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2004年03月31日

[エッセイ] 「俄」の人々 ~年に一度の蕎麦をやる~

今朝は築地の市場で蕎麦。
猫舌なので熱い汁の蕎麦は一年間に1度しか食べない。
12月31日に年越し蕎麦だけである。
今朝は熱い汁でかき揚げ蕎麦をいただいたので今年は2回食べることになる。

築地も午前6時を過ぎると観光客や買い出しにくる人が増え人通りが多くなる。
昨日、朝の散歩にでかけ、爽快な気分でいたのだが築地の前を通ったあたりで気分がおかしくなった。
その教訓をいかし今朝は蕎麦を食べ終えると早々に退散した。
部屋にもどり仕事の仕込みをしつつ、録り貯めた番組をチェックする。

「情熱大陸」。
今回は松井稼頭央であった。(と、ここで衝撃。ATOKで「まついかずお」と入れたら一発で変換してくれた)
松井稼頭央を誤解していた。
彼も「俄」である。
大リーグにいった日本人選手は多かれ少なかれみんな「俄」な人々だ。

人生は俄だよな。
と思う今朝である。

業種や分野に関わらず惹かれるタイプの人の形がある。
ヒロイズムとも違うのだがふっきれている人が好きだ。
情があってふっきれている人はなお良い。

あ、あとさっき「てっぺん魂」の最終回をみていてあることがわかった。
大学生はいま就職活動の最中だと思うのだけれど100%成功する就職活動のやり方が閃いた。
かなりコペルニクス的な思考の転換だがおそらく最強であろう。

投稿者 TKM : 08:47 | コメント (0) | トラックバック

[雑記] コンテンツの核は…

夜更け過ぎ。
仕事を終えて野知さんのブログを観ると宇宙開発についての考察があった。

スクロールさせていくとコメントの投稿があった。
な、長い…。
本文よりも長い…。
スクロールが終わらない…。

これは勝手な思いこみだが、と断った上でいうのだけれど長いコメントをみていると言葉が本人のアクションとリンクしていないような印象をうける。自分はこうしています、だからこう思います。というスタンスになっていないので自分の弁護に聞こえてしまう。だからどんなに文章が明快で鮮明でもあまり心に響いてこない。
自分が議論の為の議論が嫌いなので特にそう思うのだろうけれど。

体験をベースに書いている人の文章は上手でなくとも響いてくることがある。
旅行記や旅日記などときどきハッとさせられるものがある。
自伝も面白い。
といっても、その人が面白くなければ旅行記も何も面白くないのではあるが。

コンテンツの核は「人間力」ということなのだろうな。

投稿者 TKM : 03:21 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月30日

[食い倒れ御免状] つけ麺でボンバイエ ~その心は「馬鹿になれ」~

石神井公園で桜を眺めていると電話が鳴った。
「No.1食い倒れ」ことやまけんからであった。
これからつけ麺を攻めるので参戦せよとの指令だった。
石神井から東京駅までは距離はそれほどではないが時間はかかる。
急ぎ向かうと伝えて電車に乗るが遅々として近づかない。

つけ麺をあきらめ、タケが助っ人を務めるスターバックス茅場町店の開店2周年記念のジャズライブを聴きに行くことになった。食い倒れと共にフラペチーノを頼む。内容をみて二人でどよめく。トールサイズのカップの上には「親の敵」のようにたっぷりと生クリームが盛られていた。無類の生クリームファンのオレとしてはこのサービスは嬉しい。しかし、甘い物が苦手な食い倒れの表情は心なしかしょんぼりとしているようにみえた。

食い倒れの愛機、ThinkPadを借りて今日のマーケットをチェックする。
一日中、外で仕事だったため推移をフォローできていなかった。
チェックを終え、しばし、3人で金融談義を楽しむ。

しばらくしてライブがはじまった。
僕の好きな曲が次々と演奏される。
嬉しい限りである。

ライブを聴きながら今後のビジネスについて話をする。
食い倒れに有益なアドバイスをいただき、かなり展望が開ける。
二人にも今期の目標を話した。

達成はできると踏んでいる。
クリアすべき課題のほとんどは無投資でいける。
9割は自分個人の能力の問題である。
もっといってしまえばモチベーションマネジメント。
更にいうと観法の域である。
観法については食い倒れが第一人者である。

故に、観法の達人である食い倒れのアドバイスは的中である。
食い倒れが今年つかみとったというおみくじを見せてもらう

 「方針:馬鹿になれ」

冗談かと思ったがフォトショップで加工した形跡はないので本物であろう。
さすが食い倒れ。「馬鹿になれ」を引き当てるとは天然素材No.1である。
牡蠣を20個たべて食中毒になったのもその方針故なのであろう。
感心至極である。

投稿者 TKM : 08:01 | コメント (2) | トラックバック

2004年03月29日

[エッセイ] 高校生の友人と坂本さんの曲

最近、会合にいくとストレスを感じることが多い。
剣道に例えると切っ先でチャカチャカしているようで何につけ思きりが悪い。

適当に話すのが嫌いだ。
当たり障りのない会話も苦手だ。

楽しい人と思われているのかもしれないが内実は違う。
本当に気持ちよく話せるのは何人かしかいない。

稽古をずっとやっていない。
クローゼットの奥にしまってある竹刀を最後に握ったのは1年前だ。

先日、夜更けに高校生の友人と話しをした。
15歳ほどの年齢の差がある。
彼の友人の話。
学校の話。
最近の話。
他愛ない話なのだが心地よい。
若い友人と話していると年齢にどれほどの意味があるのだろうと思う。

話の中で彼がいった

「坂本龍一さんって知ってる?この間、はじめて聴いたんだけれどビックリした」

「何が?」

「うーん、韓国語のラップのとあの音楽の組み合わせはなんか響いた。スゴイと思った」

評論には意味がないなと思った。
僕は彼のこの言葉をきいて最新作を聴いてみようと思った。
家に帰ってからマシンにはいっているはずの「Chasm」からその曲を聴いてみた。

坂本さんの曲を意識してきいたのははじめてではないだろうか。
友人が「ビックリした」という曲を聴いてみる。

仕事場で作曲している時の坂本さんの姿を思い出した。
そうか坂本さん、こういう曲をつくるようになったのか。

いろんなことを思った。
坂本さんを取り巻く人々や環境が3D空間にサークル状に配置された写真のようにゆっくりと回りながら浮かんではきえていく。

何をということはないのだが「ま、いっか」という気持ちになった。
いろんなことがゆっかかりつっかかりしていたけれど、それでも「ま、いっか」と思った。
それもまたそれだし、もっと大きなところでゆるやかにうねっているのだろう。

流れに身を任せようと思うと心地よくなった。
石神井公園にいく電車の時間を調べiPodにChasmを転送してからお茶を飲もうと思った。

投稿者 TKM : 08:54 | コメント (3) | トラックバック

[雑記] オリハルコンの糸巻き

連日の睡眠不足の為だろうか昨日、日曜日の午後にバタリと倒れるように眠り。
目覚めると午後8時であった。
たくさん眠って血が循環したのか頭がスッキリしている。


たかのてるこ「モンキームーンの輝く夜に」を読みはじめる。
なんとなく外にでたくなる。
銀座の外れにあるカフェは夜11時までやっているのでまだ1時間30分くらいはあいている。
読み始める。

脳内に広がる風景は東南アジア。
言葉の力を感じながら読み進める。
たかのてるこの文章は決して難解ではない。
話すように書かれているからだろうスラスラと頭の中に入ってくる。
言葉とは本来こうあるべきなのではないだろうか。

難解な言葉も通じなければ意味はない。
インターコミュニケーションのテキストは洒落ているが全く心には響かない。
勿論、記憶にも残らない。

洒落た雑誌のテキストは言葉ではなく幾何学模様のようだ。
スラリとしているがそれだけで言葉が響いてこない。

ほとんどのテキストはカタチだけなのだろうか。

午前1時。
部屋にもどり明日の仕事の準備を始めた。
準備の合間、思いついて、机の上においてあったアロマキャンドルに火をつける。

ゆったりとした灯り。
部屋の雰囲気が変わっていく。

リラックスチェアに腰掛けてお茶を飲む。
ゆっくりと呼吸しながら考えるのを徐々に止めていく。

何も考えない。
やってみると難しいものだ。

午前2時30分。
準備が終わった。
ベッドに横になる。
夢の中に落ちていった。

朝。
6時に目覚める。
夢をはっきりと覚えていた。
崖を滑り降りていた。
スキーの滑降ではない。
手には強度の強い針金のような細い鉄棒を二本握っていた。
先端は90度に折れ曲がっている。
細棒をつかい滑走する。
ほぼ垂直に切り立つ崖を滑り降りる。
不安はない。
背後に人の気配を感じた。
知っている人間だが彼はすでにこの世の人ではない。
彼は何故にそこにあらわれたのだろう。
ぼんやりと考えた。

疾走は止まらない。
崖は永遠に続く絶壁である。
落下していく身体を細棒で支える。
エッジを効かして雪原を滑走するかのように垂直に滑っていく。
崖はまだつづく。

絶壁の岩を削り落としながら落ちていく。
しばらくして鉄柵にたどり着いた。
そこが底である。

門は閉ざされている。
よじ登りながら、飛び越えた。
前転をしながら着地する。
目の前には門がある。

門は閉ざされているが開き方は知っていた。
気配は消えていた。
門を開く。
鉄柵の上端に釣り糸のホイールのような黄金の物体がかかっていた。
一緒に肩掛け鞄と紺色のランニングパンツがつり下げられている。

糸巻きに触れようとしてためらった。
ペンチがあったのを思い出してペンチで糸巻きをつまんでみる。
糸巻きは変形し平たくなっていく。

同時に防具が自分を包んでいく。
旅の仲間なのだろうか35歳くらいの異国の男性があらわれた。
彼の顔をみていると鼻から下を5cmくらいの白い円錐状の渦巻きが取り囲んでいく。
渦巻きは全身を覆っている。
刹那、彼の身体は鎧に包まれていた。
鎧は躍動している。
彼の顔の前だけが透明度を30%にしたレイヤーのように薄く向こうが透けてみえた。
ぼんやりと渦巻きも見える。

彼は金色の糸巻きを示し
「オリハルコン」
といった。
超古代物のSFにありがちな名称だな、と思った。
しばらくして仲間は3人に増えた。
出かけることにした。
行き先は未定だった。

投稿者 TKM : 08:33 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月28日

[雑記] 朝の桜

午前6時。
目が覚める。
空は静かである。
太陽に照らされてうすい青に変わっていく。

外の空気を吸いたくなった。
iPodをポケットにいれ自転車でリバーシティを散歩した。

メルキート聖歌を聴きながら桜並木を下から見上げた。
通り過ぎていく桜の花々の向こうに空とリバーシティの超高層が見えた。
中央大橋をわたるとき。
見上げると橋桁へとのびるワイヤーがどこまでも続いていた。
山種の倉庫の向こうに太陽がのぼってくるのが見えた。

何もいらないな、とおもった。

投稿者 TKM : 09:25 | コメント (1) | トラックバック

[エッセイ] スケートの無

荒川静香のフリーの演技をみた。
一日の終わりにこんなものを観れるとは思わなかった。
スケートを観てはじめて涙を流した。

僕は荒川の表情しかみていない。
キッとしたの荒川が氷上に踏み出す。
厳しい表情である。
トリプル、ダブル、トリプル。
安定感のあるジャンプが続く。
しかし彼女の顔に笑みはない。

終盤。
境界が薄れ全身が調和を帯び始める。
そして彼女が変わっていく。
豊かさに満ちた表情。
画面をみながら、あーっと引き込まれていった。

こんな時。
生きていて良かったと実感する。
人が「開く」感覚が伝わってくるのだ。

迷いが消えるとき、人は等しく美しい。
その人であるもの以外は何もかも消えていく。
時間にすれば数瞬であろう。

自分が何かを感じ、いまここにいるということが「わかる」。
そんな瞬間がある。

生きていて良かった。
本当にそう思った。

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2004年03月26日

[エッセイ] 薪割りと笑いのツボ

年金は運用に失敗したファンドだ。

高速道路やいらないトンネルより日韓トンネル。
車で韓国にいけたら笑ってしまうに違いない。
フランスとイギリスでできたのだから日本と韓国でもできそうだ。

都市にも空き部屋はたくさんある。
満員電車で都心に通っている人々は限られた時間と体力を浪費する。
さらに悪いことに心もすり減っていく。

100年後。
ガソリン車は存在しない。

トヨタは他の会社が10年間にあげた利益を単年度で達成した。
その額は1兆3200億円である。
しかし利益の80%は米国市場での売り上げによる。

国家に依存するビジネスは遠からず衰退する。
政治リスクが大きいからである。

教育に費やされるべき予算のほとんどは道路と建物に消えた。

セーフネットは存在しないが人はどこでも生きていける。

セコさは何も生まない。

隣の人に気軽に「ねえ」といって話しかけられないならその人は不幸である。

一日に一度も笑わない人も不幸だ。

つらいと思うことがあるならその人も不幸だ。

感動は気持ちがいい。
笑うと元気になる。

「おいしい」は幸せである。

++++++

百瀬博教氏の本に「薪割り」という言葉がでてくるたびに笑ってしまう。

「親父にね。口答えなんかできませんでしたよ。口答えなんかしたら。夜寝てる時に薪割りで頭割られるんじゃないかと思ってね。」

先日も番組の中でそんなことをいっていた。
その言葉を聴くと「ウー、頼む、やめてくれ。拷問だ。薪割りっていったい何だよ~。ナタのことだよね?
クー、薪割り。薪なんていまないのに。薪割り。頼む~」となってしまう。

更に連続技で

「いやー、藤原がちょっと生意気なこといってたんで。そのうち薪割りでやってやろうと思ってるんですよハハハー」

などとたたみ込むように「薪割り」の波状攻撃が繰り出されるものだがから「ハハハハハ、クーーーウーー腹筋が」と笑いすぎで腹筋が痛くなった。

何が面白いということもないのだがどうもツボにはいってしまうようなのだ。最初「あれもしかしてなんか面白いぞ」と思ってしまうともうだめだ。クスクスと口元がゆるむとあとは一気に笑いエネルギーが湧き上がりとまらなくなる。そうなるともうノンストップ。別なことをみても。何を聴いても笑ってしまうのだ。

笑いって不思議だ。

投稿者 TKM : 06:31 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] 時代とジェダイ

ジェダイの復讐」という映画がある。
世界的にも有名な一大叙事詩「スターウォーズ」3部作のひとつである。

さて、この映画のタイトルにもなっている「ジェダイ」という言葉だが。
この由来を知っているだろうか?
実はジェダイとは日本語の時代劇の「時代」からとった言葉である。

昨夜この事実を知った時に僕の脳裏をよぎったのは全く物騒なイメージであった。
我々は「時代」に復讐されるのではないか。

ここでいう時代とは現代という時代のことではない。
「時代マインド」のことであり、狭間のうねりに見え隠れする「人」である。

投稿者 TKM : 03:18 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月25日

[雑記] 朝の築地

今朝は早々に起きて6時過ぎに朝食。
築地でマグロ丼。
大和を攻めようと思ったのだが6人ほど並んでいたので却下。
並んでいるのは20代の若者達である。

大和はTVや雑誌への露出が多いので土曜日は行列が必至である。
しかし平日の午前6時はたいてい並ばずに入れる。
今日の混み具合は春休みで観光客が増えている為だろう。

「あっちの人がお父さんでこっちで握っているのが息子さんなんだよ」

と20歳くらいの女の子が友達に説明しているのが聞こえてきた。
5人くらいの外国人のグループが人や車でごったがえす市場の中を一列になって歩いていく。
ターレットにも全く動じない。

マグロ丼を食べ。
お茶を飲みにジョナサンにいく。
なんと、築地にもジョナサンができたのである。
このあたりには24時間あいていてお茶が飲める場所がなかったので朝は築地で働く人でにぎわう。フロアは中央のレジを境に左右わかれている。それぞれ禁煙席、喫煙席になっている。

やまけんのブログをみるとオフ会をやるとの告知があった。
楽しみである。
さっそく「Best of 食い倒れエントリー賞」実施の提案をしておいた。

明日は編集会議である。

投稿者 TKM : 13:03 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月24日

[雑記] 今朝の時刻は7時25分 TOMAS・戦う学習塾 ~高田延彦が「おまえら出て来いヤー」と叫んだ時、オレとバシとヤマケンとヤマシンはドームにいた~

夜。
高校時代の同級生からメールがあった。

「入院するので。退院したら飲みに行きましょう。」

とのことだった。
この間、バレーボールの試合を一緒に見に行った時に膝を痛めているといっていた。
悪化したのだろうか。
退院する頃には桜は散っているかもしれない。
それでも花見に行こう。
花びらの一枚くらいは残っているだろうから。

++++++

夜、録画しておいた「ガイアの夜明け」を観る。
学習塾の特集であった。
僕は予備校も学習塾もほとんどいっていない。
二つも学校に通うと疲れそうだが小学生も高校生もみんながんばっている。

カメラは算数で落ちこぼれた5年生の生徒を追う。
彼は個別指導で有名なTOMASという塾に通い始める。
(そんな塾があることを知らなかった!有名らしい?!)

