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2004年10月19日

激しく頭痛

凄まじく頭痛だ。
ストレスも相当にひどい。
しかしこれはゲームみたいなもの。

ストレスというのは自分を知る上で役に立つ。
弱さのポイントを起点に流れのどのポジションにいるのかを計測できる。

探検みたいなものでこれもなかなか面白い。

投稿者 TKM : 01:52 | コメント (0) | トラックバック

2004年10月18日

ヤマハ「マイルーム」 部屋の中の部屋

ヤマハ「マイルーム」~部屋の中にもうひとつの部屋~

ヤマハやってくれる。
部屋の中にもうひとつの部屋。
実は以前からこういうものが欲しいと思っていた。

というのは集中状態をつくるには外界からの情報をある程度カットしなければならない。
ところがこれが難しい。

海外のオフィスの事例で小部屋を自由にレイアウトし自分だけの創造空間をつくっているのをみると「創造」や「アイディア」「企画」という仕事の重要性をわかっているなあとうらやましく思っていた。企画をくみ上げる生み出すには「オープンで混沌とした場」「完全に個に没頭できる小宇宙のような空間」の二つが必要だと常々感じていた。

「創る」はひとりでおこなわなければならない。
だが「創る」以前では独りでないほうがいい。
混沌で情報を混乱させる。
そして秩序がうかびあがってきたところで「創る」にてんじるわけだ。

日本のオフィスだとオープンな空間が多いので混沌をつくることは容易だ。
けれど「創る」に転じた時、総じてオープンな空間は能率が悪い。

「創り部屋」と「仕事机」を分離させる、というイメージが理想だ。
ヤマハのこの商品はなんだか人をバカにしたもののように感じられるけれどバカにするなかれ狭い空間というのは思ったよりも快適かつ、集中できるものなのだ。電車、飛行機、マンガ喫茶、どれも超集中状態になれるわけだが共通しているのは「目の前にあるものしかできない」「ほかのものが介入しずらい」ということで「創るモード」を起動させるにはこの状態が重要なのだ。

こうした個室が完備された図書館なりレンタル仕事場があったらこれは自分のようにフリーランスの立場にある人間にとっては最高のソリューションである。

マンガ喫茶の仕事版だ。
そうしたサービスもあるにはあるがサービスが徹底していないのと料金体系に大きな問題があった。
ヤマハのこの商品をカスタマイズして適応すればかなりのコストダウンがはかれる。
いやー、これはヤマハに提案にいかねば。

※これが壁にかけらたらドラえもんの道具になるのだが…。空間を扱うことができるようになるのだろうか。「PLUTO」だが原作は手塚治虫の「地上最大のロボット」だったのか。知らなかった。(朝日コム参照)

投稿者 TKM : 18:24 | コメント (0) | トラックバック

翻訳コンニャク

ドラえもんに「翻訳コンニャク」という道具がでてくる。
食べるとどんな言葉でも話したり理解できるようになるという夢の道具である。

子供ながらになんて素晴らしい道具だろうと羨望のまなざしで画面をみつめていた。いつかこういう機械ができるのだろうなと漠然と思っていた。同じように欲しくて仕方がなかったのが「暗記パン」。

見た目には普通の食パンなのだがパンを本に押しつけるとそこにページが写し取られる。パンを食べるとコピーされたテキストが全て暗記できるという道具である。

「すげーこれがあったら暗記しなくてすむ、でも何枚くらい食べなきゃいけないんだ?」
友達とそんな話をしていた。あれから20年がたつけれどいまだ暗記パン、翻訳コンニャク両方とも発明されていない。

翻訳コンニャクに話を戻そう。
僕の友人の何人かはバイリンガルで日本語と英語を流暢に話す。バイリンガルにもタイプがいくつかある。幼少の頃から海外で生活し勉強することなく自然と外国語を身につけた人もいれば、高校生くらいから外国にいって結構勉強して習得した人もいる。

大学時代、学内には二カ国語を流暢に扱う学生がわりとたくさんいた。そのせいかグループワーク(受講している生徒を5~6人のグループにし、そのグループ毎に課題をこなしレポートや発表させるというもの)なのでは会話の端々に英語が混じることがあった。

普段の生活をみていても図書館などで普通に「What's up?」と話しかけている人もいた。これは極めて奇妙な光景であった。

日常の学生生活でも英語を多用するタイプの人々は共通してアメリカ的な雰囲気を漂わせていた。行動、服装などにその傾向が顕著であった。
彼らの多くは中学・高校時代に米国への留学していたそうである。

一方で「実は小学生の頃までは海外にいたんだ」とか「5年前に日本に帰ってきたんだよ」という人たちにも何人かあった。彼らは英語の方がネイティブな人々ともいえる。ところがこのタイプの人たちは概して「アメリカっぽさ」がほとんどない。

会話していても外国語で話さなければならない時以外は丁寧な日本語を使う。
雰囲気も「自己主張」というノリではなくあたりも優しい。
個人的な印象だが英語ネイティブな人ほど必要な場所以外では英語は使わないようにみえる。

この違いをアイデンティティの自覚によって説明していいのかどうか。
適当なことを言ってしまうと外国語ネイティブな人々はそこに自分の個性を感じていない。だから必要とされないかぎり英語力を誇示する必要がない。

ここで昨日の蕎麦打ちの高橋氏の言葉がよみがえる。
名人と呼ばれる人がいうのだ。

「たかが蕎麦じゃないか」

と。同じく昨夜の番組の話。大リーグでシーズン最多安打記録を塗り替えたイチローがこれからの希望をきかれて答える。

「うーん、ここで止められたらいいんだけれどそうもいかないからね。ハハハ。(中略、真剣なまなざしにかわって)野球が上手くなりたいですね。もっともっと上手くなりたい。それだけなんですよ。」
世界で一番野球が上手な選手の一人であるイチローの言葉である。
ロバート・ホワイティングの近著「イチロー革命」を読んだ後だったのでなおさらこの言葉が重みをもって迫ってきた。

本当のプロは謙虚だし誇示もしない。
相対的な評価に対して無関心ということではないのだろうけれどより感覚的な価値基準へと向かっていく。それらは分野によって技能・能力の面では異なる。しかし、エネルギー、あるいはレベルという部分で共通している。

外国語のケースも同じように思う。
外国語を流暢に話してもそれがそのまま『言葉力』を示すことにはならない。
高橋氏の言い方をまねれば

「しょせん言葉じゃないか。そんなに偉いものなのか?」

となるだろうか。
本質はその後ろにある。言葉の本質は言葉の後ろに隠れている。

以前、江藤先生と外国語について話したことがある。

「なるほどこのキャンパスにも流暢に話す人もたくさんいる。でもね、その人の言葉というものは『書く』時に一番あらわれるんじゃないかな。私も頼まれて外国の雑誌、新聞に書く時がある。その時に感じるんですよ。外国語で書くというのは難しいことだと。」

江藤先生も外国の大学で授業をしていたこともある。
英語の読解力はあたり前だが「プロ」である。
それでも書くのは難しいのだという。

野球でも外国語でもピアノでも料理でも問題はその先である。
観てわかるものやことのその先はやっている本人にしかわからない「域」がある。

家庭料理とプロの料理の違いはそれほど大きくない。ひとつひとつは微妙な違いでしかない。見た目には全く同じようにつくることもできるだろう。しかしその微妙な違いが積み重ねられていくことで味は変わっていき「違う」という実感がつくりだされる。

翻訳コンニャクが万能でもこの本質部分を翻訳することはできない。
本質とはおそらく翻訳不可能な実感なのだ

++++++

しかし、その手前であったとしてもそこまでつれていってくれるなら、と考えると無限ともいえる可能性の広がりを感じる。
世界中の人々と話ができたら、本が読めたら、世界は一変するだろう。
自分にとっては世界中の本が読めるということになったら、これはほとんど夢である。

それとこれはどうでもいいのだけれど何故「コンニャク」だったのだろう。
「翻訳」と「コンニャク」のとりあえわせはミスマッチというかズレているのだけれど子供の頃からそれで刷り込まれているので違和感を感じることはない。また、いまだに「翻訳」ときくと「コンニャク」を連想してしまう。そういえばやまけんは「コンニャク」が苦手であった。

++++++

翻訳コンニャクに言及しているサイトを検索したら下記のサイトをみつけました

「機械翻訳は実現できるか?」翻訳家 夏目大のTexpert

翻訳についての実体験に基づくコラムがあります。リンクしたコラムの他に「せいうち訳者のシュールな日乗」という日記があり、こちらを読んでおもわず「そうだよ」とつぶやいてしまいました。忘れないように引用しておきます。

お気づきの方もいるだろう。要するによほどの「おたく」か「生きるか死ぬか」の状況に置かれた人でなければ、外国語など身につかないのである。もし「自分はそのどちらでもない」と思ったら、外国語は趣味と割り切り、時間をほかのことに振り向けた方が賢明である。それでも、日本人としての価値はまったく下がらないし、ヘタな「英語おたく」より、はるかに価値の高い人間になれるはずだ。 (上記コラムより引用)

