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2004年06月30日
[アート] ピエール・カルダン、82歳現役デザイナー
録りためていた日曜美術館をみる。
ピエール・カルダンの特集であった。
1時間の番組で一番印象的だったのは最後にカルダンが自身の創造について語る次のシーンだった。
創造性というのはセンスとは違う。センスは誰もがもっている。赤が好きな人がいれば青が好きな人もいる。それはすでにあるものを選択するに過ぎない。創造的な発想というのは見る人の気分を害するものかもしれない。好きになれないかもしれない。だけど何もなかったところに何かをつくりだすことなんだ。だから今の僕がある。想像とは常に人を驚かすことなのだ」(ピエール・カルダン・82歳)
カルダンに対しては商業主義に走りすぎているという批判もあると番組では伝えていた。しかしそれは単にビジネス感覚が優れているだけなのかもしれない。何しろ82歳で現役のデザイナーである。それこそが彼の最大の創造であるように僕は感じた。
投稿者 TKM : 12:51 | コメント (0) | トラックバック
[エッセイ] ブログvsブログという事件について
ネット上の事件というほどの出来事ではないのだがとある企業経営者のブログサイトをある通信社の記者が痛烈に批判した。
その批判は批判の対象となっている企業経営者が運営するブログサービスで行われた。
大人げないやりかただと思った。
批判するならするでいいが自分のサーバでやるのが礼儀である。
相手のサービスを利用しておいて相手を批判するというのは道理としておかしくないだろうか。
とはいえこうした舞台設定自体は事件の発端となった批判と直接は関係ない。
僕も当事者である企業経営者のサイトはよく見ていた。
記者が指摘しているようにたいした内容ではないのだが友達のサイトをみているような感覚でとりとめもないテキストを読むのはそれはそれで面白さがある。
以前、Daily Yomiuriに糸井重里さんのインタビューがのっていた。
自分がイトイコムをはじめたのは「考える」ではもうおそいと思ったからで、思った時にそれを書いて発信するということがやってみたかった。でも、それを既存のメディアで実現するのは難しかった。そこにインターネットが現れたおかげで他のメディアでは売り物にならなかった未完成のテキストを発信することができるようなった。
だからイトイコムのテキストはレストランでいえば「まかないメシ」のようなものだ。書きたくても制約があって書けなかった人に「うちで書けば」といって声をかけるとみんなそれぞれの「まかないメシ」を食べさせてくれる。そんな感覚なのだそうである。
確かにイトイコムのテキストは既存のメディアでは発信することができなかった種類のテキストだと思う。完成度が高いわけでもないし、とりたててセンセーショナルな内容でもない。それでもなんとなく面白いテキストもある。例えば僕は天海祐希のファンだったので彼女がイトイコムで連載していた「おいら」という日記を楽しみに読んでいた。内容は彼女が何をたべただとか、夜ぐっすり眠っただとか他愛のない日々の出来事の羅列である。だから彼女が何者かを知らない人が読んでも全く面白くも何ともないだろう。
ところがファンであった自分にとってはそのテキストが結構、面白いのである。そうか、あの人、こんな何だ、などとひとり感心したりもする。「ボディーローションを塗って布団に入るとふわりとした香りに包まれて幸せな気持ちになる」などと書いてあると「なるほど」と自分もボディーローションを買ってみたりもした。(結局は一度くらいしか使わずにあげてしまったのだけれど)
話を記者ブログvs経営者ブログに戻そう。
記者の批判はそれが私的なテキストとして発信されたものであるならば問題はなかったと思う。個人が何をどう感じるか、それを発信するかどうかは個人の自由である。問題は通信社の名前を使って批判がなされたこと、にあるように思う。(このことで批判の意味あいが変容してしまったように感じるのだ)
経営者のブログに関してはそれがある程度のPR効果を狙ったものであったとしても、更に内容が希薄であるとしても、それもまた自由であろう。読みたい人は読むし読まない人は読まない。
読むといっても主義主張を受け止めるという大げさなものではなく、友人の日常をみている感覚である。彼の生活をうらやましいとも思わないし、あこがれもしない。友人が本人と知り合いだったり、TVで見て知っていたりする人の生の声がそこにあるのがなんとなく面白いのだ。
だから当事者同士がお互いのブログを取り上げてもこれが騒ぎに発展するとは思っていなかったし、こういうのもありかなくらいに思っていた。
また双方が正面からの反論を展開し論争に発展していたならば、案外いい流れで議論が収束したのかもしれない。ところがブログでの情報発信はマスメディアでの情報発信とは別なテクニックがある。
さすがにブログサービスを運営しているだけあって社長日記はそのテクニックに長けていた。批判を受け流し判断を匿名性の渦にゆだねるという手法は実際にその渦中で波にもまれるという経験をしたものにしか使いこなせない技なのだろう。(本人はこの手法をバッシングマーケティングと呼んでいるとの記述をみた)
そんな折り、朝まで生テレビでのこんな出来事をネットでみつけた。司会である田原が口にした「聖徳太子って知ってますか?」という質問でカーっとキレてしまったのであろう相手は唐突に「デラゥォェア!!!」と放送中に絶叫してしまったのである。後はもうどうにも取り繕うことができないほどに乱れてしまっていた。こうなってしまうと見ている僕たちは議論の内容云々よりも取り乱した映像の方、感情的な爆発のインパクトの方によりつよく引き込まれてしまい議論の発端が何だったのかを忘れてしまう。
今回の問題もこれと似ているように感じた。
記者のブログが社長日記を論理的にではなく感情的に糾弾してしまったところに問題の火種があったように思う。
正論や真実がどうあれ熱くなってしまった方が不利になる場合もある。
批判された側が体をかわし、判定を場外にゆだねたことで議論の連鎖は途切れ、結果的に当事者外による論点の定まらない「ぶちまけ批判」を呼び込むこととなった。
現時点で記者のブログには相当数の「批判に対する批判」や「批判に対するコメント」が寄せられており、そのほとんどは論争を試みる投稿ではなく匿名による記事への悪態である。
こうなると収拾が着かず、全く別のテーマで投稿された記事に対しても悪態が続いてしまっている。
僕は両者の記事を読んでいたわけだがどちらも面白いと思ったが感情的な爆発というようなものはなかったし今もない。人よりも目立つ存在であれば否が応でも反論や中傷は避けられない。
ただ、バッシングマーケティング以後に発生した匿名コメントの嵐は恐いと思った。
こうした「ぶちまけ批判」の対象となってしまうことは発信者にとって恐怖である。自分がもしこれだけの批判にさらされたらと考えると情報の発信に際して恐れが生じたのは事実だ。
間接的にではあるが情報発信の自由が抑制されている、と感じた。
そして次の一文を思い出した。
デビッド・ハルバースタムの著書「ベスト&ブライテスト」の冒頭、エスタブリッシュメントについて記された箇所がある。下記はロバート・ロベットについて書かれた一文である。
著者のデビッド・ハルバースタムは従軍記者時代、ベトナムでの戦況を悲観的にレポートしている、これは愛国心に欠ける行為であると新聞・雑誌、アメリカ政府首脳部、合衆国大統領からさえも非難された経験を持つ。
※「ベスト&ブライテスト」のソフトカバー版の冒頭にはまえがきにかえて「娘への手紙」という一編が収録されている。10ページほどの長くはないテキストだがメディアに関わるものならば必ず読むべき一文である。ベトナム戦争についての記事を書き続け、合衆国からさえも疎まれ、記者であることの重みを感じていたがそれでも彼は己の信じることを良心にしたがって書き続けた。誹謗中傷もあった。その中で一つだけ忘れられない中傷があったという。累々と横たわるベトコン兵士の死体の写真をみせられたハルバースタム記者が女々しくも嗚咽した、ベトコンの為に涙を流したのだというでっちあげの批判であった。彼自身は50回も戦場へでており死体も危険も十分に体験していた。
彼は中傷のでもととなった兵士につめより、反論をあびせた。
しかし、と彼は振り返る。本来は事実であるべきではなかったのか、と。ベトコンであろうと米兵であろうとその死骸を目のあたりにして、涙を流すのが自然だったのではないかと。
+ + +
今回のブログvsブログの論争を新旧メディアの対立、という人もいる。
しかし、TVの場合でもセンセーショナルな内容の番組の後は抗議の電話や投稿が山のようにおしよせる。それは雑誌、新聞でも同じだ。
僕が疑問に思うのは投稿したり抗議の電話はいったい「誰」なのかということである。ネットの場合でも構造は変わっていないように思う。掲示板やブログへのコメントの大多数は「匿名」である。
この構造が感情の発露の基になっており、気持ちの悪さ、後味の悪さを生じさせている。
匿名性によって自己がガードされるから感情的な言葉が引き出される。
むしろ名前を隠した時に出る言葉の方がより本音に近いのかもしれない。
だとしたらとそこで僕は考える。
記名で本音を言えないのは何故なのだろう。
匿名でなければ本音がいえないのならその構造にも問題があるのではないだろうか。
では、どこに向かえばいいのか?
まだ考えはまとまらない。
投稿者 TKM : 02:56 | コメント (4) | トラックバック
2004年06月28日
[エッセイ] ジャーナリストと会社ジャーナリズム
■メディアは広報・宣伝なのか?
上記の一文を読んでハッとした。
少なからず自分のブログも「広報・宣伝」という要素をはらんでしまっていた、ような気がした。自分がやりたいことは「広報・宣伝」ではない。物事を面白おかしく伝えたいのではない。自分は「考える」を見直したいのだ。
広報・宣伝はそれはそれで大切だと思う。その情報が伝わるべき人に伝わることで幸せになる人もいるかもしれないし、多数に伝えられるべき情報であるなら伝える努力はしなければならない。
僕が感じている違和感は別なところにある。
メディアが広報・宣伝の媒体化しているという感覚があって、どんな雑誌も単に広告スペースの開発が主体になってしまっているように感じるのだ。だから記事は「媚びる」ものが多くなる。GQという雑誌を時々立ち読みする。写真が多く、レイアウトも綺麗だ。しかし買って読もうという気にはならない。全てのページが広告と大差のない記事のように見えてしまうからである。
物事を「~だったりして」というモードでとらえることでスマートさを演出しようとする立ち位置に違和感を覚えるのである。
「おい、このテーマとりあげておいてそっちに逃げるなよ」
と言いたくなる。(今月号には以前自分もレポートに書いた千日回峰についての記事があるのだがGQでのあの扱われ方には納得がいかない)
雑誌が好きでありとあらゆる雑誌に目を通す。
目を通しての感想だが読むべき雑誌は本当に少ない。
記事の99%が宣伝・広告にみえてくる。
それでも目を通すのは雑誌という形式に魅力を感じているのと一誌ではなく多数に目を通しているうちに大きな風潮、流れを感じる時があるからである。
■会社ジャーナリズムという病
雑誌・メディアの宣伝・広告モードが強い理由について、鳥越俊太郎さんが著書「ニュースの職人」の中で下記のように説明している。少し長いが引用したい。
「ジャーナリズムという言葉が日本の社会に定着しない、その構造的な理由は、実は日本の雇用システムと深く関わっているというのが私の持論だ。正確に指摘すると、日本の終身雇用制度そのものが、ジャーナリズムの発展を妨げている。ご存じの通り、就業人口の七割を超す人々が学校を卒業して会社に入社し、今は崩壊し始めているとはいえ、終身雇用と年功序列の世界で生きていく。実はそうした社会に新聞社、テレビ局、出版社などマスコミ各社も存在する。私はこうした状況を“会社ジャーナリズム”と呼んでいる。
私はよく“ビジネスマン”と“ジャーナリスト”の違いは何かについて考えることがある。言うまでもなく“ビジネスマン”は、真実よりも利益をより大事にせざるを得ない。いっぽう“ジャーナリスト”にとっては利益よりも真実の追究が優先する。ところが日本のマスコミにおける“会社ジャーナリズム”の特徴は「真実の追究」と「会社の利益」との関係があいまいなのだ。」
先日、紹介した「判断力」の中で著者の奥村氏もこの問題について言及していた。手元に原本がないので概略を記すと奥村氏のもとにはたくさんの新聞記者が取材にくる。さすがに記者達はみんな優秀で発言を綺麗に記事にまとめる。しかしちょっとまて、記事にまとめはするが彼らの見方・考え方はどこに消えたのだ?
彼らが自分の物の見方を書けないのは彼らが新聞記者ではなく会社員としての立場を優先してしまっているからではないか。それはおかしいんじゃないか。だったら新聞社は本社に300人くらいを残し、記者の全てをフリーランス契約とし記名記事にするという大きな変革が必要ではないか。
というような話だった。
僕は新聞を読むのも好きで全ての新聞記事がダメだとは思っていない。良い記事も多い。僕の考える良い記事とは書き手の立ち位置、ハート、考え方が伝わってくる記事である。ダメな記事とは「逃げ」が基調となった傍観者の立場をとる記事である。
もっといい記事を増やすには奥村氏の指摘するようにシステムそのものに手を加える必要があるのも事実だと思う。
「物書きが給料をもらって書くようになったらお終いだ」と僕は言い続けてきた。
ジャーナリストとはインサイダーではない。
アウトサイダーであらねばならない。
メディアに関わるものとしてこれだけは忘れないようにしたい。
投稿者 TKM : 22:27 | コメント (1) | トラックバック
[雑記] 好みの女性
昨夜はしんのすけの奥さんに「どんな人が好みなの?」ときかれた。
その場で考えたが言葉が浮かばなかった。
今朝、走りながら考えた。
コンセプトのたっている人が好きだ。
勿論容姿もかなり重要ではある。
が、それ以上に人間力とコンセプト。
そこに強く惹かれる。
どこで読んだのか忘れたがこんな話がある。(うろおぼえなので細部は違うと思う)
ある村では結婚する女性に男性が家畜をおくる。
だいたい村一番の美人と評判の女性で牛一頭が相場だ。
村で一番器量が悪いといわれ結婚できずにいた女性がいる。
この女性にある男性が求婚した。
婚約の日、村人は驚いた。
なんと男性は女性に牛8頭をおくったのである。
しばらくして二人を訪ねた人々はさらに驚いた。
女性は幸せと自信に満ちた村一番の美人に変わっていた。
投稿者 TKM : 08:42 | コメント (4) | トラックバック
[雑記] 鳥と意味と学問のススメ
午前5時。
目覚める。
眠った時間は短いのだがすっきりとした目覚めである。
昨日、しんのすけ宅でジンギスカンをごちそうになった。
帰りは原田夫妻に初台まで送ってもらい、矢坂さんと少し話をしてから月島に帰った。
※昨日、話題にした婚約指輪サイトブルーナイル
++++++
夢の中で原田夫妻に再会した。
「鳥はプロックなんですよ」
彼はそういって鳥の分裂について説明してくれた。それが鳥における正統な増殖の過程なのだという。一羽の鳥がネグロと呼ばれる鳥の第二段階へ変化を始めていた。最初に色合いの異なる羽があらわれる。次に反対側に同じ羽ができて対になる。コピー&ペーストの要領で鳥が二羽に増殖する。さらにその二羽がプロックを重ねると別な種類の鳥が現れる。四羽に増殖したところで彼らは飛び去った。
「わかりました?」
「うん、パターンなのか」
鳥を使った説明に感銘を受けた。鳥は言葉の別な側面を表していた。夢の中ではそれが示す対象(現象)が明確だったのに目覚めると対応がとぎれ、意味するものがわからなくなっていた。
+++++
先日、図書館で「鷲は舞い降りた 完全版」を見つけたので今朝から読み始めた。
同時に
と
を読む。学問のすすめは「読む」のではなく「聴く」方がいいように感じた。
投稿者 TKM : 06:04 | コメント (2) | トラックバック
2004年06月27日
[雑記b] ブレストのメモ
創造性。
スケール。
++++++
なんだって発明したヤツがいるわけじゃん、火とか文字とか言葉とか絵とか歌とか。寿司だって、最初に酢つかっておにぎりみたいにして乗っけてにぎったらうまいんじゃねーかと思ってやったやつがいると思うんだな。どうせならそういうことにつっこみたいよな。
投稿者 TKM : 09:45 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] サーバと人と
昨夜からかれこれ4時間近くサーバがダウンしている。
メールもウェブも落ちたままである。
実害はあるのかないのかいまの時点ではわからない。
つらつらと愚にもつかない物事を書き連ねていたのが悪かったのかな。
と一瞬思ったが考えてみればそんなことで物がガタガタするわけでもない。
言葉。
人の言葉、自分の言葉。
惑うような言葉がたくさんある。
そのひとつひとつにつまづいたり憤ったり喜んだり優しくなったりいろいろである。
自分では気がつかないところで言葉は人の気持ちを害していたりもするのだろう。
ということを実感した。
書く以上は曖昧な批評はさけなければならない。
他者を惑わすものいいはしてはいけない。
それは礼儀だ。
感じたことは嘘ではない。
自分や人が何かを感じたならそれは確かにあったことであり、受け入れなければならない。問題は「逃げ」ないことだ。曖昧にして逃げることは避けなければならない。何かを感じたならそれを見つめなければならない。
悪口や陰口というのは陰でやるから陰険なのだ。
表でやればいい、という問題でもないだろうけれど少なくとも陰よりはマシだ。
オープンでやらないかぎり理解の糸口は見えない。
「巨人の星」の言葉で「打たれまいではなく、打ってもらう」という下りがある。禅寺で和尚さんに言われたこの一言がきっかけで飛馬は大リーグボール1号の着想を得る。
この思想をアレンジして日々の感情の乱流のコントロールに応用すると「ああしなきゃ、こうしなきゃ、ではなく。そうなっていただく。」とでもなるのだろうか。たいした意味はないのだがそう考えるだけで心はぐっと楽になるような気がする。
何か嫌なことがあった。「ああとっても嫌でした」これでは何も始まらない。
自分はそれも一つのチャンスだと思う。
そこに自分が反応したということは何かがあるのだ。
その何かが何なのか。
それを見つめない限り自分というものが見えてはこない。
(いろいろと見なくていいものを見てしまうのはオレの立ち位置が悪いのかもしれないが)
勿論、嫌なことなんてない方がいいに決まってる。
けれど生きていれば何かしら「ムっ」とくることはある。
問題はそこから先なのだ。
そこで気分に走って「ムカついた」だとそれで終わってしまう。
いいことも悪いこともどちらもきっかけとしては有効だ。
それは何かを示している。
と僕は思うのだが。
++++++
とここで矢坂さんと朝からナイスブレストをやってキーワードが出たタイミングでサーバが直った。
なんというタイミング!
