡にいく飛行機が劇的に安くなった。
他にはネットの回線が太くなって安くなってPCの性能がバカみたいに上がった。
髪のカラーリングが一般化した。
牛丼が安くなった。(いまは販売中止だが)

他にもいろいろ変わってるはずなんだけれど案外でかい変化はないのかな、と思う。

例えば日曜が無くなった、とか。
月が半分になった、とか。
自転の速度が上がって一日が12時間になった、とか。

そういう変化はない。
だいたいは人間の世界の変化だ。
それも表面的なものが多い。
いきなり「お金」というものが世界から消えてしまう、という人間世界の天地創造な現象は起こっていない。

これから数年で劇的な変化を迎えるものもあればそうでないものもある。
変化といったところでそのくらいのものなんだ、という気持ちで眺めてみるとなんだか物事がよく見えるようになった気がした。

投稿者 TKM : 00:38 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月21日

[雑記] いかりや長介氏死去 ~大学時代に一度だけ深夜にやっていたドリフの映画をみたことがあった~

夕方、うどんが食べたくなったので麺通団へ。
その後、矢坂さんと新しい事業プロジェクトについてもろもろ話す。
完成すればおもしろそう。

今年は車でも買いましょうかという話なる。
じゃ、何がいいかと二人で話す。
これがまたなかなか面白い。

「世の中にはクラウンが好きな人もいるんだよな。どんな人たちなんだろう。」

というあたりで話がじゃあPCは?という方向に。
PCって車に例えるとカローラみたいなのばっかりだよねという話で意見が一致する。
IBMはPCWatchのインタビューで「PC界のベンツを目指します」といっていたが。
だったらMacはフェラーリか。

本屋で隆慶一郎の作品を4冊買いそろえる。
やまけんに借りようと思っていたのだが「かくれさと苦界行」のインパクトが強かったのでさっそくファンサイトをつくることにした。日本一の隆慶一郎サイトを今月中に構築するか。

今日は仕事の予定だったがボツ。
「それってうれしいかうれしくないかっていったら、うれしくないじゃない。うれしいことしなよ。」
以前そう言われたことを思い出した。
女性は鋭い。

メッセンジャで「いかりやちょうすけ」さんが死去されたことを知る。
人は死ぬのだな、とぼんやりと思った。

iPodから聞こえるのは岡村靖幸の曲。
マッチョドラゴンはまだ入っていない。

投稿者 TKM : 06:35 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月20日

[今日の出来事] 「人間失格/太宰治」 ~リモコンが停止して呼吸が大きく乱れた朝とブリジット・バルドー~

昨夜は部屋に戻ってから太宰治の「人間失格」を読んだ。
文学が専攻だったのだが全くといってもいいほど文学作品とは縁のない研究をしていたのでこれまで読んだことがなかった。中学生の頃に読もうとしたがですます調が気になって読めなかった。

15年を経て読んでみた。
メインパートである主人公の独白記とそれを説明するもう一人の人物。共に主観で書かれているが全く異なる二つの言葉。視点が交差し、その対比によって全体がキチっとはまる。内容はなよなよした男の独白の体裁をとりながらも鋭利に人間社会の歪みをえぐり出す。読んでいてしばしば慄然とした。そこに自分の影をみつけたような気がしたからだ。

ところで「人間失格」を読んでいる途中。
僕はあまりにも眠くてリラックスチェアーで数分、虚ろに眠った。起きていたのかもしれない。意識は半分あった。iPodをつないだPC用のスピーカーからは矢野顕子の曲が聞こえていた。覚醒と眠りの狭間でうつらうつらしていた。ハッとなる。息苦しかった。ため息とも違う。空気を大きく吸い込もうとするのだが途中でつまってしまう。疲れから来ているのか睡眠不足が原因なのか体調は悪くないのだが呼吸は乱れていた。

Cebitについてのレポートをみて起きたかったので録画しておいたワールドビジネスサテライトを再生しようとした。ところがビデオのリモコンを押しても何も反応がない。電池の異常かと入れ替えてみるが依然、動きはない。叩いてみるが様子は変わらない。壊れたのか?