投稿者 TKM : 17:33 | コメント (1) | トラックバック

「情熱大陸・高橋邦弘」 蕎麦打ちという表現

笑顔のカッコいい人だなと思った。
蕎麦打ちだろうとなんだろうとその道の先端にいる人は独特の空気を持つのだろう。
以前、別のドキュメントでも高橋さんの姿をみたことがあった。
確か蕎麦の神様とされる人物の姿を弟子たちのインタビューによって浮かび上がらせ、その実像にせまっていくという番組だった。

今日の番組の中でグっと引き込まれたのは名人と呼ばれるほどの高橋さんがいつも笑顔でいることだった。蕎麦を打つ姿をみているとなるほど「職人」とはこういうものなのかと思った。分野に関係なくある域にまで到達した人たちの動きは「美しい」。無駄がないといったらいいのだろうか。「舞」とは違うのだが動きに引き込まれる。

学生時代に建築現場で大工さんの仕事ぶりをみていたときも驚いた。どこかのとっつぁんにしかみえないおじさんがカンナやノミを手にカンカンやりはじめる。これをみているのがとても楽しいのだ。動きに無駄がなく、遊んでいるようにもみえるができあがってくる仕事は見事である。

今日の番組終盤で蕎麦を打ちながら高橋さんがいう。

「私は駅のたちぐいそばおいしいと思うひとがいれば駅のたちぐいそばだっていいし。それぞれお客さんを満足させればいいと思うんですよ。それが自分の蕎麦やってる蕎麦以外は蕎麦じゃないって偉くなっちゃうとそれは違うぞと。オレの蕎麦くってみろとか、お客さんに食べ方まで指導するとか。蕎麦ってそんなに偉いの?って」
この感覚なのだ。物事というのはそれ自体が独立して価値を持つのではなく関係性の中で価値を持つ。蕎麦もそれを食べる相手があってはじめて成り立つ。

僕は店でうんちくをきかされたり、講釈されるのが好きではない。
それは職人同士、料理人同士でやればいいことでありお店の問題だ。

お店というものはお客の満足を最大化することに注力すべきだと思っている。
何をもってにお客に対する「気持ち」とするか。
それが店の個性であろう。

店もそうだが僕が苦手なのはしたり顔の客である。
蕎麦が「うんぬん」を言われると腹立たしくなる。たかが蕎麦で偉そうにするな、と。
うまければ満足し悦びを味わえばいい。
それ以上の何かが必要だろうか?

こちらはプロの客でいつづければいい。
仮に自分の好みと店の方向性が違っていたとしても、自分が味を知っていようが知らなかろうが、その店や相手が本気かどうかという気持ちは伝わるものだ。
プロの客に必要なのはうんちくではなく相手が本気かどうかを感じ取る心。
それだけだ。

高橋さんに限らずいくとろこまでいった人は総じて謙虚である。
そういう人のもとにはやはり良い人が集まるのであろう。

ダメな店にはダメな人が集まる。
いい店にはいい人が集まる。
ネットでも現実世界でも似ているな、と思った。

◆関連リンク
翁達磨(高橋邦弘さん)

補足:別のドキュメント番組のタイトルがわかった。NHKにんげんドキュメント「おれの師匠~そば名人の心をうけつぐ」であった。偶然この番組をみたのだが心にひびく番組だった。高橋さんもこの番組でとりあげられた片倉康雄氏に師事されていた。

投稿者 TKM : 01:17 | コメント (1) | トラックバック

2004年10月17日

ゴカイと三平の竿

カワマタ君と釣りにいく夢をみた。
レース用のバイクに乗っているというのでみせてもらう。
マウンテンバイクのフレームを太くしたような骨組みの上にボディーがかぶせてある。エンジンは14CCと超小型だが最高速度は40~60kmまでいくらしい。
カートのようなバイクである。

練習場が近くにあるというので車にのせてもらい海に向かう。
トランクをあけるとゴカイが入ったバケツやら竿やらがあってそれを持って堤防に向かう。湾の中をのぞくと海水は透明だ。綺麗な青である。

堤防は内側がくりぬかれて家のようになっており、そこに降りるには4mほどの高さを飛び降りるしかない。飛び降りると竿やらケースがそこら中にちらばった。

カワマタ君はすでに向こう側にわたっていて

「これから3度目の潮になるから」

とはやばや布団の中に入ってしまった。堤防の内側に畳敷きの部屋があることに違和感を感じないのはそれが夢の世界の出来事だからなのだろうか。針に餌をつけようとゴカイを掴むとエイリアンの幼生のようにウネウネと手をつたってくる。

一度に一匹全部を針に通すには大きすぎる。
はさみで切断するとゴカイは巨大化し容積以上の体液をだしながら息絶えた。しかし、切断された残りの部分はいつまでも動き続けている。

仕掛けを海に投じまわりの人々に目をやると30cmくらいの魚影と格闘している人の姿が目に入った。

釣りキチ三平のおじいさんがつくる竿は国宝級の逸品で何巻だったかわすれたが呪われたウキ編の時は先調子竿を使っていた。

隣の人物が使っている竿も先調子竿だが僕がもっているのは何だったけ。
その刹那おおきく竿がしなった。
竿は中調子、胴調子竿の竿であった。

投稿者 TKM : 18:36 | コメント (0) | トラックバック

2004年10月16日

FAXの音 音の未来

kubota.jpg

電話の音で目覚める。
受話器をとると電子音が流れている。
FAXの受信がはじまりジージーと紙をはき出している。

先日、ICCのイベントにいった。
久保田先生やアタウさんはじめ数人のアーティストによるコンサートが催された。

会場では暴力的な音がうなりをあげ床を揺らしている。
オペラシティは建物全体がホール状の吹き抜けになっている。
会場と外は一枚のガラス板で仕切られただけなので音は会場を抜け出し、
全館にノイズミュージックが鳴り響く。

これは「美」とは異なる体験なのだろうか。

心地いいだろうか?
時折、心地よく感じる。

面白いだろうか?
確かに面白い。
聴くというよりもこれは体験である。

そこにあるのは音と音楽の狭間である。
文字でいうならば擬音のようなもの、と言えるだろう。

ギャーという文字は意味を持たない。
けれど別な文脈で使われるならば意味を持つかもしれない。
擬音は文字と音の狭間にある。

ではコンピュータミュージックは?
これはノイズなのかそれとも音楽なのか。

いまは「音」の側面が強い。
アーティスト達も「音」をつくりだすことに夢中だ。

けれどその先がある。
コンピュータミュージックも変移する。

先日きいた「音」も10年前に聴いた「音」とは違う。
気持ちよさの方向性の違いといったらいいだろうか。

パフォーマンスはいくつかのパターンに分類される。
コンピュータミュージックという狭い分野にさえ志向の違いが明確にあらわれる。
なるほどこれは音の実験ではないのだ。

可能性の話だけれど音楽には「ココからはじまってココでおわる」。
という型がある。
しかしコンピュータミュージックが扱う「音」とその先にはその型が崩れる「可能性」を感じる。

コンピュータミュージックの面白さとはこの可能性なのだと僕は思う。
それは直接的な美とはことなる。
しかし、それもまた感覚的なものなのだ。

投稿者 TKM : 16:40 | コメント (0) | トラックバック

2004年10月15日

もう饒舌はいらない -『物語時間』と『伝わる気持ち』と『プレゼン映画』-

DSCF0010.jpg

秋晴れというのだろう。
空には雲ひとつなくひざしは温かい。

昨夜「海皇紀 」を読破した。
海洋大河ロマンマンガという分類。
あるいは冒険ロマンという位置付けになるだろう。

見開きでみると左右のページに映画シネスコサイズのように横長の四角形が4つ均等に配置されている。このような規則的なコマ割は単調で面白みに欠けるのではないかと懸念したが杞憂であった。
コマ割の持つ効果と作品の持つ物語性とは別なものなのだろう。20分ほど読み進めると物語の時間の流れに自分が取り込まれていく。

媒体を問わずこの種の物語性をつかう作品に共通する感覚である。
ある程度の時間を物語に没頭すると自分の頭の中に「物語時間」が構築される。この「物語時間」ができあがるとあとは没入するだけでいい。現実世界と物語世界の垣根が低くなっていく。自分が物語を読んでいるという感覚が薄れ、物語という「流れ」の時間に自分がとけ込んでいく。