驚いたことにカメラは5ヶ月も彼を追う。
こうなると執念だ。
TOMASの先生は現役の大学生や大学院生。
それが個室でマンツーマンで指導する。
そりゃ学力は上がるさ。

にしてもこの5年生。
好きなモノは熱帯魚。
将来はペットショップの店員になりたいという。
だったら算数なんてやめて熱帯魚屋でバイトすればいいのに。
それができないのは日本が窮屈だからなのだろうか?
どうにも腑に落ちない。

舞台は変わってカリスマ塾講師が金沢に開校した進学予備校。
少し年配の著名塾講師が超党派的に各有名予備校から集まり指導する。
田舎の進学塾の趣。
全部が全部、不器用である。
僕は嫌いではないけれど少しズレているな、と感じた。

実際に働いてみればわかるが学校の勉強はほとんど社会では役に立たない。
大学もいきたければいった方がいいけれど会社員になりたいとか教員や医師になりたいという希望がないなら、あまりは関係ない、と思う。
(オレがいってもあまり説得力はないのだが)

そんなのとは関係なくいい男はいい男だしいい女はいい女だ。
男とか女を磨く方が豊かな人生にはプラスなんじゃないかな、と思う。

さて、話を5年生に戻そう。
中学受験を終えた6年生たちが合格発表に歓声を上げるころ、彼らの受験シーズンがはじまる。
ここでオレはかなりびっくりした。
5年生の生徒全員が教室に集められ

「一週間にどれくらいの時間、勉強できそうか。ちょっとでいいんで考えて何時間くらいかな、というのを書いてみてもらえるかな」

と塾の校長先生がいう。(学校じゃないのに校長というのはおかしいか。塾長だな)
書き終えた生徒達に校長先生が

「何時間くらいかな?」

ときいいく。

「35時間」
「35時間」
「35時間」
「25時間」

んんんんん?!
こいつら一日に5時間も勉強すんのか?
算数、国語、社会、理科、とあとなんだっけ、か忘れたが一教科1時間はやるってことだ。
あっけにとられた。
遊ぶ暇ないじゃん。

小学生の頃に遊ばなくていつ遊ぶんだヨ。
なんかつまらないガキが多い理由がわかった。
こしゃまっくれてる割に才能ねーなというのがいっぱいいるのはこういうカラクリか。

といっても、いい子もいっぱいいる。
たいていそういう子は勉強しなくてもスラスラ問題なんて解いていく。
ようにオレは思うんだけれどな。

まあそれはいいとして。
公立の中学にいかない小学生は辛いなあと思った。
自分の事例しかわからないけれど学校なんて公立いこうが私立にいこうが入るときは大学に簡単に入る。
確かに勉強の仕方を知らなかったからどうやったらいいのかを知るまでは勉強っていっても何をやればいいのかさっぱりわからなかったけどやり方さえ分かればあとは塾に行こうが予備校にいこうが独学だろうが一緒だ。
方法は一つしかない。

「出る問題をやる」

これに限る。出ない問題を1000問といても全く力にはならない。
この簡単で最強のルールを学校では教えないのだから不思議だ。
期末テストや中間テストなんて全部一週間前に問題を公開しておけばいい。
無駄な勉強をしないで一番効率よく実力がつく。
塾とか予備校をみてたら教えることの根本がズレてるなあと思った。
かといって文化やら芸能やらを教えるのもどうかと思う。
つーか、「教える」というのがいまいちわからない。
プロとか本物がいてその人の話をきいてインスパイヤされたら。
「後は勝手に学べ」がベストだと思う。

まあそもそもが社会の構造そのものが逼迫してるからしょうがないのか。
東京で朝の電車にのるとわかるけれど。
多くの人の表情はどれも違和感に満ちている。

これはオレの考えだけれど。
釣りやっても生きていける世界にしなきゃダメだよ。
そうなってはじめて個性が出てくるんではないだろうか。

あ、そうだ。
昨日読んだ本の言葉。

「たとえばイラクとアメリカが戦ってアメリカは勝ちました。しかし、どっちが勝っても人類全体から見れば、戦争をすること自体がすでに負けなのです。」

こういうことだと思う。
誰かが勝って誰かが負ける、それによってより良いモノが生み出され残っていく。
これがマーケットエコノミーの優れた効用、となっているが。
果たしてプラスなのかどうなのか。
勝ったなら喧嘩はいらないのではないかと思うのだが。
いまだにどこでもやってるのは「勝つぞー」だったりする。

「勝ったから次なにやろっか?」

みたいなトボケが面白いではないだろうか。

ああ勿論、競争によって悪いサービスが消えていくのはいいんだ。
悪徳とかいい加減とかインチキくさいのは無くなって当然。
それは歓迎、ウェルカムである。

問題はその先だ。
その先がぽっかり抜けてるから、

「あー、うー、あ、もう一回やるか」

みたいなのがこれまでの定石だったと思うんだが別のスパイラルをつくってもいいんではないだろうか。

「OK。とりあえず勝ったんで次はルール変えよう。その前にまず腹ごしらえしようか。オレのおごりでいいよ」

みたいな大らかさでもいいと思うのだが。
多分、夜空のお星様達はスピード競争やでかさ比べみたいなことはやってないと思うんだよね。
あと昨日メモした言葉を一つだけ。

「あるべき姿」

ってあると思うのだ。
あ、自然こそがあるべき姿で「自然に帰ろう」などと眠いことを言いたいわけじゃない。

違和感を感じるならそれは「あるべき姿」でない。
ということを言いたいわけで。
「あるべき姿」からの乖離があるならそれはどんどん減っていった方が、いや、減らした方が気持ちよいのではないだろうか。

何となく違和感を感じるものはどこかしら「あるべき姿」からズレていると思うんだな。
簡単に言うと自然でないってこと。
「不自然」ということだ。

それを感じる感覚が弱くなってるとしたらそれこそ何やっても最終的には「負け」だと思う。

もう、勝ち負けの先を問わなきゃいけないのかな、と。
(格闘技の面白さはまさにそこにある、と僕は思うのである。いい試合は勝ち負けとは関係ないわけで。)

投稿者 TKM : 08:13 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月23日

[エッセイ] 「SPA!」ライブドア社代表インタビューを読む

昨夜のエントリーでライブドア社のビジョンについて触れた。今朝、コンビニに野菜ジュースを買いにいくと今日発売のSPA!が置いてあったのでパラパラとめくる。

エッジな人々でライブドア社の社長が取り上げられていた。
インタビュー記事である。

ライブドア社はつい最近までエッヂ社であったのが今年にはいって社名が変更になった。
元エッヂ社の社長がエッジな人々でインタビューというのもなんとも肩すかしな感じがしてSPA
!っぽいなと思った。

インタビューの中で堀江氏は鬱々とした空気の元凶は老害であると看破していた。(ここでの老害は企業や組織の頂点にいすわりつづける老た人々のマイナスな空気という意味)
国も企業も若返りが必要なのだ、と。

池上遼一のマンガの主人公みたいだ。
爺キラー系かと思っていたので意外である。

物事は様々な要因の相互依存性によって成り立っている。
老害が消えたらどのくらい世の中は変わるのだろう。
いい方向と悪い方向とどちらもあるだろうし、何も変わらないかもしれない。
大波の前では個人の影響力は無に等しい。
影響を持つのは個人そのものではなく個人と環境、個人と個人の関係性である。

世界は波打っている。
べた凪の休日もあれば時化の朝もある。
相場と同じで一番下手を打つのは何もしないという選択である。
環境に応じてとるべき施策は異なる。
迅速に意志決定を行い気持ちよく時を過ごす。
気持ちよい時の絶対値と継続時間を伸ばしていく。

全ては球に向かえばいいと思っている。
そういえばこの国の通貨の名前は「円」である。
いい名前の通貨だったんだなと思った。

円とは世界の成り立ちをうまくいいあらわしている。
全ては一様ではなく円のように循環し続ける。
いいときもあれば悪い時もある。
どんな状況にもとるべき施策がある。

いつか老害も消えるのだろう。
少なくとも現在、老害の原因として存在している個人は100年後には存在しない。

老害が老害として悪循環を引き起こしているならそこには原因がある。
原因は「円」にある、と堀江氏は答える。

老害以上に僕が鬱々とした空気の元凶だと考えるのはメディアに影響される自分であり、人であり、集団である。

クリエイターや作家が解決できる問題ではない。
全ては構造的な問題である。

メディアの構造問題は根が深い。

ライブドア社から話がそれた。

コンビニからの帰り道。
交差点で信号待ちをしていると朝の築地に向かうバイクとトラックが轟音を立てて通り過ぎていった。

100年もすれば、Googleが無くなり、MSもなくなり、ソフトバンクもなくなり、ソニーがなくなり、トヨタも消え、ホンダも日産もなくなり、電通や博報堂も消滅し、政治家やあらゆる「長」も消えているのかもしれない。

そうそうライブドア社代表の堀江氏はライブドア社が「あがり」までいったら宇宙開発をやるそうだ。

宇宙か。
いい言葉だ。
どうせ一度の人生だ。
宇宙(そら)をかけるのも悪くないなと思った。

++++++

昨夜、目覚めると「ビューティフルライフ」の再放送が流れていた。
「踊る大捜査線」を観た時にも思ったがドラマのセリフというのはプレゼンみたいだ。
何でもかんでも説明してしまうから観ていると毛恥ずかしくなる時がある。

投稿者 TKM : 05:42 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] 舌の根も乾かぬうちにトラックバックを使ってみた

前に「トラックバックなんてもういらない」でトラックバックってあんまり使わないし、コメントも書いたことがあまり無いと書いた。

しかし今日になってトラックバック的な使い方を二つ体験した。
一つは「呼び込み屋は対話の天才」という歌舞伎町の呼び込み屋についてのエントリー。小鳥(a little bird)さんのエントリーを読んでいたら思い出したので書いた。

「呼び込み屋=言葉の使い手」という感覚はまさに我が意を得たりの感があった。

その直後、今度は隆慶一郎に関するエントリーに対してトラックバックがあったことを知らせるメールが届いた。

辿っていくと自分が隆慶一郎を読むきっかけになったサイトからであった。何を隠そうやまけんが絶賛している隆慶一郎とは何者ぞ?と思ってこのサイトへのリンクを辿っていったのがそもそもの発端なのだ。

こうしてみてみると確かにトラックバックは有効なのかもなと思う。
ただし、それは議論という方向性ではなく「遊び」に関する共感という部分で有効なのだと思う。

そこから何がはじまるということではないがインスパイヤされた元ネタを明記するというのはわるくない。といったところで隆慶一郎のエッセイでも読もうかな。

投稿者 TKM : 03:47 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] 呼び込み屋は対話の天才

小鳥(a little bird)このエントリーを読んだら先週のことを思いだした。

先週、夜の歌舞伎町を歩いていたらごつい黒人が近寄ってきた。

「ハイー、コンバンワ。サワリホウダイモミホウダイ。ハイー」

底抜けに明るい声である。
先月も夜の歌舞伎町を歩いていたら

「アニキー!!!」

と笑顔でごつめの黒人が嬉しそうにこちらに歩み寄ってきた。
屈託のない笑顔だよなと偉く感心した。

「ノリいいね。」

と声をかけると嬉しそうに

「アニキ。アタリマエヨ。ノリイイネ」

と答えてくれた。

日本人の呼び込みの人もノリは悪くない。
が、時々全身から疲れオーラを放っている人もいる。

黒人の呼び込みの兄さん達はたいてい笑顔だ。
呼び込みの人々の会話は軽妙である。
ああいえばこういうで絶妙の切り返しをしてくる。
ある種、言葉の天才である。

通りすがりに交わす彼等との会話も夜の歌舞伎町の楽しみの一つである。

投稿者 TKM : 03:30 | コメント (2) | トラックバック

[テキストのカタチ] 「杜子春・芥川龍之介」と電子ブックの未来

「杜子春・芥川龍之介」を読んだ。

といっても新潮社の文庫本で読んだわけではない。
青空文庫で「杜子春・芥川龍之介」のXHTMLファイルのテキストをブラウザに表示させ、ブックマークレットにある自動スクロールを利用して自動スクロールさせながら画面のテキストを読んだのである。

これまではPCだと横書きだし画面上で物語を読むのは苦痛だと思っていた。いや実際に幾つかの作品をT-Timeのような縦書きビューワーで読んだりもしてみた。しかしフォントが綺麗になり縦書きになっても読みづらさは払拭されない。

ところが自動スクロール機能を使って読んでみると物語がすらすらと頭の中に入ってくる。芥川龍之介の原作が素晴らしいのもあるけれど放っておくとスクロールして画面から消えていってしまうテキストを勝手に目が追っていくのだ。

本にしろ画面にしろテキストを読むときは結構な集中力がいる。
ところがテキストにモーションが加わるとこのハードルが一段下がる。
過ぎていくテキストは否応なしに反応と集中を高める。

人は動いているものがあると無意識に目で追ってしまうのである。
テキストの新しい読みのカタチだと思った。

RPGやアドベンチャーゲームなどテキスト系のゲームをプレイしているときもテキストを読むことがストレスになっているわけではない。これもテキストにモーションが加わっている為だ。

「本が読まれなくなっている」

と識者と呼ばれる人々の多くは嘆くがTVもPCもゲームコンソールも無かった30年前ならばまだしも紙の上のテキスト以外に膨大な情報に溢れている今、紙の本が読まれなくなったといって嘆くことの方がナンセンスである。人が処理できる情報量は無限ではない。能力の方が情報量に比例して拡張されていくわけではないので相対的にメディア毎の情報消費量は減っていく。

しかし、紙の上のテキスト消費量は減少傾向にあるとしてもテキスト全体の消費量は増えているというのが僕の考えだ。携帯やTV、PCのモニタ。紙以外の場所にテキストに浸食されている。ジワジワと領土を広げるようにテキストはその存在箇所を拡張している。

紙の上のテキストが無くなることはない。
利便性の上でも紙はまだ優位性を持つ。
しかし、さっき僕が画面で杜子春を読んだような「読み」はあり得ない。
紙の上のテキストではあり得ない「読み」が存在する。
これも事実なのだ。

それが故に僕は可能性を感じずにはいられない。
Σブックのようなハードウェアの出来について議論するのはあまり意味がない。
問題の本質はテキストとモーションの関係にある。

今年はSD-Book、ソニーの電子ブック端末など様々なビューワーが登場してくる。けれどそれらは「本」を模してつくられたものだ。各ハードウェアの本質部分はテキスト・画像の電子化による流通の改革に他ならない。

しかし、僕が可能性を感じるのはそこではない。
僕が惹かれるのはテキストとモーションの関係だ。
古いテキストもモーションによって蘇り、新たな命が注ぎ込まれる。
名作と呼ばれるテキストの持つ魅力は健在だ。

既存の本とは違うものをつくりたい、そういって人々は電子ブックの未来を語る。
しかし本来語られるべきは本の未来ではない。
本は媒体に過ぎない。
本質、ゲノタイプは「テキスト」にある。

何故、小説という表現のカタチがなくならないのかずっと不思議だった。
マンガの方が面白いし、映画の方が没入しやすい。
何故いまだに本なのだ?
そんな思いが強かった。

小説の本質はストーリー性にある。
それが故に小説が消えることはない。

ストーリー性を有するコンテンツの一つとしてマンガというカタチもある。

既存のマンガは紙の上で固定されている。
マンガの場合はテキストよりも直接視覚にはいってくるのでスピード感がありよりモーション性が高い。しかし、それだけではマンガも行き止まりだ。マンガもモーションによって生き返るはずである。

