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2004年06月30日
[アート] ピエール・カルダン、82歳現役デザイナー
録りためていた日曜美術館をみる。
ピエール・カルダンの特集であった。
1時間の番組で一番印象的だったのは最後にカルダンが自身の創造について語る次のシーンだった。
創造性というのはセンスとは違う。センスは誰もがもっている。赤が好きな人がいれば青が好きな人もいる。それはすでにあるものを選択するに過ぎない。創造的な発想というのは見る人の気分を害するものかもしれない。好きになれないかもしれない。だけど何もなかったところに何かをつくりだすことなんだ。だから今の僕がある。想像とは常に人を驚かすことなのだ」(ピエール・カルダン・82歳)
カルダンに対しては商業主義に走りすぎているという批判もあると番組では伝えていた。しかしそれは単にビジネス感覚が優れているだけなのかもしれない。何しろ82歳で現役のデザイナーである。それこそが彼の最大の創造であるように僕は感じた。
投稿者 TKM : 12:51 | コメント (0) | トラックバック
[エッセイ] ブログvsブログという事件について
ネット上の事件というほどの出来事ではないのだがとある企業経営者のブログサイトをある通信社の記者が痛烈に批判した。
その批判は批判の対象となっている企業経営者が運営するブログサービスで行われた。
大人げないやりかただと思った。
批判するならするでいいが自分のサーバでやるのが礼儀である。
相手のサービスを利用しておいて相手を批判するというのは道理としておかしくないだろうか。
とはいえこうした舞台設定自体は事件の発端となった批判と直接は関係ない。
僕も当事者である企業経営者のサイトはよく見ていた。
記者が指摘しているようにたいした内容ではないのだが友達のサイトをみているような感覚でとりとめもないテキストを読むのはそれはそれで面白さがある。
以前、Daily Yomiuriに糸井重里さんのインタビューがのっていた。
自分がイトイコムをはじめたのは「考える」ではもうおそいと思ったからで、思った時にそれを書いて発信するということがやってみたかった。でも、それを既存のメディアで実現するのは難しかった。そこにインターネットが現れたおかげで他のメディアでは売り物にならなかった未完成のテキストを発信することができるようなった。
だからイトイコムのテキストはレストランでいえば「まかないメシ」のようなものだ。書きたくても制約があって書けなかった人に「うちで書けば」といって声をかけるとみんなそれぞれの「まかないメシ」を食べさせてくれる。そんな感覚なのだそうである。
確かにイトイコムのテキストは既存のメディアでは発信することができなかった種類のテキストだと思う。完成度が高いわけでもないし、とりたててセンセーショナルな内容でもない。それでもなんとなく面白いテキストもある。例えば僕は天海祐希のファンだったので彼女がイトイコムで連載していた「おいら」という日記を楽しみに読んでいた。内容は彼女が何をたべただとか、夜ぐっすり眠っただとか他愛のない日々の出来事の羅列である。だから彼女が何者かを知らない人が読んでも全く面白くも何ともないだろう。
ところがファンであった自分にとってはそのテキストが結構、面白いのである。そうか、あの人、こんな何だ、などとひとり感心したりもする。「ボディーローションを塗って布団に入るとふわりとした香りに包まれて幸せな気持ちになる」などと書いてあると「なるほど」と自分もボディーローションを買ってみたりもした。(結局は一度くらいしか使わずにあげてしまったのだけれど)
話を記者ブログvs経営者ブログに戻そう。
記者の批判はそれが私的なテキストとして発信されたものであるならば問題はなかったと思う。個人が何をどう感じるか、それを発信するかどうかは個人の自由である。問題は通信社の名前を使って批判がなされたこと、にあるように思う。(このことで批判の意味あいが変容してしまったように感じるのだ)
経営者のブログに関してはそれがある程度のPR効果を狙ったものであったとしても、更に内容が希薄であるとしても、それもまた自由であろう。読みたい人は読むし読まない人は読まない。
読むといっても主義主張を受け止めるという大げさなものではなく、友人の日常をみている感覚である。彼の生活をうらやましいとも思わないし、あこがれもしない。友人が本人と知り合いだったり、TVで見て知っていたりする人の生の声がそこにあるのがなんとなく面白いのだ。
だから当事者同士がお互いのブログを取り上げてもこれが騒ぎに発展するとは思っていなかったし、こういうのもありかなくらいに思っていた。
また双方が正面からの反論を展開し論争に発展していたならば、案外いい流れで議論が収束したのかもしれない。ところがブログでの情報発信はマスメディアでの情報発信とは別なテクニックがある。
さすがにブログサービスを運営しているだけあって社長日記はそのテクニックに長けていた。批判を受け流し判断を匿名性の渦にゆだねるという手法は実際にその渦中で波にもまれるという経験をしたものにしか使いこなせない技なのだろう。(本人はこの手法をバッシングマーケティングと呼んでいるとの記述をみた)
そんな折り、朝まで生テレビでのこんな出来事をネットでみつけた。司会である田原が口にした「聖徳太子って知ってますか?」という質問でカーっとキレてしまったのであろう相手は唐突に「デラゥォェア!!!」と放送中に絶叫してしまったのである。後はもうどうにも取り繕うことができないほどに乱れてしまっていた。こうなってしまうと見ている僕たちは議論の内容云々よりも取り乱した映像の方、感情的な爆発のインパクトの方によりつよく引き込まれてしまい議論の発端が何だったのかを忘れてしまう。
今回の問題もこれと似ているように感じた。
記者のブログが社長日記を論理的にではなく感情的に糾弾してしまったところに問題の火種があったように思う。
正論や真実がどうあれ熱くなってしまった方が不利になる場合もある。
批判された側が体をかわし、判定を場外にゆだねたことで議論の連鎖は途切れ、結果的に当事者外による論点の定まらない「ぶちまけ批判」を呼び込むこととなった。
現時点で記者のブログには相当数の「批判に対する批判」や「批判に対するコメント」が寄せられており、そのほとんどは論争を試みる投稿ではなく匿名による記事への悪態である。
こうなると収拾が着かず、全く別のテーマで投稿された記事に対しても悪態が続いてしまっている。
僕は両者の記事を読んでいたわけだがどちらも面白いと思ったが感情的な爆発というようなものはなかったし今もない。人よりも目立つ存在であれば否が応でも反論や中傷は避けられない。
ただ、バッシングマーケティング以後に発生した匿名コメントの嵐は恐いと思った。
こうした「ぶちまけ批判」の対象となってしまうことは発信者にとって恐怖である。自分がもしこれだけの批判にさらされたらと考えると情報の発信に際して恐れが生じたのは事実だ。
間接的にではあるが情報発信の自由が抑制されている、と感じた。
そして次の一文を思い出した。
デビッド・ハルバースタムの著書「ベスト&ブライテスト」の冒頭、エスタブリッシュメントについて記された箇所がある。下記はロバート・ロベットについて書かれた一文である。
著者のデビッド・ハルバースタムは従軍記者時代、ベトナムでの戦況を悲観的にレポートしている、これは愛国心に欠ける行為であると新聞・雑誌、アメリカ政府首脳部、合衆国大統領からさえも非難された経験を持つ。
※「ベスト&ブライテスト」のソフトカバー版の冒頭にはまえがきにかえて「娘への手紙」という一編が収録されている。10ページほどの長くはないテキストだがメディアに関わるものならば必ず読むべき一文である。ベトナム戦争についての記事を書き続け、合衆国からさえも疎まれ、記者であることの重みを感じていたがそれでも彼は己の信じることを良心にしたがって書き続けた。誹謗中傷もあった。その中で一つだけ忘れられない中傷があったという。累々と横たわるベトコン兵士の死体の写真をみせられたハルバースタム記者が女々しくも嗚咽した、ベトコンの為に涙を流したのだというでっちあげの批判であった。彼自身は50回も戦場へでており死体も危険も十分に体験していた。
彼は中傷のでもととなった兵士につめより、反論をあびせた。
しかし、と彼は振り返る。本来は事実であるべきではなかったのか、と。ベトコンであろうと米兵であろうとその死骸を目のあたりにして、涙を流すのが自然だったのではないかと。
+ + +
今回のブログvsブログの論争を新旧メディアの対立、という人もいる。
しかし、TVの場合でもセンセーショナルな内容の番組の後は抗議の電話や投稿が山のようにおしよせる。それは雑誌、新聞でも同じだ。
僕が疑問に思うのは投稿したり抗議の電話はいったい「誰」なのかということである。ネットの場合でも構造は変わっていないように思う。掲示板やブログへのコメントの大多数は「匿名」である。
この構造が感情の発露の基になっており、気持ちの悪さ、後味の悪さを生じさせている。
匿名性によって自己がガードされるから感情的な言葉が引き出される。
むしろ名前を隠した時に出る言葉の方がより本音に近いのかもしれない。
だとしたらとそこで僕は考える。
記名で本音を言えないのは何故なのだろう。
匿名でなければ本音がいえないのならその構造にも問題があるのではないだろうか。
では、どこに向かえばいいのか?