映画をみていてもこの感覚に引き込まれることがある。
印象的だったのは実家に帰省する電車の中、iBookで「ユリイカ」を観ていた時のことだ。

モノクロの映像。
ゆっくりとした時間の流れ。
電車の中では何もすることがない。
だから最初の30分をただ観ていた。
傍観していた。
積極的に観てはいなかった。

と、そのあたりからだろう。
画面中の時間の流れ、「物語時間」にとりこまれていた。

車掌がまわってきて「切符をみせてください」と肩を叩かれるまで自分が電車に乗っていて、実家に向かっているのだ、ということを忘れていた。

ハっとして顔をあげる。
あれ、オレはいまどこにいるんだっけ?
ああそうか電車に乗っていたんだ。
そうだ切符を出さなければ。

会釈して切符をみせる。
画面に戻る。
数分後。
物語の時間の流れに引き込まれていく。

時間の感覚がズレていく。
そこで過ごしたのは3時間なのか。
それとも…。

電車という封じられた空間で画面を見つめている自分は高速で移動している。
頭の中では違う時間が流れている。

電車の速度。
頭の中の時間。
隣の人の時間。

時計をみればどの時間も同じ時を刻んでいる。
同じ3時間。
しかしそれらの「物語時間」はパラレルに進んでいる。

意識というフィルタがかかると時間は別な時を刻む。

文学でも映画でもモヤモヤとした物質と非物質の中間にある感覚を想起させる作品がある。作品を読んだり観たりするときに作品の構成要素としての自分がいる。

自分の中に物語時間ができていく過程とそれがおわるときのモヤモヤした余韻。
あの感覚は何なのだろう。
読み終わり、見終わると懐かしいような切ないようなモヤモヤした時間の輪郭が残される。数十分から数時間の没入の後にその感覚は想起される。
TVの番組では時間感覚の引き込みは起こらない。
モヤモヤ感の想起には没入が必須なのだ。
ハリウッド系の映画でもこの感覚は想起されることがない。

TVやハリウッド系の映画は「プレゼンテーション」に似ている。
意味に幅が少ないので自分からの介入は必要とされない場合が多い。
日本の映画でもハリウッド系の映画でもラストにグっと盛り上がってきた後、必ず主人公の演説が組み込まれる。俳優の口をつうじておこなわれる演説は感情や意味を「説明・解説」するのだがそれがおこなわれることによって表したい感情そのものからは遠ざかっていく。逆説的だがある種の感覚や感情はそれを固定しようとすると本質を失う。

++++++

プレゼンの場合、抽象的な表現が用いられることは少ない。

「わかるように説明してください」

と注文が入る。

ぼやけたままでトーンやモードによって企画としてしまうようなやり方があってもいいのかもしれない。TV番組もプレゼンによって伝えることではなく気配やモヤモヤ感の伝播が主体となった作品があってもいいのかもしれない。

同じように人の関係も。
例えばだけれど好きな人がいたらその人に「好きだ」という気持ちをどのように伝えるだろう。「好き」という言葉は使わないのではないだろうか。では、僕たちは「好き」や「嫌い」をどうやって伝えているのだろう。

キッペイがいうように「気持ち」が基にあってそこから行動や言葉がでてくる。
「好き」という感覚がつくりだす言葉や行動は「好き」とはダイレクトにつながっていない。気持ちというのはそういうやり方では表現できないし伝わらない。

基になる感情があってそこから生まれる行動や言葉がある。
「気持ちのいい人」というのはその人のベースにある「気持ち」があらゆる行動に反映され伝わってくるからさわやかであったり温かであったりするのだろう。

気持ちや心持ちはその人がつくりだすあらゆる音にも反映される。
イラついている人はその人が出す全ての音によってそのイラつきを伝えている。

優しい話し方もあれば怒った口調もある。
声の質や発せられる言葉の意味とは関係がない。
ちがうのはその裏側にある「気持ち」や「感情」だろう。

自分がどういう感情やどういう気持ちでいるときに幸せや充実、悦びを感じるのか。
子供の笑顔が気持ちよいのは笑顔を通じて彼らが「感情」を伝えているからだろう。
気持ちは伝播していくのだ。

投稿者 TKM : 17:09 | コメント (0) | トラックバック

2004年10月14日

魔裟斗と山本“KID”徳郁

帰宅後、山本“KID”徳郁の試合を観る。
やってくれる。

ニュータイプである。

試合がどうこうとかそんなこととは関係なしに場の空気を変えてしまうその手腕、いや、パフォーマンスには拍手を送りたい。

言葉はいらないとはこのことだろう。品やコンテクストなどふっとんでしまう魅力がある。

が、最も印象的だったのは魔裟斗の笑みである。
惚れたね。
こういう笑みができる男でいたいなと思った。
俳優にもいい男はいるけれど方向性が違う。
山本から年末のダイナマイトでの挑戦をうけてニヤリとしながらも目はスワっと格闘家の目にかわり

「いいですよ。ルールさえあえば。K1ルールでは負けませんから」

といったあの姿は惚れるに値する。
いい男ってのはあああって欲しい。

比較はなりたたないが言論とか評論なんてこれほどどうでもよい世界はないなと思った。ひとりでもいい、負けても、死んでもいいからリングにあがってもいいよ、と思う人間がどのくらいいるのだろう。

特に言葉に関わる人々で。
言葉遊びに意味はない。
またその人々にも興味はない。
それだけ書いておきたい。

++++++

自分はいい友人に恵まれたなと思う。

投稿者 TKM : 02:45 | コメント (1) | トラックバック

カルビ館

ICCでのイベントの後、ヤサカさん、タドと話す。
会場ではパヤがいろいろと展示について説明してくれた。
久しぶりに江渡くんにもあう。
イベント自体はこなれた感じだった。

久々に参宮橋のカルビ館に顔をだす。
おばちゃんがとても嬉しそうな顔であった。
以前は週に一度くらいのペースでいっていたのだが数ヶ月ぶりだろう。
カキキムチとプルコギのサンチュ&味噌・ニンニク包みが最高であった。

何を話すでもないのだがこの時間が楽しい。

タドの話が実感がこもっていてかなり説得力があり、あれは世の人々も聴くべき話だと思った。
どうでもいいことにうんたらかんたらいってる閑あったらタドの話をきくべし。

投稿者 TKM : 01:11 | コメント (2) | トラックバック

2004年10月13日

「面白さ」と「美しさ」 ~茂木さんの話をきいて思うこと~

mita.jpg

久しぶりに慶應大学@三田。
東館にいったのははじめてである。
素晴らしいセミナールームだったが残念ながらイベントの構成はお世辞にも褒められたものではない。ゲストの先生方の話がかみ合っていないのと時間配分がうまくいっておらずスタッフが機材を使いこなせていない。

いくど試しても投影されないプロジェクターに段々と場が醒めていってしまう。
とはいえそれはイベントの問題点であって議論の問題点ではない。
慶應というか大学全般で「イベント運営」という授業をおこなうべきである。
アカデミックなスキルではないけれどイベントの運営ノウハウはビジネス、アカデミックな場に関わらず様々な場面で役に立つだろう。僕のは自己流だけれどそれだって結構なノウハウが蓄積されている。

++++++

CSLの茂木さんの話は早口でパパパと進んでいく。
だが面白かった。
茂木さんの話は文脈主義への反旗とでもいったらいいだろうか。
美への直感的な反応ではなく説明によって納得することで価値をつくりだそうとするメディアアート、モダンアートのあり方はおかしい。それらが作り出しているものは「美」ではない。

というところで時間。
その後に発表したフランス人のアーティストの作品などはもろに「美」ではない作品となるだろう。そこから議論が進んでいけば面白いのだが茂木さんの言葉を借りるならばイベントが「スカ」なものだから各自が発表してお開きとあいなった。

さて茂木さんの話とアーティストの話をきいていた僕が思ったのは「美」と「面白さ」はことなるのではないかということ。アーティストの二人は「面白いとおもうんです」という言葉を繰り返していた。一方で

「説明されて面白いと感じるものははたして美なのだろうか?」

というのがが茂木さんの問題提起だ。

「コンテクストがない状態で感じる美しさ。それこそが美ではないのか?」

と。そうそう、それなんですよ、それが気になっているんですよと思わずうなずく。が、ちょっと待て。茂木さんがいう「美」これはわかる。そしてメディアアート、藤幡先生がやってるような表現の「面白さ」もわかる。

ところがここからが問題である。
それらは同じく「アート」という言葉でくくられている。
けれどもそこには大きな問題があってもともとそれらは全然別なモノなのではないのだろうか。
両方を「アート」といってしまうから議論がおかしくなっていく。
「アート」であるとかないではなくそれぞれの基本にあるモノのDNA自体が別なものだとしてしまった方が変な対立がなくなっていいんじゃないだろうか。

どっちがアートでどっちがアートでなくても僕はかまわない。美しいものや面白いモノがそこにあるということが一番重要なのだ。茂木さんの指摘するように文脈主義的な作品が台頭してきてしまうと「美」の根元部分やそれを感じる力は弱まっていくのかもしれない。けれどそれは危惧であって必ずしもそうなるとは限らない。(文脈主義について少し補足しておくと作品であれ表現であれ人であれそれを評価、判断するときに「○○の○○」というとらえかたをしてしまうものを文脈的であるモノとしておく。いってしまえばオピニオンや著名人などもメディアという文脈でかたられるからそうやってなりたっているわけだが。まったくとっぱらってしまったら、例えば、アフリカなんかにいって日本で一番有名な誰かをほっぽいだしたら文脈から断絶されるから全く別な価値としてそこに在ることになる)

科学だってもとはといえば軍事目的で殺人の為にこの数十年でどんどん進歩したわけだがその恩恵をうけて僕たちはこうしてキーボードでテキストを書いて、発信したり、ネットでそれをみたりしている。