投稿者 TKM : 09:32 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 戦争について考えた
夜。
つらつらとプランニングノートをつけていたらいつのまにか政治についての考察に変わっていった。国とは何かとか日本とか人とか。日々感じる物事についてメモをとる。図式化する。それを続けていく。
ログをとってあるので自分のサイトにどこからアクセスしてきたのかを知ることができる。2ch掲示板からのアクセスがあったのでどこでどんな風に扱われたのかを確認すると格闘家の山本“KID”徳郁について自分が書いた記述があたかもその人の発言であるかのように無断で使われていた。
自分が書いたテキストに対して二つのコメントがあり、両方とも否定であった。ちなみに引用されたテキストは下記である。
思わずそう叫んでしまった。山本の身体を覆う筋肉の鎧は決してゴツゴツしていない。全盛期の佐藤ルミナを彷彿とさせるが更に強化され、しなやかさを付け加えたようなこれまでみた格闘家の中でも類を見ない強さと美しさを感じさせた。
この一文だけを取り出して批判の対象とされることは全く不本意である。自分は文脈の中で上記の言葉を使っておりそれが無断で宴曲されることにいは強い憤りを感じずにはいられない。更に引用者は否定されると同時に出展を明らかにして「逃げ」にまわっていた。反吐がでる。根性がないとか精神論を展開するつもりはないが全てが安易なのだ。発言もそれに対する批判も全てが屈折している。スケールが小さい。
何もかもを褒めればいいというわけではない。しかし批判は自分の立ち位置を明確にした上で行われなければならない。思想の違いは合って当然である。好みにも違いはあっていい。大切なのは自分はこう思う、それはこうだからだ、という意見だ。
それが決定的に欠落している。
これは掲示板の世界だけの話ではない。
自分のアイデンティティが明確でない場において、人は傍若無人に振る舞う傾向にある。
僕がわからないのは「訴える」や「警察沙汰」を持ち出すことで己が権力と一体化しているかのように振る舞う輩の存在である。馬鹿かといいたい。
何度も繰り返しになるが切り捨て御免の世界だったら巷にあふれているようなくだらないいざこざは起きない。そんなことをやっているまに死んでしまう。本気になるべき対象がズレてきている。そんなことどでもいいだろう。もっと別なことに熱くなるべきだろう、と思う場面を目にすることが多い。
しかしその理由をコミュニティの崩壊だとか家庭に見いだすのは安易である。
同じ環境でも全く違う道に進む人も多い。
おそらくメディアの影響、という考え方も間違っている。
同じようにメディアに触れていても影響を受けない人もいる。
話を掲示板に戻す。
僕は自分のテキストが思わぬ使われ方をしているのをみて、さらにそれが理由なく否定されているのを見てかなり絶望的な気持ちになった。こんなことはしょっちゅうあるがそれが何度目であれ気持ちのいいものではない。真っ向からきてくれよ、と思うがそれはあり得ないだろう。
こうやって匿名の影に隠れての発言しかできなくなることに強い危機感を抱いた。
ある種の警察国家的な空気、密告社会、強い閉鎖感を感じた。
これらの心ない発言は自分が何かを発言しようとするときに心理的なブレーキとして働く。意識していなくとも必ずどこかで「媚びる」ような言葉を発信してしまう。そうでなければ自己を防御した形のテキストを「つくる」ことでリスクを回避しようとする。
よくみてみるとわかるがこれだけブログが増加しても自己を明示し、さらに自己の考えを発信しているサイトは驚くほどすくない。そのほとんどはごまかしである。アクセスが多いサイトのほとんどは自己の立場をぼかしちゃらけることでリスクを回避している。
これも自己防衛のための自然発生的な現象なのだとは思う。
僕が危惧するのは本来オープンなハズのネットワークという場にさえこうした管理社会的な機能が自己生成的に備わってきていることである。おそらくこの傾向は誰も止めることができない。一方では権力の嘘を正す正義の衣をまとい、もう一方では自らが権力として振る舞う。権力を否定しながら、権力への依存を望む。この矛盾点に強い危機感を覚える。サイレントマジョリティがネットワークというチャンネルを持つことで発言権を得た、というよりは、実体権力が管理しやすい密告社会が現実化している、ように見える。
ネットワークは素晴らしい、と思う反面。
反オープンな群体、管理社会の暗い影が見え隠れするのも事実だ。
個人が特定されることはネットワーク上で無名と対峙するには不利な条件でしかない。
数の上でもリスクの上でも明示されている側が圧倒的に不利だ。
全く勝負にはならない。
両者が「無名」である場合、あるいは内容が「無害」か「無意味」な場合はコンテクストが変わりカーニバル的な展開をみせる場合もある。
こうしたテーマの寄り方は最近のTV番組と似ていなくもない。
というようなことをずっと考えていた。
こうした傾向は日本に固有のものなのだろうか。
それとも全世界的なものなのだろうか。
などなどやっていたら時間になったので鈴木vs健介戦を見るために帰宅後観戦。
その後、何故かディベート・討論会の番組に目が止まる。
「戦争反対vs仕方ない」という議論であった。
戦争反対を片側にもってくるならば戦争賛成をもう一方に据えなければ議論は成立しないように思ったが予想通り議論はかみ合っていない。片方が感情論に訴えれば片方は理論で応戦する。最終的には議論・論戦には展開せず発言力の大きい発言者(この場合はオピニオン)の言葉に全体が流されていく。議論の最後は「命を大切に」で終わっていた。(それ自体はとても大切なテーマだし。亡くなった橋田さんの講義風景には心を打たれたがどうも意図的にまとめた感が強くて気になった)
議論自体は面白いのだ。たとえかみ合っていなくてもそこにはある種の本音は出ている。編集によって巧みにつくられてはいるがそこに集まる人々は典型的なパターンを代表しているように見えた。戦争反対を叫ぶ人はデモの必要性と感情論を持ち出す。戦争によって引き起こされる「悲惨」はあってはならない、というのが彼らの立場だ。
僕は戦争には全く反対である。しかし論戦はあってしかるべしだと思っている。「争い」そのものが悪いのではない。それによって引き起こされる物理的な破壊や死を作り出すのが問題なのだ。会議でも議論はある。白熱した論戦を展開させる場合もある。それはクリエイティブの場でも同じだ。何もかもが論戦なしに進むわけではない。主義と主張は常にぶつかり合う。問題はそれが別な場にも持ち越されてしまうことだ。
僕はデモを良くも悪くも思っていないが行進することと実際の政治的な効果には関連性がない、と思う。
デモが成立するならその人たちで組織票をつくって国会に代表を送りこんだ方が効果的だと思うし、なんなら超党派で非戦党をたちあげたらいいと思う。
が、そうはならない。
イラク戦争の戦死者数は明らかにされていない。
あるデータでは少なく見積もって一万人のイラク兵が死亡した、と言われている。
戦争の是非と死者数に関係はない、と言われるかもしれないが。
ここで僕はふと思う。
日本では年間約3万人が自殺している。(2002年度のデータでは29,949人となっている)これは阪神淡路大震災での死者数6,433名の約4.6倍である。
ニュースバリューの無い死はその存在そのものが最初から存在しなかったように扱われるが数字だけをみるならば戦争よりも遙かに大きな悲劇がここにもあるとはいえないだろうか。
自分も戦争に対しては反対の立場をとる。争いならば論戦でやればいいし、フィジカルな問題に発展させないことが文明だと思っている。
ではこれは何なのだろう。
戦争で死にゆくよりも多くの人が戦地ではないこの地で死亡している。
※一般人口統計(2002年度のデータ)によれば年間死亡者数は982,379人であった。
投稿者 TKM : 04:09 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月26日
[雑記] ランナーズハイと1000万円の命
昨日に続いて今朝も川沿いを走る。
快調にとばしていく。
おじさんに「おはよう」と声をかけられる。
月~金の朝7時~12時くらいまでは街を歩いている人の顔はほぼ死人、ゾンビである。築地の人々はパワー全開だが他はだいたい1984モードである。
朝の出勤をやったことがないがたまに朝帰りの電車で人々を観察するとその多くはうつむきゾンビ状態でしかめっつらか唇がへの字である。ところがこの人々が会社に入った途端に活き活きとするから不思議だ。
そうか電車がダメなんだなきっと。
などと思いながら今朝の音に耳を澄ます。
静かだ。
土曜と日曜の都心の朝は静かで心地よい。
通勤してくる人々がいないからである。
かの人々がいないとこの土地も過ごしやすい。
通勤の存在しない世界をつくりたいものだ。
と思う人はマイナーな存在だ。
会社に限らず何らかの場所に出向くことは案外楽しい。
短期の助っ人で会社につめるときなど段々と関係性ができあがっていき自分がそこにいることに違和感を感じなくなってくると逆に場への依存が生じ始める。何故にこれだけ多くの人が会社・組織に勤めてサラリーを貰うという生活をしているかといえばそれは決して賃金の為だけではあるまい。場の力が作用していると僕は考える。
試しに明日から3ヶ月くらい場と仕事を完全に放棄してどこのくらい持つかやってみるといい。以外にすぐ限界がくるのではないだろうか。
++++++
川沿いを走っていると段々と身体の感覚がぼやけていくのがわかった。
手足が軽くなり力がはいらない。
疲れているのではない。
身体は動いているが感覚がない。
これが噂に聞くランナーズハイか、とそのまま走り続けてみた。
気分的にはこのまま40kmくらいいけそうだったが感覚がないくせに右の足首の動きがおかしい。痛みはない。身体は全く疲れを感じさせない。というよりももう自分の身体ではない。腕と足が勝手に動いている。
麻酔を打たれた時の感覚と似ている。
橋まで走ったらとりあえず止まってみよう。
かちどき橋のたもとで足を止めた。
と、その刹那、意識から切り離されたように身体がフワフアと浮いている。
アレ、っと思うのだが苦しくはない。
身体を動かそうとするがいまいち伝導が悪い。
あー、このまま倒れたら気持ちいいだろうな。
と思ったがなんだかそれはマズいような気がしたので歩いて橋を渡った。
歩いているのだけれど気持ちは「倒れたい」といっている。
そもそも身体に力がはいらない。
どうやって歩いているのかもよくわからない。
気力で歩くというのはこういうことなのだろう。
気が遠くなる。
わたりきったところで大理石に腰掛けて休憩した。
座ると身体から力が抜けている。
何もしたくない。
でも苦しくはない。
気が遠くなっていくだけだ。
わずかな時間だと思うが落ちた。
時間にして1秒から2秒だろうか気を失った。
ハッとして歩きはじめた。
家までつけばどうにかなるだろう。
残り500mが恐ろしく遠い。
死ぬときの感覚はこんなだろうか。
死なんて案外あっさりとしたものだ。
とかそんなことを考えながら歩いた。
1時間後。
月吉で朝食を食べていたら。
朝のニュースである会社員の殺人について報じていた。
東急エージェンシーの社員が殺された話しだ。
その事件について知らなかったのだが概略はこうだ。
犯人はある印刷会社の社長で殺害された社員と何人かで印刷会社を立ち上げた。
東急エージェンシーの仕事を請け負う為の会社である。
当初はうまくいっていたのであろう。
ところが最近になって仕事が激減した。
被害者は印刷会社社長に自分が貸したお金を返すように迫った。
どのように迫ったのかをニュースは伝えていないがおよそ気持ちのいい迫り方ではなかったのだろう。しばらくして、その社員は姿を消した。殺害されたのである。被害者が犯人に貸した金額は1000万円だったそうだ。
被害者の命の値段は1000万円だった、ということなのか。
1000万円やるから命をください。そういわれて「ハイ」とは言えない。じゃあ、10億あげますからあなたの「眼」を下さいと言われても「ハイ」とは言えない。
100年くらい前までは畑を耕したり魚をとっても人は生活できていた。
何故いまだとできないと思ってしまうのだろう。
結構でかい問題だと思うのだ。
川沿いを走る時、以前は川のすぐ脇のテラスを走っていた。
いまは聖路加側のテラスは走らない。
ホームレス村ができており、景観が変わってしまった。
以前は得られていた爽快感はもうない。
彼らの人格は否定はしない。
しかし何かは間違っていると思う。
図書館に集う人々と職安に集う人々が似ているのは何故だろう。
あれも何かが間違っていると思う。
一度中央区の図書館にいってみて欲しい。
あれは高校生や大学生が勉強できる雰囲気ではない。
何が起こっているのだろう。
何かが起こっているに違いないのだがそれがわからない。
メディアがいうような二極化という単純な問題ではないと思う。
そもそもメディアは広告媒体でしかない。
そこにはメッセージはない。
あるにしてもほんの少しだ。
本音はない。
会社員が書く記事が面白いわけがない。
かといってジャーナリズム云々という不毛な議論をするつもりもない。
全ては流れの中にある。
そして流れはどこかに向かっている。
自分はそれが知りたいのだ。
安易なポジティブシンキングの礼賛は絶対的な現象の前では無力だ。
ポジティブシンキングはそれ自体は全く意味を持たない。
問題の根本は個人の思想だ。
前向きであろうと後ろ向きであろうとエネルギーのない思考には意味はない。
ゼロポイントにおいて思考の方向性は重要ではない。
まずは思考の位置が問題なのだ。
力がゼロならそれがどの方向に向かっても力はゼロだ。
エネルギーがあるから方向が問題になる。
根本はそこだ。
どうやってエネルギーをつくりだすのか。
そこが全てのはじまりなのだ。
投稿者 TKM : 07:55 | コメント (0) | トラックバック
[格闘技] ハリトーノフ戦 ~くたばれプロ野球~
ハリトーノフ戦の録画をチェックすると何故かハングルの番組。
ぬかった。
悔しさがこみ上げる。
しかし時すでに遅し。
野球中継の延長による放送時間の変更である。
激怒とまではいかないが金輪際、野球は観たくないと思った。
もともと野球は嫌いではなかったのだが。
嫌いになった最も大きな理由は放送時間が延長されることによって以降の放送スケジュールにしわ寄せがくることだ。
自分はこうした放送システムに対して強い憤りを感じる。
ニュース専用チャンネルが成立しているんだったら、野球専用チャンネルをつくれと言いたいがオーナーが自分のチームの試合を流しているのだからどうにもならない。
いろいろな物事が雁字搦めで既得権益層に媚びを売っているようにしかみえない。
という見方しかできないのは自分の立ち位置に問題があるのだろうか。
どこまでも信号の国である。
そういえばスタジアムに野球を見に行くと応援団というのがいる。
彼らは試合を見ない。
球場に背を向けている。
ハリトーノフ戦。
残念である。
おそらく15分くらい延長になったのだろう。シュルトにマウントになったあたりで録画は途絶えた。サバイバル物の映画で現場に残されたビデオを再生するとまさに事件が起こる直前で映像が途絶え恐怖を煽る場面がある。自分がおかれた状況はあれに酷似していた。
シュルトはあの後どうなるのか。
試合結果を知っていても関係ない。
自分が格闘技を見る時に大切にしているのは結果に至る過程である。
ファイティングアートの領域は勝ち負けとは別な場所にある。