まだ考えはまとまらない。
投稿者 TKM : 02:56 | コメント (4) | トラックバック
2004年06月28日
[エッセイ] ジャーナリストと会社ジャーナリズム
■メディアは広報・宣伝なのか?
上記の一文を読んでハッとした。
少なからず自分のブログも「広報・宣伝」という要素をはらんでしまっていた、ような気がした。自分がやりたいことは「広報・宣伝」ではない。物事を面白おかしく伝えたいのではない。自分は「考える」を見直したいのだ。
広報・宣伝はそれはそれで大切だと思う。その情報が伝わるべき人に伝わることで幸せになる人もいるかもしれないし、多数に伝えられるべき情報であるなら伝える努力はしなければならない。
僕が感じている違和感は別なところにある。
メディアが広報・宣伝の媒体化しているという感覚があって、どんな雑誌も単に広告スペースの開発が主体になってしまっているように感じるのだ。だから記事は「媚びる」ものが多くなる。GQという雑誌を時々立ち読みする。写真が多く、レイアウトも綺麗だ。しかし買って読もうという気にはならない。全てのページが広告と大差のない記事のように見えてしまうからである。
物事を「~だったりして」というモードでとらえることでスマートさを演出しようとする立ち位置に違和感を覚えるのである。
「おい、このテーマとりあげておいてそっちに逃げるなよ」
と言いたくなる。(今月号には以前自分もレポートに書いた千日回峰についての記事があるのだがGQでのあの扱われ方には納得がいかない)
雑誌が好きでありとあらゆる雑誌に目を通す。
目を通しての感想だが読むべき雑誌は本当に少ない。
記事の99%が宣伝・広告にみえてくる。
それでも目を通すのは雑誌という形式に魅力を感じているのと一誌ではなく多数に目を通しているうちに大きな風潮、流れを感じる時があるからである。
■会社ジャーナリズムという病
雑誌・メディアの宣伝・広告モードが強い理由について、鳥越俊太郎さんが著書「ニュースの職人」の中で下記のように説明している。少し長いが引用したい。
「ジャーナリズムという言葉が日本の社会に定着しない、その構造的な理由は、実は日本の雇用システムと深く関わっているというのが私の持論だ。正確に指摘すると、日本の終身雇用制度そのものが、ジャーナリズムの発展を妨げている。ご存じの通り、就業人口の七割を超す人々が学校を卒業して会社に入社し、今は崩壊し始めているとはいえ、終身雇用と年功序列の世界で生きていく。実はそうした社会に新聞社、テレビ局、出版社などマスコミ各社も存在する。私はこうした状況を“会社ジャーナリズム”と呼んでいる。
私はよく“ビジネスマン”と“ジャーナリスト”の違いは何かについて考えることがある。言うまでもなく“ビジネスマン”は、真実よりも利益をより大事にせざるを得ない。いっぽう“ジャーナリスト”にとっては利益よりも真実の追究が優先する。ところが日本のマスコミにおける“会社ジャーナリズム”の特徴は「真実の追究」と「会社の利益」との関係があいまいなのだ。」
先日、紹介した「判断力」の中で著者の奥村氏もこの問題について言及していた。手元に原本がないので概略を記すと奥村氏のもとにはたくさんの新聞記者が取材にくる。さすがに記者達はみんな優秀で発言を綺麗に記事にまとめる。しかしちょっとまて、記事にまとめはするが彼らの見方・考え方はどこに消えたのだ?
彼らが自分の物の見方を書けないのは彼らが新聞記者ではなく会社員としての立場を優先してしまっているからではないか。それはおかしいんじゃないか。だったら新聞社は本社に300人くらいを残し、記者の全てをフリーランス契約とし記名記事にするという大きな変革が必要ではないか。
というような話だった。
僕は新聞を読むのも好きで全ての新聞記事がダメだとは思っていない。良い記事も多い。僕の考える良い記事とは書き手の立ち位置、ハート、考え方が伝わってくる記事である。ダメな記事とは「逃げ」が基調となった傍観者の立場をとる記事である。
もっといい記事を増やすには奥村氏の指摘するようにシステムそのものに手を加える必要があるのも事実だと思う。
「物書きが給料をもらって書くようになったらお終いだ」と僕は言い続けてきた。
ジャーナリストとはインサイダーではない。
アウトサイダーであらねばならない。
メディアに関わるものとしてこれだけは忘れないようにしたい。
投稿者 TKM : 22:27 | コメント (1) | トラックバック
[雑記] 好みの女性
昨夜はしんのすけの奥さんに「どんな人が好みなの?」ときかれた。
その場で考えたが言葉が浮かばなかった。
今朝、走りながら考えた。
コンセプトのたっている人が好きだ。
勿論容姿もかなり重要ではある。
が、それ以上に人間力とコンセプト。
そこに強く惹かれる。
どこで読んだのか忘れたがこんな話がある。(うろおぼえなので細部は違うと思う)
ある村では結婚する女性に男性が家畜をおくる。
だいたい村一番の美人と評判の女性で牛一頭が相場だ。
村で一番器量が悪いといわれ結婚できずにいた女性がいる。
この女性にある男性が求婚した。
婚約の日、村人は驚いた。
なんと男性は女性に牛8頭をおくったのである。
しばらくして二人を訪ねた人々はさらに驚いた。
女性は幸せと自信に満ちた村一番の美人に変わっていた。
投稿者 TKM : 08:42 | コメント (4) | トラックバック
[雑記] 鳥と意味と学問のススメ
午前5時。
目覚める。
眠った時間は短いのだがすっきりとした目覚めである。
昨日、しんのすけ宅でジンギスカンをごちそうになった。
帰りは原田夫妻に初台まで送ってもらい、矢坂さんと少し話をしてから月島に帰った。
※昨日、話題にした婚約指輪サイトブルーナイル
++++++
夢の中で原田夫妻に再会した。
「鳥はプロックなんですよ」
彼はそういって鳥の分裂について説明してくれた。それが鳥における正統な増殖の過程なのだという。一羽の鳥がネグロと呼ばれる鳥の第二段階へ変化を始めていた。最初に色合いの異なる羽があらわれる。次に反対側に同じ羽ができて対になる。コピー&ペーストの要領で鳥が二羽に増殖する。さらにその二羽がプロックを重ねると別な種類の鳥が現れる。四羽に増殖したところで彼らは飛び去った。
「わかりました?」
「うん、パターンなのか」
鳥を使った説明に感銘を受けた。鳥は言葉の別な側面を表していた。夢の中ではそれが示す対象(現象)が明確だったのに目覚めると対応がとぎれ、意味するものがわからなくなっていた。
+++++
先日、図書館で「鷲は舞い降りた 完全版」を見つけたので今朝から読み始めた。
同時に
と
を読む。学問のすすめは「読む」のではなく「聴く」方がいいように感じた。
投稿者 TKM : 06:04 | コメント (2) | トラックバック
2004年06月27日
[雑記b] ブレストのメモ
創造性。
スケール。
++++++
なんだって発明したヤツがいるわけじゃん、火とか文字とか言葉とか絵とか歌とか。寿司だって、最初に酢つかっておにぎりみたいにして乗っけてにぎったらうまいんじゃねーかと思ってやったやつがいると思うんだな。どうせならそういうことにつっこみたいよな。
投稿者 TKM : 09:45 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] サーバと人と
昨夜からかれこれ4時間近くサーバがダウンしている。
メールもウェブも落ちたままである。
実害はあるのかないのかいまの時点ではわからない。
つらつらと愚にもつかない物事を書き連ねていたのが悪かったのかな。
と一瞬思ったが考えてみればそんなことで物がガタガタするわけでもない。
言葉。
人の言葉、自分の言葉。
惑うような言葉がたくさんある。
そのひとつひとつにつまづいたり憤ったり喜んだり優しくなったりいろいろである。
自分では気がつかないところで言葉は人の気持ちを害していたりもするのだろう。
ということを実感した。
書く以上は曖昧な批評はさけなければならない。
他者を惑わすものいいはしてはいけない。
それは礼儀だ。
感じたことは嘘ではない。
自分や人が何かを感じたならそれは確かにあったことであり、受け入れなければならない。問題は「逃げ」ないことだ。曖昧にして逃げることは避けなければならない。何かを感じたならそれを見つめなければならない。
悪口や陰口というのは陰でやるから陰険なのだ。
表でやればいい、という問題でもないだろうけれど少なくとも陰よりはマシだ。
オープンでやらないかぎり理解の糸口は見えない。
「巨人の星」の言葉で「打たれまいではなく、打ってもらう」という下りがある。禅寺で和尚さんに言われたこの一言がきっかけで飛馬は大リーグボール1号の着想を得る。
この思想をアレンジして日々の感情の乱流のコントロールに応用すると「ああしなきゃ、こうしなきゃ、ではなく。そうなっていただく。」とでもなるのだろうか。たいした意味はないのだがそう考えるだけで心はぐっと楽になるような気がする。
何か嫌なことがあった。「ああとっても嫌でした」これでは何も始まらない。
自分はそれも一つのチャンスだと思う。
そこに自分が反応したということは何かがあるのだ。
その何かが何なのか。
それを見つめない限り自分というものが見えてはこない。
(いろいろと見なくていいものを見てしまうのはオレの立ち位置が悪いのかもしれないが)
勿論、嫌なことなんてない方がいいに決まってる。
けれど生きていれば何かしら「ムっ」とくることはある。
問題はそこから先なのだ。
そこで気分に走って「ムカついた」だとそれで終わってしまう。
いいことも悪いこともどちらもきっかけとしては有効だ。
それは何かを示している。
と僕は思うのだが。
++++++
とここで矢坂さんと朝からナイスブレストをやってキーワードが出たタイミングでサーバが直った。
なんというタイミング!