というのが僕の言いたかったことの一点。
もう一つは「コンテクスト以前の美」と「コンテクスト後の美」について自分の専門のテキストの場から感じたことがもうひとつ。

「ダヴィンチ・コード」という小説がある。随分売れたので多くの人が知っていると思うし、僕も読んだ。文句なしに面白かった。実に面白い小説だと思った。けれど

「綺麗だった?美しいの?」

ときかれたら「違う」と答える。「ダヴィンチ・コード」は面白い小説、物語ではあるがそれが表しているものはコンテクスト以前の「美」とは異なる。

一方、数日前に読んだ「日はまた昇る」は

「面白い?」

ときかれたら

「うーん…面白いというか。ちょっと違うな。いいんだけれどそれは面白いっていうのかな違う感覚だと思うなあ」

と答える。「日はまた昇る」や「海辺のカフカ」の読後感は「コンテクスト以前の生々しい感じ」といったらいいだろうか。夕日とか空とか海をみているような自分の身体のスケールとは違うところで流れている時間がふいにたちあらわれる、そんな感じなのである。
両者は同じ小説なのだけれど面白さの質が根本的に異なる。
だからそれを同じ枠組みで論じても駄目なのだろう。
そのやり方では議論は深まらない。

どちらが良くてどちらが悪いという二項対立的な判断や基準をつくろうとしてしまいがちだが違うんじゃないだろうか。別モノだという前提にたってコンテンツとして、アートや美といった観点から一度解放して考えないと美とか表現とかコンテンツというものは何もわかってこないように思う。

「何が人に感動を与えるのか」
「人は何故感動するのか」

という問題について考えることが本当に少なくなってきている。

それにしても認知を研究している先生方の研究発表が僕の心に迫ってこないのは何故なのだ?
それを解決するための認知科学でなくてなんの為にあるのだろう。

そんなことを考えながらノートを片づけていたら。

坂根先生が降りてきて「いやー、茂木さんの話は面白かったな!私?私は年金暮らしの老人ですよー。ハハハー」と場を盛り上げていた。今朝方の疲れがどっとでたのか先生にもご挨拶する元気がなく、茂木さんに質問するパワーもなく、ぐったりとしてしまった。

そこでやはり確信したが人は体調や身体の調子が悪いと思考もそれにひきづられがちである。健全な身体でなければならない、とは思わない。けれど力はなくても気力のある身体でいなければ駄目なのだと実感した。

にしても素晴らしいセミナールームだった。
ああした施設をオーナーとして持ちたい。
そしたら毎週、毎日、知の好奇心を刺激するセミナーをバンバン開きたい。

冗談ではなく、清田氏の話などアーティストやサイエンティストとのコラボレーションをおこなったら相当に刺激的だと思う。観念的なものごとや思考を現実世界の出来事や体験で説明されるとそこからの類似や相似がボロボロとこぼれてきて脳内で思考がパパパパパーとつながっていくようなそうした知の連鎖みたいなものが起こる。

これは種類は異なるけれど第一級のエンターテイメントだと僕は思うのだ。

※そうそう写真を見て思い出したのだが先生方は全員例外なくラップトップPCを持参していた。おどろいたことにMac率が50%くらいだった。会場のあちこちにもMacが確認できた。会場にあったPCのメーカーは驚くほど少ない。Apple、デル、IBM、パナソニックであった。壇上の先生方全員がラップトップを開いて座っている姿はかなりウィアードであった。

最近、みたプレゼンで「おお上手だな」と思ったのは八谷さんが手書きのノートをプロジェクターで映してホワイトボードのようにリアルタイムで書き込んでいたケースだ。あれなどしんのすけがタブレットPCでやろうとしていることに近いように思う。

直感的な部分で感じている非可逆さが「面白さ」の本質とどこかでかぶっている。
音楽や文学にもそれはあって、「今」を機転に前後が消えていく。
でも残ってるものがある。それは何なのだろう。
かなり直感的なものでそれを言葉であらわそうとしたらそれについて書かないことでしかあらわせないという逆説的なアプローチをとる必要がある。
反言語的な用法によってしか言語の本質はあらわせないだろう。

茂木さんがある水墨画をみて感動して2時間ほどみつめていたといっていた。それをきいてハっとした。
CGを二時間はみつめない。何故か?
その何の理由とテキストの向こうにうかびあがる場、もうひとつのテキスト空間は同質のものであると直感した。そこにある共通性は「臨界点」あるいは「相転移」な状態、秩序とそれ以前の「ゆらぎ」なのではないだろうか。

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2004年10月12日

金沢の雪

金沢でCMの撮影をする夢をみた。
玄関先におかれた花をいける竹でできた容器を修理していると声がかかった。
外をみると雪が舞っている。

「雪だ」

俳優とスタッフに声をかける。彼らも外にめをやる。
雪が舞っている。
本降りの雪ではない。
春先の雪である。

畳敷きの部屋には火鉢がおかれている。
10人くらいの男女が仕事を続ける。
温かい雪国の仕事場である。

「本番では玄関先で水を絞ろうか」

と提案する。やってみると仕掛けがよくできていて予想よりも水量が多く、華が咲くかのようだ。テキストを読み返して、主役の3人と打ち合わせる。こういう仕事は気持ちがよい。緊張感がただよいながら笑顔が絶えない。

投稿者 TKM : 14:33 | コメント (0) | トラックバック

「デジオ」って?

先週、電車に乗ったら隣に座った男の子がR25を読んでいた。
なんとなしに紙面が見えた。
「デジオ」という言葉をはじめてしった。
ブログとネットラジオが融合されたものを指す言葉らしい。

検索してみると下記のようなページがあらわれた。

http://dedio.jp/

適当にMP3にアクセスすると淡々と男性が話つづけるような番組であった。
内容はほとんどわからない。
トピックスがあるわけでもない。
抑揚のない声で様々な人が話つづけている。
わりと衝撃的でさえある。
これほど内容のない「声」を聴いたのははじめてかもしれない。
ラジオとは違う。
面白くしようという意思はない。
ほぼ音版のブログである。
日本語として理解できるけれどこれは何なのだろう。
音として不思議である。
でもこれもあり…だ。これ、いまはどうでもいいのばかりだけれど面白いのがたとえば「食い倒れ日記」のようなのができたら…。ブログみたいに毎日聴くようになるだろうな。

これがもうちょっと進んで、メッセンジャーのようにクリックしてこの会話に介入できるようになったらどうだろう。はまるかもしれないな。あるいはたぶん、フォーマットかな。型ができたらかわるんじゃないだろうか。

にしてもだ。
こんな「音」あるいは「言葉」ははじめてきいた。
不思議な体験である。

とさらに、衝撃が。
なんと何気なしに聴いたデジオの配信元、digitiminimiであった。
竹中さんの会社ではないか。
なぜこうも狭いかな。
不思議だ。

ちなみに聴いたのは

http://www.kogu.cn/

以外なことにこの女性のトークは面白い。
この内容の無さ。悪くない。
TVよりは全然面白い。
なんだろこの感じ。

惜しい。このトークに対してリアルタイムにコメントとかしたい。

投稿者 TKM : 08:02 | コメント (0) | トラックバック

メディアから消えていった人々 ~つらつらと思うこと~

昨夜、やましん&タドと話しをしているとメディアでワーっと取り上げられる人ってネットの前と後で随分かわったよな、という話になった。
僕やタドはいわゆるデジタル系の仕事とされる仕事に従事してきたのだが大学を卒業したころは丁度ネットが段々と認知されはじめた頃でメディアに露出していたのは高城剛とか飯野賢治あたりだったと思う。そのちょっと前だとCD-ROMのタイトルで「ガジェット」(庄野晴彦)なんかだろうか。

それがヤフーやアマゾンが日本でも話題になりはじめ、トクトクとかまぐまぐとかそれまでなかった新しいサービスがはじまったころから、メディアで「デジタル」を語っていた人々が画面や紙面から消えていったように思う。パッケージ系の人々の終焉である。

この変化は構造の変化を反映していたのだろう。
その頃からゲーム産業も下降線をたどりはじめた。
僕自身、ゲームをやらなくなった。

それにあわせて常時接続環境が一般化し、その1~2年後にはブロードバンドが日常化した。この変化スピードは凄まじかった。使っているぶんには気づかないのだけれど浸透の仕方があまりにもスムーズだった。これほど違和感なく常時接続+ブロードバンドが一般化するとは思ってもいなかった。

その頃はブロードバンドになるとコンテンツのほとんどが「動画」に切り替わると思われていた。ところが予想に反して台頭してきたのはブログに代表されるようなテキストコンテンツであった。これについては日米で見識の違いがあり、結果は米国の識者が述べていた通りになったわけだ。

動画がキラーコンテンツとして機能しないのは映像をパッケージで捉えることしかできないからで既存の映像製作の考え方がパッケージの概念から抜けきっていないからである。(何故アダルトコンテンツは動画コンテンツとして機能しているのか。コンテンツを考える上でこれは考察すべき問題であろう。)