別な行程では発現不可能な域。
それがみたいが為に自分は格闘技を見る。
投稿者 TKM : 03:46 | コメント (1) | トラックバック
[雑記] 稲妻 from USA
友人の山川から稲妻の画像が届いた。
彼の住むピッツバーグの夏は上記のような雷を伴う雨が多い。前にも凄まじい写真を送ってもらったことがある。今回の雷の画像は以前のものよりもはっきりしている。
雷とはプラス電荷とマイナス電荷が引き合いことによって生じる空中放電(ショート)である。電池を直列につないで電極を近づけるとチカチカと火花が散る。あれの規模をとてつもなく巨大にしたものが雷と考えればいい。
通常は雲の中で放電が起こりこれを雲放電と呼ぶ。山川の写真などがその例だ。
放電が地上との間で生じると落雷になる。
雷をよけるにはゴム製品などを身につけると良いとされているがこれは間違いである。また木の下での雨宿りなども危険である。
また時計などの金属製品を身につけていると危険だ、とされているが突起として身体から出っ張っていない限り無害である。
投稿者 TKM : 02:55 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月25日
[格闘技] 今晩のSRSで「ハリトーノフ戦」完全放送
今晩のSRSでは先日放送されなかった「ハリトーノフvsシュルト戦」が放送される。スカパーで試合を観戦した友人からの報告によれば先日行われたPRIDEのベストバウトだったそうだ。
ハリトーノフは現役のロシア軍兵士である。かの国では兵士がリングにあがるのだ。
Numberにヒョードル戦についての記事があった。
試合について述べる前に問題のバックドロップのシーンをもう一度みてもらいたい。
こうして静止画像でみてみるとランデルマンのバックドロップがいかに危険な角度でヒョードルをリングに叩きつけているかがわかる。前のエントリーでも取り上げたが僕が問題としているのはこの後のヒョードルの動きである。
この投撃を受けた直後にヒョードルは体を入れ替えランデルマンの膝蹴りの防御に入っている。何故それができたのか?不思議でならなかった。Numberの記事を読むとランデルマンの投撃の後、ヒョードルが落ちていたのではないかという指摘があった。
しかし落ちていたにせよヒョードルがランデルマンに完勝したのは事実だ。スポーツナビのインタビューでヒョードルは次のように答えている。
更にランデルマンvsヒョードル戦にはこんな偶然もあった。
ランデルマンの父が亡くなったその日。
ヒョードルは交通事故に遭遇した。
偶然と言えば偶然なのだが六爻占術でいう「外応」を感じてしまうのは自分だけだろうか。
投稿者 TKM : 18:49 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] ベジャール(2)/小学校の作文
■作家と言葉
「作品で大切なのは何を基にするかだ」
ベジャールの創作は作品の「基」を決めることからはじまる。
恋愛であれば二人の関係性を基にする。言葉を基にする場合もあるし音を鍵とすることもある。「リュミエール」ではその言葉が示す通り「光」が作品の基になっている。
光とは何か。
「リュミエール」ではそれを問うことから創作がはじまったそうだ。
僕はアーティストの使う言葉が好きだ。彼らの言葉は難解ではない。(かといってわかりやすいわけでもないが)しかし響いてくる。剣に例えるなら「ただ一撃の為に」とでもなるだろうか。打ち込むべき一点を的確に打ち込んでくる。
ある命題に意識を向けることはできてもその問題意識を維持することは難しい。
どうして彼らは探求というモードで思考を維持できるのだろう。
そしてこう続く。
「私はメモはとらない。準備したものは嘘だ」
この言葉にはしびれた。
と同時に「私はメモはとらない」という言葉をメモしている自分とは何なのだろうと思った。自分の内部で言葉の意味が反転していく。「メモをとらない」という言葉をメモする自分は嘘なのだろうか。
++++++
自分は思うままに書いているだけだ。
何かを伝えようという思いはない。
先日岸崎さんと書くということについて話をした。
自分は書きながら考える。
画面に浮かびあがる文字を「読み」ながら「書く」。
PCで書く時の感覚は「書く」よりも「読む」に近い。
楽しいとか面白いという感覚とは少し違う。
言葉をツールとして使った思考である。
だから原稿を書く時のライティングとは全く違う。作文とも違う。エッセイでもない。おそらく何でもない。
■フィードフォワード
リュミエールの創作過程をみていたらフィードフォワードという言葉が思い浮かんだ。
少し先の未来があってそこから今を引き出している。
再現ではない。
再現が不可能な時間の連続。
モードあるいは気配といった固定できない感覚の再現なのだがそれは再現ではない。
固定しないことによるパターンの伝承のような外側の概念をつかった固定。
先日もエントリーで書いたが「非制御による制御」のイメージと重なる。
話はリュミエールからそれるが自分はある物や現象をみて全く別なことを考えるのが好きだ。目の前にある現象はその背後にある全く別な物事を考えるきっかけである。コンテンツをみる時は常にそういう視点にたつ。感想とは異なる。このやり方は小学生の頃から変わらない。夏休みになると読書感想文を書く宿題がでる。しかし本についての感想を書いたことはない。本を読んで自分が考えたことを書いていた。
小学校二年の時のことである。その当時の担任は森田先生という50歳くらいの女性だった。ある日、視聴覚室で「チビデカ物語」という短編映像をみせられた。身体の小さい少年と身体の大きい少年の冒険談みたいなものだった。視聴後に感想を書くように言われた。何年か前に家に帰ったときに過去のノートをみたらその時の感想文があって読んだら面白かった。
「ちびデカというから刑事が登場し、事件を解決するものと期待していたら全く予想に反して学校の物語だったのでつまらなかった。最初のシーンで壁をやぶらないのは何故なのだろう。意味がない。あのまま学校を飛び出し、二人が逃走の果てに何かをみつけるのかと思っていたのに。」
だいたいこんなことが書かれていた。先生のコメントは確か「あなたが作品とは全然関係ないことについて書いてあってとても残念です」だった。
あのころの感想文や作文をいま読んでみたいがもうなくなっているのだろうな。これから先の学校の授業で書いた作文は全部デジタル化してアーカイブにしておいてもらいたい。あるいはPCで書いてウェブにアップするなどの方法で共有するのもいい。小学生の頃の作文をいつでも読めたら何かが変わるかもしれないし。個人の創作物のアーカイブがあったらそれがどんな作品や作文であっても自分にとっては価値がある。小学生の頃に書いたテストの答案や自分が書いたいろんなもの全てをもう一度みてみたい。
※驚いたことに「ちびでか物語」をネットで検索してみたらいくつかでてきた。解説があったので引用しておく。
投稿者 TKM : 06:38 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月24日
[アート] ベジャール、バレエ、リュミエール(1)
恵比寿駅についた時はすでに7時24分。
地上にあがるまでの駅構内は人であふれている。
人の間を縫って走ろうにもあそこまですし詰めだと物理的にも走ることは困難である。
エスカレータを登る人、階段を歩く人、改札を出る人。
その全てがおそろしくのっそりとしている。
都市部の混雑した駅の改札で人はぼんやりとゆっくりと動く。
しかし電車に乗り込む時はダッシュだ。
地上にでて時間を確かめる。
午後7時28分。
二分くらい進んでいるから上映時間の7時30分まではあと4分ある。
地下鉄恵比寿駅からガーデンプレイスまであるくと6~7分かかる。
駅からガーデンプレイスの敷地までは動く歩道が敷かれている。
そのため駅の側にあるように感じるが思ったよりも距離がある。
ガーデンプレイスの入り口のところにあるパン屋でパンを買う。
ガーデンシネマは飲食禁止なのでパンを囓りながら急ぐ。
「ただいま予告編上映中です後方左手の入り口よりお入り下さい」
係員がいう。
どうにか上映時間に間に合った。
まもなく、数十分前にネットでみたトレイラーと同じ音楽が流れ映画が始まった。
映画がはじまってすぐの場面。食堂でベジャールが昼食を食べている。彼の視線が壁に向けられる。カメラが壁に向かう。壁に紙が貼り付けられている。そこにはこう書かれていた。
「一見無益なものが一番有益である/モーリス・ベジャール」
投稿者 TKM : 18:10 | コメント (0) | トラックバック
[エッセイ] 香の記憶と吐息の秘密
一瞬、部屋の中に線香のかおりが漂ったような気がした。
レイブ会場にいくと必ず漂っている香のかおりがあるがあれに少し似ていた。
ふといろいろな記憶がよみがえった。
富士山の麓で行われたパーティで友達にもらった香を部屋で焚いたは3年も前のことだ。随分前の出来事なのに頭の奥底には香りと共に様々な記憶が克明に記録されている。
そういえば線香のかおりも嫌いではない。
かおりは心をしずめたり、昂揚させたりする。
人にはそれぞれ香りがある。
いい香りの人もいれば嫌な香りの人もいる。
吐息もひとりひとり違う。
同じお酒を飲んでも、同じものを食べても、人によって吐息は異なる。
これは自分だけがそう感じているだけなのかもしれないが稀に懐かしさや安らぎを感じさせる吐息の人がいる。香りを言葉で表現するのは難しいが例えるならば動物的ではなく植物や果物、あるいは水とか海のようなイメージだろうか。自分にとって吐息はとても大切でこれが合わないとどんなにその人が素敵でもそれ以上の何かを感じることはない。
どういう仕組みで吐息の種類が変わるのかいつも知りたいと思っているのがまだ調べていない。
投稿者 TKM : 05:21 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月23日
[アート] べジャール、バレエ、リュミエール
偶然「べジャール、バレエ、リュミエール」のサイトを見つけた。
べジャールについてはNHKの現代バレエの特集を見るまでどんな人なのか詳しくしらなかった。
モナコで行われたダンスイベントのドキュメンタリーをベースにした番組だった。
上記のサイトにあったトレイラーを見た。
なぜだかしらないが彼の声を聴いたら涙がとまらなくなった。
どうせ生きるならこういう風に生きたいし、こういう人と話ができるようになりたいと思った。
涙で目が腫れている。
今日の最後の回にはまだ間に合う。
投稿者 TKM : 18:48 | コメント (1) | トラックバック
[キュービタル] 情報のヴァーリトゥードと雨のコントロール
ネットって面白いなと日々思う。
画面に向かっていると時には無駄な時間を過ごしているという自責の念に駆られる時もある。それでもゲームよりは数段に面白い。常に何かが画面の向こうに待っている、ような予感がある。
いろいろなサービスが恐ろしいスピードと加速度で日々誕生している。
こんなことは現実世界ではあり得ない。
完全に無制限というわけではないけれど物理的な制約がないというのはこういうことなのだろうか。どんなサイトをつくるのも自由だ。それが法に反するかどうかは別としてつくること自体は自由だ。何でもありのヴァーリトゥードである。
日本では法律の制約があるためネットラジオで楽曲を流すことは難しい。
しかし国が違えば事情も変わる。
先ほどmixiの友人日記で下記のサイトを知った。
http://www.digitallyimported.com/
アクセスしてオススメされていたmodern jazzを聴いてみる。
悪くない。(上記のサイトの音楽は無料である)
こんなサービスがあったら有線放送で音楽を聴かないだろうな。
と考えると優先ブロードネットワークスが早々に事業モデルをブロードバンドインフラ企業に切り替えたのは英断だったのだと思う。経営者の意志決定というのはスゴイものだ
。松井証券が店舗営業を廃止しネット取引に特化することで現在のポジションを築いたのも似ている。
企業の意志決定の方向が有効であるならそれがドラスティックであればあるほど企業の未来はユニークなものになる。
勿論、規模の問題があって数千人を要するような大企業が質的な部分でドラスティックな変化をとげることは難しい。人間、自転車、バイク、車、バス、船、飛行機などなど規模が大きくなればなるほど方向転換は大変になる。
それは企業や組織も同じで組織もでかくなると小回りがきかなくなるから恐竜化して衰退する、という意見はわりによく目にする。
企業の遺伝子という言葉がある。
製造業を主幹業務としてきた企業においてネットワーク事業が主体になる、ということは少ない。ソニーの研究者が「僕はネットワークとかソフトウェアを研究しているけれどそれがソニーという会社のメインストリームになることはないんですよ」とぼやいていた
細胞が集まって組織ができ様々な組織の集合体として人間ができている。
10年位前にはやったパラニューロンという考え方によればそれぞれの機関は脳という司令塔によって統率されているわけではなく内臓は内臓で情報を処理するなど小機関毎に意志決定が行われ、それらは脳の統率の外にあるとのことである。
我々が行っている意志決定はそうした様々な機関の意志決定と無縁ではない。
なんらかの形で影響はうけている。
ここから先は僕の心証だが「制御」という考え方で情報を処理すると規模の限界がある。
制御ではなく非制御による制御という概念で意志決定を捉え直すと組織の意志決定において大切なものが何なのかが見えてくる。
(雲を制御することは難しい。しかし制御とは別のアプローチをとるならばそれも可能かもしれない。そういえば東京都は水不足の時に雲の生成装置を導入し人工的に雨を降らせることを試み成功したとされている。詳細はこちらの東京都議会・都市・環境委員会報告を参照)
ホーリスティックな視点とも少し違う。
というのはホーリスティックなアプローチはフェノタイプ(表現型、この場合は現象という意味で)として発現するまでに時間がかかる。速効性があり、なおかつホーリスティックな結果へとつながる方法論。
統治や経営、組織、個人の意志決定への別なアプローチがあると僕はおもっている。
まずはシンプルな方法論によって概念をはずし、ソフト的に立ち位置をゼロクリアすることがスタート地点だろうか。
投稿者 TKM : 17:59 | コメント (0) | トラックバック
[格闘技] UWFとの再会
■一冊のパンフレット
岸崎さんが鞄から取り出したブツに目を見張った。かなり初期のUWFの試合パンフである。
第1次UWFの試合はTVで放送されることはなかった。僕がUWFの試合を初めて目にしたのはもう10年以上も前のことだ。
神奈川県藤沢市六会のTSUTAYAのスポーツコーナーの外れにみかけないビデオシリーズがあった。気になったので借りてみることにした。
画面をみて驚いた。
若き日の前田や佐山が殺伐とした雰囲気の中でガチガチのファイトを繰り広げていた。
それが僕とUWFとのファーストコンタクトであった。
その後、UWFは新日本プロレスに出戻りの形で参戦。新日本プロレスとの軍団抗争を経て、再びUWFが設立される。第二次UWFの誕生である。ここではじめてUWFの名前が表舞台に登場する。
■第二次UWF
第二次UWFにはそれまでのプロレスとは決定的に異なる特徴があった。