フィルムブックというものがある。
映画に強引にコマ割をつけてコミック化したものだ。
よくドラえもんの映画などがフィルムブック化されているので目にしたことのある人も多いと思う。
あれの逆もまたあり得る。

コマ割という文法が効かなくなるのでフェノタイプは変化するだろう。
面白さのポイントもズレるかもしれない。
しかしストーリーというゲノタイプが共通していれば伝わる情報もあるし、逆に劇的な効果をつくりだす場合もある。例えば紙の上のマンガには決して超えられない壁として音の問題がある。あるシーンでどうしても曲を流したい場合などよく音符の絵とともに歌詞が波打って描かれていたりする。しかし、どのような表記技術を開発しても紙の上では音は再現できない。midiレベルのチープな音でも描かれた擬音やテキストとは比較にならない伝達力がある。

投稿者 TKM : 02:59 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月22日

[エッセイ] ソーシャルネットワーク

SN(Social Network)が流行の兆しを見せている。
最初にこの言葉を目にした時はオーディオの世界のSN比の事かと思ったが全く違った。
日本でもいくつかのサービスがローンチしようとしている。

僕にも二つのSNからinviteが来ていた。
面倒だったがやってみないとわからないので登録した。

以後は全くほったらかしである。
最初はFriendが増えるにつれて画面に写真が増殖していくのが面白かったのだがそれ以上の面白みがないので観ることすらやめてしまった。可能性はあるのだろうが大事なところが抜けている感がある。

例えば。
あんまり友達じゃない人から強引なinviteが来たりする。メールにあるURLをクリックすると

「あなたを友達だといっている人がいますがこの人を友達リストに加えますか?」

というメッセージが表示される。
ほとんどの人からのinviteは心地よいのだが善意ではなく単なる見栄のような気配を感じるinviteがあってそれらに対しては「頼むから去ね」(池上遼一のマンガで多様される漢言葉)の一言を送りたい。

ヤフオクでネムい対応をするとマイナス評価されて取引停止に追い込まれるようなリスクがないとサービスは適正化していかないのではないかと思う。

昨年はブログ。
今年はSNと手を替え品を替え続々と似たようなサービスが生まれてくる。
この生命力には感服せずにいられない。

リスクを伴わないSNはリスクがないだけにリターンもない。
頻繁にあうから友達なわけじゃない。
縁があって知り合い、縁が続くから友達なのだ。
ほとんどの理由は後付であり、友達が友達でいる理由はフィーリングと縁である。

++++++

いいこととそうでないことというのは相対的なものだから評価は難しい。
難しいのでそこは考えないことにして何かいいことをしたら生命力と気分に交換してあげます、みたいなシステムがあったら世界はどう変わるのだろう。過去を振り返ってみて皇帝様の時代とか最後にいきつくのは生命力だったりするわけでそれはいまの世も変わらないと思う。

人の問題はそれが同じようなものであっても時と場所によって重要度は全く異なる。
日本に暮らしていて問題と感じる物事はアフリカでは全く違うかもしれない。

全員が皇帝である必要はないけれどスナフキンくらいではいていいと思う。
そういうのが健全っていうのではないだろうか。

投稿者 TKM : 19:28 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] 午後のお茶と今日のマーケット

月曜日。
雨である。
午後3時までマーケットを眺めるつもりだったが外は雨。
やめてお茶を飲むことにした。

昨日、日興ビーンズと合併を発表したマネックスの寄りつきに興味があったがなかなか値が付かない。後場にチェックするといきなりストップ高であった。オンライン証券会社各社ともに淘汰はあるだろうがまだまだのびる。日本では個人投資家の比率が低すぎるのだ。社会参加という側面についてのフォローは大学にまかせるとして経済を理解するのに株というツールは有効だ。人の世界が波打っている様子が実体として眼前にあらわれる。

先週もストップ高をつけたライブドアを眺めると予想に反して今週もストップ高。
高騰の理由は期待感というか個人投資家の気分的なものだろうと思うのだが明日もストップ高になる可能性もある。というかこうなるともう読めない。材料がない状態で株価だけが一人歩きしている印象を受ける。

先日のイーバンクとのごたごた(例のイーバンク社長からライブドア役員への脅しともとれる電話の録音。「おまえの会社つぶしちゃうよ」という音声ファイルの公開があった事件)の余波で低迷していたが3月に入り矢継ぎ早にリリースが打たれた。TurboLinuxの買収、翌日のHPによる対アジア圏向けにTurboLinuxの戦略的OEM契約の発表。その後10万株の買いをスタートに連続する高騰がはじまる。

ここ数ヶ月、社長である堀江氏のブログを読んでいる。
先日、初めてライブドア社のビジョンらしきエントリーを目にした。確かに見えにくいがこのエントリーでようやくこの会社の未来がイメージできた。シンプルでわかりやすい。

ライブドア社の基本戦略は「柳の下のドジョウ」である。
ある分野でうまくいっているサービスをみつけそのサービス研究した上で同等かそれ以上の付加価値のあるサービスを矢継ぎ早に展開する。この展開のスピードは素晴らしい。先行者利益はないがその分比較にならないくらい開発コストが低く抑えられ、分野で2~3位のポジションにつける。そこから経営力と資本力で体制を整え少しづつサービスの浸透をはかる。このあたりはMSの戦略とよく似ている。

これまでに打ち出した施策はよく機能しているように見える。
毎週一つづつ会社を買収してはローカライズしてローンチというのをやっていた頃のバンクを思い出す。
分野は違ってもネット系の会社が大きくなってやることは多かれ少なかれ似ている。
RPGでいえば中ボスと戦うのに楯や剣、兜やポーションなどの装備を調えるのに近い。

物事をRPGのメタファーで捉えてみると見えなかったものが見えてくる。
より大きな集合体である国についてもRPGメタファーで捉えなおすとどこにガタがきているのかがよくわかる。RPGをやり続けていると独特の戦感(いくさかん)が出来てくる。これならば剣に全部ぶっこめばいける、とか。強い剣で強い敵を倒した方がリターンは高い。防具はその後で揃えた方が効率的な場合もある。

ここでふと疑問がよぎる。
RPGでは何が一番の目的になっているのだ?
短時間によるクリアなのだろうか。

++++++

昨日の情熱大陸のターゲットは「松井証券」であった。
正確には松井証券社長の松井道夫氏だが。
兜町のボロいビルから半蔵門の日本で一番賃料の高いビルへの移転。
移転前と移転後では会社の外見が全く変わってしまった。

社長のデスクにおかれたPCはかなりのロートルマシンでその隣の机の上に置かれた本や書類をみていると違和感が漂う。デザイン会社のオフィスのようにいかないのは業種の違いだろうか。洋服を着替えても人は変わらないということだろうか。

露出の効果がどのくらい株価に影響を与えるのだろうかと思って今日の寄りつきと後場の半ばで一度チェックしたが全くべた凪。静かなものであった。

投稿者 TKM : 18:56 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] トラックバックなんてもういらない

切込隊長・山本一郎さんの「ISP、ポータル各社が物凄い勢いでBLOGに参入している件について」という記事にもあったがトラックバックというシステムはBlogシステムに触れた最初のころは「こりゃスゲーや」と思っていたのだが一年以上やっているのに自分自身が使ったのは2回くらいである。

またトラックバックされた場合もどこがリンクされてるのかなとみにいくけれど実際に連絡をとるということは皆無である。理由は前述の切込隊長のエントリーにあったように往々にしてトラックバック元の記事に比べトラックバック先の記事のクオリティがどうしようもないほどに低い。

セマンティックウェブの実践というふれこみであったがトラックバックに関しては企画倒れの感が強い。最大の理由はこれもまた切込隊長のエントリーで触れられているように面白くない人に面白い道具を渡しても面白い使い方をしないということであろう。

僕も常に面白いブログを探しているのだが全くといっていいほど無い。
ほとんどが情報の紹介に終わっていて筆者の顔が見えてこない。
そういう意味では「切込隊長ブログ」がBlog of the yearになったのも理解できる。
日記と考察のバランス、考察の深さ、更新のスピード、分野、独自な視点は読むにあたいするテキストである。
エントリーの多くは毒舌がさえ渡っているのだがふとした一文に暖かさを感じる時がある。
このバランスによって生み出されるテキストの「人っぽさ」が切込隊長ブログの魅力だと僕は思うのだが。

山本一郎さんの著書「美人(ブス)投票入門」

投稿者 TKM : 08:15 | コメント (0) | トラックバック

[雑記] 鼻炎スッキリクンという商品をみた@明け方のTVショッピング

昨夜は午前2時過ぎには眠った。
起きている限界点だなという感覚があった。
脳の奥の方がぼんやりしている感じで思考がついてこない。
横になって「運」についての考察をしていた眠っていた。

夢もみたのだが記憶の彼方である。
午前6時45分。
鼻が苦しくなり目覚める。
朝はいつも鼻炎だ。

よく通販で紹介している「くしゃみ・鼻水・花粉症解消に家庭用治療器 「スッキリクン」」(下記)

くしゃみ・鼻水・花粉症解消に家庭用治療器 「スッキリクン」

で鼻の通りを改善させたいものだ。TVの解説をきいているとアレルギーの素や鼻づまりの原因について詳細な説明がありなるほどなあと感心してみていた。僕は慢性的に朝は鼻炎で埃にも敏感に反応してしまう。こうした鼻炎のつらさはなったことがないとわからないと思うのだが朝起きた時や夜に鼻づまりを解消できたら人生がかわるのではないか、と思うこともしばしばである。

夏だとそれほど気にならない気もするのだが冬になると空気の温度差に対する身体の反応なのか鼻づまりになりやすい。後輩からメールがきていて「来月からオーストラリアに移住します」とのことだった。昨夜メトロマガジンをみたら冒頭にパース特集があって眺めていたら自分も引っ越そうと本気で考えた。

鼻炎に関する本のリスト

投稿者 TKM : 07:48 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] 失敗と解決

先週の月曜日~水曜日で一つ失敗があった。
取り返せない失敗ではないが失敗は失敗である。
無いにこしたことはない。

金曜日。
宮崎の地にいるはずだったが東京にいた。
これもミスの余波である。
ミスには違いない。

ミスが重なった理由はない。
確率論あるいは波のように上下する放射線状のカーブの問題である。
人生においてこのカーブから逃れることはできない。
ただ自分がカーブのどこにいるかを知っているのとそうでないのとでは未来が変わってくる。
初期値の違いは反復増幅され未来を大きく変えていく。

自分とは無関係に振る舞う大きな流れや津波を変えることはできない。
しかし自分が流れのどこにいるかがわかっていれば対応は可能だ。

世界はどこに向かっているのか。
ホントの所、自分の関心事はそれだけなのだろう。
それ以外のことは些事に思える。
とはいえば直面すれば問題に右往左往するのだが。
多くは人の世界の問題だ。
であれば解決は可能だ。
方法はあるわけだから。

投稿者 TKM : 01:27 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] 未来と情報

学生時代に情報社会論の授業で石井先生がこんなことを言われていたことがあった。

「一番大切な情報というのは何だと思いますか。」

何だろうと考えてみるが咄嗟には答えがでない。(僕の場合、思考はその場でパっと思いつくケースよりもノートやPCでテキスト化していく時にドライブする。)
石井先生の答えはシンプルだった。

「できる。できない。これが実はとても大きな情報なんですね。出来ないというのはマイナスに捉えられがちですが。出来ないということが証明されるというのは出来るということと同じくらい重要なんです。」

なるほどなあと思いながら、一拍遅れて。自分だったらどう考えるだろう。出来るか出来ないか。それも確かに重要なのだが少し違和感があった。僕にとって一番重要な情報は「未来」かな、急いでメモした。しかし、未来は理論的には知ることができない。ただ予想するだけである。ミクロの不確定性をそのままマクロに適応するのは間違っているけれど。

世の中を見てて、といってもオレがやってることといえば街を歩いて人をみたり、人と話したりしているだけなのだがそれでも多少は変化や温度くらいはわかるものだ。で、何を感じているかだが。

「未来」の風があんまりないな、と思った。

いったいこの世界でいまというこの時間を生きていて未来というものをイメージしている人はどのくらいいるのだろう?いるとしたらその人たちの未来はいつ頃なのだろう。明日とか来週、半年先、一年先、そのあたりなのだろうか。

10年前をちょっと思い出してみる。
何が一番変わっただろう。
大まかなところでは何もかわっていないがとりあえず待ち合わせの方法は大きくかわった。
携帯電話があれば場所と大まかな時間だけ決めておけばそれで人と待ち合わせることができるようになった。
これは大きな変化の一つだ。

あとは福岡にいく飛行機が劇的に安くなった。
他にはネットの回線が太くなって安くなってPCの性能がバカみたいに上がった。
髪のカラーリングが一般化した。
牛丼が安くなった。(いまは販売中止だが)

他にもいろいろ変わってるはずなんだけれど案外でかい変化はないのかな、と思う。

例えば日曜が無くなった、とか。
月が半分になった、とか。
自転の速度が上がって一日が12時間になった、とか。

そういう変化はない。
だいたいは人間の世界の変化だ。
それも表面的なものが多い。
いきなり「お金」というものが世界から消えてしまう、という人間世界の天地創造な現象は起こっていない。

これから数年で劇的な変化を迎えるものもあればそうでないものもある。
変化といったところでそのくらいのものなんだ、という気持ちで眺めてみるとなんだか物事がよく見えるようになった気がした。

投稿者 TKM : 00:38 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月21日

[雑記] いかりや長介氏死去 ~大学時代に一度だけ深夜にやっていたドリフの映画をみたことがあった~

夕方、うどんが食べたくなったので麺通団へ。
その後、矢坂さんと新しい事業プロジェクトについてもろもろ話す。
完成すればおもしろそう。

今年は車でも買いましょうかという話なる。
じゃ、何がいいかと二人で話す。
これがまたなかなか面白い。

「世の中にはクラウンが好きな人もいるんだよな。どんな人たちなんだろう。」

というあたりで話がじゃあPCは?という方向に。
PCって車に例えるとカローラみたいなのばっかりだよねという話で意見が一致する。
IBMはPCWatchのインタビューで「PC界のベンツを目指します」といっていたが。
だったらMacはフェラーリか。

本屋で隆慶一郎の作品を4冊買いそろえる。
やまけんに借りようと思っていたのだが「かくれさと苦界行」のインパクトが強かったのでさっそくファンサイトをつくることにした。日本一の隆慶一郎サイトを今月中に構築するか。

今日は仕事の予定だったがボツ。
「それってうれしいかうれしくないかっていったら、うれしくないじゃない。うれしいことしなよ。」
以前そう言われたことを思い出した。
女性は鋭い。

メッセンジャで「いかりやちょうすけ」さんが死去されたことを知る。
人は死ぬのだな、とぼんやりと思った。

iPodから聞こえるのは岡村靖幸の曲。
マッチョドラゴンはまだ入っていない。

投稿者 TKM : 06:35 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月20日

[今日の出来事] 「人間失格/太宰治」 ~リモコンが停止して呼吸が大きく乱れた朝とブリジット・バルドー~

昨夜は部屋に戻ってから太宰治の「人間失格」を読んだ。
文学が専攻だったのだが全くといってもいいほど文学作品とは縁のない研究をしていたのでこれまで読んだことがなかった。中学生の頃に読もうとしたがですます調が気になって読めなかった。

15年を経て読んでみた。
メインパートである主人公の独白記とそれを説明するもう一人の人物。共に主観で書かれているが全く異なる二つの言葉。視点が交差し、その対比によって全体がキチっとはまる。内容はなよなよした男の独白の体裁をとりながらも鋭利に人間社会の歪みをえぐり出す。読んでいてしばしば慄然とした。そこに自分の影をみつけたような気がしたからだ。

ところで「人間失格」を読んでいる途中。
僕はあまりにも眠くてリラックスチェアーで数分、虚ろに眠った。起きていたのかもしれない。意識は半分あった。iPodをつないだPC用のスピーカーからは矢野顕子の曲が聞こえていた。覚醒と眠りの狭間でうつらうつらしていた。ハッとなる。息苦しかった。ため息とも違う。空気を大きく吸い込もうとするのだが途中でつまってしまう。疲れから来ているのか睡眠不足が原因なのか体調は悪くないのだが呼吸は乱れていた。

Cebitについてのレポートをみて起きたかったので録画しておいたワールドビジネスサテライトを再生しようとした。ところがビデオのリモコンを押しても何も反応がない。電池の異常かと入れ替えてみるが依然、動きはない。叩いてみるが様子は変わらない。壊れたのか?