2年前まではずっと自前のフォームプログラムをつかって毎日テキストを書いては発信していた。
日記とはよばず「ジャーナル」といっていた。自分がやりたかったのは考察であって日々の記録ではなかった。出来事に対して何を感じたか何を考えたかを記録するというやり方ではなく、その場をつかって思考するというのが自分の方法だった。

時には愚痴じゃあないけれど批判めいたことを書いたり、バカヤロウと怒鳴ったりもした。それは決して褒められたものではない。当時はそうした思考や想いをテキストにして発信することが面白かった。

気持ちとしては個人で朝日コムのようなフォーマットのサイトを運営できたらいいのにと思っていた。けれど独力ではなかなか難しい。プログラムをつくるという考えもあったがそこまでプログラムに習熟していなかった。また仕事も多彩で多忙であった。

海の向こうでブログが誕生したのはそのころだったと思う。日本でもいくつかの似たようなプログラムはあったけれどあそこまで洗練されたものはなかった。正直、はじめてMovableTypeを使った時はこれほどのソフトが無償で提供されていることに驚愕した。日本でもCMSが導入され始めていたが驚くほど高額だったし導入のためのハードルも高かった。

サイボウズなんかがいろいろイントラネット用のソフトを開発していたがオープンじゃなかったし、ブログとは思想が全く違うものだった。ファイルメーカーもウェブ対応になって個人でもCMS的にウェブサイトを運営できかもしれないなと思ったがそれでももともとが企業向けの利用を前提としていたのでMT等とは全くことなる使用感であった。ようはコンテンツ指向ではなかったのだ。

ここ1年のブログの盛り上がりの波を初期から体感しているわけだけれどはじめてMTをサーバにインストールして使ったときのインパクトを超えるものはない。MTは自動日記フォーム作成プログラムみたいなものなんだけれど印象は全然違った。おそらく構造の差異に対する感覚が違ったのであろう。

当初はトラックバックという仕組みは思想的にとても面白いように思えてあうひとあうひと説明してまわった。(トラックバックは当初思ったほどに機能していないけれど)

いまのブログ業界の隆盛を考えると石井先生に頼まれて東京海上の研究所にやまけんと二人で出向いたのがわずか1年前とは驚きだ。あの時にはまさかこうなるとは思っていなかった。

そのやまけんのブログもいつのまにか有力コンテンツのひとつとしてポジションを築きあげつつある。あと1年もすれば料理番組や雑誌よりも浸透力・説得力のある媒体としてメディアパワーを発揮するであろう。僕が企業のオーナーだったらいまのうちにやまけんサイトをスポンサードするだろう。媒体価値の上昇はやまけんが健在である限り続くだろうから。

1年前に僕、やまけん、しんのすけの3人がMTをインストールしてサイトをブログ化した。そこでまず3人がつながった。ほどなくはじまったフリーのブログサービスを利用して友人達もブログサービスを利用した日記をつけはじめた。たったこれだけの共通項なのだけれど現実世界でもこの仲間のつき合いが密接になっていった。この関係性のできかたはこれまでの日記サービスとブログサービスの大きな違いである。

ブログの持つフォーマットとアーカイブ力。
それらの相乗効果によって作り出される関係性。
それがブログをブレイクさせた要因だと僕はみている。

メディアに露出する人の変移についてメモしようとしたら、ブログの話になってしまった。

いまデジタル業界でメディアに最も露出しているのはライブドアの堀江社長だろう。その堀江社長もやまけんとブログを介してつながっており、二人は友人でもある。こうした関係の広がりは不思議だ。

やまけんに誘われて藤幡先生の個展にいったときに先生と話していたらあちこちに共通の知り合いがいてなんなんだろなという話なった。先生いわく「先端にいくと狭いんだよ」ということだが。それもおかしな話だなと思った。

そういうのを取り上げてメディアは「二極化」と単純化し感情にうったえようとする。

確かに「業界」で動き始めるとみんなどこかでつながっていたりして「狭い世界だな」と思うときもある。この場合の業界というのはTVやメディアということではなくいろいろな業界のことでどの業界であっても奥へ奥へと踏み込んでいくと2~3人を介したあたりでいきなりメディアで見知った人と関係してくる。

なんでなんだろうと考えるのだが答えはない。

やまけんの言葉をかりれば「面白いことをやっていると段々とつながっていくんだ」ということになるのだろう。まあそれもある、とも思う。この10年でほんとにいろんな人と交友した。よくTVでみかける人もいたし、途方もない大金持ちの人もいた。死んでしまった人もいるし、どこでなにをやっているのかもう知らない人もいる。

いまメディアにガンガンにでまくっている人々も数年後には別な人におきかわってしまうのだろう。ハリー・ポッターは1000万部以上売れたけれど3年後に「賢者の石」(第一巻)を読む人はどれくらいいるのだろう。あれもガーっと売れたけれどあとは何も残っていない。

最近、文学作品をいくつか読んだ。最も印象的だったのは「海辺のカフカ」。評論家は描写がどうのこうのとか構造がどうこうとかもっともらしいことをいう。僕はそんなものはクソくらえだと思ってきたし、いまもそう思っている。

あの小説の本質は「情報感覚」と「気配」だ。(僕にとっては)
時代がどうこうとか暗喩がどうこうというのはどうでもいいことでその奥を感じることが重要だろうと僕は思う。言葉が指し示す内容、あるいは物語性を論じても本質にはたどりつけない。これは脳細胞のつながりをどこまで綿密に調べていったところで意識へはたどりつけないのと似ている。

評論家という人種は自分もふくめてそうなのだけれどようは他者の作品をつかって自己表現をしたいだけなのである。ある作家が何かを書いた。そこで自分はこう感じた、その感じた何かが自分なのだ。

と言ってしまえばいいのだけれどあまりそうは言いたがらない。
つらつらと書いてるがこういうことならばいくらでも書けそうだ。

ネットやデジタル、コンテンツと人と社会とか経済とかそういうものについては自分が当事者なので書いていても面白い。

というわけだから僕のは「AはBなのだ」と論じるというやり方ではない。
ほとんどは感想みたいなものだ。
けれどコンテンツとしては感想の方が面白いことが多い。

評論家の文章は説明的で疲れる。ところが作家が別な作家について書く文章や言葉というものはきわめてユニークで面白い。論じるというよりも好き嫌いを好き勝手にいってるだけ、感想をいってるだけなのだけれど論じられたモノよりずっとわかりやすい。きっと本質とはいろんな意味でシンプルなのだろう。

++++++

人と人が知り合い関係性ができていく。

この関係性の後ろには「先端」とか「面白い」とは異なる何かがある。
それは「気配」ではあるけれど「これ」といった形ではない。

メディアに出る人がうつりかわっていくのと流れていくものものや僕たちの思考。
でも、それらに注目しても形はみえてこない。

言葉と意味の関係。
脳組織と意識の関係。

場所と存在、時間と場所。

僕はただ知りたいと思うだけでそれが何を意味するのかは考えない。
「知りたいと思う」それだけだ。

高橋克彦じゃないけれど「薬を一粒のんだら一年間は食べなくてよい」という薬があったらそれでもいいとも思う。たとえばの話だけれど死んでしまった人にはあえないが(イタコは別かもしれないが)、この時代に生きてる人だったら話そうと決めて会おうと思ったら会うことはできるはずだ。

世界をぐるっとまわる鉄道なり道路もつくることはできるはずだ。
世界をぐるりと東西と南北にめぐるリニアモーターシステムだって不可能ではないだろう。
それができないのは人の世界のシステムに理由がある。
昔から思うのだが何故それができないのか。

機械がないころでも万里の長城やピラミッドをつくる根気はあったのだからできないことはないと思うのだ。そのあたりが不思議なのだ。こうしたらいいだろうなということがあって、いや、たぶんある。
世界の人々に共通した基本やベースのようなものはあると思うのだ。
食べるとか眠るとか身体とか。

なんでそっちに向かわないのだろうかと不思議に思う。
「幼年期の終わり」のようになってしまうけれど構造的な何かなのだろうか。
どこに向かってるのか、あるいは向かうのか。

政治を治す。
経済を治す。
国を治す。
人を治す。
社会を治す。

それはいい。
けれどその先はどこにいくのだろう。
拡張拡張拡張というSFな世界観もある。
それにしたってどこかには向かってるのだろうし。

かといって内側に開いているという宇宙論を論じられてもエッシャーのだまし絵やメビウスの輪というオチはいただけない。

裕福になって、食べ物の心配がなくて、「買う」に関しては全部OKだとして、それで夕日をみて星をみて地表をみて、人と会って、それで死んでいく、みたいなイメージには「夢がない」と思うのだ。そんなのが人の世界の最後だったらなんてつまらない世界であろうか。

気になるのだ。
何かが抜けてるような気がしてならない。

構造から「時間」がぬけている。
時間の正体ってわかってるのだろうか。
「いま」っていったいいつなのだろう。
いろんな人が説明はしてくれるだろう。
わかりやすいのもそうでないのもある。
でも言葉からではなく感覚的にこれをわからないといけないはずだ。

この世界の根本部分には「時間」が関わっている。
けれどこれがすっぽりと抜けおちている。
あるいは「時間」を勘違いしている。

とらえかたそのものに何かが抜けている気がしてならない。
それが構造全体へも影響していて、言葉やいろいろなもののありかたが「→」な概念によって成立しているのだけれどここに疑問を感じるのだ。

たとえば音楽はどこを聴いてるのだろう?
ココからココ?
それは音の断続だけれどなぜ「→」な構造になっているのだろう。

音楽と音の違いはそれほど大きくない。
これとテキストの後ろにうかびあがるテキストのイメージは似ていて。
それ自体ではないものによってそれを表すという、点と線が同時に存在している状態。
が、それが何なのかはわからない。
ただ、そういうものが「気配」として感じられる。

これが世界とか国とか社会とか関係性とかの背景にある気がするのだ。

ある小説が面白いとする。
文学ということではなく小説として面白い、エンターテイメントとして面白いといったときその面白さの本質とはなんなのだろう。

物語性?