投稿者 TKM : 09:32 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] 戦争について考えた
夜。
つらつらとプランニングノートをつけていたらいつのまにか政治についての考察に変わっていった。国とは何かとか日本とか人とか。日々感じる物事についてメモをとる。図式化する。それを続けていく。
ログをとってあるので自分のサイトにどこからアクセスしてきたのかを知ることができる。2ch掲示板からのアクセスがあったのでどこでどんな風に扱われたのかを確認すると格闘家の山本“KID”徳郁について自分が書いた記述があたかもその人の発言であるかのように無断で使われていた。
自分が書いたテキストに対して二つのコメントがあり、両方とも否定であった。ちなみに引用されたテキストは下記である。
思わずそう叫んでしまった。山本の身体を覆う筋肉の鎧は決してゴツゴツしていない。全盛期の佐藤ルミナを彷彿とさせるが更に強化され、しなやかさを付け加えたようなこれまでみた格闘家の中でも類を見ない強さと美しさを感じさせた。
この一文だけを取り出して批判の対象とされることは全く不本意である。自分は文脈の中で上記の言葉を使っておりそれが無断で宴曲されることにいは強い憤りを感じずにはいられない。更に引用者は否定されると同時に出展を明らかにして「逃げ」にまわっていた。反吐がでる。根性がないとか精神論を展開するつもりはないが全てが安易なのだ。発言もそれに対する批判も全てが屈折している。スケールが小さい。
何もかもを褒めればいいというわけではない。しかし批判は自分の立ち位置を明確にした上で行われなければならない。思想の違いは合って当然である。好みにも違いはあっていい。大切なのは自分はこう思う、それはこうだからだ、という意見だ。
それが決定的に欠落している。
これは掲示板の世界だけの話ではない。
自分のアイデンティティが明確でない場において、人は傍若無人に振る舞う傾向にある。
僕がわからないのは「訴える」や「警察沙汰」を持ち出すことで己が権力と一体化しているかのように振る舞う輩の存在である。馬鹿かといいたい。
何度も繰り返しになるが切り捨て御免の世界だったら巷にあふれているようなくだらないいざこざは起きない。そんなことをやっているまに死んでしまう。本気になるべき対象がズレてきている。そんなことどでもいいだろう。もっと別なことに熱くなるべきだろう、と思う場面を目にすることが多い。
しかしその理由をコミュニティの崩壊だとか家庭に見いだすのは安易である。
同じ環境でも全く違う道に進む人も多い。
おそらくメディアの影響、という考え方も間違っている。
同じようにメディアに触れていても影響を受けない人もいる。
話を掲示板に戻す。
僕は自分のテキストが思わぬ使われ方をしているのをみて、さらにそれが理由なく否定されているのを見てかなり絶望的な気持ちになった。こんなことはしょっちゅうあるがそれが何度目であれ気持ちのいいものではない。真っ向からきてくれよ、と思うがそれはあり得ないだろう。
こうやって匿名の影に隠れての発言しかできなくなることに強い危機感を抱いた。
ある種の警察国家的な空気、密告社会、強い閉鎖感を感じた。
これらの心ない発言は自分が何かを発言しようとするときに心理的なブレーキとして働く。意識していなくとも必ずどこかで「媚びる」ような言葉を発信してしまう。そうでなければ自己を防御した形のテキストを「つくる」ことでリスクを回避しようとする。
よくみてみるとわかるがこれだけブログが増加しても自己を明示し、さらに自己の考えを発信しているサイトは驚くほどすくない。そのほとんどはごまかしである。アクセスが多いサイトのほとんどは自己の立場をぼかしちゃらけることでリスクを回避している。
これも自己防衛のための自然発生的な現象なのだとは思う。
僕が危惧するのは本来オープンなハズのネットワークという場にさえこうした管理社会的な機能が自己生成的に備わってきていることである。おそらくこの傾向は誰も止めることができない。一方では権力の嘘を正す正義の衣をまとい、もう一方では自らが権力として振る舞う。権力を否定しながら、権力への依存を望む。この矛盾点に強い危機感を覚える。サイレントマジョリティがネットワークというチャンネルを持つことで発言権を得た、というよりは、実体権力が管理しやすい密告社会が現実化している、ように見える。
ネットワークは素晴らしい、と思う反面。
反オープンな群体、管理社会の暗い影が見え隠れするのも事実だ。
個人が特定されることはネットワーク上で無名と対峙するには不利な条件でしかない。
数の上でもリスクの上でも明示されている側が圧倒的に不利だ。
全く勝負にはならない。
両者が「無名」である場合、あるいは内容が「無害」か「無意味」な場合はコンテクストが変わりカーニバル的な展開をみせる場合もある。
こうしたテーマの寄り方は最近のTV番組と似ていなくもない。
というようなことをずっと考えていた。
こうした傾向は日本に固有のものなのだろうか。
それとも全世界的なものなのだろうか。
などなどやっていたら時間になったので鈴木vs健介戦を見るために帰宅後観戦。
その後、何故かディベート・討論会の番組に目が止まる。
「戦争反対vs仕方ない」という議論であった。
戦争反対を片側にもってくるならば戦争賛成をもう一方に据えなければ議論は成立しないように思ったが予想通り議論はかみ合っていない。片方が感情論に訴えれば片方は理論で応戦する。最終的には議論・論戦には展開せず発言力の大きい発言者(この場合はオピニオン)の言葉に全体が流されていく。議論の最後は「命を大切に」で終わっていた。(それ自体はとても大切なテーマだし。亡くなった橋田さんの講義風景には心を打たれたがどうも意図的にまとめた感が強くて気になった)
議論自体は面白いのだ。たとえかみ合っていなくてもそこにはある種の本音は出ている。編集によって巧みにつくられてはいるがそこに集まる人々は典型的なパターンを代表しているように見えた。戦争反対を叫ぶ人はデモの必要性と感情論を持ち出す。戦争によって引き起こされる「悲惨」はあってはならない、というのが彼らの立場だ。
僕は戦争には全く反対である。しかし論戦はあってしかるべしだと思っている。「争い」そのものが悪いのではない。それによって引き起こされる物理的な破壊や死を作り出すのが問題なのだ。会議でも議論はある。白熱した論戦を展開させる場合もある。それはクリエイティブの場でも同じだ。何もかもが論戦なしに進むわけではない。主義と主張は常にぶつかり合う。問題はそれが別な場にも持ち越されてしまうことだ。
僕はデモを良くも悪くも思っていないが行進することと実際の政治的な効果には関連性がない、と思う。
デモが成立するならその人たちで組織票をつくって国会に代表を送りこんだ方が効果的だと思うし、なんなら超党派で非戦党をたちあげたらいいと思う。
が、そうはならない。
イラク戦争の戦死者数は明らかにされていない。
あるデータでは少なく見積もって一万人のイラク兵が死亡した、と言われている。
戦争の是非と死者数に関係はない、と言われるかもしれないが。
ここで僕はふと思う。
日本では年間約3万人が自殺している。(2002年度のデータでは29,949人となっている)これは阪神淡路大震災での死者数6,433名の約4.6倍である。
ニュースバリューの無い死はその存在そのものが最初から存在しなかったように扱われるが数字だけをみるならば戦争よりも遙かに大きな悲劇がここにもあるとはいえないだろうか。
自分も戦争に対しては反対の立場をとる。争いならば論戦でやればいいし、フィジカルな問題に発展させないことが文明だと思っている。
ではこれは何なのだろう。
戦争で死にゆくよりも多くの人が戦地ではないこの地で死亡している。
※一般人口統計(2002年度のデータ)によれば年間死亡者数は982,379人であった。
投稿者 TKM : 04:09 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月26日
[雑記] ランナーズハイと1000万円の命
昨日に続いて今朝も川沿いを走る。
快調にとばしていく。
おじさんに「おはよう」と声をかけられる。
月~金の朝7時~12時くらいまでは街を歩いている人の顔はほぼ死人、ゾンビである。築地の人々はパワー全開だが他はだいたい1984モードである。
朝の出勤をやったことがないがたまに朝帰りの電車で人々を観察するとその多くはうつむきゾンビ状態でしかめっつらか唇がへの字である。ところがこの人々が会社に入った途端に活き活きとするから不思議だ。
そうか電車がダメなんだなきっと。
などと思いながら今朝の音に耳を澄ます。
静かだ。
土曜と日曜の都心の朝は静かで心地よい。
通勤してくる人々がいないからである。
かの人々がいないとこの土地も過ごしやすい。
通勤の存在しない世界をつくりたいものだ。
と思う人はマイナーな存在だ。
会社に限らず何らかの場所に出向くことは案外楽しい。
短期の助っ人で会社につめるときなど段々と関係性ができあがっていき自分がそこにいることに違和感を感じなくなってくると逆に場への依存が生じ始める。何故にこれだけ多くの人が会社・組織に勤めてサラリーを貰うという生活をしているかといえばそれは決して賃金の為だけではあるまい。場の力が作用していると僕は考える。