Gコードの入力にはリモコンが必要なので壊れたとしたら代替のリモコンをビックカメラで探してこなければならない。いろいろ試してみるが全くらちがあかない。あきらめて手動で留守録コールボタンを押し、直接本体の操作ボタンを操作して映像を早送りする。

リモコンをセンサーに押しつけてボタンを押してみるとゼロ~1センチメートルの距離だと再生や停止ボタンが機能した。どちらがイカれてしまったのか皆目検討がつかない。あきらめて「人間失格」の続きを読むことにした。

依然、呼吸は大きくみだれている。
それから少し長めの電話をした。

午前2時過ぎ。
TV画面には大好きだったブリジット・バルドーが出ている。
自分の脳裏にあるのはコートダジュールでジープを運転する彼女の姿。
画面の向こうで年老いた彼女がインタビューに答えていた。

それからアマゾンの研究をした。
このリモコンさえ動けばな。
そう思っていじっていると画面に映像が現れた。
リモコンは唐突に回復した。

僕の呼吸も回復していた。
猛烈にコロナが飲みたくなって外に出た。
近くのサンクスにだけライムリキッド付きのコロナがおいてある。
買い物を終えてドアをあけようとすると30代の男女が入ってくるところだった。
二人は少し酔っているように見えた。
ドアのところで女性に進路をゆずった。
すこしはにかんで彼女は「ありがとうございます」と言いってドアを開いた。
手元が少し怪しいのだろうドアがあきすぎて開け放しになった。
手でどうぞ、と示して彼女が店内に入ったのを見届けてからドアを閉めた。

部屋に帰ってきてiPodの再生キーを押し、メモのつもりで書き始めた。
そろそろ朝6時だ。

投稿者 TKM : 06:01 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月19日

[エッセイ] 井深さんありがとう ~音楽で変わる世界~

今日から宮崎の予定だったのだけれどまだ東京にいる。
飛行機がなかったので断念した、というのが理由の半分。
もう半分は秘密である。

昨日は急に寒くなって薄着ででかけたらから夜は寒くて凍えそうになった。
矢坂さんから借りた初期型のiPodを使ってみた。
久しぶりに外で音楽を聴いたら自分が映画の中に入り込んだかのような錯覚におちいった。
こんなにも簡単に音楽は世界を変えてしまうのだ。

音楽のある人生で良かった。
ウォークマンを発案した井深大さんへありがとうとお礼の言葉を書いた。

投稿者 TKM : 05:58 | コメント (0) | トラックバック

[本] かくれさと苦界行/隆慶一郎 ~痛快時代劇と物語のゲノタイプ~

やまけんに教えてもらった故隆慶一郎の傑作時代小説「かくれさと苦界行」を読む。
見たことのない日本の過去。
江戸・吉原の姿がぼんやりと浮かび上がる。
それは実在しない世界であり自分にはその時代の江戸や吉原がどのような姿だったのか皆目検討がつかない。時代劇の映像をベースに想像してみるが細部は曖昧なままだ。
しかしそれでも面白いものは面白い。

読んでいて気がついたことがある。
小説には二種類の小説がある。
文章が面白い小説。
文章は面白くないが物語が面白い小説。
(確か村上龍は穴に落ちる話と穴からはい上がる話と書いていたと思うが)

海外の小説について考えてみるとわかりやすい。
翻訳という変換作業の過程で作品の持つ情報の一部は失われる。
しかし核になる面白さは伝達される。

どうしてそんなことが可能なのだろう?
学生時代、僕はこの問題について考察し続けた。
そのベースにあったのは「秩序である言葉をもって何故に混沌であるところの心を言いあらわすことができるのか?」という問いだったけれど。

「かくれさと苦界行」を読んでいる時にぼんやりと大学時代に読んだ小説の事を思い出した。
アルフレッド・ベスターの「虎よ、虎よ!」である。この小説の翻訳は最低といってもいいほど読みづらく、読んでいて「ハァー」とため息をついた。しかしつまらないのかといえばこれが全くそんなことはなく面白い。じゃあ何が面白いのだろう。そう「話」が面白いのである。小説の持つ物語性、ストーリーの面白さなのである。

翻訳により言葉の持つ情報の一部が失われても文章が伝えようとしている核なる部分は全く同じ形ではないがある程度のズレを有した相似象として伝わる。僕はここに言語の本質を感じる。

先ほど「かくれさと苦界行」を読んでいる時に書いたメモである。

 「巧い言葉に価値はない」

ふと思い浮かんだのでノートに書き留めた。雑誌や本を眺めると巧い言葉が溢れている。上手だなあと感心する。しかしそれらの言葉で覚えているものはほとんどない。綺麗であり巧みだが次の瞬間には消えていく。反対に心に残る言葉の多くは独自の言葉である。巧みではない。しかし「響き」がある。

途中ボンヤリと考えていたのだが、これだ、と思ったのだ。
言葉は巧みである必要はない。
しかし響かなければそれは言葉ではない。
文字であり記号だ。

文章を考える時に記号性や構造で対象を規定しようとする考えもあるが僕の立場は異なる。
あんまり書くとフォルマリズムがどうのこうのという話になりそうだがそうした規定云々に関する議論をするつもりはない。僕の興味はそこにはない。言葉の可能性、面白さについての議論なら幾らでもつきあうがそれが何であるかとか正しいとか正しくないという議論はおよそ意味がない。それらは議論の為の議論であって僕とは目的が違う。僕の興味は言葉の面白さであってカタチではないし、そもそもそのカタチも自分ではない誰かが考えた借り物の知識でしかない。

僕のコンテンツ論の中核をなすのはこの思考だ。
フェノタイプとゲノタイプという枠で捉えない限りコンテンツの本質は見えてこない。
コンテンツはフェノタイプとしての面白さとゲノタイプとしての面白さの二つの面白さがある。

「かくれさと苦界行」からだいぶ脱線してしまった。
読後感について触れておきたい。

終盤近く、登場人物達がそれぞれの道を歩み、解脱というべきかそれぞれがそれぞれの姿を知り、世界を開いていく様は読んでいて涙が出そうになった。小説っていいな、言葉って可能性があるんだな、と思った。読んでいるのは文字の塊である。そこから鮮やかな世界がたちあらわれる。時間の流れがあり、人物はそれぞれ自律的に生活している。それらの相互作用の所産として物語が描き出される。優れた物語は物語のぎこちなさがない。それは書かれたというよりも世界が勝手に動き出し、描きだされた軌跡のようなものである。

ハリー・ポッターが世界中で読まれたのはあの作品に含まれる物語としてのゲノタイプが優れていたことの証であろう。あらゆるコンテンツに共通するゲノタイプのパターン。と、ここまで書いて思った。アートにもアートのゲノタイプが存在する。

++++++

ブログは日記や記事、雑感を書くには適しているがこした考察のまとめには全く不適切な手段だといま感じている。手段が思考に与える影響は小さくない。ブログには結論は存在しないし、ある問題について思考を深めていくような書き方も難しい。

投稿者 TKM : 05:38 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月18日

[エッセイ] カリブに浮かぶ電子カジノの島々とStarSuite 7

電子ギャンブル」とはなんとも古めかしい呼び名だなと思いながら記事を読んだ。

日本や米国などでは賭博は国の管理下に置かれ公にギャンブルを行うことは禁じられている。
しかしカリブ海の小国では事情が違う。
多くの業者が会社を設立しネットワーク上で「ギャンブル」を行うサービスを展開している。

歪みを利用したビジネスである。
似たような構造はアダルトサイトにもみられる。
日本国内で営業しているサイトの場合はモザイク処理を施した映像を利用しなければならない。これに違反すれば違法となり犯罪と認識される。ところが国が変われば事情も変わる。例えば米国の場合はアダルトソフトへモザイク処理を施す規制がない。だから多くの業者は米国に会社を設立し日本向けにサービスを提供することでモザイク処理のなされていない映像の配信サービスを行っている。日本国内では視聴不可能な映像がインターネット経由で普通にやりとりされているのだから国内のサービス事業者は勝負にならない。いまだにインターネットの世界でコンテンツ課金事業として成立しているのはアダルトサイトとオンラインカジノ
だけだと言われている。

両方ともある国では違法だが別な国では違法ではないという制度の歪みを利用したビジネスである。
例えばの話だが著作権を認めない国が登場すればその国ではソフトウェアが定額配信される、というビジネスがはじまってもおかしくない。そんなものあるわけがない、と思いたいところだが何が起こるかはわからない。規制されているとはいえソフトウェアのコピーは現実に存在する。アジアの街角にいけば現在上映中の映画のDVDも販売されているし、50~100万円分くらいのソフトが入ったCD-ROMが500円前後で店頭にはならんでいる。

そこでアクティベーションと呼ばれるライセンス認証を導入し不正なコピーを防止しようとする動きが強まっている。マイクロソフトのオフィスXPなどはこの方法が導入されている為、無制限にソフトのインストールを行うことはできない。

しかしソフトウェアのコピーが問題になる背景として一部ソフトウェアの高額化という問題がある。フォトショップやディレクターといった業界標準ソフトの値段は10万円を超える。個人が気軽に購入できる値段ではない。そこで発生するのが「コピー」である。会社などにおいてあるソフトを自宅のマシンにインストールする。CD-Rが一般化した為、コピーが安易になったことも一因だろう。

そう考えると書籍というメディアは実にコピーに手間のかかる媒体であることに気づく。コピーする手間を考えたら買った方が安い。

幾らくらいならソフトを購入してもいいと感じるのだろうか。
音楽CDの場合は代替3000円前後で販売されている。DVDやゲームソフトは4000~6000円くらいが中心的な価格帯だ。PCのソフトはこの幅が異常に大きい「無料~数百万円」という値段の幅がある。数百万円のソフトでもコピーは可能だし店頭で販売されているソフトと同等の機能を持つソフトがフリーウェア(無料ソフト)として公開されている場合もある。

ソースネクストは1980円という低価格で多くのソフトを販売している。最近発売されたStarSuite 7
はマイクロソフトオフィスとの互換性を持つオフィスソフトパッケージだがこのソフトも1980円という低価格で販売されている。この値段であれば試しに買ってみてもいいかなという気分になる。(StarSuite
の場合ソフトのマニュアル本が2500円と高額となっているあたりが面白い)

ソースネクスト社のHPをみると「パソコンソフトを1,980円にする理由」が書かれている。

年間に2億枚が購入される音楽CDに対してパソコンソフトは1500万枚足らず。再生(インストール)ハードウェアの世帯普及率は60%とほぼ同数だが販売されている本数は大きく開きがあある。
その原因はパソコンソフトの価格設定にあり、ソフトの販売本数全体を増加させ「ソフトを買う」ことを一般化させる為には低価格で良質のソフトが提供されなければならない。

そこでソースネクスト
社はパッケージのスリム化、マニュアルの電子化、ウェブによるサポート体制、大量生産などの合理化手法で1980円という超低価格化を実現した。

こうした低価格化の流れは今後も加速されると考えられる。
その背景には先ほども触れたようにフリーウェアとよばれる無料ソフトの存在がある。

++++++

ブラウザやメールソフト、メッセンジャーなど最も利用頻度の高いソフトは無料である場合が多い。
「良いモノは高い」より「良くて安価・無料である」が本来向かうべき方向だと僕は思う。

投稿者 TKM : 18:52 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月17日

[エッセイ] K-1石井館長の独白を読む@文藝春秋

明け方のローソンで今月号の文藝春秋を立ち読みした。
パラパラとめくっていたら「ン?」と手が止まった。
真ん中より後ろのあたりだろうかK-1石井館長の独白記が掲載されているのを見つけた。

驚きのあまり一気に読み漁る。
ふむふむ、なるほど、ウーン。

興行の世界はいまだ情念うずまくドロドロの人間模様。
選手や観客の為ではなく運営者のエゴに左右される健全とはほど遠い場所だということに唖然とする。
いまだにこれなのか。

リングサイドの怪しげな面々の正体が少しわかった。
百瀬博教
氏があそこにいるのも合点がいく。(氏の著書はほとんど読んだ。格闘技ファンならば必読である。)
人界の魔界とも言える興行世界で跳梁跋扈する生霊と相対するには半分こちらも川を渡らなければならないのだ。

政界、財界、界な場所には怪がある。


投稿者 TKM : 08:22 | コメント (0) | トラックバック

[雑記] 切込隊長/山本一郎さん ~コンテンツについて書かれたテキストでこんなに感心したのははじめてだ~

うーん、うなってしまうくらいに素晴らしい。
切込隊長こと山本一郎さんの「コンテンツについてのエッセイ」を読むと「コンテンツ、コンテンツ」といっている人々の胡散臭さ、考え方や底の浅さが実感できる。

本当に力があって国際的な競争力のあるコンテンツプロバイダー、コンテンツクリエイターは黙ってやっている。
メディアに露出し不平やら不満をいっている、人ほどコンテンツ感覚、格闘技でいうならば「旬」を過ぎたブヨブヨのレスラー状態。すでに遠き落日の人々である。

投稿者 TKM : 08:07 | コメント (0) | トラックバック

[コンピュータ・ネットワーク] インタラクション2004 全てはナイトライダーへと向かっている

インタラクション2004というインタラクティブシステム全般をテーマとした国内最大規模の国際会議が行われていたことをさきほど知った。(MYCOMはこの手のアート&インターフェイス関連のイベントのレポートが多く文章もわかりやすい。ニュースリリースをそのままリライトしたような記事が多いインプレスのPC Watchに比べるととても好感が持てる)

紹介記事をみているといくつか興味深い研究があった。

特に気になったのは「ミュージックテーブル」。この作品(研究)は今後のコンテンツ、エンターテイメントの一つの可能性を示唆しているように思う。

本来の「遊び」と現在の「ゲーム」とは別のものである、というのが僕の考えだ。
僕がゲームをしなくなったのはファイナルファンタジーがPlayStationに移籍した頃だがその時期を境にソフトの方向性が大きく変わっていったように思う。ゲーム性よりもストーリー性、アクションよりも映画性の強いものが主流になり、「遊ぶ」というよりも「観る」あるいは「読む」という感覚の方が強い作品が多くなった。

そうしたストーリー性を楽しむことを目的としたゲームは一つのジャンルとして成立していていいわけだが物語がタイトル毎に新しくなっているだけでは体験的な「新しさ」はない。

一部のゲームソフトでは専用のインターフェイスを用意することでゲームに物理的なインタラクティブ性を持たせ、身体で感じる面白さとソフトによってつくりだされるゲーム性を融合をさせているがまだ数は少ない。

コンテンツとして具体的にどういうものがありうるのかを現段階で明確に言い当てることはできないがある種の閉塞状態にある「ゲーム」というエンターテイメントプラットフォーム・メディアがもう一段階進化する可能性はソフトによるゲーム性の拡張や物語性の開拓ではなくミュージックテーブルのような実在するモノと仮想空間の融合といったモノとソフトの接点にあるのではないか、というのが僕の考えである。

他にも慶應大学安村研究室の研究事例をみてみると研究というよりもメディアアートに近い印象を受ける。内容は穏やかだが既存のコンピュータのインターフェイスの問題を指摘されたようでハッとなった。

これは大きな流れなのだと思うのだが、通常、僕たちはPCの違いを主にデスクトップ(マシンという意味ではなくGUIの意味)の違いで判断している。しかし、今後のPC、コンピュータが発展していくときの主流はそうした画面の中(GUIやOSといったもの)の発展ではないと思う。コンピュータのコンピュータらしい部分がどんどん隠れていき、より物理的なインターフェイスによってPCが活かされるようになる。

理由はその方が楽しいからである。
Mac、Win、UnixなどいろいろなOSがあるがどのOSもGUIをつかったオペレーティングシステムへ向かって発展してきた。これは大きな流れである。

同じようにコンピューティングの次の大きな流れはOSそのものではなく物理的なモノとのつながりにある。といってもOSやGUIやPCが消えるわけではない。それらは消えないがインターフェイスが変容していくのだ。これは大きな流れでありネットワークの台頭と関係している。