プロレスのリングではピンフォール(ワンツースリーというカウント)あるいはギブアップで勝敗が決定する。ところがUWFのリングではフォールは存在しない。
ロープエスケープやダウンをポイントに換算し、持ち点から減算していくポイントシステムによって試合の勝敗を決定するという画期的なルールを導入したのである。これによってそれまでのプロレスとは全く異なる「格闘技色」が強くスポーツ・アスリートの要素を取り込んだ次世代のレスリング興業スタイルが誕生したのである。
ここで確立された「打・投・極」というファイトスタイルは今日のK-1やPRIDEの原型といってもいいだろう。
受け取ったパンフをめくるとまだデビューまもない山崎一夫の顔がある。
まだ若くあどけない。
この山崎が後の第二次UWFでは藤原、前田、高田と並んで四強と呼ばれるまでになる。
僕が最初にみた第二次UWFの試合は船木のデビュー戦だった。
海外遠征から帰ってきた船木(パンクラス創設者)に新日本はジャッキー・チェンとのエキシビジョンマッチを提示していた。一方、師匠である藤原からは「自分は前田の設立したUWFへ行く」と暗にUWFへの参戦を打診されていた。ジェッキー・チェンとのエキシビジョンマッチは試合の是非はともかくプロレスとしえ考えるならば一生に一度あるかないかのビックイベントである。
しかし船木はこの提示を断りUWFのリングを選ぶ。
船木のUWFデビュー戦。
相手は師でもある藤原喜明だった。
黒髪に銀のジャケット、緑のリングタイツとリングシューズでUのリングにあがった船木は幕末の志士の姿を彷彿とさせた。
投稿者 TKM : 06:54 | コメント (1) | トラックバック
[雑記] 神取忍の手
昨日の出来事。
■新宿でミスター女子プロレスこと神取忍さんと遭遇。握手をした。
神取忍は選挙のプロモーションで少し疲れているように見えた。リングでの戦いは肉体的な負荷との戦いだが政治の場では精神面で負荷が高まるのだろうか。握手をした手に力がなかった。
「御輿に乗る」という言い方があるけれど昨日の神取は御輿(仕掛け)の重強い空気に押され吸収されているような印象を受けた。
神取の気も気政治家にありがちな「ウワッ」っとしたものではなくちょっと押したら倒れてしまいそうな線の細さを感じさせた
■将棋公式戦(NHK杯)で「the most scarcely to happen」な勝ち手。「二歩」の瞬間を見た
もう10年以上、将棋を指していないのだがこの映像には驚かされた。プロでもこんなことってあるのだ。冗談かと思ったが思わず地声で「打っちゃったよ、打っちゃった」と声を上げる解説者や対戦相手のやり場のない表情を見るとドッキリではなく実際の試合であることがわかる。
羽生や一部の高名な棋士の名前は知っているがほとんどのプロ棋士の名前を僕は知らない。しかし「豊川孝弘六段」の名前は当分は忘れないだろう。将棋素人の自分でも豊川氏の打った「二歩」は将棋史上かなり稀な出来事だということはわかる。
ここ数ヶ月でクオリティ・成績ともに驚異的な成長を遂げているやまけんだがこの人の食いっぷりもなかなかの「食い倒れ者」(歌舞伎者ではない)である。さりげなく二つのメニューを攻めるあたりはやまけんにも共通する「食い」だ。さすがにTVチャンピオン優勝の看板は伊達ではないなと思った。
投稿者 TKM : 06:01 | コメント (1) | トラックバック
2004年06月22日
[雑記] 仕事とチーム
痛めた手首は完治とはほど遠いが多少は良くなってきた。
友人・知人からブログについて質問されることが多い。
初めてブログをやる人にはロリポップを運営しているpaperboy&co.のブログサービス「寿限無」を紹介している。「寿限無」は後発のブログサービスだが優れたユーザインタフェイスとセンスが俊逸だ。
「寿限無」のメールマガジンではジュゲムで運営されているサイトをいくつか紹介するコーナーがある。そこで紹介されていたサイトをみた。
世の中には文章の上手な人というのがいるものだと感心した。
自分には書けない種類の文章だ。
やまけんの文章も面白いと思うが上記のサイトのように抑制のきいた文章も好きだ。
今日は新宿でミーティングが2本。
部屋ではバシ師匠が布団に突っ伏して眠っている。
バシ師匠はオレの兄貴分でクールではないが優しいナイスガイである。
昨夜はバシ、オレ、タケ、やまけんというメンツでおそくまで盛り上がった。
こういう夜は月島に住んでいて良かったなと思う。
タケはいまごろは株主総会の準備で忙しくしているだろう。
やまけんは原稿を書いているだろうか。
あるいは昨夜貸したPRIDEのビデオを観ているかもしれない。
「誰と仕事をするか」が自分にとっては大切だと前に書いた。
もうひとつ大事な要素がある。
自分のモチベーションについて考えていたときに気がついた。
僕は単独で仕事をするよりも「チーム」で仕事をすることが好きだ。
「チーム」といっても仲良しクラブではないが。
投稿者 TKM : 09:39 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月21日
[格闘技] PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUND (その1)
■恐るべしヒョードルの首
ヒョードルの身体が綺麗に宙を舞った。
ランデルマンの投げが見事に決まったのである。
その瞬間、思わず声がでた。
「死んだッ」
後頭部から真っ逆さまにマットに叩きつけられたヒョードルの首は無惨に折れ曲がっているようにみえた。それはあまりにもショッキングな角度だった。
あの瞬間、自分はヒョードルの首が折れたと思った。
ランデルマンの高角度バックドロップは近年希に見る投げの醍醐味を体現していた。
死の香りさえ漂う切れ味だった。
問題はその後である。
どうしたらあの高角度からの一撃を受けた直後に身体を反応させることができるのだろう?
体を入れ替えヒョードルはランデルマンの腕を決めにかかる。
バックドロップのダメージは全く感じさせない。
ランデルマンの足の動脈が異常にふくれている。パンプアップされた筋肉が限界点まで稼働している証だ。ランデルマンの身体は全身筋肉の塊、バネである。
ヒョードルは落ち着いてランデルマンの手首をつかみアームロックの体勢をとる。
ランデルマンの腕の筋肉が震えている。渾身の力を込めヒョードルにつかまれた腕を安全圏にもどそうとしている。少し腕が伸びかけ「ああ決まるかな」と思った刹那、ランデルマンの腕が伸びきり、ヒョードルのアームロックが決まった。
ヒョードル恐るべし。
ロシアンラストエンペラーの称号は伊達ではなかった。
試合は短時間だった。
しかし全身に力が入っていたいのだろう試合が終わった頃にはこちらも疲労困憊胃していた。そのくらい密度の濃い試合だった。
全試合を振り返ってコメントをするならば僕が言いたいのは次の一言である。
「ヒョードルの首」
それこそが昨日のPRIDE全試合中、最も驚愕すべき「魅せ」であったように思う。あの投げを食らってからの瞬時の反応は人間の領域とは思えなかった。凄まじい試合であった。
■ノゲイラvsヒーリングに魅せられる
次に印象に残る試合といえばやはりノゲイラvsヒーリングであろう。
両者は3年前にも対戦しており、その際は僅差ながら終始グランドでリードしたノゲイラが判定で勝利を収め初代ヘビー級王者の座についた。
再戦ということもあって膠着した試合運びを予想していた。
序盤は両者スタンディングからの立合。この時、ノゲイラの胸筋が以前よりも分厚くなっているように見えた。ボクシングトレーニングの成果だろうか。二人ともグッドシェイプだがノゲイラのボディは以前よりもメリハリがありアスリートの筋肉を思わせた。
予想通りスタンディングでは互角な展開でグランドへ。ノゲイラのボディコントロールが素晴らしく終始ヒーリングをリードする。これまで全くみたことのない体勢でノゲイラがヒーリングを翻弄する。解説の高田も「(両者の身体が複雑に組みあい)もう、どこがどうなっているのかわからないですね」と唖然とした声を漏らす。
ところが。ここから予想外のファイトが展開する。
ギリギリのところでノゲイラの関節技をヒーリングが全て外していく。3年前と同じ展開だ。「あー、やばいな」そう思った次の瞬間にはスルリと腕を外して体勢を入れ替える。マウントになったかと思うすぐに二人の体が入れ替わり攻守が逆転する。希に見るスピード感あふれるグランドの攻防にしばし言葉を失い魅入ってしまう。ヘビー級の試合でこれほどまでにスピード感のあるグランドは久しぶりである。
ヒーリングはアームロック、チョーク、逆十字に対しての対策ができているのだろう。
あと一歩のところで窮地を脱している。
焦りもないように見える。
第一ラウンドは両者の身体のキレとコンディションの良さがあらわれた好試合だったと言えるだろう。
そして第二ラウンド。
やはりそうなのか。
スタンディングでノゲイラのパンチをもらいはじめたヒーリングがタックルにいったところをノゲイラがフロントヘッドロックのような体勢で受け止める。この時点ではまだ技は決まっていない。ヒーリングはその体勢でこらえようとするのだがノゲイラの腕がおかしな形でヒーリングの首にからみついている。ヒーリングの表情が苦しそうに見える。それでもまだ耐えている。
その体勢のままノゲイラがくるりと身体を捻る。
複雑に絡んだノゲイラの腕がヒーリングの頸動脈を捉えた。
スピニングチョークスリーパーが決まったのだ。
「スゴイな」
そんなコメントしかできないのが悔しいが。
そのくらいあっさりとノゲイラはこの技を決めてしまった。
はたからみていると相手の首をつかんでゆっくりと回転しているようにしかみえない。
それも練習でもしているかのようでノゲイラの身体には力みが無い。
「スゴイな」
最後のシーンを思い出してみるがやはりそんな言葉しか出てこない。
(他の試合へのコメントは次のエントリーへ続く…)
投稿者 TKM : 06:19 | コメント (3) | トラックバック
2004年06月20日
[雑記] イスから転倒~図書館のスラム化が進んでいる
エアコンの掃除をしようとして「イス(足がキャスターになっている)→机」の順番で登っていったら机に右足をかけたところでキャスターが滑って豪快にイスから床に落ちた。高さにしたら1m弱とたいしたことはない。受け身をとったのだがおいてあったリラックスチェアーの足に右手首をしたたかに打ち付けた。
昨年末に右肩を骨折して以来の痛みにしばしのたうち回る。
手首をやってしまったらキーボードも打てなくなるので暗鬱とした気持ちになるが一拍おいて脳に届いた痛みが意識を現実に引き戻す。肘も同時に打ち付けたらしくスリキズがあるが骨は大丈夫なようである。
手首をチェックしてみると外側の筋はかなりのダメージをうけている。手のひらをついて後ろによりかかるというような動きをすると鋭い痛みが走る。甲を内側に向ける運動をする分には大丈夫だ。筋の損傷だろう。とりあえず炎症用の湿布を探してきて応急処置をした。
「北の国から」の何回目だったかで邦衛が屋根から落ちるシーンがある。
落下しながらあのシーンを思った。
頭で考えるよりも早く身体が反応した。
受け身がとれなかった場合は重量の思い頭部から落下していたのだろうか。
ともかく運が良かった。
その30分前、図書館に本を返しにいった。
日曜の図書館はいつもにもまして図書館人(虚ろな目で図書館に滞在している気配の薄い人々)が多い。同じ場所にいると陰鬱な気分が伝播してくる。彼らはあそこで何をしているのだろう。早々に退散した。
図書館はインフラ面ではなく人的なアメニティを最重要課題の一つとして検討すべきである。あれでは図書館ではなくスラムだ。
ラース・フォン・トリアーの「キングダム」にでてきそうな人々が虚ろに時を浪費している。
図書館のスラム化が進む背景には街のスラム化も関連しているのだろうか。
中央区の隅田川沿いテラスにもここ3年でホームレスのテントが急増している。僕が引っ越してきた10年前にはあの界隈にホームレスは皆無だったことを考えると絶対数が増加しているのだろう。
コンビニ化とスラム化の度合いには関係があるように思う。コンビニ化が進むとコミュニティの重要性が薄れるから街にはスキ間ができる。スキ間が文化や遊びをつくる場に向かえばいいが大抵はスラム化の温床となる。スラムは街のグレイゾーンに沿って拡大している。こうした動きは生物的だ。制御はないのに全体では統制がとれているかのようだ。散逸的である。
投稿者 TKM : 13:12 | コメント (0) | トラックバック
[エッセイ] 擬態性難解症
「擬態性難解症」という言葉を初めて知った。
「判断力」という本の中でみつけたのだが読んでいて「こういう人っているよな」と思わず膝を打った。
「擬態性難解症」とは筆者の言葉によれば「分かり切ったことをわざわざ難しくいう」ことである。
質問をすると難解な説明をする人がいる。しかしたいていの場合、それは問いへの答えではない。いかにも「オレ様は知者だよ」という態度はわかるのだが話に核心がないから心に響いてこない。
話はそれるが糸井重里がモデレータをつとめるシンポジウムや会合にいくと彼がやっているのは言葉の翻訳なんだと気づく。自分の意見をいうというよりも相手の言葉を咀嚼して「それって簡単にいうとこういうことじゃないですか」と専門家でなくても理解できる言葉への置き換えをやっているだけなのだがこれが驚くほど上手だ。なるほどこういう言い方にすればいいのかといつも感心する。
ネット上の文章にも擬態性難解症が多い。
難しい言い回しを使いたいその気持ちは理解できるが何をいっているのかよくわからない論文や意味や気持ちの伝わってこない「つまらない」テキストが多い。誰かに伝えようとして書かれているわけではないから仕方がないといえば仕方がないのだがほとんどは議論の為の議論や揚げ足取りばかりで核心がない。
意見や自分がそこにないのだ。
意見を出し、自分を出す、ことは「リスク」が伴う行為だ。
しかしそれをやらなかったらコミュニケーションははじまらない。
告白するときに勇気が必要なのはそこに「リスク」があるからで、だからこそ緊張もするわけだがそのリスクなくしては相手との関係を劇的に変えることはできない。
簡単にいうと何かをやるときは「やってみる」という選択肢は存在せず「やる」か「やらない」しかないということだ。
投稿者 TKM : 09:35 | コメント (0) | トラックバック
[キュービタル論] 夢とキュービタル
今朝も早々に目覚める。
狂った夢は相変わらずである。
論理構造あるいは関係性を時間軸をブレたままで映像として定着させたものというイメージがある。複雑なストーリーも感覚や感情の映像化なんだろうな、と思う。記号として表現できないから関係性はストーリーに置き換えられるのだが、単一のストーリーが重みを持つことはなく並行した多数世界に存在する自己を違和感なく受け入れている。これはかなり不思議な感覚だと思う。
夢の中で自分は話している。
これはこうなんだよ、ということを一生懸命話している。
しかし、次の瞬間。
自分が相手になっている。
話している相手の視点が自分の中に入り込んでくる。
それでも普通に話を続けている。
しかし相手の言葉を考えているのも自分だ。
夢の中で我々は自分の視点と相手の視点を同時に体験している。
つまり夢の中で我々はキュービタルアイを体感している。
投稿者 TKM : 08:42 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月19日
[雑記] 「お得意」って誰?