試しに明日から3ヶ月くらい場と仕事を完全に放棄してどこのくらい持つかやってみるといい。以外にすぐ限界がくるのではないだろうか。
++++++
川沿いを走っていると段々と身体の感覚がぼやけていくのがわかった。
手足が軽くなり力がはいらない。
疲れているのではない。
身体は動いているが感覚がない。
これが噂に聞くランナーズハイか、とそのまま走り続けてみた。
気分的にはこのまま40kmくらいいけそうだったが感覚がないくせに右の足首の動きがおかしい。痛みはない。身体は全く疲れを感じさせない。というよりももう自分の身体ではない。腕と足が勝手に動いている。
麻酔を打たれた時の感覚と似ている。
橋まで走ったらとりあえず止まってみよう。
かちどき橋のたもとで足を止めた。
と、その刹那、意識から切り離されたように身体がフワフアと浮いている。
アレ、っと思うのだが苦しくはない。
身体を動かそうとするがいまいち伝導が悪い。
あー、このまま倒れたら気持ちいいだろうな。
と思ったがなんだかそれはマズいような気がしたので歩いて橋を渡った。
歩いているのだけれど気持ちは「倒れたい」といっている。
そもそも身体に力がはいらない。
どうやって歩いているのかもよくわからない。
気力で歩くというのはこういうことなのだろう。
気が遠くなる。
わたりきったところで大理石に腰掛けて休憩した。
座ると身体から力が抜けている。
何もしたくない。
でも苦しくはない。
気が遠くなっていくだけだ。
わずかな時間だと思うが落ちた。
時間にして1秒から2秒だろうか気を失った。
ハッとして歩きはじめた。
家までつけばどうにかなるだろう。
残り500mが恐ろしく遠い。
死ぬときの感覚はこんなだろうか。
死なんて案外あっさりとしたものだ。
とかそんなことを考えながら歩いた。
1時間後。
月吉で朝食を食べていたら。
朝のニュースである会社員の殺人について報じていた。
東急エージェンシーの社員が殺された話しだ。
その事件について知らなかったのだが概略はこうだ。
犯人はある印刷会社の社長で殺害された社員と何人かで印刷会社を立ち上げた。
東急エージェンシーの仕事を請け負う為の会社である。
当初はうまくいっていたのであろう。
ところが最近になって仕事が激減した。
被害者は印刷会社社長に自分が貸したお金を返すように迫った。
どのように迫ったのかをニュースは伝えていないがおよそ気持ちのいい迫り方ではなかったのだろう。しばらくして、その社員は姿を消した。殺害されたのである。被害者が犯人に貸した金額は1000万円だったそうだ。
被害者の命の値段は1000万円だった、ということなのか。
1000万円やるから命をください。そういわれて「ハイ」とは言えない。じゃあ、10億あげますからあなたの「眼」を下さいと言われても「ハイ」とは言えない。
100年くらい前までは畑を耕したり魚をとっても人は生活できていた。
何故いまだとできないと思ってしまうのだろう。
結構でかい問題だと思うのだ。
川沿いを走る時、以前は川のすぐ脇のテラスを走っていた。
いまは聖路加側のテラスは走らない。
ホームレス村ができており、景観が変わってしまった。
以前は得られていた爽快感はもうない。
彼らの人格は否定はしない。
しかし何かは間違っていると思う。
図書館に集う人々と職安に集う人々が似ているのは何故だろう。
あれも何かが間違っていると思う。
一度中央区の図書館にいってみて欲しい。
あれは高校生や大学生が勉強できる雰囲気ではない。
何が起こっているのだろう。
何かが起こっているに違いないのだがそれがわからない。
メディアがいうような二極化という単純な問題ではないと思う。
そもそもメディアは広告媒体でしかない。
そこにはメッセージはない。
あるにしてもほんの少しだ。
本音はない。
会社員が書く記事が面白いわけがない。
かといってジャーナリズム云々という不毛な議論をするつもりもない。
全ては流れの中にある。
そして流れはどこかに向かっている。
自分はそれが知りたいのだ。
安易なポジティブシンキングの礼賛は絶対的な現象の前では無力だ。
ポジティブシンキングはそれ自体は全く意味を持たない。
問題の根本は個人の思想だ。
前向きであろうと後ろ向きであろうとエネルギーのない思考には意味はない。
ゼロポイントにおいて思考の方向性は重要ではない。
まずは思考の位置が問題なのだ。
力がゼロならそれがどの方向に向かっても力はゼロだ。
エネルギーがあるから方向が問題になる。
根本はそこだ。
どうやってエネルギーをつくりだすのか。
そこが全てのはじまりなのだ。
投稿者 TKM : 07:55 | コメント (0) | トラックバック
[格闘技] ハリトーノフ戦 ~くたばれプロ野球~
ハリトーノフ戦の録画をチェックすると何故かハングルの番組。
ぬかった。
悔しさがこみ上げる。
しかし時すでに遅し。
野球中継の延長による放送時間の変更である。
激怒とまではいかないが金輪際、野球は観たくないと思った。
もともと野球は嫌いではなかったのだが。
嫌いになった最も大きな理由は放送時間が延長されることによって以降の放送スケジュールにしわ寄せがくることだ。
自分はこうした放送システムに対して強い憤りを感じる。
ニュース専用チャンネルが成立しているんだったら、野球専用チャンネルをつくれと言いたいがオーナーが自分のチームの試合を流しているのだからどうにもならない。
いろいろな物事が雁字搦めで既得権益層に媚びを売っているようにしかみえない。
という見方しかできないのは自分の立ち位置に問題があるのだろうか。
どこまでも信号の国である。
そういえばスタジアムに野球を見に行くと応援団というのがいる。
彼らは試合を見ない。
球場に背を向けている。
ハリトーノフ戦。
残念である。
おそらく15分くらい延長になったのだろう。シュルトにマウントになったあたりで録画は途絶えた。サバイバル物の映画で現場に残されたビデオを再生するとまさに事件が起こる直前で映像が途絶え恐怖を煽る場面がある。自分がおかれた状況はあれに酷似していた。
シュルトはあの後どうなるのか。
試合結果を知っていても関係ない。
自分が格闘技を見る時に大切にしているのは結果に至る過程である。
ファイティングアートの領域は勝ち負けとは別な場所にある。
別な行程では発現不可能な域。
それがみたいが為に自分は格闘技を見る。
投稿者 TKM : 03:46 | コメント (1) | トラックバック
[雑記] 稲妻 from USA
友人の山川から稲妻の画像が届いた。
彼の住むピッツバーグの夏は上記のような雷を伴う雨が多い。前にも凄まじい写真を送ってもらったことがある。今回の雷の画像は以前のものよりもはっきりしている。
雷とはプラス電荷とマイナス電荷が引き合いことによって生じる空中放電(ショート)である。電池を直列につないで電極を近づけるとチカチカと火花が散る。あれの規模をとてつもなく巨大にしたものが雷と考えればいい。
通常は雲の中で放電が起こりこれを雲放電と呼ぶ。山川の写真などがその例だ。
放電が地上との間で生じると落雷になる。
雷をよけるにはゴム製品などを身につけると良いとされているがこれは間違いである。また木の下での雨宿りなども危険である。
また時計などの金属製品を身につけていると危険だ、とされているが突起として身体から出っ張っていない限り無害である。
投稿者 TKM : 02:55 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月25日
[格闘技] 今晩のSRSで「ハリトーノフ戦」完全放送
今晩のSRSでは先日放送されなかった「ハリトーノフvsシュルト戦」が放送される。スカパーで試合を観戦した友人からの報告によれば先日行われたPRIDEのベストバウトだったそうだ。
ハリトーノフは現役のロシア軍兵士である。かの国では兵士がリングにあがるのだ。
Numberにヒョードル戦についての記事があった。
試合について述べる前に問題のバックドロップのシーンをもう一度みてもらいたい。
こうして静止画像でみてみるとランデルマンのバックドロップがいかに危険な角度でヒョードルをリングに叩きつけているかがわかる。前のエントリーでも取り上げたが僕が問題としているのはこの後のヒョードルの動きである。
この投撃を受けた直後にヒョードルは体を入れ替えランデルマンの膝蹴りの防御に入っている。何故それができたのか?不思議でならなかった。Numberの記事を読むとランデルマンの投撃の後、ヒョードルが落ちていたのではないかという指摘があった。
しかし落ちていたにせよヒョードルがランデルマンに完勝したのは事実だ。スポーツナビのインタビューでヒョードルは次のように答えている。
更にランデルマンvsヒョードル戦にはこんな偶然もあった。
ランデルマンの父が亡くなったその日。
ヒョードルは交通事故に遭遇した。
偶然と言えば偶然なのだが六爻占術でいう「外応」を感じてしまうのは自分だけだろうか。
投稿者 TKM : 18:49 | コメント (0) | トラックバック
[雑記] ベジャール(2)/小学校の作文
■作家と言葉
「作品で大切なのは何を基にするかだ」