しかし、現行のユビキタスのイメージは僕のイメージからはズレている。その理由は楽しくないからだ。僕たちが欲しいのは「@便利」や「高性能」ではない。

食糧難だったら「週に一回ちょっとだけだけどすごく美味いものが食べられる」よりは「あんまりうまくないけれどとりあえず毎日好きなだけ食べられる」の方が価値を持つ。

しかし、食料が溢れていれば「より美味しいもの」でなければ心惹かれることはない。
コンピュータはもうその域に来ている。
面白さや楽しさを感じるかどうか。
より速いコンピュータではなく、より「面白い」コンピュータが求められている。
そしてこの場合の面白さはソフト的なものではなく体感に近い。

携帯とネットの親和性など、そうした傾向の現れだと僕は思う。
中身はかわらなくても使われ方が変化するのである。

いろいろな場所でそれが起こってくると思う。
車の中だって変わるはずだ。
コンピュータ・ネットワークというと携帯やPDA、家電レベルでもTVや電話、PCなどがメインキャストに思われがちだが案外、車という場所が変わるかもしれない。ナイトライダーの世界はもはやまるきりの非現実ではないのだ。

何がどうかわっていくかはわからないが成熟期を迎えた分野が向かう方向性としては物事は便利さではなく身体が感じる「面白さ」に向かっている、というのが僕の考えである。

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2004年03月15日

[エッセイ] 確定申告場にいったら人々がまいっていた

タドのブログで確定申告完了宣言があったのをみてようやく、ほんとうにようやく昨夜遅くにスタートし朝に完成。最近はネットで数値を入力すると申告書を出力してくれるサービスがあるのでそれを利用した。実に便利だ、といいたいところだが「ちょっとまてよ」と考えた。


何故、確定申告が面倒くさいのか。
そこに問題の本質があるはずだ。
こうしたサービスは確かに便利だが負荷が軽減した気分になっているだけで本質の部分は何も変わっていない。実際に集計をやってみて何が面倒の理由かをよくよく考えてみた。領収書やレシートの類を集めると小山のようになる。これをみると作業が物理的な量として把握されるので、この時が一番陰鬱な気分になる。
どの個人事業主も同じ体験をしているはずだ。

そこで思ったのだが請求書やレシート。
これらが定型フォーマットになっていればどうだろう。
単純に形が一緒とかそういうことでいいのだが。
例えば請求書の整理で一番簡単なのはパスネットの集計やJRの領収書の整理である。これらの領収書はほとんど定型化されているためぱっと観たときの心理的な負荷が低い。また定型であるため整理するときの物理的な利便性もある。

とここまで書いていて気づいたがこんな作業をしているのは自営業者だけでほとんどの人はサラリーマンだから年末調整で会社がやってくれるからこうした作業とは無縁の月日を過ごしているのか。僕たちにとっては便利だが圧倒的多数の人々にとって領収書やレシートがどんな形状であろうと無関係なわけだ。

確かアメリカでは事情が違ったはずでみんな確定申告をしなければならないから、それでインテュイットやMSのMoneyのようなソフトの市場がある、というような話をどこかで読んだが忘れた。

そうだ話は変わるが成功本を立ち読みすると奇妙な共通点があった。
「私は現金しか持ちません」や「お金持ちはカードをつかいません」という記述が共通していた。
海外にいったらカード使わないのだろうか。

話がそれた。
領収書の整理だが最近はほとんどの人がエクセルなどの表計算ソフトや会計ソフトを使っていると思う。けれどこれらのソフトを日々たちあげて整理するというのはどうしても面倒である。何かがちょっとした何かがズレているのだろう。

申告書を提出にいったら月島の出張所で大勢の人が必死に計算をしていた。
何故、PCを並べて入力指導をしないのだろうか?
おばあさんやおじいさんが計算機を使ってその場で計算しているのだが国税庁のHPのサービスを拡張し、PCの素人にもわかるようなインターフェイスを追加してあげればいいのに。

この問題については今後、大きくなっていくのだろう。

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[エッセイ]コンテンツと時間の関係について考える

ICCでおこなわれた「マンガを読むときの視点移動」についての調査報告をきいた後でマンガ作家の金子とデジタルマンガについて話し込む。

金子が世界一周の旅にでていたとき、携帯していたPalmで夏目漱石の「こころ」を全部読んだことがある、といっていた。段組、フォントなどは苦にならなかったといっていた。逆にページをめくるのにも片手で読めるから快適であったそうだ。

Palmのインターフェイスで漱石を読むとどのようなことが起こるのか。
金子の言葉を借りると

「本てフォントが小さくてページの右上から左下までビシーっと字が並んでいるとウー、と陰鬱になるけれどPalmだと一ページに表示される量が少ないのでこれなら読めるやという意識になるんだよね」

この指摘はとても興味深い。自分も本を読むときに同じような精神的「重し」を感じることが多々ある。見開きの本でビッシリと字がつまっていると同じ文字数を読むのにかかる時間は同じでも主観的な時間感覚は随分違う。また、ストーリー性が時間感覚に与える影響も興味深い。

面白いことをしていると時間が過ぎていく。
興味のないこと、つまらないこと、つらいこと、をしている時間は長く感じられる。

コンテンツを考える時、面白いと感じるかどうかはほぼ主観にゆだねられるので評価を数値化することは難しい。この時間感覚にしても主観的な時間感覚であるからどうしたら指標として使うことができるのかはまだまだ研究しなければならない。しかし可能性は感じる。インプットだけでなくアウトプットも含めあらゆるコンテンツ体験は自分が体験しなければ面白さを感じることできない。そこで一つだけ共通しているのはコンテンツの体験においては全ての人が「時間」を使うということである。

時間によるコンテンツ評価方法。
その手法がありうると僕は考えるのだ。

++++++

ゲノタイプ(面白さの素)とフェノタイプ(表現形)という視点はデジタルコンテンツを含め様々なコンテンツについて考える手がかりになる。ゲノタイプとしてのコンテンツ性がまず最初にあり、その面白さを引き出す為にフェノタイプが生成あるいは選択されるのが本来あるべきコンテンツの姿である。

良質なコンテンツはメディアの違いとは関係なく、ゲノタイプとフェノタイプの関係性のバランスがとれている。

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2004年03月12日

[エッセイ] 伝える言葉

シャワーを浴びながら考え事をしていた。
以前、このサイトに対して酷い中傷メールが送られてきたことがある。

曰く、「ふざけるな。何が言葉だ。言葉で生きれるか。肉体が必要だ。死ね。元気になったかバカヤロウ。」というような文面であった。

その時はかなり嫌な気分になったが幾度もみてしまうと言葉が頭にこびりついてしまうので即座にデリートさせてもらった。送信者が言いたかったことはなんとなくわかるが作者である自分の意図を勝手に理解し、自分で感情が整理できないからといってこちらに八つ当たりをするのはやめて欲しいものだ。子供の癇癪と似ている。

この手の誹謗中傷メールは露骨に本音、悪意をぶつけてくるので読むと毒に当てられた感じになりこちらまで気分がムカムカし、敵意を抱いてしまう。この間の「本音とか本気をぶつけられるとざわっとする時がある」という愼之介のコメントを思い出した。

確かにそうなのだ。むき出しの本音には悪意や敵意と同質の生々しさがある。「ざわざわ」する。これは何なのだろう。人の想念、あるいは言葉なのだろうか。ベトっとしたネメリのような感覚である。

そうした「ざわつき」が生じる理由についてさっきふと思いついた。
彼らには伝えたいものがある。しかし、彼らは「伝える言葉」を使っていないのだ。
だからドロドロとしたざわつく感覚を生じさせる。

相手に伝わる言葉を使わなければ、伝える言葉を使わないから、想いが変質してしまう。
「もののけ姫」の祟り神を思い浮かべて欲しい。

伝える言葉を使わないと想いは歪み別なものに姿を変えてしまう。

それが批判であってもいいし、自分は嫌だと感じたということでもいいのだ。
ただ、それを「伝える言葉」で伝えないと想いは化け物に変わってしまう。

恋愛という関係性で人は想いと想いを交換し、ぶつけあう。
しかし、愛憎という言葉が示すようにどんな想いも相手に伝わる言葉を使わなければ想いは悪意や敵意に変貌してしまう。おそらく感じる心はかまわないのだ。感じることは感じることだからそれ自体はプラスでもマイナスでもない。それが言葉への変換時に変貌してしまう。

伝える言葉の使い方。
それは言語に限らない。
振る舞いや人との接し方。
全てにおいて「伝える言葉」は存在する。
そして人の世界にはそれがもっとも欠けている。

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[エッセイ] 歪んだ世界に生きること

わからない

「大人の心ゆがんでる」学校長ら 高崎・女児殺害


朝日コムで事件を知った。
小学生の友達が何人かいる。
真っ先にあの子達の姿が浮かんだ。

記事を読んでいて悔しい気持ちでいっぱいになった。

自分の都合しか考えていない人。
自分より弱いものを傷つける人。

強く強く憤るがこの怒りは犯罪の本質にある「逃げ」に対する怒りだ。

問題の本質はどこにあるのか。
何故生じるのか。
物事は相互作用の所産ではあるが全くの無秩序によって生じた今ではあるまい。
関係性が渦まく混沌の宇宙にも理由はある。

何故?

何故、彼女は殺されなければならなかったのか。
何故、青年は少女を殺さなければならなかったのか。

何故、人は人を傷つけるのか。

何故?

何故、犯罪が起こるのか。
ケース別に考察することはできる。
しかし、それでも永遠に「何故」なのだ。

これは僕の心証だけれど「ルール」、「規則」と「怒られる」という言葉が強く迫ってくる。さっきはわからなかったが憤りの理由は「逃げ」から発生した安易さによる犯罪への悔しさである。

影にあるのは欲望とか抑圧とかそういうものじゃなくてもっと単純なことで言葉というかコミュニケーションというか。ズレがもとにあってそれが相互作用と時間の中で反復増幅されていまがつくられていて、そういうのを全部どこか一点に還元することはできないのだが、やっぱり開けていないというか、オレもそうだし、他の人もそうだけど、伝えられないという状況がある。

自分でも怒ったり「コノヤロウ」と思うことが多々あり、それはどこからきているかというと「自分はこうなのにどうしてそれがわからないのだろう、いやわかるはずでなんでわからないんだコノヤロウ」となる。けれど、じゃあ、それをあなたは伝えたかといわれれば伝えていない。

何故伝えないの?
そういわれて考えてみる。
そう、伝えることは「コワイ」のだ。

正確には伝えることがコワイのではなく伝わらないような気がしてコワイのだ。
どっちが先なのか。
伝えようとすることが先なのか。
それとも伝わってあげることが先なのか。

いずれにせよ世界の問題の一部は確かにここに存在し、いまだ解決はできていない。

++++++

ズレていたもろもろは少しづつ軌道修正され、振り子が戻るように一点に向かっているのだ。
と、思う。
いろんなことの関係性がじわじわと。

投稿者 TKM : 15:46 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ] 無人島でボンバイエ

久しぶりに髪を切った。
短くしたので昨日までとは大分感じが違う。
内面のモードも切り替わり、攻性になった。

気持ちに勢いがあると同じ風景でも違ってみえてくるから不思議だ。

どうしてもうどんが食べたくなり矢坂さんを誘って新宿の「東京麺通団」にいった。
その後、久しぶりにしたたかに飲む。

オリオンビールが飲みたかったので駅近くのダブリナーズから西新宿5丁目まで歩いた。
夜風は適度に肌寒く酔い覚ましに丁度いい。

ダブリナーズで酔っぱらった外人が矢坂さんに「i respect japanese」と言い寄ってきたので早々に店を出た、というのが真相ではある。それはともかく道中でタドに電話してみると仕事が一段落したとのこと。3人で飲むのは久しぶりだ。

西新宿5丁目の沖縄料理屋は驚くほど良心的な値段、おそらく歌舞伎町の4割引きくらいの値段で家庭的な翁料理が楽しめる。オススメである。そしてビールもおいしく、店の女の子は気さくできもちがいい。更にかわいいとくれば勢いビールも進んでしまう。久しぶりにいい酒席だなあ、と思った。

この間やまけんにつれていってもらった川崎のペルー料理屋や門前仲町の気の置けない店、オーナーの味がしみ出しているような神田界隈、銀座の店が好きだ。

基本的に人混みが嫌いなのである。
先日、藤田さんに連れて行ったもらった代官山の焼鳥屋も良かった。焼鳥屋では必ずぼんちりを頼む。渋谷の鳥竹のぼんちりのダイナミックさが好きなのだが代官山で食べたぼんちりは「焼き」の感じが絶妙であった。大きめの肉でないとぼんちりは食べた気がしない。しゃれた焼鳥屋だと肉がこぶりでこじんまりしていて全く焼き鳥の醍醐味がない。小綺麗ではあるがうまくはない。

ほとんどのダイニング系の店がこうした「小綺麗だがうまくないもの」を出す。それをおいしいといって食べている人がいる。不思議である。あれは美味いだろうか。まずくはないがうまくもないと思う。

話がそれた。
そんなわけで昨夜はしたたかに飲んだのである。

某R社につとめる友人と週末にあうといっていたので伝言を頼んだ。
メールをしてもメールバックがないのではてなと思っていたら彼のメールアドレスは譲渡されていたらしい。
うなるほどお金を持っているのだから独自ドメインくらいとればいいのに。

そう、これも不思議なことだがお金はもっていても多くの人はドメインをとろうとか自前でメールを持とうという人が少ない。非常に興味深い。以前は日本でレンタルサーバを借りると一月に5000円くらいかかったのだがいまは年間でドメイン料込みで「3770円」である。ビールに換算すればダイニング系の店のレートを適用したとして5杯分。ビール5杯と200Mバイト、CGI自由、PHP、DBなどなど込み込みのサーバが年間使い放題なのである。

このサービスがそれだ。
初心者でも安心なレンタルサーバー。200MBで250円から。CGI・SSI・PHPが使えます。

これを使わずして何をつかうのか、と思うわけなのだが。
不思議なことに世の人々はメジャープロバイダの用意するどうしようもなくパフォーマンスの悪いサービスを選択する。世の中のビジネスの多くはこうした情報の不均衡を使って行われているのだろう。

上記のロリポップのサービスについてはサイトをみてもらえばわかると思うが自分でももう半年以上使っている。実際に使っていて感じるが日本のレンタルサーバでこれほどパフォーマンスの良いサービスは存在しないと断言できる。対応の早さサービスの充実度は会社の勢いとやる気を感じさせる。

やる気と勢いは人の気分を良くさせる。
やまけんなんかがそうだがやる気と勢いのある人と話をするとこちらにもそのパワーが伝染してくる。逆に満員電車のネガティブ空気にあてられると自分の力が吸い取られるような時もある。

たまにしか乗らないのでよけいにそう感じるのかもしれないが都会の電車は「ヲワッテイル」。
まあ生活しているといろいろな場面で「バカヤロウ」とか「なんでこんなところにいなきゃならねーんだ」とか理不尽に直面するわけだがそんな時は池波正太郎の「男の作法(新潮文庫)」にあった言葉を思い返すようにしている。

「どんな出来事も男のみがき砂」

すぐに切り替えられるわけではないのだが少しづつ思考のトレーニングをしていくと。
物事に文句を言いたい場面でもそれをどうやったら「みがき砂」にできるか。
それを考えられるようになる。

そんなこんなで曇り空の今日に思うのは。
「肝っ玉」。
そして過去に引っ張られることほど無駄なものはないな、と思うのである。

人生「一事が万事」。セコく生きればセコくなり、気持ちよく生きれば気持ちよく。

物事なんてのは実は大したことはないのである。
大切なことは大切に。
小事に惑うことなく気持ちよく生きる。
これだろう。

繰り返しだが思ったよりも物事なんてのは実は大したことはないのである。
人の好き嫌いとか物事の好き嫌いとかいろいろある。
しかしまあ大事なのは無人島思考(勝手にそう呼ぶことにした)というか。
いまかかえている問題やら悩みなんてものは果たして無人島にいってもついてまわるのだろうか?
そんなものだと思うのである。