では物語性とは何か。Aがこうなってこうなった。それが出来事、意味だとして、それが面白いのは何故か。面白さの核、本質はそこに書いている何かではなく、その後にある形にあらざる形、感覚や気配ではないのか。物語は出来事を「→」に固定する。それが面白いのは、点ではなく線あるいは「→」ではなく、固定できない別なもの。

人は音楽と音を聞き分ける。しかし音楽と音はどこが違うのだろう。

人を場所や経済や衣食住からときはなたっていったら人は何をするのだろう。
いわれるように無気力に向かい文明は消えるだろうか?

音楽のない世界より音楽のある世界がいいな、と思う。
しかし、音楽しかない世界も疲れる。

自在に暮らしていた人々がいたけれどそれが消えたのだとしたらそこには理由がある。

打ち込みの音と演奏の音は似ているが異なる。

時間も一定では進まず、変則的で遍在している、ようにも思う。
物語の後ろの気配や音楽と音の違い、「ゆれ」のようなもの。
それが形をつくるのではないのか。

(休憩・つづく)

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2004年10月11日

ニュ−メディアの美学 / ヴァ−チャルイメ−ジの認知科学@三田

明日は久しぶりに慶應大学@三田へ。
フランス大使館主催のシンポジウムがおこなわれる。
山食のカレーも久しぶりだ。

2004年10月12日(火) 慶應義塾大学 三田キャンパス 東館6F G-SECラボ 
ニュ−メディアの美学 / ヴァ−チャルイメ−ジの認知科学  13:30 - 18:00 (同時通訳付)
 
ニュ−メディアの美学 (13:30 - 15:30)
パネリスト: ニコラ・ブリオ(パレ・ド・ト−キョ−現代創造センタ−館長)
アンヌ=マリ−・デュゲ(パリ第1大学教授、芸術・哲学)
ジャン=ピエ−ル・バルプ(パリ第8大学教授、デジタル文学)
ドゥ・ジェンジュン(ア−ティスト)
石田英敬(東京大学教授、哲学)
前田富士男(慶應義塾大学教授、アートセンター長)

ヴァ−チャルイメ−ジの認知科学 (16:00 - 18:00)
パネリスト: ダニエル・アンドレ−ル(パリ高等師範学校教授、認知科学)
コルコズ(ア−ティスト)
茂木健一郎(ソニ−コンピュ−タサイエンス研究所、認知科学)
廣瀬通孝(東京大学教授、バ−チャル・リアリティ)
渡辺茂(慶應義塾大学教授、心理学)
岡田光弘(慶應義塾大学教授、哲学)
大森貴秀(慶応義塾大学助手、心理学)

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2004年10月10日

「東京アウト・サイダーズ」を見つける

「東京アンダーワールド」に続いて「東京アウト・サイダーズ」。
続編があれば読まずにはいられない。

昨夜は新橋まで歩き、本の探索を終えたところでダウン。

12時頃まで仕事の仕上げをしてから就寝。
かとおもいきや藤田vs健介戦が放送されるとのことで気合いでおきるもプロレス史上最低ともいえる試合内容に辟易。

アライさんが泥酔しエロオヤジ化したバシ師匠に向かって放った冷たい一言。

「タカハシ、終わったな」

を使わせてもらいたい。

「新日、終わったな」

果てはボテボテになった長州まで引きづり出し相変わらずの新日劇場を繰り返そうとする始末。
何年前のプロレスだよ。
商品が「プロレス」であるだけで経営がうまくいっていない企業の典型ではなかろうか。
そんなわけで早々に就寝。
目覚めると午前9時。
しかしまだ眠り足りない。
更に眠って起きると12時過ぎであった。
よく眠った。

夢の中で画期的なデジタルマンガのストーリーと表現をみていた。
素晴らしい。
カラーはセピアっぽい。
コマ割りとインタラクティブ表現が絶妙のバランスで取り入れられている。
ストーリーはどんなだったか。冒険モノだったような。

心理描写と戦闘描写の時間軸の進み方、そしてモーションのバランスが絶妙なのだ。数十秒のインタラクティブ映像に2時間の映画が押し込まれていた。

絵画をみればわかるように一枚の絵にもあれだけの心情や情報感覚が表現できるのだからできないことはないだろう。

うつらうつらとそんなことを考えていた。
メールの整理をして部屋の掃除をし、外を眺めるとすでに午後も過ぎようとしていた。
有楽町に自転車をとりにいかねば。

投稿者 TKM : 16:15 | コメント (4) | トラックバック

2004年10月09日

メールを書いてて思うこと

ここ半年のことなのだけれどメールに返信するのが負担になってきているなと感じることがある。以前は来たメール来たメール全部に速攻で返事を書いていたのだけれどここ最近は顕著にそれができなくなってきている。なんかいつかデジャブでみたな。

メールの数が増えたせいでもない。
問いがないメールが多いというわけでもない。
友人へのメールは返すわけだし、自分の怠慢が原因でもないのだろう。

一番の理由は逆説的だけれど常時接続と全てが自由な仕事の形態にある。
ほとんど拘束がなく、自由自在なネット接続環境。
いつでもできるものだからありがたみがなくなって逆にやらなくなってしまう。

あとはノートではなくデスクトップがメインマシンという環境だろうか。

これはいまになってわかることだけれど僕のような職業の人間にとってデスクトップマシンがメインの環境というのはネガティブな要素だ。家にいる時間がながければながいほど力を使わない方向にいってしまう。わかってはいてもこれを自力で律するのは大変だ。が、大変なだけに面白いともいえる。いずれは人々がこうした形態へと向かっていく。ちょっと先を体験しているわけだ。また、そこで何が必要となり何が価値を持つのか、がわかった。

先のエントリーで「日はまた昇る」が示す男女の関係について触れた。同じことは男女に限らず人対人の関係にもあてはまる。

あれがこうだったからこの人とはこう、とかそういう関係性のつくりかたはどこか違う。損をとることができる重要性というか、それもこれもあり、というか。音楽的あるいは「俄的jなあり方もOK」が基本なのだと思う。人間なんて酔っているときと酔っていないときで随分ひとが変わる。けれど人はそういうものだとも思う。その時点でのその人でいいと僕は思う。ガーっと思考や考えを自由にほどいていって拘束を前提としない人と人のありかたみたいなものをつくっていったらいい。

時間の意味はそういうところにあるのだと思う。

投稿者 TKM : 07:24 | コメント (0) | トラックバック

「日はまた昇る」 ~男と女の関係についての物語~

「東京アンダーワールド」
「日はまた昇る」

読了。
久しぶりに得た至高の読書体験であった。
二冊の本は全く性質の異なる著作である。
「東京アンダーワールド」はノンフィクションであるがおそらく日々量産されるどうでもいい小説群よりはるかに面白い。時代と人々が交錯し描き出す東京・日本のもうひとつの歴史像はさながら日本版ゴッドファーザーを観ているようだった。文句なしに面白い。未読である読者をうらやましく思う。残念ながら一度読んでしまったいまは本作をもう一度、はじめて読むように楽しめないことが悔やまれる。

対してヘミングウェイのデビュー作「日はまた昇る」は最初こそ冗長的とも言える会話に辟易したが時折あらわれる主人公の思索部分での表現と物語によってテキストの向こうがわにあらわれる感覚の表現は一読に値する。(それにしても対話表現はあまりにも冗長的で半分以下に削るべきだ。あの冗長さのせいでかなりの数のユーザ、いや読者が作品の本質に触れるまえに本を放りなげるだろう。げんに僕もそうだったし。根拠はないけれど画面で文字を読むようになっていこう「読む」における適切なテキストの形態が変化してるように思う)

2年前、米国に行くときに成田の本屋で買った本書は本棚のかたすみに放っておかれていた。何を思ったのか先週のある晩、本書を持って近所のファミレスに休憩にでかけた。

ドリンクバーのカフェラテを飲みながらどんな作品か知らずに読みはじめた。

全く予想していなかっただけに驚いた。
「日はまた昇る」は恋愛小説であった。

本作をどう解釈するかは人によって違うようだけれどそれが僕の第一印象だ。
物語のベースになっているのはブレットという女性と主人公の関係である。この作品を高校生や大学生の頃に読んでいたら全く違った印象を持っていただろう。

