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2004年05月30日
[エッセイ] 9.11の真実(その1)
夕方、あまりにも眠いので眠る。
いろいろとやりたいことやら観たい映画などがありそういう時に眠くなると腹が立つ。
とはいえ眠さはやる気も何もかも奪っていく。
墜ちるように眠る。
2時間くらい眠っただろうかそういえばシャツが一枚みあたらないなあと思ってベランダにでる。ふと隣の部屋のベランダをのぞくと無くなったと思っていたシャツがしっかりと物干し竿に干してあった。
先日の風で飛んでいったのだろうか。
とはいえそれはオレのシャツ。
隣の住人はどうするつもりなのだろう。
■倒壊直前のワールドトレードセンター
消防士のドキュメントを撮影しようとしていた兄弟が偶然に撮影した9.11のビル内部からのドキュメンタリーを観る。観るまでは映像のショッキングさを売りにしたTV番組系の作品だと思っていたのだが内容は全く違った。
予想に反してしっかりとしたドキュメンタリーである。
事件の2ヶ月前から物語はスタートする。
新人消防士に密着したドキュメンタリーである。
彼を通じて消防士の日々、悦び、生活、焦燥を追う。
取材を開始して2ヶ月。
9.10の夜は取材をしている2人がフレンチディナーの夕食をつくることになったのだが肉の量が足りなくて消防士達にネタにされる。誰も翌日のことなど何も考えていない。肉の少ないディナーといつもの夜が過ぎていく。
そのままみんなで夜明かしをする。
翌、9月11日。
ローテーションが変わって昼番の隊員と交替の時間になる。
ガス漏れの通報があり、現場に向かう。
これが午前8時40分。
カメラを持った弟が隊長に同行する。
いつもと同じ、いつもと変わらないルーティンである。
探査機を路面に近づけチェックする。
と、その時。
飛行機の音が大きく響いてくるのに気づいた。
空を見上げると飛行機がビルに向かって吸い込まれていく。
隊長はあぜんとした表情である。
轟音とともにビルの上部が炎上しはじめる。
何が起こったのか詳細は誰もわからない。
隊長と消防士達はとにかく現場に向かう。
消防士の本能であろう。
現場はすぐそこである。
しかし、ワールドトレードセンターまでの2分は永遠にさえ思えたと隊長は回想する。
その時は自分たちでなんとかできる、厄介だが何とかなる、そう思っていた。
現場に到着すると隊長は装備を調えビルのロビーに入る。
「撮影していいか?」
そう訪ねると
「私から離れるな」
隊長が答える。
この一言をまだ覚えている。
ビルに入ると絶叫が聞こえた。
炎に包まれた人間が二人そこに転がっていた。
時折、物がぶつかる衝撃音が聞こえる。
上階からの人が墜ちてきているのである。
投稿者 TKM : 04:14 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月29日
[情報社会論] アムロ感覚とシンクロニシティ
■アムロ観を体験する
シンクロニシティという言葉を聞いたことがあるだろうか。
定義はこうなっているがもっと簡単に「え、何で?」が偶然に起こること、として話を進めたい。最近起こったシンクロ現象をいくつか紹介したい。
2週間前の日曜日。
しんのすけ亭でダッヂオーブンパーティが開かれることになった。
集合時間は午前11時。
いつもならば大江戸線を使うのだが何故か月島から乗って永田町で乗り換えることにした。永田町について有楽町線から半蔵門線ホームへ向かう。構内にシュークリームの店がある。買っていこうかなと思ったが時間が押していたのとヒロタのシュークリームはいまいちという印象があったでやめることにした。以前、TVチャンピオンでシュークリーム・プリン決戦の審査員をやったし、あながち外れてはいないと思う。
この時点で予想不可能性が二つ介入している。
・有楽町線
・シュークリームを買わなかったこと。(ヒロタでなかったら時間が押していてもそこでおみやげを買っていたと思う)
ホームについて電車を待つ。
水を飲みたいなと思ったので中央付近にある水飲み場までいく。
ゴクゴクゴクと水を飲む。
冷えてはいるが東京の水の味である。
そんなことを考えながら周りを見渡す。
日曜なので人は少ない。
外国人の男性(欧米系)がエッサエッサという感じで歩いていく。
つられたわけではないが30mほど渋谷寄りに移動した。
「まもなく電車が来ます」というアナウンスが流れた。
何も考えていなかったのだが更に15mほど移動した。
こちらに向かってくる電車の窓を観ていた。
スーっと流れていく車内の風景。
段々とスローになり、目の前で止まりそうになる。
ボーっとしていたら、見慣れた黒Tシャツの男の姿が見えたような気がした。
ガンダムでアムロが敵を関知するときに画面が斜めに分断され頭の左斜めの方で「ムムッ」と感じるシーンがある。
黒Tの男を認識する直前、アムロのあれに似た感覚にとらわれた。
「なんなんだコレは?!」
不可思議とも悦びともとれる感覚で車内に乗り込み、
「先生、どういうことこれ?!」
と声をかける。
皆さんご存じのやまけんがそこにはいた。
■気づくまではそこに現象がない
二人とも全く打ち合わせ無しである。
同じ電車に乗ることを打ち合わせていたとして、乗る車両の打ち合わせをしておかなければ、乗車しようとしている車両に二人が乗り合わせる確率はかなり低くなる。
確率論の向こうとこちらで認識が勝手に不思議感覚をつくりだしているだけ、という言い方もできる。しかし、僕が言いたいのはそういう理屈ではない。あの感覚は単純に「面白い」のだ。
現象としてただの偶然だろうと何らかの関連性の結果だろうとそんなことはどうでもいい。自分にとって大切なのはそれが「面白い」か「面白くない」かである。僕がこうした感覚や現象に興味を持つのはそれが「面白い」からである。僕が何かを「面白い」と思う時そこには僕にとっては意味のある情報がある。
地下鉄でのシンクロニシティだが、仮に僕とやまけんはその車両に乗りあわせていて、そしてお互いそれに気がつかなかったとしたらどうだろう。現象としてはこちらも面白い。物理的な出来事としてはすぐそこにあるのに、僕かやまけんがお互いの存在に気がつかないかぎり、シンクロニシティという現象はそこには存在しないのである。
■リアルインターネット
以前、清田さんと話していた時に彼がこんなことを言っていた。
「オレさ、思うんだけれど。世界ってのは段々、リアルインターネットになっていくんじゃないかと思うんだよね。インターネットみたいに、あ、と思った時に会うべき人とあっちゃうみたいなコトが普通になっていく。だから待ち合わせとかいらないわけよもう。会っちゃうんだから。」
やまけんとの地下鉄での邂逅はここで清田さん言っている「リアルインターネット感覚」と同じだ。
もう少し解説を加えると「気がつく」かどうかがポイントなのだ。
気づかない限りそこに現象は生じない。見ること、気づくこと、自分の側に現象に意味を作り出すコンテクストがあること、そこで初めて現象がたちあらわれる。だからリアルインターネット感覚というのはある種の認知力であり、感覚の発展系だと思う。
世界のトップアスリート達は僕たちには感知できないくらい微妙な差を認識し行動にフィードバックする。音楽家も微細な音の違いを聞き分ける。レーサーは超高速で移動しながら風景がスローモーションに見えるという。こうした能力は感覚器が発達しているのではなく入ってきた情報を処理する過程の違いなのだと思う。
リアルインターネット感覚とはおそらくこの感覚と近い。
これは僕の印象でしかないが「偶然の一致」を認識した瞬間に生じる感覚は時間感覚のズレみたいなものでそれは「面白さ」の一つのカタチなのだと思う。
「オヤ?!」という感覚の面白さがあって出来事を一つだけみるとそれ自体はたいしたことじゃないんだけれどある特定のコンテクストに照らすと関係性が「オヤ!?」を引き起こす。このコンテクスト力というのがポイントなんじゃないかと僕は思うのだ。
■情報社会の未来
「行くべき人に行くべき情報が伝わる世界」
これが僕のテーマである。
ネットワークも技術もシステムも環境もここに向かって発展していくべきだと僕は考えている。
情報は情報自体に意味があるのではなく情報と自分との関係性、コンテクストによって意味を変容させる存在である。
「行くべき人に行くべき情報が伝わる世界」とはモノや人や情報なんかと自分との間にベストの関係性というものを見つけて、そして、歪みをなおしていくみたいなことの延長にあるんじゃないかなと思う。
■何故「カガヤン」?!
追加でもう一つ最近起こったシンクロ現象を。
先日のlivedoor社長Blogへの「食い倒れ」進出以降、エントリーへの堀江さんのコメントもチェックすることにした。すると
というコメントがあった。
知らないサイトなのでチェックすると地図情報をベースにしたマーケティングサイトであった。コピーは「世界中の写真が集まるサイト」となっている。面白いので、じゃあ、アジアでもみるか、とクリックした。
アジアの地図に切り替わったのでなんとなしにフィリピンをクリックする。
セブ島の下のあたりにリンクを示す赤いポイントがあったのでクリックして絶句した。
表示されたのは、
「カガヤン」
という地名であった。
あり得ないだろう、コレ。
何故オレの名前の地名が????
かなり首をかしげる。
地名や画面に特別な意味はない。
しかしこのタイミングでしかも自分にこういうカタチで情報がホイっと表示されるとこれが何故か意味もなく面白いのである。
他の人が僕と同じようにリンクを辿ったとしても僕が感じるような面白さを感じることはできない。カガヤという名前を持つ自分が上記のようにリンクを辿らないかぎりこの面白さはあり得ない。しかも、一番最初にアクセスした時というタイミングの特異性もある。
これはコンテンツのあるべき一つのカタチだと思うのだ。
それが最も効果を発揮する、面白さを最大化させる、コンテクストとタイミングというものが情報にはある。(よくあるたとえだけれど自分の子供が描いてくれた絵は親にとっては最高の絵だけれど、親以外の人にとってはどうでもいい落書きだったりする)
僕が興味を持つのはここなのである。
それが最も価値を最大化させるタイミングとコンテクスト。
これを作り出す、あるいは見つけ出す、ということが情報の一つのコアというかカタチであり、力だと思うのだ。情報を情報化する情報、といったらいいのかな。ここに僕は注目する。
恋愛も同じフレームでみることができるような気がしていて。
例えば自分が惚れている人は自分にとっては夜も眠れないくらいに重要な存在となりうるが、まちゆく人にとっては全く違う意味を持つ或いは何の意味も持たない。ここでも問題の根本は存在同士の関係性であり、固有の関係性によって人の価値や意味は変化する。
しかし、そうだとして、
「で、だからなんなの?どう役に立つの?」
という疑問もあるわけで、それついてはこれから少しづつ考察していきたい。
■関連資料

機動戦士ガンダム I 特別版 【劇場版】

機動戦士ガンダム II 哀・戦士編 / 特別版 【劇場版】

機動戦士ガンダム III めぐりあい宇宙編 / 特別版 【劇場版】

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

機動戦士Zガンダム Part I ― メモリアルボックス版

機動戦士Zガンダム Part II ― メモリアルボックス版

機動戦士Zガンダム Part III ― メモリアルボックス版
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2004年05月28日
[雑記] 久々に雑記・雑記・雑記
■雑記開始
ここ数回、勝手にテキストの練習をやっていたが今日は少し休憩して普通に書いてみよう。普通に書くとどうなるかというと何も考えずに書くことになり、かなり楽であり、意味もなく、誰にわかりやすく書く必要もなく、読む必要もないわけなのでこのテキストは読む必要がない。
夜中に退職する父に手紙を書いて京橋の郵便局(24時間やってる)で出すつもりがあっさり忘れて帰ってきてしまった。そもそも何故、午前1時に虎ノ門だったのか。
スターウォーズ展は予想を遙かに超え充実の時間を過ごせた。
しかし自分が観ていたのは単体の展示物ではなくスターウォーズという言葉の向こう側に広がる何かであったように思う。
一言だけ感想をいうと「モノ力」はすごいという一語に尽きる。
詳細はあとで書くとしてこれだけはメモっておきたい。
虎ノ門からの帰り道、午前6時過ぎだが、スターウォーズは映画としては全く面白くない。しかしそれは映画という視点で考えるからそうなるわけで、たった数百分の映像が産業として成り立っていると考えると別な印象を受ける。エジプトのピラミッドが建てられてから随分経つのにいまだにエジプトに利益を生み続けているのと同じ、というか、グラハムハンコックや不思議主義者がいうようなトランス近代社会で神秘主義的な意味付けよりいっちゃあなんだがただの墓がいつまでも利益を産んでいるというそのことがすごいことだと思う。ピラミッドが地球の龍脈やら宇宙的な意味を持ってるかもとかそんなことよりもあれが観光資源としてエジプトの人々の役に立っているというその部分の方がよっぽどアメージングだ。
■スターウォーズは実体のない情報
スターウォーズもいってみれば現物のない映像の帯なわけでそれが産業規模にまで発展しそうな価値を持っているという事実がすごい。スターウォーズという世界観や概念は実体のない映像情報でそれ自体は食ったり飲んだり、気持ちよくなったり、叩いたり、伸ばしたりできるわけではない。
世界というのはある程度、満ち足りてくるといきなり価値がシフトして情報に向かっていく。これはもう鉄則みたいなもので、現物が足りると次は必ず情報価値に向かう。「食い倒れ」にしたって同じだ。うまいまずいは食が足りてのこと。食が足りなければうまいもまずいもない。喉がカラカラならどんな食い物よりも水のほうがうまい。ようは「食い倒れ」も情報価値というわけだ。
あと思うんだけれどうまい店は理解できる。問題はだ、まずい店があることだ。まずいものでも食べる人がいるからどんなにマズイ店でも成立しているわけだが。じゃあ、明日からいきなり全員が「マズいものはやめます」と宣言したらどのくらいの店が消えるのだろう。と、オレがいいたいのは問題の本質はうまいものを知っているとか食っているということじゃなくて、マズイものが何でそこに存在できているのかというそこがポイントだろうと思うわけだ。ウマイマズイにも市場経済が機能するならマズいものは消えてしかるべきじゃないのか?
市場経済ってのは情報がフラットに存在していてはじめて機能するけれど、そもそもの情報が偏向していたら機能するはずがない。で、問題は情報が偏向しているということだ。
せっかくなんで更にメモしておこう。
近代社会と経済についてちょっとだけ勉強していたら社会というのはガラガラガラガラといつも天変地異ばりの変化をしているのだなあと思った。
■インフレで債務超過が消える
国が債務超過になる→通過を切り下げる→インフレになる→債務が消える→新通貨を発行して旧通貨を廃しする→お国双六のふりだしに戻る
というサイクルを繰り返している。江戸時代、いや室町の頃から日本はこれを繰り返している。徳政令なんてバンバンやっている。年に13回もやった頃もある。江戸時代にも「相対済まし令」なんてのを発令していきなり民事不介入である。
その頃には公事士という民間の弁護士みたいなのが金銭問題の公事を代理していたというのだから驚きである。現代とは比べモノにならない法律社会である。
外貨貯金や外国株取引なども知れば知るほどにアホくさくなる。日本の金融機関を通じてんなことやっても結局、最後は全部円換算なわけで為替リスクを考えたら半分サル仕事である。現地で口座もって、現地の通貨で現地で使わない限りやる必要はない。
金融知識、マネーリテラシーは最低限必要だとは思う。
けれどそれは手段であって目的ではない。
そもそも日本のお金システムの基盤がどこにあるのかを考えると現在、日本円を支えているのは何らかのモノではない。製造力とか生産力である。お金はそれが何か他のものに裏打ちされているから価値を持つわけで戦後はそれがずっと土地だったわけだ。で、それがいまは製造力、生産力に変わって、いや変えられたのだけれど、それが円のバックボーンになっている。
しかし、だんだんと金融寡頭支配が台頭してきているのでこれもあやうい。
製造力、生産力が外国にガンガン買われていく。
そしたら円はどうやって価値をキープをすればいいのか。
心とかいったって、心もすでに空前の灯火というのが実情だと思う。
■消えた笑顔
今朝だって、築地を通ったときに外国人のおばさんは笑顔でさっと道をあけてくれたけれど、日本人の観光客なんて「農協月へいく」(筒井康隆)そのままだし、まー、なんでかしらないがとにかくみんなつまらなそうな顔をしているのは何故だろう?