ベジャールの創作は作品の「基」を決めることからはじまる。
恋愛であれば二人の関係性を基にする。言葉を基にする場合もあるし音を鍵とすることもある。「リュミエール」ではその言葉が示す通り「光」が作品の基になっている。
光とは何か。
「リュミエール」ではそれを問うことから創作がはじまったそうだ。
僕はアーティストの使う言葉が好きだ。彼らの言葉は難解ではない。(かといってわかりやすいわけでもないが)しかし響いてくる。剣に例えるなら「ただ一撃の為に」とでもなるだろうか。打ち込むべき一点を的確に打ち込んでくる。
ある命題に意識を向けることはできてもその問題意識を維持することは難しい。
どうして彼らは探求というモードで思考を維持できるのだろう。
そしてこう続く。
「私はメモはとらない。準備したものは嘘だ」
この言葉にはしびれた。
と同時に「私はメモはとらない」という言葉をメモしている自分とは何なのだろうと思った。自分の内部で言葉の意味が反転していく。「メモをとらない」という言葉をメモする自分は嘘なのだろうか。
++++++
自分は思うままに書いているだけだ。
何かを伝えようという思いはない。
先日岸崎さんと書くということについて話をした。
自分は書きながら考える。
画面に浮かびあがる文字を「読み」ながら「書く」。
PCで書く時の感覚は「書く」よりも「読む」に近い。
楽しいとか面白いという感覚とは少し違う。
言葉をツールとして使った思考である。
だから原稿を書く時のライティングとは全く違う。作文とも違う。エッセイでもない。おそらく何でもない。
■フィードフォワード
リュミエールの創作過程をみていたらフィードフォワードという言葉が思い浮かんだ。
少し先の未来があってそこから今を引き出している。
再現ではない。
再現が不可能な時間の連続。
モードあるいは気配といった固定できない感覚の再現なのだがそれは再現ではない。
固定しないことによるパターンの伝承のような外側の概念をつかった固定。
先日もエントリーで書いたが「非制御による制御」のイメージと重なる。
話はリュミエールからそれるが自分はある物や現象をみて全く別なことを考えるのが好きだ。目の前にある現象はその背後にある全く別な物事を考えるきっかけである。コンテンツをみる時は常にそういう視点にたつ。感想とは異なる。このやり方は小学生の頃から変わらない。夏休みになると読書感想文を書く宿題がでる。しかし本についての感想を書いたことはない。本を読んで自分が考えたことを書いていた。
小学校二年の時のことである。その当時の担任は森田先生という50歳くらいの女性だった。ある日、視聴覚室で「チビデカ物語」という短編映像をみせられた。身体の小さい少年と身体の大きい少年の冒険談みたいなものだった。視聴後に感想を書くように言われた。何年か前に家に帰ったときに過去のノートをみたらその時の感想文があって読んだら面白かった。
「ちびデカというから刑事が登場し、事件を解決するものと期待していたら全く予想に反して学校の物語だったのでつまらなかった。最初のシーンで壁をやぶらないのは何故なのだろう。意味がない。あのまま学校を飛び出し、二人が逃走の果てに何かをみつけるのかと思っていたのに。」
だいたいこんなことが書かれていた。先生のコメントは確か「あなたが作品とは全然関係ないことについて書いてあってとても残念です」だった。
あのころの感想文や作文をいま読んでみたいがもうなくなっているのだろうな。これから先の学校の授業で書いた作文は全部デジタル化してアーカイブにしておいてもらいたい。あるいはPCで書いてウェブにアップするなどの方法で共有するのもいい。小学生の頃の作文をいつでも読めたら何かが変わるかもしれないし。個人の創作物のアーカイブがあったらそれがどんな作品や作文であっても自分にとっては価値がある。小学生の頃に書いたテストの答案や自分が書いたいろんなもの全てをもう一度みてみたい。
※驚いたことに「ちびでか物語」をネットで検索してみたらいくつかでてきた。解説があったので引用しておく。
投稿者 TKM : 06:38 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月24日
[アート] ベジャール、バレエ、リュミエール(1)
恵比寿駅についた時はすでに7時24分。
地上にあがるまでの駅構内は人であふれている。
人の間を縫って走ろうにもあそこまですし詰めだと物理的にも走ることは困難である。
エスカレータを登る人、階段を歩く人、改札を出る人。
その全てがおそろしくのっそりとしている。
都市部の混雑した駅の改札で人はぼんやりとゆっくりと動く。
しかし電車に乗り込む時はダッシュだ。
地上にでて時間を確かめる。
午後7時28分。
二分くらい進んでいるから上映時間の7時30分まではあと4分ある。
地下鉄恵比寿駅からガーデンプレイスまであるくと6~7分かかる。
駅からガーデンプレイスの敷地までは動く歩道が敷かれている。
そのため駅の側にあるように感じるが思ったよりも距離がある。
ガーデンプレイスの入り口のところにあるパン屋でパンを買う。
ガーデンシネマは飲食禁止なのでパンを囓りながら急ぐ。
「ただいま予告編上映中です後方左手の入り口よりお入り下さい」
係員がいう。
どうにか上映時間に間に合った。
まもなく、数十分前にネットでみたトレイラーと同じ音楽が流れ映画が始まった。
映画がはじまってすぐの場面。食堂でベジャールが昼食を食べている。彼の視線が壁に向けられる。カメラが壁に向かう。壁に紙が貼り付けられている。そこにはこう書かれていた。
「一見無益なものが一番有益である/モーリス・ベジャール」
投稿者 TKM : 18:10 | コメント (0) | トラックバック
[エッセイ] 香の記憶と吐息の秘密
一瞬、部屋の中に線香のかおりが漂ったような気がした。
レイブ会場にいくと必ず漂っている香のかおりがあるがあれに少し似ていた。
ふといろいろな記憶がよみがえった。
富士山の麓で行われたパーティで友達にもらった香を部屋で焚いたは3年も前のことだ。随分前の出来事なのに頭の奥底には香りと共に様々な記憶が克明に記録されている。
そういえば線香のかおりも嫌いではない。
かおりは心をしずめたり、昂揚させたりする。
人にはそれぞれ香りがある。
いい香りの人もいれば嫌な香りの人もいる。
吐息もひとりひとり違う。
同じお酒を飲んでも、同じものを食べても、人によって吐息は異なる。
これは自分だけがそう感じているだけなのかもしれないが稀に懐かしさや安らぎを感じさせる吐息の人がいる。香りを言葉で表現するのは難しいが例えるならば動物的ではなく植物や果物、あるいは水とか海のようなイメージだろうか。自分にとって吐息はとても大切でこれが合わないとどんなにその人が素敵でもそれ以上の何かを感じることはない。
どういう仕組みで吐息の種類が変わるのかいつも知りたいと思っているのがまだ調べていない。
投稿者 TKM : 05:21 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月23日
[アート] べジャール、バレエ、リュミエール
偶然「べジャール、バレエ、リュミエール」のサイトを見つけた。
べジャールについてはNHKの現代バレエの特集を見るまでどんな人なのか詳しくしらなかった。
モナコで行われたダンスイベントのドキュメンタリーをベースにした番組だった。
上記のサイトにあったトレイラーを見た。
なぜだかしらないが彼の声を聴いたら涙がとまらなくなった。
どうせ生きるならこういう風に生きたいし、こういう人と話ができるようになりたいと思った。
涙で目が腫れている。
今日の最後の回にはまだ間に合う。
投稿者 TKM : 18:48 | コメント (1) | トラックバック
[キュービタル] 情報のヴァーリトゥードと雨のコントロール
ネットって面白いなと日々思う。
画面に向かっていると時には無駄な時間を過ごしているという自責の念に駆られる時もある。それでもゲームよりは数段に面白い。常に何かが画面の向こうに待っている、ような予感がある。
いろいろなサービスが恐ろしいスピードと加速度で日々誕生している。
こんなことは現実世界ではあり得ない。
完全に無制限というわけではないけれど物理的な制約がないというのはこういうことなのだろうか。どんなサイトをつくるのも自由だ。それが法に反するかどうかは別としてつくること自体は自由だ。何でもありのヴァーリトゥードである。
日本では法律の制約があるためネットラジオで楽曲を流すことは難しい。
しかし国が違えば事情も変わる。
先ほどmixiの友人日記で下記のサイトを知った。
http://www.digitallyimported.com/
アクセスしてオススメされていたmodern jazzを聴いてみる。
悪くない。(上記のサイトの音楽は無料である)
こんなサービスがあったら有線放送で音楽を聴かないだろうな。
と考えると優先ブロードネットワークスが早々に事業モデルをブロードバンドインフラ企業に切り替えたのは英断だったのだと思う。経営者の意志決定というのはスゴイものだ
。松井証券が店舗営業を廃止しネット取引に特化することで現在のポジションを築いたのも似ている。