気になる言葉があるのでメモ。
広告業界に特有の用法なのかもしれないが、
「いやー、お得意が○○○」
「でも、お得意が○○○」
「お得意の意向で」
広告関連の業務に携わる人は上記のような言い方をする人が多い。
ここでいう「お得意」とはクライアント・依頼主なわけだが広告業界では何故か上記のような言い方が一般化している。
上記のような婉曲的な言い回しを好むのには特別な理由があるのであろうか。
NDA(Non-Disclosure Agreement)など契約上の理由で相手企業名を明示できないのであればわかるのだが。そうでない場合は少なくともチーム内で「お得意」という匿名性の高い用語を使う理由は皆無だ。
相手の企業がトヨタならばトヨタと言えばいいしソニーであればソニーの担当がと言えばいいではないか。不利益にならない限りそれが道理だと思うのだが。
何故、曖昧な言い回しで表現を試みるのか理解に苦しむ。
極めて特殊な日本語の使い方だと思った。
投稿者 TKM : 18:35 | コメント (0) | トラックバック
[夢日記] 丘の上で波をみていた
海の夢をみた。
丘の上から海を見ていた。
ハワイの海だった。
巨大な波が打ち寄せてくる。
サーファー達は果敢に波に挑んでいく。
波打ち際なのに3mくらいある波が人を巻き込んで砂浜に打ち付ける。
「スゴイな」
隣の外国人に話しかける。
3人とは道で出会った。
丘への道を歩いていると日系人が左官の仕事をしていた。
向こうから犬を連れたおばさんが歩いてきた。
英語で挨拶して二、三言話すといつの間にか会話は日本語になっていた。
おばさんは大学時代の英語の先生をにこやかにしたような陽気で優しい人であった。おばさんには南米系の青年とおじさんの連れがいた。三人は家族ではなさそうだったが仲は良かった。
「ハワイに来てから随分たつのよ」
と彼女は笑った。三人につれられてビーチを見に行った。
「ハワイではこのポイントと反対側の海が一番綺麗なんだ」
そういって青年は海を指さした。
巨大な波のパノラマが広がっていた。
どうみてもこれは津波だ。
砂浜近くで地面に吸い込まれるように波は引いていく。
巨大な水の壁が渦巻くように宙を舞っていた。
何度も何度も打ち寄せる波をしばらくみていた。
「下にいきましょう」
おばさんに連れられてビーチに降りた。
ビーチに併設された売店でジュースを買って貰った。
素晴らしい包丁さばきで現地のおじさんがにんじんを剥いていく。
「たべてみな」
言われてかけらを口に入れるとフルーツの味がした。
おばさんがにんじんといくつかの野菜のミックスジュースを注文してくれた。
犬があたりを走り待っている。
しばらく犬を見ていた。
まだジュースはできない。
ミキサーはゆっくりと回っている。
繊維質な橙色の液体が内側でうねっていた。
波はもう静かになっていた。
++++++
コメントでオススメされたDVDは下記。
投稿者 TKM : 03:23 | コメント (4) | トラックバック
2004年06月18日
[雑記] コンビニ化する世界
梅雨はどこにいったのかいきなりの夏日よりが続いている。
昨日は父と妹を交えて酒席。
退職後はボランティアで母のやっている図書館の仕事を手伝うとのことだった。
週末は福島で送別会があるのだが僕は参加できないのでかわりに妹が行くことになった。
父の送別会が行われる店の名は「ペペ」。
赴任してはじめていった店で父は13年間も通っている。
2月に帰郷した際、五年ぶりくらいに顔を出した。
前の店でたくさん食べてからいったのだが「トモ君、お寿司とってあるから食べてってね」と言われて断るような無粋な真似はしない。
食い倒れ党員として外せないポイントだ。
昨日は宿泊しているホテルが品川とのことだったので品川を攻めることにした。
そんなわけで久しぶりに訪れた品川だが以前は「駅」という感じだったのがいまは巨大な「ステーション」というべきだろう。中央改札を抜けるとだだっ広い広場になっている。ずっと工事中だった駅の東側には駅ビルが完成していた。
広場にはものすごい数のサラリーマン風の人々が行き交う。
ほとんどの人が勤め人に見える。
オフィス棟からワサワサと人がはき出されている。
妹が店を探しておいてくれる手はずになっていたので連絡してみるとどこも一杯で入れないとのことだった。最近は木曜日になると人々が飲み屋に殺到するらしい。合流して相談することにした。
品川で入る店がないとは笑ってしまう。
笑ってしまうがどの店も並んでいる。どんなにショボいチェーン系の店でも入り口にはネクタイ姿の人々がウロウロしている。ため息をつきたい気分だ。アホらくしなったので別な町に移動しようと提案する。タクシー乗り場に向かう途中に通りかかったビルにも商業施設が併設されていた。
妹が空き状況を確かめにいった。
15分くらいで空くとのことだったので2階のカフェで一休みしてから店にいくことにした。汐留や六本木もそうなのだがそれらのビル街は表面的には先進的で綺麗だ。しかし中身はコンビニという印象がぬぐえない。
どの店もサービス、味、ともに「コンビニ」な感じがするのである。
心がないというか。
人がないというか。
それが絶対的な理由というわけでもないが小ぎれいなだけの店はどうにも好きになれない。グローバルダイニング系の店とかゼットンとかキリストンカフェとかダイニング系の店は総じて「コンビニ」っぽいというかインチキくさい感じがしてダメなのだ。
と話はそれたが品川の街も六本木や汐留と同じで「コンビニ」であった。
日本全体が「コンビニ化」しているのだろうか。
コンビニそのものは素晴らしい発明だと思うのだがあのトーンがあらゆる店に適応されるのは全くうれしくないな。
投稿者 TKM : 15:06 | コメント (4) | トラックバック
2004年06月17日
[雑記] 気持ちのいい朝と幸せな夢
久しぶりに夜に眠って早朝に目覚めた。
気分はよい、旅館の朝みたいだ。
しかも今晩はうちの父と酒席である。
ブログの更新も滞っていたので起きてすぐ何かメモしておこうと画面に向かうと
何故か尾崎豊のOh my little girlの歌い出しが頭の中で流れる。
「こんなーにもー」
そう「こんなーにもー」な気分なのだ。
鳥がチュンチュン鳴いてるし、朝がこんなにも気持ちがいいのも何だかなあ、という複雑な気持ちだ。いつもはこの時間はまだ帰宅していない。どこかで本を読んでるのが常だ。
夜に眠った効用は他にもあって夢が心地よかった。
僕は割にしっかりと夢の中身を覚えている方で今朝方に見た夢は10人くらいの人が登場した。夢の中でも眠っていた。大きな部屋で10人くらいで眠る。みんな友達でいろいろ話をしながら眠った。
寒かったので隣の子に腕枕をしてあげると少し暖かくなった。周りからは優しい気配がする。
「寒いのかい」
友人に訊かれた。みんなでサッカーの試合をしなければならない。場所はうちの庭で四角いコートではない。いまはなくなってしまった昭和か大正の頃のゴミ捨て場の穴(3メートル四方)をよけて試合をしなければならない。
その少し前に船に乗っていた。
船は港の近くで氷に包まれた。
マリオブラザーズのように一人を振り回して氷を滑らせて向こうにぶつける、ということをやっていたら電車を降りた朝のラッシュのように乗客が乗り込んできてぶつかって飛んでいきそうになった。みんな怪訝な顔をしているがこちらは海賊なので何をやっても赦される。
再び10人くらいで眠っている。
心地よくみんなの寝息に包まれている。
そして目覚めた。
「ダ・ヴィンチ・コード」についていくつかコメントをいただいた。
作品についてのコメントを書いていなかったので朝のトレーニングから戻ったら書いておこう。その後で「天使と悪魔」も読み進めることにしよう。
気持ちのいい夢のおかげで旅行先の旅館ばりにいい朝を迎えている。
投稿者 TKM : 04:51 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月14日
[雑記] 夜の残骸、久しぶりに侠をみた
誓いには力がある。
言葉には力がある。
世の中には間違ったこともある。
築地のローソンの前に少年達が4人地べたに座ってラーメンを食べていた。
時刻は午前2時。
彼らはジョナサンへとつづく階段の前に座っていた。
ローソンで用事を済まして外に出ると彼らの姿は無かった。
彼らがいたあたりにカップラーメンの残骸が見事に散らばっていた。
二つの器は乱雑に重ねられ、二つはアスファルトの上にひっくり返っていた。
乱雑に飛び散った割り箸は彼らの心象風景のように見えた。
自分がナイーブなのだろうか。
僕はこうした風景をみるといいようのない感情につつまれる。
何故かれらがそうするのか、本当に自分にはわからない。
安易さが理由なのだろうか。
こう考えること自体が自分の安易かもしれないがその風景をみていると「病んでいる」と感じた。
外国の街は綺麗なわけじゃない。
アジアには薄汚れた街もある。
けれどアスファルトの上に散らばった割り箸とカップラーメンの残骸はそれ以上にとてもすさんで見えた。
何が正しくて何が間違っているかはコンテクストによって異なる。
目の前に散らばったゴミや残骸は生きるか死ぬかという問題に比べれば些細だ。
けれど、これは間違っている、そう思った。
考え事をしながら帰り道。
家の前にある小さな橋の丁度真ん中にさしかかったところでふと空をみあげた。
北東の空に細い線のような月が顔をのぞかせていた。
それは黒い紙に引かれた切れ目のようだった。
橙色の光が静かに輝いていた。
++++++
朝を迎える少し前の午前2時30分。
AERAの記事を読んだ。
愛読している「現代の肖像」を読む。
今回は丸山健二であった。
丸山健二を初めて読んだのは20歳の頃だった。
その頃はどんな人なのか知らなかった。
アエラの記事は俊逸であった。
久しぶりにいい記事だなと思った。
丸山健二が高校生の頃はチェーンをもって喧嘩ばかりしていたとは知らなかった。
「作家になっていなければ極道になっていた」とは本人の弁だが掲載されている写真のせいだろう「確かに」と納得した。
それにしてもカッコいい記事だった。
忘れずに図書館でコピーしておこうと思った。
まだ最初の数分しかみていないが義家弘介さんのドキュメンタリーを見た。
彼の姿をみた瞬間に「こんないい男がいたのか」と思った。
ボクサーの畑山を教師にして真田広之のトーンをかぶせて侠にしたようないまの時代に全く出会ったことのない凛とした人であった。
彼が過去を振り返り恩師とのエピソードについて語る場面があるのだがその場面を見ていたら感極まって泣いていた。人はなんの人であってもいいけれど心の人であるべきだと思った。心に素直に生きること、それを誓った。心のうちにあることや普段は言葉にできていなかった奥にある思いを話しながら涙で濡れた顔をあらった。
投稿者 TKM : 04:07 | コメント (5) | トラックバック
2004年06月13日
[雑記] 理解の意味
いい小説を読むことは人生最良の時間の過ごし方の一つである。
今朝はそう思った。
夜。
友人から電話があってバーで話す。
ワーっと話したいが久しぶりに酒を口にしたせいか頭の回転が鈍る。
訪ねられて少し考える。
「つき合ってる人っているの?」
男の人にも女の人にも年代を問わずいつも訊かれる質問である。
大抵は答えない。つき合ってる人がいたら何がどう変わるのだろう。
自分にはわからない。何かを張れるとかそういうことなのだろうか。
そういう意味でいったらおそらく対象が誰であろうとその場でそうしたいと思えばそうするし、心が動かなければ相手が誰であっても何もしない。つき合う?この言葉だけは中学の頃からいまだに意味がわからない。買い物につき合うし、飲みにもつき合うが。もっと正確にいきたい。外国語で話してる時はこんなの何も考えないので不思議だ。「つき合う」って英語あったっけ?
(’私事でなんだがオレはずっとこんなどうでもいい話をしているのが好きだ。まあ全うな職は向いていない性格だと思う)
意味はわからない。
それはオレにはつき合ってる人はいない、ということなのだろうか。
想われたいと願うし、自分も想うことはあってもそれは「つき合う」とは全く無縁だ。
同様に親密さや仲の良さも「つき合う」という曖昧な関係性とは別なものだ。
全然、これとは関係ないけれどオレが思う一つのキーワードは「理解」という言葉だ。
人はいつも誰かに理解されたいと願っているし、理解(されていようといまいと)されたと感じるときに安らぎを感じる。少なくともオレの場合はそうだ。なのでオレはこれが大切なことだと思っている。人が憤るのはたいてい事実がどうあれ本人が理解されていないと感じる時だ。
++++++
ある晩、といっても午前2時過ぎ、北京から東京に来ているという中国人の青年に道を聞かれた。彼はタバコを差し出して僕に道を聞いた。それだけの関係だが彼と飲みたいなと思った。彼もそう思ったそうだ。二人で飲みに行った。彼は翌日の飛行機で北京に帰るという。上野駅まで一緒にいった。
「日本に来て友達ができた。本当に友達が出来た。必ず北京に来て欲しい。北京には家が三つあるから絶対に不自由はさせない。北京に来て欲しい。」
そういって彼は堅く僕の手を握った。
彼は特急がホームから去るまでずっと手を降り続けていた。
国民性が云々とか国や文化がどうこうというが。
人対人でやる場合、そんなものは関係ない。
アメリカ人でも中国人でもタイ人でも友達は友達だ。
逆に日本人でも嫌いな奴はとことん嫌いだ。
人との関係というのはそういうものだと思うのだ。
僕が思うのは自分達たちはいつか死ぬということだ。
どうせいつか死ぬなら優しくいたいと思う。
いつか終わるこの命なのだ。
どう終わらせるにせよ、それだけは守りたい。
人を傷つけるのは簡単だ。
自分のエゴをぶつければいい。
他者が自分の思うように動かない時に皮肉を言えばいい。
文句を言えばいい。
人を傷つけることは優しくすることに比べれば驚くほどたやすい。
しかし、たやすいことをやっても仕方がないだろう。
簡単には出来ないことをやるから面白いのだ。
いいじゃん、どうしようもなくダメに生きててもさ。
死にそうになっても優しさを失わないなら、迷わずオレは買うね。
バリバリにエネルギッシュでガンガンいってる、でも、優しさはないよって人は死ぬときにみんなに思われる「ああ死んでよかった、一安心、一休、一休」って。
まあうまく言えないのだけれど。
いろんなものを全部とっぱらって、家だとか、ポジションだとか、そういうのを全部とっぱらったときに何が残るのか。その時に残ったもので人を見たらいいと思う。これはオレの考えだけれど相手をどれだけ想えるか(同性、異性、年代に限らず)そこに人があらわれるとオレは思う。それ以外に何かあるだろうか。
現実?