具体的にそれで頭が痛くなったり足が痛くなったりするわけじゃないから、問題としては後回しになっているけれど、笑えない人々の大量生産はヤバイだろう。
スターウォーズとは関係ない話になってしまったがもう一点だけメモ。
個人と社会を同一視すると流れを間違える。
個人が流れをつくろうとしてもそれは無理。
流れはそもそもがそこにあって、何かをつくろうとしてそこにできるわけじゃない。
アメリカが云々とかいろいろ言うけれど国といったところで実体があるわけじゃない。
個人は国とは別ものだし「国家百年の計」といった寝言は45年後の年金を期待してるのと同じ。100年の計でインターネットがつくれるかっての。ビル・ゲイツですら「2年先は全くわからないって」いってるところに100年の計もねえだろう、と思う。んなもんはつくろうと思ってつくれるもんじゃない。
国家存続とか繁栄とかいってる間に「なーんもないよ」(by 長州力)だ。
そういう理論が、いや、理論ですらないが、もう全然ズレまくっているのだ。
■そして世界
年金問題といったところで結局解決法は皆無。
どうあがいてもネズミ講よろしく永久に加入者が増加していかなければ存続不可能な制度が成立しつづける道理はない。全盛期のクオォンタムファンドなみの運用成績で驀進しない限り(つまりありえない)崩壊は必至。徳政令をかまさないとしても、切り下げ→インフレ→債務帳消し、とかするしかない。
と、悲観的なことばかり書いてもしかたないのだが、というか、何が起こっても社会的な依存なしに生きている自分にはほとんど影響はないのだが。そもそもこういうことを書いても何も意味はない。流れはでかすぎてもうかわるのかわらないのというレベルの問題ではない。
国システムとか国際関係とかそういうったものがいまのままありつづけるということもないわけで。そうそう、さっきふと思ったんだけれど、ネットワークとか情報社会とかWebサービスとかそういったものは日本で成功しているやつは大体が日本語のサービスで日本語という壁のこっち側にいて、そこで勝った負けたとやっているけれど、仮に30年後はみんな英語が日本語並みにできるとしたら、そしたらどっちを使うのだろう。
言語がどっちでもよくてとなったら日本のサービスを使う必要はなくなるよなあ、などなど。更に一つの国に住む、というそのスタイルってまだ続くのだろうか。全世界をカバーする社会保障制度を持つ新国家あるいはサービスがバーンと出てきて、そこに登録(税金も払うか)だけすると医療と個人の照会やらパスポートや免許なんかが保証され、となったらあとは好き勝手に住みたいところに住む、と思うのはオレだけだろうか。
あとはエネルギー問題が解決すればこれだって絵空事じゃないと思うのだが。
投稿者 TKM : 08:30 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月27日
[雑記] スターウォーズ展
これからスターウォーズ展にいくことにした。
金子にすすめられていたのだがまだいっていなかった。
閃きは即実行が効果的。
詳細は後ほど。
■関連資料

スター・ウォーズ トリロジー DVD-BOX
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[読むテレビ] イチローx北野武・キャッチボール~9人のイチローと泳ぎが上手な魚の話
■9人のイチロー
「オイラ、よく考えるのはさ。野球で9人、同じ選手だったら一番誰が強いだろうって。」
昨日観たBS-iの番組の冒頭の一言である。
北野武さんはさらりといっていたが僕は随分とショックを受けた。
野球という競技を上記のような仮定で考えたことはこれまでなかった。
人はひとりひとりが個性を持っている。
野球もそれぞれの個性を活かしたチームが強いという前提で観ていた。。
しかし、全員が同じ人間で野球チームをつくりプレイしたら…。
「長嶋さんさんは強いけど3位くらいだと思うんだよな。オレの中ではイチローさんが一番強い。」
「ボクはピッチャーもできますからね。」
二人の対話はこんな風に進んでいくのだが僕は上記の言葉をきいてからしばらく9人のイチローがプレーするチームと9人の長嶋さんがプレーするチームの対戦のイメージが頭から抜けなかった。
笑うというよりもどうなるのかがイメージできないのだ。
長嶋さんの方は全員が全員、思いっきり走っていってファインプレーするか大ポカしているんだろうし、イチロー側は全員がそつなく振る舞っている。どちらが面白いかといったら観ている分には長嶋チームの方が面白そうだが、その面白さは長嶋チームだけで成り立っているのではなく、イチローチームと対戦しているというコンテクストによって成立している面白さである。
■面白さの秘密
面白さは単独では存在しているわけではなく何らかの関係性の上に成り立っている。
上手な物まねはお腹が痛くなるくらいにおかしい。
それならば本物が登場したらさぞかし面白いはずだ。
ところがいざ本物が登場しても少しも面白くない。
物まねの面白さとは本物から特徴的な一部分を取り出すことで成り立つ面白さである。
そこで重要なのはどこを取り出すかという部分でそれはその人を最も特徴づけているポイントでもある。
ここに表現の本質があると僕は考える。
つまり表現とは削ることなのである。
世界は言葉によって分節されることでその姿をあらわす。
言語以前の世界に切れ目は存在しない。
虚無の無ではないがのっぺらぼうの無である。
それを分節すること。
無を有に変えること。
それが表現の根本にはある。
地と図の関係関係である。
■マイナスのないプラスは存在しない
削ることは必ずしもマイナスではない。
削ることによって明らかになる形があり。
形がそこに形として存在するには形を取り囲む無の存在がなければならない。
人の生成も同様のプロセスを経る。
人の指は塊から生えてくるのではない。
塊から細胞が消滅することで指の形状ができあがっていく。
これは興味深い現象である。
同じように人が個性を発揮するのは個性が伸びていくのではなく別な部分が後退することである部分が突出しているように見える、というのが正しい。
イチロー選手の場合も非常に器用な選手という印象が強いが逆を返せばエンターテイメント性には欠ける。激しい感情表現があるわけではない。(本人の弁によれば内面は違うそうである)。逆に長嶋選手の場合はエンターテイメント性が突出しているように見えるがその行動指針を言語化、理論化するという面ではイチロー選手には及ばない。
だから二人のチームが対戦した場合はそれぞれの特性がより強く印象づけられることになる。
■原因があるから治せる
「大リーグでは自分の形を持っていないとつぶれますね。」
イチロー選手は大リーグでプレーするまでに徹底的に自分の形をつくることを目標にしたそうである。
自分の形があれば何かがうまくいかないとき、それが何故うまくいっていないのかその原因を形を手がかりに探すことができる。しかし、自分の形がないと何が原因なのかを知ることはできない。
原因がわからないとどんな名医でも病気を治せないのと同様である。だからまず自分の形、自分の野球の理論というもののつくりこみを行ったのだそうだ。
これは野球に限らずビジネスや学問、何をやる上でもあてはまる方法論ではないだろうか。いったい今、自分はどこにいるのか。何をやっていてどこに向かっているのか。それがわかれば方法は自ずと明らかになる。
ロールプレイングゲームをやったことがある人ならわかると思うがダンジョンに迷い込むとそこから出るまでにかなりの時間を必要とする。その最大の理由は現在位置を知ることができないから当てずっぽうで迷路を進むことしかできないからである。
ところが自分の位置を示すコンパスというアイテムを入手するとそれまで四苦八苦していたダンジョンの攻略が驚くほど簡単になる。
これと同じで実際の生活でも自分の立ち位置がわかれば次に何をすればいいのかを知ることはそう難しくない。何をやっていいのかわからず、結局何もせずにいてしまうのは自分の立ち位置がわからないからであり、それが迷いの最大の原因なのである。
■一つの瞬間に二つの脳で考える
「イチローさんなんかの場合はさ、一つの瞬間に二つの脳で考えてるんじゃないかと思うんだ。打ってる自分とそれを向こうから見てる自分と。オレなんか漫才やってる頃さ、ガーっと受けるとそれはそれでウケターっていう自分があるんだけど。頭のこっちの方ではあ、いまウケタな。じゃ、ここでこのギャグかましてやればガっとはまるな。とかさ。同時に二つの自分がいるんだよね。」
同時に二つの自分で考える。
まさかキュービタルの概念が登場するとは思っていなかっただけに驚いた。或いはこの世界の構成がそもそもキュービタル的なのだから当然と言えば当然ともいえるのだが。キュービタルとは「量子的」という意味の造語である。名付けたのは石井威望先生である。
世界とはここからはじまって向こうに進んでいくという唯一一本の矢、シングルリアリティではなく、何本もの矢が平行に並んでおり、それらは確かにそこにあるのだけれど、見ようとするまではその姿が見えないパラレルなリアリティによって構成されている、という考え方である。
上記の例で言えば打席で打っているイチロー選手はそこにいて自らもそこから見ている。しかし、同時に同じ姿をスタンドから見た場合は全く違う自分の姿があり、その視点は確かにそこに存在している。仮にスタンドからの視点・映像をダイレクトに投影できる眼鏡サイズのメッドマウンディドディスプレイを装着して打席に立った場合、立っている自分の視点とそれを遠くから見ている自分の視点が共存する。その場合、パラレルに存在する二つの視点を同時に体験していることになり、主観と客観が混在するため情報のもつれが生じる。
トップアスリートやトッププレイヤー達はこのもつれを意識的につくりだす能力を有していて、その感覚がフィードバックされることで極限のプレーが可能となるのではないだろうか。
作家が作品を書く時にも同じような意識的にパラレルリアリティを顕在化させフィードバック作業を行ってるように思う。
書くという行為の時点で書かれた部分より先のテキストはまだ完成していない。
しかし、テキストを書く時、書いているテキストの先にあるまだ存在しないテキストの存在がいま書いているテキストへ影響を与えている、という感じがするのである。
まだ理論化されていないがこの感覚の理論化が進めば、今後様々な分野で応用され、個人のパフォーマンスを最大化する一つの方法として確立されるのではないかと思う。
これは僕の個人的な推測だがコンピュータやネットワークというインフラもそこに向かって発展しているような気がする。Blogもいってみれば一つの事象に対する複数の視点の共有をプリミティブなレベルで実現している事例ではないだろうか。
※陽明学でいう「知行合一」もキュービタル感覚と似ている。考えている自分と考えていない自分がパラレルに存在している。
■泳ぎが上手な魚はいない
「天才って言われ方をよくするんですけれど僕は自分が野球の天才だと思ったことは一度もないんですよ。」
「それはあれだね、誰も魚に泳ぎが上手だねっては言わないじゃない。それを人間がやってるからさ上手だとか下手があるわけで。だからその商売の魚にならなきゃダメだよね。」
なるほどうまいことを言うなあと思った。
やまけんの「食い倒れ」にしても僕らが見るから「あれだけ食ってよくまだ食えるよな。しかも毎日だもんな。すごい。」となるけれど食べている当人はいたって普通である。いつも食べるのが楽しくて仕方がない様子だ。僕だったらあそこまでいったら仕事になるけれどやまけんにとってはあれが当然なのだ。つまりやまけんは「食い倒れの魚」になっているわけだ。
それを考えると自分は何の魚になっているのだろうか。
つい最近までは「自分はこれがやりたい」という目標もなかった。
最近というよりもここ10年くらい具体的にやりたいことなど何もなかった。
自分は何が好きなのか。
上手い下手にかかわらず何をしたいのか。
全くわからずにいたけれど実はずっと以前からわかっていたようにも思う。
■自分は何の魚だろうか
僕がやりたいことはつきつめていくと一つだけである。
僕は「考察」したいのである。
もっと大きくいうと「知りたい」という想いが行動の根本にある。
感じることも大切だし、実際にやってみることも大切だ。
人と話すことも大切だし、楽しく生きることも大切だ。
しかし、何の為にそれをするかといったら僕の場合は「考察」するために他の全てがある。いいか悪いかはわからない。わからないけれど、僕にとってあらゆるものは「考察」の対象なのだ。何かに集中うしていて、それ以外のことは全て頭から消しとんでいる時でも同時にその状態が考察の対象なのである。あらゆる物事のあらゆる瞬間が考察の対象として存在し、それを言葉にしていく時間がすきなのである。
考察者という職業はまだないけれどスキルとしての考察力は生きる上で有効だと想う。
例えば感情の暴走というのがあって、感情が高まるとその感情によって行動してしまうことがある。感情が行動のトリガーとなるのである。時として感情を原動力とした行動は思いもよらないパワーを生み出す。しかし多くの場合、感情による行動は感情が強ければ強いほどその反動も強い。
だから感情の高まりによる行動を上手に活用するには「一つの瞬間に二つの脳で考える」必要がある。そうしないと反動によって行動が平均化されてしまうのである。
そしてその為のツールが「考察力」だと僕は考える。
考察は脱構築のプロセスである。
ある行動や現象、感情をそれらの渦中にいながら同時に別な視点で捉える技術である。
これができるようになると偏見がなくなり、自分の位置がより正確に把握できるようになる。そして自分は何者なのか、どんな人間なのか、が少しづつわかってくる。それがわかってくるから、自分はこれからどうしたいのか、どこに行きたいのか、何をしたいのか、も明確になっていく。と同時に、自分を取り巻く大きな流れの存在にも気づく。
次は自分が流れのどこにいるのかを考察していく。
考察の伴わない行動から自分の位置をわりだすことは出来ない。
それは永遠に迷い続けることを意味する。
人生が永遠ならば偶然を待つこともできるが人生の時間は有限である。
その時間の中で自分が何者なのかを知らずに生きることは方位磁石や航海法を持たずに海を旅することに等しい。
確かに生まれそして死んでいくという道の最初と最後は決まっている。
何もしなくても何をやっても最初と最後は誰しも同じである。
映画も小説も旅もはじまりがあって終わりがある。
どんな映画を観るか、あるいは出るかは個人の自由だがどうせならば僕は面白い映画を観たいし出たい、と思う。