Gコードの入力にはリモコンが必要なので壊れたとしたら代替のリモコンをビックカメラで探してこなければならない。いろいろ試してみるが全くらちがあかない。あきらめて手動で留守録コールボタンを押し、直接本体の操作ボタンを操作して映像を早送りする。

リモコンをセンサーに押しつけてボタンを押してみるとゼロ~1センチメートルの距離だと再生や停止ボタンが機能した。どちらがイカれてしまったのか皆目検討がつかない。あきらめて「人間失格」の続きを読むことにした。

依然、呼吸は大きくみだれている。
それから少し長めの電話をした。

午前2時過ぎ。
TV画面には大好きだったブリジット・バルドーが出ている。
自分の脳裏にあるのはコートダジュールでジープを運転する彼女の姿。
画面の向こうで年老いた彼女がインタビューに答えていた。

それからアマゾンの研究をした。
このリモコンさえ動けばな。
そう思っていじっていると画面に映像が現れた。
リモコンは唐突に回復した。

僕の呼吸も回復していた。
猛烈にコロナが飲みたくなって外に出た。
近くのサンクスにだけライムリキッド付きのコロナがおいてある。
買い物を終えてドアをあけようとすると30代の男女が入ってくるところだった。
二人は少し酔っているように見えた。
ドアのところで女性に進路をゆずった。
すこしはにかんで彼女は「ありがとうございます」と言いってドアを開いた。
手元が少し怪しいのだろうドアがあきすぎて開け放しになった。
手でどうぞ、と示して彼女が店内に入ったのを見届けてからドアを閉めた。

部屋に帰ってきてiPodの再生キーを押し、メモのつもりで書き始めた。
そろそろ朝6時だ。

投稿者 TKM : 06:01 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月19日

[エッセイ] 井深さんありがとう ~音楽で変わる世界~

今日から宮崎の予定だったのだけれどまだ東京にいる。
飛行機がなかったので断念した、というのが理由の半分。
もう半分は秘密である。

昨日は急に寒くなって薄着ででかけたらから夜は寒くて凍えそうになった。
矢坂さんから借りた初期型のiPodを使ってみた。
久しぶりに外で音楽を聴いたら自分が映画の中に入り込んだかのような錯覚におちいった。
こんなにも簡単に音楽は世界を変えてしまうのだ。

音楽のある人生で良かった。
ウォークマンを発案した井深大さんへありがとうとお礼の言葉を書いた。

投稿者 TKM : 05:58 | コメント (0) | トラックバック

[本] かくれさと苦界行/隆慶一郎 ~痛快時代劇と物語のゲノタイプ~

やまけんに教えてもらった故隆慶一郎の傑作時代小説「かくれさと苦界行」を読む。
見たことのない日本の過去。
江戸・吉原の姿がぼんやりと浮かび上がる。
それは実在しない世界であり自分にはその時代の江戸や吉原がどのような姿だったのか皆目検討がつかない。時代劇の映像をベースに想像してみるが細部は曖昧なままだ。
しかしそれでも面白いものは面白い。

読んでいて気がついたことがある。
小説には二種類の小説がある。
文章が面白い小説。
文章は面白くないが物語が面白い小説。
(確か村上龍は穴に落ちる話と穴からはい上がる話と書いていたと思うが)

海外の小説について考えてみるとわかりやすい。
翻訳という変換作業の過程で作品の持つ情報の一部は失われる。
しかし核になる面白さは伝達される。

どうしてそんなことが可能なのだろう?
学生時代、僕はこの問題について考察し続けた。
そのベースにあったのは「秩序である言葉をもって何故に混沌であるところの心を言いあらわすことができるのか?」という問いだったけれど。

「かくれさと苦界行」を読んでいる時にぼんやりと大学時代に読んだ小説の事を思い出した。
アルフレッド・ベスターの「虎よ、虎よ!」である。この小説の翻訳は最低といってもいいほど読みづらく、読んでいて「ハァー」とため息をついた。しかしつまらないのかといえばこれが全くそんなことはなく面白い。じゃあ何が面白いのだろう。そう「話」が面白いのである。小説の持つ物語性、ストーリーの面白さなのである。

翻訳により言葉の持つ情報の一部が失われても文章が伝えようとしている核なる部分は全く同じ形ではないがある程度のズレを有した相似象として伝わる。僕はここに言語の本質を感じる。