ブレットの描き方が俊逸なのである。
女性を描くとはなるほどこういうことをいうのだろう。

彼女の像はある意味女性の本質だと思う。
物語が矢印や棒、丸や四角をつかって状態を説明する図のかわりにつかわれている。男性と女性の違いの一形態を言葉で説明するには言葉の意味ではなくその後ろにある関係性を使わなければならない。それを思った。

僕が一番好きだった場所は第14章の冒頭からの主人公の思索と16章中盤の闘牛士にブレットを紹介し少し席を離れる前あたりだ。

物語という存在しない時空と場と関係性の世界での話だけれど男と女がこうつきあえたらいいなと思った。

映画「ケン・パーク」の終盤にあるユートピアなイメージが少しかぶった。
文庫本のあとがきにある大久保康雄氏の言葉を借りるなら個人主義的・芸術至上主義的なモード、気配となるだろうか。

この情報感覚は物語という形式によってしか表現しえないのだと思う。
小説の底力、文字表現の奥深さなのだろうか。

いい映画を観たあとに夜の街を余韻にひたって歩きたくなるが同じような気持ちになった。

文藝春秋の最新号で佐野眞一が「ハリポッター不況」について論考を寄せている。ハリー・ポッターシリーズは僕も全巻読んだが。面白い本だとは思うがつくりだすモードは「日はまた昇る」の読後感とは全く異なる。私見だけれどコンテンツがマーケティング指向になるにつれて書籍は分厚くなり反比例するように内容はやせ細ってきているのだと思った。
書店で売られているほとんどの本は何一つ印象を残さない程度の薄っぺらなものだ。

外は台風の影響で雨が降り続いている。
姿勢が悪かったのか立ち上がると腰が痛かった。

※そうそう途中でも書いたが本作を10年前に読んでいたら自分は全く違った感想をもっただろう。これはコンテンツがかかえる最大の問題のひとつである。関係性によって意味や価値が変容するのだ。それと帰り道で文芸について考えた。人間の本質がかわらないのだから時代がどうあれ物語が提供され、それをコンテンツとして楽しむということはずっと続くというような意見を読むときがある。けれどそれは違うな、と思った。おそらく形態は変わるのだ。

投稿者 TKM : 05:20 | コメント (2) | トラックバック

2004年10月07日

「岡村靖幸・Me-imi」 ~岡村靖幸を聴いていたら思い出したこと~

岡村靖幸の「モン・シロ」の終わり近くに流れるギターの音が好きだ。
おかしなものでどうでもいいようなちょっとしたところが気に入ってしまう。

高校生の頃、友人のヨシミツが岡村のテープを貸してくれた。なんでも夜にビデオクリップをみたらやたら変なのでとにかく聴いてみろ、とのことだった。聴いてみたらなるほどはやっていた曲とは全く違う独特の世界観が押し寄せてきた。

大学時代の友人のひとりはおしつけがましくてあつ苦しくて嫌いだといっていた。
僕は違う印象をうけた。
「モテない男の音楽」とは本人の弁だがわかる気がする。
行き帰りの電車でCDをきいていたら歌詞の意味が少しづつわかった。

受験生の頃、学校をさぼって勉強していた。
「Out of Blue」という曲をよく聴いていた。

よほどの進学校でない限り地方の公立高校での勉強では受験にとって不利だ。
馬鹿げた話だけれどそれが現実だ。その頃からだろうものをみる視点が少しづつできてきたように思う。

当時とんねるずの番組がはやっていた。
「仮面ノリダー」というコーナーが人気だった。

ヒーロー物の番組や刑事物のドラマなどをみていると考えることがあった。
ショッカーの適役の端役の人々は何者か知らないけれどこの人たちも生きていて家にかえったりするのだろう。だとしたらここで死んでいくこの人たちのお葬式もあるわけでドラマのつくる世界観に違和感を感じていた。

刑事物のドラマもそうだ。かならずキーになる人物なり情報なりがあって、全然どうでもいいくらい重要でない人も同じ情報を握っていたりする。これがここで伝われば全て解決なのにそれがなかなか伝わらないのは何故なのだろう。すれ違いが反復増幅されつくりだされる物語ってなんなのだろう、といつも考えていた。

以前、読売ランドの仕事で岡村靖幸を使うという話があった。
僕はいかなかったが友人のスタッフがいったらえらく巨漢になっていて別人だったと嘆いていた。

その彼もいまは復活している。

Me-imi(初回)
岡村靖幸

おすすめ平均
もだえて悶々。
最高!
お帰り、岡村くん

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「東京アンダーワールド」ロバート・ホワイティング ~朝のマーチとお堀端の売春街が奏でるダイナミズムの本性~

マーチのリズムで目覚める。

日曜に予定されていた運動会が雨のため延期になっていた。
子供達が校庭を駆け回るのが聞こえる。

戦後、占領下の日本の様子を克明に描いた「東京アンダーワールド」を少しだけ読んだ。僕には想像すらできないが東京がワンダーランドだった一時期が存在したことを知った。以前、宮島さんがヤミ市の活気について嬉しそうに話してくれたことがあった。なるほどヤミ市とはこのようなものであったのか。そこでは日本のカースト性がフラット化していたそうだ。

危険だっただろうし、良くないこともたくさんあっただろう。ただ、と僕は考える。文字の向こうに浮かび上がってくる自由の気配はなんなのだろう。混沌とした占領下の東京にはイノベーションを引き起こすダイナミズムを感じてしまう。いや勘違いして欲しくないのはいまの東京にダイナミズムがないわけではなく本質的な質が異なるということなのだ。この質の変移を見誤るからズレたドライブがかかってしまうケースが少なくない。安易に過去を美化しても何も生まれない。

同じ経済系犯罪ではあるけれど現在の「オレオレ詐欺」と当時の犯罪は異なり痛快さを感じさせる逸話が多い。基本的に米軍が管理する物資を販売することで利益を得るというのが当時の犯罪の構図であった。それが「無法」あるいは「いってこい」という感じでとんでもないスピードと発展性で事態が展開していく。経済規模にしてみればオレオレ詐欺の方が巨大なのだろうけれどダイナミズムの質が異なる。オレオレ詐欺はまったく痛快じゃないのだ。そこには「まいりました」という感慨はない。単なるセコさである。指向がイノベーティブではない。時代を反映しているといってしまえばそれまでだがダイナミズムの方向が逆向きのスパイラルで縮小へと向かってしまっている。

いまとなっては信じられないが。
皇居周辺が売春街だったとは。
使用済みコンドームの山が散乱し週に一度は網スコップでお堀端の掃除がおこなわれていたそうだ。

また1000人近いホステスとラスヴェガスなみのステージショーが行われていたスーパーキャバレー「ミカド」。そんなものがこの日本に存在していたのか。当時の写真をみたが圧倒された。仮に、の話だがこのダイナミズムを有した都市がこの時代にこの国に存在していたなら、と考えると戦慄を覚える。そんなのがあったらキャバクラなんて誰もいかないだろうな。

ブログだとかネットだとかテクノレバレッジな成功事例や小売り、美容などのちょっとした産業。そういったものなど一息で吹き飛んでしまうダイナミズムがこの社会の根底には存在する。巧妙に隠蔽され、ひた隠しにされているけれど混沌の持つ狂気やダイナミズムもまた人の本性である。

エネルギーである以上エネルギーの法則にしたがいどこかに向かうはずだ。見える形ではないだろうし時間のスケールが我々の認知を超えているかもしれないが本質的な部分が表にでてきていないだけでそには何かがある。
情報的といったらいいだろうか。
説明できないが「生々しさ」や「うねり」を感じるのだ。

ルールや関係性の糸がもつれている場所がある。
注目したいのはそこだ。

++++++

ものすごい歓声がきこえた。
廊下からは小学校の校庭がみえる。
紅組、白組にわかれての騎馬戦であった。
10対10で二ラウンド。
子供達の声が反響してそこいらのコンサート会場の何倍もの熱気である。

競技への本能的な反応は人の本性である。
この熱気こそダイナミズムの本質であろう。

東京アンダーワールド
ロバート ホワイティング, Robert Whiting, 松井 みどり

おすすめ平均
アメリカ人側から見た戦後日本
東京散策を二倍楽しむ方法
わくわくしながらあっという間に読むことができます。

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2004年10月05日

「暴走する世界・アンソニー ギデンズ」 ~箱根とヘミングウェイ~

DSCF0009.jpg

日曜からの雨はまだ降り続いている。
週末は箱根で過ごした。

平和な時間が流れていった。
夜、長い時間みんなで話をした。
それから温泉に入ってから布団にはいった。
明かりを消して眠ろうとすると金子が蚊の羽音を聞きつけ「退治する」と宣言しておきあがった。
四人で探したが蚊は見つからなかった。