そのためには自分がどこにいるのかまずはそれを知ることからはじめよう、というのが僕の考えである。
「イチローx北野武」の対談から随分話題が膨らんでしまったが二人の対談にはそのくらいインスパイアされる要素が詰まっていたし、話を聞いていたら元気が出た。
最後に気がついたことだがイチロー選手はとても綺麗な言葉を使う人だった。
イチロー選手に限らずトップアスリートはみんな使っている言葉が違うように感じる。
言葉が人をつくるのか人が言葉をつくるのか。
興味深いポイントだと思った。
◆参考図書・DVD

イチロー×北野武 キャッチボール(DVD)
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2004年05月26日
[食い倒れオフとやまけんの意味論] (その1)まずは前哨戦、マジックはやまけんだけに起こったわけではなかった
■食い倒れオフ(その1) 前哨戦/ジョッキがグラスに変わること~それは錬金術ならぬ錬酒術
先週、私の人生の師であるやまけんが主催するHP「食い倒れ日記」のオフ会が開催された。幹事を頼まれていたのではやめに会場に向かった。
新宿駅につくともうひとりの師(こちらは酒の師匠)であるバシ師匠から連絡がはいった。すでに笹塚に到着しているとのこと。この日バシ師匠は7時に到着の予定であり、6時には幹事の僕とやまけんの二人が無二路に向かっている予定であった。ところが何故かバシ師匠は6時に笹塚についていた。受付が一人ではきついなあと思っていたところに電話があったので
「バシ師匠、これも何かの縁です。できれば受付を手伝ってもらえませんか。確か駅をでてすぐのところに本屋があるのでそのあたりで待っていてください。」
「あー、いいよー。じゃ、笹塚でまってます。」
さすがアニキ、バシ師匠。
一分の迷いも感じさせずに快諾であった。
バシ師匠はゲストである。
今日のオフ会には決して安くはない会費を払っての参加である。
お手伝いをお願いしていいものかと一瞬考えた。
しかしバシ師匠の声はそれを受け入れ許容しなおかつ楽しむであろう心の豊かさを感じさせた。
これこそがバシ師匠が師たる所以である。
笹塚についてすぐにバシ師匠に電話をした。
「あ、加賀谷くん、いまね。出たところの脇にあるバーキタザワにいるから。」
いつもの師匠とは異なり妙に落ち着きのあるさわやかボイスが飛び込んできた。
何故か妙にはまっている。
納得がいかない。
あのムンムンパワーの師匠が何故に「さわやか」。
そして何故に「バーキタザワ」?。
予想は的中であった。
さすが我が師。
いきなりジョッキで銀河高原ビールをあおっている。
入り口からちょっと入ったテーブルにバシ師匠は座っていた。
満面の笑みである。
やまけんが到着するまであと10分強はある。
僕もグラスで一杯だけつきあうことにした。
やまけんのページでは「食い倒れオフのマジック」について触れられているが実は裏方の僕たちにも様々なマジックはおこっていた。
店の女性がビールを運んできた。
ところが何を間違えたのか彼女はジョッキでビールを持ってきた。
「あれグラスって言わなかったっけ?」
と言ってはみたが「覆水盆に返らず」あらため「生ビール、サーバに返らず」である。
バシ師匠は間違えて運ばれてきたジョッキをみてうなずく。
当然、満面の笑みである。
「加賀谷君、いーんだよ。」
語らずとも師の表情はそう語っていた。
今は無き、もうひとりの酒の師匠(本当は文学の師匠なのだが)江藤淳先生の教えに従いここは気持ちよくいただくことにした。(江藤先生の教えはシンプルだった「もらったものはうけとりなさい」。そして今朝は我が人生の指針たる一言も記さなければいけないだろう。「加賀谷君、とりあえず生き残れ」それが師の最後の教えであった)
予定ではもう店に向かっているはずの時間である。
ところがこれも偶然なのだがやまけんが10分くらい遅れるとのことである。
いま振り返れば会がはじまるまでのわずかな時間に凝縮されたいくつかの偶然がその後の運命を決定づけたのかもしれない。
カオス理論が示すように非線形力学においては初期の微細な差異が時間を経るにしたがって現象全体に多大な影響を与える。我々が暮らす世界とは相互依存の網の目で出来ていてあらゆるものは単独では存在できない。香港に舞う一羽の蝶の羽ばたきがめぐりめぐって台風を引き起こすように。
そしてこれからはじまるマジックもグラスで注文したはずの一杯のビールがジョッキに変わったことが原因で引き起こされた奇跡なのである。
「酒の席にノーはない」を信条とするバシ師匠が2敗目のジョッキを飲み干しグラスをテーブルにおいたその時、やまけんから
「はいエブリワン。笹塚つきました。」
と連絡があった。
軽妙とも神妙ともとれる食い倒れヴォイスであった。
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2004年05月25日
[情報社会論] Google社のBlog利用法にみる情報社会の未来
■Blogツール以前と以後
MovableTypeやココログ、はてなダイヤリーなどのASPの登場によって個人ホームページの運営の仕方は随分変わったように思う。Blogツール(CMS)が登場する前はHPを更新するにはDreamweaverやホームページビルダーなどのホームページエディタを用いるか直接HTMLを書いてFTPツールでファイルをアップロードしなければならなかった。
Blogツールの登場によってホームページの更新はかなり簡単になり、HTML作成の手間から解放されたことでよりコンテンツ作成へ注力することができるようになった。
僕もMT(MovableType)を使用しているがMTが登場するまではフリーのCGIを加工したBlogツールを使っていた。MTほど強力な機能は備わっていなかったがそれでも書いたテキストをページングしてHTML化することはできたので「テキストを書く」ということに注力することはできていたと思う。
そんなわけで以前から書くことに注力できるツールを使っていたのだがMTの導入によってインターフェイスが整備されシステムが強力になった分、それ以前に比べるとより簡単な作業でより綺麗なページが生成されるようになったし、更新の手間も減った。
しかしテキストの作成の仕方は随分変わってきたようにも感じている。
それにテキスト自体をつくる手間は増えているように感じる。
というのは以前は本当に「テキスト」を書くだけだったのが最近は書いているうちにそのテキストが他のテキストと何らかの関係性を持っている気がしてきて、
・他の記事
・他のBlog
・ネット上のなんらかの情報
などの他の情報とのつながり、関係性をリンクとして示しておかなければ、という気分になってしまうのだ。
MT以前にはそれらを表記したりリンクをまとめるという作業をすることはまれだったのにいまは自然と関連性のある情報を探してリンクしてしまう。
これはBlogというメディアの持つ特性の為なのだろうか。
■Blogはパブリッシングツールではない
昨年、マスダさんにお会いした時にGoogle社でのナレッジマネジメントについてのお話を伺った。マスダさんによるとGoogle社では社員全員がBlogサイトを持ち、独自のRSSリーダによって情報を共有しているのだそうだ。
個人の情報とパブリックな情報がBlogツールをつかって発信されRSSリーダによってそれらがフィルタリングされリアルタイムに情報共有がなされる。その話をきいたとき電子メールとHPが融合され発展したような印象を受けた。
その頃、僕はWikiというCMSツールに情報パッドとしての未来をみていたのだが同時に情報エディタとして考えた時にWikiには決定的にかけるものがある、ということをおぼろげに感じた。
Wikiはその自由度ゆえにコンテンツをひねり出す強制力がかけている。
情報をはりつけるメモパッド、あるいは雑記帳としての秀逸さが逆に情報を「引き出す」機能を低下させてしまっているのである。
情報を引き出すにはある種の拘束条件が必要である。
書籍は紙面という物理的な拘束を持つ。
それ故に一冊の本に何らかのテーマを固定せざる得ない。
しかし固定されたテーマは全体の拘束条件として働くため情報を効率的に集約し発信することが可能となる。
情報を引き出すとは無制限に情報を取り入れることではない。
逆説的だが情報とつきあう基本は余分な情報を捨てることである。
MTなどのBlogツールはこうした拘束性をつくりやすい。
それは何故か?
僕はBlogの持つアーカイブ性がその理由だと考える。
Blogという文脈ではアーカイブされた過去のエントリーが拘束条件として働きそのBlogにテーマを与えている。ここがBlogの面白さであり、最大のネックでもある。いまのBlogツールでは一つのBlogサイトで二つ以上のトーンをつくりだそうとするとツール側、つまりアーカイブの構造がパラレルな価値観を許容するつくりになっていないため利用者側に過大な負荷が生じざるえない。これがBlogをつかったコンテンツづくりが難しい所以である。
※僕はここにパブリッシングツールとしてのBlogの限界点を感じる。
■Google社でのBlogの使われ方にみる情報社会の未来
話をGoogle社の事例に戻そう。
Google社ではBlogとRSSリーダを用いてBlogツールをナレッジマネジメントに活用している。これはBlogツールの理想的な利用のカタチの一例ではないかと僕は思う。
閉じた情報空間での情報発信はパブリックな場での情報発信とは異なる利点が幾つかある。
ひとつは共通したコード(この場合は会社というコンテクストでだけ機能する事柄や事例)の存在。もう一つは情報空間が限定されることによって発生する情報発信の圧倒的自由性である。
本来は全ての情報空間で情報発信の自由性が成立すればいいのだがいまの社会では情報については法の規制が存在し閉じた情報空間ほどの自由は保証許されていない。
情報発信の自由性については2chを考えるとわかりやすい。
2chでは人々は自由勝手に言いたいことを言いたいようにいう。
中にはひどい発言もあるし、何をいっているのかわからない発言も多い。
こうした発言の自由度の高さが成立しているのは匿名性によって自分というパーソナリティと発信した情報の連鎖が断ち切られることが理由である。
誰が発言しているおかがわからないから誰もが勝手に物を言うし、何を言うのも自由なのだ。
これの裏返しが閉じられた情報空間である。
発言の自由はここでも実現される。
例えば自分と数人のグループしかアクセスできない掲示板があるとしたらそこでの会話はグループの一員でしか理解できない言葉でやりとりされるかもしれないし、他では言えない事柄や話題についても活発に議論されるだろう。ここでは2chの場合とは逆に誰が観ているのか誰が情報を発信しているのかが特定されていることで信頼と安心が提供される。
このように情報の匿名性と明示性は表裏一体の関係にある。
そして企業内でのBlog・RSSによるナレッジマネジメントはこれら二つの特性を融合させたものという印象を受ける。
■Blog+RSSは電子メールとHPの中間的な存在
先週のCEOサミットでの基調講演でビル・ゲイツはBlogとRSSの利用について下記のようにのべている。
個人メールなどのように完全に閉じた関係での情報のやりとりではなく組織や社会などある程度の幅をもった情報空間で情報発信がなされた場合の理想的な情報の伝播はより価値の高い情報はより早いスピードでより広く広まり、ある特定された人にとってだけ価値を持つ情報(例えばプロジェクトの打ち上げの提案など)については特定の情報空間でだけ共有されるというカタチが最も効率が良い。
つまり「行くべき場所に行くべき情報が行き着く」状態である。
完璧ではないかもしれないが閉じた情報空間でのBlog+RSSによるナレッジマネジメントはこれに近い情報環境を実現しているのではないだろうか。
一般にBlogはパブリッシングツールという捉えられ方をしている。
CMSとしてのBlogツールという側面をみればそれは正しい。
しかし、RSS(別にRSSでなくてもよい。発信された情報の伝播形式という意味)という情報生成とは別の機能に注目した場合、Blogのもう一つの特性が明らかになる。
情報のおだやかな接続性とでもいうべきだろうか。
電子メールとHPの中間存在としての情報ツール像が浮かび上がる。
ただしこの特性が機能するには閉じられた空間でBlog+RSSが用いられる必要がある。ここをどう乗り越え、個の自立と相互依存のバランスポイントという情報社会の到達点(とされている)をどうやって達成していくのか。それが今後のWebサイトや情報社会を考える上での一つのポイントなのではないだろうか。
■関連図書

1日5分の口コミプロモーションブログ
長野 弘子 増田 真樹
投稿者 TKM : 08:45 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月24日
[ウェブサイト批評] 先見日記を考える
■コンセプトはいいのだが面白くない
「先見日記」というページを見つけた。
昨年みたときはあまり面白そうではなかったのでずっと忘れていたが今日みたら坂本さんもきちんと日記をアップしている。
先見日記とは7人の著者が曜日ごとに「日々の出来事の中から将来に向けてヒントになりそうなこと」を書いていくという企画である。
面白いコンセプトだと思った。
しかし実際のコンテンツは思ったほど面白くない。
何故だろうと考えてみる。
執筆者の関係性が希薄なのである。
関係性が希薄なのは「テーマ」が存在しないからである。
ブログが面白いのはある特定のテーマによって情報が編集されているからである。
それは個人のサイトでもグループのサイトでも企業のサイトでも変わらない。
明文化されていなくてもサイトにはなにがしかのテーマがある。
しかし先見日記にはそれがない。
漠然とした「将来へのヒント」というテーマの選択はテーマ性の放棄に他ならない。
編集によるコンテクストの付加という視点が決定的にかけているのである。
例えば先見日記の港千尋さんの文章を読むと綺麗で優雅だがその綺麗さは次の日の日記を読むことで全く消え失せてしまう。先見日記のそれぞれのテキストは面白い。しかしそれらが単純に曜日という拘束条件によって束ねられているため、テキスト同士が孤立し面白さを打ち消しあっている印象を受けた。
とはいえある種のメセナ(いまではもうきかなくなったが)としてこうしたサイトをつくってしまうNTTは偉いと思うのだけれど。(ICCもそうだけれど)
■どうしたら面白くなるのか?