先ほど「かくれさと苦界行」を読んでいる時に書いたメモである。

 「巧い言葉に価値はない」

ふと思い浮かんだのでノートに書き留めた。雑誌や本を眺めると巧い言葉が溢れている。上手だなあと感心する。しかしそれらの言葉で覚えているものはほとんどない。綺麗であり巧みだが次の瞬間には消えていく。反対に心に残る言葉の多くは独自の言葉である。巧みではない。しかし「響き」がある。

途中ボンヤリと考えていたのだが、これだ、と思ったのだ。
言葉は巧みである必要はない。
しかし響かなければそれは言葉ではない。
文字であり記号だ。

文章を考える時に記号性や構造で対象を規定しようとする考えもあるが僕の立場は異なる。
あんまり書くとフォルマリズムがどうのこうのという話になりそうだがそうした規定云々に関する議論をするつもりはない。僕の興味はそこにはない。言葉の可能性、面白さについての議論なら幾らでもつきあうがそれが何であるかとか正しいとか正しくないという議論はおよそ意味がない。それらは議論の為の議論であって僕とは目的が違う。僕の興味は言葉の面白さであってカタチではないし、そもそもそのカタチも自分ではない誰かが考えた借り物の知識でしかない。

僕のコンテンツ論の中核をなすのはこの思考だ。
フェノタイプとゲノタイプという枠で捉えない限りコンテンツの本質は見えてこない。
コンテンツはフェノタイプとしての面白さとゲノタイプとしての面白さの二つの面白さがある。

「かくれさと苦界行」からだいぶ脱線してしまった。
読後感について触れておきたい。

終盤近く、登場人物達がそれぞれの道を歩み、解脱というべきかそれぞれがそれぞれの姿を知り、世界を開いていく様は読んでいて涙が出そうになった。小説っていいな、言葉って可能性があるんだな、と思った。読んでいるのは文字の塊である。そこから鮮やかな世界がたちあらわれる。時間の流れがあり、人物はそれぞれ自律的に生活している。それらの相互作用の所産として物語が描き出される。優れた物語は物語のぎこちなさがない。それは書かれたというよりも世界が勝手に動き出し、描きだされた軌跡のようなものである。

ハリー・ポッターが世界中で読まれたのはあの作品に含まれる物語としてのゲノタイプが優れていたことの証であろう。あらゆるコンテンツに共通するゲノタイプのパターン。と、ここまで書いて思った。アートにもアートのゲノタイプが存在する。

++++++

ブログは日記や記事、雑感を書くには適しているがこした考察のまとめには全く不適切な手段だといま感じている。手段が思考に与える影響は小さくない。ブログには結論は存在しないし、ある問題について思考を深めていくような書き方も難しい。

投稿者 TKM : 05:38 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月18日

[エッセイ] カリブに浮かぶ電子カジノの島々とStarSuite 7

電子ギャンブル」とはなんとも古めかしい呼び名だなと思いながら記事を読んだ。

日本や米国などでは賭博は国の管理下に置かれ公にギャンブルを行うことは禁じられている。
しかしカリブ海の小国では事情が違う。
多くの業者が会社を設立しネットワーク上で「ギャンブル」を行うサービスを展開している。

歪みを利用したビジネスである。
似たような構造はアダルトサイトにもみられる。
日本国内で営業しているサイトの場合はモザイク処理を施した映像を利用しなければならない。これに違反すれば違法となり犯罪と認識される。ところが国が変われば事情も変わる。例えば米国の場合はアダルトソフトへモザイク処理を施す規制がない。だから多くの業者は米国に会社を設立し日本向けにサービスを提供することでモザイク処理のなされていない映像の配信サービスを行っている。日本国内では視聴不可能な映像がインターネット経由で普通にやりとりされているのだから国内のサービス事業者は勝負にならない。いまだにインターネットの世界でコンテンツ課金事業として成立しているのはアダルトサイトとオンラインカジノ
だけだと言われている。

両方ともある国では違法だが別な国では違法ではないという制度の歪みを利用したビジネスである。
例えばの話だが著作権を認めない国が登場すればその国ではソフトウェアが定額配信される、というビジネスがはじまってもおかしくない。そんなものあるわけがない、と思いたいところだが何が起こるかはわからない。規制されているとはいえソフトウェアのコピーは現実に存在する。アジアの街角にいけば現在上映中の映画のDVDも販売されているし、50~100万円分くらいのソフトが入ったCD-ROMが500円前後で店頭にはならんでいる。