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2004年03月11日

[エッセイ] 日本の映画は35本でつくられる

久しぶりに「もののけ姫」のDVD を再生しながら部屋の片づけをはじめた。戸棚の中に入っているガラクタを床に広げて選別していくのだがこまごましたガジェットはなかなか片づかない。

ほこりのせいだろうくしゃみも止まらない。
外はものすごい風である。
明け方からガタガタとガラス戸が鳴っている。

「もののけ姫」はもう5回くらい観ている。
こうして何度みても飽きるということがないのはそれだけ様々な想いが織り込まれているということなのだろう。今回は音楽と映像の関係について考えさせられた。

この映画にこの音楽がなかったなら別な映画になっているのだろう。音が感情のある部分を呼び覚まし、映像がそれをドライブする。また、映像が音楽の余韻を増幅させる時もある。

宮崎アニメにもカタチがある。
物語のカタチというのだろうか。
典型的な物語のパターンではあるのだが幾つものパターンが織り込まれている。
それらが組み合わさり大きな流れをつくり出す。

現在日本で公開されている映画の本数は約300本。
全体での興行収益は550億円。
しかしそのうちの500億円は上位35本が稼ぎ出す。
更に230億円はアニメーションの収益である。

ということは残り250本の映画の収益は90億円。
構造的な問題なのかそれとも作品の問題なのか。

映画はコンテンツの代表だがその華やかさには影がある。
死屍累々、無数の残骸が横たわる。

ところでTVやCMはそれがどんなにクオリティの高いものであっても一過性であり放送後には消えていく。
映画は残る。

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2004年03月10日

[エッセイ] 成功本と狂牛病

本屋にいくとやたらと目にする成功本。
よく考えてみればわかることだがこれらの本の内容はゴールドラッシュの頃の格言。

「金を掘るのではなく採掘者相手に商売をしろ」

という考え方にそっくりである。
本のコピーや目次の内容が面白いくらい似通っているので本屋で何冊か選んで読んでみた。
どの本もだいたい30分くらいあれば読み終わる。

本に書かれている内容はほとんど同じであった。
ロバート・キヨサキの「金持ちおじさん」シリーズと構造は似ている。何をどうすればいいか、自分はどうしたか、自分の仕事は何か、ということに関しては一切触れられていない。当たり前である。具体的な方法は状況によって全く違うのだから統一見解などあり得ない。だから心構えや考え方についての解説がメインである。そしてこれが最も重要な点だと思うのだがえらく「耳障りのいい言葉」が羅列されている。読んでいるうちに段々と世界はバラ色でなんでもできそうな気分になる。しかし、少し冷静に考えてみると著者達は何一つ実体のあることをしていない。

彼らは何をやって生活をしているのだろう?

そんな疑問がよぎるわけだが構造は単純だ。こうした本をまず出版する。これらの本は商品ではない。プロモーションツールである。本を出すことで肩書きができる。これをツールとしてつかい集客を行いコンサルティングや講演をおこなう。もとがただなわけだから全部が全部利益になる。講演の場合は多数を相手にするからトークx人数で収益は増える。更にこの構造の解説をビデオやCDというカタチに落とし込み高額で直販販売する。これらの商品は大体2~3万円である。

ハリウッドの名作映画のDVDは2000~3000円程度で買える。金額的には成功法ビデオの10分の1である。

成功本や成功ビジネスのからくり、というほどのからくりではないがこうしたビジネスは狂牛病のように見えて仕方がない。「カイジ」風いうならば「喰い合い……」。

しかし、こうしたしたビジネスが台頭してきたのにはわけがあるはずだ。成熟という言葉は使いたくないがモノはある程度溢れてきているのは確かだし、あんまりやりたくないことでもやればとりあえずは生活できるという状況があるのも確かだ。
そこに目をつけて成功本モデルでは「やりたくないことならやらないでいいんじゃない」というような言い方をするわけだが世界というのは相互依存で成り立っているからみんなが一斉に「じゃ、やめた」というわけにはいかない。例えば人がやりたくない仕事はロボットか何かが代替してくれて、エネルギーはフリーエネルギーで無尽蔵。食糧問題ももう解決。食とエネルギーはもう心配いらないよ、というような状況ならわからないでもない。

しかし、現実はまだそこまでいっていないからワリを食う人々が発生する。
どこかにしわ寄せがいくわけだ。
成功本にはこれがすっぽり抜けている。

いや、違うな。
それはいいのだ。

とりあえず構造の歪みには目をつぶって、まずは、豊かになったもん勝ちですよ、そこから先はその後に考えましょうよ。というスタンス。社会進化論そのままだが理解はできる。社会というのは歪んでいてでもその歪みはレバレッジみたいなものでそれを使ってグイングインと前に進んでいくんだよということだろうか。

そのカタチはカタチで理解はできる、しかし、それは確率的にたまたまそこにあるだけで、それがそれであることは絶対的ではない。現実というのは錯視のようなもので、Aは同時にBでもある。

ゲノタイプな部分で感じる違和感はこういうことだろうと思う。

(成功本そのものが社会との関係性を前提としているから無人島では全く無意味だ、というあたりがどうにも違和感を感じる理由である)

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2004年03月09日

[TV] SMAP×SMAP(スマスマ)/チョナンカン 丸山圭三郎を読む~「はじめに言葉ありき」

草なぎ剛さんはチョナン・カンという名前で韓国で活躍している。最初にフジTVの深夜枠でやっている「チョナン・カン」という番組をみた頃はまだ芸能人が片言の韓国語を話しているバラエティ番組、という程度の認識しかなかった。番組では様々な企画を試みるのだがそれらが空回りしている感が強く痛々しかった。

ところが一年を過ぎたあたりから様子が変わってきた。
時々目にする程度であったがそれでも韓国語でのインタビューを聞いていると随分すらすらと話している。「へー、流暢に喋るものだな」と感心した。するといつの間にか全編韓国語の映画までつくるようになっていたのでとても驚いた。

以前、「黄泉がえり」のプロモーションとして情熱大陸で彼が取り上げられた時にはじめて草なぎ剛という人だけを長々と画面でみた。あたりまえだが収録中とは異なりそれほどたくさん話すわけでもなく生真面目に仕事をこなしていた。

その時も韓国語の勉強をしている場面があった。
僕は言葉を学んでいる人をみると尊敬の念を抱く。何故か知らないが応援したくなる。一人でやらなければならないところが陸上競技に似ているからかもしれない。自分のやりたいように練習できるので陸上競技は好きだった。

言葉を学ぶことは自分と向き合うことだと思う。
僕は高校3年の春までほとんど英語の勉強をしなかった。授業ではそこそこについていけたがそれは田舎の高校のそれであって英語が分かると言えるほどのものではない。英字新聞は読めないし、たまに外国人の先生がきても話すことはなかった。

が、友人の紺野君の一言で5月のある日から英語の勉強を始めた。
やり方は簡単で前年の大学入試の過去問が全部掲載されている過去問集を片っ端から解きはじめた。特に超長文と呼ばれる問題を使っている大学から優先的に解いていった。とりあえず一日に一校ずつやっていった。知らない単語に赤丸をつけて解いていったのだが最初はほとんど真っ赤だった。かなり辛いが充実した解答もついているので参考書としては最高である。それまで質問などしたことがなかったのに次の日からいきなり職員室にいって細々質問した。そんなこんなで夏休みを終える頃には数だけはかなりの入試問題を解いた。なんとなくリズムがつかめてきたなあと思った頃。休み明けに模試を受けたら偏差値がいきなり30くらい上がっていたので驚いた。

その頃から英文が読めるようになった。話す訓練は全くしていなかったので会話はやり方がわからなかったが書かれた文章は大体理解できるようになった。5月にはradioactiveをラジオ放送だと思っていたくらいだからかなりの進歩だ。

それと平行して何気なくいろいろと書くことが増えた。いまと違ってネットがなかったから自由に発表する場所はなかったし、そんな気もなかったけれど。まあそれはいいとして言いたいのはこうだ。僕がいろいろ書くようになったのは英語を勉強しはじめてからで、辞書ばかり引いていたので逆に日本語の熟語をいろいろ覚えた。それまでは言葉の使い方もいまいち曖昧だったのだがわからない言葉があったら辞書をひくということをやりはじめた。学校と家とに3冊づつ辞書を置いておいた。言葉について敏感になってくると日々の事象の様々なことに対して考えるようになった。物事について考える時に関係性という視点で見つめる、ということがなんとなくできるようになってきたのだと思う。

それもなにも全て言葉を勉強するようになってからのことである。
昨夜の草なぎ剛さんの勉強風景をみていたらふとあの頃のことを思い出した。

言葉を学ぶ人の姿は一人黙々と汗を流すアスリートの姿と重なる。
映画や小説は自分で観たり読んだりしないかぎり楽しむことはできない。
言葉の面白さも自分で学ばなければ得ることはできない。

昨夜、随分前に買った丸山圭三郎の「言葉とは何か」(夏目書房)を読んだ。

「言葉はそれが話されている社会にのみ共通な、経験の固有の概念化・構造化であって、外国語を学ぶということは、すでに知っている事象や概念の新しい名前を知ることではなく、今までとは全く異なった分析やカテゴリー化の新しい視点を獲得することに他なりません」

という一文に赤線が引かれていた。言葉を学ぶことはのっぺらぼうで連続体である世界を不連続体に切り分けていく能力である。例えば最初は一続きの音でしかない外国語が学ぶにつれ意味を持って地と図の関係になっていく。言葉を学ぶことは別なパースペクティブ(世界観)の獲得であり、パラレルに世界を認識する最良の方法なのだと思う。

チョナンカンとチョナンカン以前は同じ個人だけれども世界を捉える視点は前と同じではない。そこに広がるのは、新しい言葉というもう一つの視点を獲得したことによって生じた別のパースペクティブであり、同じ世界が多元的に見えるという新たな経験なのだろうと僕は思う。

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2004年03月07日

[映画] イノセンス/押井守 これは映画ではない

TVや雑誌でイノセンス
」のプロモーションを目にする機会が急に増えた。
公開初日の昨夜はプロモーション用の特別番組も放送されていた。

恵比寿でプロデューサの石川氏と浜野保樹氏の対談が行われていたので聞きに行った。
対談がはじまると石川プロデューサは映画「イノセンス
」について語り始めた。

「イノセンス冒頭の球体関節人形の瞳に映し出される映像。押井守がこの映画であらわしたかった全てがそこにあります。押井さんによればそれは劇場の大スクリーンでみてどうにか判別できるくらい、それも10回みて1%の人がようやくわかるくらい、そのくらいの小さな映像なのだそうです。」

まだ本編をみていなかったのでそれがどんなシーンなのかはわからなかった。

「他にも。そう、これは言ってもネタバレにはならないからいいと思うんですが。ラストシーン。前の攻殻機動隊の最後に少女の義体になった素子がいますよね。あれが登場するシーン覚えてますか。あれは鏡にうつった少女の義体が最初に画面に登場し、そこから本人の映像に変わるんです。それが鏡である。虚像であるということ。それが義体であること。そういう意味があり、今回のラストでは娘を抱くトグサ、そしてトグサからもらったおみやげの人形を娘は抱いていて、それをみている犬を抱くバトー。そこなんです。そこをみてもらいたいんです。イノセンスとは何なのか。それなんです。」

攻殻機動隊のラストの素子のシーンは覚えている。しかし、上記のような意味があったことには全く気づかなかった。そこまで哲学的な意味付けがなされた映像だという認識は今日の話を聞くまで一度も考えたことがなかった。

メモをとっていると二つ隣の席の挑発を後ろで束ねた男性がしきりに動いていることに気づいた。
彼は話の合間合間で右腕でパンチのポーズをとったり、時折、中指を立て、親指を下に向けるという行為を繰り返していた。彼の両隣に座っていた女性は対談がはじまって10分くらいすると席を立った。会場は立ち見の聴衆で溢れていたが彼の隣にはイベントが終了するまで誰も座ることがなかった。

隣の帰りの電車で石川プロデューサの言葉を思い返した。
「いのち」や「生きる」について考えた。
向こうの方でバタ、ガタっと音がした顔をあげると酔っぱらいの男性が紙袋を落として拾っていた。
結婚式の帰りなのだろう。
白いネクタイが床に落ちていた。
男性は必死にこぼれ落ちた引き出物を袋にもどそうとするのだが手元、足下がいうことをきかないらしい。
無理矢理つめこもうとするのだが一度に全部をすくって入れようとするので箱がひっかかって入らない。
何度も何度も同じことを繰り返す。
手に持ったコートを棚にあげようとするがこちらも滑って落ちてくる。
前の席にはおばさんが座っている。
手伝うこともない。
下を向いて嫌そうにしている。

5メートルくらい離れていたが観ていられないので席をたとうとするとドアによりかかるように立っていた外国人の女性、モデルのようにスラリとした美しい人だった、が一つ一つ荷物を紙袋にいれて男性に手渡した。男性は女性を拝むと顔をほころばせた。感謝の念というよりも酔いのだらしない笑いに見えた。

女性は霞ヶ関の駅で降りていった。
おばさんは神谷町の駅で降りた。
男性は日比谷で降りていった。

僕は築地で降りた。
自転車置き場から自転車をピックアップし、日比谷映画に向かった。
球体関節人形の瞳の奥にある「イノセンス」の正体を確かめたかったのだ。

銀座という土地柄だろうか予想に反して会場は適度にすいていた。

++++++

ここからはイノセンスについて述べたい。
イノセンスは半端に情報が流布しているので映像、世界観、難解な言葉、制作者に話題が集中しているように見える。映画評をみるとやはり映像、世界観、言葉、制作者について書かれたものが多い。

しかし、僕には異なる言葉が浮かんだ。

「これは映画ではない」

「イノセンス」は映画である。
しかし感覚は違うと伝えていた。
あの感覚は...。
映像の後ろにテキストが見えた。

テキストを読む時、テキストの後ろにもう一つのテキストが現れる。
「イノセンス」ではその逆の現象が生じた。
映像の後ろにコトバが見えた。
コトバは映像によってつくりだされた意味や物語とは異なる意味や思考をつくりだしていた。

映像が指し示す事象とは全く違う意味を観ていた。
観ているのは映像である。
映像なのに映像が表しているものとは違う意味が見えるのだ。
視覚的な情報と思考が別々の事象・意味をパラレルに再生していく。

奇妙な感覚である。
興奮や没入感ではない。
脳が別々に機能している、そんな感覚だった。

++++++

映画館を出ると外の風は冷たかった。
冬の寒さである。
自転車の鍵をあけて宝塚劇場の前の道を通り晴海通りに向かった。
右手のビルの方を見上げると月が見えた。
空に雲はない。
月の光が道路を照らしていた。

皇居の前のベンチで月をみていたいと思った。
お堀の前を通り、ベンチに腰掛けて月を見上げた。
しばらくそうしていると警官が二人こちらによってきた。

「こんばんは。ここ、自転車では入ってダメなんですよぉ。」

二人とも20代半ばくらいに見えた。

「そうなんだ。知らなかった。月がきれいなんでみてたんだ。」

と答えると急に二人は穏和な顔でになった。

「そうですね、綺麗な月ですね。」

一人が答えた。

「さっき日比谷で映画みて。帰るのもったいなかったんでね。」

「あ、余韻に浸ってたんだ。」

「そう。イノセンスという映画なんだけど。知ってる?」

「ああ。知ってます。」

「いい映画だったから、よかったら是非。それじゃ、ごくろうさまです。おやすみなさい。」

そういって二人と別れた。

++++++

「イノセンス それは、いのち」

という糸井重里コピーのせいですっかり忘れていたことがあった。
この映画のタイトルは「イノセンス」だった。
何が「イノセンス」なのか。
今朝になってようやくそれを考え始めた。

投稿者 TKM : 07:15 | コメント (0) | トラックバック

[エッセイ]本音と本気とざわつきと 裏の言葉の存在

TV東京の「てっぺん魂」という番組で百瀬博教さんがいっていた。

「なんだか知らないけれど人の喧嘩って面白いじゃないですか。あれってやっぱり人と人が本気でぶつかってるからだと思うんですよね」

そういえば時々、喧嘩に出くわすことがある。
喧嘩が起きる直前の雰囲気は一種異様である。
空気がザワつくといったらいいのだろうかグワングワンと空気が膨張し渦巻いていく。
争いは誉められたものではない。
しかし、電車の中なので言い争いが生じる現場を目撃するとそこから目を離せなくなる。
人と人の想いや思考がぶつかるとどんよりとした怒気が充満し周囲に伝播していく。
プロレスに代表される日本の興行系エンターテイメントの多くはこうした「情念」的エンターテイメントの型を利用している。