では先見日記をどうしたらより面白くできるだろう。
ありがちなのは毎週テーマを設定してそれについて書いてもらうという方法だろう。
しかしそれでは日記の意味が薄れてしまう。
日記の集合体なのだがそこには通底した空気があり、その空気がメディアの方向性をつくっていく、というベストなカタチがあるはずだ。
同じようにいろいろな人が好き勝手に書いているイトイコムの場合はどうなのだろう。
そこでひさしぶりにイトイコムものぞいてみた。
イトイコムの場合は主催者の糸井さんのカラーが全体のトーンに統一感を持たせている。イトイコムのコンテンツは全般的にゆるいのだがただゆるいというわけではなくある種の編集がほどこされたねらいのあるゆるさである。作家性やメッセージ性はあまり感じない。
各コンテンツは記号化されたテキスト群といった印象を受ける。
広告的といったらいいのだろうか。
何かの役に立つわけでもないし、熱心に読みたいと思うわけでもないがそこには人を引きつけるカタチはある。
先見日記のコンテンツではこうしたトーンの共有がなされていないのである。
それが故にコンテンツとしての記号性が分散され印象が薄くなってしまっている。
オーガナイザー、キュレーター、編集者らコンテンツのプロデュース側が「より面白いものをつくる」という姿勢を打ち出す必要性があると僕は感じた。
コンテンツの面白さの根本にあるのは
「何をつくりたいのか」
である。それが感じられないコンテンツは綺麗であっても「面白くない」のだ。
投稿者 TKM : 13:03 | コメント (2) | トラックバック
2004年05月21日
[俄] 食い倒れオフとやまけんの神通力
昨夜から続く雨は今朝も降り続いていた。
午前6時、外に出ると豪雨である。
雨の中の開催を覚悟しながら眠った。
お昼近くまでしばらく休んだ。
目覚めてPCをたちあげHPをチェックする。
通常はメールのチェックとRSSリーダーで各ブログの更新状況をさらっとみてから行動を開始する。
いつもみているブログに「livedoor社長日記」がある。
社長の堀江さんはTV・雑誌などへの露出も多い。
彼は数多くのアスリートが通うトータルワークアウトへ通っていてそこでの肉体改造プログラムをブログでレポートしている。その過程が面白かったのだ。
話がそれたがそんなわけでRSSリーダでチェックすると更新があったのでぱーっと堀江さんの社長日記をみていた。
するとそこに見慣れた単語があるではないか。
「やまけんの食い倒れ日記」。
よもやここで目にするとは。
これには正直驚いた。
なぜなら今日は「食い倒れオフ」開催日なのである。
昨夜も党首やまけんと今日のイベント詳細について打ち合わせをしていたところである。
こんなこともあるのだ。
びっくりしたのでさっそくやまけんに連絡を入れる。
そしてふとカーテンを開けてみた。
なんと晴れである。
しかも晴天。
天晴の晴れである。
これも党首やまけんの神通力だろうか。
昨夜までの雨があがりきれいに晴れ渡っている。
投稿者 TKM : 13:50 | コメント (0) | トラックバック
[読むテレビ] 日本最高の鮨職人 ~「すきやばし次郎の365日」を観て
■世界最高の鮨を握る店
「次郎ほど清潔な店を知らない。魚のにおいのしない唯一の鮨屋だ。」
フランス料理界の重鎮ジョエル・ロブションはすきやばし次郎を訪れた際にそう言って感嘆したそうである。店主の小野二郎さんは「日本で一番うまい鮨をにぎる」と言われている。
すきやばし次郎の外観に派手さはない。
店は雑居ビルの地下にある。
カウンターとテーブルが少しの小さな店構えである。
しかし全てが徹底している。
徹底した仕込みをみせられると最低20000円からという値段もそうズレたものではないと思えてくる。彼が握る鮨と僕たちが書いたりつくったりする企画や原稿を比較してみるとページあたりの原稿料と彼の握る鮨の値段はそう変わらない。
他の食の値段と比較するから相対的に高いと思ってしまうがある種の知的労働の成果としてみた場合、20000円の握りが必ずしもべらぼうに高額な商品というわけではないのかもしれない。
それほどのノウハウと手間が握りのひとつひとつに込められている、と僕は感じた。
■回転鮨も美味しいですよ
「回転鮨。そうね、あの値段であれだけのものを提供できるってのは美味しいですよ。いいじゃないですか。グルグル回って、自分の好きなものを食べられて。あんないいものはない。私も食べるもん。美味しいですよ。」
二郎さんはそういって笑った。
「回転鮨屋さんにお酒飲みにいく人はいないでしょ。みんな鮨を食べにきてる。うちとおんなじですよ。」
すきやばし次郎は鮨屋である。
飲み屋ではない。
より「うまい鮨」を握ることへのあくなき探求心。
それが次郎さんの原点である。
すきやばし次郎の店内は驚くほど静かだ。
客はある種の緊張感の中で鮨を味わうことに専念する。
「どうやったらもっとおいしいものをお客さんにだせるか。それだけですよ。高いのはしょうがない。値段を下げるつもりもないです。だってネタを下げるわけにはいかないんだから。」
■すきやばし次郎の秘密
僕はそれほど多くの鮨屋にいったことがあるわけではない。
それでも「これはうまい!」と思う店もあればそうでない店もある。
その違いはどこにあるのだろう。
味なのかネタなのか姿勢なのか雰囲気なのか。
様々な要素の組み合わせなのか。
味の違いもあるだろう。
しかしそれだけだろうか。
おそらくすきやばし次郎には他の鮨屋とくらべて絶対的に違う部分があるに違いない。
それは何なのか。
「おやじさんの存在感。それが一番の違いなんだ。おやじが握るかどうか。つまりそれなんだな。違いは。」
次郎会とよばれる全国で「次郎」を名乗る弟子達の会であるお弟子さんがいった言葉である。
すきやばし次郎が次郎たる所以。
それは「二郎さん」が握るかどうか。
違いはただその一点に集約される。
そこに僕は世界の秘密を見た気がした。
優れた技術を持つ画家ならばピカソの作品と寸分違わぬ絵を描くことができるかもしれない。しかしそれは贋作であってピカソの絵ではない。そして贋作と真作の違いは誰が描いたのかというただその一点に集約される。
それと同じことがすきやばし次郎の鮨にもあてはまるのではないだろうか。
二郎さんが握るからすきやばし次郎の鮨は日本最高の鮨なのであり、全く同じ味を再現することができてもそれは二郎さんの鮨ではない。味は全く同じであってもである。
おそらく職人とはそういうものなのである。
その人しかつくることができないから職人は職人たるのではなくその人がつくるから職人は職人たる。
僕はそう思うのだ。
上か下かではない。
その人が介在することで全てが決定づけられる。
これは量子力学において観察者の「観る」という行為が現象そのものに影響を与えるのと似ているのではないだろうか。
おそらく人が介在する事象のほとんどは関連性の網の目によって互いに関連しあうためある事象がそれだけで単独で存在することはできない。つまらいあらゆる事象は何者かと無関係ではいられない。特に意味や意志、感覚といった現象と非現象の狭間にある概念においてはその傾向が顕著だと思う。
最終的にある現象に最も影響力をおよぼすものは現象や事象そのものではなく現象の向こう側にあるひとつの要素なのだ。
日本最高の鮨の秘密は技術ではなく「次郎さん」という職人の介在によってはじめてつくりだされる。それは現象の向こうがわにある関係性によってつくりだされる価値であり情報である。
※うちの党首のやまけんも以前おなじようなことを言っていたのを思いだした。「これはこういうものなんだと知っていること。それではじめて感じることができるうまさもある。オレがつくりたいのはそれなんだ。」と。つまり党首が求める「うまさ」「食い倒れ」とはおいしい食や料理をみつけることではなく、それらを「感じる」ことができる食のコンテクストを自分の中に構築していくことなのだ。
■あたり前のことをやる
昨年の春にオープンしたすきやばし次郎六本木店の一周年目の日。
次郎さんは店を訪れた。
店は銀座の店と同じ寸法でつくられている。
「ここでいいということはないんですよ。このレベルまでいったでもそれをキープするではだめなんです。そうじゃない。いまここにいたら来年はもっと先へ。次はもっと先へ。それを重ねていく。そうやってのぼっていく。それだけなんです。」
あたりまえのことをあたりまえにやる。
ただ「よりおいしい鮨」をつくることを求め続けてきた。
それだけのことだと次郎さんはいう。
小野二郎さん78歳。
日本最高の鮨職人は今日も己が求める最高の味を求め握りつづける。
◆参考URL
・NONFIX 日本一の鮨を握る男~すきやばし次郎の365日

すきやばし次郎―生涯一鮨職人

すきやばし次郎 旬を握る
里見 真三

至福のすし―「すきやばし次郎」の職人芸術
山本 益博
投稿者 TKM : 05:26 | コメント (2) | トラックバック
2004年05月20日
[私の仕事] 「引き出し屋」という仕事
今朝は眠るタイミングも起きるタイミングもズレてしまった。
そのせいだろうかなかなか気持ちがドライブしないまま一日のスタートをきることになった。こういうときは頭ではなく身体の方からスタートさせるといい。しかし外は雨。走るには少し雨脚が強い。
軽く泳いで身体を暖めるのも悪くない。
しかしこれまた雨のせいか出かけるのがどうにもおっくうである。
泳ぐこと自体への抵抗はないのだがそれまでの支度、ロッカールームでの着替え、鍵の管理、受付、などなど泳ぐまでには驚くほどタスクがあることに気づく。
そこで思ったのだが公共施設もスイカのような共通カードで管理したらどうだろう。
入場はサッとカードをかざすだけ。
ロッカーもカードで利用でき、施設内での買い物もカードでまかなえる。
これまでは人がインターフェイスとして配置されなければならなかった部分をマシンにおきかえていけばそこで解放されたヒューマンリソースを本来の「運動」の補助に回せるのではないだろうか。
プールにいくと必ず監視員がいる。
高いイスに座ってプール全体を監視しているのだが彼らと利用者との間にはコミュニケーションはない。全くの断絶である。以前、いっていた湘南台にある秋葉台のプールの場合は一週間に一度、水曜日に監視員が泳ぎを指導してくれる教室が開かれていた。
そこでクロールとクイックターンを習ったおかげで10年たったいまでもクロールとクイックターンに関しては問題ない。
公共施設の問題は物理的に老朽化が進んでいるなど施設自体の問題よりも施設を運営する職員のインターフェイスと姿勢にあると僕は思っている。プールに限らず図書館、体育館など利用者に「遊んでもらう」という視点があまりにも少ない。
特に図書館については使いやすい図書館ではなく「面白い図書館」にしていこうという視点が欠けているように感じる。
ビジネスも同様である。
「面白さ」のマネジメント・コンサルティング・アドバイスという仕事が存在していないので各分野のコンサルタントと呼ばれる人々が代行している状態である。
「面白さ」には核がある。
この核をつくることができればどのような分野であれ「面白く」していくことは可能だと僕は考える。そしてあらゆる場所に潜む「面白さ」をこちらから提示して「与える」のではなくそれぞれの場所のキャストから「引き出していく」のが自分の仕事です。
投稿者 TKM : 16:16 | コメント (2) | トラックバック
[読むテレビ] デューク更家と魔性の女
■魔性系?
「女性には癒し系、パワー系、そして魔性系の人がいるんですよ」
デューク更家はそういって隣に座る女性に視線をうつした。
女性は少しはにかみながら。
しかししっかりとデュークを見つめる。
意志を感じさせる目である。
女性の名前は更家由美子。
デューク更家の奥さんである。
情熱大陸やグレートマザー物語などいくつかのドキュメンタリー番組でデューク更家が取り上げらた際、奥さんが登場する場面もあった。しかし、あくまで主役はデュークであり奥さんがどのような人であるかにはほとんど触れられていなかった。
ちらっと見ただけだったがカッコよさそうな人だなとは思っていた。
今日の番組をみて「なるほど」と思った。
デューク更家の奥さんは「女っぷり」の人であった。
■デュークのプロポーズ
デュークと知り合った頃、由美子さんはデュークの知人の会社の社長秘書をしていた。
その当時デュークは大阪でも有名な遊び人だったそうである。朝まで遊び歩く毎日が続いていた。そんなデュークを由美子さんは警戒して3~4年観察していた。そうするうちに由美子さんの中にある思いがわき上がってきた。どうしてもデュークに一言いっておきたい、いや言わなければならないそう思うようになった。そしてある夜バーにいくとデュークがひとりで飲んでいた。由美子さんもひとりだった。
言うならいましかない。
そう思った由美子さんはデュークにこう切り出した。
「時間とってもらえますか。話したいことがあります。」
デュークは
「いいよ。じゃあ、夕飯でも食べにいきましょうか?」
「いえ、ご飯はいりません。」
「じゃあ、飲みに行きますか。」
「いえ、お酒もいりません。」
「は?じゃあなに?」
それから日をあらためホテルのロビーで二人は再び会った。
食事もお酒もなしである。
ホテルのロビーで由美子さんは延々とデュークに彼女の思うところをプレゼンしたそうである。
「この人は優しい人でその優しさはなにも女の人に対してだけというわけじゃなくて。男性にも年配の人にも子供にも優しくて。そういう気遣いのできるところがあなたの良さなのに何故あなたは朝まで遊んでるだけなの?パワーを使う場所って他にあるんじゃないの?それだけしかできないの?って延々プレゼンしたんです。」
由美子さんのプレゼンをじっと聞いたデュークはふっと由美子さんの方へ向き直りこういった。
「結婚してくれませんか」
それがデュークのプロポーズだった。
■ウォーキングドクター誕生
ウォーキングドクターとして全国を飛び回るデュークだがそこまでの道のりは決して楽ではなかった。そもそもデュークがウォーキングの指導を始めたのは彼の母の死が原因である。病床にあったデュークの母は近くの砂浜を歩いて体力をつけようとした。ところがこのウォーキングが原因で膝を痛め車いすの生活を余儀なくされまもなく他界した。
最愛の母を失ったデュークはやる気もパワーも失った。
生活が出来る程度に、時々、仕事をする以外は子育ての日々を送った。
そんな日々が2年続いた。
そんなある日、由美子さんから「女性のウォーキングを指導して欲しい」という相談を受けた。ファッションショーのプロデューサーをしていたのでモデルの女性を育てる経験はあった。しかし華やかなファッションショーの舞台をやってきた自分が素人の女性を指導することには抵抗があった。しかし奥さんの熱意にまけて渋々レッスンを始めたデュークだったがいざはじめてみると思いのほかそれが自分にあっていることに気づいた。
「これでやってみるか。お母ちゃんが死んだのももともとは歩き方が間違って膝を悪くしたせいだし。もし、もっといい歩き方を知ってたらお母ちゃん死なずに済んだかもな。」
こうしてウォーキングドクター更家がスタートした。
■魔性ではなく「引き出し力」
「でもね彼女はすごくポイントを押さえるが上手なんですよ。オレがこういう性格なんでどこをついたら一番効くかってのがわかってるですね。はっぱをかけるのが上手というか。一番、きついところをずばずばついてくるんですよ。でも責めてるっていうんじゃないんだけど。ずどーんと落としてぐーっと押してと。」
笑いながらデュークは語る。もともとが遊び人のデュークである。おとなしく結婚生活を送っていたわけではない。遊びもした。しかし由美子さんは一度もそのことでデュークを責めたことはないそうだ。
「この人はいつか化ける。そう信じていたんです。これだけで終わる人じゃない。絶対やるはずだ。」
そう話す由美子さんの目には「深さ」と「強さ」があった。
信頼とも依存とも違う。
しっかりとした芯の強さである。
しかしそれはしなやかな強さである。
女性だけが持つ強さといったらいいのだろうか。
時々、夜の街ではこうした強さを持つ女性に会うことがあるがその種の強さである。
女の人の魅力とはデュークのいうように「癒し系」であったり「パワー系」のようにいくつかのタイプに分類される。あるいは幾つかのタイプが組み合わさっている。どのタイプの女性とどのタイプの男性が相性がいいという相性も確かにある。
これもタイプなのだが女性には男性の持つ力を引き出す側でその力と魅力を最大化するタイプの人もいる。特に夜の街にはこういうタイプの女性が多い。
僕は男性なので男性の側からという書き方しかできないがおよそ世の人々が銀座に集うのはこの種の魅力、自己重要感を高められることへの渇望と無縁ではない。男性にとって「力を引き出される」ことは心地よさを超えて心に響いてくる。
人がおいしさを感じるとき料理そのものが味に与えている影響は3割だそうである。
残りの7割は個人の気持ちに依存しており、どんなに美味しい料理でも最悪の気分で食べるならば決しておいしいとは感じられないのだそうだ。
気持ちがいいと日常の風景も悦びに満ちたものに思える時がある。いいことがあった後は空を見上げただけでもこの上ない嬉しさを感じることもある。環境は変わらないのに自分が変わると世界が変わって見えてくるのである。
これを作り出せる力。
それがデュークのいう「魔性」であり言い換えるならば相手の潜在能力を最大化し一つ上のスパイラルへとステップアップさせる「引き出し力」である。
「私は彼がいつかやるとは信じていましたがまさかここまでウォーキングをつきつめるまでになるとは思いませんでした。結局は彼に勝てないんですけれどね。それがわかってるからできることもあります。」
最後にそう語る由美子さんの目はやはり「深く」「強く」その隣で笑うデュークは本当に嬉しそうだった。
◆参考URL
・NHK今夜は恋人気分・とっておき夫婦物語HP
・デューク更家公式HP
投稿者 TKM : 01:28 | コメント (4) | トラックバック
2004年05月19日
[個人的情報論] 最も価値のある情報のつくり方
天才達の思考法
大切なのは「問い」を考えることだ。
思索の際、あるテーマについて思考を巡らすというアプローチをとってきたがその方法には限界点がある。情報が内部循環してしまい思索の場で外部にある情報を取り入れることができない。
そこで僕はアインシュタインの方法を参考にしたい。
「もし自分が殺されそうになって、助かる方法を考えるのに一時間だけ与えられたとしたら、最初の五十五分間は適切な問いを探すのに費やすだろう」
ポイント思考といったらいいだろうか。
間違って伝えられているエジソンの99%の努力と1%の閃きの話と似ている。
エジソンは1%の閃きが全ての核になっておりそれが自分の考える発明の本質だ、といっている。補足するとそれは彼が考えているのではなく彼の頭の中にいる「リトルマンインマイブレイン」がやっているのだそうだ。極度の集中によって忘我状態に入り、そこからインスピレーションを得ていたと思われる。
同じように忘我状態を利用して創造性を活性化させているのが作家のダニエル・キイスである。彼の創作法もユニークだ。早朝、四時頃に起きる。朝はやいため少し眠い。眠い目をこすりながら書斎にむかいゆったりとしたイスに座りまどろむ。まどろんでいると夢うつつになりながら様々なストーリー、ビジョンがあらわれる。それを核にして創作を進めていく。「アルジャーノンに花束を」もこうした創作法によって生み出された。
画家のサルバトール・ダリも眠りと覚醒の狭間の忘我状態を創作に利用したひとだった。彼の創作方法はこうだ。
まず眠る時にスプーンを手に持ったまま椅子に座る。眠りに入ると手の力が抜けていき、持っていたスプーンが床に落ちる。落ちたスプーンの音でハっと起き、それまで見ていたビジョンをもとに創作を行った。その成果がこれらのシュールリアリスムを代表する作品の数々である。

◆サルバトーレ・ダリ アートギャラリー
http://www.dali-gallery.com/
情報にはいきたい場所がある
思案する、悩む、考える、などある時間に人が思考できるエネルギー量は一定である。対して外の世界に存在する情報は個人が処理できる情報とは比べモノにならない。ほぼ無限といってもいい。問題はこうした無限ともいえる情報をどう使っていくかである。
情報とどう向き合うか。
それによってその人の人生や幸せのカタチも決まってしまう。
幸せな人とは情報と上手につきあっている人である、という言い方ができると思う。
不幸せな人は知らないでいい情報を知り、知るべき情報を知らない人である。
情報はそれぞれその行き先を持っている。
ある情報がこの人にとっては最高の価値を持つけれど、別な人にとってはノイズと化してしまう、ということが多々ある。
僕が注目するのはここなのだ。
その人にいくべき情報がその人にゆくならば世界はどう変わっていくのだろう。
それを考えるのである。
例えば人と人の関係もそうだ。
その人が最も求められていてなおかつその人が最も能力を発揮でき悦びを感じる場や相手と出会えばその人もその人を含む環境そのものも活性化し結果として悦びのスパイラルがつくられる。
人の世界の問題の本質は情報が行くべき場所にいっていないことである。
物理的に不可能なのではなくルールや拘束によって不可能たらしめられている物事のなんと多いことだろう。それらは情報の振る舞いをかえ、伝わるべきところに伝わるべき情報を伝えていくという極めてシンプルな方法によって解決できる問題である。
奇をてらったやり方は必要ないのである。
伝わるべき相手や場所に情報を伝えていく。
必要なのはそれだけなのだ。
そのためにはまず情報にカタチを与えなければならない。
そのはじまりは「問い」を創る作業なのだと僕は考える。
問わなければ情報はその姿を現すことはない。
ネットの世界でもYahooなどのポータルサービスからGoogleの検索サービスへとスタープレイヤーがかわってきている。これなども虚無に近い情報を検索という「問い」によってカタチにしていくその過程に価値があることを示している、と僕は思う。
投稿者 TKM : 15:33 | コメント (2) | トラックバック
2004年05月18日
[俄] ミルコが渋谷に潜入!