そこでアクティベーションと呼ばれるライセンス認証を導入し不正なコピーを防止しようとする動きが強まっている。マイクロソフトのオフィスXPなどはこの方法が導入されている為、無制限にソフトのインストールを行うことはできない。

しかしソフトウェアのコピーが問題になる背景として一部ソフトウェアの高額化という問題がある。フォトショップやディレクターといった業界標準ソフトの値段は10万円を超える。個人が気軽に購入できる値段ではない。そこで発生するのが「コピー」である。会社などにおいてあるソフトを自宅のマシンにインストールする。CD-Rが一般化した為、コピーが安易になったことも一因だろう。

そう考えると書籍というメディアは実にコピーに手間のかかる媒体であることに気づく。コピーする手間を考えたら買った方が安い。

幾らくらいならソフトを購入してもいいと感じるのだろうか。
音楽CDの場合は代替3000円前後で販売されている。DVDやゲームソフトは4000~6000円くらいが中心的な価格帯だ。PCのソフトはこの幅が異常に大きい「無料~数百万円」という値段の幅がある。数百万円のソフトでもコピーは可能だし店頭で販売されているソフトと同等の機能を持つソフトがフリーウェア(無料ソフト)として公開されている場合もある。

ソースネクストは1980円という低価格で多くのソフトを販売している。最近発売されたStarSuite 7
はマイクロソフトオフィスとの互換性を持つオフィスソフトパッケージだがこのソフトも1980円という低価格で販売されている。この値段であれば試しに買ってみてもいいかなという気分になる。(StarSuite
の場合ソフトのマニュアル本が2500円と高額となっているあたりが面白い)

ソースネクスト社のHPをみると「パソコンソフトを1,980円にする理由」が書かれている。

年間に2億枚が購入される音楽CDに対してパソコンソフトは1500万枚足らず。再生(インストール)ハードウェアの世帯普及率は60%とほぼ同数だが販売されている本数は大きく開きがあある。
その原因はパソコンソフトの価格設定にあり、ソフトの販売本数全体を増加させ「ソフトを買う」ことを一般化させる為には低価格で良質のソフトが提供されなければならない。

そこでソースネクスト
社はパッケージのスリム化、マニュアルの電子化、ウェブによるサポート体制、大量生産などの合理化手法で1980円という超低価格化を実現した。

こうした低価格化の流れは今後も加速されると考えられる。
その背景には先ほども触れたようにフリーウェアとよばれる無料ソフトの存在がある。

++++++

ブラウザやメールソフト、メッセンジャーなど最も利用頻度の高いソフトは無料である場合が多い。
「良いモノは高い」より「良くて安価・無料である」が本来向かうべき方向だと僕は思う。

投稿者 TKM : 18:52 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月17日

[エッセイ] K-1石井館長の独白を読む@文藝春秋

明け方のローソンで今月号の文藝春秋を立ち読みした。
パラパラとめくっていたら「ン?」と手が止まった。
真ん中より後ろのあたりだろうかK-1石井館長の独白記が掲載されているのを見つけた。

驚きのあまり一気に読み漁る。
ふむふむ、なるほど、ウーン。

興行の世界はいまだ情念うずまくドロドロの人間模様。
選手や観客の為ではなく運営者のエゴに左右される健全とはほど遠い場所だということに唖然とする。
いまだにこれなのか。

リングサイドの怪しげな面々の正体が少しわかった。
百瀬博教
氏があそこにいるのも合点がいく。(氏の著書はほとんど読んだ。格闘技ファンならば必読である。)
人界の魔界とも言える興行世界で跳梁跋扈する生霊と相対するには半分こちらも川を渡らなければならないのだ。

政界、財界、界な場所には怪がある。


投稿者 TKM : 08:22 | コメント (0) | トラックバック

[雑記] 切込隊長/山本一郎さん ~コンテンツについて書かれたテキストでこんなに感心したのははじめてだ~

うーん、うなってしまうくらいに素晴らしい。
切込隊長こと山本一郎さんの「コンテンツについてのエッセイ」を読むと「コンテンツ、コンテンツ」といっている人々の胡散臭さ、考え方や底の浅さが実感できる。

本当に力があって国際的な競争力のあるコンテンツプロバイダー、コンテンツクリエイターは黙ってやっている。
メディアに露出し不平やら不満をいっている、人ほどコンテンツ感覚、格闘技でいうならば「旬」を過ぎたブヨブヨのレスラー