企業の意志決定の方向が有効であるならそれがドラスティックであればあるほど企業の未来はユニークなものになる。
勿論、規模の問題があって数千人を要するような大企業が質的な部分でドラスティックな変化をとげることは難しい。人間、自転車、バイク、車、バス、船、飛行機などなど規模が大きくなればなるほど方向転換は大変になる。
それは企業や組織も同じで組織もでかくなると小回りがきかなくなるから恐竜化して衰退する、という意見はわりによく目にする。
企業の遺伝子という言葉がある。
製造業を主幹業務としてきた企業においてネットワーク事業が主体になる、ということは少ない。ソニーの研究者が「僕はネットワークとかソフトウェアを研究しているけれどそれがソニーという会社のメインストリームになることはないんですよ」とぼやいていた
細胞が集まって組織ができ様々な組織の集合体として人間ができている。
10年位前にはやったパラニューロンという考え方によればそれぞれの機関は脳という司令塔によって統率されているわけではなく内臓は内臓で情報を処理するなど小機関毎に意志決定が行われ、それらは脳の統率の外にあるとのことである。
我々が行っている意志決定はそうした様々な機関の意志決定と無縁ではない。
なんらかの形で影響はうけている。
ここから先は僕の心証だが「制御」という考え方で情報を処理すると規模の限界がある。
制御ではなく非制御による制御という概念で意志決定を捉え直すと組織の意志決定において大切なものが何なのかが見えてくる。
(雲を制御することは難しい。しかし制御とは別のアプローチをとるならばそれも可能かもしれない。そういえば東京都は水不足の時に雲の生成装置を導入し人工的に雨を降らせることを試み成功したとされている。詳細はこちらの東京都議会・都市・環境委員会報告を参照)
ホーリスティックな視点とも少し違う。
というのはホーリスティックなアプローチはフェノタイプ(表現型、この場合は現象という意味で)として発現するまでに時間がかかる。速効性があり、なおかつホーリスティックな結果へとつながる方法論。
統治や経営、組織、個人の意志決定への別なアプローチがあると僕はおもっている。
まずはシンプルな方法論によって概念をはずし、ソフト的に立ち位置をゼロクリアすることがスタート地点だろうか。
投稿者 TKM : 17:59 | コメント (0) | トラックバック
[格闘技] UWFとの再会
■一冊のパンフレット
岸崎さんが鞄から取り出したブツに目を見張った。かなり初期のUWFの試合パンフである。
第1次UWFの試合はTVで放送されることはなかった。僕がUWFの試合を初めて目にしたのはもう10年以上も前のことだ。
神奈川県藤沢市六会のTSUTAYAのスポーツコーナーの外れにみかけないビデオシリーズがあった。気になったので借りてみることにした。
画面をみて驚いた。
若き日の前田や佐山が殺伐とした雰囲気の中でガチガチのファイトを繰り広げていた。
それが僕とUWFとのファーストコンタクトであった。
その後、UWFは新日本プロレスに出戻りの形で参戦。新日本プロレスとの軍団抗争を経て、再びUWFが設立される。第二次UWFの誕生である。ここではじめてUWFの名前が表舞台に登場する。
■第二次UWF
第二次UWFにはそれまでのプロレスとは決定的に異なる特徴があった。
プロレスのリングではピンフォール(ワンツースリーというカウント)あるいはギブアップで勝敗が決定する。ところがUWFのリングではフォールは存在しない。
ロープエスケープやダウンをポイントに換算し、持ち点から減算していくポイントシステムによって試合の勝敗を決定するという画期的なルールを導入したのである。これによってそれまでのプロレスとは全く異なる「格闘技色」が強くスポーツ・アスリートの要素を取り込んだ次世代のレスリング興業スタイルが誕生したのである。
ここで確立された「打・投・極」というファイトスタイルは今日のK-1やPRIDEの原型といってもいいだろう。
受け取ったパンフをめくるとまだデビューまもない山崎一夫の顔がある。
まだ若くあどけない。
この山崎が後の第二次UWFでは藤原、前田、高田と並んで四強と呼ばれるまでになる。
僕が最初にみた第二次UWFの試合は船木のデビュー戦だった。
海外遠征から帰ってきた船木(パンクラス創設者)に新日本はジャッキー・チェンとのエキシビジョンマッチを提示していた。一方、師匠である藤原からは「自分は前田の設立したUWFへ行く」と暗にUWFへの参戦を打診されていた。ジェッキー・チェンとのエキシビジョンマッチは試合の是非はともかくプロレスとしえ考えるならば一生に一度あるかないかのビックイベントである。
しかし船木はこの提示を断りUWFのリングを選ぶ。
船木のUWFデビュー戦。
相手は師でもある藤原喜明だった。
黒髪に銀のジャケット、緑のリングタイツとリングシューズでUのリングにあがった船木は幕末の志士の姿を彷彿とさせた。
投稿者 TKM : 06:54 | コメント (1) | トラックバック
[雑記] 神取忍の手
昨日の出来事。
■新宿でミスター女子プロレスこと神取忍さんと遭遇。握手をした。
神取忍は選挙のプロモーションで少し疲れているように見えた。リングでの戦いは肉体的な負荷との戦いだが政治の場では精神面で負荷が高まるのだろうか。握手をした手に力がなかった。
「御輿に乗る」という言い方があるけれど昨日の神取は御輿(仕掛け)の重強い空気に押され吸収されているような印象を受けた。
神取の気も気政治家にありがちな「ウワッ」っとしたものではなくちょっと押したら倒れてしまいそうな線の細さを感じさせた
■将棋公式戦(NHK杯)で「the most scarcely to happen」な勝ち手。「二歩」の瞬間を見た
もう10年以上、将棋を指していないのだがこの映像には驚かされた。プロでもこんなことってあるのだ。冗談かと思ったが思わず地声で「打っちゃったよ、打っちゃった」と声を上げる解説者や対戦相手のやり場のない表情を見るとドッキリではなく実際の試合であることがわかる。
羽生や一部の高名な棋士の名前は知っているがほとんどのプロ棋士の名前を僕は知らない。しかし「豊川孝弘六段」の名前は当分は忘れないだろう。将棋素人の自分でも豊川氏の打った「二歩」は将棋史上かなり稀な出来事だということはわかる。
ここ数ヶ月でクオリティ・成績ともに驚異的な成長を遂げているやまけんだがこの人の食いっぷりもなかなかの「食い倒れ者」(歌舞伎者ではない)である。さりげなく二つのメニューを攻めるあたりはやまけんにも共通する「食い」だ。さすがにTVチャンピオン優勝の看板は伊達ではないなと思った。
投稿者 TKM : 06:01 | コメント (1) | トラックバック
2004年06月22日
[雑記] 仕事とチーム
痛めた手首は完治とはほど遠いが多少は良くなってきた。
友人・知人からブログについて質問されることが多い。
初めてブログをやる人にはロリポップを運営しているpaperboy&co.のブログサービス「寿限無」を紹介している。「寿限無」は後発のブログサービスだが優れたユーザインタフェイスとセンスが俊逸だ。
「寿限無」のメールマガジンではジュゲムで運営されているサイトをいくつか紹介するコーナーがある。そこで紹介されていたサイトをみた。
世の中には文章の上手な人というのがいるものだと感心した。
自分には書けない種類の文章だ。
やまけんの文章も面白いと思うが上記のサイトのように抑制のきいた文章も好きだ。
今日は新宿でミーティングが2本。
部屋ではバシ師匠が布団に突っ伏して眠っている。
バシ師匠はオレの兄貴分でクールではないが優しいナイスガイである。
昨夜はバシ、オレ、タケ、やまけんというメンツでおそくまで盛り上がった。
こういう夜は月島に住んでいて良かったなと思う。
タケはいまごろは株主総会の準備で忙しくしているだろう。
やまけんは原稿を書いているだろうか。
あるいは昨夜貸したPRIDEのビデオを観ているかもしれない。
「誰と仕事をするか」が自分にとっては大切だと前に書いた。
もうひとつ大事な要素がある。
自分のモチベーションについて考えていたときに気がついた。
僕は単独で仕事をするよりも「チーム」で仕事をすることが好きだ。
「チーム」といっても仲良しクラブではないが。
投稿者 TKM : 09:39 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月21日
[格闘技] PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUND (その1)
■恐るべしヒョードルの首
ヒョードルの身体が綺麗に宙を舞った。
ランデルマンの投げが見事に決まったのである。
その瞬間、思わず声がでた。
「死んだッ」
後頭部から真っ逆さまにマットに叩きつけられたヒョードルの首は無惨に折れ曲がっているようにみえた。それはあまりにもショッキングな角度だった。
あの瞬間、自分はヒョードルの首が折れたと思った。
ランデルマンの高角度バックドロップは近年希に見る投げの醍醐味を体現していた。
死の香りさえ漂う切れ味だった。
問題はその後である。
どうしたらあの高角度からの一撃を受けた直後に身体を反応させることができるのだろう?