今晩11:15からのNHK総合「ものしり一夜づけ」で格闘家のミルコ・クロコップが渋谷に潜入します。
いったい何故渋谷なのだ?
そして何故ミルコなのだ?
謎は深まるばかり。
格闘技に命を捧ぐものとしてこの映像は必見に違いない。
投稿者 TKM : 19:13 | コメント (0) | トラックバック
[俄] べく杯メモ
べく杯とはサイコロのようなコマを回して倒れた方向にいた人がその時に出た目と同じ杯(おかめ、ひょっとこ、てんぐ、うた)でお酒を飲む、という四国のお酒をつかった遊びである。
遊び方が書いてあったので引用しよう
飲み干してしまうまでは下に置くことができません。
この三面杯には、おかめ、ひょっとこ、天狗の盃と、こまが入っています。
遊び方は簡単で、こまを回して止まったときに軸の向いている方向に座ってい
る人が、こまに書かれている絵柄の可杯(べく杯)にお酒を注いで、グイッーっ
と飲み干します。
かわるがわる「こま」を回して、杯を決めながら一気に飲む、というのが可杯
の遊び方です。
食い倒れ党では時折べくはい大会を行う。これはポイントシステムになっていて、10回コマを回して一番ポイントが高い人が試練の旅に出る。
先回、しんのすけ亭でべくはい大会を催した時は僕と党首のやまけんが試練の旅に出た。やまけんは手にカエルの人形をはめ腹話術で会話しながらユニクロで女性モノのピンクのTシャツ、しかもSサイズを買って着て帰ってくるという試練。僕は手に鍋つかみをしたままコンビニにいって店員さんに「マウスウォッシュください、シュッシュ」とシャドーボクシングをする、という試練。しかし、マウスウォッシュがなかったのでアイスクリームをレンジで温めてもらうというアドリブを要求された。
これらの旅の一部始終は策士金子によって記録されておりそれぞれは反省と自戒の念を込めて次ぎのゲームに臨むことになる。
で、毎回どんな試練を課すのかが問題になるのだが今日、新たな試練がひらめいた。
「マクドナルドにいってビックマックのピクルス、肉ぬき、チーズなしを注文する」というのはどうだろう。あるいは吉野屋で築地メニューの「肉3切れねぎだくつゆぬき」という注文というのもなかなかではないだろうか。
更に試練度を上げていくと
「ヨッタマックを店頭でつくって持ってくる」
というのがある。
ヨッタマックについては下記のリンクの記事に詳しい。
◆ヨッタマック関連リンク
・ヨッタマックを作ろう!!
・ヨッタマックは本当に限界か?
・ヨッタマックへの挑戦
・http://village.infoweb.ne.jp/~nonn/yottamac.htm
・ヨッタマック
投稿者 TKM : 18:48 | コメント (6) | トラックバック
リスニングバー
米スターバックスが「リスニングバー」なるサービスを始めたことを知った。
スターバックスの店舗にそなえつけられたタブレットPCを使ってネット上から曲をダウロードしお好みのCDをつくることができるサービスである。機材とバックヤードのシステムはHPが提供しているとのことだった。
いつかそういうサービスがはじまるだろうな、ということは誰もが予想していたわけだがスターバックス&HP連合。動きが早い。日本では楽曲のダウンロード販売サービスははじまっていない。
この手のサービスの開始時は必ずといっていいほど音楽著作権がらみで一悶着ある。
ところで著作権といえば昨日の切込隊長ブログにあった「パブリックP2P」という考え方には感銘を受けた。まさにその通りである。コンテンツの入手手段としてWinny以外の解を提供できずにいるのが現在の進んだ情報社会の真実である。
ここがスタート地点なのだ。
できないのは技術の為ではなく政治的な問題である。
そして、政治が変わり、法が変わるとき、波は起こる。
投稿者 TKM : 05:38 | コメント (1) | トラックバック
ハイパーカードが消えた理由 ~ビル・アトキンソンさんの話をきく~
銀座Appleストアでビル・アトキンソンさんのお話をきいた。
アトキンソンさんはハイパーカードや初代AppleのGUIを開発した人である。
登場したアトキンソンさんは意外にグッドシェイプで鍛えている感じである。
現在は自然写真家として活躍されている。
前半はApple初期の裏話など。
後半はカラーマネジメントについて。
前半は通訳が逐次通訳で対応していたが後半のカラーマネジメントについてのお話は日本語で聞いてもほとんど外国語と思われるような専門用語のオンパレードの為、Appleの社員らしき男性(この男性がなぜか妙にダンディというか胸はだけてます系のいでたちでやり手のエグゼクティブだぜオレは、な雰囲気を十二分に醸し出している)がかわって通訳を務める。しかしいかんせん付け焼き刃。かみすぎで話がつっかえるは聞きづらいはつまらないはでどうしようもない。はだけっぷりもこうなると仇になる。
とはいえ約2時間におよぶAppleの基礎をつくった生ける伝説プログラマーの話は十分に刺激的であった。アトキンソンさんがAppleでMacをつくっていた頃、社員は30人だった。けれど辞める時に社員は15000人になっていたそうだ。さらっといっていたがこの変化は凄まじい。このドライブ感を体験できたということは素晴らしい経験だったのではないだろうか。
アトキンソンさんは
「いまだにハイパーカードをつかっていますよ」
と言っていた。フルスペックのG5に23インチのシネマディスプレイ。それがアトキンソンさんの環境だ。現存する最高スペックのMacにしてあるといっていた。そこで使っているソフト群について説明してくれた時に
「クラシック環境も入れてあるんです。ハイパーカードをつかうのでね。」
ハイパーカード。
創られたのは随分昔だがいまだに優れたインターフェイスの使いやすさは健在である。どうしてMacにハイパーカードが付属されなくなったのか疑問に思っていたのだがアトキンソンさんが教えてくれた。
「ジョブズとスカリーの対立があったことはご存じですよね。そのスカリーがハイパーカードのライセンスを持っているのでAppleはもうハイパーカードを使えないんです。残念ですけれどAppleがハイパーカードを使うことはないと思います。」
そういう理由だったのか。技術的な問題ではなく政治的な問題が原因で創造性を高めるソフトウェアが忘れ去られていくのは残念だ。
ハイパーカードの面白さは使ってもらはないとわからないのだが簡単にいうといまの1000倍の手軽さでWebページをつくることができる、感じである。
「そうそう私にとってマーク・アンドリーセンはヒーローなんです。何故って、彼がモザイクをつくったことで結果的に私が実現したいと思っていた世界が実現したんです。PC同士がつながっていろんな人が情報を共有する。それが私がハイパーカードでやりたかったことなんですよ。」
マーク・アンドリーセンを「私のヒーロー」ですと嬉しそうに語るアトキンソンさんがとても印象的だった。アトキンソンさんは根っからのエンジニアで自分の夢を追っている。カラーマネジメントのソフトを開発したのも自分の写真を完全な色で印刷したいと思ったからだといっていた。解説をきいたらアトキンソンさんの開発したソフトを使うと印刷において驚異的な成果を出すことができる、とのことである。
彼はもともとインターフェイスの研究者・開発者なのだがその彼がいま考えている未来のインターフェイスについて一つだけ教えてくれた。
アトキンソンさんはそのコンセプトをタッチプレートと呼んでいた。
キーボードに変わる入力用のインターフェイスである。
そこにはキーのような凹凸がない。完全な平面である。グラフィカルにつくられたもう一つのディスプレイと考えればいい。
板の上に無数の円が配置されている。
数は通常のキーボードの二倍くらいである。
この円のそれぞれにキーを割り当てる。
シフトでもいいし、アンドゥーでもいい。
面白いのはそこから先である。
これらの円はそれぞれユーザが好きなキーを割り振ることができる。
どんな言語でもいいので他言語対応も可能だ。
現在のキーボードは「打つ」「叩く」という動作が必要だが彼の考えるキーボードは「触る」ことで入力を可能にする。なめらかにすべるように優雅に入力する。
「例えばピアノをひくときに指は滑らかにうごきますよね。鍵盤を滑らすように指を動かすとメロディがこう流れる。同じようにこのタッチパッドでもスっと指を滑らせるとTHEという単語になったり。Iという文字をたくさん使うならIというキーがたくさんあったりすればいいと思うんです」
少し詳しく解説するとこういうことだ。
例えば英語だったらホームポジションの位置からINGという配列でキーがならんでいる。その下にはTHEという文字が配置されている。
通常、文字を入力するにはそれぞれの文字を一つづつ打ち込まなければならない。
例えばTHEという単語だとアクションは3つ必要になる。
しかしタッチパッドならば指をスっと滑らせるだけでTHEが入力される。
ワンアクションである。
僕たちが考えるのとは全く違う発想の仕方だ。
こういう人がMacをつくったのだ。
発想のベースになっている出発点が全然違うと感じた。
よりフィーリングな世界からきている。
心地よさとか優しさみたいな閃きというよりも遊びというか。
PCは単なる性能の向上ではなく人の気持ちよさをより高め、使う人の意識やモチベーションを高めていく、という方向に向かっているのだろうと思った。
++++++
夜から矢坂さんとアトキンソンさんの話をもとにブレストをした。
アトキンソンさんの話はPCの世界の話だが僕たちが話したのはネットワークの世界の話だった。ネットワークによってコンテンツはどのように変貌していくのか、それについていろいろと議論した。次回はその話についてまとめたい。
投稿者 TKM : 05:06 | コメント (4) | トラックバック
2004年05月17日
[雑記] コタロウ君の瞳
昨日はしんのすけ亭で室内ダッチオーブン大会であった。
最初は三浦半島のながしま農園で実施の予定だったが雨の為、中止。
急遽、ダッチオーブンの使い手たちが本城家に集結して室内大会を実施することになった。
ダッチオーブンや料理も最高だった。
料理については党首のページにのっている。
会がはじまった頃、本城家の長男、コタロウ君をあやすように頼まれたので久しぶりに赤ちゃんを抱いてみた。熊谷家の長女のいろはちゃんを抱いていらいだから赤ちゃんを抱くのは数年ぶりだった。
コタロウ君は聡明そうな目をしている。
目の奥に我欲が無いように見えた。
キラキラしている。
いい目だなあと思った。
媚びているわけではないのにメッセージが伝わってくる。
こんないい目をした子供もいるのだ。
荒濱さんの名言集で
「社長、どうして僕を採用したんですか?」
「目をみればわかるんだよ」
というのがあるがコタロウ君の目もコトバ以上の何かを語っていた。
環境が人をつくる、ということは十分にあり得る、と思っていたがコタロウ君をみていたら人が生まれつき持っている特性も同じくらい大きいのだと思った。
++++++
前場、後場を通じて市場は暴落とはいわないまでもIT関連はストップ安まで出ている。
株のランダムウォークは自分が介入していない限り、研究対象として興味深い。
業績や能力とは関係ない期待値で実体価値が変動している。
ではそれは何なのだろう。
まるきりの虚像ではないにしても全くの実体でもない。
物事はおそらくそういう風にできている。
これはこういうものなんだろうな、という程度の揺らいだ枠によってしか定位でいない。
あるものが「いい」とか「わるい」というのもその場を構成するコンテクストによって決まる場合がある。モノの本質的な方向性はある程度は決まっているがそれらが現実世界で認識されるその時点ではコンテクストが決定権を持つ。
価値とは大まかな幅のようなものである。
ものすごく大きな川の流れがあって、そこにモノを流し、流れ方を自分で制御することはできる。しかし、流れそのものは制御の向こうにある。
でも流れに飛び込まなかったらどこにもいけない。
投稿者 TKM : 14:02 | コメント (2) | トラックバック
2004年05月16日
[雑記] 帰宅
ようやく帰宅。
明日は党首からの誘いでダッヂオーブンのデビュー戦。
しかし雨は降り続ける。
雨天決行との宣言があったように記憶している。
ハナマサ、ダイエーとはしご。
24時間あいている店があって良かった。
あとはメキシコ空軍が発表したUFOの写真が気になるところである。
投稿者 TKM : 02:45 | コメント (1) | トラックバック
2004年05月15日
[雑記] 未来から流れる時間
朝、目覚める。
爽快である。
夢は忘れた。
いい夢も悪い夢も朝になると忘れる。
身体が重い。
昨夜の挑戦状に答えるべくトレーニングを再開した。
軽く川沿いを走る。
いい天気である。
いつもは聖路加の方に抜けるのだが今日はリバーシティーの方にまわってみた。
犬をつれたおじさんやおばさんが多い。
いい走りをしているのはたいてい外国人のおじさんである。
彼らは服装も似ているのでわかりやすい。
必ず短パンにジョギングシューズ、帽子、サングラス。
そんないでたちである。
プロっぽい走りをしている人がたまにいる。
マラソン中継にでてくるようなユニフォーム系の服装でランを決めている人もいる。
川沿いを抜けて清澄通りに出た。
坂をくだっていくと自転車のおじいさんに声をかけられた。
「走るのいいよね。身体にいいでしょ。オレもねやろうと思ってるんだよね、足がちょっとさ鍛えたくてさ。がんばってよ。いいよね。」
談笑してわかれた。
何年も走っているがおじいさんに声をかけられたのは初めてだ。
多少なりとも雰囲気が変わってきたのだろう。
以前は自分以外の世界に対していつかつぶしてやろうという気持ちが強かったがいまはそれもあまり考えない。
前はギスギスしたり人や物に当たったりすることが多かった。
自分の感情や意識を安定状態、気持ちのいい状態へどうにかもっていきたいという足掻きだった、と思う。
いま興味があるのはパフォーマンスの最大化である。
人にはその人の持っている基礎能力のようなものがある。
これを最大化すればあらゆる分野で人はある域まではいける。
最大化できないでいる最大の理由は感情と意識である。
何かをしようとする時にできないのは「やれない」のではなく「やらない」からなのだがその理由は物理的にできないわけではない。感情的にできない。意識的にのらない。というのが理由だと思う。
人間の意識や感情には量がある。
今というこの瞬間に持つことができる感情量は一定である。
パフォーマンスの最大化の実現にはこの法則を利用する。
話はそれるが最近おもしろい考え方を知った。
僕たちがやっているキュービタル研究会はキュービタル(量子的)という思想について考える会である。この会はもともと大学時代に石井威望先生に縁のあった人たちがあつまり先生の話を聞いてともすれば日常に埋もれがちな生活に喝を入れる、というものだった。
昨年、やまけんと知り合ったのをきっかけに僕も会での活動を開始したのだがキュービタルという考え方は現象としてまだ実体化している部分が少ないので言葉で説明することはとても難しい。そういう意味では体験的である、ともいえる。
世界ではパラレルに物事が進行しており、未来も過去も同時に存在し、いまの自分とそうでない自分がここに存在する。というような考え方なのだがこの考え方と似た考え方を昨夜見つけた。
チベット密教の考え方である。
チベット密教では時間は未来から流れてくるものとされている。
今をつくっている原因は過去ではなく未来にある、という考え方である。見つけたとき
「これってキュービタルだろ」
と思わず声を上げた。
キュービタル的には時間は未来からもやってくる。