話は少し脱線するがここでいう「日本の」という部分は忘れてはいけなないポイントである。同じプロレスでも日本のプロレスと米国のWWEの空気は全く異なる。日本のプロレスには必ず「情念」的な空気がついてまわる。特に猪木の遺伝子をどこかで引きずっている団体には必ず「情念」が渦巻く。「情念」はエンターテイメントの一つのカタチ、あるいは文法である。

想いと想いの激突、ぶつかり合いはある種の興奮状態をつくりだす。
プラスであれマイナスであれ情報的なエネルギーがあると人はそこに反応する。
演出によってそれらがつくりだされる場合は事前にシミュレーションがおこなわれているから反応の幅はある程度規定される。

しかし不用意に本音や本気が発露する場にでくわすといきなり裸を見せられたようなもので生々しさがダイレクトに入り込んできてしまう。もし、これがプラスに働けば感動につながる。しかし、多くの場合は防衛や回避的な振る舞いをせざる得ない。

もうひとつ面倒なのは本音や本気であることと好き嫌い、悪意、敵意といった感情をダイレクトに表現することの境界は存在しない。感情的になるとき言葉は意味の拘束を失う。何を叫ぼうと感情という言葉の外が言葉を覆い隠してしまう。故に、感情に駆られた評論は評論としてなりたたない。それらは感情の発露に過ぎない。

本音であること、本気であること、それらはおそらく言葉で表すことができない。
感情的に生み出される言葉であってもいけない。感情が介在する時、それらの言葉は感情の媒介に過ぎず言葉の持つ意味は崩壊しコードから逸脱していく。

ではどうすればいいのだろうか。
これは僕の意見である、と断った上で簡潔に述べると。

本音も本気も「裏の言葉」によってしか伝えられないし、表すこともできない。

裏の言葉とは僕が「テキストの後ろのテキスト」と呼んでいるものである。
例えば「好き」という言葉があるが「好き」という感情を伝えるのに「好き」という言葉を使ってもその感情はおそらく伝わらない。「好き」という言葉は好きを表してはいない。
同じように「綺麗」という言葉も「綺麗」であることを表してはいない。

禅問答のようだが言葉は言葉が表しているものを伝えることはできない。
伝える為には裏の言葉、関係性という見えないコードをつかわなければならない。
しかしこのコードにはルールがない。

喧嘩の原因や人の世界の問題を振り返ってみるとそのほとんどがコミュニケーションのズレから生じている。
言語学やコミュニケーションという考え方でこの問題を扱っても問題は解決することはない。
言語を否定する言語理論によってしか問題は解決されない。

それが僕の立ち位置である。

投稿者 TKM : 05:34 | コメント (0) | トラックバック

2004年03月06日

[TV] NHKスペシャル「よみがえる教室~ある校長と教師たちの挑戦」 いのち、それは言葉

大瀬敏昭さんは神奈川県茅ヶ崎市立浜之郷(はまのごう)小学校の初代校長先生である。
彼の授業のテーマは「いのち」。

大瀬さんが校長先生を務める浜之郷小学校はいわゆる進学校ではない。
公立の小学校である。
その小学校が全国でも注目され開校以来、見学に訪れた教師の数は2万人を超える。
年間に行われる公開授業の数は150回にも及ぶ。

大瀬さんは自らも教壇にたち授業を行う。
番組中、授業の様子を映す場面があった。

授業では毎回「わすれられないおくりもの」という絵本を朗読する。
闘病中に落ち込んでいた大瀬さんを励ましてくれた一冊である。
この絵本を題材に「いのちとは何か」を生徒たちに問いかけていく。
抽象的な問いなだけに生徒たちからはなかなか答えがでてこない。
みんなどう言葉を発していいのかわからない。
大瀬さんは静かに生徒の言葉を待つ。
一人の生徒が発言する。
その発言を受け止め、更に深く問いかけていく。
生徒たちはもどかしそうにしながら自分の言葉を探していく。

++++++

大瀬さんは末期のガンにおかされている。
余命は長くない。
悪くて3ヶ月、良くても6ヶ月と診断されている。

授業の冒頭で生徒たちに言う。

「みなさんももう知っていると思いますが校長先生はガンにかかっています。胃ってあるでしょ。胃をね、全部とっちゃったんですよ。」

そういって大瀬さんは肩から提げた鞄から点滴を取り出してみせる。
胃を切除した大瀬さんは食事をとることができない。
栄養補給はすべて点滴によって行われる。

大瀬さんの言葉には悲壮感がない。
自己憐憫の影もない。
子供たちに伝えたいこと。
自分にできる最高の授業。

執念や怖さといった情念は感じない。
真剣さと軽やかさが同居している。

本当にカッコいい男とはこういう人を言うのだなと思った。
大瀬さんは「私はカッコよくない。死というものが怖いからだから、やるんです」といっていた。
だから僕がみていたのは上辺に過ぎない、と言われるかもしれない。しかし、伝わってくるのである。覚悟を決めた人が発する言葉からは言葉が示す意味以上の何かを含んでいる。

末期ガンと診断された大瀬さんは治療に専念する選択や家族と最後の日々を送ることもできた。
しかし学校の改革に全てをかける選択をした。

学力の向上に重きを置いた教育は不登校や学級崩壊のような様々な弊害をも生み出した、と言われる。
ではどんな教育が必要なのか。
子供たちにとって教育とはどうあるべきなのか。
大瀬さんと教師たちはその答えを探す挑戦を始めた。

番組では初めて公開授業を行う若い教員の授業が取り上げられていた。
社会科の授業だった。
浅間山の噴火で家族を失った子供と子供を失った親が政府によって強制的に家族として再編されたという歴史の事例を題材に「家族でない人と家族になることは幸せなのだろうか」を生徒に問う、という授業だった。しかし、授業には問題もあった。彼のクラスには両親の離婚によって「家族でない人と家族で暮らしている」生徒もいるのだ。前述の問いかけはその生徒を傷つけることになるのではないか。

公開授業が始まった。
用意された教材は工夫されており教科書一辺倒の授業とは雰囲気が違う。
人をあらわす背の低いローソクのような模型と家族をあらわすアルミ箔のお皿。
黒板には当時の浅間山近くの街の絵がはられている。
教室の後ろには「日本で一番楽しいクラス」という標語がかかれていた。

授業の終わりも近づいた頃。
「家族でない人と家族になることは幸せなのだろうか」という最後の問いかけをする場面。
若い教師はどうしてもその問いを発することがでない。
沈黙が続く。
ずいぶん長い沈黙の時間だった。
生徒たちはどうしていいかわからない。

大瀬さんが助け船を出した。

「家族でない人と家族になることは幸せだと思いますか」

クラスに問いかける。
「幸せだと思う」「少し幸せだと思う」いくつかの答えがでる。

大瀬さんは母親と暮らす茶髪の男の子に歩み寄り肩に手をかけて話しかけた。
若い男性教師が問いをためらったのはこの生徒を傷つけるのではないかという不安があったからである。

「幸せだと思う?」

大瀬さんが問いかけると男の子はしばらく宙をみつめ、

「幸せな時もあるけど幸せじゃない時もある」

つぶやくようにそう答えた。
大瀬さんは男の子に更に問いかける。

「あんまり声だせないから。」

彼が答えると

「じゃあオレがいってやるから。いってごらん」

男の子は小さな声で話しはじめた。

「3人が決めたことは(3人で暮らすと決められてしまったことは)いやだけれど、一人じゃ暮らしていけないから。幸せじゃない時もあるかもしれないけれど。子供でも知らない大人とかのこともきいて一緒で暮らしていった方が身のためだ(いいと思う)」

僕はこの答えを予想していなかった。
子供からこんな答えが出てくるとは全く思っていなかった。
人ってのは年齢にかかわらずその人の本気は本当(世界の秘密)につながっているのだと思った。その人の奥底からわき上がってきた言葉は必ず言葉以上の何かを含んでいて誰かに届く。
この番組で一番、僕に響いた瞬間だった。

人と本気で向き合う。
激昂するのではなく自分が人とまっすぐに向き合う。
その時、はじめて何かが開くのだ。
相手にバリアがあるのではない。
バリアは自分である。
傷つくのを怖がっているのは自分なのだ。

番組の最初の方で大瀬さんがいった言葉である。

「知識を教える。昔だったら知識があれば、いい学校にいけば、豊かになれた時代もありました。勉強していい学校にいけばね。でも子供たちはわかってますよ。勉強しても幸せになれるわけじゃない。勉強したから経済的に豊かになるわけでもない。じゃあ、学校は何を教えるのか?勉強以外で何を教えるのか?感じることでしょ。どう感じたか。その子は五感で何を感じたのか。その子の言葉でそれをきくことなんですよ。いいことも悪いことも含めて。」

子供たちは教室に何を求めているのか。
学校に何を求めているのか。

大瀬さんは今年1月。
冬休みが始まって二日目に病状が悪化しこの世を去った。
お別れ会の写真の大瀬さんはNHKスペシャルのHPの写真のように静かな笑顔だった。

深く考える。
深く、深く考える。
そして真っ直ぐに向き合う。
本音で向き合う。
あらゆる場面でそうありたいと思った。

番組は珠玉の言葉に溢れていた。
巻き戻して繰り返し観た。

人はその本質において年齢や立場は関係ない。
子供も大人も自分が考える「いのち」の姿があり、それは自分という存在を奥底までおりていったときに現れてくる。「本当」や「本物」は知識や立場や関係に関係なく本当の自分で相手と向き合うことができてはじめて触れることができるのだ。「いのち」だけでなくあらゆる問題において。

■参考資料
NHKスペシャルホームページ

■浜之郷小学校に関する書籍
学校を創る-浜之郷小学校の誕生と実践 大瀬 敏昭 (著), 佐藤 学 小学館
学校を変える-浜之郷小学校の5年間 大瀬 敏昭 (著), 佐藤 学 小学館
・ 『学びの風景』  世織書房 大瀬敏昭著
・ 『教師達の挑戦』 小学館  佐藤学著

投稿者 TKM : 06:14 | コメント (6) | トラックバック

[ネット]Clocklink.com ペタペタ貼れる時計にユビキタスな未来を見る


Clocklinkというサービスを知っているだろうか?
このエントリーにある時計のFlashは上記のサイトで作成し貼り付けたものである。
使い方はとても簡単だ。
サイトにアクセスし「時計ギャラリー」から「htmlタグを見る」をクリックすると2行くらいのHTMLが表示されるのでこれをコピーし自分のページのHTMLに貼り付ければHPに上記のような時計が現れる。

時計の大きさを変えたい場合はページに貼り付けるHTMLにある「width="200"」と「height="200"」の部分を希望の大きさに変更すれば大きな時計も小さな時計も自在である。

■ユビキタスな予感

このサービスは「時間」という概念を時計というカタチで提供しているわけだが、同じように貼り付けるだけで便利に使えるちょっとしたアクセサリーかつ実用的にも役立つようなサービスは他にも考えられる。

モジュールとしては既にたくさんあると思うが天気や気温など一般的で人々が共有している情報などはイメージがしやすい。けれど僕は真打ちは逆に閉じた系、つまり、サークルやグループといったある種のコミュニティでだけ共有されている尺度のようなものが効果的なのではないかと思うのだ。

お気に入りのバーの混み具合やマリオン前の交差点の混雑状況といった限定的な情報。
一見するとそうした情報にはそれほど価値はないように思える。
しかし、Clocklinkのような手軽さでペタペタとはっていけるとしたら何かが変わる、ということもある。
常に店の混雑状況を表すアクセサリーがあったとしたらそれはお店と僕との間でメディアとして働くと思う。あー、いまどうかな、といった感じで時々チェックしてみたいし。

ユビキタスという言葉がいろいろなところで目につくけれど案外と利用法というのはClocklinkみたいな他愛ないところで馴染むのではないだろうか。

というわけで僕はこのサービスに結構インスパイヤされ企画が10個くらい思い浮かんだのであった。
(企画については別エントリーでレポートします)

投稿者 TKM : 02:38 | コメント (5) | トラックバック

2004年03月03日

[マンガ] 「アドルフに告ぐ」手塚治虫 言葉の揺らぎが世界を覆う

「アドルフに告ぐ」は中学生の時に一度読んだことがある。
近くに住む幼なじみのいずる君の家に泊まりにいった時に読んだ。
彼のお母さんは家の隣に私設図書館をつくってしまうくらいの本好きで彼がひっこしてきたばかりの頃に遊びにいくと奥の座敷の壁が全面本棚になっており、子供だった僕たちはまだ本が入っていなかった本棚をジャングルジム代わりによじ登り飛び降りたりして遊んでいた。

いま思えば不思議なのだが僕は高いところから飛び降りるのが好きで実家の屋根からもよく飛び降りていた。刑事物のドラマや映画で犯人を追跡する刑事がショートカットして犯人の先回りをするときに階段の踊り場から飛び降りるのがカッコよくて真似をしていたのだ。

いずる君のことは良くも悪くも兄貴分として慕っていた。
彼には小学生の頃からよくキャッチボールをやらされた。
彼は野球が得意で中学生に入ると野球部のエースピッチャーになった。

そういえば小学生の頃から彼は壁に一輪車を立てかけそれをキャッチャー代わりにして毎日練習していた。しかし一輪車相手だとやはり感じが違うよで暇さえあると僕がキャッチャー代わりを努めることになった。
しかし、小学生の頃には既に70キロ以上の速球を放っていた彼の相手をさせられるのだからこちらはたまったものではない。大砲のような迫力でボールが眼前に迫ってくる。思わずよけたくなるがよけると危険なので覚悟を決めてとりあえずつかむことに集中する。

ズバンという音とともにボールはミットに収まる。
ところがキャッチの時にうまく網に入らないと手がジーンとしてしばらく痛い。
剣道でのかかり稽古で下手な相手にしたたかに打たれるのを想像してもらうと痛さの度合いがわかってもらえるのではないだろうか。

いずる君は研究熱心だったので野球マンガを見て変化球を研究していた。
その実験をやりたいという。
嫌だなあと思いつつも「じゃあスライダーからやろう」と言われてミットを構えると剛速球が飛んでくる。しかもギューンと曲がるからつかむのはほぼ無理。とにかく身体に当たらないようにミットでガードするのが精一杯である。

僕の野球嫌いはそんなところからきているのかもしれない。
(あとは楽しみにしていたアニメや水曜スペシャルなどが野球で延期になったりするのが一番の理由だと思う)

話が脱線した。
いずる君の家にはステレオとたくさんのレコードがあってよく音楽を聴かせてもらいに遊びにいっていた。ご飯をごちそうになって、お茶を飲みながら二人でレコードをきいていると本棚にマンガの本があった。いずる君の部屋にはたくさんマンガがあったのだがそのマンガは少し雰囲気が違っていた。
へーと思って

「これ面白いの?」

ときくと「面白い」というので読み始めた。
手塚治虫というとどうも子供っぽいマンガでどんなマンガを読んでも必ずキャラが一緒(ひげ親父とかお茶の水博士とかたれ目の悪人とか)で肝心なところでつまらないダジャレをいうのでいまいち好きになれなかった。

「アドルフに告ぐ」もそんな感じだろうと思って読み始めた。
確かに全く必要のない間抜けなジョークもあるのだが物語は予想していたものとは全く違った。当時はやった川尻徹という慈恵医大の医師が書いた「ノストラダムス暗号書の謎」という本にホロコーストについての記述を読んだことがあった。また、落合信彦の歴史的トンデモ本「20世紀最後の真実」にナチスの所行について説明があったので知識としては知っていた。

※脱線するけれどノビー(落合信彦によればアメリカ時代に彼はそう呼ばれていたらしい)の「20世紀~」は最高のエンターテイメント読本である。ヒトラーが南米で生きていて、難局ではネオナチが第4帝国を密かに計画、UFOは生き残ったナチスが飛ばしている、という驚愕の内容なのである。

手塚の「アドルフ」はそれらの本とは似ても似つかない作品だった。
役者が違うというのだろうか作家のもつ想像力とはこういうことをいうのだろうなと思った。3人のアドルフがすれ違いながら戦争、日本、ドイツ、当時の世界、時代を描いていく物語に一気に引き込まれ読み終えると既に12時過ぎだった。