アホじゃあるまいし、この日本で心で生きて生きていけないことはない。
そのくらいの余裕はできてるはずと思ってる。
みんな道に迷うと何で外国や沖縄にいきたがるのか。
ずっとわからなかったけれど沖縄や外国にいった人の気持ちも少しわかるようになった。陸続きじゃない外にいくと多少は優しくなれる確かに。緩いけれど、ゆるくてもいいのかなとも思う。何がよくて何が悪いのかなんて絶対的なルールはない。メディアがぶっこわれて、マネーシステムもぶっこわれて、というか無くなったらまたドンガラガラいろんな関係が変わっていく。
そういえば小学校の教室の権力構造にはマネーシステムはあんまり影響してなかったな、うちの田舎の場合は。
とりとめもない雑記であるが物事は案外とシンプルなのだと思う。
おそらく違いっていっても肉体があるか無いかとか、根本はその程度の違いだけだ。
投稿者 TKM : 03:24 | コメント (2) | トラックバック
2004年06月12日
[ネット関連] ようは中身の問題さ
僕がずっと心待ちにしているソフトがある。
デジタルステージが放つLiFEシリーズ第2弾。
「<ID for WebLiFE*>」である。
このソフトも先日紹介した「NOTA」同様、<ID for WebLiFE*>もHTMLを書かなくてもハイエンドのウェブサイトを構築することができるのがポイントだ。デジタルステージのサイトにサンプルがあるのでみてみると通常のサイトであればこれで必要十分という気がする。
こうした感想を書くとテンプレート化によって「オリジナリティ」が失われてしまうことを危惧する意見が出てくる。
確かにオリジナリティは重要だがそれは外見のオリジナリティではない。
中身のオリジナリティが重要なのである。
(ブログやWikiなどはどのサイトも似たようなテンプレートをもとに構築されているがテンプレートによって価値が変動しているわけではない)
「企業のサイトって綺麗だけれどつまらないからみない」という感想が示す通り、ウェブサイトをみるときのポイントは外見ではなく中身に移ってきている。これも大きな流れの一つだ。
とはいえ外見はどうでもいいのかといえばそういうことでもなく(一つ前のライブドアブログについてのエントリーを参照ください)「中身もいい、でも外見もいい」というダブルの良さの実現に向かうのがベストだ。
※これは心証でしかないがインターフェイスの気持ちよさがコンテンツの方向性に少なからず影響する。使用するエディタによってテキストの方向性が変化するのと似ている。
また、HTMLを書いたりDreamweaverやホームページビルダーといったHTMLエディタをつかってウェブページをバリバリつくっていく、というウェブ製作のあり方からCMS的なアプリケーションへの移行ももう一つの大きな流れである。
投稿者 TKM : 16:03 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 野球がやりたければ天気を嘆くよりもドームをつくればいいし、冬が嫌いなら夏と一緒に移動すればいい
改めて書くのでとりあえずメモとして。
KNNにプラグインが素晴らしいとあったので今朝はじめてlivedoorブログを使ってみた。メジャーポータルの比較レポートを作成しているので各ポータルのアカウントは持っている。
ASP型のBlogサービスとしてはココログやjugem、myprofile、はてなダイアリーを試していた。ライブドアはまだだったので雰囲気をみておきたかった。
ブログサービスならどれを使っても大差はないのだろうと思っていたのだが予想外にサービスによってそれぞれ特徴があることがわかった。
結論からいうとライブドアブログは良くできているが僕の好みではない。
表面的なことだがテンプレートのセンスが自分の思想とは決定的に合わない。もう少し細かくいうとデザインを含めたインターフェイスの楽しさの方向性が自分のセンスとは異なるのである。(逆にjugemのインターフェイスのセンスの良さはバツグンでその俊逸さが際だつ)
一群のテンプレートが企業としての遺伝子に起因するフェノタイプなのかどうかは推測するほかないが僕の心証は「YES」である。が、「逆も真なりと申しますか。ブーイングもある意味人気のあらわれなんだよね」という猪木の名(迷)言にもあるようにアクの強さはそれを良しと捉えるならばプラス要因ともとれるし、あのセンスに同意する人々も多数存在することもまた事実である。
話は飛ぶがPCにおけるMacのシェアは3%くらいだときいた。
たった3%のシェアでもあれだけ巨大なビジネスが成立するのかととても感心した。
ならばBlogサービスでもそれは同じだろうと僕は思うのだ。
問題の本質はシェアの大小ではなく、マーケットサイズの認識の仕方である。
マーケットサイズによってとられるべき戦略は異なる。
Blogとビジネスの関係については今後様々な議論がなされ、実践されていくだろうがポイントは変わらない。的確な状況認識に基づく適正な意志決定をしていくという実に当たり前のことができるかどうか。ポイントはそれにつきる。
僕は99%、つまりほとんどポータルというサービスを利用していない。一方でポータルを利用する人々はまだ存在するし、おそらくいつまでも存在し続ける。割合が変わるだけで消えることはない。
ASP型のBlogも今後増えるし幾つかのメジャー系に集約されてもいく。
ユーザは自分のセンスに合致するサービスを選択するし、それをつかって企業が何をやるかは各企業の戦略によって異なる。
僕が好きであろうとなかろうとライブドアBlogを使う人もいればはてなダイアリーを使う人もいる、それらのサービスを利用する人々は必ず存在する。そういう風にできている。割合が変動するだけなのだ。
僕はほとんどTVをみない。特に昼間の番組、ゴールデンタイムの番組は全く見ない。けれどいまだにその時間帯には何百万人もの人々が四角い箱の表面を眺めることに時間を費やしている。膨大な数の人々が来る日も来る日も2次元の板の表面を眺め続けている。その人々はいつか消えるのか?否、消えない。割合が変わるだけで決して、消えることはない。またそれを嘆くことも間違いである。それは地球の回転方向にけちをつけているようなものだ。
政治にしてもそう。現状を変えようとする人々がいる一方、現状を維持したい人もいる。「どうして日本はこうなんだ」と憤る人もいればそう感じない人もいる。けれどそれもいたって正常な状態である。
意見が一つに統合されてしまうことはない。
どうしたって存在するものに文句をいってもはじまらない。
妙に憤る人々は解決法とポジションを間違えている。
ポイントはそれが必ず存在するということである。
抽象的な言い方になるけれど、例えばどうしても野球をしたいとする。雨の日だろうと風の日だろうと野球がやりたい。けれど、いまはまだ天気をコントロールする方法がない。だったらなら天気を嘆くなんてことはやめてドームをつくったり、自分が晴れの場所にいけばいい。
解決法ってそういうものだと僕は思うのだ。
晴れを作り出す方法はひとつじゃないし、雨を否定することでもない。
雨にだって何かしらの関係性がある。
そこには原因がある。
現象はなんらかのフェノタイプであり本質は別なところにある。
僕がいいたいのはそこなのだ。
嘆くよりはドームをつくればいいし、冬が嫌いなら夏と一緒に移動すればいい。
物事はやり方次第でいかようにでも遊べる、というのが僕の提案である。
投稿者 TKM : 15:30 | コメント (1) | トラックバック
2004年06月10日
[特報] 久々に感じたネットの風
衝撃のサービスが開発されていたことをいまさっき知った。
ロリポップではこんなものを考えていたのか。
素晴らしい。
HTMLもいらない、タグも難しい知識も、マニュアルもいらない、そんなWebページ作成サービスが「ノータ」である。
こうしたサービスがどんどん出てきて欲しい。
ビジネスやマーケティングの話題ばかりで辟易していただけに心地よい風を感じる。
「ノータ」はサービス・ソフトウェアの名称であるがこれはサービスというよりもコンテンツそのものである。使ってみたいと思わせる力がある。そこから面白いものが産まれてくるかといえばおそらくスゴイモノは出てこないだろう。しかし、僕はこのアプリケーションに未来を感じた。とても楽しい気持ちになった。
そういうことでいいんじゃないだろうか。
小難しい議論や頭でっかちなプロジェクトは結局使われもしないつまらないサービスの量産しかしていない。
これは大きな流れなんだろうけど。非常に気持ちが良い。久しぶりである。
■関連URL
・ユミルリンク
http://www.ymir.co.jp/
・ロリポップ!NOTA
http://nota.lolipop.jp/
投稿者 TKM : 22:24 | コメント (3) | トラックバック
2004年06月09日
[読むテレビ] NHKトップランナー 石田衣良~エンターテイメントの鬼になる
■石田衣良の面白さとその先
石田衣良の小説を初めて読んだのは随分前である。
デビュー作でもある「池袋ウエストゲートパーク」を読んだのだがまだTV化もされていなかった。著者についても何も知らなかったし作者プロフィールの写真も現在の石田とは違う人物のように見える。
池袋という自分にとっては馴染みの薄い街を題材にした小説ということで興味を持ち手に取った。表紙が洒落ていたのも理由の一つではある。
昔から文学作品は嫌いなのであまり読まない。それ以上にゆるくてぬるい作品は嫌悪するけれど。だからあまり小説は読まない。読むにしても途中で放り出すことが多い。
「池袋ウエストゲートパーク」はどちらとも言えない小説であった。
読みやすい。しかし響いてはこない。けれどつまらなくもない。
「ハ?!それって面白いの面白くないの?」
ときかれれば
「面白い、かもしれない」
としか答えられない。池袋の街を舞台にした話なのだが予想以上にサラリとしているのだ。その理由は青春小説というカタチにあったのだと思う。主人公は基本的に悪意を持たない。まっすぐな人間として描かれている。いくつかの事件を通して彼が成長していく過程を物語は追っているのだがこの成長という言葉がくせ者で段々といい男、いい人間、完成へと近づいていくRPGの王道な構造なのである。
僕は人間としては善人だが思想はまっさらではない。
だからまっすぐに進んでいく物語を読むと「つまらなくはないが響いてはこない」というような言い方になってしまう。
「池袋ウエストゲートパーク」の場合はマスに対して受け入れられるコンテンツの宿命なのだろうどうしても「不確実性」が弱いと感じてしまうのだ。
ラーメンに例えると洒落た店舗の純正統派「醤油ラーメン」。
しかし僕が好みのラーメンは「深川こうかいぼう」のような味だ。
毎日食べられる爽やかさなのに深みとパンチがある。
それでいてしつこくない。
ま、ラーメンを持ち出すと話がそれるのでこの辺にして話を石田衣良に戻そう。
「池袋ウエストゲートパーク」」を読んで以降は石田作品を読むことはなかったのだが今年になってから「波のうえの魔術師」を読んだ。この作品は金融をテーマにした小説なのだがそれでも少年小説な雰囲気は共通している。簡単にいってしまうとある少年の挫折と冒険と成長の物語である。(こう書くとキャンベルの話になってしまいそうだが)
「で、面白いの?」
こちらは面白い。明らかに筆力が上がっているのを感じた。ストーリーの規模は思ったほど大きくない。仕手戦にしては動く額が小さすぎるしスピードも遅い。またオプション取引が登場しないあたりはストーリーを単純化する為には仕方がなかったのかもしれない。とはいえほぼ同じようなテーマと展開で書かれた「マネーロンダリング」(株とシステムという違いはあるが)と比べると小説としての面白さは数段に上である。
現象説明のバランス、構成は絶妙で読み進めるうちに自然に架空の主人公が自分の中でできあがりストーリーに引き込まれていくのを感じた。
経済評論家もこういう手法で己の評論を表現したらいいのだ。
とはいえどうしても青春小説な感じがしてしまい読んでいるうちは面白いのだが読み終えると時間をつぶしたという感覚が強まってしまう。これはおそらく抽象度の問題で、自分が積極的に脳を使わないと読み進むことができないというタイプの小説にはなっていないためで、ここが今後の石田衣良作品の分岐点となるのではないかと思う。
読み手からの介入がより必要とされる作品になれば読者は難解と感じるがその分、読むことによって読者も成長する、そのため物語を読み進めただけでは得られない域の悦びを感じることができる、可能性がある。
※「マネーロンダリング」は経済システム小説としては面白いので経済系のどうでもいい単行本や新書を読むなら絶対にこちらをオススメする。
■エンターテイメントへの信頼が力の源
肝心の番組だが石田衣良のトークは予想外に「良かった」。
言葉には全く力が入っておらず「ですよね」が口癖だ。
ところが端々にいいワードが出てくるのである。
いくつか書き出してみると、
「小説というのはその世界の出来事ですから、それは振り切った方がいいんです」
「読んだ資料は一度忘れて鮮明に覚えている部分だけを使います」
「音楽みたいなものなんですよ。バリバリに構成をきっちりやってという部分とアドリブの部分とのバランスが大切で。」
作品のスピード感はどこから来ているのかという質問に対してのこの答えがふるっていた。
「作品の中の自分と、本当の自分を入ったり来たりして、というのを何回も繰り返す。書いていて悲しいシーンになると自分も泣きながら書いていたりするんですけれど、あ、おれいい歳して何ないてんだろう、と客観的な自分もこっちにいてとかね。」
イチロー選手も同じことを言っていたが「集中状態の自分とそこにいる自分を客観視しているもう一人の自分」という表現がここでもでてきた。自分ともう一人の自分を感じるキュービタルアイの存在。これはアスリートに限らず何らかのカタチでクリエイティブに関わる人々には顕著にみられる感覚なのだろうか。非常に興味深い。
話をきいていて思ったのだがこの人は「小説・物語ラブ」な人だと感じた。本人も次のように語っている。
「いろんなジャンルの小説を書いてみたい。といのは小説が持っている面白さの核があればどんなジャンルでも書けると思う。」
なるほど。確かにそうなのだ。面白さにはいくつかの核、パターンが存在する。そのパターンを内包していればテーマや分野に関係なく面白さはつくりだせる。「ヒカルの碁」がいい例だと思う。子供達は囲碁が面白くて読んでいるわけではない。しかし囲碁でも面白さは作り出せる。「ヒカルの碁」の場合は囲碁がつくりだす「対戦」という構造をベースにストーリーが成立しているのだがその根幹にあるのは競技を媒体とした人間の物語である。同じ構造はあらゆるスポーツ、試合もので成立している。これは一つのパターンで物語が描いているのは関係性の変化に起因する人の心の変化であり、舞台やテーマはそのための手段・媒体なのだ。そしてこう続ける、
「自分はエンターテイメントを信じています。難しくて立派なものよりも面白おかしいもの程、人に影響するんです。面白くていつも近くにいてくれるものの方が強いので。だからエンターテイメントの鬼になる、みたいな方がカッコいいと思っています。」
これなのだ。エンターテイメントへの信頼。それが一連の作品に通底する石田衣良っぽさの源流であり僕が「爽やかすぎる」と感じる何かの正体なのだろう。僕が信じるエンターテイメントのカタチと彼が信じるエンターテイメントのカタチは同一ではない。
だからこそ僕はいまの石田衣良の作品のその先が見たいのだ。
テキストから流れてくる言葉の旋律をただなぞるだけではなく読み手の介入によって変化する可能性を持つテキスト。それが僕が信じるエンターテイメントのカタチである。だからこそどの作品にもそれを期待してしまう。