今が未来をつくるのではなく未来が今をつくっている、と考える。
未来とは最大の情報である。
希少だから価値がある。
時間の概念を再構築していくことで感情と意識のマネジメントができるようになり、個人のパフォーマンスを最大化することへとつながる。
感情や意識が行動のブレーキとして働くのではなくドライブさせる方向にシフトすると個人のパフォーマンスはあがっていく。
時間の概念と意識のブレーキはリンクしている。
もう一つ自分が注目しているのが人間関係である。
人間関係を人と人がある特定の関係状態に安定することとして考えてみる。
友人関係、恋愛関係、家族関係、仕事関係、様々な関係性が存在する。
生活を構成する関係性は主に友人、恋愛、家族、仕事であろう。
この4つの関係性の状態とコンビネーションによって人は幸福を感じたり、不安を感じたり、不幸を感じたりしている、ように僕には見える。
この4つの関係性を良好な状態にしていくこと。
人の幸福とはそういうことではないだろうか。
(以下項目案)
・それぞれの関係性のポイント
・それぞれの関係性とパフォーマンス
・未来との関係
・どこに向かっているのか
・最後はコミュニケーション
・コトバの役割
投稿者 TKM : 08:39 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 24時間マラソンに参戦
しんのすけからの誘いで7月に行われる24時間マラソンへの参戦が決定した。
決まったとなればあとは練習あるのみなのでさっそくトレーニングを再開した。
自分でも笑ってしまうのだが決まった途端にやる気になった。
実は根っから走るのがすきなのである。
長距離は苦手意識があったのだが7月までには10kmを走れるようにしたい。
体重も10kgほど落とすことにした。
仕事もやることにした。
仕事である。
仕事をである。
快挙といってもいい。
++++++
やまけんと分かれてからH"の端末を機種変更しようとビックカメラに向かった。
入り口は人でごったがえしている。
一番目立つ場所に新しい端末のブースが設けられていた。
もしや、と思って確認すると京セラの端末は売り切れであった。
新しい端末はQVGAのディスプレイとフルスペックのWebブラウザを搭載している。
試してみたかったのだがしばらく待たなければならない。
こうかいぼうの味を身体が求めている。
そう感じた。
やまけんにもらったウドの苦みを思い出しつつ門前仲町へと向かう。
時間は午後7時40分。
店の前につくと今日ははやくも閉店であった。
おそらく30分の差であろう。
築地のなじみの店で夕飯を食べることにした。
以前は月に一度は顔を出していた店だが最近はきていなかった。
食事をしていると店の女の子が奥からでてきた。
主と話をするともう6歳になったのだそうだ。
もう小学生なのだそうだ。
以前、店にきていた頃は彼女はまだ2歳くらいだった。
あの子がこんなに大きくなったのか。
時の流れを感じるよりも幼少期の人間の成長がいかに急速であるかを思い知った。あの成長力を常にキープできたら人はどこまでいけるのだろう。
食事を終えて、談笑してから新橋に向かった。
本を探していた。
新橋に向かう途中、いつもと違う道を通った。
汐留の交差点は入り組んでいて自転車でいくと新橋側に渡ることができない。
だからいつもは晴海通りを通って新大橋通りを渡ってから新橋方向に向かう。
今日は何故か汐留側からいった。
遠回りだがたまには迂回して電通ビルの前を通っていくのもいいではないか、そう思った。
しばらくいくと警官が路上で人と話をしていた。
3人くらいの人が集まっている。
タクシーも止まっている。
道ばたにも3人くらいの人がたっていた。
事故だろうか。
タクシーをみるがキズはない。
破損したくるまも見あたらない。
接触かなにかか。
通り過ぎようとしたその時、僕の視界に倒れた人の姿がうつった。
ヘルメットをかぶった人がうつぶせに道路にそって倒れていた。
ピクリとも動かない。
手も足も何もかも微動だにしない。
フルフェイスのヘルメットが路面に密着している。
足はやや開き気味にでも片足がゆがんでいた。
左腕は身体のわきに手のひらをしたに肩のあたりにそえられるように、右手は投げ出されている。革ジャンが見えた。
視線を移すと植え込みにトリコカラーのカワサキZXRがつっこんで大破していた。
女性が「がんばってね」と声をかけている。
しかしライダーはぴくりとも動かない。
警察官は焦る出もなく何かをメモしている。
タクシーの運転手も何をするでもなく見ている。
そこにいる誰もが何をすることもなく見ている。
すぐ脇を車とタクシーがすごい勢いで通り過ぎていく。
バルチックカレーのあるあたりの交差点でバイクがクラクションをならすのが聞こえた。
続いて爆音。
車とバイクがふっとんでいく。
そして目の前では何もかもが止まっている。
駐車していたバイクをとりにきたカップルがバイクにまたがろうとしてこちらに気づいた。彼らはバイクから降り、しばらく何をするでもなくこちらを見ていた。自分を含めそこにいる人すべてが通りかかった人すべてが何をするでもただそこで見ていた。
投稿者 TKM : 00:52 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月14日
[俄] 富士山にあいたい
いつでも富士山にあえる、そんなサイトを見つけた。いいコンテンツだと思ったので紹介しておきたい。
カメラとテープができるまで雲をこんなふうに観ることは不可能だったわけで僕はそこに意味を感じずにはいられない。
ネットワーク以前にはみることができなかった風景がみえる、そんな日もくるはずだ。
投稿者 TKM : 23:33 | コメント (0) | トラックバック
[エッセイ] 梅田望夫さんと環境とドライブ感
梅田望夫さんのオフラインミーティングに行くことになった。
何か質問を書いたらしいのだが思い出せなくていたがハっと思い出した。
確か感覚のドライブと環境についての質問だったと思う。
思い出してみると、そうそう、そうだそう、と急に記憶が鮮明になる。
そういえば自分は感覚のドライブについて考えていたのだ。
感覚のドライブの気持ちよさと忘我感は人の行動の根本部分とリンクしている。
でも、どうやってドライブ感を引き出すのだろう。
僕は思うのだが「こいつすごいヤツだな」という人はこのドライブ感を自分流のやり方でマネジメントし、自在に引き出しているように見える。できる人とそうでない人の違いというのは基本的な能力の差というよりもドライブ感の引き出し方にあるように思えるのだ。
会議のプロという人が世の中にはいる。
ファシリテーターもそのひとつだろう。
彼らがやっているのは学習者の感覚をドライブさせることだ。
気持ちいい人というのはその人といると感覚がドライブしていく人のことではないだろうか。にぎやかだとかパワフルだとかそういうこととは別にその人と空間を共有すると自分の中にあるやる気が発動し、無意識にやってみたい、やってみよう、やってみる、とだんだんと自分が活性化し、自分の気持ちを加速される。そんな人がたまにいる。そういう人に出会うと一日が全く違ったものになり、世界が変貌して見える。
これを何と呼んだらいいのだろう。
力は力だがあれは何なのだろう。
僕がいま一番興味があるのはこの「引き出し力」である。
複雑系の言葉を使うならば「引き込み現象発生力」。
おそらく業種や職種は関係ないだろう。
人間力の一部なのだと思う。
恋愛においても社会的活動においても、個人として生きる場面においてもあらゆる場面で人間力が問われるようになってくる、と僕はかんじている。何になるかということではなくてどんな「人間」になりたいか。
「13歳のハローワーク」は「どんな職業があるのか」についての本だが。
本当に必要なのは「どんな人間がいるのか」ではなかろうか。
最後はそこに行き着くと思うのだ。
だったらそこからはじめるのが一番の近道。
というのが僕の考えである。
投稿者 TKM : 16:11 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] べくはいTVとかっこいい言葉
友人のデジタル漫画作家金子とムシキングの調査に出かけた。
銀座博品館にムシキング広場があったので実際にプレイしてみる。
実によくできている。
じゃんけんとカードゲームをうまーく組み合わせてある。
金子の話だと子供達の間ではやっているとのことだったが博品館のムシキング広場に集っていたのは40代の男性ばかりであった。資金力があるのでそれぞれがもっているカードは束のようになっている。子供の遊びの領域を完全に逸脱していた。
外国人の親子がムシキングにトライしている。
日本語がわからないようで何をすればいいのかわからないようだ。
金子が通訳をしてあげるが子供はグーチョキパーボタンを連打している。
調査ついでに「塊魂」もやってみる。
これまたよくできたゲームだ。
操作がシンプルなのがいい。
「やっぱりねシンプルじゃなきゃだめなんだよ。これはアイディアはあったけれどハードが追いつかなくてこれまでできなかったゲームだね。」
と解説をききながらやってみる。
隣に最新版のソニックがあったのでそれもやってみる。
「いい浮遊感でてるな~」
との談であった。
調査を終えてから、スターバックスで会議。
いろいろと企画がもちあがる。
全然違うところから話がすすみ「べくはいTV」つくろうか、という話になる。
プロの音楽家もいるし、党首も悦んで出演してくれるだろうから、まずは2分程度の番組をつくる、ことになった。誰に見せるというわけじゃなく、オレらがアソブ為につくるわけなのだが「べくはい」の普及活動においては重要なコンテンツだ。
ついでに食い倒れ党のプロモーションムービーもつくることにした。
これまた党のプロモーション活動において重要な役割である。
そうだ忘れていた。
「任天堂はこれまでずっと、ゲームのための会社だった。他社が新機能や新ハードウェアのプレゼンを、どれだけセンセーショナルにするかを話し合っている間にも、我々はゲームを面白くすることにフォーカスしている」
という言葉がカッコ良かったのでメモしておこうと思ったのだった。
投稿者 TKM : 14:21 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 仲間と
久しぶりに朝帰り。
仲間と語らう。
悪くない。
これはまた全然違う話。
綺麗な人に会った。
世の中には綺麗な人もいる。
視線で挨拶を交わした。
いいものだな、と思った。
友人達はみんないい女だ。
自信を持って言える。
これはすごいことなのだ、と帰りの電車で思った。
あらためて思うがいい女ばかりよくも集まったものだ。
これも関係ないが最近といわずまえからだがやたらとついている。
こわいくらいなのだがこればかりは仕方がない。
引きが強いというか運が異様にいい。
きてるなー、という感じである。
なんとかしてほしい。
投稿者 TKM : 07:31 | コメント (4) | トラックバック
2004年05月13日
[夢] 石井先生と潜水艦に乗る
石井先生とスカイダイブする夢を観た。
その後でやまけんが機関長を務める潜水艦に乗り込む。
潜水艦には他に5人くらい知っている人がいた。
やまけんは艦に向かう途中のカーウォッシュセンターのドックでロシア人に「馬鹿野郎、海でまってるよ」と言い残して去っていた。
そうかこれから戻ることのない航海へでるんだっけ。
頭の中で過去がフラッシュバックする。
そもそも僕たちは何故この船に乗ることになったのだ?
今日は卒業式なのに。
5つくらいのストーリーが同時に頭の中を駆け抜けていく。
焦燥にかられた感情とドラマとおかしさが入り交じる。
どこが現在だったのだろう。
ゆっくりと意識をチューニングし潜水艦が横付けされている岸壁にいってみる。
確か先生は本を書いていたはずだった。
やまけんとオレはその広報を任されていて、そのネタで何を使おうとしていたのだったか。正と負の中間にある何かを使った現象、あるいは研究があって、その成果を僕たちは知っていた。
夢から覚める頃には医療現場を走っていた。
++++++
午後から久しぶりに金子とミーティングだ。
投稿者 TKM : 11:22 | コメント (0) | トラックバック
[雑感] 仕事なにやってるですか?
という質問があきれるほど多い。
何ってなあ。
オレの仕事は「頭の整理屋と引き出し屋」です。
投稿者 TKM : 06:58 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 雑多な一日
振り返ると雑多な一日だった。
朝まで仕事をして眠って起きて、某社に人を紹介し、車中で人材派遣の人のことや今日、互いの思いこみによって生じてしまった時間のロスをつくってしまった自分の甘さというかミスについて考察しながら大学にいって先生と打ち合わせをして、池袋を探検し。そうだ宮島さんに電話しよう、と、したのだが夜だったのでやめて、新宿で麺通団を攻め、本を読んでから、もうやんカレーを攻め「MONSTER」を2巻まで読み。気持ち悪くなって思いっきり戻し。築地に戻って、オリオンビールを見つけ、それから新富町まで歩き、新橋にいって続きの16冊を読み始めて間に「勇牛」を読み、朝に築地を抜けて帰宅。
「MONSTER」の一気読みで頭がかなりトリップ状態になった。
新橋のビルの7Fでオットマン付きの椅子に座っている自分。
見えないけれど周りはおっさんとリーマンがたくさん眠っていてガラの悪いことこの上ない。あるおっさん、いやそいつは若いのかもしれないがスゴイいびきであんまりひどいので席をかえてもらった。
何故にこの人々は家に帰らずここで眠るのか。
寂しさを通り越して不可思議さを感じた。
ガラの悪さと書いたが、正確にはガラの悪さではなく公共性の欠損と品のなさといったらいいだろうか。大声で話す店あがりのおばさんとか目がうつろなおっさんとか、この世界にはこんな人々もいるんだ、と変に感心していた。
普段の生活では交差することのない人々と同じ空間にいる。
そんなことを考えていたらどことなく異国にいる気持ちになった。
イスに身を沈めた感じがアジアでよくいったマッサージ屋に似ている。
(足裏マッサージ屋にあるようなグーっと沈み込む感じのイスとオットマンがおいてある)ヨーロッパが舞台の漫画をずーっと読み続けていたせいか頭の中はドイツと東欧に染まっている。妙な没入感のせいでどこからどこまでがいまでどこからどこまでが本の世界なのかが瞬時に切り替わらなくなってきているのがわかった。
ストーリーの持つ力はすごい。
金子からメールが入っていて任天堂の新型携帯ゲームマシンの発表があったことを伝えていた。画面でチェックするとなるほど「キュービタル」なマシンであった。
思考を切り替えて自分の中身を分解していくように感情や感じることを切り分けていった。断続的に訪れる思考の波を少しづつ棚に入れていく。思考の波が意識を覆っていきそうになる。砂浜につくった砂の城が波で崩れていくように棚から感覚や感情が落ちきては流れていく。それでも地道に棚に入れていく。それをしばらく繰り返す。ゲームみたいなもので同じ思考を何度も何度も棚にいれてとやっているうちに少しづつ要領がわかってくる。
しかし目的がないせいか作業に切れ味がない。
どうすればいいのかという部分に確信がないのが原因だ。
二つの思考が巡る。
こうすればいい。
いやこうしてもいい。
どちらがいいのかはわからない。
だから棚にいれては波にさらわれる。
これを繰り返す。
思考はいくらやってもやり直せる。
だからもういちどやってみる。
繰り返し繰り返しやってみる。
「優しさ」とか「思いやり」「気づかい」は悪いことなのだろうか?