体を入れ替えヒョードルはランデルマンの腕を決めにかかる。
バックドロップのダメージは全く感じさせない。
ランデルマンの足の動脈が異常にふくれている。パンプアップされた筋肉が限界点まで稼働している証だ。ランデルマンの身体は全身筋肉の塊、バネである。
ヒョードルは落ち着いてランデルマンの手首をつかみアームロックの体勢をとる。
ランデルマンの腕の筋肉が震えている。渾身の力を込めヒョードルにつかまれた腕を安全圏にもどそうとしている。少し腕が伸びかけ「ああ決まるかな」と思った刹那、ランデルマンの腕が伸びきり、ヒョードルのアームロックが決まった。
ヒョードル恐るべし。
ロシアンラストエンペラーの称号は伊達ではなかった。
試合は短時間だった。
しかし全身に力が入っていたいのだろう試合が終わった頃にはこちらも疲労困憊胃していた。そのくらい密度の濃い試合だった。
全試合を振り返ってコメントをするならば僕が言いたいのは次の一言である。
「ヒョードルの首」
それこそが昨日のPRIDE全試合中、最も驚愕すべき「魅せ」であったように思う。あの投げを食らってからの瞬時の反応は人間の領域とは思えなかった。凄まじい試合であった。
■ノゲイラvsヒーリングに魅せられる
次に印象に残る試合といえばやはりノゲイラvsヒーリングであろう。
両者は3年前にも対戦しており、その際は僅差ながら終始グランドでリードしたノゲイラが判定で勝利を収め初代ヘビー級王者の座についた。
再戦ということもあって膠着した試合運びを予想していた。
序盤は両者スタンディングからの立合。この時、ノゲイラの胸筋が以前よりも分厚くなっているように見えた。ボクシングトレーニングの成果だろうか。二人ともグッドシェイプだがノゲイラのボディは以前よりもメリハリがありアスリートの筋肉を思わせた。
予想通りスタンディングでは互角な展開でグランドへ。ノゲイラのボディコントロールが素晴らしく終始ヒーリングをリードする。これまで全くみたことのない体勢でノゲイラがヒーリングを翻弄する。解説の高田も「(両者の身体が複雑に組みあい)もう、どこがどうなっているのかわからないですね」と唖然とした声を漏らす。
ところが。ここから予想外のファイトが展開する。
ギリギリのところでノゲイラの関節技をヒーリングが全て外していく。3年前と同じ展開だ。「あー、やばいな」そう思った次の瞬間にはスルリと腕を外して体勢を入れ替える。マウントになったかと思うすぐに二人の体が入れ替わり攻守が逆転する。希に見るスピード感あふれるグランドの攻防にしばし言葉を失い魅入ってしまう。ヘビー級の試合でこれほどまでにスピード感のあるグランドは久しぶりである。
ヒーリングはアームロック、チョーク、逆十字に対しての対策ができているのだろう。
あと一歩のところで窮地を脱している。
焦りもないように見える。
第一ラウンドは両者の身体のキレとコンディションの良さがあらわれた好試合だったと言えるだろう。
そして第二ラウンド。
やはりそうなのか。
スタンディングでノゲイラのパンチをもらいはじめたヒーリングがタックルにいったところをノゲイラがフロントヘッドロックのような体勢で受け止める。この時点ではまだ技は決まっていない。ヒーリングはその体勢でこらえようとするのだがノゲイラの腕がおかしな形でヒーリングの首にからみついている。ヒーリングの表情が苦しそうに見える。それでもまだ耐えている。
その体勢のままノゲイラがくるりと身体を捻る。
複雑に絡んだノゲイラの腕がヒーリングの頸動脈を捉えた。
スピニングチョークスリーパーが決まったのだ。
「スゴイな」
そんなコメントしかできないのが悔しいが。
そのくらいあっさりとノゲイラはこの技を決めてしまった。
はたからみていると相手の首をつかんでゆっくりと回転しているようにしかみえない。
それも練習でもしているかのようでノゲイラの身体には力みが無い。
「スゴイな」
最後のシーンを思い出してみるがやはりそんな言葉しか出てこない。
(他の試合へのコメントは次のエントリーへ続く…)
投稿者 TKM : 06:19 | コメント (3) | トラックバック
2004年06月20日
[雑記] イスから転倒~図書館のスラム化が進んでいる
エアコンの掃除をしようとして「イス(足がキャスターになっている)→机」の順番で登っていったら机に右足をかけたところでキャスターが滑って豪快にイスから床に落ちた。高さにしたら1m弱とたいしたことはない。受け身をとったのだがおいてあったリラックスチェアーの足に右手首をしたたかに打ち付けた。
昨年末に右肩を骨折して以来の痛みにしばしのたうち回る。
手首をやってしまったらキーボードも打てなくなるので暗鬱とした気持ちになるが一拍おいて脳に届いた痛みが意識を現実に引き戻す。肘も同時に打ち付けたらしくスリキズがあるが骨は大丈夫なようである。
手首をチェックしてみると外側の筋はかなりのダメージをうけている。手のひらをついて後ろによりかかるというような動きをすると鋭い痛みが走る。甲を内側に向ける運動をする分には大丈夫だ。筋の損傷だろう。とりあえず炎症用の湿布を探してきて応急処置をした。
「北の国から」の何回目だったかで邦衛が屋根から落ちるシーンがある。
落下しながらあのシーンを思った。
頭で考えるよりも早く身体が反応した。
受け身がとれなかった場合は重量の思い頭部から落下していたのだろうか。
ともかく運が良かった。
その30分前、図書館に本を返しにいった。
日曜の図書館はいつもにもまして図書館人(虚ろな目で図書館に滞在している気配の薄い人々)が多い。同じ場所にいると陰鬱な気分が伝播してくる。彼らはあそこで何をしているのだろう。早々に退散した。
図書館はインフラ面ではなく人的なアメニティを最重要課題の一つとして検討すべきである。あれでは図書館ではなくスラムだ。
ラース・フォン・トリアーの「キングダム」にでてきそうな人々が虚ろに時を浪費している。
図書館のスラム化が進む背景には街のスラム化も関連しているのだろうか。
中央区の隅田川沿いテラスにもここ3年でホームレスのテントが急増している。僕が引っ越してきた10年前にはあの界隈にホームレスは皆無だったことを考えると絶対数が増加しているのだろう。
コンビニ化とスラム化の度合いには関係があるように思う。コンビニ化が進むとコミュニティの重要性が薄れるから街にはスキ間ができる。スキ間が文化や遊びをつくる場に向かえばいいが大抵はスラム化の温床となる。スラムは街のグレイゾーンに沿って拡大している。こうした動きは生物的だ。制御はないのに全体では統制がとれているかのようだ。散逸的である。
投稿者 TKM : 13:12 | コメント (0) | トラックバック
[エッセイ] 擬態性難解症
「擬態性難解症」という言葉を初めて知った。
「判断力」という本の中でみつけたのだが読んでいて「こういう人っているよな」と思わず膝を打った。
「擬態性難解症」とは筆者の言葉によれば「分かり切ったことをわざわざ難しくいう」ことである。
質問をすると難解な説明をする人がいる。しかしたいていの場合、それは問いへの答えではない。いかにも「オレ様は知者だよ」という態度はわかるのだが話に核心がないから心に響いてこない。
話はそれるが糸井重里がモデレータをつとめるシンポジウムや会合にいくと彼がやっているのは言葉の翻訳なんだと気づく。自分の意見をいうというよりも相手の言葉を咀嚼して「それって簡単にいうとこういうことじゃないですか」と専門家でなくても理解できる言葉への置き換えをやっているだけなのだがこれが驚くほど上手だ。なるほどこういう言い方にすればいいのかといつも感心する。
ネット上の文章にも擬態性難解症が多い。
難しい言い回しを使いたいその気持ちは理解できるが何をいっているのかよくわからない論文や意味や気持ちの伝わってこない「つまらない」テキストが多い。誰かに伝えようとして書かれているわけではないから仕方がないといえば仕方がないのだがほとんどは議論の為の議論や揚げ足取りばかりで核心がない。
意見や自分がそこにないのだ。
意見を出し、自分を出す、ことは「リスク」が伴う行為だ。
しかしそれをやらなかったらコミュニケーションははじまらない。
告白するときに勇気が必要なのはそこに「リスク」があるからで、だからこそ緊張もするわけだがそのリスクなくしては相手との関係を劇的に変えることはできない。
簡単にいうと何かをやるときは「やってみる」という選択肢は存在せず「やる」か「やらない」しかないということだ。
投稿者 TKM : 09:35 | コメント (0) | トラックバック
[キュービタル論] 夢とキュービタル
今朝も早々に目覚める。
狂った夢は相変わらずである。
論理構造あるいは関係性を時間軸をブレたままで映像として定着させたものというイメージがある。複雑なストーリーも感覚や感情の映像化なんだろうな、と思う。記号として表現できないから関係性はストーリーに置き換えられるのだが、単一のストーリーが重みを持つことはなく並行した多数世界に存在する自己を違和感なく受け入れている。これはかなり不思議な感覚だと思う。
夢の中で自分は話している。
これはこうなんだよ、ということを一生懸命話している。
しかし、次の瞬間。
自分が相手になっている。
話している相手の視点が自分の中に入り込んでくる。
それでも普通に話を続けている。
しかし相手の言葉を考えているのも自分だ。
夢の中で我々は自分の視点と相手の視点を同時に体験している。
つまり夢の中で我々はキュービタルアイを体感している。
投稿者 TKM : 08:42 | コメント (0) | トラックバック
2004年06月19日
[雑記] 「お得意」って誰?