朝早くに目覚めた。
外は雨だった。
左手の小指のつけねあたりを刺されたようで少しかゆかった。
もう一度眠った。

サヤカちゃん(2歳)がバタバタと走り回る音がとても遠くのほうで聞こえた。
耳栓をしてねたのですぐ隣の音が遠くに聞こえたようだ。
ふすまをあけると先生夫婦とリカさんがテーブルで談笑していた。

日曜の遅い朝。
みんなで食べる朝食は合宿のようでおいしかった。
合宿のようでではなく合宿なのだからあたりまえか。

一生合宿してたっていいと思う。
軍というものには憧れないけれどああした合宿生活は好きだ。
きっと自分がひとりで仕事をしているからそう感じるのだろう。

夫婦というものには憧れない。
家庭にも憧れない。
共同体の定義と仮想としてのイメージはすでに過去の伝統なのであろうと僕は思う。

数十年後の家庭はいまの家庭とは異なるだろう。

昨晩、アンソニー・ギデンズの「暴走する世界」を読んだ。
数ページ読んで面白い論考だと思ったので数ヶ月前に読み始めた。
100ページ程度の短い論考なのだが2章まで読んで途中にしてあった。
数ヶ月ぶりに残りの3章を昨晩、読んだ。

最終章で書かれていた民主主義についての論考が面白かった。
ただ情念の民主主義の具体的な形は提示されない。

「国家と市場、官と民といった二項対立的な社会観を払拭すべきである」

という言葉が印象的であった。

金子レナさんのレストランで相磯先生が「スタンダード」について話されていた。
なるほどSONYはすぐに独自フォーマットをつくりたがる。
野知さんの言葉じゃないけれど「世界のSONY」だったのが「世界はSONY」に変わってしまった印象を受ける。
eBookの画像派とデータ派の分裂はその一例であろう。

スタンダードの押しつけは迷惑でしかない。
だから反発を招く場合が多い。
例えばPS2や来るべきPS3を核としたネットワーク戦略をみていると自分がコマにされているようで気分が悪い。
PSPにしてもブルーレイディスクという独自のフォーマットやあたりまえのように提示される「動画版ウォークマン」な利用イメージには魅力を感じない。
追い立てられているようでなんだか疲れてしまう。

日本のITベンチャーが「テクノレバレッジ的」であることはどのような意味を持つのだろうかと少し考えた。

++++++

夜、ヘミングウェイの「日はまたのぼる」を半分くらいまで読んだ。
実は文学に疎い。
ヘミングウェイも「老人と海」と「キリマンジャロの雪」以外の作品は読んだことがなかった。
読み進めてすぐに思ったが日本語で読むと面白さが異なるようだ。
英語と日本語ではストーリーは同じでも印象は違う。
「グレートギャツビー」を読んだときもそう思った。

翻訳の問題はこれから更に重要度を増す。
翻訳論という意味ではなく、別なフェノタイプとして翻訳問題が顕在化するだろうという気がするのだ。情味の面だけでなく関連的な問題として。

意味とは関係によってあらわされる不可視な存在だと思うから。

日はまた昇る
アーネスト ヘミングウェイ, Ernest Hemingway, 高見 浩

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投稿者 TKM : 04:57 | コメント (1) | トラックバック

2004年10月02日

「あかね空」 山本一力著

山本一力「あかね空」を読む。
江戸の時代にいきたことなどないのだが風景が思い浮かぶのは何故だろう。
隣町の門前仲町近辺が物語の舞台なせいか親近感をおぼえた。

後書きで絶賛されていたのでパラパラと10ページほど読み進める。
風景と人物が勝手に動きはじめる。
情景が思い浮かぶのだ。

その景色につられてページをめくりつづけた。
読書の楽しみとはこういう時間をいうのかもしれない。

時代物はあまりよまない。
読むのは「かくれさと苦界行」など隆慶一郎の作品くらいだ。

山本一力。
作家の名前は知っていた。
作品は読んだことはなかった。
メディアに露出する回数が多くNHKのドキュメントでとりあげられていた。
そのドキュメントによればバブル期に彼の奥さんの実家(酒屋だったと思う)が所有する土地に数十億の値がついた。彼はそこにビルを建て、賃貸収入と電子広告の提示による広告収入というビジネスを思いつき事業をスタートさせる。しばらくしてバブルが崩壊。
ビル建設の資金は消え、借金だけが残る。以降、執念の文筆量で借金を返済していく。ドキュメントではその様が描かれていた。

穏やかな口調だが目は作家のそれであった。
ある種の作家は書くことが好きで書くわけではなく、書かざる得なくて書くのだろう。
これは私見であるがおそらくきっかけは何であれ高度な作品が完成するための域が存在し、そこでは個人の持つ背景は無意味となる。

どんな理由があれ、それが苦渋にみちたものであれ、悦びを発端としたものであれ、作品を創る最後の最後で人は自己との対話あるいはその先を経験しなければならない。それが見えるかどうか。それが作家の作家性であり「つくる」の根元であろうと僕は思う。

あかね空
山本 一力

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さわやかな人情時代劇

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投稿者 TKM : 03:45 | コメント (0) | トラックバック

2004年10月01日

ダライ・ラマと縁について考える~相磯先生の別荘へ~

週末、相磯先生の別荘にいくことになった。
久しぶりに友人達と一緒である。

相磯先生は環境情報学部の初代学部長で加藤寛先生とともにSFC(湘南藤沢キャンパス)を立ち上げた。学生時代はほとんど接点がない。先生自身、環境情報学以外の授業はやっていなかったということもあるが。

縁とは不思議なものである。
なんとはなしに昨年のホームカミングデイで幹事をひきうけた。
その席でやまけんと出会い、意気投合し翌週、K-1 World Maxを我が家で観戦した。そのやまけんの紹介で石井威望先生を紹介していただき、大いにインスパイヤされた。

幹事仲間のシンノスケ、タケ、志乃ちゃんらとは以後、月に一度は顔を合わせバカ話にはなをさかせる。HCDで再会した金子とはその後のインタビューを通じて親交を深め、いまは一緒にプロジェクトを進めている。

その金子の縁でこの週末は相磯先生のところに遊びにいく。
そもそもいま月島にいるのだって特別な理由があったわけではない。友人のタドコロにつれられてなんとはなしにバイトの話を聞きにきたらいついてしまった。

ビジネスのポジションで強烈に縁を築きあげていくという人もいるだろうし、自分のようになんだか知らないうちに段々と人の縁ができていくというパターンもある。まだはっきりとはしないのだけれどこの「縁」というものには何かしらパターン、形があるのではないかと思う。

いや、直感なのだがおそらく形があるのだ。自分たちがイメージするのとは違った意味での形になるだろうけれど。例えば時間の過ぎ方や流れのような不定形なのだがそこに存在するという意味での形。

先日の沖縄での人の縁や出会いもそうだと思う。彼らと何故知り合い、何故語りあったのか。彼らと僕たちが過ごした時間は確かにそこにあってさわったりもってきたりすることはできないのだけれどそれは確かにあった。

++++++

自転車の後輪のギア部が壊れたようなので修理に出してきた。
有楽町から歩いて帰ってくる途中、かちどき橋をわたっていたらダライ・ラマのナイススマイリングフェイスが浮かんだ。

人の特性、社会的な背景、財力、体力、身体、知力、そういうものがたくさんあってそれらの中で何でも好きなものをあげるよと言われたら何が欲しいだろう。
パッと思いついたのがダライ・ラマのスマイリング能力であった。

今夜も徹夜になりそうだが。
旅の前の日はなぜかいつもそうなるのが不思議だ。

投稿者 TKM : 23:31 | コメント (2) | トラックバック

衝撃のボディー&ソウル

人の身体とは一年間でこうも変わるものなのか。
この映像をみて欲しい。

http://www.johnstonefitness.com/images/1ya.gif

たるんだ身体が徐々にグッドシェイプに変わっていく様子が連続写真で確認できる。
この人のサイトには

フードログ
http://www.johnstonefitness.com/php/menus.php

もあって確認すると一年間で体脂肪率が23%から9%に落ちている。

こういうのをみるとビジネスでの成功や強運やらとは全く違った部分で人生を変えている人もいるのだと感心ひとしおであった。

こちらが
写真アーカイブ
http://www.johnstonefitness.com/php/pictures.php

人間の身体というのは潜在能力を秘めているんだな。
写真をみるとやればやっただけ変わっていくことが一目でわかる。
三ヶ月に体型が別人になっている。
スゴイよこの人。
スゴイよ人間。

レシピやトレーニングメニュー、自宅にあるジムの写真なども公開されている。
が、読むべきは

About me
http://www.johnstonefitness.com/php/why.php

であろう。わかりやすい英語で書かれているのでサラリと読めるはずだ。
キッペイの言葉じゃないが「気持ちだよ」ということだろう。

吉本ばななもいってたが「人間は身体があるから人なんだ」と思った。あまりにも自明なことなのだけれどここに本質があるんじゃないだろうか。何がその人かといったらこの世界にいるということがその人の存在なわけで、言葉も人であるけれどそれだって身体がなかったらこの世に発することはできない。身体とソフトとその両軸でまわってるんだなと実感する今朝であった。