半端だから駄目なのだ、と先日、あるおじさんに言われた。
初めてあった人だが1時間以上話込んだ。
その人がどんな人なのかを知りたいといつも思っている。
だから話を聞くのは嫌いではない。
自分がありながら自分を消せればいいのに、と思った。
そういえば「勇牛」に禅問答が出ていた。
懐かしかった。
投稿者 TKM : 06:42 | コメント (2) | トラックバック
2004年05月12日
[雑記] イチローの作文と朝の机
仕事を終えて3時頃に外に出た。
角を曲がってコンビニで買い物をしようとしてふと見上げると高層マンションの向こうに三日月がおぼろに輝いていた。
ビルとビルの間からみる月は藤田先生の描く表紙の絵に似ていた。
藤田先生は仕事でお世話になった会社の社長さんの旦那さんである。
スティーブンキングや宮部みゆきの本の表紙のイラストを数多く手がけている。
みんなで代官山の焼鳥屋に連れて行ってもらった。
その店は偶然はいったのだが雰囲気がモダンでおちつく。
バシ師匠とも一度いったが師匠も絶賛であった。
東京の焼鳥屋では新富町のさくらやとその店がお気に入りだ。
よく雑誌や本に載っている店にはいったことがない。
飲食店に限らずお店がメディアに取り上げられるとサービスの質が落ちていくように感じることが多いのだが気のせいだろうか。
ビジネスや投資は料理店を選ぶのと似ているように思う。
どんな地方にいってもおいしいお店がある。
しかもそれらのお店に派手さはない。
ひたむきに美味しい。
僕はそういう店が好きだ。
月をみていたら「この月にはかえられないな」という気持ちになった。
何にかえられないということはないが午前3時に月をみて「いいなあ」と思えるのは幸せだと思った。
朝方、午前6時。
聖路加タワーの前にある机で勉強した。
生まれて初めて朝に空の下で勉強した。
こういうのもいいもんだな、と思っていたら鳩が二羽飛んできて周りを歩き始めた。
少し肌寒くなったので部屋に戻った。
今日は水曜で築地は休みなのだが道を走る車の音が耳についた。
うるさいのは回転するタイヤと地面が接触するの音なのかエンジン音の方なのか。
音のない車をつくりたいと思った。
「日本の車は音がしない。」
そんなだったら面白いだろうに。
そしたら世界は変わるだろうか。
昨日、安岡正篤の本をぱらぱらと読み返したせいだろう「何もかもを取り去った後に残るもの」という言葉を何度か思い返している。
しんのすけのブログにイチローが6年生の時に書いた作文が載っていた。
負けた、と思った。
世界のイチローはすでにこの時にはじまっていたのだ
投稿者 TKM : 07:09 | コメント (0) | トラックバック
[俄] PowerBookG5
PowerbookG5か。なんともこの厚さが重そうで重圧感がある。10Kgくらいだろうか。
マスダさんのページで紹介されていたのだがさすがにこれは持ち運ぶのがきつそうだ。
投稿者 TKM : 00:47 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月10日
[エッセイ] C:ドライブの謎とコンピュータと優しさ
購読しているメールマガジンの一文。
読んでいて思わず「そうだよなあ」とつぶやいてしまった。
確かにいまだにWindowsのドライブ名は(C:)とか(D:)になっている。
また挙動不審な動きを見せることも多々ある。
XPにおけるタスクバーのインターフェイスの悪さは表彰モノである。
IMEを外に出してもとの位置に戻すだけでかなりの手間とテクを要する。
インターフェイスに振り回されると優しさの欠如を感じるとともに「機械だなあ」と隔世の感を強めてしまう。
今は久しぶりにOS Xでこのテキストを書いている。
Macを絶賛するつもりはないが優しさと暖かみを感じる。
この感覚を得るためだけにOS Xを使ってもいいかなと思う。
Intelで動くOS Xがあったら即乗り換えるのだけれど。
それはかなわぬ夢だろうか。
追伸:コンピュータやOSについての議論はもう性能ではなくて「優しさ」とか「雰囲気」「気持ちよさ」という方向にシフトしていると思う。例えばマニュアルのいらないコンピュータがあったらWindowsも使われなくなると思う。ブラウザとメーラーとメッセンジャとエディタだけあればノートとペンにあたるおよそほとんどのことはできるだろうから。
投稿者 TKM : 18:03 | コメント (3) | トラックバック
[エッセイ] 小鳥の声
鳴き声がするのでベランダをみにいくと小鳥が来ていた。
雀よりは3まわりくらい大きい。
小鳥は最後に一声鳴いて小雨の空に飛び立っていった。
ペットを飼ったことがないので動物に愛されるという感覚はあまりない。
友人の家に遊びにいったら犬がいた。
元気のいい子犬でやたらと人なつこい。
犬や動物がかわいいのはそこに悋気がないからだと思った。
彼等には底意がない。
底意がないから迷いもない。
「迷いなきとき人、ひとにあらず」
たしか「エースをねらえ」で宗方コーチのおじいさんがいった言葉だ。
「エースをねらえ」にはやたらと禅的な言葉が多かった。
ほかにもいくつか名言があって、覚えているのだと、蜘蛛の巣柄の浴衣をきてタバコをくゆらせつつ宗方コーチがいう一言。
「藤堂、女の成長を妨げるような愛し方をするな」
この時の目の下の雨のような線がまたいいので機会があればチェックしてもらいたい。
++++++
身体がこわばると思考もこわばる。
思考をやわらかくすると心も柔軟になる。
心がおだやかになると世界は違って見える。
怒ったり、ムカついたり、憤ったりしたときは心をほぐすといい。
100年後にはどんな人も等しく老人だし、200年後にはどんな人も死んでいる。
つまらない人間ほど騒々しくがさつである。
その人から全てを、地位、身分、報酬、親子、妻子、そういったものを全て取り去ったときに残るもの。
あらゆるものを略奪していって最後に残るもの。
あるいは何が残るのか。
それがその人の人である。
投稿者 TKM : 13:50 | コメント (0) | トラックバック
[エッセイ] 情の人と銭湯
数年ぶりに銭湯にいった。
月島西仲商店街(通称もんじゃ通り)の丁度まんなかあたりにその銭湯はある。
数年前は友人と一緒によくここに通った。
湯船につかりながらいろいろな話した。
心が疲れているなあ、と感じる時は銭湯にいくといい。
少なくとも数十分は何も考えていない。
サウナを出たあとの冷水につかる瞬間に悪意や敵意を抱くのは難しい。
心が疲れている時は大勢の人と会うことは避けた方がいい。
話ができる相手と二人で話すと心の疲労はやわらいでいく。
良質なコミュニケーションはどんな処方箋よりも効果的に心を暖かくしていく。
人はどんな人でもいい。
智の人でなくてもいい。
才の人でなくてもいい。
ただ一つ情の人でなければならない。
学生時代に読んだ安岡正篤の本に書いてあった。
以来、時々、思い出すけれどすぐに忘れてしまう。
どう生きるかということについて考えることは意味がなく、今を生きることを回避しているに過ぎないのかもしれない。けれど本当はこう考えるべきだ。どう生きるかを考えると同時に行動し実践するにはどうしたらいいか。
銭湯に変わった人がいた。
彼は湯船に腰掛けてひとり何かを話していた。
観察しているとバスガイドの動きと似ているように見えた。
どうやらガイドの練習をしているらしかった。
左手を口に添えマイクがわりにしている。
面白いヤツだなと思ったのでしばらくみていた。
話をしようと思ったがサウナ券を持っていないようで彼はサウナには入ってこなかった。
外の露天風呂に行ってしまった。
惜しいことをしたなと思った。
風呂という閉ざされた空間を共有していても見知らぬ人同士が知り合う機会は驚くほど少ない。コミュニケーションのチャンネルがつくられてはいないのだ。語り合える風呂屋があったらいいのにと思った。
風呂を出てロビーでコーヒー牛乳を飲もうと腰掛けると丁度さっきのガイドの彼が「おやすみなさい」と帰っていくところだった。
投稿者 TKM : 12:45 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月09日
[雑記] ベンツの男(Iみつ氏ではない)に10人強の警官がつめよっていた
新幹線を降り、やまけんと別れて東京駅から自転車での帰り道。
リバーシティにさしかかるあたりで警官が10名ほど集まっていた。
パトカーも3台くらいきている。
奇声も聞こえる。
空気が少し殺気立つ。
負のカーニバルの予感がする。
黒いベンツが止められている。
警官5人がトランクをあけて職務質問をしている。
短パンをはいた30歳くらいの男性が奇声をあげている。
少し茶色い髪は短く刈り込まれている。
助手席の女性が降りてくる所だった。
男性は大声で「おまえらの給料はさ、俺らの税金だろ。何なんだ。何をしたっつーんだ」と警官に食いかかる。確かに彼の言う通り。彼は車でそこを走っていたに過ぎないのだろう。過去にはあったかもしれないがいまは何もやましいところはない、ように見える。
たった一台の車相手に10人からの警官と3台のパトカーとは大げさに思える。
ある晩、かちどき橋をわたっていると酔っぱらいがとびかかってきた。
彼は自転車に乗ってその場を通りかかり、パトロール中の警官に職務質問をされていた。
僕は結婚式の帰りだった。
職務質問の様子を見つめた際に目があった。
職務質問をされたことへの憤りがそうさせたのだろう。
男はこちらに向かって猛烈な勢いで突進してきた。
警官は羽交い締めにして彼を押さえこむ。
しかし酔っぱらいのバカ力は半端ではなく、羽交い締めにしていた警官はあっさりと引きはがされた。ステップで避けたが驚愕はそこからの警察組織の機動力であった。通常、パトロールは二人でまわるのだろう、もうひとりが応援を要請しているのが見えた。それから1分もしないうちにパトカーが3台くらいが勝ちどき橋の真ん中に集結した。一瞬の出来事である。
築地と勝ちどきの交番から自転車も5台くらい集まった。
気づけば僕と酔っぱらいの周囲を10人以上の警官が取り囲んでいた。
これはやられたことがないとわからないと思うがなかなかの威圧感である。
酔っぱらいは結局、身分を証明する術がないのでそのまま連行されていった。
手際の良さに拍手を送りたい気分だったがその時、僕はあることに気づいた。
あとから応援にきた警官達は全員が全員、めちゃくちゃに楽しそうだった。
「やったるぞ」みたいな空気がバリバリ伝わってきた。
人が喧嘩するときは感情と感情のぶつかりあいがあるわけで、何故か楽しい、ある意味アトラクションのようなものだ。
警官達も全くそれと同じ感覚で僕たちをみていた。
そういえば昨夜のリバーシティのたもとの騒動でも近くのコンビニの前でそれを眺めてコメントしている人がいた。
事件はそれが自分にとって直接の害がないかかわりかたをしている限り、最高によくできたエンターテイメントなのだ、と思った。
投稿者 TKM : 01:18 | コメント (3) | トラックバック
2004年05月08日
[食い倒れ党] 代々木大会開催@タイフェスティバル
党首やまもとからまたしても緊急招集指令。
明日は代々木公園のタイフェスティバルに出動です。
タイ料理関係で80店舗くらいの出店がでるそうです。
参戦希望者は党首やまもとorカガヤへメールなどいただければ現地で党大会に合流できます。
投稿者 TKM : 14:10 | コメント (3) | トラックバック
[俄] 世界食い倒れ党、結党宣言
昨日、やまけんから緊急招集がかかり噂の食い倒れ御免状の店にいく。
「同士、ペース配分を忘れるな」
とのやまけんのアドヴァイスに耳を貸すことなくスタートから果敢に攻めるも前菜を終え、一皿目のパスタにさしかかったあたりで暗雲が立ちこめる。
果たして、最後までいけるのだろうか?
二皿目のパスタで不安は徐々に実体化していく。柿安ダイニングの売り場にあるお皿がそのままでてきたかのような怒濤の盛りにクラクラと意識が遠のいた。隣を伺うと人間ブラックホールやまけんが全く衰えないペースでがっついている。ニッと笑顔を向けられた。
気を取り直して皿に向かう。
危ないあぶない。
++++++
今日の食い倒れ御免状は大学の同期のコザワくん(テレ東の「ガイアの夜明け」をつくってる)と同僚のウエちゃん、オレ、やまけんの4人。コザワくんとは少し話しをしたのだが大学でやっていたことの方向性が似ていることがわかった。
政治、情報論、闇の日本、などなど面倒な説明をしなくても話が通じるのがうれしい。
話をしながら自分のいま向かっている方向がレーザー化していないことを痛感する。
キュービタル化は進んでいるがレーザー化があまいので切れ味が鈍っている。
自分でも自覚できるくらいに鈍っている。
最近、やまけんと出会うまで研究室をでていら10年以上、言葉を使っていなかったせいか、思うように言葉がでてこない。頭ではこういうことというイメージがあるのにそれを的確な言葉に置き換えることができない。テキスト化することはできても言葉として発することが難しい。
ん?