気になる言葉があるのでメモ。
広告業界に特有の用法なのかもしれないが、
「いやー、お得意が○○○」
「でも、お得意が○○○」
「お得意の意向で」
広告関連の業務に携わる人は上記のような言い方をする人が多い。
ここでいう「お得意」とはクライアント・依頼主なわけだが広告業界では何故か上記のような言い方が一般化している。
上記のような婉曲的な言い回しを好むのには特別な理由があるのであろうか。
NDA(Non-Disclosure Agreement)など契約上の理由で相手企業名を明示できないのであればわかるのだが。そうでない場合は少なくともチーム内で「お得意」という匿名性の高い用語を使う理由は皆無だ。
相手の企業がトヨタならばトヨタと言えばいいしソニーであればソニーの担当がと言えばいいではないか。不利益にならない限りそれが道理だと思うのだが。
何故、曖昧な言い回しで表現を試みるのか理解に苦しむ。
極めて特殊な日本語の使い方だと思った。
投稿者 TKM : 18:35 | コメント (0) | トラックバック
[夢日記] 丘の上で波をみていた
海の夢をみた。
丘の上から海を見ていた。
ハワイの海だった。
巨大な波が打ち寄せてくる。
サーファー達は果敢に波に挑んでいく。
波打ち際なのに3mくらいある波が人を巻き込んで砂浜に打ち付ける。
「スゴイな」
隣の外国人に話しかける。
3人とは道で出会った。
丘への道を歩いていると日系人が左官の仕事をしていた。
向こうから犬を連れたおばさんが歩いてきた。
英語で挨拶して二、三言話すといつの間にか会話は日本語になっていた。
おばさんは大学時代の英語の先生をにこやかにしたような陽気で優しい人であった。おばさんには南米系の青年とおじさんの連れがいた。三人は家族ではなさそうだったが仲は良かった。
「ハワイに来てから随分たつのよ」
と彼女は笑った。三人につれられてビーチを見に行った。
「ハワイではこのポイントと反対側の海が一番綺麗なんだ」
そういって青年は海を指さした。
巨大な波のパノラマが広がっていた。
どうみてもこれは津波だ。
砂浜近くで地面に吸い込まれるように波は引いていく。
巨大な水の壁が渦巻くように宙を舞っていた。
何度も何度も打ち寄せる波をしばらくみていた。
「下にいきましょう」
おばさんに連れられてビーチに降りた。
ビーチに併設された売店でジュースを買って貰った。
素晴らしい包丁さばきで現地のおじさんがにんじんを剥いていく。
「たべてみな」
言われてかけらを口に入れるとフルーツの味がした。
おばさんがにんじんといくつかの野菜のミックスジュースを注文してくれた。
犬があたりを走り待っている。
しばらく犬を見ていた。
まだジュースはできない。
ミキサーはゆっくりと回っている。
繊維質な橙色の液体が内側でうねっていた。
波はもう静かになっていた。
++++++
コメントでオススメされたDVDは下記。
投稿者 TKM : 03:23 | コメント (4) | トラックバック
2004年06月18日
[雑記] コンビニ化する世界
梅雨はどこにいったのかいきなりの夏日よりが続いている。
昨日は父と妹を交えて酒席。
退職後はボランティアで母のやっている図書館の仕事を手伝うとのことだった。
週末は福島で送別会があるのだが僕は参加できないのでかわりに妹が行くことになった。
父の送別会が行われる店の名は「ペペ」。
赴任してはじめていった店で父は13年間も通っている。
2月に帰郷した際、五年ぶりくらいに顔を出した。
前の店でたくさん食べてからいったのだが「トモ君、お寿司とってあるから食べてってね」と言われて断るような無粋な真似はしない。
食い倒れ党員として外せないポイントだ。
昨日は宿泊しているホテルが品川とのことだったので品川を攻めることにした。
そんなわけで久しぶりに訪れた品川だが以前は「駅」という感じだったのがいまは巨大な「ステーション」というべきだろう。中央改札を抜けるとだだっ広い広場になっている。ずっと工事中だった駅の東側には駅ビルが完成していた。
広場にはものすごい数のサラリーマン風の人々が行き交う。
ほとんどの人が勤め人に見える。
オフィス棟からワサワサと人がはき出されている。
妹が店を探しておいてくれる手はずになっていたので連絡してみるとどこも一杯で入れないとのことだった。最近は木曜日になると人々が飲み屋に殺到するらしい。合流して相談することにした。
品川で入る店がないとは笑ってしまう。
笑ってしまうがどの店も並んでいる。どんなにショボいチェーン系の店でも入り口にはネクタイ姿の人々がウロウロしている。ため息をつきたい気分だ。アホらくしなったので別な町に移動しようと提案する。タクシー乗り場に向かう途中に通りかかったビルにも商業施設が併設されていた。
妹が空き状況を確かめにいった。
15分くらいで空くとのことだったので2階のカフェで一休みしてから店にいくことにした。汐留や六本木もそうなのだがそれらのビル街は表面的には先進的で綺麗だ。しかし中身はコンビニという印象がぬぐえない。
どの店もサービス、味、ともに「コンビニ」な感じがするのである。
心がないというか。
人がないというか。
それが絶対的な理由というわけでもないが小ぎれいなだけの店はどうにも好きになれない。グローバルダイニング系の店とかゼットンとかキリストンカフェとかダイニング系の店は総じて「コンビニ」っぽいというかインチキくさい感じがしてダメなのだ。
と話はそれたが品川の街も六本木や汐留と同じで「コンビニ」であった。
日本全体が「コンビニ化」しているのだろうか。
コンビニそのものは素晴らしい発明だと思うのだがあのトーンがあらゆる店に適応されるのは全くうれしくないな。
投稿者 TKM : 15:06 | コメント (4) | トラックバック
2004年06月17日
[雑記] 気持ちのいい朝と幸せな夢
久しぶりに夜に眠って早朝に目覚めた。
気分はよい、旅館の朝みたいだ。
しかも今晩はうちの父と酒席である。
ブログの更新も滞っていたので起きてすぐ何かメモしておこうと画面に向かうと
何故か尾崎豊のOh my little girlの歌い出しが頭の中で流れる。
「こんなーにもー」
そう「こんなーにもー」な気分なのだ。
鳥がチュンチュン鳴いてるし、朝がこんなにも気持ちがいいのも何だかなあ、という複雑な気持ちだ。いつもはこの時間はまだ帰宅していない。どこかで本を読んでるのが常だ。
夜に眠った効用は他にもあって夢が心地よかった。
僕は割にしっかりと夢の中身を覚えている方で今朝方に見た夢は10人くらいの人が登場した。夢の中でも眠っていた。大きな部屋で10人くらいで眠る。みんな友達でいろいろ話をしながら眠った。
寒かったので隣の子に腕枕をしてあげると少し暖かくなった。周りからは優しい気配がする。
「寒いのかい」
友人に訊かれた。みんなでサッカーの試合をしなければならない。場所はうちの庭で四角いコートではない。いまはなくなってしまった昭和か大正の頃のゴミ捨て場の穴(3メートル四方)をよけて試合をしなければならない。
その少し前に船に乗っていた。
船は港の近くで氷に包まれた。
マリオブラザーズのように一人を振り回して氷を滑らせて向こうにぶつける、ということをやっていたら電車を降りた朝のラッシュのように乗客が乗り込んできてぶつかって飛んでいきそうになった。みんな怪訝な顔をしているがこちらは海賊なので何をやっても赦される。
再び10人くらいで眠っている。
心地よくみんなの寝息に包まれている。
そして目覚めた。
「ダ・ヴィンチ・コード」についていくつかコメントをいただいた。
作品についてのコメントを書いていなかったので朝のトレーニングから戻ったら書いておこう。その後で「天使と悪魔」も読み進めることにしよう。
気持ちのいい夢のおかげで旅行先の旅館ばりにいい朝を迎えている。
投稿者 TKM : 04:51 |