それは自分にとって「オヤ!?」という感覚であり「フー」というため息であり、「やったよ、やりつくしたよ」という満足感を感じるにはどうしても必要な過程なのだ。
■小説家の力をみた、最後にもらったいい言葉
石田衣良の作品はエンターテイメントとして面白さの核を持つ小説である。人の感情をドライブさせる構造を内包していないかぎり作品が多くの人に受け入れられることはない。
収録が終わった楽屋で彼がコメントするシーンがある。番組では最後の言葉なのだがこれがなかなか響いてくる上手な言葉だったので紹介しておきたい。
「カメラっていいですよね。(石田の趣味はカメラ。カメラを構えて話ている)こんな小さなガラス玉を通して世界を全部写すことができるんですよね。不思議ですよね。でも、人間の心もこういうガラス玉みたいなものだと思いますよ。小さいけれど、世界を全部写すことができるんですよ。そしてなるべく曇りがない方がいい。うん、こというね~。」
いやはや、さらりといい言葉を使うものだなと感心しきりであった。
小説家、恐るべし。
言葉の使い手こそ現代の魔術師に違いない。
■参考図書

池袋ウエストゲートパーク
石田 衣良

波のうえの魔術師
石田 衣良

4TEEN
石田 衣良

1ポンドの悲しみ
石田 衣良
投稿者 TKM : 22:16 | コメント (3) | トラックバック
[エッセイ] ダ・ヴィンチ・コードとクオリアと見知らぬ群衆がクオリアな人にかわるとき
■ダ・ヴィンチ・コードに出会うまで
「ダ・ヴィンチ・コード」を読んだのだが僕がこの本を見つけるまでの過程がとても興味深いと感じたので書いておきたい。
RSSリーダでタイトルを眺めているとviewsのタイトルに「ダ・ヴィンチ・コードを読んだ」とあった。いつもは主に政治関連のトピックスを扱うブログなので「何故ダ・ヴィンチ?」と思いクリックした。するとそれがダ・ヴィンチについての本ではなくキリスト教とダ・ヴィンチにまつわる暗号についての小説だということがわかった。
「薔薇の名前」のような中世を舞台とした作品なのだろうか。エントリーを読む限りグノーシス的な世界観も感じとれる。どのような作品か興味が湧いたがその日はそのまま眠った。
翌日、やまけんオススメの「驚愕の路麺蕎麦」を攻めた帰りに新橋の本屋をのぞくが力尽き、雨もパラつき、二階の翻訳本のコーナーまであがる気力が失せた。と、その時である。入り口近くの平積みの新刊本のコーナーの別な面につくられた台の上に「モナリザの微笑み」が見えた。
果たしてそれは「ダ・ヴィンチ・コード」であった。
「これか!」
手にとって数ページを読み進める。
なんと予想外に現代が舞台である。
この時点でヤラレタ感が強まる。
数ページ読んだ感覚ではエンターテイメント作品に仕上がっている。
のっけから舞台はルーブル美術館である。
しかもイニシエーションが絡んでいる。
数秒考えた。
昨日から進めているサイトのリニューアルを進めるべきか、それとも作品を読むべきか。こういう時の決断は決まっている。
これまで散々失敗してきたのだ。
「これは」と思ったコンテンツを「いつか入手できるだろう、なにもいまじゃなくてもいい、終わったら読めば」と見送ってしまうと必ず凶とでる。「吉原御免状」の時も同じ本屋で「とうとう見つけた!どうせなら隆慶一郎全巻をしかしもちあわせがないな」と思った瞬間にやまけんから電話がきて
「ハローン、やってますかー。ン?!吉原御免状、隆慶一郎。全部あるんで貸すよー。はやく来なよー」
「(ま、貸してくれるんだから今日はいいか、どうせ今晩は読めないし)おっけー、じゃ貸してよ。」
といって電話を切ったのが…。
何故か手には「吉原御免状」と「かくれ里苦界行」が。
この時「吉原御免状」を入手していなかったらいまも自分は「誠一郎」も「うっちはぬしさんに惚れんした」「悋気」「観法」などの我々、隆慶ファンが集ったときに愛用するワードの全てを知らずにいたことだろう。
ひいては最近の自分のキイワードである「悋気マネジメント」という言葉を閃くはずもなく、人生も少なからず変わっていたのではないかと思う。
そうした経験から「ダ・ヴィンチ・コード」は読むべしと勘が伝えていた。
結果は「吉」であった。
「ダ・ヴィンチ・コード」は買いである。
心に染み渡ってくるような読書体験ではない。
しかし別なカタチの面白さが確かにそこにはあった。
作品のポイントはキリスト教最大の謎の一つ「聖杯伝説」をキーに様々な学説や仮説を交えあれだけ複雑なテーマを誰もがわかるように伝えてしまうその構成にある。クライトンの小説のパターンとも似ているのだが専門分野、それもおそらく最先端の学説をベースにエンターテイメントに仕上げていく手腕は脱帽である。
日本の小説は題材そのものではなく文章(文体)あるいは表現したい心情の特異性、より情報的な曖昧なもの、に向かってる気がしていて、普段は日本語でそれらの作品を読んでいるものだからこうしたノンフィクションとフィクションの両方の特性を持つ知的読物としての小説を目の当たりにすると進化の方向性の違いを感じずにはいられない。
原文で読んでいないのではっきりとは言えないがサイエンスの一般書が小説の手法で書かれているようなそんな印象である。勿論、日本の作品にも同様の方向性を示すものはたくさんあるのだが(金融モノなど)事実の説明にとどまっている感じで、この作品ほどの発想の飛躍と狡猾さはない。
内容は次回のエントリーにゆずるとして映画をみるのとは全く違う知的エンターテイメントの世界をたっぷりと堪能した数時間であった。
◆「ダ・ヴィンチ・コード」オフィシャルサイト(立ち読みができます)
・ダ・ヴィンチ・コード
■情報の流れ方が価値をつくりだす
そうそうそもそもこの話を書いておこうと思ったのは
ブログで知って→本屋で見つけて→読みながらわからない言葉をネットで調べて→読み終えてからまたブログにメモして
という一連の流れにこれまでにない情報との出会いのパターンを感じたからである。
おそらく「ダ・ヴィンチコード」が一般書や新聞の書評にあったら僕は読もうと思わなかっただろう。
けれど普段は政治をテーマにしたブログで情報を発信されている野中さんが「面白かった」と書いている。ここに「オヤ!?」を感じたのである。
この「オヤ?!」は言語化されていなしコンテクストによって変わってしまうのだけれど僕はこれが情報の肝だと思っている。ブログの効用云々ではなく物事全体の大きな流れとして情報や商品の価値がそれそのものを含む関係性にシフトしているのだろう。
街行く人々をみてもそれは雑踏の中の一人に過ぎない。
自分との間になんらかの関係性が生じない限りほとんどの通行人は通行人でしかない。例えどんなに美人であろうと数分すれば忘れている。しかし、少しでも関係性が生じるとこれが変容する。
例えば僕は昨日ソニーのショールームでクオリアの実機をみていた。
するとクオリアブースの担当の女性が近づいてきた。
「ご存じですか?」
「クオリア製品ですね。映像でみて知ってはいたのですが実機をみるのは初めてです。」
「ガイアの夜明けでご覧になりました?」
「そうです。あのCDのオーディオとかスゴイですよね。」
「こちらにございますよ。どうぞ。よろしければどうですか視聴室でお聞きになりませんか?こちらの開発中のヘッドフォンもお持ちしますので。」
という流れで視聴室で実機を試させて貰うことになった。
この実機の機械部分の凝り方が情報社会に逆行しているというかソニーが傾いていることを示していると思う訳なのだがまあそれはおいておいて機械的にはなかなかスゴイのである。
「スゲー。これかー。これで押さえてるのか。やってみてもいいですか。クオリアと言えばCSLで茂木さんの講演をきいたんですよ、あれがこの実機になったんだ。」
「エ、茂木さん知ってるんですか!何をやられてるんですか?」
などとやってるうちに作品の話などになり盛り上がってしまう。
僕自身は彼女とは知り合いでもないのだが共通の誰かを知っているというただその一点でもって何故か二人とも親近感を感じるもので一つでも接点がみつかると初対面なのにわきあいあいとしてくるから不思議だ。
ところでこの女性だがモデルかと見まごうような綺麗な方であった。話をきくと広報部ではなくソニーマーケティングのクオリアプロジェクト専属とのことであった。なるほど人もクオリアということかとひとり感心した。
と、かなり話がそれたが普段は知らない誰かであるはずのショールームの女性もこんな風に関わりができると急に「知らない誰か」ではなくなる。こうしたコミュニケーション体験による物語性の発生が情報や商品、サービスなどの価値とより密接に結びついていくのだろう。
※そういえば「ダ・ヴィンチ・コード」は女性の力に関する小説でもあった。
■参考図書

ダ・ヴィンチ・コード (上)
ダン・ブラウン 越前 敏弥

ダ・ヴィンチ・コード (下)
ダン・ブラウン 越前 敏弥
投稿者 TKM : 08:19 | コメント (4) | トラックバック
2004年06月07日
[雑記] プランニングからみる仕事とコンセプトと
仕事について思うことをメモしておきたい。
これまでプラニング・ディレクションという立場でネットワーク関連、コンテンツ関連の仕事を中心にやってきた。自分には結構向いている仕事ではあったと思う。
しかし、先週やまけんから貰ったメールをみてふと気がついた。
実は自分は「仕事の内容」にはほとんど興味がない。
自分にとって一番大切なのは「誰と仕事をするのか」という部分なのだ。
企画にたとえるとこれはコンセプトにあたる。
コンセプトがたっていないと衝撃や事件があるたびに企画の方向性がブレる。
ここがぐらぐらしていると企画という虚像を実体化させることは難しい。
またできあがったモノやサービスに勢いをつけることができない。
企画におけるコンセプトの役割は「信頼感」の創造にある。
これがないと人は動かないし、動けない。
人が何かを面白いと感じる時、そこには理由がある。
大切なのはそこだ。
それが企画を走らせるエンジンになる。
仕事をプランニングにたとえると僕のコンセプトは、
「人と仕事をする」
これに尽きる。
投稿者 TKM : 17:36 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月06日
[雑記] 人のつながりとチェロの音
連日、イベントが続いている。箇条書きでメモしておこう。
・電通の及川さんへもろもろヒヤリング。話がリンクしていきいろいろとインスパイヤされる。本もいいのだが人の話を聞くのが一番勉強になる。
・電車男を読む。
・夜にやまけんらと韓国料理の会。プルコギを堪能したあとアイリッシュパブにいく。美人チェリストと知り合う。カッコいいね、といったら笑って演奏してくた。深夜のバーにヨーヨーマの曲が流れた。
・次の日は銀座。みんなの始発を待つ間、時間をつぶすのにビックエコーに入る。ここで衝撃が走った。なんと羽賀のネバーエンディングストーリーがDAMに登場したのである。はじめての体験だ。ここ数年の音楽体験で一番のインパクトであった。羽賀バージョン、素晴らしすぎる。
・下妻物語を観る。これまた素晴らしすぎる。土屋アンナがいい。ひさびさに惚れた。3カ所くらいセリフが痛い場所があったがそれ以外は最高であった。
・「ナップスター狂想曲」を読み始める。ナップスター騒動の背景を初めて知った。ショーン、いい男だわ。日本との温度差に少し愕然とした。
・直子さんの手伝いで祖師ヶ谷大蔵。ご飯がウマすぎる。久しぶりに和食三昧を楽しむ。うまかったので炊き込みご飯と各種煮物を頂いて帰路。大江戸線の最終は六本木に向かう外国人と日本人で混み合っていた。六本木で車内の9割の乗客が降りていった。
先ほどいただいたおみやげを夜食に少しつまんでみる。
ウマすぎる。レバーの煮物が最高である。
梅田さんのブログをみたら鈴木健君のことが書かれていた。
彼は伝播貨幣という新しい概念の貨幣を研究している。
鈴木君とは何度か飲みに行ったことがあって、毎回いろいろバカ話をして盛り上がった記憶がある。
こんなところで糸はつながっていたのか。
彼のブログもぱらぱらとみてみる。
すると安斎さんと中村さんというアーティストとの会話について書いてある。この二人とは僕の師匠の野知さんがつながっていて、野知さんは中国にいた頃から二人とは友達である。
と、実はいろいろなところでリアルな人々がつながっていることがわかってきた。
ソーシャルネットワークサービス(GreeやOrkut)とは違うカタチでストーリー的に関係性が顕在化していくこのプロセスはとても面白いし興味深い。
回線、ポータル、検索、P2Pと来て次はこういう「リアルインターネット感覚」へとトレンドがシフトしていくんだろうな、とぼんやりと思った。
投稿者 TKM : 03:12 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月03日
[エッセイ] 千日回峰とある阿闍梨の誕生
■3時間の法則
今週は仕事をしている。
こうかくと普段は何もしていないようだがまさにその通りであった。
やる気が起きない時は何もしないのも一つの方法論である。
その方法論にしたがってやってみると不思議なことに一日のうちにどこかではやる気の波があがってくる。
僕は3時間の法則と呼んでいるのだが何でもいいアウトプットなりインプットなり自分が働きかける必要のある集中を3時間継続すると流れができる。
僕の場合は夜12時過ぎから朝8時くらいまでの間、午前2時過ぎから午前5時頃までをピークに人が眠っているこの時間帯が何故か集中できる。睡眠のリズムの問題ではなく街の空気の問題だと思う。昼間は何かをつくるには向いていない。たくさんの人が起きて動いていると空気が違うのである。
■「千日回峰」という荒行~千日間一日に40キロの山中を走り続ける
それはともかくとして昨日は素晴らしい体験をした。
正確には視聴体験なのだが「千日回峰」(比叡山で最も過酷とされる行である)のドキュメンタリーを観た。
隆慶一郎の本に阿闍梨へ取材した際のエッセイが載っていてそこに「彼等に共通する潔さはなんなのだろう。そうだ彼等には一切の迷いがないのだ。迷いのない男とはこうもかっこいいのだろうか」というような記述があって「エースをねらえ」に出てきた「迷い無きとき人、人にあらず」を思い出したが実際の映像は言葉を凌駕する凄まじいものであった。
作品の主人公は酒井さん。
天台宗の僧侶である。
彼は40歳の時に出家した。
遅い出家である。
40歳から小僧生活を6年送った。
炊事、洗濯、掃除、子守、雑事をこなした。
そして49歳。
「千日回峰」を決意する。
それは奥さんの命日であった。
酒井さんの奥さんは結婚後1ヶ月で自殺した。
自分がふらふらしてたからだ、と振り返る。
「商売もやったし、稼いだり、いろんなことをやった。借金を背負ったり。でも、いま振り返ると全部、夢みたいなものだったなと思います。もっとしっかりいきとったらよかったのになあ。」
千日回峰とは7年間かけて1000日、高野山の山中を一日に40キロ歩く荒行である。
いや、歩くというよりも道なき山をひたすら駆け続けているように見えた。
一日の睡眠時間は3時間。
病気もケガも行を休む理由にはならない。
行を休むことそれは「死ね」ということに他ならない。
「最初はつらいし、痛い。いろんなことを考える。けれど毎日毎日あるいているとね、気がつかなかったものに気づいてくる。同じものはないんですね。急にイノシシが飛び出してきて死んでしまうかもしれない。足を踏み外して谷に落ちるかもしれない。今日も生きられて良かったな。そう思うようになってくる。」
500日目を超えた頃の酒井さんの言葉である。
そして修行はここから山場を迎える。
■堂入り~9日間不眠不休、断食の荒行
700日を終えると行の山場である堂入りと呼ばれる儀式を迎える。