それから二人でマンガや音楽について話した。
学校の事や高校にいったらどうなるのかなどいろいろ話した。
いずる君は高校にいっても野球をやるといっていた。

「でも、野球部って坊主じゃない。嫌じゃない?」

ときくと

「しょうがないよ」

と言っていた。
僕の「アドルフに告ぐ」の記憶はそこで止まっており、3人のアドルフの記憶はあったのだがアドルフに何を告げるのかという部分はすっかり抜け落ちていた。
一昨日、全巻を通して読み返してこの話が現代にはじまり現代に終わる話だったことを知った。当時は3人のアドルフの数奇な運命のすれ違いばかり追っていたが今回よみかえしてみて一番、印象的だったのは何かというと登場する「悪役」のギョロっとしたタレ目でやぶにらみのキャラの役割である。

彼は正義を邪魔する小ずるく憎らしい人間だとばかり思っていた。
ところが彼は常に体制に忠実に生きており、個人的な感情や善悪の基準で行動しているのではないのだ。彼は忌み嫌われる振る舞いをする嫌なキャラであるけれど制度上は彼が正しく主人公が間違っている。犯罪者として追われるのは常に主人公の方なのだ。

そのタレ目をみていて先日みたドッグヴィルを思い出した。
人は権力の楯を得ると邪悪な部分や攻撃的で非道な側面をあらわにしていく。善良で絶対的な悪ではない小市民的な人々も相手が己より弱者であることを知ると凶暴な攻撃性を見せ、ゆがんだ悦びにおぼれていく。

タレ目はそんな人間の弱さを表しているように見えた。
僕だって困っている時は人の優しさに感動し「絶対にこの人の役に立てるようになろう」と誓うのに、疲れてきたり、自分が面倒だと思いはじめるとそれまで持っていたプラスの感情はどこかに消え失せ「なんでオレが?」とか「アー?」と手のひらを返したように悪態をつきたくなる。

そのくらい人は弱く、絶対的に正義でいようとしてもその正義は簡単にゆらいでしまう。
タレ目はそうした人の持つ弱さを体現しているキャラだと思う。

ブルータスのムックで手塚治虫が自身の作品について言っている。

小学校や家庭などで「手塚のマンガは教育上良い」とか「道徳的である」という言われ方をするけれどそういう見方は間違っている。僕が書きたいのは人のプラスの側面だけじゃない。ジャングル大帝なんかだといい人と悪い人がいて善悪が対決しているような印象をもたれるけれどそれは僕がいいたいことじゃないんだ。人には良いところも悪いところもある。僕のマンガが道徳的だとしたら、その全く正反対の道徳的ではないマンガも読まなければならないし、僕が書きたいのは正義ばかりじゃない。反対の悪の側も同じくらい力をいれて書いているんだ。そうでないと世界をわかることにはならない。

大体こんなことが書いてあった。
あのタレ目のキャラは必ずでてきて必ず嫌な役だったけれど、アントニオ猪木の名言(迷言)にあるように「逆もまた真なりと申しまして。ブーイングが多いってことはこれもまた人気だということなんですよ」ということなのだろう。
僕がギョロ・タレ目のキャラに「なんか嫌だな」と感じるのも彼がキャラとしてパワーを持っているからだと思う。

「アドルフに告ぐ」の読み方はいろいろあると思うのだが今回は「プラスの側面とマイナスの側面」この一点が気になった。

補足:タレ目の彼はゲシュタポならぬ特高の役人で戦時中の日本では(アメリカでもそうだったと思うが)読むことも書くことも制限されアカというレッテルが貼られるとその家系そのものが否定され、個人や共同体から弱者として虐げられる。現代においては道理が通らない理不尽さであるが当時はそれが当然の正義であったのだろう。時代は変わるというけれど同じようにいま当然だと思っていることも10年もしたら全くバカげた思いこみでしかなかったんだな、と思うようになるかもしれない。

「アドルフに告ぐ」で描かれているような対立構造は必ずどこかで悲劇を生む。
それは避けられない道筋、理なんだと思う。
それは「正しさ」を求めてしまうとどうしても誤差を認めないシステムになってしまうからで現実世界は必ず誤差があるから、そのズレが反復増幅し大きな悲劇を生み出していくんだじゃないだろうか。

「正しさ」を求めて対立や理不尽を生み出すという方向じゃなくて。
関係性から物事を考え、封鎖的なシステムによって制御するのではなく、開放的なシステムによって誤差を内包したやり方というものがあるはずだ。いろいろな問題の根幹には関係性でものごとをみることができないために生じるパースペクティブの閉鎖性が根強く居残っている。そのまた根本にはおそらく「言葉」に対する「信頼」の揺らぎがある。
「言葉」をその意味通りに信じることが難しくなっている。
これが現代の最大の問題のひとつであろうと僕は考えている。

投稿者 TKM : 09:33 | コメント (3) | トラックバック

2004年03月02日

[アート] 六本木ヒルズ/森美術館「クロッシング」 円柱形の部屋のレーザはあの人の作品だった

明け方に築地のジョナサンを出る頃に降り始めた雨はいつしか霙に変わり、正午過ぎに六本木駅に着く頃には雪になっていた。大江戸線のホームは地下深くにあり地上にでるまでには何基ものエスカレータを乗り継ぐ。

ホームに降り立ち進行方向の反対側に歩き始める。
後ろを振り返ると電車のドアが閉まるところだった。

一駅ぶんくらいはあるのではないだろうか。
長い長いエスカレータが続く。
二つ目のエスカレータにさしかかった時、左の列に入ろうとした女性が片足をエスカレータに乗せたところでグラリとよろめいて僕の方に倒れた。後ろから支えると「アァ、すみません」と答えた。女性は少し狼狽しているようだったが「大丈夫ですよ」と笑顔で声をかけると安心したようだった。

泉ガーデンで打ち合わせの後、麻布のラーメン屋で二度目の昼食をとる。
泉ガーデンの洒落たレストランは綺麗だし料理もまずくなかったのだが綺麗なお皿に描かれたイカ墨ソースの模様はコンビニの弁当を思わせた。
ダイニング系の店は綺麗だけれどどこも料理はコンビニみたいだ。
綺麗だけれどそれだけだ。
満足は得られない。

森美術館にいったことがなかったのと新しい展覧会もみておきたかったので六本木ヒルズから少しいったところにあるラーメン屋にいくことにした。ここのラーメン屋には田所と2回ほどきたことがある。2回とも二日酔いの頭で食べた。めちゃくちゃ美味いラーメンという記憶はなかったがスープはニューウェーブ系で気になる味だった。いや、本当はチャーシューご飯が食べたかっただけなのだ。その店はランチが午後5時までと長めでチャーシューご飯がセットで食べられたはずだった。

久しぶりに味わうスープはやはりニューウェーブ系だった。
しつこくなくあっさりもしていなく脂っこくもない。
でも美味いのだ。
そしてこれも大切なのだが店員さんがてきぱきしていて言葉も丁寧で気持ちがいい。
満足感の高いラーメンタイムを過ごす午後の優越。
最高である。

六本木ヒルズにとってかえして森美術館に向かう。
あいかわらず六本木ヒルズはゴチャゴチャしていてわかりにくい。
間違っても「ああいるだけで気持ちがいいなあ」という気分にはならない。
半年も通っていてこれなのだから設計がどこかおかしいに違いない。

森美術館は六本木ヒルズのほとんど最上階52F/53Fにある。
iPodを貸し出しているというので借りてみた。
使用感は最低であった。
Appleが貸し出しているiPodを首から下げるアクセサリーに操作用の窓がなくアーティスト毎にいちいち皮ケースからiPodを取り出して操作しなければならない。不便なことこの上ない。実験的なサービスとはいえユーザビリティを無視したインターフェイスはいただけない。

肝心の展示はこれといって惹かれるものは一つもなかった。
一つだけ「??」と反応した名前があった。

廊下の外れにパネルがあり

「作品の入り口はこの先です」

張り紙にあったように5mくらい進むと部屋の入り口だった。
部屋の中は円柱状になっており側面に赤いレーザーの光が映し出されそれが音に動機して波をうちながら周囲を回転している。ふーん、こんなか。2分くらいみて外に出た。

もう一度、パネルをみる。

「志水児王」

と書かれている。ん??
あれ、どこかで。
そうだ!
確か数年前に田所と二人で新宿の西口の虎という飲み屋にいった時にたまたまICCでの展示を終えた児王さんがいたのだ。我々二人は児王さんの連れの女性と意気投合し朝まで飲んでしまい、始発で長野だかどこだかまでいかなければならない児王さんは少し呆れていた。
確かその夜はICC始まって以来の暴行事件といわれている伝説の「T所乱闘腕つかみ事件」があった夜だった。

そうかあの人が作った作品だったのか。
もう一度展示室にもどってまじまじと作品を再確認する。
さっきとはレーザーのパターンがかわりマセマティカでつくったような幾何学図形が立体的に蠢いていた。それからレーザーが周囲を回転しはじめるまでしばらくみていた。

足が棒になるとはこういことをいうのだろうか。
多すぎる展示作品をガーっとみてまわったあとの頭の中には何も残っていない。
草間彌生の展示もみるが訴えかけてくるものを感じることができなかった。
朝2時から起きっぱなしだったので疲れていたのだろうか。

都市の模型を眺めてエレベータに乗ると僕以外は中国人のビジネスマンの一行であった。5階につくとエレベータの音声が「ゴカイデス」と告げる。彼らの一人がまねていう「ゴーカイデス」。

外にでると建物の裏手に回ってしまったようで歩けど歩けど六本木通りにつかないので途方に暮れた。途方ついでにABCでぴあをチェックしてから恵比寿へ向かった。

投稿者 TKM : 02:37 | コメント (1) | トラックバック

2004年03月01日

[映画] ヒッチコック「鳥」 映像の文法とコンテンツ化

昨日久しぶりにヒッチコックの「鳥THE BIRDS」を観た。
高校生の頃に観て以来だから15年くらい経つ。
鳥の映像と人が演じるシーンがどのように合成されていたのか覚えていなかった。
改めて合成シーンに注意してみてみると思ったよりも出来がいい。
いかにも「合成しました」という映像ではない。
背景との明るさが異なるので合成であることはすぐにわかるのだが酷いというほどではない。
DVDについていた特典映像のドキュメンタリーによれば「鳥」はブルースクリーンではなくナトリウムプロセスという特殊な手法によって撮影されていたとのことである。

映画の主人公でもある鳥の映像は埋め立て地で数ヶ月にわたって撮影されたものが合成され使われていた。ドキュメンタリーによればヒッチコックは映画制作においてプリプロダクションを創作活動のメインに据えていたらしい。プリプロダクションとは俳優やセットを配し、ロケを行って撮影する前に行うシナリオ作成やストーリーボード(絵コンテ)の作成である。この作業が映画制作の9割をしめるとさえ言っている。

「鳥」のストーリーはシンプルでパニック物の典型的なパターンに沿っている。
不釣り合いな男女(お堅い弁護士と奔放な若い金持ちの女)の物語→鳥の異常→事件→鳥の襲来→パニック→脱出。舞台とキャスト、敵の種類が違うだけでこの構造はどのパニック映画でもだいたい同じである。

この映画における鳥vs人間のシーンは最近の映画のCGIと比較すればどうしようもないくらいにチープだ。俳優が鳥と格闘する場面では一目で作り物とわかる鳥を相手に必死に演技をしているのがわかる。
恐怖におののくシーンではその場に存在しない鳥を相手に演技しているため俳優の動きはぎこちないし、セットで撮影されたシーンはすぐにそれとわかる。それがまた安っぽく見えてしまう。しかし映画としては実に面白い。全く飽きることなく最後まで惹きつけられる。映画の出来というのは映像の質とは違う部分にあるのだなあ、と思った。

では「鳥」では何が映画の面白さをつくりだしているのだろう?
その秘密はやはりプリプロダクションでの徹底した作り込みであろう。鳥に関するあらゆる事件をリサーチし原作とは異なる舞台設定でつくられた脚本の出来がいいのは当然として丁寧に作り込まれたストーリーボードの映像を見ると映像化する手前ですでに映画の原型ができあがっているのがわかる。特典映像をみるとわかるのだが絵コンテをつないで音をつけただけで映画としてはほぼ完成しているのである。

以前は全く気にせずにみていたが10年を経てあらためて作品をみてみると一つ一つのカットのタイミングが絶妙であることに気づく。
長すぎるシーンや短すぎるシーンはない。
それぞれの映像はベストのタイミングで挿入されている。
ところどころで使われる鳥の映像も効果的である。
例えば最初は数羽だったカラスが徐々に増えていくシーンでは主人公の女性がたばこを吸うカットと背後のジャングルジムを撮すカットが切り替わるごとに背景のカラスが倍々に増えていく。主人公が振り返るとカラスで黒山と化したジャングルジムの姿があらわになり表情が恐怖に転じる。こうした主観と客観の切り替えタイミングによって一瞬で映画の世界にひきこまれる。

残酷なシーンやリアルな戦闘シーンがないにも関わらずシーンとシーンの効果的な切り替えタイミングによって緊迫感が高まっていく。そして極限まで高まったところでプツンと糸が切れるように場面を構成する全ての要素が同時並行的にグチャグチャに動き始める。このダイナミズムは凄まじい。

こういうのを文法というのだろう。
この文法をうまく利用すればふつうの映像でも変質させることは可能だと感じた。学習発表会や運動会の記録もこうした映像の文法にのっとって撮影編集されるならば意味が全くちがってくるはずだ。単にパッケージ化するのではなくエンターテイメントの手法を用いて日常をコンテンツ化していく。
そうしたサービスが今後は求められるようになると思う。

デジカメが登場するまえは撮影したフィルムはカメラ屋にいって現像してもらわなければならなかったので写真を撮ってフィルムをお店にもっていきしばらくして現像されたプリントを見るというプロセスに「面白さ」を感じていた。

ところがデジカメだと現像する手間がない。
撮った先からプレビューで確認できる。
そのため「撮る」という行為の希少性が薄れアウトプットである映像の出来や面白さに焦点が移ってきた。

「誰が何をどう撮ると面白いのか」

それが問われ始めたのだ。
しかし、デジカメの「使い方」はマニュアルで説明できてもコンテンツ化のマニュアルはほとんど存在しない。経験や感性というあやふやな言葉でごまかされ全く手つかずの状態で放置されている。だから、ネット上にあふれている動画・静止画のほとんどはコンテンツ化の文法がないまま放置されている。よってつまらない。コンテンツ化されていないので「面白く」ないのだ。

僕が注目するのはここだ。
コンテンツ化の手法に感性は関係ない。その意識と手法があればある程度まで「面白さ」をつくりだすことは可能だ。そこから先が感性の領域である。学校ではこういう教え方をほとんどしないのでコンテンツ化の手法はほとんど学ぶことがない。けれどコンテンツにも文法はあるのだ。それは科学といってもいい。あらゆる「面白さ」にはカタチがある。

ジョーゼフ・キャンベルの「千の顔を持つ英雄」を参考にスターウォーズがつくられた逸話は有名だがどんなものでもいいのだ。TV番組でも笑いでも何でもいい。「面白さ」には必ずカタチがある。(無形であることがカタチである場合もあるけれど)

笑ってはいけない状況だとくだらないことどうでもいいことでも何故か「面白く」感じて笑ってしまう、という経験はないだろうか。笑いを引き起こす内容は毎回違うかもしれないが笑いが生まれやすいコンテクストは確かにある。笑いにもカタチはあるのだ。

ヒッチコックの「鳥」はパニックや恐怖をコンテンツ化する文法の一つである。
多くのパニック映画はほとんど同じプロットで「敵(鳥)」を別な生物に変えただけといってもいい。細部や結末は異なるかもしれないが「面白さ」の素の部分は共通している。

カメラやビデオなど道具の操作方法はどんどん簡単になっていく。
となれば次に問われるのは道具を使って何をするかである。
何をどう撮れば「面白いのか」。
その道具で自分は何をするのか。
ようやく、「物事をコンテンツ化してしまった方が人の生活はもっと楽しくなる」という考え方が受け入れられる環境に向かいつつある、ということだろう。

投稿者 TKM : 10:00 | コメント (0) | トラックバック