発する、はっする、ハッスル。
今日は「ハッスル3」に参戦するのだ。
ハッスル3の舞台監督の方からチケットをいただいてやまけん、オレ、バシ、アラハマ先生と4人の馬鹿野郎どもがハッスルポーズを決めまくる。おそらく小川選手とも至近距離で遭遇することになるだろう。プロレスは遠くからみるのとリングサイドでみるのとでは面白さが全く違う。至近距離であればあるほど妙な熱気、ライブ会場のノリと同種の一体感が意識を高揚させていく。
全然関係ないが先日、Sports Graphic Numberベストセレクションの序文を読んだ。
Numberという雑誌がいかにして生まれたかを編集長が振り返っているのだが沢木耕太郎の一言がポイントになっていたことは知らなかった。いい文章だと思った。
序文を読んでから本文を読むと意味が違ってみえた。
++++++
話を食い倒れ御免状にもどそう。
三皿目のパスタを食べ始めたあたりで口笛をふかんばかりのさわやかさでガツガツと攻め続けるやまけんをみていて思った。これはある種の道である、と。
そう、やまけんは食い倒れを「道」の域まで高めつつある。
食い倒れにかかわる人々、店、客、同伴者、その全てが食い倒れの前に敵意をなくし心を開いていく。
食い倒れは人と人のコミュニケーションを加速させはしないが心を温厚にしてく、緩慢ともいえる緩さで徐々に思考が説けていく。食い倒れ感覚とは胃から脳への非戦指令なのだ、と理解した。
これはもはや一人の趣味の領域を超えている。
ある種の思想、政治思想といってもいい。
だからこそやまけんの周りには愛すべきバカ野郎どもが集うのであろう。
それは忘我の境地。
しかし決してユートピアの幻想ではない。
食い倒れとはアスリートに徹することである。
食い、そして、倒れることなかれ、それが食い倒れの思想である。
故に、己の肉体の鍛錬はかかせない。
現にやまけんは過剰なまでのトレーニング、ライガーなみの肉体をもって自らの食い倒れ道を究めようとしている。この男の知行合一への道に僕は強く惹かれ、そして、思った。
「世界食い倒れ党」
まさに今日、この日、世界食い倒れ党がこの世界に解き放たれたのだ。
党首、やまもとのもとに集いし、バカ野郎どもに目の前の皿を楽しむこと以外の思考は許されない。
それが入党の最低条件であり、食い倒れ道においての闘争は不可能とされる。
現実的にも異常な満腹状態で敵意、悪意、を抱くことはまず不可能である。
人は暇であるからこそ腹を立て、争う。
食い倒れチャレンジ中において暇を感じることは不可能だ。
誰しも食べながら別なことを考える余裕はない。
幸福と悦びへの果て無き自己鍛錬。
それが世界食い倒れ党の思想である。
この皿をたべればどうなるものか
危ぶむなかれ
危ぶめば道はなし
この一箸が道となり
その一箸が道となる
まよわず食えよ、
食えばわかるさ、ありがとー!
とここに世界食い倒れ党、結党を宣言をする。
合掌。
投稿者 TKM : 13:19 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月05日
[俄] 日本の未来/魔女の一撃
こういう活動に未来を感じる。
ドンキホーテやファミレスみたいなものも否定はしないけれど本筋はこちらだと思う。
あらゆる側面、生活や仕事や感覚みたいなものがプロジェクト的、いうなれば「俄」的になっていく、と人も世界もハッピーになる。と僕は思う。
朝からこんなものを見つけてしまいハッピーである。
++++++
全然関係ないがギックリ腰のことをドイツでは「魔女の一撃」と呼ぶらしい。
いかしている。
投稿者 TKM : 06:46 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 10 years 渡辺美里
中学生の頃、渡辺美里の曲をよく聴いていた。
今朝、スミノフを飲みながら10年ぶりに「10 years」を聴いた。
暗いような明るいようなナイーブかつ健気な歌だと思った。
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僕の敬愛する人に電設会社の社長がいる。
二人でビールを飲んでいるとよく「22歳の別れ」を弾いてくれた。
違う歌だが同じ空気を感じた。
モードが共通しているのだろうか。
投稿者 TKM : 06:12 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] タコ焼きと黙示録
雨が降る。
雨が降る。
四谷のジョナサンで本を読んでいたら午前3時だった。
外にでると小雨がふっている。
夜、出かけるとき、皇居の前を通りながら帰りは濡れて帰りたいと思った。
現実として雨に濡れてみると思っていたよりも冷たかった。
数日前、タコ焼きをつくろう、という話をしていた。
帰り道。
ドンキーでタコ焼き器をチェックすると狙っていた鉄板単独タイプはなかった。変わりにコンロと一体化したタコ専門器がおいてあった。
雨はまだ降り止まない。
カマンベールチーズを発明したのは誰なのだろう。
家にかえってシャワーを浴びてチーズを食べながら考えた。
やまけんにきけば知っているに違いない。
友人の中にあきらかに人生の達人とおぼしき人々がいる。
やまけんとしんのすけはそのひとりだ。
もうひとり、我が心の師は異国の空の下で今日も笑顔でいるのだろうか。
迷うとき、困ったとき、心細いとき、その人を思い浮かべる。
かの天才は何も考えることなく行動するだろう。
そういう人だ。
自分に師と言える人が何人くらいいるのだろうかと考えてみた。
考えながらカマンベールチーズを囓る。
この味を言葉で表現することは不可能だろうか。
夢の中では味も再現される。
記憶として定着させることができる感覚や感情ならばそれらは同時に再現も可能だと僕は考える。
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「薔薇の名前」という小説のことを思い出した。
映画ではショーン・コネリーが主人公の修道僧を演じていた。
言葉という単語でウンベルト・エーコを思いだしたせいだろう。
言語学者が書いた小説が世界的なベストセラーになったというのが興味深い。
「薔薇の名前」の細部は忘れたがミステリーとしてよくできた話だった。
この小説の中でストーリーの核になるのは「ヨハネの黙示録」という予言だ。
黙示録という言葉は日本ではあまりなじみがない。
五島勉の予言書シリーズではよくでてきた言葉だが1999年以降、五島勉とともにどこかに消えてしまった。
投稿者 TKM : 05:34 | コメント (3) | トラックバック
2004年05月04日
[雑記] さらばヘルメット、答えは「ノン」
「敵を愛しなさい」
昨日みた「パッション」の中のセリフである。
買い物を終えて帰ってくる途中、上記のセリフがよみがえった。
「敵を愛しなさい」
言葉は知っていたが知っていることとあの映像の中で語られるのとでは聞こえ方が全く違った。
++++++
キリスト教についての映画はいくつか観たことがあった。
「最後の誘惑」は好きな映画の一つである。
「ベン・ハー」のオープニングもキリストの誕生から始まる。
「第7の予言」もキリストが登場する。
「インディージョーンズ」もキリストの遺品を巡る冒険である。
しかし「パッション」が描くキリスト像はこれまでみたどの映画とも異なっていた。
観ながら映画とは何なのだろうと考えた。
2時間弱を椅子に座って過ごす。
人々を眺めた。
画面を見つめる人。
子供を連れている人。
この場所に集う人々が互いに知り合うことはない。
それぞれはそれぞれの世界を生き、それぞれの世界で死んでいく。
映像と音を椅子に座って見続けていた。
その後、夜の街を自転車で過ごした。
皇居から見上げると雲のない空に月が浮かんでいた。
明日は雨だ、と予報ではいっていたが月をみていると予報が本当だとは思えなかった。
12時過ぎに岡田の家にいって試合を観た。
しばらく話をしてから帰った。
かちどき橋までくると明け方の空が少し明るくなってきた。
++++++
目を閉じると雪が舞うのが見える。
さっきみた映画のせいだろう。
独特の言い回しはフランス語のせいだろうか。
アニメでもセリフは難解だった。
いっさいやる気が起きないのは不健全なことではない。
方向転換の指示が出ているだけだ。
少し考えてみた。
仕事については大まかな答えは出た。
生活についても自分の向き不向きはわかった。
夢を見はしたがそれは夢である。
「ノンはいい言葉だ」
とさっきの映画のセリフにあった。
この世界はスパムメールと似ている。
ヘルメットをかぶって暮らすなら信号の日々だ。
だから「ノン」というわけだ。
投稿者 TKM : 22:47 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月03日
[俄] ビーチバレーに撃沈す
友人から挑戦状が送られてきた。
「金沢文庫でビーチバレー対決」
朝っぱらから電話で「今日は寒そうなので長袖を着用」とのアドバイスを受ける。いざ出陣してみると実際に寒い。金沢文庫について砂浜を堪能するまもなく、さっそくバレー開始。15年ぶりである。
砂の上だと転んでも大丈夫なので調子のって飛び込んだり、滑り込んだりしているとあっという間に時間が過ぎる。ちょっと足が疲れた、という程度だと思っていたのだが昨年の骨折以来痛めた腰に痛みが走る。腹筋と背筋のバランスが崩れているのだ。
それでも気合いで全行程5時間弱の戦いを終えると身体は「真っ白になっちまったぜ」(by あしたのジョー)状態で歩くのがやっとだった。
ビーチバレーは誰でも楽しめるいいスポーツだと思ったがその面白さにつられ身体の限界まで動いてしまったようだ。案の定、今朝は起きるのがやっとだった。
肩、腰、腕、足、全身がギシギシいっている。
筋肉、関節の柔軟性が落ちているのだ。
やっとの思いで起きあがり、井上康生、棟田、鈴木の柔道家のドキュメントを観た。
井上の肉体に圧倒される。あのまま総合のリングに上がってもかなりのところまでいけるに違いない。身体のつくりが本物の格闘家であった。棟田、鈴木もともに素晴らしい柔道家であるが王者井上のそれは全く異質なものを感じた。
鈴木との決勝戦。
試合前、井上はいつもの闘争心が湧き起こらないことにいらだっていた。
そして井上は鈴木に敗北した。
僕が驚愕を覚えたのは井上が「闘争心」が薄れていることを自覚していたことだ。
井上は肉体、技術ではなくマインドコンディションを自覚していた。
格闘技や武道、スポーツだけでなくあらゆる活動でマインドコンディションは重要である。ビジネスの世界えいえばモチベーションコントロールと同じと考えればいい。個人が持っているヴァリュー、能力はそれだけでは十分の一も機能しない。重要なのはモチベーションである。「やる気」とも少し違う。僕は「ドライブ感」と呼んでいるが意識のノリである。このドライブ感、高揚感をうまく引き出せれば「考える」という状態を抜け出せる。この状態に入ると個人の持つ、能力や技術が「ドライブ」する。
意識的にこれをつくりだせるのか?
という検証は必要だが井上やスケートの清水はこれを意図的にできるレベルにいるアスリートのひとりだと思う。
こうしたモチベーションコントロールの手法は今後の教育や学習の基礎部分に取り入れられる必要がある。
スポーツでも勉強でも政治でも仕事でも最も重要なのは「ドライブ感」から引き出される能力の最大化・最効率化である、と僕は思っている。これはONとOFFという感覚と近いかもしれない。
投稿者 TKM : 18:35 | コメント (0) | トラックバック
2004年05月01日
[エッセイ] ある名前と開けた関係とシネカノン
ビックカメラの8Fにいきなり極上の映画空間が誕生した。
有楽町シネカノン。
素晴らしい劇場である。
銀座で一番映画を観やすい環境だと直感した。
スタッフの気遣い。
やる気。
椅子の快適さ、映画を「観る」ことに集中できるように配置された傾斜。
どの席からみても画面が「映画をみているぞ」を実感できるような迫力。
銀座映画館のトップランクを与えたい。
リーさん(シネカノン代表)ありがとう。
明日から「パッション」が封切りである。
今日は「殺人の追憶」が上映されていた。
韓国映画あなどれず、の感を強めた。
この映画、決して幸せな気分になる映画、ではない。
これも劇場の力なのだろうか冒頭の田園風景の遠景が妙に鮮明で奥行きがあり、のっけから引き込まれた。カップルで観る映画でもないだろうし、友人同士で見に行く映画でもない。韓国人の友人がいれば一緒に行って、離れた席に座り、終わった後で話をする、という鑑賞にトライしてみたい、と思った。
ただ映画館にいって映画を観て、帰る。
そうした鑑賞の仕方が10年後も続いているとは思わない。
別な見方が開発される、と感じた。
ワールドプレミアのようなイベントは何も映画俳優の為にだけある必要はない。
ソーシャルネットワーク(gree等)が独自にオフラインイベントを開催して成功している。ネットマスメディア(ネットらしくないメディアの雰囲気)好きの人々の集い、と僕は思っているのだが本来コミュニケーションを補足するためのメディアとして機能するはずだったSN(ソーシャルネットワーク)が逆に主体になり手段がテーマ化し、主役化している。しかし、それ自体を否定するつもりはない。それもOKなのである。
僕がいいたいのは手段であるはずのSNでさえ人と人が知りあうきっかけになれるのだから映画みたいにそれ自体が「面白い」コンテンツがコミュニケーションのメディアとして機能しないはずはない。技術的な部分でネットと映画の関係性がどうなるかを予測するのは難しいけれど人と人の知り合い方はネットワークによって拡張されていく。その流れは映画の見方やあり方へも影響を与える、と僕は思うのだ。
例えば毎回上映後にシネカノンがサロンを開いていてそこでクラスが開かれていたら映画鑑賞と映画教室が一体化したサービスというものもありうるだろうし、同じ映画をみた人同士は全く知らない人同士よりも少しだけ人と人の距離が近いと思う。特にシネカノンのようにテーマ性の強い映画を選んで上映している劇場の場合は。
人と人が知り合う。
ある人を知っている時と知らない時とではその人の行動が同じでも自分が受け取る意味は違ってくる。知り合いが酔っぱらっていると楽しそうにみえるが知らない人だとただの酔っぱらいだ。知り合いが電車に乗っていると「あっ」と声をかけたくなるが、知らない人が乗っていてもそれはただの同乗者である。
僕は友人とよく話す。
「アジアにいくと人と話やすいよね。話しかけやすいっていうか、知らない人にでも声をかけやすいし、向こうも声をかけてくる。あれってなんなんだろう」
昨日ふと思ったのだが日本の都市だとそれが難しいのは何故なのだろう。
コミュニケーションへの「恐怖」が根底にあるのだろうか。
誰もが他者との間に見えない防壁を強固に築いている。
僕もそうだ。
独り言をいってる人や叫び声をあげている人をみると「コワイ」と思う。
飲み屋で会社員の集団に囲まれると一種異様な「コワサ」を感じる時もある。
しかし、本来はみんな話し合えるはずなのだ。
何が原因で壁ができているのか。
何故、閉じてしまうのか。
反面、内に対してはフルオープンなのは何故なのか。
と考えているうちにこう思った。
ネットワークとテクノロジーがいまよりも進んでいくことでこうした閉じた環境を「開く」あるいは「開かれた」ものに変化させていくことはできないだろうか。僕や友人がやろうとしている、やっていること、仕掛け、事業は「開かれた」環境を現実化していくためのものではないか。そう思った。
いままでの仕事や生活は極論すれば「面白さ」が評価の中心にあった。
それは今後も変わらないのだがその理由ができた。
「開かれた」環境。
人と人がベストな状態で知り合える環境。
偏屈(都市に住むほとんどの人は自分の外に対して偏屈である)ではなくオープンな関係性。それを実現するために仕事や生活ができること。そう思った。
++++++
シネカノンを後にし、前田さんのオフィスを訪ねた。
来週のハッスル3のチケットをもらいにいったのだが頂いたチケットをみてかなりびっくりした。スペシャルリングサイド、いわゆるSRSである。至近距離でゴールド・バーグvs川田、小川、高田総帥らと対面である。
「就職しようかと思ってるんですよ」
と前田さんに相談すると「鳥でも食うか」と絶品焼き鳥の「さくらや」に誘われた。さくらやのオジさんは相変わらずのノリで軽妙である。味は。もちろん絶品だ。内蔵系が最高でレバーやモツのおいしさは別格である。
「最近飲んでるか」
「いえ、それほどディープにはやらなくなりました」
「そうか、オレは一昨日やっちゃったな」
へーと話していると前田さんがディープに飲った人というのがどうも気になった。でいろいろ話をきいていったらなんと7年くらい前にかわいがってもらった電通の及川さんであった。ネットイヤーに移籍されてからは連絡をとっていなかったので突然名前をきいてびっくりした。兄貴分というか広告業界のことなど何も知らなかったのに何かと声をかけてもらった。最近、マッキンゼーから電通にもどられたとのことだった。
話をきいているうちに霧が晴れていくのを感じた。
僕はああいう柔らかく謙虚で頭脳明晰な人が好きだ。
及川さんのHPにあった論考を思い出した。
僕は何が好きとか何がやりたいということはほとんどない、と思っていたがメディアの考察、情報論、社会の考察といったことが好きだったことを思い出した。そしたら気分が軽くなった。ふとした単語から気分が開けていく。
日々、楽しいことはあるものだな、と思った。