堂入りは生き葬式ともよばれ九日間、不眠不休、横になることも許されず、水も食物も一切口にできない。行の途中で死を迎えることもある。それが生き葬式といわれる所以である。外気に触れるのは一日に一度、仏への水を汲みにいくときに井戸までの200mだけである。この行に備え酒井さんは一年間米の飯を一切とっていない。食事はうどんとジャガイモ、豆腐。それを日に二食である。
こんな行に意味があるのだろうか。
常軌を逸している。
また9日間も不眠不休で水も食べ物もなしで人が生きることなど可能なのだろうか。
半信半疑でみていたがカメラは徐々にやせ衰えていく酒井さんを記録していた。
5日目にはいった。
この時、酒井さんの目が変化しているように見えた。
酒井さんの瞳孔が開いたままである、と世話の僧がつげた。
9日目。
最後の水くみに向かう酒井さんを信者達が前日から徹夜で迎える。
ある婦人は「ありがたいことで。あんなにお年をめされて。ほんとに生き神様みたいです。」といって涙を流していた。
酒井さんの姿は死体のようでもあり、限りなく無であるように見えた。
■阿闍梨、そして大阿闍梨へ
堂入りを終えて酒井さんは阿闍梨となった。
「出来がいいわけでもないし。ふらふらふらふらしてたし何の役に立てるわけでもない。何も取り柄はないから、とにかく一生懸命できるだけ多くの人の幸せを毎日毎日、拝み拝み倒していこうと思います。」
堂入り後の酒井さんの言葉である。
番組はここで終わるのだが酒井さんのその後について書かれた記事をいくつかみつけた。その後酒井さんは様々な行を達成し、ついに二度目の「千日回峰」を達成する。高野山、開山以来、3人目というの偉業である。位は大阿闍梨となった。
作品の中の酒井さんは56歳だった。
記事は酒井さんが70歳の時に取材されたもので一枚の写真が載っていた。
写真でみる酒井さんの横顔は穏やかで表情には一切の「迷い」がなかった。
◆参考テキスト
・大阿闍梨(あじゃり)/酒井雄哉さん
・大阿闍梨・酒井さん
■参考図書

北嶺の行者 酒井雄哉―比叡山回峰2千日の軌跡
島 一春

比叡山千日回峰―劇画
蛭田 充 梶原 学 滝沢 忠義
投稿者 TKM : 07:42 | コメント (6) | トラックバック
2004年06月02日
[俄] ジャイアント・ベイビー in ロシア
全然関係ないがジャイアントベイビーのニュースを見つけた。
◆ロシアの体重25kgの15ヶ月児
http://www.local6.com/video/3367897/detail.html
投稿者 TKM : 07:43 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] エッジとエリック・ホッファーと藤原惺窩
僕たちが使っている物や事、テクノロジー、技術もあと10年もすれば使い物にならなくなっているのだろうな。
どの時代であれ先端をかすめていられたらいいと思っているけれど日常が介入してくると途端に意識が分断される。ここでも信号理論が猛威をふるう。
先端てどんななんだろうと少し考えてみた。
ネットの世界の10年後はどうなっているのだろう。
ブラウザはまだあるだろうか。
携帯電話はどうなっているだろう。
ボタンはまだついているだろうか。
ある人からもらったメールに思いがけず「エリック・ホッファー」の名前を見つけた。
久しぶりに「魂の錬金術」をパラパラとめくってみた。
開いたページの最後にあった一節を引用したい。
生活に必要とされるものがフリーになる世界はいずれ訪れるかもしれない。
しかし、創造には必ずコストが伴う。
それは金銭という意味でのコストではなく労力という意味でのコストであり、何かをつくり出すためには己の能力を引き出さなければならない。
辛いわけではないが「楽」とも違う。
「楽しさ」を求めよ、という思考とも異なる。
自分との対話、あるいは個と弧の向こう側といったらいいだろうか。
創造の場では他の誰かではなく自分との対峙が強いられる。
アスリート、アーティスト、仕事人、ビジネスマン、親、どのようなコンテクストにおいても何かをつくるという場では必ず自己との対峙が強いられる。対峙を避けることは容易い。しかし対峙しなければ得られないものがある。創造とはそういう種類の悦びだと思う。
踏み出すときはいつも怖い。
いまだに知らない人に声をかけるときは臆する。
人に心を開くとき自分は無防備である。
拒絶は死に値する。
それでも勇気を振り絞り人と話す。
自分は社交的な人間だと思われているかもしれないが常に臆している。
人と交わることは底のない虚空への飛翔である。
藤原惺窩を論じた江藤先生の本にあった一文である。
その一文と江藤先生のゼミにきていたアメリカ人の学生が亡くなった時に先生が書いたエッセイのことをいまでも時々思い出す。
自分にとっても人と交わることは虚空への飛翔である。
だから人といい加減につきあうことができない。
話すなら理解できないまでもその手前までは話したいし、知り合いたい。
どこまで踏み込んでいいものなのかいつも迷う。
外国人の友人と話すときみたいにはいかないのは何故なのだろう。
これは自分の勝手な考えだが。
学びたい人は自由に学ぶだけでいい、という世界ができればいいと思う。
江戸時代には儒学者という職業がなりたっていた。
それも一つの先端だったのだろうし、この世界が生者の世界である限り常に先端なのだと思う。
◆藤原惺窩
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P321C100.HTM
投稿者 TKM : 07:27 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月01日
[雑記] 信号理論
なんてことはないのだが「自在でいたい」といつも思っている。
あれをしてはいけないとか自分はこうあるべきとか大体の前提やら枠、規定というものは実体を持たないし思ったほど強固ではない。
「いまからこうしよう」
そう思えばそれで消えてしまう、という程度のものでしかない。大勢が枠や規定を共有しているから強固に見えるだけでなんてことはないのである。と、そこで考えてみると多くの場合、「あーあ」なんてため息をつくのはそうした実体のない枠への確執だったりするわけで、なんてアホらしい時間を過ごしてきたのだろう、と思うわけだ。
ちょっと先の未来を前提に生きているけれどそれだって定かではない。
だから何ってことがあるわけじゃないけれど。
昼間に街を自転車であるいているとやたらと信号機で止まる。
加速しては静止。
その度にもう一度こぎ出す。
これを繰り返す。
信号がなかったら一度こいだらその流れのままずーっと進んでいくのだが。
オレは勝手に「信号理論」と呼んでいるんだけれど、人の頭の中にもこうした信号みたいなのがたくさんあって、何かしようとすると信号で止められてまた加速、というのをやらなきゃいけない。これじゃあ疲れてしまうし、効率もよくない。
というわけで頭の中の信号機を取っ払って、車や人混みもとっぱらって、爽快なドライブ空間をつくってやる、という作業が必要なんではないかと思うのだ。それも定期的に。
というか歩行者と自転車だけだったら信号なんていらないよな。
海には信号がないし、空にも信号がない。
宇宙にも信号はない。
サハラ砂漠やアマゾンのジャングルにもないな。
投稿者 TKM : 17:54 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 面白い時間の使い方とバイチャンス理論
人にディレクションを任せるとロクなことはない。
久しぶりにブチ切れそうになる。
しかしこれもタケザワのバイチャンス理論を適用すればプラスであろう。
プロ以外とは仕事してはいけないのだ。
プロとの仕事には緊張感がある。
それはマイナスではない。
緊張感が薄いとどこかで取り組みや姿勢が緩くなるので面白さも消える。
結果として時間・精神的なコストが高くなる。
大体、仕事がつまらないのは自分が能力を最大限まで使わないからであり、そもそも100%の力を使わなくてもこなせる仕事をやっているからこうした不経済が発生する。こうしたマイナスのコストは極力避けなければならない。
自由な生活を1年やってみたが得たのは「暇」自体には価値がなく「面白い暇の使い方」がポイントでその知恵は「暇をつくること」の1000倍くらいの価値があるということだ。それは行動や思考のベースになる自分というコンテンツのフレームの構築であり、面白い人というのは自然体でこれが出来てしまっている人、という気がする。
「面白い時間の過ごし方」は静止からは生じない。
何らかの「動」や「流」との接点を持ち、それを取り込む必要がある。
ここでも大切なのは関係性だ。
あとはメモ。
人を使うのが下手な人は相手にやって欲しいことがわからない。
人を使うのが上手な人はやって欲しいことを伝えたうえで相手がやりたいと思う状態をつくる。
つまり一方は結果を含めた関係性をつくることに重点があり、もう一方は分断された結果だけをみる。
業種、業界、人種に関わらず人を使うのが上手な人はこのあたりのバランスがうまい。当たり前だが仕事をして気分が悪くなるよりは気分が良くなる方がいい。
こうしたことを無視して「どんな仕事でもよろこでやりましょう」というバカげた考え方をよしとするのは間違いである。仕事をしていて精神的なコストが高いようならそれはやり方のどこかに間違いがあるのだ。
投稿者 TKM : 16:37 | コメント (7) | トラックバック
[雑記] 先生と雨
晴海通りに面した築地のマンションの一階に警官が10人くらい集まっていた。
更に続々と集結しつつある。
パトカーも次々と到着する。
入り口で事情聴取が行われていた。
学生服の少年、40代の男性、同じく40代前後の女性、OL風の女性。
彼らの表情から察するに傷害事件ではないと思う。
強盗、もしくは窃盗団だろうか。
男性が身振り手振りで状況を説明している。
「築地はピッキング系の空き巣が多いんですよ」
以前、築地で鍵師を営む男性に話をきいたときにそういっていた。道具さえあれば時間はかかるがほとんどの鍵は解錠できるのだそうだ。
「だから鍵を変えるのは時間稼ぎなんです。泥棒は時間がかかる鍵は敬遠しますから。時間がかかればそれだけリスクが大きくなる。短時間にやれるところから狙うんです。」
鍵穴の方向が縦か横も重要なのだといっていた。
またドアが外開きか内開きかでも違うそうである。
内開きの方が安全らしく外開きだとバールなどをつかって物理的にドアを破壊するケースも多いらしい。
夜中でも朝方でも事件が起こると必ず鍵師が現場に呼ばれる。
「喜んでいいんだかなんだか。毎日出勤です。」
といって笑っていたがそのくらい中央区内の窃盗事件は多い。
以前、知り合いの会社の女性社員が帰宅途中の駅までの道でバイク強盗にあった。
暗がりといっても長屋や民家がならぶ下町の小道である。
まさかこんな場所で強盗にあうとは予想できない。
歩いていると後ろからきたスクーターの二人組が彼女の鞄を奪った。
相手はスクーターなので引きずられるように彼女は転倒し怪我をした。
数ヶ月してから犯人は捕まった。
余罪件数も多かった。
彼女は事件以来、後ろからスクーターの音が近づくと恐怖にさいなまれるという。
++++++
刀がまかり通った時代の切り捨て御免がいいとはいわないが犯罪に関してはやられる側だけにリスクが偏りすぎている。犯罪者は自由に犯罪を選べるが受け手である我々には防衛の手段が存在しない。コトが起こるのを待つだけである。
では銃で武装すれば犯罪件数は減るのかといえばそこに相関関係はない。
逆に犯罪件数は増えるだろう。
犯罪の原因の根本部分を解析していかないかぎり解決には結びつかない。
現象があって、それを押さえ込む、というのが現在の治安維持、防衛のやり方だが管理による抑制は恐怖社会しか生まない。逆のアプローチがあるはずだ。
犯罪の根本部分に根ざしているのは感情とお金だと思うのだが。
「悪い奴ほどよく眠る」という黒澤明の映画がある。
映画の中で夜もぐっすり眠れる悪人が登場するのだが現実に幸せな犯罪者は存在するのだろうか。
根元的な不安と恐怖が犯罪の発端にはある、という言い方はできるのだろうか。
犯罪は関係学的な出来事だと思う。理由は一つではない。様々な関係性によって引き起こされる。
昨夜、コンビニで江藤先生の最後の著作を見つけた。
石原慎太郎が寄せた一文を何度か読み返した。
先生の通夜の席で石原と江藤先生の共通の友人がぼそりとつぶやいた。
「あの雨さえなかったらな」
先生が亡くなる数日前、鎌倉に大雨が降った。
はじめてみるような大雨であった。
雨はいつやむともなく降り続けた。
そして先生は命を絶った。
数日前、先生は再起を誓う手紙を石原に送っていた。
だから石原も安心していたのだ。
石原の文章を何度か読み返してから外にでると雨がぱらぱらと降り出した。
■関連図書

人と心と言葉
江藤 淳

妻と私
江藤 淳

こころ
夏目 漱石
投稿者 TKM : 13:15 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 巡視船と月島ともんじゃとアンナ・クロニコワ
先週はあっという間に過ぎていった。
水曜日。
退職する父に手紙を書いた。
何年ぶりかで書く手書きの手紙である。
それにしても自分でも嫌になるほど字が下手だ。
木曜日。
スターウォーズ展。
金曜日。
Appleストアのライブへ。
土曜日。
梅田望夫さんのオフ会でお話を聞いた。
声優にスカウトしたいと思うくらい声優声であった。
質問しようと思っていくつか問いを考えたのだが気分が昂揚しない。
話しかけたくなるような人がいなかったのは自分の問題なのだろうか。
いろいろな場所でいつも感じるのだが何かが違うのだ。
明けて日曜日。
海上保安庁の観閲式に参戦した。
海上自衛隊と勘違いしていたので巡視船の白い船体をみて「へえ、人を乗せるようの白い船もあるんだ」とナイーブな感想を持ってしまった。何のことはない自衛艦ではないのだから当たり前である。
洋上でのイベントは予想に反して面白かった。
海賊船を拿捕する演習や海上火災の消化訓練、賊を追う海上チェイスなどなどアクション映画系の訓練が続く。訓練中、女性のナレーションが入るのだがこれがセリフ棒読みそのままで逆にツボにはまっている。シナリオや演出のチープさと巨大な船と海のロマンが一体化し独特のエンターテイメントワールドを作り出している。
訓練観戦を終え帰港するまで海上保安庁の職員だった方の案内でブリッジをみせていただく。
ブリッジは5階建てのビルくらいの高さがありそうだ。
登っていくとそれまで観ていた風景とは別世界に爽快な視界が広がっていた。
ブリッジから眺める海はロマンを感じさせた。
晴海埠頭に帰港してからみんなで魚仁を攻める。
魚仁デビュー戦のしんのすけ・金子の両名も豪快な盛りと海の後のビールにご満悦の様子であった。
その後、しんのすけと分かれて男3人で銭湯へ。
やはり銭湯は仲間といくと面白い。
海風でべたついていた身体を洗い流し一気に爽快モードになる。
その後、第二ラウンド。
元プロテニスプレイヤーのまどかさん、老舗の呉服屋の看板娘のハナを迎えて月島でモンジャの夕べが開催された。
まどかさんは10代の頃にアンナ・クロニコワと練習したことがあるといっていた。
こんなところでつながるとは。
1年くらい前にTIME MAGAZINEのオメガの広告に出ているアンナ・クロニコワをみたとき「どうせならアンナ・クロニコワと知り合いになれるようなことをやりたいよな」と思ったのだがかなり細いが糸は少しだけつながったようである。
宴の後、ふらふらになってやまけんが「カガヤー、ほか弁買っていいか」というので「やめときなさい」と一喝。今日、二度目の魚仁で反省会となる。食い倒れパワーで兜煮やらいろいろやまけんが注文してくる。
「やっぱり電車がなくなった」と金子から電話があった。
その後、戻ってきた金子とサッカー観戦中のタケも加わった。
長い一日とにぎやかな月島の夜が暮れていく。


